ダーク・ファンタジー小説

Re: 死にたがり少年と壊したがり少女 ( No.7 )
日時: 2018/04/20 17:06
名前: hiGa ◆nadZQ.XKhM (ID: EnyMsQhk)

 黙々と二人は食べ進める。食事中、よほど気になることが無い限り、彼女は四宮に話しかけない。特に今日のような日は、これからいくらでも言葉を交わすことができるためだ。その分、今は咀嚼するその様子をじっと眺めていた方がよほどいい。彼女としては作り物の仕草と気が付いていないが、美味しそうな顔を無理に作って食べているその様子が、堪らなく愛おしいからだ。この表情が演技だといずればれたとしたら、今度はどんな目に合うのだろうか。悪い想像を働かせる四宮の藍色の心境など、全く把握していない。
 表面が乾いて、少し硬くなった米を口へと運んだ。焼き餅みたいな表面を無理やり噛み潰すと、ようやく炊き上がった白米と似た香りがした。嗅覚だけは正常に働く様子に、彼は自分のことをまるで獣のようだと思った。どうせ野を走る獣とて、味など鉄の味しか知らないだろう。自分よりもよほど、赤い血潮滴る肉を食む機会に満ちているはずだ。
 肉が粘土ならば、米はさながら糊だなと、篠宮は嘆息ごと口内の異物を飲み込んだ。噛むほどに押し固まり、粘り気ある一つの塊となっていく白い粒たち。噛んでいるうちに酵素で甘くなるんだっけ。理科で習ったような知識を掘り返せども、どうせ甘味など分かりはしないと諦めた。喉を大きく鳴らし、嚥下。何となく喉に何かがつっかえた気がしたが、それはきっと物理的なものではないだろう。
 コップに注いだ水道水を流し込む。口内を、咽頭を、そのまま洗い流してくれたみたいだった。何となく喉元の通りがよくなったような気がして、息を一つ吐き出した。弱い吐息が撫でただけなのに、頬の裏側が疼いた。何を食べても何を飲んでも、鉄臭い血の味がした。
 皿に盛られた肉と野菜の山が半分ほど消えたあたりで、不意に凛は口を開いた。

「ねえ、時雨」
「どうしたの、凛姉さん」

 箸を置き、その目を真正面から見据える。食べながら聞いてくれても構わないと彼女は言うが、そんなに器用なことができるのか半信半疑であったため、彼は一度手を止めることに決めた。今の傷だらけの顔で、食べながら喋るだなんて器用なことができるか疑わしかったというのは事実である。
 彼女の視線も、真っすぐ篠宮に釘付けになるよう降り注いでいた。ピントが四六時中彼にしか合っていないような彼女。その恐るべき執着にも似た愛が、醜く汚らわしいものに見えてならない。片時も間隙の開くことなく、監視されているような息苦しさ。強力なテープで張り付けられたみたいな関心が鬱陶しいのだろうか、彼はこの目を向けられるのは好ましくなかった。興味を持っているようで、全く違う所を見ているような天上ヶ原の視線を浴びても、全く不快感は無かった。友と呼んでいいか分からないような級友達の好奇の目も、別段何をしてくれる訳でもない教員達の同情の眼差しにも何も感じないと言うに、どうして彼女の愛はこれほどまでに重たいというのだろうか。
 だが篠宮は、その重すぎる愛から逃げる術を知らない。そもそもあまりに大きすぎるその寵愛は、どれだけ遠くに行こうとも、結局彼の頭上にあるように思えてならない。裾野を大きく広げた山が、上空から圧し掛かってくるようだった。自分の足でどれだけ慌てて走っても、結局逃げきることなんてできやしない。
 それは、毎日彼を嬲る暴力も同じだった。何処へ行こうともついて回る、尊厳をそのまま撃ち砕くような暴威。家に居ても学校に居てもそれは変わらない。両者から逃げ出そうとしても補導されて結局は振出しに戻る。どこに出向こうとも開拓地と振出しとを行ったり来たりさせられるような、負け組確定の人生ゲーム。そう思った途端に、彼は生きる意味を忘れてしまった。
 生きるとは、死までに訪れる無数の艱難辛苦に抵抗する一連の過程そのものだ。死を受け入れたその瞬間、人は死んだと言っても過言ではないように思える。そして彼はと言うと、もうとっくに抵抗の二文字を失ってしまっていた。自尊心という鎧は砕けて、嫌悪感という方位磁針を失い、反逆と言う剣は折られた。もう二度と蜂起などできやしない、無様な敗残兵。生ける屍とはきっと、自分のことを言うのだろうな。他人事のように、篠宮は評した。
 僕の生はいつ閉ざされた? 僕と言う自我が芽生えた頃の記憶を彼は思い出していた。あの頃はもっと、世界が七色に輝いて見えていなかっただろうか。こんな、赤と無彩色しか見えないような無機質な視界では無かった。けれども、彼はもう思い出せない。箸で持ち上げたキャベツが、まるで漫画の絵みたいに見えた。白黒で、色合いなど欠片も存在しない。
 夜空を見上げれば、当然真っ黒だった。では昼間はどうであったか。網膜が捉え、保存していた昼間の光景を思い浮かべる。空には、雲一つ浮いていなくて。それでもなぜか、灰色の空間が地平の端まで広がっていた。空とは、青色で合っていただろうか。青色とは、どんな色だっただろうか。タイムスリップしたモノクロームの世界、乾きかけのどろどろした赤黒い体液。それよりも色鮮やかな代物を見たのは、いつが最後だろうか。
 一時の思案、その間、凛から話しかけられていたことなどすっかり忘れてしまっていた。

「今日の時雨、ちょっぴり変な臭いがしたのよね」
「臭い?」

 今日は別段、汚いものなど浴びてはいないはずだ。といっても普段から汚物を浴びせられたことなども無いが。彼が受ける暴力とはそう言った、尊厳を蝕む毒気のような陰湿な代物では無かった。単純明快に彼の意志を、勇気を、自尊心を、凸凹にするように殴りつける。痛みによる制裁、それこそが彼の受け続けている理不尽だ。
 悪臭など香るはずも無い。

「ちょっぴり、甘くて、可憐で、可愛らしい」
「それって変な臭いなの?」
「ええ。豚小屋の臭いと変わらないわ」

 醜悪で、反吐が出る。そうやって吐き捨てているように彼の目には映った。彼女の言わんとしている事がようやく納得できた。彼女の価値観においては確かに、その匂いは悪臭たり得るのだろう。

「どこの阿婆擦れとも分からない、女の子の臭いよ」

 天上ヶ原のせいだなと、無感情に篠宮は理解した。それにしてもまだ中学生だというのに、どうして香料など身に纏っているのか。自分がその匂いに気が付けなかったのはきっと、鼻腔の奥に詰まった血栓が原因だろうと推測した。
 だがそれよりも驚いたのは、脳裏に思い描いた彼女の姿が、あまりに色とりどりだったことだ。明るいブラウンに染まった、ウェーブのかかった長い髪。青い星が瞬くようなピアスに、苺みたいに鮮烈な朱を放つルージュ。そのどれもが、あまりに瑞々しい色彩に満ちていた。灰色の町の上に、カラフルな彼女が闊歩する。並んで歩く人影は自分のように彼には見える。けれどもその姿は、黒で塗りつぶされたただの人形(ひとがた)でしか無かった。
 あれこそが、自分だと言うのだろうか。

「その子、誰なの?」

 まだそれが友人だとも告げていないのに、彼女は既に目が据わっていた。娘が彼氏を連れてきた父親のようにも思える。誰なの、そう問われても彼に答えられることなど限られていた。

「天上ヶ原、魅修羅」

 端的に彼女の名前を答えた。しかし、常識から片足を踏み外したような聞き慣れない名前の響きに彼女は思考が一瞬置いてけぼりになる。みしゅら、その言葉をどう変換したらよいものか決めあぐねる。おそらく漢字で差し出しても今度は何と読めばいいのかと思案することだろう。
 だが今は、害虫のごとき女の名前なぞどうでもよかった。議題に挙げるべくは、その害虫が如何なる悪影響を弟に及ぼしたのかの一点のみである。まさかとは思うけれど、などという「違うと言え」という脅迫めいた文言をまず述べてから、また問う。

「彼女?」
「いや」

 即答だった。それは別に凛が脅すように問うたのが理由ではない。あのような悪魔と付き合うだなんてまっぴらごめんだと言うのが彼の本心だった。あくまで、いざ本当に告白などされようものなら、抵抗を知らぬ彼は受け入れるだろうが、自分から彼女を好く姿など想像できもしなかった。姿かたちこそ天使のようだが、その頭蓋を割ってみれば角と尻尾の生えた悪魔と対面できそうに思えた。

「何だ、ただのお友達なのね」

 それさえも否定したかった。しかし、ここで変に否定してやはり大切な人なのかと詰問されれば堪ったものではない。降りかかる火の粉を払う労力は惜しむが、わざわざ火に油を注ぐ必要は無い。何せ彼女の胸の内に巣食う真っ黒な炎は、他の者の憎悪嫌悪の業火と異なり、彼を打てど殴れど決して消えはしない。傷つけたその事実が、わざわざ傷つけさせたその原因が、憎くて憎くて我慢が効かなくなり、より多くの愛と言う名の鞭で篠宮を痛めつける。
 いっそその方が早く死ねるだろうかとも思えたが、わざわざ死に急ぐ必要性も感じなかった。このまま生きていれば近いうちにどうにかなるだろう、と。そう思えば成り行きと言う水の流れに全て任せてふらふらと漂う木の葉のように過ごしていたい。余計な力を身の内から捻りだすのは、どうしても億劫としか言い表せられなかった。

“抵抗は知らない癖に、死を受け入れるつもりは無いんだ?”

 脳裏ではしゃぐ天上ヶ原が問いかける。そうじゃないんだと、想像の産物である彼女に対し、脳内で彼は首を横に振った。この世には、楽しいことが溢れている。それが天上ヶ原の価値観による、現世への評価である。それゆえ、死とはおぞましく忌むべきものであり、生を奪われることは苦痛なのだろう。それゆえ、流されるまま抵抗しないくせに、死だけは拒むように見える篠宮の事が歪に見えるのだ。少なくとも、篠宮が作り出した幻影の天上ヶ原はそう感じているはずだ。
 しかし、篠宮の意見は違う。この世には、辛くて苦しいことが多すぎる。食事も睡眠も風呂も性交渉も、ありとあらゆる人間の求める快楽が、彼にとっては避けるべき事物でしかない。無味乾燥なただの栄養摂取に、瞑目すれば次の瞬間何が起こるか分からないような意識の放棄、全身の生傷に追い打ちをかけるような禊ぎはまるで自分の身体が邪だと咎めるように痛みを与えてくる。素肌を重ね合わせる醜悪な行為は、胃酸がせり上がってきて堪らない。
 死と言うのは僕にとって、この散々な生者の世界から逃げ出すための手段でしかない。それは一種の抵抗だった。暴君めいた神田林や、父から逃げるための逃げ道。蛭のように血肉を啜る姉と、もう二度と会わないための隠れ蓑。手を伸ばせば届きそうなこの世界の太陽と比べて、遥か彼方に位置する極楽浄土の光の方がずっと眩しくて、つい縋るように求めてしまう。
 しかし、どうしてだろうか。彼にはその景色のその先に、天上ヶ原が見えてならない。ずっと目が焼かれそうだと思いながらも恋焦がれていたその浄土の極光の前に天上ヶ原 魅修羅が座しており、自分が縋ろうとしていた光明は彼女の後光に過ぎないように思える。
 そんな訳、無いじゃないか。全ての事物が僕と異なる、そんな彼女を僕が理想だと掲げる訳が無いと、強く否定した。

“つくづく、価値観が合わないわね”

 そうさ、その通りさと彼は肯定する。君と僕との価値観が合っていて堪るものかと。
 脂汗が、背中を滴る。シャツが素肌に張り付いており、酷く気持ち悪い。こんなに水分をとった覚えも無いのになと、何故だか分からぬ体の変化が酷く恐ろしくなった。
 彼女の顔を思い浮かべ、それを消し去ってしまおうと、真っ白な米を口に含んだ。脳裏のイメージを磨り潰したいみたいに、彼は何度も何度も糊みたいな塊を噛み締める。
 しかし、どうしてだろうか。何故だか今日のご飯は、甘ったるく感じられた。
 ばらばらにしたと思った、彼女のビジョンが再び、ドットが集まるみたいにして再構築される。その顔は、だから私の言った通りじゃない、と、得意げに勝ち誇っている、そんな気がした。