ダーク・ファンタジー小説
- Re: あなたが天使になる日 ( No.10 )
- 日時: 2019/07/17 22:49
- 名前: 厳島やよい (ID: 9Zr7Ikip)
八月三十一日
ふたりで食べた、電球の色にきらめく林檎飴とか、月明かりに透かしたラムネ瓶の中で、炭酸が弾けるちいさな音とか、手持ち花火の蒼白い煙のにおいとか、少しつめたい風の、やわらかな感触だとか。
そんな記憶たちを、宝石箱に収めるみたいに、大切に、大切に持って生きていたい。
余計なものはいらない。
4『傷口に砂糖でも塗りたい』
朱里が受けている虐待について、彼女自身から語るようになり、わたしたちふたりの関係性にも小さな変化が起こり始めたのは、はじめての文化祭が終わったころだった。
この学校の文化祭は、文化部の展示や発表と、合唱コンクール、学習発表会を、毎年いっぺんに二日間で済ませてしまう。体育祭と同じくらいに疲労が溜まる行事だ。元々体力のないわたしはもちろんのこと、朱里もしばらくは体調不良が続いていた。
このところ彼女は、頭が痛いのだと言って、保健室と教室を往復するような生活を送っている。通常、これほど保健室に入り浸っていれば、早退するか教室に戻るようにすすめられるのだが、以前斎藤先生がはたらきかけてくれたおかげで留まることができていた。
頭が痛かろうが腹が痛かろうが、家に帰っても、そこに彼女の居場所は存在しない。かといって、家にも学校にもいない状態を作ってしまうのはまずいから、と、暗黙のルールが敷かれているのだ。
昼休み、保健室に寄り、彼女の特等席になりつつある窓際のベッドの様子をうかがうと、朱里がもぞもぞと動き始め、真っ白な布団から顔を出した。
「次の国語、出られそう?」
「うん」
ぼんやりと、どこか遠くを見るような視線が天井に向けられる。
「アカリ、どうかした?」
「……名前」
「あ、ごめん」
わたしたち以外にだれもいないのを、知っていたらしい。四時間目から先生が留守にしているせいか、生徒のやって来る気配もなく、とても静かだ。
べつにいいんだけど、と、彼女が息をついて起き上がった。
相変わらず、笑顔を作っても、目だけがどうしようもなく暗い色をしている。本人はそれを気にしてわざと前髪を伸ばしているけれど、正直、逆効果じゃないだろうか。
「死ぬ夢を見たの、腕から血が止まらなくなって死んじゃう夢。小学生のとき、そういうことがあったんだよね」
この夏、結局一度もさらすことのなかった腕をじっと見やりながら、カスミが重い口を開いた。
「物置部屋の柱に紐で繋がれて、手首もぐるぐるにされてさ、母さんに言われたんだ、おまえのせいで自分は不幸になったって。病院に閉じ込められそうにもなったって。そんなにわたしが憎いなら放っておけばいいのに、可愛いかーいい、そうたがいるのに……ううん? そーた? だれだこいつ」
わたしは黙って話を聞いていたものの、だんだんと彼女の様子がおかしくなっていったので、たまらずその手を強く握った。
「カスミ、大丈夫だよ、お母さんはここにはいないし、あなたもちゃんと生きてるから」
過去と現在の区別がつかなくなっているのだろうに、本当の名前を呼んであげなかったから。さらに朱里を、混乱させてしまったのだろう。
「【 】って、だぁれ」
「え」
なぜか笑いながら、真っ黒な目をわたしに向けてくる朱里が、遠くなっていく。この手は確かに彼女と繋がっているはずなのに、どんどん遠くなっていく。
「ごめん、今のなし」
どれほど時間が過ぎたのだろうか。「じゅりは怒鳴らない、ごめんね、叩かない差別しない、あー、大丈夫、ここにいてくれるいじめないわるぐちいわない、ここにいる、いる……うん、いる、大丈夫」朱里が若干の遠回りをしてから落ちつき、わたしの手をほどいても、その嫌な感覚は消えてくれなかった。
「初めてカミソリで切られたとき、すごく痛かった。すごく痛くて、血がだらだら止まらないのも皮がびろーってなってるのも怖くて、このまま眠ってしまえたらどんなにいいだろうって思った。でも、だんだんね、痛くなくなってきたんだ。痛いんだけど痛くないの」
「ひどい悪口を目の前で言われたり、食事を抜かれたり、あとはお風呂に入らせてくれなかったときとか、熱が出ても知らんぷりされたときとか。あのときの辛い気持ちを、痛みがぜんぶ代弁してくれたような気がしたっつーか」
「じつはそのせいで、覚えちゃいけないものを覚えちゃったんだけどね」
「あーーーーー、ほんとむり、しにたくなっちゃうなあ」
別世界の話だった。
わたしも母親のことは大嫌いだけど、殴られたことも、殺されそうになったこともたぶんない。絶望の淵でも必死に指先でしがみついて、地獄のような状況を生きようとした、そんな経験はないのだ。
わたしは、勝手に傷ついたのかもしれない。この人の痛みをわかってあげられることは、きっと一生かかっても無いのだと。そしてこの人も、わたしの痛みを理解することは絶対にないのだと。わたしは、あまりに身勝手だった。
布団の上に投げ出された朱里の腕に手を伸ばし、ブラウスの袖をそっとまくった。彼女は拒否をすることもなく、目を細めて、ただその動作を眺めている。
「太ももかお腹にしてくれればよかったのにね。やっぱり目立つわぁ」
想像よりも上のほうに、自ら作ったものであろう細かな傷が並んで覗き、それらよりだいぶ離れた手首側に、角度の外れた、触れなくともわかるほど凹凸の激しい痕が残っていた。「はがれたとこ、なんも考えないでそのままくっつけちゃったから。やられたやつなら右にもあるけど、見る?」と、ボタンに掛けようとする彼女の左手を強く引いて、止めた。
「……おねがい、もう、切らないでほしい」
「それは約束できないかもなあ。ごめんね、じゅりちゃん」
頭をやさしくなでられた。なぜか、かすかに寒気がする。
予鈴の音を合図にベッドから降り、ブレザーを羽織る朱里の顔は、見たくなかったし、見られなかった。
「五時間目、国語なんでしょ? いこーぜい」
「うん」
あの日を境に朱里は、親から受けてきた、今もなお続く虐待についてよくわたしに話すようになった。『死にたい』と頻繁に吐き出すようになった。
あの頃よりもずっとずっと前から、既に朱里の心は壊れかけていたのだろう。それでも彼女は笑っていた。わたしとふたりでいる時以外、ほとんどずうっと。
壊れてしまった心は、二度と元通りには戻せない。たとえ欠片をすべて繋ぎ合わせられたとしても、完全な形に直すことは不可能だ。強度だって取り戻せない。だからこそ、わたしが、あの子を守るべきだったのに。救うだなんて大層なことはできなくても、守ることはできたはずなのに。しかし今さら何を考えても、後の祭りだとしか言いようがない。
後悔。あとに悔やむ。ほんとうに、嫌な言葉だと思う。
- Re: あなたが天使になる日 ( No.11 )
- 日時: 2019/07/20 12:49
- 名前: 厳島やよい (ID: 3i70snR8)
彼女の『死にたい』は『生きたい』だった。べつにわたしの綺麗事ではなく、本人がそう言っていたのだ。
「死にたいくらい辛いし、実際に死のうとしたこともあるよ。でも、わたしが命を懸けてめいっぱい叫んだとしても、母さんの狂った頭が治ったり、家族が元の形に戻ったり、離れていった友達が帰ってきたりはしないわけでさ。そもそも、仮にそれが叶ったところで、わたしは生き返ることができないんっすよ。
自分だけが苦しい思いをして全部を捨てても、他人はわたしのことなんて忘れて、のうのうと生きつづける。美味しいご飯食べて、かわいい洋服を着て、友だちや彼氏とあそんで、すてきな映画を観て、本を読んで、温かいお風呂に入って。幸せ、になっちゃう。それってもうさ、馬鹿らしいったらないでしょう」
そんな現実が許せないし、生きるひとたちに負けてしまうようで腹が立つ。だから、腕を切ってでも地面を這ってでも生き延びたいのだ、と。自傷癖を告白された数時間後、寄り道した海辺でそう言われた。砂浜の、乾いた流木に並んで腰かけて、穏やかな太平洋をふたりで眺めながら。
朱里は『死にたい』を口にすることで、自分の苦しみを、痛みをきちんと認識して受け入れ、せいいっぱい前を向き、乗り越えようとしていた。
「とりあえず、高校を卒業するまではなんとか頑張って生きたい。大学に行くにしろ、働くにしろ、まずは家を出て、そのあとのことは──そのとき考えることにする」
なのにわたしは未だに、傷付きつづけて。そんなことを言わせてしまう自分は、なにも彼女の救いになれないのだと、絶望のきれはしを積み重ねていくばかりだ。
声にする言葉の力は、それほど強烈だった。
「ねえ、ジュリは、将来どうするの?」
「……え?」
「将来はどうするのって、きいてんのー。お話聞いてましたー?」
むにー、と頬を引っ張られる。いひゃい。
「ごめん。ぼうっとしちゃって」
「ふはっはー、許すっ!」
「あっさり許しちゃうんですね」
きのう磨きあげたばかりのローファーに視線を落とすと、空の色がぼんやりと、滲んで映っていた。
「そうだなあ、できる限りいい高校に行きたいかな。それで、もっとたくさん勉強して進学する。心理学に興味があって」
「ほおう、心理学。意外だね」
「そう?」
「たしかにジュリは勉強頑張ってるし、成績も伴ってるけどさ、実は学校のこととか人生とか、心底どーでもよさそうな感じじゃん」
意外、というのはそちらの意味だったのか。心外である。
「若いうちにさっさと金持ちと結婚して専業主婦になって、毎日編み物とかしてたーい! って顔してる」
「どんな顔よそれ」
「わっはっは、冗談冗談」
いったい、どんな目でわたしを見ているのだ、こいつは。
げらげらと笑う朱里が砂の上に転げ落ちてしまえばいいのにと真剣に考えたけど、手が出そうになった寸前に笑うのをやめてくれたので、助かった。力の加減がわからないから。
「あー、でも、人生を諦めてるように見えるのは大マジだよ」
靴の中に入り込んでしまった砂を叩き落としながら、朱里が言う。
「変に気を遣うのもいやだし、ジュリも分かってるだろうからはっきり言っちゃうけどさ。ジュリとつるむようになってから、今までの人間関係、かなり無くなっていってるんだよね」
なんだか、自分の知らない自分が朱里に悪口を言っているみたいで、気分が悪くなってきた。名前の交換に賛成したのは、ほかでもないわたしなのに。友達がいないのなんて元からなのに。
「あいつらがわたしから離れていく前、よく言われたの。"【 】といて、そんなに楽しい?"って。すごく遠回しなこともあるし、わりとダイレクトな言葉を使われたこともある。
だからわたし、【 】のことがそんなに嫌いなのかって、何回かきいてみたことがあるんだ。ほら、わたしたち、同じ小学校だったけどさ、組は六年間違ったでしょ。お互いの存在すらも知らなかった」
ああ、うん。知ってる。知ってるよ。わたしがいつも、教室で浮いてしまう理由。
昔、きいてもいないのに、クラスメートがわざわざ面と向かって親切に教えてくれたから。
────ずうっと前から、何もかも全部わかってますってツラであたしたちのこと見下してるし、むかつくくらいに関心ないじゃない。
そんなんで先生に気に入られちゃってさあ。なんか、捻り潰してやりたくなるんですけど
そんなこと、ないんですけど。すでに捻り潰されてるんですけど。それがあなたのおかげで、余計に辛くなったんですけど。シロツメクサの冠を泣きながら投げつけたこと、まだ根に持っていたんですか。
今さらどうにもならないのに、彼女に言いたいことが溢れてくる。
「叩いても蹴っても物を捨てても、ずっと無表情で黙って見てたって。だから、関わらなくなったって…………いじめられてたんだね、【 】。あのね、実はわたしも、」
「うん。知ってる。いろいろ、大体知ってるから」
もう何も、聞きたくなかった。
「そう、だったんだ」
「だからさ、今日はもう、わたしの名前を呼ぶのやめてくれないかな? わたしも、もうリ×カやめろとか、言わないようにするから」
「わ、わかった。あの、いらないことベラベラ喋りすぎたよね。ごめんなさい」
いつもどおり、朱里以外の他人には嫌われるような涼しい顔を続けられていたら、それが一番よかったのだけど。彼女の悲しげな瞳には、わざとらしい笑顔を浮かべる自分が映っていた。
「いいんだよ。帰ろうか、カスミ」
鞄を肩にかけて、立ち上がり、てのひらを差し出す。
このどうしようもない気持ちが、わたしの『死にたい』なのだとしたら。朱里の問いに、半年かけてようやく導き出せた答えは、心の中だけに留めておきたいと思った。
自らの『死にたい』は、まず自らを傷つけるということを、身をもって知ってしまったからだ。