ダーク・ファンタジー小説
- Re: あなたが天使になる日 ( No.15 )
- 日時: 2019/08/01 21:44
- 名前: 厳島やよい (ID: IFeSvdbW)
■月■日
名前を交換しても、わたしは佳澄になることなんてできない。わたしは、朱里のまま。じゅりのまま。
母さんに名前を呼ばれるたび、吐き気がした。どうしてわたしはわたしなんだろうと思った。
少しの間だけでも、わたしは、わたしではないだれかになりたかった。余計に苦しくなっても、そのときだけは、生きてるなあって、思えるから。
■月■日
佳澄になりたいです、てんしさま
6『天使になりたい』
怪しいものは入れてないから、飲んでよ、アカリちゃん。
広くて殺風景なリビングに通され、ざらりとした感触のソファに座って向かい合った。ご丁寧にお茶をすすめられたので、一口だけ飲んでおいた。たぶんほうじ茶だ。
「必要ないような気がするけど、一応自己紹介するね。僕は市瀬蒼太。朱里の弟で、小学三年生」
「三年生か。しっかりしてるんだね」
「生意気、の間違いでしょぉ」
けらけらと、蒼太が湿度の低い笑い声をあげた。
体格や仕草こそ歳相応ではあるが、十歳にも満たない子どもだとは思えない。オーラというか、なんというか。言葉にするのがどうにも難しいのだけど、そんなものを、彼は周囲に纏っている。それはどこか歪で、暗い。似た色をいつか見たような気がして、朱里の目だったなと、すぐに思い出した。
弟なんだなあ、と。まぶたで噛み締める。痛い。
「本当はアカリちゃんにも自己紹介してもらいたいところだけど、自分の名前、大っ嫌いなんだもんねえ」
「うん。まあ」
「たぶん、ねーちゃん以上にだ。そんなんで、毎日生きていけるもんなの? 学校にいようが家にいようが、いやでも名前は呼ばれるんだろうに」
「平気だよ、ただ呼ばれる分には。音に蓋をすればいいんだもの」
「……ふた?」
ずずずずー、とお茶をすすって、蒼太が訊ねた。
「そう。勝手に考えるの、その人がわたしに、どんなあだ名をつけるか。とくに思いつかなければ、その人の使う二人称。それもしっくり来なければ、無音にする」
わたしの話を聞きながら、彼は目を伏せ、こぼれ出そうになる言葉を慎重に選ぶように、ゆるく唇を結んでいた。
少しの間をおいて、選別の済んだ言葉が、変換される。
「ねーちゃんは、名前を交換する前、アカリちゃんのことをなんて呼んでた?」
「無音。あの子はわたしを【 】としか呼ばないと思った」
あー、そ。
安堵とも、落胆とも取れる声が返ってくる。
「だから尚更、わたしはアカリになりたかったのかもしれない。無音になるのは、母親くらいで十分だから」
人がだれかの名前を呼ぶとき、その声や呼び名には、相手をどう思っているかが自動的に反映されるものだと考えている。わたしはそれを、物心ついた頃から自分の都合よく操作しているのだし、なくせる歪みはなるべく取り除いておきたかった。
無駄な抵抗だとは自覚している。最大の歪みである母の"無音"が、わたしの世界の中心に、ずっと存在しているのだから。
「蒼太くん。朱里は、遺書かなにかを残していたりはしない?」
*
すぐ隣の和室で、形だけでも遺影に手を合わせたあと、彼に案内してもらって二階へ上がった。外で見た以上に家が大きく感じるのは気のせいだろうか。
「ここが、ねーちゃんの部屋。ドアノブと延長コードで首吊ったけど、わりと早く僕が見つけたし、掃除も念入りすぎるくらいにしておいたから大丈夫だよ」
滞りなく恐ろしいことを言うんだなあ、この子は。呑気にそう思いながら、朱里の遺体が存在していたのであろう場所をそっとスリッパで踏みつけ、彼女の部屋に入った。さっそく本題に入ろうということだ。日記をわたしに送りつけた理由も、説明してくれるのだろうか。
彼が窓際の勉強机の引き出しへ顔をつっこんでいる間に、暗い部屋の中を見回した。大きな窓は、遮光カーテンが隙間なく閉められている。ざっと見積もっても、わたしの部屋の三倍は面積があるものの、物が少ないせいか余計に広く思えた。
壁際の、腰ほどまでの小さな本棚には、文庫本や漫画、雑誌なんかが並べられていて、その上にはうつむいた古い熊のぬいぐるみと、空の花瓶が置いてある。ベッドの隅できれいに畳まれている毛布には、枕が重ねてあった。生活感がないほどきれいに片付いているのは、蒼太が手を加えたからなのか、もともとの性質なのか。まあ、おそらく後者だろう。
それにしても、どれほど奥にしまいこんでいるのかと訊きたくなるほどに、蒼太の探し物が終わらない。これほど暗いのでは、見えるものも見えなくなるだろう。
「カーテン、開けようか」
「通りから丸見えになっちゃうんだ。悪いけど、電気をつけてくれる?」
「ああ、うん」
紐を引いて、蛍光灯をつけた。
それでも遺書は見つからないようで、今度は違う引き出しを開いている。
「ごめんね。僕、ちょっとだけここが壊れてるの」
わたしからにじみ出る不安が、伝わってしまったのかもしれない。彼が振り返り、こめかみの辺りを指でつついてそう言った。
「…………気にしないで。お母さんに見つからないように、隠したんだろうし」
「それは心配ないよ。あの人、めったに家の階段使わないから。朱里に突き落とされるーって、未だに言ってる」
歩き回りながら「自覚はあるのね」とこぼすと、苦笑された。そういえば、母親は外出中なのだろうか。対面の覚悟もしていたのだけど、気配すら感じられない。
なんとなく手に取った枕に、朱里のにおいがかすかに残っていた。喉の奥から急激に熱が溢れそうになったので、それを押さえ込むため、慌ててもとの場所に押し付ける。と、かさり、と枕の下から音が聞こえた。
「あのさあアカリちゃん、きみに送った封筒のことなんだけ「ねえ、もしかしてこれ?」
「え?」
「遺書。朱里の遺書」
蒼太が、顔を上げた。
横書きの便箋の、中央の行に、ボールペンで、ひとこと。
『天使になりたい』
ただ、それだけ。
死の間際に残したのであろう文字が、取り残され、震えていた。
彼女なりの、謝罪か何かのつもりだろうか。何度も噛み砕こうとしてもよく意味がわからない。頭が回ってくれない。
「なに、これ。これだけなの」
なんだろう、この気持ちは。
虚しさだろうか。
悲しみだろうか。
怒りだろうか。
どれもそうで、どれも違う。
指先から力が抜けて、紙一枚さえまともに握っていられない。いつのまにか、床に座り込んでいた。
滑り落ちた便箋を、蒼太が大事そうに拾い上げ、既についていた折り目にそって畳む。その静かな動作までもが、沸き上がる未知の感情を刺激した。
朱里がさいごに見たものが、そんなものなのか。
なに、天使って。そんなものになって、どうするの、朱里。前に言っていたよね、生きるひとたちに負けるみたいで腹が立つって。だから、腕を切ってでも地面を這ってでも生き延びたいって。もうリストカットやめてって言わないから生きてよって、言ったじゃん。言った、あれ、言ったっけ、そんなこと。言ってないかもなあ、あははははは。
………………笑えないって。
「アカリちゃんにだけは、教えてあげる」
混乱、と、呼ぶべきなのかもよくわからない状態で、蒼太の冷たい表情を見上げていた。
「ねーちゃんは、せーてきぎゃくたい、ってやつにも遭ってたんだよ」