ダーク・ファンタジー小説
- Re: あなたが天使になる日 ( No.19 )
- 日時: 2019/08/05 13:08
- 名前: 厳島やよい (ID: SI2q8CjJ)
大学やバイト先の愚痴を聞いてもらえて、かなりすっきりした。瑠璃子は聞き上手でもあると思う。互いに話したいことはまだ山ほどあったけど、彼女の門限が迫ってきたので、連絡先を交換して別れることにした。
祭りの日は、海沿いの道路で人々が御輿を担いで練り歩く光景を、遠くからひとりで眺めていた。いまにも雨の降りだしそうな天気で、かなり蒸し暑い。例年に比べ、残暑がかなり長引いているのだ。
こんな暑さの中、ただ重いだけの物体を背負いながら騒いで歩くことの何が楽しいんだろう。昔、子供用の小さなやつを担がされたことがあるけれど、もう二度とやりたくないと思った。しばらく肩に居座りつづけたあの痛みは、今でも忘れられない。
祭りが終わるのを見届けてから、私はまた、母からのツンデレハグを頂戴し、アパートでの暮らしに戻ることにした。
*
瑠璃子から、やっと落ち着きました、という報告の手紙が届いたのは、それから半年ほど経った、まだ桜も咲いていない時期のことだった。
相手は彼女の五つ歳上で、写真を見る限りでも、人柄の良さそうな、素敵な男性だ。紅弥という名前の彼は、瑠璃子の両親の望む条件に、ぴったりと合致した人物であった。瑠璃子と紅弥双方の希望により、式は、ごく少数の親戚のみを集めて挙げたらしい。
そこまでは、よかったのだ。
『もっちゃんにだけは、こうして言えるけど。もうわたし、両親に振り回されるのは御免です。じつは少し無理をして、彼を選んでしまいました。はやく自由になりたかったの。頑張ったねって、ただそれだけ、もっちゃんに褒めてほしい』
最後に綴られた文字が、心なしか、滲んでいるように見えた。
張りつめていた糸の束がついにあの時、ほつれて千切れはじめたのだろうと、今の私は考える。そこまで察することはできなかった過去の私にも、何か大変なことが起こるかもしれないという予感だけはあった。その週末は奇跡的にアルバイトも入れていなかったので、朝から家を出て、あの町へ帰った。
バスや電車をどれほど急いで乗り継いでも、三時間はかかる。物理的に距離があるのはもちろん、いま住んでいる場所も生まれ育ったこの町も、わりと辺鄙な田舎町だ。ただでさえ時刻表を空白ばかりが占めているのに、やれ酔っぱらいが線路に落ちただの、やれイノシシを轢いただの、強風で走れないだのと、かんたんに電車が止まってしまう。早いに越したことはない。おばあちゃんだっていつも「早えがいい」と言っているし。
ああだこうだと考えながら電車に揺られているうちに、昼前には無事、到着することができた。
待ち合わせ場所の、古びた喫茶店の扉を開く。ちりんと高く澄んだ音が頭上に揺れ、奥の窓際席で頬づえをつき、外を眺めていた彼女が、ゆっくりこちらを向いた。その表情は想像していたよりもずっと穏やかなもので、思わずため息がでてしまった。
「ごめんるりちゃん、待ったでしょう」
「ううん、わたしも、さっき来たばかりよ」
その言葉は気遣いから生じたものではないようで、荷物を下ろしていると、店主らしきおじいさんが今しがた注いできたばかりのお冷を運んできてくれたところだった。瑠璃子ちゃんいつも贔屓にしてくれてありがとうね、きょうはお友達もいっしょなんけえ、ゆっくりしてきなよ、などと言ってそそくさと裏のほうへ戻っていった。常連客らしい。
案の定、店内にはわたしたち以外に客がいない。海水浴場が近いおかげか、町内の飲食店や民宿は、夏には大盛況になるけれど、オフシーズンは大抵これが通常運転だ。
「もっちゃんこそ、あっちから来たんだもの、朝は早かったでしょう。わざわざ来てくれてありがとう」
「私はべつに良いよ。仕事がこっちのほうに決まったから来年帰るつもりだって、家族にちゃんと伝えたかったのもあるし」
「もっちゃん、ないてーもらえたんだ!」
「無数のお祈りを踏み台に、どうにか」
「わぁ、おめでとう! 盛大にお祝いしなくちゃ」
「その気持ちだけで充分だよ。ありがと」
本当に嬉しいけど、ひとから祝われるという状況が昔から苦手だ。子供のとき、勝手に友人が開いた私の誕生日パーティーで「もっと嬉しそうにしてよ」と不満げに言われたのが原因かもしれない。瑠璃子にならそう話しても問題はないだろうと考え、伝えると「じゃあ頭の中だけでクラッカー鳴らしとく」と言ってくれた。
「わたしたち、もうそんな歳だったんだね」
看板メニューの煮込みハンバーグセットをふたりで注文したあと、瑠璃子が不意に、つぶやいた。
「そういうことを言ってると、ほんとに老けるよ。まだ二十代なのに」
「だって私、高校を出てからほとんど何もしていないんだもの。ちょっとだけ、もっちゃんが羨ましくて」
「いまから進学を考えるとかは、難しそうなの?」
「たぶん紅弥さんなら、喜んで賛成してくれると思う。でも迷惑をかけるわけにはいかないわ。これからは親を頼るつもりもないし、それに、」
彼女は、ふう、と息をついて、心の奥から溢れる微笑みを抑えるように、長いまつ毛を伏せる。
「それにね、なによりもう、自分だけの人生じゃなくなったから」
その遠回しな言葉が何を意味するか、一瞬でわかってしまった自分がすこしだけ怖かったけど、だれかを祝いたいと思う気持ちをようやく理解できた嬉しさで、そんなものはすぐにかき消されてしまった。
「…………頑張ったね、るりちゃん。頑張ったね。頑張ってね」
- Re: あなたが天使になる日 ( No.20 )
- 日時: 2019/08/05 20:02
- 名前: 厳島やよい (ID: HyoQZB6O)
ほつれて千切れそうになっていた不安定な瑠璃子の心を、新たな命の存在が支えている。私はあのとき、その事実だけで安心しきっていた。もし、それを失ってしまったらと、考えられる頭はなかったのだ。
後悔などしたところで仕方がないことくらい、わかっている。わかってはいるのに、どうしても止められなかった。きっとこれからも、今までほどではなくとも、後悔が足を引っ張ってくるのかもしれない。
「ごめんね、もっちゃん、わたしを心配して来てくれたのに」
「謝らなくたって良いじゃん」
「そうかな」
「そうだよ、るりちゃんが元気でいてくれるのが、わたしは何よりも嬉しい」
ご飯を食べたあと、互いの近況報告と世間話にたっぷり二時間分の花を咲かせてから、喫茶店を出た。
隣町に用があると言うので、駅の前まで彼女を送っていくことにした。正確には、私が勝手についていっただけなのだけど。
「それじゃあ……ありがとう、のほうがいいかな」
「どういたしまして。気をつけてね」
「うん。またね、もっちゃん」
「またね」
タイミングよく、ホームのほうからアナウンスが聞こえてきて、彼女は笑顔の残像だけをこちらに残し、小走りに去っていった。
そういえば、いままでの学生生活、こんな思い出がちっともなかったような気がする。恋人はいたけれど、それとこれとはやはり別物なのだろうし。
……私、友達いなかったんだな。
まあ、とくに困ることもなかったものの、なんというか。
「さみし」
すぐそばの道路を横切るまるい黒猫が振り返り、険しい顔で私を一瞥して、空き地の枯草の中へと消えた。
あなたはもう少し、他人と世界に関心を持ちなさい、と、いつだったか、母親に言われた覚えがある。簡単に持てるものなら、これほどさみしい人間に育つことはなかっただろうに。自分のことで精一杯な私の肩には重すぎて、とても背負っていられない。
しょっぱい涙を飲み込み、電車が地平の果てに吸い込まれていくのをフェンス越しに眺めてから、路線バスをつかまえて一旦実家に帰ってみた。しかし、家の中にも庭にも、物置の中にもふたりの姿が見当たらない。ゆうべ電話しておくべきだったなと軽く反省し、かつての自分の部屋に荷物を置いてから、また外へ出た。
車庫にないのは軽トラのほうなので、遅くとも夕方ごろには帰ってくるだろう。例外もあるが、田舎暮らしの人間は、遠出のときなんかのために、普段使いのほかにきれいな乗用車を隠し持っていることが多い。今の私ももちろんそうだ。
こんどは徒歩で約五分、なだらかな坂になっている道を、下っていく。こんなときに向かう先など、さみしい私には海くらいしかない。
民家民家、ときどき田畑、民家、工場、更地、伸び放題の草木、民家、更地更地、更地。相変わらずつまらない景色だ。更地がひとつ増えたような気がするものの、そこに以前なにがあったか、まったく思い出すことができない。まるで最初から、その場所にはなにも存在していなかったようだ。私も、いつか死ぬときは、そうやっていなくなれたら良いのにとよく思う。
馬鹿なことを考えているうちに、目的地へたどり着いてしまった。だれかの泣き声も、笑い声もかき消してしまう大きな波の音。その合間、わずかに訪れる静寂に、ときどき鳥の鳴き声が響いては、ふたたび波でやさしく砕かれていく。
海だ。
温かい砂浜に、足がじんわりと沈みこむ感覚が、小さな頃は少しだけ苦手だった。ハマトビムシが跳ねてきて、地味に痛いのもきらいだった。でも、両親に手を引かれ、波打ち際を歩いていた記憶は、ほかのなによりも温かく、大切な記憶d「うわああああそこのお姉さん、捕まえて! その犬を捕まえて!」流木に腰かけ水平線近くをゆくタンカーを眺めながら、思い出、という言葉がぴったり当てはまりそうな記憶に浸っているいいところで、だれかの叫び声が脳内に侵入してきた。邪魔すんなこのやろう、と思いながら振り返ると、毛むくじゃらの白い塊がこちらに向かって突進してきている。
とっさに腰を浮かせて、その生き物を抱きかかえるように捕らえ、受け身をとった。
「ありがとうございますー! 大丈夫ですかー」
声の主の男性が近づいてきたので、手探りで控えめに首輪を掴み、起き上がる。指先をなめられるのでくすぐったかった。
「私は大丈夫ですけど……」
言いながら、こちらも負けじと舐め返すように、腕の中に収まっている毛むくじゃらを眺めた。正直、この町にはあまり似合わないような、きれいな外国の犬だ。でもかわいい。
「ほんっとにすみません、リードがぶっ壊れて、逃げちゃったんすよ、あ、あれ? あなたもしかして、杉咲さん?」
「え? だ、」
だれ、と言いかけて、飲み込んだ。さすがに失礼な気がしたから。
謝られたことについてはどうでもよかった。覆水は盆に返らないし、返ったとしたらミラクルかホラーだ。そんなことより、彼が私を知っていたことに驚いている。同年代には見えるけれど、顔も名前も知らない赤の他人なのだ。
この町は人口もそこまで多くない。町民の名前と顔をすべて一致させられる超人もいると聞いたことがあるが、確か、だいぶ歳を重ねたおじいさんだったはずだ。見知らぬ人に覚えられてしまうほどの奇行に走った記憶もないし、はてさてどこでお会いしたものか。
真剣に悩んで悩んで、どう返事をしようかと考える。いま思えば、あれは私の無関心が生み出してしまった、ただの意識のすれ違いだったのだろうとわかるのだけど。
「覚えてませんか? それなら、べつに良いんです」
「残念ながら……でも、私が杉咲百馨であることは間違いありませんよ」
「そう、よかったー」
彼はほうっ、とため息をつき、足元に転がっていた棒きれを拾い上げると、何やら砂に、大きく文字を刻みはじめた。
西園寺、司。
司の上には丁寧に、マモル、と読み仮名も添えて。
「杉咲さんと同じ高校だったんですよ。ひとつ下の学年で。あ、その犬は実家の子なんです、半年前に母がとつぜん買ってきて。名前はね──」
しゃがみこんで、犬を抱き上げる。
互いに、はじめましては言わなかった。言う必要もなかった。
ああ、この人だ、と。あのとき、頭の奥でピンと来たのをよく覚えている。彼はその後、私の夫となった人であり、佳澄の父親となった人であり、複雑な事情のもとに、別れを選んだ人だ。
司が当時、なぜ私を知っていたのか、彼の口から語られたのは随分経ってからのことだった。それは、自身の持ち前の無関心さを悔やむ理由のひとつであり、私と司の別れについて、すこしだけ関係もしている。
佳澄が産まれるまで、瑠璃子や紅弥と連絡をとることは、ほとんどなくなった。便りがないのが良い便り、という考えがあったのも勿論そうなのだけど、実際は双方忙しいだけのことだった。
字の通り、心を亡くしてしまった私は、司を他人のように感じ始め、自分の娘であるはずの佳澄のことまで、娘だと認識できなくなった。
そして瑠璃子は産後、精神を病んでしまった。
そうだ、佳澄。私とお父さんを繋いでくれた犬のことなんだけどさ、
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