ダーク・ファンタジー小説

Re: あなたが天使になる日 ( No.26 )
日時: 2019/08/14 21:40
名前: 厳島やよい (ID: y.72PaHC)

 


   9『彼女の記憶、閑話休題』


       ※

 朱里が亡くなった、と電話口に蒼太から聞いたとき。最後に瑠璃子と会った日のことを、真っ先に思い出した。
 地域の新興宗教に入信したことを、嬉しそうに語る瑠璃子。異常ともとれる、その瞳の輝きを見て、わたしは彼女から離れる決意をしたのだ。少しずつ忘れようと、忘れてもらおうと。
 そのとき初めて家の中で見かけた朱里は、同い年のはずである私の娘よりずいぶん小さく、痩せこけていて、決して清潔とは言いがたい格好をしていた。遠くから私達の様子をうかがう視線も、相当怯えているようだった。漢字二文字、ひらがなに直せば五文字のいやな単語が頭に浮かんで、その存在を主張していた。
 平日の午後は、たいてい礼拝で弟を連れて家を空けており、姉は留守番させていると言うので、その時間帯を狙い、仕事の合間を縫ってときどき朱里の様子を見に来ることにした。
 かんたんに食べられるもの、たとえば、コンビニで買ったおにぎりやサンドイッチなんかを手土産に、朱里を訪ねた。最初のうちこそ拒絶していたが、だんだんと、私を受け入れてくれるようになった。敵ではないと、認識してくれたのだろう。初めてサンドイッチを食べてくれたときのがっつき方は、野良犬を連想してしまうほどのもので、鮮明に記憶されている。
 やがて、彼女が八つになる頃には、簡単にでも自分の食事を用意できるようになったと言っていたので、差し入れの回数は徐々に減っていった。
 その代わりに私達は、いろいろな話をするようになっていた。朱里はおそろしいほどに聞き上手な子どもで、こちらが心配になってくるくらいだった。

「つまんない話よね、ごめんね」
「ううん、もっちゃんおもしろいから、ぜんぜんへーき」

 無邪気な笑顔で、彼女が言う。
 たとえそれが本心でも、幼い子供に、大人の愚痴を聞かせ続けるわけにはいかない。

「……じゃあ、今度は朱里ちゃんが、もっちゃんにお話ししてくれないかな。何でもいいよ」
「えー? うー、うーん、うーーーーん」

 我ながら気の利かない言い方だ。そのまま石像になってしまうのではないかというほどの勢いで、彼女が考え込んでいる。
 そして、差し入れの紙パックのりんごジュースをストローで吸いながら、私の顔をちらりちらりと見てきた。

「もっちゃん、おこらない? たたかない?」
「怒らないよ。叩かないよ。怖いこと、なんにもしない」

 以前よりは片付いたリビングに、沈黙が澄みわたる。
 私が自分のペットボトルから、お茶をすこし飲むと、彼女は小さな口から、小さな声で話を始めた。耳をすまさなければ、聞き逃してそのまま消えてしまいそうだった。

「わたしね、生まれてこなければよかったなーって、よく思うの」

 おぼつかない足取りで、やわらかな砂浜をなぞるように。彼女はその胸の内を、おそるおそる、明かし始めた。

「わたしのせいで、お母さんはびょーきになって、びょーいんにとじこめられそうになったんだって。つらいこと、いっぱいあったんだって。わたしが生まれてこなければ、そうたとお父さんだけでしあわせにくらせたんだよ」

 生まれてこなければ、よかったと。考えたことがはたして、過ぎし日の私にはあっただろうか。
 私は、かわいい子どもではなかった。要領は悪いし、のろまだし、愛想もない。いじめられていたことも何度かある。それでも、何者にも侵されない居場所があったから、死の淵へ追いつめられることはなかった。物を書くこともおぼえた。非常口が、いくつもあったのだ。
 でもこの子には、そんな居場所がない。閉じられた暗い世界で、ひとりぼっちで生きて、闘っている。

「朱里ちゃんは、お母さんから、離れたい?」
「ううん。そんなことしたら、またお母さんをかなしませちゃうから、ここにいる」
「そっか」

 この時点で、無理矢理にでも引き離せばよかったのに、なにを考えていたのだろうか。
 私には、ただ、彼女の小さな肩を抱き締めることしかできなかった。

「あ、ぎゅーは嫌なんだよね、ごめんね」
「もっちゃんなら、べつにいいやー」
「そ、そう?」

 既に何かしらのトラウマでも植えつけられているのか、もともとの性質なのか、彼女は、他人に触れられたり抱きつかれることが苦手なのだと言っていた。今だって、いいと言いながらかすかに震えている。我慢をさせてしまったかと考えると、ひどく申し訳なく思えた。同時に、起きてしまったことなのだから仕方がないとも思えた。

「じゅり、もっちゃんがママならよかったなぁ」
「それは…………ちょっと困るかも」
「えーっ、なんでなんで!」

 だんっ、と机を叩き、朱里が抗議する。

「そうだねえ」

 私がこの子の居場所になるのは難しいということくらい、本当は、ずっと前からわかっていた。

「もっちゃんは、ママってものに向いてないから」

 ひとの子が可愛く見えるのは、責任がないからだ。中途半端に手を差しのべたくなるのも、そこに責任がないからだ。責任が発生していると、わかっていないからだ。
 もし、朱里が本当に私の娘だったら、きっと佳澄と同じ扱いになってしまう。形が違うだけで、それは瑠璃子のしていることと大差はない。
 間も空けずに朱里が返してきた言葉に、苦笑が漏れる。そうだろうね。あくまでもあなたにとっては、そうなのかもね。言いたくても言えないことばは、音も立てずに昇華されてしまった。消化されてしまった。
 その日以来、朱里には会っていない。ときどき、何かに賭けるように手紙を書いて送った。返事は一度もなかった。
 そのうち、手紙すらも送らなくなってしまった。

Re: あなたが天使になる日 ( No.27 )
日時: 2019/08/15 21:50
名前: 厳島やよい (ID: y.72PaHC)



       ※

 きょうは仕事が早く片付いたので、職場から逃げるように車を走らせ、まっすぐ、高台にそびえる市瀬邸へと向かった。
 朱里の訃報については、とくに何も感じていなかった。首吊り自殺だったと聞いても、なにも。長いこと心が凍結していた私に、人間として当然の感情を求められても困ってしまう。あのときああしていれば、とか、生きていてほしかった、とか、そんな当然のことを考えられるようになったのも、つい最近のことだ。
 蒼太がなぜ、長い間連絡を取っていない私に直接電話を掛けてきたのか、気になった。葬儀はごくわずかな親族のみで執り行われたらしいし、他人が家にやって来て線香を立てられるのも困る、とでも言いたげな声色をしていた。それなのに、わざわざ私にコンタクトを取ったのだ。なにか、話でもあるのだろうと考えるほかない。
 ただそれ以上に、いやな予感がしたからという、根拠のない、漠然とした理由がいちばんにあった。この類いの予感は大抵当たってしまうものだと、数十年を生きてきた私の脳みそが訴えてくるのだから、仕方がない。
 交差点に引っ掛かると、近くで畑でも燃やしているのか、どこか懐かしい煙のにおいが流れ込んできて、思考を強制的に停止させられる。ぼんやりとしていたら、信号が青に変わったことにも気づかず、後ろから盛大にクラクションを鳴らされてしまった。お手洗いにでも急いでいるかのような勢いだ。万が一の責任を転嫁されても困るので、すこし先で前を譲ることにする。ネズミ取りでも仕掛けられていたら、有無を言わさず切符を切られるであろう速度で、彼(だったと思う)は姿を消した。

「…………ぼんやり、ねえ」

 四年前離婚した、以前の夫に、よく言われた記憶がある。きみはいつもぼんやりしている、どこか遠くを見て、遠くに生きているようだと。
 その言葉は、あながち間違っていない。私は十四年前から、ひととは別の世界を生きているからだ。


 娘がうまれた日、私の頭の中から、なにがしか大切なものが抜け落ちてしまったのを覚えている。それが一体何なのか、ひとことで説明するのは非常に難しい。
 まず、隣で眠っている赤子が、他人にしか思えなかった。これ以上の苦痛は世の中に存在しないはずだというほどの耐え難い痛みを乗り越え、出会えたはずの我が子が、赤の他人にしか見えなかった。取り違えられた、他人の子どものようにも見えた。
 それに気がついた瞬間、世界が私から遠のいて、すべてが偽物のように、平行世界の別物のように感じられた。この子どもも、夫も、ベッドも、壁も天井も、病院のスタッフも、町も、家も、大好きな海も砂浜も、果ては自分自身までも。
 ひどく孤独だったけれど、寂しいとは思わなかった。悲しいとすらも思えなかった。そんな自分を後ろから笑って眺めている自分もいた。
 世界が変わったわけではない。自分自身が、どうにかなってしまっただけなのだと、確かにわかった。わかったところで、どうにもなりはしなかった。
 母親になりきれない私が、母親として、育児以外に少しでもできることは一体なんだろう。家事か? 料理なんてまずできないし、食器を洗おうとしても毎回、皿を割るか辺りが水浸しになって、雑巾を絞っている間に、洗濯機を回していたことも、お風呂にお湯をためていることも忘れてしまう。気がつけば、そんな脳内と比例するように家の中がめちゃくちゃになっていて、司が後始末をする羽目になる。そして佳澄が、不安げな目で私たちを眺めている。なんだこれ、なにやってんだ私、役立たず過ぎて笑いたいけど、これっぽちも笑えない。
 これくらい大丈夫だよーと司は笑っていた。どうして笑えるんだろう。ひとが当たり前にできることを、私は何一つできないのに。少しだけ喉の奥が熱くなって、けれどもすぐにそんなものは引っ込んでしまって、もう、家のことがこれほど駄目なら、唯一の取り柄である仕事しかないでしょうと。無意識にそんな結論に至った。いまだに体が重いのも、あちこちが痛いのも、もうどうでもよくなってしまった。

「杉咲さん、娘さんとは最近どうなんですか?」

 離婚前後、職場の人間から、耳のタコが腐るほどにきかれたっけ。

「まあ、ぼちぼち」
「私達にできることがあったら、何でも言ってくださいね、いつも助けていただいてますから」

 何でもって、なんだ。
 できることなんて無いでしょう、あなたたちには。あってたまるものか。
 そう、本気で思った。無表情を、無感情を装うその裏でぐちゃぐちゃになりながら、ぐちゃぐちゃの理由も意味もわからずにひたすら働く。
 そして、離婚の二年ほど前。
 きっかけは、夫の──司の些細な体調不良だった。それが積もりに積もっていくのを見かねて、病院で診てもらうようすすめたのだ。その日はかかりつけの診療所が閉まっていたので、隣町の総合病院まで車を走らせた。
 その後、彼が、重たい口を開いて瑠璃子と同じ病名を告げたとき、朱里の笑顔が蘇った。泣き顔も蘇った。


 わたしね、生まれてこなければよかったなーって、おもうの

 わたしのせいで、お母さんはびょーきになって、びょーいんにとじこめられそうになったんだって。つらいこと、いっぱいあったんだって。わたしが生まれてこなければ、そうたとお父さんだけでしあわせにくらせたんだよ

 じゅり、もっちゃんがママならよかったなぁ


 何年ぶりだっただろう。涙を流して、声をあげて泣いたのは。
 人間らしい感情を、私はあのときようやく思い出せた。遠い昔、心を固く冷たく、閉ざしてしまった理由も、なんとなくわかった気がした。
 心が生きているって、こんなに苦しいんだ。苦しくて、痛くて、辛い。どうにもできない。でも、どうにかしてしまったら、この気持ちもきっとすぐに忘れてしまう。そんなの、嫌だ。だから、それなら、そう、最初からなにも感じなければいい。
 殺してしまおう、壊してしまおう。ほんの少しの部分だけ。
 少しだけなら、きっとこれからも生きていけるから。


 なんでー、もっちゃんは優しいよ? ぜったいいいママだよう


 朱里は、きょうも生きているのだろうか。生まれてこなければよかったと考えながら、生きているのだろうか。
 司が私の背中をさすっている。なぜか一緒に泣きながら。その感触がだんだんと自分の表面から遠のいていくのを、静かに眺めていた。
 司とおなじ世界を生きるのは、きっとこの瞬間が最後なのだろう。そう考えた二年後も、司は治らないままで。彼が以前と同じように仕事を続けることは、難しくなっていた。

「なあ百馨、おとといさあ、同僚の紹介で■■■の集会に行ってきたんだ。ひとが沢山いて、どうしようかと思ったけど、発作が起きなかったんだよ、あれからずっと気分がいいし、信者の方々も優しくてねえ、俺のこと、全部わかってくれてるんだ。だから俺も入信したよ。もう病院に行かなくていいかもしれない、そうしたら仕事にも戻れるかも、って、おおい百馨ぁ、きーてるかー」

 あの日の瑠璃子と、そっくりだった。異常な目の輝きも、微熱を帯びた独特な話し方も。
 食卓の片隅で肩を揺すられながら、考えた。もう、この人と生きていてはいけない。この人のそばに私がいてはいけないし、佳澄だっていてはならない。朱里のように、生まれてこなければよかったなんて、言わせるものか。何がなんでも、あの子を守るのだ。私なりのやり方で、強引だろうが強情だろうが卑怯だろうが、せめて彼女が独り立ちするまでは。
 そうして私は、失うことを選び、勝ち取ることもできた。
 娘の信用なんて、最初から無いに等しい。だから怖いものも何一つない。別れたって構わないけれど、わたしは彼といきたかった、と。そんなことを泣きわめきながら言われたところで、痛くも痒くもなかった。
 いつかわかってほしいだなんて、愚かなことは考えていない。死んでもなお、悪者にされたままだって、構わない。ただひとつ"母親"として、身勝手な最善策を取ることができた。それがきっと、頭のどこかで少しだけ、嬉しかったのかもしれない。
 相変わらず、佳澄のことは他人にしか見えないし、この行動が愛だとももちろん思わない。思ってはいけないと、わかっている。そもそも、彼女の好きなものも、嫌いなものも、人間関係も、学校での成績もよくわかっていないような私が、愛などを語る資格はない。
 そろそろ、回想なんてやめよう。これ以上ぼんやりしていたら、冗談抜きであの世へいってしまいそうだ。
 近くの空き地に車を停め、私は、気を引き締めて市瀬邸へ向かったのだけど。
 
「…………くさい」

 呼び鈴を鳴らそうと伸ばした指先、まぶたが、ちり、と震えた。視線を門の奥に向けると、玄関の扉がすこしだけ、開いていた。
 潮の香りに紛れているそれは、ほんの微量なのに、鼻腔を深く刺すように強い存在感を放っている。
 田舎暮らしも長いせいか、あまりに覚えがあった。もしそうでなかったとしても、分かっただろう。本能的な部分に訴えかけてくる、この特有のにおいの正体が。
 あるときは屋根裏に、あるときは道のど真ん中に。またあるときは、砂浜の片隅にも淀んでいる。
 ────死の、臭いだ。