ダーク・ファンタジー小説

Re: あなたが天使になる日 ( No.28 )
日時: 2019/08/17 20:07
名前: 厳島やよい (ID: Mi7T3PhK)



   10『Untitled』


 瑠璃子の死体を見つけてからの記憶は、どうも曖昧なままだ。映像としてはいまでも鮮烈に目の前を流れるものの、やはりというべきか、他人事のようにしか思えない。そういう意味で、曖昧だ。残像がこびりつくほどの、赤色灯の光が重なって、現実味が薄れてしまっている。
 私はあのとき、本当にあの屋敷にいたのだろうか。
 蒼太は私のこともいっしょに殺すために、呼んだのだろうか。
 一階の真っ暗な物置部屋。足元からこぼれていく頼りない光が、変わり果てた彼女の姿を照らしたとき、のどの奥に、胃液の味が滲んだ。異臭のせいなのか、無惨な光景を見たショックによるものなのかはわからない。脳裏で高校生の頃の彼女が笑ったからかもしれない。そもそもなぜ一目で瑠璃子だと判別できたのか、それが普通なのかすらもよくわかっていない。
 しばらく立ち尽くしていたら、二階から物音が聞こえたような気がして、階段を上った。頭から血を流し倒れている佳澄を見つけるまでに、それほど時間はかからなかった。彼女のすぐ近くで、蒼太らしき男の子も汚物と血にまみれている。幸い、ふたりとも息はあったので、救急車を呼んだ。
 やっと警察の事情聴取が終わった深夜にはくたくたで、佳澄のベッドのそばで、いっしょに私も眠ってしまっていた。次に目が覚めたとき、まさか佳澄が私を認識できなくなっているなんて、知る由もなく。
 ……記憶障害の、一種だと言われた。佳澄は五・六歳程度の状態に記憶と精神が幼児退行していて、私はもちろん、学校のクラスメートや手芸部員のことも、だれなのかわからない、と怖がっていた。その代わりに、自身の父方の祖父母は覚えているような素振りを見せる。この子が五歳の頃は、まだ祖父の認知症も始まっていなかったはずだ。祖母にだけでも会わせるべきか否か、最近よく考えてしまう。司からのメールは返ってこない。
 喜怒哀楽がわかりやすくなったという点では非常に助かるのだけれど、何分、以前とのギャップが激しいので、退院した今もなかなか慣れないでいる。表面上は無感情で、ひとりでも生きていけますよとでも言いたげな顔をしていた佳澄を思うたびに、胸の奥が鈍く痺れた。

「さい…………じゃない、佳澄、さんは、本当に僕たちのことを忘れちゃったんですよね」

 居間の低い机で斎藤先生に折り紙を教えてもらっている彼女を見やりながら、食卓で正面に座る、佳澄のクラスメートの鷹取くんが呟いた。
 今さら何を言っているのかなんて、そんなことは思わない。私も、同じことをよく考えるから。
 複雑な感情をたたえているのであろうその目がとても人間らしくて、ただ、羨ましい。

「あの子にとっては、ただ知らない人、ってだけなんだろうけどねえ。あんなになっちゃって、正直引くでしょ」
「そんなこと、ありません」

 あまり真剣な顔で否定してくるので、いい子だなあと思うと同時に、少し申し訳ない気持ちになった。

「……ジュース、持ってくるよ」

 逃げるように、キッチンへ駆け込む。
 居間からはカウンターの陰で見えないけれど、わざわざ斎藤先生が生けてくれた見舞い客からの花たちが、流し台の横にたくさん並べてある。佳澄はもともと花が苦手なうえに、事件の影響もあってか花瓶を怖がるので、こうしておくしかないのだ。枯れてもいないものを捨てられるほど、私は突き抜けていないし。そう思って眺めていたら、枯れかけている花をいくつか見つけてしまった。
 隣近所、親族、同僚、クラスメート。はじめのうちは剥き出しの好奇心を携えてやって来てくれていた彼らも、退院を境に減っていく一方だ。けれども鷹取くんは毎週、部活を休んで、家にいる佳澄に会いに来ている。事件のあった日、最後に彼女と言葉を交わしていたらしく、事情を知ってから罪悪感で潰されそうになっているのだと、友人の御子神くんが言っていた。ふたりとも、佳澄とは小学生のころから同じ組だったようだけれど、あいにく覚えてはいない。
 ふたりで同時に頭を下げられたときは、これ以上に困ることが人生で何度あるだろうかというほどに困惑してしまったっけ。
 死んだ花だけをごみ袋へ詰め込む。なぜかしぶとく生き残り、取り残されているカスミソウたちをまとめて、空いた花瓶に挿しなおした。単体でも、きれいだなと思う。いっそドライフラワーにでもしたい。
 カスミソウは、佳澄の名前の由来となった花だ。楚々とした、可憐なこの花がわたしは大好きで、成長した彼女にきっと似合うのではないかと想像したという、単純な理由だった。だから佳澄が保育園の頃、花がとても苦手だということを知ったときは、すこしだけ残念に思った。
 冷蔵庫のオレンジジュースをコップに注ぎ、ソファに座っている鷹取くんのところに運んで、ふたたび座った。何事もなかったように。何も考えてなどいないように。

「市瀬の弟、精神病院に入院したらしいですね」
「まあ、あの子もいろいろあったみたいだし。これからは母方の祖父母が面倒を見るってさ」

 生まれてから何年もの間、虐待の傍観を続け、父親の別居を境に不登校になり、性的虐待まで受けるようになった日々の中で姉を亡くし、母親を殺害。さらに姉の友人を殺そうとして返り討ちに遭い、最後には病院に放り込まれた彼の気持ちを推し量ろうと思っても、できるわけがなかった。
 少年法に守られて、彼はきっと、この世界で生きつづける。それに対し、個人的に思うことはとくにない。彼の祖父母が、母親と同じような目に遭わなければ、それでいい。
 そういえば、あの二人にも、土下座をする勢いで謝られたっけ。祖父のほうには殴ってくれと頼まれたけど、そんなことはもちろん、出来るはずもなく。彼らの気がすむならと考え、差し出されたものも受け取ってしまった。
 父親である紅弥は、事件の二日前から行方がわからなくなっているらしい。瑠璃子と蒼太のことを知って自ら姿を消したのか、どこかで死んでいるのか、何者かに拉致でもされたのか、それすらわからないままだ。佳澄については言わずもがな、蒼太もまともに話ができる状態ではないため、諸々の真相は今もなお、彼らの口からは明かされていない。よって、私も世間も、捜査によって記録・報道された事実、朱里の書いた日記や遺書から、あの日に起きたことを想像するしかなかった。

「……百馨さんは、平気なんですか」
「なにが?」
「そのー、市瀬の母さんと、仲良かったんでしょう」
「あー、うん。でも、昔の話だし」

 私のそういう部分は、壊死しちゃってるからね。なんて、言おうとしてやめた。私まで入院させられてはたまらない。休職して面倒を見ているこの状態の佳澄を、ひとりにするわけにはいかないのだ。
 それに、最近少しずつ、心が目覚めはじめたような気がしているから。

「そう、ですか」
「それ飲んだら、もう先生と帰りな。そろそろいい時間でしょう、親御さんが心配するよ」
「…………わかりました」

 コップを握る手元には、色鮮やかなミサンガが覗いている。
 鷹取くんの悲しげな笑顔を見て、やっぱり私には、あれほど人間らしい表情はできないと思った。まだ、と付くか、もう、と付くのかはわからない。前者であることを、切に願いたい。
 彼はぐっとジュースを飲み干し、佳澄のところへと歩み寄っていった。

「みっちゃん、そろそろ、お兄ちゃんと萌絵先生は帰るね」
「わかったー、気をつけてねー」

 もうすぐ、年も暮れる。

Re: あなたが天使になる日 ( No.29 )
日時: 2019/08/17 20:15
名前: 厳島やよい (ID: Mi7T3PhK)



*

 市瀬邸から見つかった朱里の日記の原本などがきっかけとなり、件の宗教団体の児童虐待問題や、地域で相次いでいる子供たちの自殺について、本格的な捜査の火蓋が切られた。正確には、以前から行われていたらしい潜入捜査が功を奏したからなのだけど、細かいことはこの際どうでもいい。
 宗教団体設立のきっかけ。表向きの顔、その実情。被害者や遺族、彼らの近隣住民へのインタビュー。報道番組ではそんな話題が延々と続くので、次第にテレビを見るのが億劫になってしまった。家の電話線も外し、ネットや宅配サービスなんかに頼って、ずいぶん長いこと、引きこもって過ごしている。そろそろ散歩でもしたくなってきた。
 もう二度とこのような痛ましい事件が起こらないようにと人々は声をあげているけれど、騒ぎはじめるのがいささか遅すぎはしないだろうか。そんなことを、遠くから眺めて考えているだけの私も立派な共犯者だ。
 不器用ながらも佳澄を寝かしつけたあと、そっと部屋から去り、自室の空調をいれてから古いパソコンを立ち上げた。かたわらに、メモ帳と、以前の彼女が不定期につけていたらしい日記帳と、なぜか通学鞄の中で眠っていた、朱里の日記のコピーもいっしょに広げて。
 だれに何を言われたわけでも、影響されたわけでもない。ただいつのまにか、夜になるとキーボードを叩くようになっていた。
 ねじれて絡まっている不透明な真実を、私の勝手な解釈で組み上げ、肉付ける。そうしてこの文章が、ひとつの物語として生を受ける日が来ても、世界に発信するつもりはさらさら無い。いつか、彼女自身が望んでページをめくるときに、この物語には生きていてほしかった。
 でももし、これを読んだせいで、佳澄が拒否反応を起こしたら。さらに時の流れを逆行したら。
 もし、自殺でもしてしまったら。
 考えられる可能性なんていくらでもあった。それでも、手を止めることはなかった。
 決して、佳澄のために書いているなんて言えないし、言いたくもない。そんなことを話せる人も、現時点では周囲に存在しないけれど。
 本当は、まだまどろんでいる自分の心を、感情を目覚めさせたいだけなのかもしれない。なかったことにされようとしている人生たちの一片を、想いを、彼らが生きようと足掻いた瞬間を、紛い物でもなんでもいいから形に残し、そこに自らの心を見出だしたかっただけなのかもしれない。まあつまりこの行動は、単なる私のエ「おかーさん」「うん?」反射的にデータを上書き保存して、画面を切り替える。何一つ無駄のない動作に自分でも驚いてしまった。

「おかーさん、いつも遅くまでなにやってんの? もう十二時過ぎですよう」

 振り向くと、眠気のせいか、不規則に、不安定に揺れて立っている佳澄がいた。
 よたよたと歩き、近づいてくる彼女の姿は、幼少期のそれと何ら変わらない。今は亡き母が好きだった漫画の主人公と、まるで正反対だ。

「仕事だよ。みっちゃんこそどうしたの、やっぱり眠れない?」
「…………違う、といれー、れ、ううん?」

 すべては油断した私の責任で、しまったと思った頃にはもう遅かった。
 手元の日記を覗きこんで、ひとこと。

「朱里」

 漢字なんて、ほとんど読めなくなっているはずなのに。
 彼女が、その名前を久しく口にした。

「みっちゃん、」

 見ちゃだめ。そう、つづけようとした言葉が、唇が空回った。
 佳澄が、大粒の涙を流しはじめたから。

「あれ、みっちゃんなんで泣いてんだろ、ね、おかーさん、いたい、あたまが、いたいっ、ううううう」

 私が、病院のベッドではじめて目覚めた佳澄の名前を呼んだときのように、錯乱も嘔吐もしなかったものの。小さくちいさくうずくまって、呻いている姿は、あのとき以上に苦しそうで、ひどく孤独に見えた。
 伸ばした手のひらが、一度、空を切る。また感覚が、感情が、遠のいていきそうだった。彼女の痛みが真正面から突き刺さろうとしているのだから、当然の防衛反応だ。
 それでも、離れそうになる世界ごと手繰り寄せるように、震えるてのひらで強く、佳澄の肩を引き、抱き締めた。私はここにいるよと、あなたはここで、しっかり生きているよと、何度も呼び掛けた。
 もう二度と、あんな思いはしたくない。あんなに寂しくて苦しくて、狂いそうで、叫びたいのに叫べない世界を、この子には味合わせたくない。
 そう、こんなもの、愛でもなんでもない。ただのエゴだ。エゴでしか、私はこの子と向き合えないのだ。
 だから、出来上がった小説は佳澄にはぜったい読ませないと、いま、決めた。これは、私の中の佳澄に語る、私のためだけの物語だ。

「おかーさんも、ないてるの?」

 いつの間にか落ち着いたらしい彼女が、耳元で静かにたずねてきた。
 もはや、何がそこまで悲しいのか、自分でもわけがわからない。

「そうだよ、泣いてる。泣けるよ、ちゃんと、泣けるようになったから、大丈夫。だいじょうぶ」

 つたない文章だし、ひとの気持ちを書くのはとても難しいし、中途半端な書きかけがまだ、たくさんたくさん、あるけれど。
 ──書き出しすら、未だにしっかり決められていないけれど。
 何年かかってもいい。
 いつか、目の前にいる佳澄とも向き合える日がくるまで、私は書き続ける。








 これは、海が見えるちいさな町に住んでいた、ある女の子のおはなし。







       完