ダーク・ファンタジー小説
- Re: あなたが天使になる日 ( No.32 )
- 日時: 2019/12/30 00:16
- 名前: 厳島やよい (ID: JT0cxu6k)
♪
ときどき、同じ夢を見る夜があった。
中学一年生の、秋の記憶。日直の当番を早く済ませてしまいたくて、学級日誌を走り書きで埋めていたのを覚えている。
自分以外だれもいない教室に、そうっとドアを開けて戻ってきたのが彼女だった。
思わず振り返った僕と目が合い「忘れ物っ」少しロッカーの中を覗いてから、慌てて自分の席まで駆けていく。かばんの中に目当ての物をしまって教室をあとにしようとする、一連の動作を追いながら、ここまでしっかり彼女を見たのは驚くほどに久しいことだと、気がついた。
どれだけ意識から追いやりたかったのだろう、僕は。しかもこの瞬間、そんなこともやめてしまったなんて。
今しかないと、考えるよりも先に、口は動く。
「あのさあ、い────朱里」
やっと彼女の"名前"を呼べたのは、四年ぶりに言葉を交わした日のことだった。
後ろ姿が一瞬震えて、僕のほうにゆっくり、振り返る。
「うん?」
「僕に……できることが、あったら。なんでも言って」
長い前髪の奥から覗く、大きな目が、またたいて。少しの沈黙のあと、朱里は口を開いた。
「じゃあ、ひとつだけお願いを聞いてくれる?」
ちょうど陽が差してきて、あたりが一段と明るく、背中がじんわりと暖かくなる。そのせいで、肝心の彼女の表情が、よく見えない。
「いますぐじゃなくて、いいから、いつか、佳澄と友達になってほしいな」
押し寄せた波が引いていくみたいに、光が僕たちから、また遠退いていく。
やさしすぎる笑顔だけを残し、教室を出ていった彼女は、それからちょうど一年後の秋の夜、みずから命を絶った。
♪
だれかが天使になったあとのお話
『やさしいはつこいのころしかた』
海に行きたいと、彼女がつよく言うものだから。徒歩十分もかからない道をなぞって、僕たちは近所の海水浴場にやって来ていた。
まだ桜も咲いていない季節なので、観光客はおろか、サーファーの姿さえ見当たらない。強風のせいもあって、晴れているのに正直めちゃくちゃ寒い。それなのに、彼女ははだしになって、銀色の波と戯れていた。
その幼い笑い声と見かけとのギャップがひどく不安定に見えて、めまいを催すこともある。この子の母親にとってはそれが日常茶飯事なのだろうと思うと、いちいち憂いている気にすらなれなかった。
ばらばらに脱ぎ捨てられた靴と靴下を、ようやくそれぞれ拾い上げ、黒い砂をはたく。行動の予測はつけやすいものの、案外脚が速いので、僕でさえ追いかけるのに一苦労だ。あんたはアルプスの少女か。
「靴、持っとくよ、みっちゃん」
呼びかけはその耳に届く前に、むなしく波の音でかき消されてしまった。まあいいやと開き直り、はしゃぐ後ろ姿を見守る。
僕は兄でも弟でも、もちろん親でも恋人ですらもないけれど、この子の……佳澄のそばにいる。正確には、彼女のほうがなぜか僕になついてしまっている。
こーちゃん、こーちゃん、と呼んで僕についてくる彼女が、半年前に町を騒がせたあの事件の、被害者だなんて。クラスで孤立していた静かな女子生徒だなんて、考えられない。考えたくもない。あの頃のことは、夢だったのではないかとすら思う。
学習能力にまで及んだ幼児退行の影響で、学校にもろくに通えず、マスコミの人間や野次馬から隔離するために軟禁状態におかれていた佳澄も、最近、こうして外へ出られるようになった。
世間というのは、熱しやすく冷めやすい物質だからねえ。
佳澄の母親、百馨さんが、たびたびそんなことを言っていたのも、記憶に新しい。
この町の構造だけはしっかりと頭に入っていた佳澄は、春休みになったあたりから、公園に行きたい、博物館に行きたいなどと母親にせがむようになった。しかし、彼女も毎度それを叶えてあげられるわけではない。
「じゃあ鷹取くん、おねがい! ぜんぶ済ませたら、夕飯ご馳走するから」
と手を合わされ、僕が駆り出されているのだ。そんなに気を遣ってくれなくてもいいのに。
「ねえこーちゃん、みっちゃんもう飽きたー」
こんな具合に大抵すぐ飽きるので、ある意味、手もかからない。
「じゃあ、足を洗いにいこうね」
「うん!」
無邪気に差し出された右手を、握り返す。最初のうちはかなりの抵抗があったが、もう慣れたものだ。
佳澄がにこにこと笑って見上げてくる。クラスの女子の中では背が高いほうだけれど、僕のほうが、並び順はずっと後ろだった。それでも幼なじみの御子神には負けるのだが。
手を握っていると、彼女は不思議と、走り出さなくなる。むしろ、のろまな僕の歩くスピードに合わせてくれるのでありがたい。幼い頃、父親に強く手を引かれて歩いた記憶があるからか、必要に迫られるとき以外に急かされるのは、どうも苦手なのだ。
三分もかからずに洗い場にたどり着いた。水道のレバーを押さえてやり、まっしろい指の間にこびりついた黒い砂粒が流されていく過程をながめるだけの、簡単な作業に勤しむ。ううん、なんか危ない。
「……そろそろ、爪を切ったほうがいいんじゃない?」
「はさみ、いや。怖い」
「そうかー」
「こーちゃんが切ってくれんならいいよ」
それは、いいのか、いろいろと。
いっひひひー、と笑いながら、彼女がタオルを求めてくるので、かばんから取り出して渡す。
「じょーだんよ、おかーさんがヤスリ買ってくれたから、だいじょうぶ」
「あ、そう」
どうでもいいけど、僕は逆にヤスリが嫌いだ。金属でもガラスでも、ぎちぎち鳴るのが気持ち悪くて。
「にしても、どうすっかね、このあと」
部屋の掃除(若干大がかりなのだそう)をしたいので昼過ぎまで預かってほしい、と、百馨さんには言われたわけだけど。腕時計の長針にはまだ二周分近くの余裕がある。
「波打ち際できゃっきゃうふふ?」
「は、もう一人でしたでしょ」
「ぐぬっ」
こんどはふたりでしたいのだー、なんて反論はさらりと無視して。靴を履き直す隣で、僕も軽く手を洗う。思ったよりも水圧が強くてびっくりした。
そのせいかおかげか「あー」したいことがぼんやりと無責任に思い浮かんだのだ。
「ちょっと行きたいところがあるんだけど、いい? みっちゃんには近くで待っててもらいたいんだよね」
「うん? いいよ」
「じゃ、行こうか」
そうしてまた手を繋いで、ゆっくりと、歩き始めた。
もともと重たい足取りを二十分ほどかけてズルズルひきずりつづけ、目的地にたどり着いた。
佳澄は階段の下に待たせてある。今ごろ大木の幹あたりでもめがけて、小石を蹴り飛ばしているんじゃないだろうか。投げたほうがまだ確実な気がする。
「………………久しぶり」
ずっと、ずっと、会いたかった人の前で。長い間黙りこんでから、ようやく選び出した言葉の退屈さに、自分でもあきれてしまった。ただでさえ手持ちぶさただというのに。
「言葉も花も、持ってこないで来ちゃった。バカだよね。僕はあの頃からなんにも変わってない」
「 」
「さすがにもう、落ち着いただろうと思って来てみたけど、僕側がまだ無理だったかな。あの子なら下に置いてきたよ」
「 」
うずくまり、相手の返事に、耳を澄ませる。つめたく尖った風が何べんも頬に刺さってくるので、たまらずに目蓋を閉じてしまった。
その半透明な闇の中に甦り、振りかえり、微笑む彼女の表情だけが痛みとして焼きついてくれればいいのにと願ってやまない。声はもう、何故かほとんど思い出せなくなってしまったから。
おかしいな。じいちゃんとばあちゃんと、昔の友達の声ならはっきり覚えてるのに。
「線香くらい、買ってくりゃよかった」
冷たい石に変わり果ててしまった彼女を、もう一度直視する勇気がほしい。
見ることができない代わりにふれようと、手を伸ばした瞬間、両の肩になじみ深い重みが降りたった。首だけ振り返って見上げる。
「これ、だれのお墓?」
…………あれだけ、ついてくるなと念をおしたのに。
「さい──みっちゃん、待っててって、言ったでしょう」
「すぐ帰ってくるっていったのに、ぜんぜん来ないんだもん。あのね、さっきおしょーさんと鐘ならしたんだよ、てかおなかすいたんですけどーぷんすか」
まじか、そんなにか。それは完全に僕に非がある。
「ごめんね」
「アイス大福くれたらいいよ」
「うん」
昼飯にラーメン奢れとかじゃなくていいのかなあ、めっちゃ寒いのにいいのかなあとか思いつつ、はだしで海に入ろうとするくらいだし(ていうかそのままバシャバシャやっていたし)、どうってことはないだろうと結論づける。そんな彼女に甘えて話を逸らすのも申し訳ないので、質問にはきちんと答えておいた。
「このお墓はねえ……大切だった人のお墓だよ」
「たいせつ?」
「うん。でも、大切にすることを諦めちゃったんだ」
中途半端が売りのよわっちい人間だからねえ、こーちゃんは。
「……………………ふーん」
「………………うん」
何度も、何度も繰り返した記憶が、また飽きもせずに脳裏で上映された。
僕らがいま以上に幼かった頃。佳澄みたいに差し出されたてのひらを、僕が握り返せなかったようなころの話だ。
夏祭りの屋台を、あの子と見てまわった。神輿を担いでいるクラスメートに気づかれないように、人混みのなかを歩いた。豆電球の色に透かしたラムネ瓶と、意地を張ってなんとか撃ち落とした熊のぬいぐるみと、逃げ出した砂浜でこっそり線香花火をしたこと。ぬいぐるみを抱きしめて、ほんとうに嬉しそうに、ありがとうと笑ってくれた彼女を家まで送り届けようとして、それから、それから。
「どうせ死ぬのに、なんで生きるんだろ、わたしたちって」
隣でふと呟いた佳澄の声が、横顔が、以前までの彼女のそれに似ていた気がして見入ってしまった。
「早くてもおそくても、ぜったい死ぬのに、ずっとずっと生きなきゃなんない。活きなきゃ寝なきゃ食べなきゃ生きてけないし、生きなきゃ活きてけなくて寝られなくて食べらんないの、つらい思いもしなくちゃいけない。みっちゃん、ときどき思うよ、なんだろ、なんかいつも難しくてわかんなくなってくるんだけど」
この人のことなんて、じつはぜんぜん知らなかったけど。なんだか佳澄らしい考え方だなと思う。考え方というか、視点というか、なんというか。多少の偏見と美化が入りまじっていることは否めないけど。
僕はそんなこと、考えたこともなかったから。
「わかんなくても、いいんじゃないかな」
考えていたら、たぶん、死んでしまいたくなるから。
「ぬぬぬーん、なんでーん」
「なんでもーん」
あの子も、佳澄と同じようなことを考えたんだろうな、きっと。それはもう、頭が爆発しそうになるくらいに何百回も、何千回も。だから、きちんと考えられなくなったのなら、それはそれで、いいんじゃないだろうか。幸せなんじゃないだろうか。
「こーちゃんはさー、そのたいせつさんのこと、もう大切じゃないの?」
「うん」
「お墓参りにきたのに?」
「うん」
そうだよ。
「いま、泣いてるのに?」
「……………………うん」
ごめんね、朱里。
- Re: あなたが天使になる日 ( No.33 )
- 日時: 2019/12/30 23:54
- 名前: 厳島やよい (ID: JT0cxu6k)
♪
「康介くんは、もう作文書き終わったの?」
「ううん、まだ」
「そっかー」
うしろの、遠くの真っ暗なほうから、お祭りのはやしが聞こえる。ぼんやりした満月の光が、となりを歩く、少し背の小さなやせた市瀬さんをてらしていた。
市瀬さんは、さっきからやたら大事そうに、くまのぬいぐるみを両手でかかえている。さっき、ぼくがしゃてきでどうにかこうにかゲットした景品だ。
「一文字も書けてなくて、このまえ、父さんにおこられちゃったよ」
「え、しめきりはまだ全然先だもん、大丈夫なのに」
「夏休みの宿題もあるからねー、ついでにおこられてんの」
そして運悪くよっぱらってると、いっしょにこぶしとかも飛んでくるの。泣くとよけいにどなられるから、泣かないようにがんばってます。
ぼくは八月三十一日にすべてをかける男なのだ、はっはっはー。なんてのはじょうだんですよ、もちのろん。
そんなことより。
「市瀬さんの最初の作文、ぼくはすごくよかったと思うんだけどな。書き直しちゃったんだね」
「あー、うー、先生、ちょーおこんだもん。ふつうって何だ、とか、習った漢字はちゃんとつかえーとか、そもそも短すぎるんだーとか。ほんとうるさい、あの人。もうこーねんきなの?」
「シンラツだね」
「しょうがないじゃん、嫌いなんだから」
と、そうめいで美人な市瀬さんから、ぼくらのたんにんの先生について、うらのないご意見をちょうだいした。白いシャツから伸びるきれいなうでいっぱいにぬいぐるみをだきしめながらむくれて言うものだから、そんな姿だってかわいらしく見えてしまうのも無理はないよねえ!
そのていどのことも伝えられない照り焼きチキンなぼくは、いっしょに坂をのぼってのぼって、市瀬さんをお家に送りとどけるというしめーをはたすことくらいしかできないのでした。めでたくなさすぎる。
うで時計を見てみたらもう九時すぎだし。図書室の先生に、人間しっかくとかおすすめされそうだ。内容なんて一ミリも知らねっけんが。
「あいつうざいし、関わりたくないから、さっさとてきとーにおわらせたけどさ。しょうらいの夢とか、よくわかんないよ、わたし。そんな先のことを考えると、頭がぐるぐるしてくる」
「まだ、わかんなくてもいいんじゃないかな。市瀬さんはたくさん考えたよ、もうじゅーぶんだよ」
ぼくたちは、まだ、小学三年生なのだから。
保護者その他からのくれーぷにより来年から廃止されるらしい、二分の一成人式、とやらに感化されたぼくらのたんにんは、そんなむちゃな宿題をじどうにあたえたのであーる。
十年後(ほんとは約十一年後)のことなんてどうやって考えろというのだろう。クラスがえのある来年のことすら想像するのがむずかしい。それなのに頭がぐるぐるするくらい考えたのだから、充分だ。
もう、悲しい顔でいないでほしくて。もう、笑ってほしくて。それでさそったんだよ、お祭り。
みこがみ君たちには何でだかむちゃくちゃからかわれたけど、どーだっていいのだ。いっぱい市瀬さんが笑ってくれたから、そんなのもう、どうでもいい。
「…………ゅり」
「え?」
「じゅり、がいい。呼びかた」
足は止まらなかった。息が止まるかと思った。
けど、それじゃあしんでしまうので、すーーーー、すう。数。吸う。はく。はー。ゲー違う。
驚いた理由はもちろんいくつかあるんだけど、その中でもいちばん大きかったのは。
「……ぼくだけ、いいの?」
彼女が、いちばん仲のいい友達にすら"自分の名前"を呼ばせていなかったからだ。
そういう意味の質問だったのに、市瀬さんはかれーにむしして、ななめ十一度くらいから答えを放ってきた。
「なんか、いい加減むずむずする。たにんぎょーぎかっつーの。わたしは康介って呼んでるのに」
…………あれ? そういえば、市瀬さんは、ぼく以外のクラスメートの"名前"、ちゃんと呼んでたっけ?
去年から、同じクラスだけど。よく話すようになったのは今年からだから、実はあんまり覚えてない。
でも、この予想が当たっていたとしたら。
ぼくは、この子にとって、
市瀬さんにとって、
朱里、にとって「とくべつ、だから」
そう、なのかあ。
「最初の作文、すごくよかったって、うそじゃなくて言ってくれたから。算数、わかんないの、いつも教えてくれるから。痣のこと、だまっててくれたから。母さんのこと知っても、無視しなかったから。お祭り、さそってくれたから。くまさん、プレゼントしてくれたから。いっしょに花火できたから」
そんな、暗いしぼくの気のせいかもしれないけどなんか赤くなりながら、さらにぬいぐるみぎゅーしながら言われても、さあ。
「だから、ね、いいの。じゅりでいい。じゅりがいい」
もしかして、御子神くんたちがからかってたのって。
知らなかったわからなかったことが見て見ぬふりしてたことが、だばだばくずれ落ちてった中から見つかって、いつのまにかもう家の前にも着いちゃってて、「うん、わかった、じゅ」門から出てきた朱里そっくりの女の人がなんかめちゃくちゃ怒りながら泣きながら朱里の腕をらんぼうにつかんで引っ張ってって、やだとか痛いとか助けてとか言われたけどだってどうしたらいいかわかんなかったからなんもできなくていえなくてこわくて
「×××××××、××××、×××××××!」
そっくりさんが喚いた。視界のはしに小さな男の子が見えた気がした。
気づけば僕は逃げ出していた。走って走って、夢中であの坂を駆け下りて、途中で足がもつれて転んだりもした。夜のアスファルトはちゃんと冷たい。星が見える。わりと満天のが見える。本物だ。殴られるときに見えるやつじゃない。
作文がよかったのは、本当だよ。
たしかにいつも算数教えてたけど、脚の痣のこともだれにも言わないで黙ってたけど、そっくりさんのことを知ってもいじめに加担しなかったけど、それは多分、きみが僕にすこし似ていたから。それだけだ。祭りに誘ったのも、あんなに射的を頑張ったのも。
「…………うっ、わーーーーーーー、かるい!」
すっごく、軽くて小さくてスカスカだと思う。ぼくの、とくべつ、は。きみのとくべつと並べるにはあんまりにおそれおおいです。
御子神くんの言うとおり、ぼくの脳みそって花でもさいてんじゃないのか。だから栄養吸いとられて真剣になれないしばこーんとかばしーんとかだらだらの痛みも感じないし、背ばっかり伸びてくんだ。ちょうわらえるう。
アスファルトに寝転がったまま、泣きながら笑った。五分後くらいにはそれにも疲れて、蚊が集まってくるのも癪だったのでふつうに起き上がって家路についた。
そして、それから夏休みが終わるまでの間。自由参加のプールにも、登校日の教室にも、朱里は一度も来なかった。
始業式の日、蒸し暑い体育館の中で、朱里は長袖のシャツを着て列にならんでいた。
♪
あの日、朱里が母親を階段から突き落としたらしいということは、ほどなくして風の噂となり、僕の耳にも届いた。その行為に至った動機にかなりの心当たりもあるため、なんとなく気まずいまま、彼女とはほとんど話せないまま時が過ぎ、四年生に進級した。それから中学に上がるまで、同じクラスになることはなかった。
佳澄と朱里がつるむようになって、じつはけっこう安心していた、だなんて。言える立場ですらないと思う。
四年生になってからずっと、僕は佳澄と同じクラスだ。なので、彼女の名字が漢字三文字だった時代も知っている。
……となりの席のさいおんじさんは、わりとへびーないじめられっ子でした。
と、うん。頭の奥で埃をかぶっている日記帳にも記されているし。
わざと足を引っかけられるとか、大人の目が届かない場所で叩かれる、蹴られるとかは基本中の基本である。教科書やノートを破かれたり、隠されたり、机に虫の死骸を入れられたり、突き飛ばされたり。水泳の自由時間に、ふざけて溺れさせられそうになっていたこともある。人命に関わることなので、そこでいじめっ子がようやくしっぺ返しを受け、ヘビーな日々は落ち着きを取り戻すようになっていった。それでもしばらくはねちねちねばねばと嫌がらせがつづいていたけど、ある日ぴたっと、それもなくなったんだよな。
彼女は無反応を貫いていたものの、それなりに辛かったんじゃないかなと思う。横顔が、あんまりにも朱里に似ているんだもの。
これは神様が与えてくれたチャンスなのかもしれないと、当時の僕は考えていた。つぐないとか、そういう類いの。だからさりげなく、本当にさりげなくを心がけて、佳澄を陰から助けつづけていた。いつか、彼女のほんとうの支えとなる存在が現れますように、心の居場所が見つかりますようにと、祈りながら。気づけば、御子神もそこに加わっていた。
ぼんやりと、どこか遠くを見つめているその目に、僕のことなんて見えていなくていい。もし見えてしまったら、僕はまたきっと、同じ間違いを繰り返してしまうだろうから。軽い、薄っぺらい気持ちで、また。
…………なーんて。
そんな願いはいとも容易く自ら砕いてしまいましたけれども。
僕は、勝手に深入りを始めて、勝手に責任を感じているのだ。朱里のことも、佳澄のことも。そうすることが、いざというときに使える逃げ道や穴になりうると、知っているから。
「さむぞらの下でもアイスっておいしー!」
コンビニ前。隣で、今しがた買ったばかりのアイス大福をかじっている佳澄の笑顔を見やりながら、回想を強制終了させる。二個もいらないと言われたので、僕も手づかみで片割れの大福を食べた。そういや、たまに給食のデザートに出てくるっけ、これ。溶けていないとこんな食感なのか。
そっすねー、おいしーっすねー、などと宣いながら、のこりを頬張り、べっしべしと指先に残る粉をはらった。佳澄が食べおわったら手を洗いに行こう。
「ねーねーこーちゃん」
「何かねみっちゃん」
僕は寧々子ちゃんでも猫ちゃんでもないし、佳澄だって金見ちゃんでも眠っちゃんでもない。というのもどうでもいい。
「気になってたんだけどさー、いつも腕につけてるそれ、なぁに? だれがつくったの?」
無邪気なその質問に、反射で「おめーだっぺさ」なんて回答しそうになったけれど、ぐぐぐっ、とこらえる。
彼女が指差したのは、去年から右腕につけている、ミサンガだ。文化祭のとき、手芸部が企画したキャンペーンのようなものの景品である。
結論、これを作ったのは以前の佳澄だ。休み時間に教室の自席で編んでいたのを見たので、九割九分間違いない。色の組み合わせもかなり特徴的だし。
「さっきのたいせつさんの、そのまたたいせつさんが作ったんだよ」
「…………その人、生きてる?」
捉え方によるだろうけど、活きていることは確かじゃないだろうか。という意を込めて頷いておく。
「ふうん」
結局興味があるのかないのか、そもそもその対象すらも曖昧な無表情で、ごっどはんどを封印されし彼女はゴミ箱へ、アイスの空容器その他を押し込みにいく。
そのあとは二人で仲良く洗ったおててを繋いで、適当に散歩して、その辺の家の番犬やら放し飼いの猫やらにちょっかいを出したりして時間をつぶしていた。年老いた遊具と枯れ草しかない、寂れた児童公園にたどり着くと、佳澄はベンチに腰かけるなり、僕の膝をまくらにして眠っちゃんとなってしまった。
事件以来、よく眠るようになった。悪夢も頻繁に見るらしく、僕も何度かあやしたことがあるくらいだ。
この子は、本当は、いろんなことを無意識の底でわかっているんじゃないかなあ、と。死んだように安らかな寝顔を眺めながら、考える。町を歩いていると時おり、その景色を捉える目の奥に、どうしても滲むものがあるから。
深いところにある薄皮一枚をぺろーんと剥いだら、この子は一体どうなってしまうんだろう。素直に生まれる好奇心と悪意は、思春期ゆえの正常な歪みであると、信じている。もちろん、行動に移さない理性や責任感も同程度に育てているつもりだから、表面には出さない。
でも、矛先を自身に向けることなら造作なくできてしまう。そちらの理性や責任感は、うまく育てられなかった人種ですゆえ。
きみは、死にたいって思ったことがある?
たぶん、これからどんどん増えるだろうね。佳澄の記憶が戻ろうが戻るまいが。
だって、自分がかわいいから。自分で首を絞めている自分が、大好きだから。苦しむことで、安心できるから。
結局はそこに、行き着くのだ。
そうだよなにが悪い。厚さもわからない雲の上の青空より、目の前のどしゃ降り。根拠のない幸福より、根拠ある不幸。不確かな未来よりは確かな今この瞬間で、移ろう今よりは揺るぎない過去で。その程度なんて他人と比較しても意味がない。
……ああ、そうか、僕は僕なりに、朱里と佳澄の苦しみを知りたいだけなのかもしれないな。
いろいろとすっ飛ばしているような気がするけど、その過程が僕の無意識の意識であり、結果なのだからもうどうしようもない。
「つくづくバカだなと思うよ」
よーしよし、と柔らかい髪を撫でながら呟く。さみしい青空を見上げて、まぶたを閉じる。
「だから、どうせバカなら、バカを極めちゃおうかと思うんだけど、どうかな」
たとえば、そう。
過去をなかったことにして、壊してしまう。
今、赤い残像の中で透き通っていく、その無邪気な笑顔を、意思をもって消し飛ばす。
消えろ。
消えろ。
きえろきえろきえろきえろきえろきえろきえろきえろきえろきえろき、得て、獲ろ、選るんだ。なにを、だれが? どうやって?
「う、
「こーちゃん、また泣いてる」
ほんの一部だけなら、心を殺すことなんて、ものすっごくかんたんだった。
少なくとも、僕にとっては。
「泣いてないよ」
「つよがりさんだねえ」
淡く白い息を吐いて、その曇りない目をなぜか潤ませながら、僕の頬に手を伸ばす。
「我慢しないで泣けるのはいいことだって、おかーさんが言ってたよ」
なんの変哲もない彼女のひとことで、張りつめていた何かが、ぷっつりと、切れてしまった。
「…………いいこいいこ」
もう、謝るのはやめにしよう。責任とか感じるのもやめにしよう。バカのまんまでいよう。
とくべつの隣にいつづけよう。
どうせ死ぬのに生きる理由を、死ぬまで毎日作りつづけよう。
だからどうか、彼女も天使のままでいられますように。まっすぐに優しくて、明るくて、静かな場所へ行き着けますように。もう二度と、あたたかい笑顔が傷つけられませんように。そんな天使のままでいられますように。
その日から、たった一週間弱のあいだ、どうにもこうにも、涙が止められなかった。
僕も、まだしばらくは、曇り空の下を歩いていたい。
しょう来のゆめ 市のせ 朱里
大きくなったら、わたしはふつうのおとなになりたいです。
常しきがあって、そこそこやさしくて、うるさくなくて、どこかしずかな町で、まじめにはたらきながら一人でのんびりとくらす、そんなふつうのおとなになりたいです。
それ以外、なにものぞみません。
だれかが天使になったあとのお話
『やさしいはつこいのころしかた』 完