ダーク・ファンタジー小説
- Re: あなたが天使になる日 ( No.4 )
- 日時: 2019/07/03 21:49
- 名前: 厳島やよい (ID: bKUz3PZj)
2『そのまま、泣いていたかった』
部活だけ休んで、授業にはきちんと出席しておこう。そう考えた日の夜から一歩も外に出ることのないまま、週末を挟み約八十四時間が経過した。
どうも体調が悪い。長引く微熱と頭痛、ご飯は食べてもだいたい吐き戻してしまうし、夜は何度も目が覚めるし、朝方、ようやくゆっくり休めたと思えばすぐに昼前。そのくりかえしで、とても登校できる状態ではなかった。
かかりつけの診療所でみてもらおうかとも考えたが、このような田舎町で、そのために自転車やバスに乗るのは正直、億劫である。きっと良くなる、と、自分自身を励ますように信じ、良くなったら診療所に行こうと考え、ひたすら休みつづけて今日に至る。
朝に学校へ連絡を入れてから数時間の睡眠をとり、居間でレトルトの卵がゆを少しずつ胃に流し込んでいると、横で固定電話が鳴った。学校からだろうか、不登校になりかけていると勘違いされているのかもしれない。そう思いながらディスプレイの番号を確認すると、予想外の相手が表示されていた。
四年ほど前に母と離婚し、この家を出ていった父──西園寺マモルの、携帯電話からだ。
「もしもし【みっちゃん】? 百馨──お母さんから聞いたよ、最近具合悪いんだって?」
最後に声を聞いた半年前と、なんら様子は変わっていないようだった。
家に行ってもいいかときかれ、とくに断る理由もなかったので、いいよと答えておいた。
「途中でコンビニでも寄ってくけど、何か買っていこうか」
「あー……うん」
職場の最寄り駅にでもいるのだろうか。うしろからアナウンスや改札の音が絶え間なく聞こえる。わたしの住んでいるマンションの徒歩五分圏内にある駅は、ほぼ無人のそれなので、想像するだけで頭痛が悪化しそうだ。
とりあえずスポーツドリンクを注文して、早々に受話器を置く。べつに、父のことが嫌いなわけではない。もともと電話は苦手なのだ。
彼がこのマンションにやって来るまでの二時間弱、おかゆを完食してからは、居間のソファの上でまどろみながら待っていた。
まぬけに音の外れた呼び鈴が鳴って、目が覚めた。玄関の扉を開けると、ひさしぶりの新鮮な外気が、やさしく全身へ流れ込んできた。
通路に立っていた父は、思っていたよりも背丈が高い。はて、こんなに身長差があっただろうか。それともわたしのほうが縮んでしまったのか。
「合鍵持ってるんでしょう。勝手に入っていいのに」
「年頃ですから、気は遣いますよ」
「それはどうも、ありがとう」
何やら頼んでもいないものまで買ってきたらしく、両手にいっぱいの袋を提げていた。とりあえず、部屋に上がってもらう。
「やーっぱり。冷蔵庫、すっからかんじゃん」
文字通り空っぽの冷蔵庫に顔を突っ込んで、父が言った。いつもならわたしが買い物をしているけど、こんな状態だし、仕方がない。
とりあえず飲みなよ、と渡されたスポーツドリンクに少しずつ口をつけながら、隣で彼の作業を眺めた。
「まだお母さんと連絡取ってたんだね」
「ほとんど俺のほうから一方的にだけど、だいたい月に一・二回はメールしてる。会って食事とかはずうっとないよ。お互いにそれは無理だし」
「そう」
今日はきっと、わざわざ仕事を早く切り上げて来てくれたのだろう。実家で親の面倒をみながら働いて、それだけでも毎日大変なのに、迷惑をかけてしまったな。
「おとといの夜、【みっちゃん】元気にしてるー? ってきいたら、風邪でもひいたみたい、って返ってきてさ。まさかと思って、今朝もきいてみたら、まだ具合悪そうって言うし。小さい頃から滅多にそんなこと無かっただろ、だから心配になっちゃって」
「バカは風邪引かないって言いますからねー」
「【みっちゃん】はバカじゃないよ」
半分冗談のつもりだったのだが、父は手を止め、わたしの目をまっすぐ見て言った。
「みっちゃんは、バカじゃないよ。優しくて、賢くて、かわいい、自慢の娘なんだから」
あんまり彼が真面目に言うものだから、なんだか悲しくなってきてしまった。こんなことでしか悲しみを感じられない自分が、またひどく悲しい。
「学校で、何かあったんじゃないのか?」
やっぱりわたしは、この人の、娘でありたかったなと。
そんな仕方のないことを考えてしまう。
- Re: あなたが天使になる日 ( No.5 )
- 日時: 2019/07/06 00:44
- 名前: 厳島やよい (ID: 4l3rs7gO)
母は、昔からわたしに関心がない。
わたしがうまれた時点で、母はわたしを、自分の子だと、まったく認識できていなかったらしい。そのせいか育児放棄に近いような扱いも受け、父や彼の両親に世話をしてもらうことがほとんどだった。わたしの好きな食べ物も、きらいな食べ物も、学校での成績も、友人関係さえ、母はきちんとわかっていないんじゃないだろうか。
祖母と祖父は、いろいろなことを教えてくれた。手芸が好きになったのは間違いなく祖母の影響だし、祖父とはよく、いっしょにピアノも弾いた。
できたてのご飯を、みんなで揃って食べる夕方。楽しいおしゃべり。笑顔。父の実家は、温かかった。
けれども、小学生になったころから、祖父の認知症が始まった。わたしの歳を忘れ、名前を忘れ、そしてついに、存在すら忘れられてしまった。彼の記憶から始めて消えた人間が、わたしだった。
知らない子どもが家にいる、と騒ぎを起こされて以来、あの家には帰っていない。子どもながらにショックを受けたのだろうか。わたしに心底怯えていた祖父の表情を、ゆうべのことのようにはっきり思い出せる。
わたしの帰る場所は、母がいる、このマンションの一室だけになった。
子どものわたしと仕事に打ち込む母の生活リズムは、到底合うはずがなかった。もしかしたら、今までより少しは親子同士らしく暮らせるんじゃないかと。そんな甘く淡く抱いた期待も、当然叶うことなどない。きっとあの人の目には、今でもわたしが他人に見えているのだろう。父に対しての態度も、限りなくそれに近いものがあったから。
やがてわたし自身も、母のことを赤の他人のように思いはじめた。
そうして、四年生になって。両親がある日突然、離婚した。学校から帰ってくると、父の痕跡が、家の中から消えていた。ごっそりと、跡形もなく。わたしのいないところで、すべてが勝手に決まってしまったのだ。どうして、と母を問いただしても、何も答えてはくれなかった。
ふたりが別れを選んだ、ということに口を出すつもりはない。相応の事情が、理由があってそうなったのだろうということは理解できる。彼らのあいだで何事も起きていないわけなんて、ないのだから。
でも、わたしは父についていきたかった。彼が実家に帰ることがなければ。親権を勝ち取ることができていれば。ふたりで、暮らしたかった。
関心も興味も持ってくれないくせに、愛してなんてくれないくせに、どうしてあの人は、わたしを手放してさえくれなかったのだろう。
…………そしてこういうとき、娘が唯一の友人を亡くしただなんて知ったとき、普通の家庭なら、母親は娘になんと声をかけてくれるものなのだろう。それが少しもわからないわたしは、がむしゃらに、父へ助けを求めることしかできなかった。
「なんか最近、変なの、わたし。自分の感情がよくわからない。朱里がいなくなってもちっとも悲しくならなかった、何日も泣けなかった。泣いても泣いた気がしなかった、悲しめてる気がしなかった。ねえお父さん、わたし変になっちゃったのかな、もとから頭おかしいのかな、なんで、ねえなんで、なんでっ、だ、あああああもう意味わかんない!!」
十四年間、心の中で何かを抑えていたストッパーが、どこかへ飛んでいってしまったのかもしれない。
めちゃくちゃに泣きながら、怒りながら、血が出てくるくらい頭をかきむしるわたしがいる。差しのべられた手に爪を立てて、引き裂こうとしたわたしがいる。声にならない父の声が、どこかから聞こえた。
痛い、のかなあ。痛いんだろうなあ。わたしにはわからないや。
自分で言うのもおかしいかもしれないけど、クラスメートたちの言うとおり、相当イカれているなと思った。彼らが今の状態のわたしを見たら、どんな反応をするんだろうか。早朝駅前、カラスが、放置された汚ならしい吐瀉物をつついているのを見てしまったときみたいな、あんなひどい顔をするだろうか。いや、もはや呆れて見下して、二度と視界にすら入れてもらえないに違いない。少なくとも自分ならそうする。
「【みっちゃん】はおかしくないよ。今、ちゃんと泣けてるから、怒れてるから」
それでも父は、そんなわたしを否定しなかった。拒絶しなかった。親に抱きしめられるなんて、何年ぶりのことだろう。
息が切れる。暑いし、熱い。言葉が、喉の奥からずるりと抜け落ちていく。
苦しい。
くるしい。
朱里が消えてしまった世界で、何もきかずともわたしを認め、受け入れてくれるのは、もう彼しかいないのだと。
現実を思い知った。
「君はもうちょっと、ひとを頼りなさいな」
- Re: あなたが天使になる日 ( No.6 )
- 日時: 2019/07/08 00:40
- 名前: 厳島やよい (ID: 9Zr7Ikip)
*
「そっ、か、学校の友だちが……。ジュリちゃん、だっけ?」
ソファの上で、父が買ってきてくれたアイスクリームをつつきながら、頷く。少しの量でもエネルギーを補給できるから、と渡されたので食べてみたら、何やら異様においしくて、催すこともなかったのだ。
そうしてわたしはあっさりと落ち着き、ことの次第を話すことができた。
慰めも同情もいらないから、ただわたしのひとりごとだと思って聞いていてほしい。そう念を押し、この一・二週間ほどで起きたできごとを話した。ゆっくりと、自分なりに、丁寧に。彼は真剣に耳を傾けてくれた。おかげでだいぶ、頭の中の整理がついた気がする。
「そう、市瀬朱里。同じ小学校だったんだけど、知り合ったのは、中学に上がってからで。一年生から同じ組なの」
「なるほど」
「うん」
「いち、のせ……」
机を挟んで向かい、マットの上に座っている彼が、口の中であめ玉でも転がすみたいに小さく繰り返す。まさか知っているのではとも思ったけれど、それほど珍しい苗字でもあるまい。たぶん。
「どうかした?」
「いや、何でもない。話してくれてありがとうね。ミルクティー淹れるけど、飲む?」
お礼を言いたいのは、こちらのほうなのに。わたしが口を開きかけると、父は黙って首を振った。
「……甘いのが飲みたい」
やがて静かに立ち上がり、隣の台所へ向かっていく彼の姿は、四年もここに住んでいないのが嘘のように、部屋の景色によく馴染んでいた。それは喜ぶべきことなのか、憂うべきことなのか、ぼんやりとテレビ番組を観ながら考えても、今の頭では正答を導き出せそうにない。少なくとも、父自身が懐かしんでいるような様子は見られない、とはわかるのだけど。
戸棚の上のほうから封を切っていない蜂蜜瓶が出てきたらしく、できあがったミルクティーに、スプーンで垂らしているのが見える。
「そういや、ちょっと前まですごく暖かかったのに、急に寒くなったよなー。今年は異常気象だって、ニュースで言ってたよ。体調がおかしくなるのも、無理ないのかもね」
「そんなに寒い? 別に、平気だけど」
「……俺も年取ったかな」
「いやいや取らないほうが怖いって、もうわたし、十四なんだから」
「でもお母さんはずっと若いでしょー」
あの仕事中毒者と比べるのがそもそも間違いじゃないの。そう言うのも無駄なように思えて、言葉を飲み込む。
湯気のあがるマグカップを両手に、父が戻ってきた。ミルクティーはいい具合に甘ったるく出来上がっていて、自然と頬がほころんでしまったけれど、心からは笑えない。何に対してのものなのかもわからない罪悪感と嫌悪が、邪魔をしてくる。
「ごめんね、おとうさん」
ただでさえ表情の乏しいわたしが、喜びと、父に対する感謝と、迷惑をかけてしまった謝罪をうまく伝えられていたか、自信がない。それでも彼は、気なんて遣わなくていいのだと、笑ってくれた。
溜まっていた洗い物をわたしがだらだらと片付けている間に、夜の分の食事を父に用意してもらい、それからわたしの将来、つまりは進路のことについて、軽く考えを伝えたりアドバイスをもらったりした。
その流れで父の学生時代の話を聞いていると、腕時計を見やりながら、そろそろ家を出なければならないのだと告げられた。わけはたずねなかったけれど、老人施設に寄らないといけないとか、そういう類いのことだろうと思う。
「みっちゃん」
「なに?」
薄暗い玄関で、靴を履いた父が振り返る。なぜかもう、それほど身長差を感じられなくなっていた。
「ジュリちゃんのところ、いつかちゃんと、行ってあげなよ」
「うん」
だれに言われなくとも、そうするつもりだ。なんて、言い返しておきたいところだけど、それにはまだまだ時間がかかるかもしれない。人間は、物事を認識するために使う場所と、受容するために使う場所が異なるから。
微笑む彼に、じゃあ気を付けてと、手を振ろうとしたら、それよりも一歩早く、向こうが頭を下げてきた。
「それと、これは俺のエゴなのかもしれないけど。今までもっと【みっちゃん】に、会いにくるべきだったって思った、ごめん。今さら気づいた。俺、まじで親も夫も失格だわ、はは」
何を言っているんだろう、この人は。
返す言葉がみつからない。少し見ないうちに白髪が増えたなーとか、外でぼやけている灯油の移動販売の音声に、もうそんな季節なのかーと思ったりだとか、そんなどうでもいい思考ばかりが脳内で発生して、反響している。
「お父さん、」
「ちゃんと休んで、あったかい飯食べて、早く元気になってよ。じゃあな」
やっと理解が追い越した頃には、もう遅かった。引き留める間もなく扉は閉まり、足音がどんどん遠ざかる。彼を追いかけてはならないような気がして、ただ、玄関で立ち尽くすことしかできなかった。
頭のてっぺんに、手のひらの温もりと、重みが残っている。もう二度と、あの人はここに帰ってこないのかもしれない。なんとなく、そう思った。
エレベーターの中で、父がひとり、静かに涙を流していたなんて、わたしは知るよしもない。