ダーク・ファンタジー小説
- Re: あなたが天使になる日 ( No.7 )
- 日時: 2019/07/10 00:25
- 名前: 厳島やよい (ID: wV8I5RC6)
3『きみがふれた光』
「ねえ【???】、死にたいって、思ったことある?」
一年生の、五月が終わるころだったと思う。放課後、慣れない委員会の仕事に追われてひとり、教室に残っていると、朱里が現れた。
席の前に立たれ、顔を見て自分の名前を呼ばれても、その質問がわたしに投げ掛けられたものだとはしばらく理解できなかった。クラスにうまく馴染めず浮いていたために、それまでほとんど、人と話したことがなかったせいかもしれない。
「死にたいって、思ったこと、ある?」
ぽかんと口を開けたまま、陰を帯びる朱里の顔を見ていたのだけど、彼女は決してわたしを急かしたりせず、静かに待ってくれた。
「………………ごめんなさい、わかりません」
「へ?」
今度は、朱里がわたしと同じ表情になる。あのときには理由が分からなかったけど、当然のことだ。
だれにだって、悩みのひとつやふたつはあるだろう。それ故に、そういうことを考える人だって現れる。行動に移してしまう人だって、世の中には存在する。考えないのなら考えないで、それに越したことはないのだし、はっきり、ないと答えたって良いわけだ。
「わかんないってことはないでしょう、あるか無いかって、二択できいてるんだけど」
困ったように苦笑されてしまった。わからないものはわからないのだから仕方ない。
その意図ははかりかねるが、彼女の質問に答えるため、約十三年分の記憶を大雑把に掘り起こし、そこに『死にたい』があるかどうか、これでも順に探してはみた。もちろん、今まで色々なことが起こったし、それこそ『死にたい』と考えたとしても仕方のないような出来事だってある。でも、それがはたして『死にたい』に当てはまるのかどうか、わたしにはわからなかったのだ。
そのようなことを一生懸命に説明していると、朱里は苦笑いから一転して、いまにも泣きそうな、けれどもどこか、羨ましいものを見るような表情に変わっていた。
「そっか、そうかー。うん、いいよ、わからなくても」
よくわからないけど、どうやら納得してくれたらしい。
彼女は、うんうん、と頷きながら、わたしの隣の席に座った。もちろんそこは朱里の席ではない。
「いやー、さっきまで相談室で遊んでたんだけどさ、なんか急に、すっごく死にたいなーって思って。そしたら声に出ちゃったんだよね。いっしょにオセロしてた相手がいきなりそんなこと言ったら、いくらカウンセラーでもそりゃ驚くわ」
「もしかして、それで部屋を飛び出してきた……とか」
「当たりぃ、なんでわかったの?」
「まあ、なんとなく、です」
不意に、グラウンドからの掛け声や楽器の音色が途切れ、辺りが静まりかえった。
やわらかい、ぬるい風が頬に触れる。慌ただしい春は過ぎて、もう、衣替えの季節だ。窓も、教室の前後の扉も開けはなしてある。
クラスメートのほとんどが夏服に切り替えていくので、わたしも先週夏服をおろしたのだけど、朱里だけはまだ、クラスの中でも冬服のままだった。白いブラウス姿たちの中にいる黒いブレザーの彼女は、想像以上によく目立つ。暑くないのだろうか。
「あのさ、【???】」
ぼんやりとその手元を眺めてから、すっかり忘れていた作業を再開しようと机に向き直ると、妙にはっきりとした声で名前を呼ばれた。わたしは自分の名前が嫌いだから、そんなに発音を強調されると、胃がむかついてくる。
「なんでしょうか」
「その、なーんか堅苦しい話し方、やめてくれると嬉しいな」
まさかそんなことを言われるとは予想もしていなかったので、申し訳なく思うより先に、びっくりして吐き気が引っこんでいってしまった。
「あ、ごめんなさい、悪気はないの」
「謝らなくていいし、謝るなら"ごめん"にして」
「ご、ごめん。話したこと、なかったから」
「いーっていーって。 …………ねえ、これからわたしのこと、アカリ、って呼んでくれない?」
「え? ジュリちゃんじゃなかったっけ。市瀬じゅ──」
「いいから、アカリ。ちゃん付けもなし。わかった?」
「……わかった」
「うむ、そんなら、よし」
そういえば、クラスメートからはいつも、アカリ、と呼ばれていたっけ。
一瞬、朱里も自身の名前が嫌いなのだろうかと期待してしまった自分が、とても恥ずかしい。まあ、ふつう、親がつけた名前を真面目に嫌うような子なんて、いないんだろうな。
それから、朱里がクラスの男子にいじめられているのだと気づくのに、大して時間はかからなかった。
給食の配膳のとき、彼女の苦手なメニューだけ多く盛りつけられる。教室掃除が終わったとき、彼女の席の椅子だけが机から下ろされない。廊下でぶつかってしまったとき、砂でも擦りつけられたかのように大げさに腕をはたく。かと思えば、技術の授業中、彼女の足にわざと木材をぶつけていたり。遠巻きに見ている限りでも、たちの悪い嫌がらせは日常茶飯事に行われていた。
クラスで浮いているわたしとつるんでいるのを不満に思って、などというわかりやすい理由ではないらしい。そもそもわたしのことなど眼中にないし。
周囲の生徒の噂話から察するに、小学生の頃からいじめは始まっていたようだ。当時の彼女は明るくおてんばで、いつもクラスの中心にいるような人気者だった。しかしある日、彼女の親についての噂が教室に持ち込まれてから、一部の男子児童が朱里をいじめるようになったというのだ。
今からおよそ三十年ほど前にこの地域で設立された、ある新興宗教団体に、彼女の親が入信している。真偽はどうであれ、そんな、くだらない噂。
これまで数人の生徒が朱里と距離を置くことを選んだようだが、彼女をいじめている男子生徒に加担する様子は見受けられない。いじめがひどくなることはなく、かと言って収まる気配もないのが、現状であった。
わたしの、その宗教団体についての知識は、勧誘がしつこいらしいという程度だ。セキュリティの厳しいマンションに住んでいるおかげか、運よく一度も勧誘を受けたことはないし、そもそも母娘ともに興味がない。そのため、中途半端な偏見を持たずに済んでいる。
「ねえ【???】、いっしょに帰ろうよ」
ホームルームを終え、席で荷物をまとめていると、かばんを背負った朱里がやって来て、声をかけられた。
いまは彼女の滑舌の良さにうんざりする気持ちより、何年ぶりかに言われた「いっしょに帰ろう」への感慨のほうが大きい。
「お誘いは嬉しいんだけど、わたし、きょうは手芸部があって」
「へえ、部活入ってたんだ」
「アカリは入ってないの?」
「まあ、うん。テニスか吹奏楽か、美術に入りたかったんだけど、迷ってるうちにタイミング逃しちゃった」
「文化部なら、今からでも全然間に合うと思うよ。見学に行ってみたら?」
「…………う、うーーーーーん」
軽い気持ちで見学をすすめただけなのに、固く腕を組んで唸られてしまった。放っておいたらそのまま石像にでもなってしまいそうだ。
ここ最近、生徒指導の先生に注意されてブレザーの着用はやめたようだが、ブラウスは長袖のままだった。組まれた腕に、皺がきつく重なりあっていく。
「ごめん、強要するつもりはないから。じゃあわたし、行くね」
「あがー、ちょーっと待った! 手芸部、手芸部見にいきたいです! 【???】と!」
ぐいいいん、と鞄を引っ張られた。
運動部なら軟式テニスが気になっていた、という朱里が、まさか手芸部に興味を示すとは。
「いいけど、え、いいの?」
*
正直、彼女には物足りないのではないかと勝手に考えていたけれど、がっつり心を掴まれてしまったらしい。部員とも、顧問の斎藤先生ともあっという間に打ち解けているし、初めて手芸に手を出したとは思えないほどの器用さには、わたしも驚かされた。
案の定、上級生と顧問に強く入部をすすめられていて、朱里も嬉しそうだった。
「もう、明日からでも入っちゃったら? そうしたら、わたしたちもアカリも、ウィンウィンの万々歳でしょ」
帰り道、朱里はわたしの隣を歩きながら、半ば強制的に持たされた入部届けの用紙を、じっと眺めていた。
ただでさえ活動部員が少ないのだから、ひとり増えたところで誰も困りはしない。むしろ、廃部の危機が遠ざかって喜ぶだろう。
「そうだね、親に話してみるよ。手芸、やりたいもん」
まぶしいほどの笑顔で頷いてくれた彼女は、それから三日間、風邪をひいたといって学校を休んだ。
- Re: あなたが天使になる日 ( No.8 )
- 日時: 2019/07/13 06:41
- 名前: 厳島やよい (ID: XVANaOes)
「えぇっ! 入れないの?!」
「すみません、親が許してくれなかったんです」
放課後、野暮用を済ませてから被服室に向かうと、入り口近くの廊下に、斎藤先生と、きょうも欠席していたはずの朱里の姿があった。
「アカリ、具合はもう平気なの?」
わたしの声で、先生に頭を下げていた彼女が驚いたように目を見開いた。
顔色は疲れきっているように悪くて、いつも目元にうっすらと浮かんでいるクマも、こころなしか濃く見える。大丈夫と言えるような状態でないことは確かだ。
「うん、大丈夫っ、明日からは授業にも出る、から、あ、あーれれ?」
今まさに、しゃがみこんだ朱里の頬へ、涙がぽろぽろと伝い始めていた。
わたしも先生も、思わず駆け寄って、その小さな背中に触れる。彼女は何分か、ただ泣きつづけていたけれど、案外早く落ち着いてくれた。
「ごめん、【???】見たら、ほっとしちゃって」
涙をぬぐいながら、朱里が微笑む。
いつだってやさしい笑顔で、クラスメートからの嫌がらせにも屈しない、わたしとは正反対に明るい彼女が、目の前で幼い子どものように泣いていた。人間関係の経験値が飛びぬけて低いわたしでも、それはただごとではない出来事のように思えて、
「どうしたの? 絶対何かあったでしょう、この三日間」
勝手に口が、動いていた。
先生は、被服室に部員が集まっていることを確認すると、先に活動を始めるよう部長へ促し、しずかに扉を閉めた。
幸い、こちらのほうはただでさえ人通りが少ないし、向かいの調理室で活動している料理部は、きょうは休みらしい。声量さえ落とせば、気兼ねなく話ができる場所だ。
「【???】は知ってるかもだけど、わたしの母親、ちょっと、アレな人でして」
「なにかの宗教に入信してる、とは聞いたことがあるけど」
「その宗教に、のめりこんじゃってやばいの。父親が呆れて家を出てったくらいだから」
「お父さんが?」
「うん。離婚はしてないけど、今はアパートでひとり暮らし」
「そう、だったんだ」
まばたきをした一瞬、父の後ろ姿が、この目に見えたような気がした。小さな黒いスーツケースを引いてマンションから出ていく、彼の後ろ姿が。
「何教だろうと熱心になるのは構わないけどさ、その教えを理由に子どもに手をあげるって、やばいよね? 自分の思い通りにならないと騒いだり無視したりするのって、ちょっとおかしいよね?」
「それは、ちょっとどころか結構ヤバいっすね、お母様」
先生が、真顔で呟く。
すこし遅れて、わたしも、朱里の言いたいことがだいたいわかった。
「もしかして、アカリがどこの部活にも入れなかったのって」
「へへ、そういうことです」
長いスカートで隠れる脚から、変色した痣のようなものが覗いている。この予想は、九割九分的中しているだろう。
「ごめんなさい、こんなこと話しても、ふたりを困らせちゃうだけなのに。【 】と斎藤先生なら大丈夫かもって、期待しちゃったから」
思えば、手芸部に入れなくなったのなら、せいぜいわたしに一言くれる程度で構わないのに。朱里は先生に、頭を下げに来ていた。
おねがい、だれか気づいて、話を聞いて、信じて、たすけてと。本当はその一心だったのだと、そんな一縷の望みに賭ける考えしか浮かばなかったのだと、彼女は言っていた。
あの日、もし、わたしと入れ違っていたら。先生が、朱里の異変に気づかなかったとしたら。どうなっていたのだろう。
「困らないよ。強がって隠されるほうが、わたしは悲しいかな」
「そうだよ、市瀬さん。秘密にしておいてほしいなら、担任の先生にもほかの大人にも言わないでおくから、安心して」
「ああああ、ありがとう……でも、どうしよ、家に帰りたくないなあ」
声を震わせ、顔をうずめて丸くなる朱里を見ていると、心であろう場所がちくちくと痛んでくる。
こんな風に痛いからこそ、わたしはいつも、何においても鈍感なふりをしているのだろう。世界と自分の間に透明で厚い壁を作って、ぼんやりと夢の中にいるみたいに。そうしていたら、自分の人生も、だれかの人生も、映画の中で起こっている出来事のようにしか思えなくなってきたのだけど。
そんなわたしは冷たい人間なのだろうなと、小さな頃からよく考えている。今この時も。心に刺さる痛みに、まぶたを閉じようとしているから。
「市瀬さん。帰宅時間が遅くなっても、お母さんに怒られたりはしない?」
「それは、大丈夫です」
「ならさ、帰りたくないときとか、相談室とか図書室が開いていないとき、被服室に来なよ」
「え?」
「そうするには何人かの先生に事情を説明しなくちゃいけないし、部員じゃない扱いになる分、市瀬さんができることは限られると思うけど……少しは、楽になるんじゃないかな」
「いや、え、でもそれって、先生にもみんなにも、」
すごく迷惑かけちゃうんじゃないですか?
朱里がそう言おうとしたのを、斎藤先生は人差し指を立てて、制する。
「こんくらい、屁でもないっつーの。なめんなー」
あのときの先生は、なんだかとても、かっこよく見えた。
朱里は少しの間、なにか言いたそうにうつむいていたけれど、すぐに顔を上げて頷いた。
「……わかりました、お願いします。でも、児相にも警察にも、母さんのことはぜったい、だれにも言わせないでください。それだけは、守ってもらえませんか」
かぼそい声を纏ったその強い意志は、彼女がいなくなった今でも、わたしの記憶の中で生きつづけているように感じている。
これはある種の呪いなのかもしれない。わたしを、斎藤先生を、手芸部のみんなを、これからも縛りつづけるかもしれない呪い。
きっとほとんどの人は、時間が経てば朱里のことなんてきれいに忘れて、呪縛からも解放されるのだろうけど。
少なくとも、自身を呪い殺した朱里のことは、もうだれも自由にしてあげられないのだ。
「もしそうなったら、わたし、あのひとに殺されちゃう」
- Re: あなたが天使になる日 ( No.9 )
- 日時: 2019/07/13 20:07
- 名前: 厳島やよい (ID: fHW109JF)
斎藤先生のおかげで朱里が被服室に通えるようになって、一ヶ月近くが経つ。もう少しで夏休みだ。
手芸部員たちはすんなりと朱里を受け入れてくれた。予想通りどんどん腕をあげていくし、上級生にはかわいがられて、数少ない同級生とも馴染んでいて、部活のときの朱里は、本当に楽しそうだ。
だから、そのうちにわたしなんて彼女の視界から消えてしまうのだろう、と踏んでいたのだけど、わたしたちの距離は縮んでいく一方だった。彼女との秘密のせいというべきか、お陰というべきか。気づけばいつも、隣に朱里がいる。
ほとんど毎日ふたりで下校するようになったし、校外学習のときには同じ班で街をまわった。ふたりだけで、公民館の片隅で試験勉強もしたし、夏休みには、いっしょに町内のお祭りに行く約束だってしている。……そちらについては、彼女の母親の機嫌次第になりそうだけど。
「きょうもわりと『死にたい』一日だったなあ」
小雨の降る帰り道、石ころを蹴りながら、隣の赤い傘の中で呟く声が、聞こえてきた。
もともと手芸部は、朝や休日の活動がない。どんなに多くとも週四日しか稼働しない、校内でも三本の指には入る程度にゆるい部活だ(ゆえに幽霊が増えていく)。
きょうは、そんな楽しい部活がお休みの日なので、『死にたい』に襲われるのも無理はないと思う。
「……そっか」
わたしにも、遠くで三途の川の流れる音が聞こえるけれど、朱里のそれと並べるのは、あまりにも失礼だろう。
石を蹴るのに飽きたのか、彼女はわたしの半歩先で、道端に咲いている青い紫陽花にそっと触れた。雨粒が、指先へきらきら伝っていく。
「ねえねえ、アジサイって、毒持ってんだって。知ってた?」
「知らない。アジサイ好きなの?」
「ううーん、ふつうかな。カスミソウと、あとノイバラが好き。白の」
ちりり、と目蓋が震える。
振り返った朱里に気づかれたくなくて、咄嗟に、あくびするふりでごまかした。
「【 】は、何の花が好き?」
「……花はあんまり好きじゃない」
「ふーん」
珍しいねとは言われなかった。朱里のそういうあっさりした性格が、たとえ表面上のものであったとしても、わたしには心地いい。
もう、十年近く前。保育園の子供たちと先生とで散歩に行ったとき、当時の友人が作ってくれたシロツメクサの冠を怖がって、彼女を泣かせてしまったことがある。周囲には喧嘩だと勘違いされたし、先生から事情を聞いた母にも「女の子なのに」と冷たい目で見られて散々だったっけ。
あの人のことを考えているとわたしまで帰宅拒否症に陥りそうなので、無理矢理にでも歩いた。朱里も後ろから小走りに追いかけてきて、またふたりで並ぶ形になる。
「わたしはね、自分の名前がきらい」
しばらくの沈黙が続いてから、唐突に彼女がそう言ったので、相づちも返すことができなかった。もちろん、驚きは表情に出ないし、出せもしないけれど。
「ジュリって、母親が考えたの。漢字は父親が振ってくれたんだ。
父さんの名前に、紅、って字が入ってるから、赤でお揃いなのは嬉しい。でも、ジュリはきらい。ほんとのほんとは大嫌い。家族の中で、発音濁るのがわたしだけなのも何かいや。だから【 】の名前が羨ましい」
「……名字に濁点があるよ」
やっと出てきたのは、自分でもあきれてしまうような、気の利かない、訳のわからない言葉だった。
「それなら親といっしょじゃん、仲間はずれじゃない」
「羨ましがってくれているのに申し訳ないんだけど、わたしも自分の名前は大嫌いだよ。名字含めて。だから、じゅ──アカリの名前が、わたしには羨ましく思う」
「え、なんでっすか?」
「母親がつけた名前だし、名前負けがひどいから。今の名字は、母の旧姓だから」
「きゅーせー、って…………ああ」
「そういうこと」
足を止めた朱里に、振り返ってこたえる。
お互い、家のことはほとんど自分から話さないので、驚かせてしまうのも無理はない。
「お母さんと、うまくいってないの?」
「いや、うまいもへたも無いというか」
なるほど複雑な感じなんですね、と納得されてしまった。しかし、そもそもあちら様がわたしに関心を持っていないのだ。これほど単純な問題があるだろうか。
「じゃあさー、わたしたち、名前交換しちゃわない? もちろん、二人でいるとき限定で」
徐々に強まっていく雨脚の中、ゆっくり歩き出すと、彼女がまたも唐突に突飛な提案をしてきたので、あやうく自分の傘を落としそうになった。
「こっ、交換?」
「そう! わたしはカスミで、あなたがジュリってことです! お互いに名前を羨ましがってるんだもん、良い考えだと思わない?」
隣に浮かびつづける満面の笑みを見やりながら、確かにそれはいいかもなあ、などと思っているわたしがいた。けれども数秒後、自分の名前をきちんとこの耳が、脳みそが認識したことに気がついて、そんな考えは吹っ飛んでしまった。
「あれ……、気持ち悪くならない」
雨音のおかげで、無意識にこぼれたひとりごとは、朱里の耳へ届かずに済んだらしい。
そっとため息をつき、彼女の提案について考える。
わたしはいつからか、自分の名前に蓋をして生きるようになっていた。だれかに本名を呼ばれるたび、その人がわたしに付けそうなニックネームなんかを考えて、耳の奥で勝手に上書きしていたのだ。時々、蓋が外れそうになったり、うっかりかぶせ忘れてしまうこともある。そんなときは、必ず吐き気や腹痛なんかに襲われる。でも、今は拒否反応がまったく起こらなかった。
名前が自分のものでなくなってしまえば。短い時間でも、誰かのものになってしまえば。この小さな呪いも、そのときだけは効果を失うのかもしれない。
「それ、名案だよ」
だからわたしは、朱里と名前を交換することに決めた。
「へへっ、やったーっ」
"カスミ"が笑いながら跳びはねて、小さな水溜まりでしぶきをあげる。足元が汚れていくのもお構いなしだ。彼女の好きな花と同じ名前になれたからか、その姿がなおさら嬉しそうに映った。わたしも相当気色の悪い顔をしていたであろう。
はたから見れば、これは異常な契約だ。
ほかの人の前では秘密を守ろうねと固く誓い合ってから、いつもの交差点で別れた。
あのときのわたしは、これでわたしも朱里も、少しは生きやすくなるのではないかと思っていた。あまりにも軽い気持ちだったのだ。
朱里を苦しめる要因になろうとは、かけらほども想像していなかった。