ダーク・ファンタジー小説
- Re: 宵と白黒 ( No.24 )
- 日時: 2020/08/30 11:23
- 名前: ライター ◆sjk4CWI3ws (ID: cl9811yw)
第四章 だからこそ
《プロミスド・ユー》
1:花開く時は唐突に
シュゼは、リュゼとレンをみてかすかに笑った。あの様子ならきっと大丈夫だろう、と思う。ちらりと隣にいるトワイに目を向ければ、自然に笑っていて。それがシュゼにとってはとても嬉しいのだ。
軽やかに笑った彼女の手が、もう一度レンに向けて真っ直ぐ差し出された。少しそれを見つめてから、今度こそレンはそっとそれを握る。そのまま彼の身体を引き上げて、レンがほぼ自分とほぼ変わらないくらいの背丈だということに気付いた。彼の顔を正面から見るのは初めてだ。切り揃えられた黒い前髪と、光の少ない髪と同じ色の目。光を吸い込むような色をしている。
「コレ、やるよ」
「え?」
不意にレンは、着ていた黒のウィンドブレーカーを脱いだ。シュゼが唐突の行動の訳を聞く間もなく、彼はそれを彼女の斜め後ろにいたトワイへ放る。
「オレに?」
反射的にそれを受け取って、トワイはぱちぱちと瞬きした。本気で理由が分からないとばかりに首を傾げた彼に、レンは溜息を吐いて、視線を斜め下に投げながら答える。
「オマエ、まぁ僕のせいなんダケど……その、ホラ! シャツ! 破れてるだろ、背中!」
「あ、えと。ありがとう、かな?」
「ソレ、サイズ割と大きめダカラ。お前でも、着レルと思う」
「あ、うん……」
そのなんでもないやり取りに、レンがくしゃりと笑った。その笑みに、思わずシュゼも笑ってしまう。そして、それを頃合と見た少女は、息を吸い込むともう一度尋ねた。
「私たちと……一緒に来ない?」
「僕が、君たちと?」
ふっ、と肩の力が抜かれる。色に溢れる世界へ出ていくことに対する、この僅かな躊躇いはどうしたものか。そんなことを思いながら、レンは空を見上げた。
「あ──────!」
がたがたと体が震え出す。目から何が何だか分からないような涙がこぼれおちる。唐突に泣き出したレンに、シュゼが慌てて声をかけた。
「え、大丈夫…?」
ぼんやりと意識の横で、誰かに呼ばれたような気はした。けれど、それを気にもとめずにレンは空を見つめる。吸い込まれてしまいそうなほどに妖しくて美しい、夕焼け。ざわざわとノイズの如く映像を脳内が走り抜け、無数の断片が揺らぐ。蒼天、夕焼け、緑。
『こんなに…空は、綺麗だったんですね─────華鈴さん。ごめんなさい、格好……悪い、ですね』
己でもわけも分からずに泣きながら、レンは手の甲でぐしゃぐしゃと涙を拭った。
その言葉を聞いた3人が、揃って首を傾げる。それも当然だ、レンは今秋津の言葉で喋ったのだから。
空を見つめたまま、ああそうだ、とレンは思う。どうして忘れていたんだろう、と。忘れていたのか? いや、それにしても微妙におかしいのだ。まるで、記憶と過去に食い違いがあるような。
「レン…………? 大丈夫、なの……?」
不安げにリュゼが歩みよって、今度こそレンはそれに気付いた。ハッとした顔でシュゼの横へ目を移し、幾度も瞬く。ズボンの横でぎゅ、と握られた手が、不意に持ち上がった。いきなりの動きにびっくりして、リュゼが僅かに体を引く。レンの手が肩に置かれて、ぎゅっとその手に力が籠る。
「きみは…………僕二、何ヲしたんダ?」
真っ直ぐに彼女の青い目を見つめて、レンはそう問いかけた。明確に狼狽えつつも、レンからリュゼは目を離さない。とても、とても大事な瞬間であることぐらい分かっているからだ。
シュゼとトワイは、その場から半歩身を引いた。2人も、この場は彼らで解決するべきだという空気をひしひしと感じ取ったからである。
キッと、自分のしたことに責任を負って。リュゼはレンの目を見返した。
「私は、貴方に力を使った。それだけだよ」
「ドウイウ、こと……? 僕に、どうしてもツイテキテほしいんだナ?」
ふっと溜息を吐いてにレンは肩を落とした。リュゼの肩から手を外し、ズボンのポケットに手を突っ込む。何が何だか分からないけど、でも色は見えている。そうだ、ならもう恐れることも躊躇うことも何も無い。理屈なんかの優先順位は低くたって構わない。きっと、華鈴さんならそう言う。
ふわりと笑って、彼は言った。
「良いよ。君たち二ツイテ行こう」
- Re: 宵と白黒【第四章突入!】 ( No.25 )
- 日時: 2020/08/30 20:39
- 名前: ライター ◆sjk4CWI3ws (ID: cl9811yw)
ついて行こう、と言ったレンは改めてシュゼの目を見直した。路地の抜けた先、大通りから滑り込んでくる薄暮の光が彼女の髪をオレンジに染めている。僅かに吹き抜けていった風が、半袖になったレンの体を優しく撫でた。あ、とレンは呟きそうになる。それが、まるで彼女のように思えて。それが、レンの背中を押した。
「貴女の、名前ハ?」
「私はシュゼ・キュラス! こっちが妹の」
「え、と……リュゼ・キュラス、です」
リュゼはそう言って、ふわりと黒髪を揺らして振り返った。後ろにいたトワイは、先程のウィンドブレーカーを抱えたまますこし俯いている。数瞬迷った末に、顔を上げて彼は名乗った。
「トワイ、だ」
「……紺色ノ」
紺色の、と呼ばれたトワイは鳩が豆鉄砲を食らったような顔をした。リュゼとシュゼの方を見て、もう一度視線をレンへ戻す。それを2回程繰り返してから、彼は訂正の言葉を発した。
「トワイだ」
「紺色ノ!」
「トワイだっ!」
唐突に、二人の間へ落ちた奇妙な沈黙が可笑しくて、シュゼは声を上げて笑いだした。レンに襲われてから薄らと漂っていた張り詰めた空気が、一瞬で崩壊していく。リュゼも口元に手を当ててわずかに微笑むと、タイミングを見計らっていたかのようにトワイへと近付いて行く。
「あの、少し良いですか?」
「リュゼ……何?」
リュゼの目を見て、話が長くなりそうだと察したトワイはビルの壁に背を預けた。ウィンドブレーカーが僅かに動き、布同士が擦れ合う音が響く。リュゼはそれを彼の手から取ると、ふわりと広げてトワイへ被せた。若干大きめのそれは彼の体にも合っている。
「ありがと。どうした? なんかあった?」
「約束、して欲しいんです」
不意にリュゼはトワイを睨み、そう言った。何を言っているのか分からないと言った風に、首を傾げた彼へリュゼは笑う。一歩距離を詰めて、きゅっと上目遣いでトワイを見上げた。ショートブーツの底がアスファルトを擦る。
夕日に艷めく今の彼女が、何故か酷く魅力的に見えて、トワイは反射的に目を逸らす。
「もう……死んじゃだめです。それを、約束して欲しいんです、私と」
有無を言わさぬ強靭な意志を秘めた瞳でこちらを見つめて、リュゼはそう言う。その言葉の圧に負け、トワイは視線を戻した。返す言葉が見つからぬとばかりに彼の口が開閉する。
「何で?」
ようやく彼の見つけた言葉は、まるで幼子のような返しだった。だが、口に出した途端それはすとんと彼の胸へと落ちていく。それを聞いてリュゼはぎゅっと拳を握りしめた。俯いて、僅かに震えながら少女は言う。
「嫌なんです。さっきも言ったでしょう? 私は怖いんです! 人が死ぬのも自分が死ぬのも、血が流れるのも! だから、だからどうか………!」
本当に怖い。彼女はそんなことを思う。あの時自分が、力を行使できなければ。あのままトワイの体は冷えてそのまま────ギリギリと歯をかみ締めて、泣くのを堪えながらリュゼは言う。青い目がトワイの目を見て、今度は彼の目が影に隠れた。微かに溜息のような息を吐いて、トワイはそっとリュゼの頭に手を置いた。
「ごめん。オレはさ、曲がりなりにも《宵》って呼ばれるくらい人を殺してきた殺し屋だから。だから、リュゼとその約束はできな───」
自分だけがそんなことは出来ないと。等しく責を負うべきであると、青年はそう言う。
「だからなんだって言うんですか?」
それを否定する酷く冷たい声が、リュゼの口から放たれた。細めた目で真っ直ぐに青年を見つめて、少女は迷いなく肯定する。
「私が助けたのは、《宵》じゃないです。貴方を、助けたんです! それの何がいけないんですか!? もし貴方が! 『トワイ』じゃ無かったとしても、人殺しだとしても、私は─────私が約束して欲しいのは貴方なんです! 私たちに、トワイって名乗った貴方なんです!」
リュゼは、己でも自分の言った言葉が支離滅裂で、論点のすり替えも良いところだと言うことを自覚していた。けれど、それに後悔などなかった。ざぁっと音を立ててビル風が吹き抜けて、街の匂いを運んでくる。
トワイは、目を見開いた。リュゼの言葉が、いつか自分が抱いていたはずの疑問を吹き飛ばしていく。自分は、何者でもないのではないか、と言う疑問を。
そして、ふわりとトワイは笑った。にっこりと、満面の笑みを顔に閃かせて彼は口を開く。
「ありがとう、リュゼ。良いよ、約束してあげる。ほら……早く?」
「え……ほんとに、良いんですか?」
「何言ってんだ? リュゼが持ちかけてきたけいや、もとい約束だよ? ほら!」
「え、あ、はいっ! じゃあ…絶対、死んじゃだめですからね?」
「分かった。約束、な」
笑いあった2人を見て、今まで黙り込んでいたレンがふっと自分の右手に目を落とす。
「タリスクじゃ、指切りッテシナイんだな」
「え?」
隣に立つシュゼが、こてんと首を傾げた。トワイとリュゼもそちらに目を向ける。僅かに笑って、レンは右手の小指を真っ直ぐに伸ばした。
「小指と小指ヲサ、こんな感じで…」
何気無い動作で、そっとシュゼの手をレンは取った。かなり吃驚した顔でシュゼが少年を見るが、それを気にせずにレンは己の小指をシュゼの小指に絡める。ゆっくりそれを持ち上げてトワイとリュゼに見せながら、レンは説明を続けた。
「結ンデ、約束を破らないってコトを誓ウんダ」
「あ、あのね! もう、分かったから……ちょ、ちょっと……指、離してくんない…?」
僅かに頬を染めて、シュゼが明後日の方向を見ながらそう言う。それと同時に、自分が何をしていたかに気付いたらしきレンが慌てて小指を離して飛びずさった。その様子に、くすりとリュゼが笑みを零す。
「わ、悪イ!」
「べ、別に良いよ」
ほんの少しだけ、彼らの間に気まずい空気が流れる。だが、それをかき消すようにシュゼは笑いだした。レンの反応が、それはそれは普通の少年だったからだ。いや、下手するとそこらの男子より初心かもしれないその態度に、シュゼは笑いが止まらない。
一人で相当気まずくなっていたのだろう、レンがトワイとリュゼへ向き直って叫んだ。
「ほ、ホラお前らトットと指切りシタラどーなんだよ!」
「お、おう!」
「え、え!?」
トワイは躊躇いなくリュゼの右手を手に取った。己の手でそっと包み込み、反射的に伸ばされる彼女の細くて白い小指に、指貫グローブを着けた右手の小指を絡める。それを見つめて、トワイは言った。
「約束………か。」
「ええ。約束、です」
もう一度笑いあった二人は、その単語を噛み締めるように息を吐く。
傾きがきつくなり、何も遮るものが無くなったトワイライトは、路地へ真っ直ぐに注ぎ込む。不意に、地面に転がっていた空き缶が転がって金属音を奏でた。残光に照らされる彼らにぼんやりと魅入られていたシュゼは、その音に夢から覚めるように顔を上げる。だっだっとスニーカーの底で地面を踏んで、ぽんと両手をトワイとリュゼの肩に置く。
「お二人さん? あのね、色々あったけどもう行くよ? いい加減日も沈みそうだし!」
「え、あ、うんっ!」
「分かった」
壁から背を離したトワイが、かっと音を立ててアスファルトを踏んだ。するりと小指同士が離れ、そのまま何気無い動作で手が握られる。トワイのその行動に、ブワッと頬を赤くしたリュゼがトワイを見上げるが、当の彼はそれに気付いた様子すら無い。
「え、と…トワイさん?」
「何?」
どうやら本当に自覚がないらしいトワイに、リュゼは溜息を吐いた。
「……僕モ行くノ?」
「え、当たり前じゃん。レンも着いてきなよ!」
「了解」
黒のスニーカーでアスファルトを踏んで、レンが一歩踏み出した。その場にするりとしゃがみこんで、彼が落とした刃を拾い上げる。手首につけられた鞘にしまい込んで、ふっと笑みを零す。
四人で、路地から出たその先で。もう陽は、沈んでいた。
- Re: 宵と白黒 ( No.26 )
- 日時: 2020/08/30 20:42
- 名前: ライター ◆sjk4CWI3ws (ID: cl9811yw)
どうやらちょうど、仕事終わりの人が多い時間帯だったようだった。スーツの人々の間を抜けて、四人は歩いていた。相も変わらずトワイはリュゼの手を離さない。直線が多く、きっちりとした通りが印象的な黎明街とは違って、薄暮街では林立するビルの間に道が作られている。舗装もアスファルトが多く、足音はあまり響かない。
何も喋らずに歩きながら、レンは何やら考え込んでいた。七分丈のズボンのポケットに手を突っ込んで、やや俯き気味に。
「あノサ。聞きたいコトが、あるンダケド」
唐突にレンは、横を歩くシュゼに向かって話しかけた。彼女にしてはめずらしく、どこか沈んだような顔をしていたが、レンが自分に声を掛けたことに気付いたのだろう。顔を上げたシュゼが慌てて微笑む。ちらりと後ろへ振り返りつつ、足はとめない。
「何?」
「……好き、ッテ何、カナ?」
「え!?」
「な、何だヨ……」
かなりビックリした顔で、シュゼは勢いよく左斜め後ろへ振り向き、レンの顔を二度見した。彼もかなりどぎまぎしながら、少女の目を見返す。さり気なく歩く速度を落としてレンの真隣に並びつつ、ゆっくりと考え考え言葉を発した。
「んー、そうだなぁ……レンの言うそれはさ、恋のこと? それとも、純粋に好みだとか好みじゃないとか、そういう次元の話?」
「えー、と。多分……恋の方カナ」
「そう、だね。うーん、私は……他の何よりも、その相手を選びたくなることとか、かな……?」
動揺しすぎて、まともな言葉が組み立てられない。ぱちぱちと激しく瞬きして、必死に照れを抑えながらシュゼはばんっとレンの肩を叩いた。イテ、とレンが声を上げるのも構わずに彼女は励ましの言葉を投げる。
「まあ、頑張りなよ!」
「何で僕ハお前に心配サレてんだ……?」
「あはは、まあ別にいいでしょ!」
「お、おう……」
それきりレンもシュゼも何も喋らなかった。ざわざわと人の波の間を抜けていく。立ち並ぶビルのエントランス部分が次々と目に入る。薄いガラスのもの、木と組み合わせられたもの。沢山のデザインを横目に通り過ぎつつ、レンは再び考えていた。
他の何よりも、か。レンはそんなことを思った。黙り込んで視線を落とせば、己の靴の右足と左足が交互に目に映る。ならば華鈴さんは、僕を選ばなかった。だから、華鈴さんは僕のこと好きじゃなかったのか。
『自由はなによりも優先されるべき事なのか…?』
レンはそう、秋津の言葉で呟いた。隣を歩くシュゼに訝しげな目で見られやしないかとレンは不安になったが、シュゼはシュゼで何か考えているようだった。沈鬱げな表情で、ずっと物思いに耽っているらしい。
だからだろう。それに1番早く気づいたのは、顔を上げて四人の一番前を、シュゼと並んで歩いていたレンだった。
「シュゼ! 危ナイ!」
「え!?」
千鳥足の中年の男が、タバコに火をつけようとライターを持ちながら歩いている。周りから非難の視線がいくつも突き刺さる。こんな時間帯なのに相当飲んでいるらしく、足取りはかなり覚束無い。その男はよろめき、転びそうになる。シュゼの目の前で。今ちょうど火がついたタバコとライターが、反射的に伸ばされた彼女の右手にぶつかった。
「姉さん!?」
「おい、シュゼ!? 大丈夫なのか!」
「あつっ……くない? え?」
「シュゼ? 大丈夫ナノカ!?」
その結果に一番驚いたのはシュゼだった。彼女は至近距離で何があったのか見えていたのだが、それはとても不思議なことが起こった。赤かったはずの炎は、シュゼの肌に触れた瞬間に、赤から白へ変色した。そして、白い炎は一瞬で消失したのだ。そんなことが自然現象として起きるはずもなく、シュゼはマジマジと己の手のひらを見つめる。
少女にぶつかってきた男の方は、ふらふらとふたたび立ち上がると「前見ろ!」と叫びをこちらに投げかけてそのまま歩みさってしまった。トワイがいまにも飛びかからんばかりの勢いでそちらを睨みつけるが、それを慌ててリュゼが抑えた。周りを歩く者たちは、気の毒げな目をこちらに向けつつも何も言ってこない。薄暮街とはそういう街である。
それを幾度か来ているシュゼとリュゼは悟っているため何も言わないが、トワイとレンは意外そうな顔をした。
「あの、姉さん、大丈夫なの?」
「う、うん。なんか、怪我も何も無い」
シュゼがそう答えると、リュゼがふわりと顔を綻ばせた。後ろから追いついてきたトワイも、微笑んでそう言う。
そのまま何事も無かったかのように四人は歩き出したが、シュゼはまたじっと何か考えているようだった。
□ △ □
「ここだよ!」
四人が着いた先のホテルらしい所は、一見するとただのビルだった。少し上の方を見上げれば、何やら1面ガラス張りの窓が見える気もする。
「ほらほら、早く行こ!」
会話を挟ませぬ勢いでそう言ったシュゼは、自動ドアを開けてエントランスへ入っていった。
- Re: 宵と白黒 ( No.27 )
- 日時: 2020/08/30 20:44
- 名前: ライター ◆sjk4CWI3ws (ID: cl9811yw)
2:想い、思惑、重なり合い
「あら? 貴女たち、お父さんやお母さんはいないの?」
ホテルに入った4人に、フロントにいた女性が話しかけてくる。簡素な見た目ながらも清潔感があるエントランスは、大理石の床だからこそ足音がよく響く。等間隔で並ぶ外の街灯の光が、きらきらと床を照らしていた。女性の声に振り返ったシュゼは、笑うと言った。
「えっと、別の人が……」
そのとき、カツカツと後ろから靴が大理石を踏む音が聞こえてきた。ふわりと風が動き、トワイが向こうを透かし見る。かしゃりとウィンドブレーカーが擦れた。
「その子たちは私の客だ、すまない……チェックインをお願いできるかな?」
「ブランさん! 遅くなってごめんなさい!」
「気にするな、今来たところさ」
窓際に置かれているソファから立ち上がってその場に颯爽とあらわれたのは、灰髪の女性だった。シュゼの頭にぽふぽふと手を置きつつ、ブランはトワイとレンへ顔を向ける。怜悧な美貌に微笑まれ、トワイはぱちぱちと瞬きした。ブランは、仕事用の黒のジャケットを半ば脱ぎつつひらりとリュゼへ手を振る。
ハッとしたらしいフロントの女性は、慌ててブランと話し始めた。ブランと彼女を尻目に、僅かに微笑んでシュゼは言う。
「良かった、ちゃんと合流できて」
「エト、シュゼ? あの人は?」
レンがこてん、と首を傾げた。その斜め後ろで、トワイも同調するように頷く。パッと笑って、シュゼは答えた。
「あ、レンとトワイさんは知らなかったよね、ごめんっ! あの人は…」
「ブランシェ・キュラスだ。ブランと呼んでくれて構わないよ、よろしく」
受付から離れてこちらへ歩いてくるブランは、そっと胸に手を当てて名乗った。薄青い目がこちらをじっと見つめ、レンを捉える。射抜いてきそうな鋭さに、僅かに体を引きつつレンは会釈した。ブランもそれに合わせて微笑んで、後ろ手に持っていた二本の鍵をトワイとシュゼに向かって差し出す。
「そこの青年くんと少年くんの分と、シュゼリュゼの分だよ。男子と女子に分けただけだけど、同室でいいよね? ああ、そう言えば……名前を聞いてなかったな」
コクリと頷いたシュゼとリュゼから目線を外して、ブランは笑うと、トワイの方へ体を向けてそう尋ねた。今日はやたらと名前を名乗ってるな、と思いながらトワイは彼女の目を見返す。二人の視線は重なり、ややオレンジを帯びた光が揺れる紺色の髪を照らしていた。脱いだジャケットを片手に抱えつつ、彼女は力を抜いて腰に手を当てる。
「トワイ、です」
どうやら年上のようだったので、一応敬語を使ってトワイはそう名乗る。後ろで、リュゼがきゅっと彼の袖を掴んだ。それに気付かずに、トワイは視線をまだ名乗っていないレンへ転じる。半袖だからか、僅かに寒そうにしながら彼は口を開いた。
「レン・イノウエって言いマス。」
ぺこり、と一礼したレンを見て、ブランがそこはかとなく嬉しそうに微笑んだ。
「そっか、レンとトワイ……よろしく。シュゼたちの鍵これね、無くさないように」
ふっと笑った彼女は、スタスタと歩いてシュゼへ声を掛けた。差し出されたカードキーを、シュゼが受け取る。ひらひらと手を振って、ブランは彼女の背中を押した。
「諸々の売店とかはあっち。エレベーターはそこね。あ、夜ご飯とかはどうする? ボクが何か買ってこようか」
「え、でも…申し訳ないよ、ブランさん……疲れてるでしょ?」
「ボクは今日昼上がりで帰ってきてゴロゴロしてたからね、そんなに疲れてない。むしろ寝過ぎで頭が痛い」
軽やかに笑いながら、ブランはそう言う。ふわりと胸元の黒のリボンタイを揺らして、彼女はエントランスへ身体を向けた。視線が1周し、彼女の目がレンで止まる。少年は俯いて、何か考えているような顔をしていた。それを見て、ブランはレンの肩を叩いた。
「レンくん、ボクの手伝いをしてくれないか?」
「え、ハイ?」
ばっと顔を上げたレンが、首を傾げた。少し戸惑ったような顔をしながらも、少年は笑う。
「イイですよ」
「じゃ、行こうか」
「よろしく、お願いします」
ふわっと笑ったリュゼが、ひらりと手を振った。
□ △ □
スタスタとトワイは廊下を歩いていた。淡いライトと、無数のドアが連なっている。突き当たりの窓はちょうど西向きだが、もう日は沈みきって外は夜へ沈んでいた。ぼーっとしながらトワイが歩いていると、いきなり真横のドアが開いて人影が現れた。ちょっと体を引いて、かなり驚きつつトワイは横へ顔を向ける。そこから出てきたのは、黒髪の少女だった。
「うわ、って……なんだ、リュゼ。どうかしたか?」
「あ、トワイさん。ごめんなさい、ぶつかりかけてました、ね」
そう言って、リュゼは笑う。手提げを持った、彼女のどこか翳りのある横顔に、トワイは少し心配に思って声を掛ける。
「リュゼは何しようとしてたんだ?」
す、と首を傾げてそう問いかけられて、リュゼは虚をつかれた様な顔をした。一歩トワイの前へ進んで、くるりと振り向く。手を後ろへ回して、上目遣いで彼へ目を向ける。リュゼは問を問いで返した。
「トワイさんこそ、何を?」
「オレは……服を買いに行こうと思って。ジャケットなくても、せめてシャツ。レン、寒そうだったからさ」
そう答えて、黒のウィンドブレーカーの裾をつまんでヒラヒラと振りながら、トワイは廊下を歩き出した。それに合わせて、リュゼも隣を歩き出す。その顔を見下ろしているトワイの視線に気付いたのか、リュゼがふわりと顔を上げて、ほんの少し疲れたような笑みを見せた。
「私は、すこし独りになりたく、て。でも、トワイさんならいいです。ついて行ってもいいですか?」
「そっ、か。別に良いけどさ。街の地理、良くわかんないんだよな、フロントの人に聞いていこう」
- Re: 宵と白黒 ( No.28 )
- 日時: 2020/07/19 20:49
- 名前: ライター ◆sjk4CWI3ws (ID: cl9811yw)
- 参照: http://www.kakiko.cc/novel/novel6/index.cgi?mode=view2&f=20128&no=19-23
【先に上記リンクのお話を読むことをオススメしますー。】
シュゼは一人、ホテルの部屋内で俯いていた。もう外は暗いのに、一度出掛けて帰ってきてからライトもつけていない。ベッドの上に体育座りで座り込んで、背を壁に預ける。サラリと白髪が揺れ、膝の間に埋まった。薄青い闇が包む部屋の中で、その白だけはやけに明瞭だ。
不意に彼女は顔を上げた。ヘッドボードに置かれていたライター───リュゼが出ていった後に売店で買ってきたもの───を、そっと手に取る。青のプラスチックと僅かな金属で出来た、手のひらにおさまるくらいの直方体。かちりと音を立てて火を点して、揺れるそれを茫洋と見つめる。赤い炎を見ていると、ざわめいていた心が落ち着いていくような気がした。
「は……」
火を消して立ち上がり、ドアの方へ。僅かに開けて廊下を覗き見、リュゼがまだ帰ってきていないことを確認する。絶対見つかったら怒られる、と思いながらシュゼはライターを持ってバスルームへ移動した。
決してカーテンに火を燃え移らせないように、全開に引き開けて留めておく。一応水を入れた洗面器をそばに用意しておいて、シュゼはバスルームの床へ座り込んだ。タイルが硬い。
ぼーっと先程の出来事を思い返す。私はなんで火傷しなかったんだろ、と思う。怖くは無かった、驚いただけで。シュゼは元々火というものが怖くない質だ。それはきっと、魂そのものが私にとって火は恐ろしいものじゃないということを分かっていたからでは無いのか、とシュゼは思う。それを確かめるために、わざわざライターを買ってきた。握ったそれに、かちりと火をつけて集中する。
「ふぅっ………」
ゆっくりと指を近付けていき、火に確かに指が触れ。そしてその火は、白へ染まった。
「…………!」
火へ指を突っ込んでも、彼女の肌は焼け爛れも、それどころか熱さを感じることさえしなかった。淡く白へ変色した火が彼女の指先を中心として円の膜を張って、まるで守っているかのようだ。
「やっぱり…………?」
疑問が吐かれ、うっすらと響く。少し指を動かすと、追尾するように白の炎の膜も動く。そこでシュゼは、確かになにか音を聴いた気がして顔を上げた。きぃん、きぃんと。張り詰めるような音がどこからか聞こえる。その音は、どうやら手元の火からしているようだ。
「え、なに?」
じっ、と手元を見つめる。髪の毛に燃え移りそうで怖いが、そんなことは無いような気もしていた。赤いライターの火が、ジワジワと青に侵食されていく。炎の色が染め変わっているのだ。それと同時に、何かをシュゼは感じ取った。引かれるようにライターの火を消してみても尚、その青の火は燃えていた。左手を降ろして、ぼんやりと爪の先に灯った火を見つめる。
完全に青くなった火は、見慣れたとまではいかないものの、要所要所で己を守ってきた力の火だ。
いつの間にか金属のような音はしなくなっていた。力を使う時、こんな音はしたことが無い。ならばライターの火だろうか。右手の火を消して、ライターの火をつける。
音はしない。何でかな、と思う。試しに左手でライターの火をつけたまま、右手に青い火を灯してみる。今度こそ、明確に音が聞こえた。
「あ……!」
火と火が呼び合っている音だったのだろうか。そして、それらを接触させてみれば、混ざり合い溶け合いながら赤い火は青い火へ変わっていく。俯いたシュゼの白髪の毛先が、火の中へ入りそうになる。だが、瞬間で白くなった火が、彼女の髪を守っていた。
『力はね、己を傷付けることは決してないのよ。人の身を超えるものに代償があるのは当然だけれど、それは副次的なものでしょう?』
いつか、己の力が分かった時に母が掛けてくれた言葉を思い出す。初めて聞いた時は難しすぎて分からなかったけれど、それはきっとこういう事なのだ。
「そっか、そうなんだよね。そうか……」
ふっと火が消え、シュゼは両手を下ろした。火を操ること。それが私の力なのだろう、とシュゼは思う。───一般に、力の種類は血統に由来することはないとされている。だが、キュラスという一族の血が流れる人間が持つ力はその殆どが別格だ。この世の理と呼ぶべきものに干渉する。なのにわたしは、と思う。なんの役にも立てなかった、あの時。このままじゃ、だめだ。届かない、あのひとに。
「ねぇ、もういいのかな……私が守らなくても私が居なくても、リュゼはきっと大丈夫だよね………?」
右手に、もう一度宿した青い炎へシュゼは語りかける。くらくらと揺れる心を写すように、炎の勢いは安定していない。当然だ。バスルームの中に、独り言が虚しく響いた。
いくらでも彼女なら時間を戻して、無かったことに出来るだろう、と思う。事実、シュゼでは絶対にあの死にかけのトワイを助けることは能わなかった。
何だか悟ったような気がして、顔を上げると鏡が目に映る。
短く切られた白髪が、パサリと揺れた。
「…………そう、なんだよ! そんなこと、そんな、こと、分かってるんだよ、だけど、だけどね………………!」
ヒュッ、と浅い呼気が零れる。息が上手くできない。なんの為に、何を思って髪を切ったのだったか。それを思い出して苦しくなる。そんなこと、分かってるのに。
ライターをぎゅっと握る。立ち上がって、バスルームを出る。歯を食いしばって、息を吸って。それでもなお、涙が糸を引いて零れ落ちた。
- Re: 宵と白黒 ( No.29 )
- 日時: 2020/08/30 20:52
- 名前: ライター ◆sjk4CWI3ws (ID: cl9811yw)
- 参照: http://www.kakiko.cc/novel/novel6/index.cgi?mode=view2&f=20128&no=26
【上記リンクの話を読むことをオススメしますー。】
□ △ □
スーパーマーケットの店内の明るい光が、煌々と照っていた。
「なあレンくん、ちょっといいかい?」
薄暮街にはスーパーが少ない。そのため、ホテルから少し遠いところにレンとブランは歩いてやって来ていた。ざわざわと喧騒に包まれる店内で、買い出しを終えて二人はビニール袋を手に提げている。レンはイートインスペースのすみの壁に凭れて少し休憩しつつ、ぼけーっと明後日の方向を見つめていた。
天井の照明が、床に映り込んでいる。ここは冷房が効いているようで、やはり半袖は寒い。僅かに二の腕を擦る。ウィンブレ貸さなければ良かった、と思いつつレンはブランへ目を向けた。さぁっと近くの自動ドアを人が通り抜け、風が吹く。ガラスの向こうの、駐車場の車の光がちらちらと目に映った。
「エ……貴女、なにか企んでマスか?」
急にブランがそう問い掛けてきたものだから、レンは反射的にそう問い返してしまう。自分も相当ひねくれきてるな、と思う。その返しに、ブランは一瞬驚いた顔をした。が、次の瞬間には鼻を鳴らしてつまらなそうな顔をする。
シュゼやリュゼの前では見せない顔だ。もしかしてこの人、シュゼとリュゼの前で見せる顔よりも本当は悪い人なんじゃなかろうか、という考えがレンの中に浮かぶ。それを悟られそうな、心の底を見透かしてきそうなほど鋭い青の視線が彼を射抜くように見つめた。レンはどこか周りの気温が下がったような感覚を抱く。なにか嫌な予感がした。
「バレたか」
「バレたか、ッテ……何しヨウとしてたンデス?」
「────きみに、頼みたいことがある」
ブランは顔を真顔に戻して、すっとレンを見つめた。それを見て、自然とレンの顔も引き締まる。かつかつと歩いて、正面にまわったブランは笑い、レンの頭の上にぽんぽんと手を置いた。シリアスな話をするような顔をしたくせに、チビだとバカにされた気がする。ムッとして、レンは声を上げようとした。息を吸って言葉を吐く。その間の絶妙なタイミングを盗んで、彼女はレンの手を取った。その瞬間を盗まれて、彼は言葉を何も吐けない。
「救って欲しいひとがいる、とか言ったらどうする?」
「何で、僕ナノデすか?」
キョトンとして、レンは首を傾げる。面倒だとか嫌だとかそういう訳ではなく、純粋になぜ自分なのかが気になるのだ。いきなりほぼ初対面の自分になぜそんな大切そうなことを頼むのだろうか、普通。シュゼなりリュゼなり、古くからの付き合いでもっと信じられる人はいくらでもいるだろう、と思う。
「キミだからさ」
何やら感動的な話が始まりそうな台詞を吐いて、ブランはニヤニヤと笑った。残念ながらその笑みのせいで形成されかけていた感動的な空気などぶち壊しである。レンはその狡猾そうな顔に猫のようだな、という印象を抱いた。
「ボクはレンくんのことを深く知らない。だから別に、キミが傷つこうがなんだろうが、ボクは何も悲しくないだろう?」
呆れ果てたようなため息を、レンは吐き出した。結局この人も自分本位なわけだ。力を抜いた時のクセで、いつもならウィンドブレーカーのポケットがある位置に手を持っていきかける。腰あたりでないことを思い出して下のズボンに手を突っ込んだ。きゅ、と音を立てて床とスニーカーが擦れる。
「誰デスか、それ」
「お? 気になる? 受けてくれるのか!?」
「まだそう決めタ訳ジャナイです」
イートインスペースで話し込んでいる二人に、ちらちらと視線が向けられている。たが、二人は気にする様子も無い。真っ直ぐに青色の目を見つめて、少年は言った。この点、トワイもレンも似た者同士なのだろう。本質的にとても優しいから、頼み事をされるととても弱い。
「まあいいや。…………三年前、ルクス・キュラスのボディガードが新しい子になった。そこから、話そうか」
ブランは手近な椅子を引いて座ると、ゆっくりと語り出す。彼女が救うと誓った、とある少女の話を。
□ △ □
明るい店舗に、それに相応しいポップな曲調のBGMが流れている。ざわざわと人々の声が響いていた。ここは黎明街唯一と言ってもいいショッピングモールで、リュゼとトワイの二人は服屋を探してここまでやって来ている。途中にシャツやスーツ専門店と思われるブティックが幾つかあったのだが、リュゼの薦めでこちらまで歩いてきたのだ。
そして、自分たちの間に流れる空気が微妙なものであることを、トワイもリュゼも感じていた。所謂これはデートなのか、と言う同じような疑問を2人して抱いていたからであろう。絶妙な気まずさを誤魔化すように顔を上げて辺りを見回すと、ホテルの周りではあまり見かけなかった子連れがいるのが目に入る。
きらきらした店内を見回しつつ、沈黙が続いて更に募る気まずさを誤魔化すようにトワイが口火を切った
「や、でも薄暮にこんな空気の所があるなんて思わなかったぞ、オレ」
「やっぱりなにか、違いますか?」
「ん。空気、って言うか、人の気配って言うのかな。殺伐としてない感じがする」
確かにそう、とリュゼは思う。なにか張り詰めたような気配がしていて、誰もが自分本位。それが薄暮街という街だ。だが、ここは違う。皆が助けてくれそうな、どちらかというと黎明に似た雰囲気がある。だから彼女はここが好きだ。
エスカレーターに乗って───トワイはかなり驚いていた───三階まで上がると、目当ての服屋を見つけたのか、リュゼが真っ直ぐに右斜め前を指さした。
「あれですね」
「あ、あれか……」
かなり強い照明が当たっている、いくつかのマネキンに着せられた服は、そういうことに疎いトワイの目から見てもお洒落なものだ。普通の暮らしをしている、普通の親子が入る店。確かめるように恐れるように、彼は腰の後ろへ手を回す。かすかに触れるナイフの感触が、彼の心に突き立った。自分は何を自惚れていたのか、と思う。リュゼを庇ったことで今まで浴びてきた血が落ちるとでも、思っていたのだろうか。
リュゼは、トワイをそっと振り返る。彼は、半ば苦しそうな顔をしていた。だから反射的に、彼女はトワイの手を取っていた。
「トワイさん……それでも、私は」
「え、ぁ、ごめんごめん」
静かに名を呼ばれて、ハッとトワイが顔を上げる。無理やりなのかもしれない笑みを貼り付けて、リュゼの言葉を遮った。何を言われるのかも良く分からないのに、それ以上言われたら自分がもっと苦しくなる気しかしなくて、普段の彼なら決してやらない事をやってしまう。
「大丈夫ですか? ほら、急いで買いましょ。レンとブランさんが戻ってくる前に戻らないと」
「あぁ、そうだな。じゃ、行こうか」
- Re: 宵と白黒 ( No.30 )
- 日時: 2020/09/12 13:51
- 名前: ライター ◆sjk4CWI3ws (ID: 5obRN13V)
□ △ □
「───ってことがあってね」
ブランが話し終えたその話に、ふっとレンは息を吐いた。椅子に一瞬座り直し、首を傾げる。
「だから、その子をキミに助けてやって欲しいのさ」
「何でデショウ? イイ感じのハッピーエンドじゃないデスか。これ以上僕が介入スル余地ナンテない気がシますけど……」
その言葉を聞いて、ブランの手が机の上に置かれた。その手が、いきなりきつく握り締められる。
「そうだな。そうなんだけどな……それで、終わりじゃなかった」
「……?」
じっ、と握り締められた手を見つめてレンはもう一度首を傾げた。エアコンの風が丁度こちらに向いて、涼やかに髪を揺らしていく。なにか躊躇ったように口を開閉してから、ブランは思い切ったのか口を開いた。
「キュラスが。いま革新派と保守派と、中立派に分かれてるって話はさっきしただろう? 首都にいる保守派の方々は論外として、問題は革新派のルクスの信者どもさ。そいつら、リフィスが力の制御が出来るようになってまともに使えるようになったからって、今度はキュラスに縛ろうとしてやがる。あの子に選択権なんてなにもなくて、ただ刷り込まれたことだけやってるだけだ。それじゃ機械となんも変わんないだろ……!」
ここまで語気も荒く答えてから、ブランはふっと息を吐いた。ガサガサとビニール袋の中を漁って、取り出したペットボトルを開ける。少しそれで喉を潤し、彼女はレンに目を向けた。話を聞いてから彼は歯を食いしばっているように見えるから、何かレンにも思うところがあるのだろうか、と思う。
『僕も。かつて、同じような目に遭っていたひとを知っています。そのひとも、同じように一族だとかなんだとか、そんなものに縛られていて……もしも。僕になにか出来ることがあるのなら、やります』
明瞭な、ほんの少し泣きそうな声で放たれた秋津の言葉に、ブランはぱちぱちと目を瞬かせる。ゆっくりと彼が放った言葉を咀嚼して、彼女はしずかに笑うと返答した。
『……そう、だな。君の話を聞いてもいいかい? 話したくなければ、それでもいい』
流暢なアキツの言葉が、彼女から返る。隣国の言葉を話すことはブランにとって難しいことでは無かったし、なにより彼女はレンについて知りたかった。
『そうですね………分かりました』
そうしてレンもまた、己の過去を語り出す。
□ ▲ □
『それで……華鈴さんは…………僕に、力を、行使したんだと、おもうのです』
レンの話を黙って聞き続けていたブランは、話が途切れたタイミングで彼に目を向けた。
『ねえ? ちょっといいかい?』
『何でしょう?』
す、とレンが首を傾げる。それを見て、彼女はそっとポケットに手を入れた。眼鏡の入ったケースを取りだして弄ぶ。僅かに考えるような顔をしてから、ふっと笑みをこぼしてブランは眼鏡を掛けた。
『君の記憶は確かにそこで消され───いや、書き直されていた。ならば君が今その記憶を持っているのは何故だい?』
『詳しいことは、何も。ただ、あの子……リュゼが僕に力を使ったとき、全部思い出したんです。いえ、そうですね……元に戻った、という方が近いでしょうか』
『やはりな……君は、リュゼの力について知ってるかい?』
くっとブランの目が細まった。度が入っていない眼鏡の奥から、怜悧に青の瞳が煌めく。テーブルの上に手を置いて、僅かに握りしめた。
エアコンの風がダークグレーの髪を揺らす。眼が、仄かに青の燐光を纏った。それと視線が合って、レンは冷や汗が背中を流れ落ちるのを感じた。眼が、己の本質の奥の奥まで見透かされそうな程の鋭さを伴っているように思える。
永遠とも思えるほどの数瞬を過ぎて、彼女は微かに息を吐いた。
『真名と力、記憶の関わりについては詳しいことはボクも知らないし、未だよくわかっていない分野だと思う。だけどボクは力で、真名の、いわばログのようなものを透視できるんだよね。具体的には……力の行使の跡とか、行使された跡とかかな』
『それで……僕の真名を、見たと?』
魂の奥に直接視線を突き刺されているようなあの感覚は、それが理由だったのだろうか。
『ああ……君の真名にはね。たくさん跡があったよ、確かに。その中で、君が行使したものじゃないものも幾つかあった。一番新しいのはリュゼだと思う。そして、一番跡が強く……はっきり分かるくらい残っていたのは、おそらく君が言っていた華鈴さんという人だろう』
『跡……』
『ただ、それはリュゼの力で上書きされてた。いや……無かったことになっていた。つまりどういうことか分かるかい?』
『え、ならば彼女の力はどんな類いのものだと……時間を、戻しているのか……』
自問自答したレンの顔に驚愕が走った。確かにあの時、時計の音がしていたはずだ。だが、時を戻されたのならば少しおかしい点があるように思える。
『でも、時間が……記憶が書き換えられる前まで戻ったなら、僕の記憶はそこまで消えて然るべきじゃないですか?』
- Re: 宵と白黒 ( No.31 )
- 日時: 2020/08/30 20:56
- 名前: ライター ◆sjk4CWI3ws (ID: cl9811yw)
- 参照: https://www.kakiko.info/upload_bbs3/index.php?mode=article&id=2073&page=1
『それは……?』
ブランが僅かに目を細め、静かにレンへ問いかける。
『つまり、ええと。【華鈴さんの記憶がない僕】を、【華鈴さんに力を行使される前の僕】に戻したとするならば、その間に在る二年間の記憶とかは吹き飛んで然るべきなのでは、ということです。でも、僕の記憶はちゃんとあるんですよ』
自身でも混乱しながら、レンはそう言った。目の前に座る彼女の青い目が伏せられ、テーブルの表面を凝視するのを瞬きながら眺める。ややあって、何かを閃いたかのようにブランははっと顔を上げた。俄には信じ難い、とでも言いそうな表情をしつつ彼女は口を開く。
『力の行使は、本来とても難しい。特にリュゼや私、ノーシュのような系統の力であれば尚更だ。ピンポイントで使うのは相当の集中が要る。だが、リュゼがそれをやってのけたとするならば。全てに説明がつくだろう』
そう言って彼女は再び視線を下げた。本当に信じ難いが、と呟きを付け足す。
ノーシュもブランも、力を使う際は広範囲を対象として使う。そして、そこから対象を探すのだ。誰か一人の情報に絞って、つまり先程彼女が言ったようにピンポイントで使うというのは相当難しい。無論、力の能力によっては逆に大規模な行使が難しいもの───トワイやシュゼ、レンのものなど───もある。
ブラン自身もそれが出来ないことはないし、やったことはある。だが、負担がかかり過ぎて使い物にならなかった。あくまでも行使するのは人の身だ。
『つまり?』
いよいよ混乱してきた、といった顔でレンはブランに問い直す。
『イメージとしては、水だな。細く水流を出して一人に当てるのは時間がかかるし難しいだろ? ホースから一気に放水する方が遥かに簡単だ。もちろん使う水の量は多いから、負担はそれなりにかかる。どっちもどっちと言った所だ……そして、君はひとつ勘違いしている』
『貴女に質問ばかり返すのは少し癪ですけど。聞きますよ、何を僕は勘違いしてるのですか?』
『君が戻された部分は記憶じゃない。いや、そうなったから結果論的にとも言えるが……おそらくは』
目を鋭く細め、彼女は一旦言葉を切る。
『過去そのものだ。君が力を行使された地点から、ほんの少しだけ戻す──力を使われ、それが効果を発揮したということのみを時間を戻して無かったことにしたのではないか、とボクは思う』
ああ、と小さく呟いて納得した顔でレンは頷く。長い前置きもそれが理由だったのか、と。そして彼がなにか言おうと口を開きかけた時、横合いからテーブルの上へ影が差した。
「すみませんお客様? 長時間の雑談はお控えいただきたいのですが……」
まだ若い、このスーパーの従業員だ。クリーム色と緑の差し色が入った制服を着て、困ったように笑っている。
「ああ、それはすまない。レンくん、あとは戻りながら話そうか」
「あ、ハイ」
瞬時にタリスク語に切り替えて返答したブランが、床に椅子を擦らせながら立ち上がる。レンも直ぐに言語を切りかえて返事をし、買ったものへと手を伸ばした。立ち上がったことで改めて体に寒気が走り、レンはトワイにウィンドブレーカーを返してもらうことを決意する。
静かに一礼した店員に背を向けて、彼らは歩き出した。自動ドアから外へ踏み出れば夜の空気が体を包む。走る車の音に紛れてしまいそうなほどの小声で、ブランは呟いた。
「レンくん。ボクはね、リフィスを助けたいんだ。だけど、ボクでは何も出来ない。だからキミへお願いしてる」
いつものそこはかとなく芝居がかった、打算ありきの語調ではないとレンは感じた。タリスクの言葉でそれが放たれたことも、またそのことを裏打ちしているように思える。
レンの中でのブランへの印象は、主に油断ならないということが大半だ。まさか彼女が本音をさらけ出すなんてことがあるのだろうかと思ってしまうのも仕方なしと言える。
それが本当に本心なのか、それを問おうとレンは反射的に口を開いた。
『それって……』
『冗談。キミが一番利用しやすそうだったからさ! トワイくんは油断ならないという感じがするし、シュゼとリュゼは以ての外。キミを一目見た時に分かったよ、とても純粋な子なんだろうなって。それに男の子だから、最悪色じか』
『何しようとしてたんですあなた!?』
いつもの口調で軽快にそう言ってのけた彼女に、レンは動揺した視線を向ける。思わず大きな声が出てしまい、周りの人の迷惑になっていやしないかという不安が走った。一方ブランの方といえば否定するように手を振って、気楽げな笑みを滲ませている。
『本当、やめてくださいよそういうの……』
『もー、人聞き悪いこと言うなって。ほら、とっとと帰る!』
□ △ □
ざわめく服屋の店内には、比較的親子連れが多い。子供の甲高い声がいまいち得意ではないトワイは、僅かに身を引きつつ買い物を済ませた。やはりリュゼと二人きりというのは落ち着かず、さりとて自分一人というのも困ってしまう。逃げるように足早に店内を出て、ちらりと店内の方を振り返る。
その時、不意に隣を歩くリュゼが声を上げた。
「わ、可愛い……」
トワイがその声につられて視線を向ければ、通路を挟んで向かい側にある子供服の店が目に入る。どうやらリュゼの視線の先にいるのは、まだ四、五歳と思われる子供を二人連れた家族のようだ。水色の揃いのパーカーを着て、子供たちは楽しげにはしゃいでいる。その母親らしき人物は、ちらちらと自分の子供を見つつ服を物色していた。
「双子、か?」
その顔を見て、小声でトワイはそう呟いた。そっくりで、服装も同じ。違うのは髪色くらいだろうか。そう考えれば双子と思うのも妥当な所だろう。
「そうでしょうね」
「あんな……あんなにそっくりだとさ、自分が本当に自分なのか分からなくなったりしそうだな」
緩やかに歩きだしながら、ふと浮かんだ疑問をトワイは口にした。僅かに首を傾げてリュゼを見る。己自身も双子である彼女は一瞬きょとんとしてから彼の言わんとするところを理解した。《自分》というものにあれほど悩んでいた彼であれば当然であろう、と。リュゼは、ニコリと満面の笑みを浮かべて答えた。
「そんなことは無いですよ。私は、絶対に私ですからね」
静かに笑ってそういった彼女は、ふわりと黒髪を揺らして歩き出す。ゆっくりとトワイへ振り返り、自分の胸にそっと手を当ててリュゼは言った。
「私という体の器にいる魂と、そこにある真名は絶対です。たとえば私と姉さんが本名とか服とか、髪型とか、ぜーんぶ交換したとしましょう。それでしばらく暮らしたら頭がおかしくなりそうですけど、それでも私は私です。絶対唯一の真名を持つのは私だけなのですからね」
「そっか……」
確認するように何度も頷いて、トワイは言う。そして、彼はゆっくりと笑った。
「そうやって。リュゼはオレのことをちゃんと肯定してくれる……この前さ。お前オレに聞いただろ?」
「えと……何をです?」
「したいことは無いか、って。オレ、決めたよ。リュゼのことを守る。何があっても、守ってやるから。リュゼがいなくなると、オレがオレで無くなりそうで怖い」
そう言われて、リュゼの頬が赤くなった。それは一般的に言えばプロポーズとかそういう類の言葉ではないのかという反論は飲み込んでおく。それが果てしなく彼が己を守る為の術であったとしても、涼やかにリュゼは笑う。
「分かりました。でも、私との約束もちゃんと守ってくださいね?」
「あ、ああ……分かりましたよ」
顔を見合わせて、微かに彼らは笑いあった。
- Re: 宵と白黒 ( No.32 )
- 日時: 2021/01/03 18:38
- 名前: ライター ◆sjk4CWI3ws (ID: cl9811yw)
『ブランさんもここに泊まられるんです?』
『いや、ボクは一旦うちに帰るよ。ボクも何気に中立派とかいう派閥に入ってしまっていてね、余計な動きは取れないし。また明日、朝の10時くらいに来るから』
『あ、なるほど…』
『じゃあね、レンくん。シュゼたちによろしく』
ホテルの前で、ブランはそう言った。レンの目をまっすぐに彼女は見つめ、ふわりと笑って肩を叩く。ぺこりとレンが一礼すると、ブランはにこりと微笑む。灰色の髪が風に揺らいだ。そのまま背を向けて、彼女は歩みさっていく。曲がり角に彼女の姿が消えたのを律儀に確認して、レンは深呼吸した。気合いを入れ直して、ホテルに入ろうとした、時───
強烈な閃光が、目を貫く。
「ツッ───!?」
荒れ狂う青の光の中で、不意に足元の地面が崩れたような気がした。両手に持っていた荷物が落ちて、体が軽くなる。それもつかの間、がっ、と床に身体が叩きつけられた。いや、それが本当に床なのか分からぬほど、何が何だか分からない。目がチカチカして、周りがまともに見えすらしない。息が詰まって、勝手に口からかはっ、と音がこぼれる。
「ルクス様の命だ、逆らうことなど許されない……ああ、残りの三人が揃っているとは。ちょうど良い」
落ちる寸前、そんな声を聞いたような気がした。
□ ▲ □
レンがホテルに着くよりも、少し前のこと。リュゼと共にホテルへ帰着したトワイは、くるりとエントランスを見回した。
「あ、やっと帰ってきた! 遅いよ、待ちくたびれたからここまで来ちゃったじゃん!」
すると、シュゼの高い声がトワイの耳に入った。振り向けば、柱の前で立っていた少女がこちらに駆け寄ってくるのが目に入る。
ニコニコと笑みを絶やさぬまま、シュゼはリュゼの元へ走っていく。目元は赤くなっていないだろうか、と心配しつつももう気にしない。泣かないと、迷わないと。そう決めたのだ。自分に求められているのは苦悩では無いからだ。どこまでも、前を見据えていればそれでいい。それが、私のあるべき姉としての姿だろう、と思ったから。
軽快な足音が二つ分、後ろで響いたのが聞こえてくる。トワイは周りを見回して、探していたものを見つけた。
「あー、ちょっとオレ用事あるから、待っててくれる? 悪いな」
こくり、と頷いた二人を後目にトワイは売店の横へ向かっていく。ポケットから財布を取り出して、数枚硬貨を手に握る。赤い本体にいくつかのボタン、受話器とコード。楽しげな二人の声が後ろから聞こえてくる。
硬貨を入れて受話器をとって、ボタンを押す。トゥルル、と響く音を聞きながら待っているも、なかなか相手は応答しない。居留守か、本当に留守なのか、出掛けているのかの三択だが、とトワイは思う。仕方なく出掛けている可能性に賭けてボイスメッセージを残しておくことにした彼は、ゆっくりと喋りだした。
「えーと、師匠? オレだ、トワイだ。寝る時はちゃんと電気消して寝てくれ」
もう寝てたら意味ないんだけどな、と思いつつもトワイは受話器を元の場所に戻す。リュゼとシュゼに声を掛けようと振り向いた、その矢先───
外で、凄まじい光が踊ったのが見えた。車のフロントライトなどではなかった。やや青みがかった、強烈な。一瞬、長身の影がそこに浮かび上がったような気がする。
「何だ!?」
「え、何なに──!」
ざわ、とトワイの肌に悪寒が走り抜けた。それは、命のやり取りをしてきた者特有の感覚のようなものだったのかもしれない。
「レンッ……!?」
シュゼはトワイの制止の声を聞かずに入り口へ走っていく。黒髪の少年の姿が、一瞬だけ見えた気がしたから。
「ッ待て!!」
「姉さん!」
リュゼは一瞬、姉とトワイを天秤にかけた。無論トワイも大事だが、彼が危機を叫ぶのならば尚更姉を守らなくては───と、思う。
リュゼまでもが走り出したのを見て、トワイは息を吸って走り出した。ほんの数メートルの距離を駆け抜ける。
シュゼとリュゼを追ってホテルから飛び出すと、光はもう既に収まっていた。だが、次の瞬間。トワイたちの目の前に、長身の男が現れる。まるで最初からそこに居たかのように。
「何で、どこから」
シュゼの口から、疑問がこぼれ落ちる。テレポートでもしたのか、あるいは何らかの力なのか、もしくはその両方か。
次の瞬間、再び閃光がその男の右手から放たれる。トワイが反射的にシュゼとリュゼの前に立って、目を眇めた。微かに息が零れ落ちて、目に痛みが走る。それでも尚、彼女らを守ろうと。目は閉じずに、真っ直ぐに光源を睨みつける。
「トワイ、さんっ……!!」
「リュゼ、シュゼ!」
がくりと三人の足元が揺らぎ、地面が崩れ落ちていくような気がした────
三話:信ずるもの
>>33-41
- Re: 宵と白黒 ( No.33 )
- 日時: 2020/09/03 18:41
- 名前: ライター ◆sjk4CWI3ws (ID: cl9811yw)
3:信ずるもの
黎明街の中心に位置する高層ビル。このビルこそがパスト・ウィル社の本社であり、キュラスという一族の拠点である。そして、その最上階。そこには、社長であり一族の長であるルクス・キュラスの居る社長室が存在する────
大きな社長机、その正面に置かれた黒の豪奢な椅子。それらの後ろの一面ガラス窓、そこから差し込む夜の明かり。天井の照明が机の上のペンを光らせている。無数の書類や本、置物が並ぶ棚が右手側の壁には据え付けられていた。ワンフロアの半分近くが使われたこの部屋は、先程から静寂に満ち満ちている。
不意に光輝が閃き、その静寂が破られた。なにか重いものが落ちるようなどさりという音が響き、静かに扉の前に人影が降り立つ。閃光が収まって、そこに姿を現したのは一人の男だった。そして、地面に折り重なる影は、倒れ伏している四人のヒト、だろうか。
ゆっくりと男は顔を上げた。白皙の面が真っ直ぐに上座を見つめる。
束の間広がった静寂を再び破り、今度は低い男の声が上座から響いた。
「ご苦労様、アレン。君の力はとても役に立つけれど、消耗が酷いだろう? すまないね、こんな雑用めいたことをさせてしまって」
そのねぎらいの言葉を発した当代のキュラスは、口元の笑みを深めた。黒の椅子に深く腰掛けて、その整った美貌を楽しげに歪ませる。その手にはエメラルドが蓋に嵌め込まれた懐中時計が弄ばれていて、付けられた細い鎖が音を立てて擦れ合う。照明を反射して、緑玉が煌めいた。
「いいえ。ルクス様の為ならば、なにも。それに、まとめて飛ぶくらいならば全く問題はありません」
アレンと呼ばれた黒髪の男は、一欠片の躊躇いもなくそう言った。社長机の前まで歩み寄り、ふわりと長い黒髪を揺らして微笑む。たとえ人殺しであろうとなんであろうと、彼はルクスに命じられればするだろう。この男こそが、ブランの言うルクスの狂信者の一人だった。
不意にぽつりと、嗄れた声が響いた。
「自分に何をしろと言うのだ、キュラスの棟梁」
その言葉を発したのは、社長机の横に立つ老人だった。杖のようなものを手に持って、感情などなさそうな横目でルクスを見つめる。
「ああ、貴方とリフィスたちは少し待ってね。そろそろ彼らが目を覚ます頃だ……まずは話し合い、だろう?」
リフィスと呼ばれた、先程の老人の隣に立つ少女は無言で一礼した。それに返答しようと、老人が口を開きかけた、その時。
空隙を突破って、テノールが響き渡った。
「リュゼ、シュゼ!? 大丈夫か!?」
- Re: 宵と白黒 ( No.34 )
- 日時: 2020/09/06 12:41
- 名前: ライター ◆sjk4CWI3ws (ID: cl9811yw)
□ ▲ □
地が崩れていくような感覚がして、それでもトワイはリュゼの手を離さなかった。リュゼもまたシュゼと繋ぎあった手を離さない。あの長い黒髪の男に力を行使されたのだと分かっていても、逃げようがなかった。唐突に浮遊するような感覚が終わって、いきなり床に叩きつけられた。呼吸が上手く出来なくて、数瞬意識が飛んでいたのだろう。ここがどこだか分からない。瞼を閉じていてもなお、淡く明るさが感じとれる。屋外ではなく屋内へ入ったのだろうか。
意識が明瞭になってきて、自分がどうなったのかを思い出した。深呼吸してばっと目を見開いて、直ぐに眩しさに目を細める。手のひらに、かすかに感じる暖かさがそこにあることに安堵した。
「リュゼ、シュゼ!? 大丈夫か!?」
少女たち華奢な体が身じろいで、ゆっくりと上体が起きていく。外傷などもなさそうで、ほっとトワイは息を吐く。その隣で、レンも壁に背中をつけて起き上がった。半袖の寒さは感じない。適度な温度に空調が効いている。そのまま少年は天井に目をやった。シャンデリアめいた飾りの施された照明は、その財の大きさを強調しているようにも見てる。
社長室めいた部屋はとても広くて、トワイたちの真っ直ぐ向こう側には一面ガラスの窓が広がっている。奥に透けて見える夜景は、無数の航空障害灯が赤く煌めいていて美しい。ゆっくりとそこから視線を動かして、大きな机の辺りへそれを投げる。
そこにいた人影のひとつに、見覚えがあって。驚いて叫ぼうとしたとき、後ろから声が掛かった。
「トワイさん……!?」
「え、ここどこ!?」
シュゼとリュゼの高い声が聞こえた。束の間振り向き、ふっと息を吐く。無事で良かった、と。その隣でレンもまた、前をきつく睨んでいた。
「あのひと、か……」
小さく呟きが落ちる。ダークグレーの髪に、ライトグレーの毛先。ワンピースと、手首に巻かれた青い布───いや、ブランのリボンタイ。約束したからには必ず、とレンは思う。前髪の隙間から覗く彼女の群青色の瞳は、この明るい部屋の中でもどこか昏いように見えた。一瞬、二人の視線が交錯する。
ふいに少女の瞳が逸らされて、彼女の後ろに立っていた男へ向けられた。
「やあやあ皆さんこんばんは! そしてようこそキュラスの城、いやこの社長室へ! 僕はパスト・ウィル社社長、ルクス・キュラス。どうぞ以後お見知り置きを」
上座から、軽快に声が響く。
びくりとリュゼの肩が跳ねた。シュゼが立ち上がり身構える。彼女たちを守るように、トワイは前に出て立ち上がった。レンがかすかに息を吐き、目を細める。
常に笑っているかのように細い黒の目をさらに細め、愉しげにルクスは笑う。なにも気にせず、まるで散歩するかのように軽やかに。ざっと30メートルはありそうなフロアを、彼はゆっくりと歩いていく。ルクスたちから見て右手側、即ちトワイたちの左側。壁一面に据え付けられた本棚を、半分ほど過ぎ去った辺りで彼は立ち止まった。
とても大切なものをしまうような、そんな手つきで彼は手に収まっていた懐中時計を本棚に飾る。磨き抜かれた銀色の蓋と、菱形に飾り切られたエメラルド。無数の装飾品やら本やら書類やらで整然と飾られた棚は、社長室に相応しく見えた。
その懐中時計の装飾を一瞬見て取って、シュゼがひゅっ、と浅く息を吸った。何か声を上げる間もなく、ルクスは先手を打つように声を響かせた。
「裏切りそう、って言うかね。敵になりそうなキュラスのひとは、アレンとか、ノーシュとか、まあその辺の子に頼んで色々やってもらってるんだよ。それでね───きみたちは確か、アルフィーさんとこのシュゼとリュゼでしょう? 一体何をしようとしているのやら……そこの紺色の子は知らないけど、一緒に行動してたから連れてきた」
そこで一旦、ルクスは言葉を切った。続けてレンの方へ目を移し、僅かに首を傾げる。
「ねえアレン、君が排除するために雇った殺し屋さんってそこの黒い子だよね? 二人目。なんでそっち側にいるんだ?」
「それは───」
ルクスの誰何に、アレンが驚いてレンを見る。僅かに焦った口調になって、なにか彼が言おうとした時、そこに鋭く少年の声が割り込んだ。
「これは僕の意思ダ。僕が恩がアルから、僕自身ガ選ンだ! あなたたちとは、違ってな!」
黒い瞳に強い意志の光が灯る。その気配から、最初に感じた嫌悪感が無くなっていることに気付いて、トワイは驚いた。人は変われるのだ、と。少しだけ、少しだけ想う。願わくば、自分も変われていることを。
レンの言葉に、アレンもリフィスも動揺を示すことは無かった。言葉を返すことすらしない。ただちらりと目を向ける程度。それはきっと、彼らにとって当然のことだからだろう、とレンは思う。タイルの敷かれた床に靴底が擦れて、硬質な音を響かせる。
「貴方が、今棚に戻したそれ。それを、貴方たちから取り戻すために私たちはここに来たの。貴方のしてることは間違ってるって。誰かを犠牲にするやり方など、誰一人幸せにならないって。言いに来たんだよ!」
シュゼが、そう言った。純粋な青の目が鋭く煌めき、ルクスを睨む。となりでリュゼがそっと、自分の胸に手を当てた。そちらへ振り返ったトワイと一瞬視線が絡み、僅かに彼女は微笑んだ。ふ、と視線が動いて、リュゼが姉の後ろ姿を見つめる。かつりとタイルにブーツの底がぶつかって、彼女はシュゼの隣に立った。
「そうか。うーん、残念だね。僕もさ、好き好んで同族を殺したくなんてないよ? でも僕は、キュラスを発展させていかなくてはならない。だから殺すのさ。と言ってもそんな戦闘など出来ないからね……僕がするのは、もしもの時の後始末と責務を追うことだけ。つまりね……」
ルクスはそう言い放って、口元の笑みを深めた。ぞわりと怖気立つほどの執着と、曲がり折れた正義だと。シュゼはそう感じる。かつてはここまで歪んでなかったはずなのに、なんて。
「人を使うのさ───全員。殺してしまって」
明確な命令が彼の口から紡がれた。
それを聞いて、アレンとリフィス、そして老人が閃くような速さで動き出した。
- Re: 宵と白黒 ( No.35 )
- 日時: 2020/09/17 20:25
- 名前: ライター ◆sjk4CWI3ws (ID: cl9811yw)
□ △ □
フロアの床を蹴り飛ばして走ってくる少女は、レンの予想以上に速かった。
と、不意に先程までいっぱいに少女が映っていた視界が背景だけになって、レンは慌てて視線を下げる。
それとほぼ同時にリフィスは、体を前傾させていた。
は、と口の端に驚愕の言葉が乗る。僅か一拍初動が遅れて生じた、そのわずかな隙を縫ってリフィスは手を伸ばした。その右手に纏われた光輝に、レンの警戒が最大まで張り詰める。
反射的に胸の前で構えたナイフと、彼女の華奢な手が触れ合いかけ──黒の刃が、溶け落ちた。刃を形作っていた鋼鉄が、まるで水のように変化したのだ。
ひとつの黒い雫となって、刃だったものは床に滴る。
「ッ!」
「っは、浅い……!」
本当は今のでレンの身体まで触れるはずだったのに、とリフィスは秘かに歯噛みする。やはりリーチが足りない。そのまま本当に床に倒れ込みそうになりながらも、左手を床に突いて姿勢を回復する。
追撃されるか、いや姿勢が崩れるか、こちらから何か───いくつかの思考が断続的に、レンの脳裏を駆け巡る。次の瞬間少年が選んだのは、反撃では無かった。
凄まじい勢いで後退し、真後ろにあったドアを回し蹴りで蹴り開ける。木製ではあるもののスライドドアの形状をとるそれは、縦枠に勢い良く激突して音を立てた。
柄だけになったナイフを放り捨て、彼は廊下へ飛び出す。自由に動けるスペースの多い社長室では不利極まりない。
回り込まれて後ろから攻撃されるリスクを減らすのならば、戦場は細く絞るべき───レンの黒の瞳が、きゅっと収縮した。
「何を……」
小さく呟いて、少女もまた追撃を掛けようと廊下へ飛び出す。
リフィスの右手が突き出され、青いタイが目に焼き付く。社長室と同じように照明で照らされた廊下に、二人の足音と影が落ちる。
刹那、レンの力が発動した。
彼女は確かに、右手を突き出そうとした。そして、レンに触れようとしたのだ。
だが。リフィスの手は、真っ直ぐに上に伸びていた。
「少シ、お話したいことがアリマして!」
「貴方の力ですか、これは」
レンは少女の身体に走る信号を書き換え続けていた。右手を上に突き出す、という信号を、下に突き出す、というそれに書き換える───それが、彼が《人形使い》と呼ばれる所以である。彼が避け続けているのではなく、相手側が逸らされ続けている。
己の体の芯を狙って放たれた左の掌底を、右に逸らすように。力の籠った左手が逸れて、リフィスは体勢を崩しながらも、左足で床を踏み締めて回し蹴りを繰り出す。
えそれはちょっと体勢的に危うくないですか、という言葉が少年の口から漏れかける。ばさりと翻ったワンピースの裾、それらから慌てて視線を外した。バックジャンプして躱して、レンはそのまま口を開く。
「あの! 僕の話を! 聞イテクレマせんか!?」
いくら呼びかけても、リフィスは応じなかった。群青色の瞳が怜悧にレンを見据え、ただ殺そうと迫ってくる。こうなれば、実力行使しかないと───ようやく、レンはその結論に至った。
「ハァッ!」
明瞭に、気合いが響いた。はっと少女が顔を上げ、反射的に後退する。否、しようとした。
びきりとリフィスの脚が止まる。動け動けと念じる度に、動けなくなっているような気さえする。手を触れなければ彼女の力ははたらかない。いや、触れずとも領域を指定して使うことは出来るだろうが、精神力を削られる。
その空隙を縫って、そっとレンは年上の少女に歩み寄る。
顔に浮かべた微笑みの裏で、彼もまた必死だった。近付けば近付くほど、冷や汗が吹き出る。力が解けた瞬間に彼女の力で攻撃されるのは目に見えているからだ。触ったモノを液化する能力なのだろうか───何にせよ、その対象が人体になったときにどうなるかなど自明であり、レンも水溜まりになって死ぬなどごめんである。
□ △ □
老人が自分へ迫ってきたとき、トワイは驚愕とともに呟いた。
「師匠……」
「トワイ。俺は、お前を殺すぞ」
嗄れた声音が低く、トワイの耳朶を打つ。リュゼとシュゼを守るように、ジリジリと後退しながらも彼は前を向く。老人の手に握られた杖、それが彼の武器だ。それの先端がまっすぐに己に向けられているのをきつく睨む。
『僕は頭が良くてね? 大体のことは掴んでいるし、それに応じた策も打てる。貴方を雇ったのは、《宵》を精神的に殺すためさ。殺し屋さんは簡単には死なない、ならば心から殺せばいいじゃない。貴方だって、分かっているのだろ? 自分ではもう、彼には勝てないって』
ふっと老人の耳にルクスの声が蘇る。
トワイが家を出ていったすぐ後のことだった。煩く言う人間がいなくなったからと昼から飲みに行った時、彼は黒い長髪の男の依頼を受けたのだ───トワイを殺してくれ、という依頼を。
そして会ったルクスという男は、裏社会に浸ってきた老人の目から見ても狂っている人間だった。
どう考えてもおかしい正義を、当然のように語る。まるで無邪気な子供のように。だが、それと同時に、彼は責任を負う覚悟を持っているようでもあった。だからこそついて行こうとする者がいるのだろうが、とも思う。
皮肉げな口調でもなく、憐れむ口調でもなく、自慢げな口調でもなく。ただルクスは淡々とそう言った。そして老人もまた、シニカルに笑ってそれを認める。
トワイはもう自分より強い。それは分かりきっている。ならばなぜ、と。
「最後に言ってやらねばならぬな……お前はどちらを選ぶのか、と」
そう老人は答えを出した。最後に問わなくてはならない、彼の未来を。彼の師匠として。そして──自分だけが思っていることかもしれないにせよ──親の代わりとして。
□ △ □
- Re: 宵と白黒 ( No.36 )
- 日時: 2020/09/29 00:21
- 名前: ライター ◆sjk4CWI3ws (ID: cl9811yw)
- 参照: http://www.kakiko.cc
アレン・キュラスは、ルクス・キュラスに敬愛と尊崇を捧げている。
【『真名奪い』は神側の人間だ。そもそも力とは、人間が獲得した『防衛手段』であり『対抗手段』である。だが、あまりにも進化した人間を恐れた神は、真名奪いという形で神の力を分け与えた】
タリスクに伝わる神話では、真名奪いと力についてそう語られる。時として力は神をも超越するのだ。かつて、秋津の二人の少女が神から罰を受けたように。
真名奪いの力は、何者にも邪魔されない。たとえ魂の時を戻そうと真名は戻らない。依り代となっていたもの──ノーシュの場合であればスマラグドゥス──を破壊されれば、真名は行き場を失う。魂にも他のものにも宿れずに消滅する。真名を失った人間はそれ以上人間としてのかたちを保てず霧散し、消失を迎える──つまり死である。
この圧倒的な力が故に、ルクスはキュラスの一族に栄華をもたらす存在であると崇められ、畏れられてきた。だが、そんな者たちの望みが叶うはずもなく、彼が長になってもたらされたのは、粛清による変革であった。
懐古に鬱屈としていた若者たちからの期待、粛清が呼んだ憎悪。それらを一身に受けて、ルクスの人格は軋み、歪んだ。だが、決して折れはしなかった。常人ならばそこで折れてしまいそうなものを、彼は傍目からは何も分からないほど飄々と受け流す。
それが出来たのはきっと、己が正しいという絶対的な自信があったからだ、とアレンは思う。批判が一族の中からのみに留まらず、他の一族から集まるのも気にかけず。そんなルクスが、アレンにとって好ましかった。人の理から外れて法から外れて、自らの行いが悪であると理解して尚、ルクスについていくと思えるほどに。
「ルクス様の命ですので」
そんな言葉が、口の端からこぼれた。
動揺して身を引いている二人の少女を真正面に捉え、アレンはふわりとスーツの内ポケットへ手を差し込んだ。かしゃりと音を立てて引き抜かれた黒光りする拳銃の銃口が、躊躇うことなく向けられる。
「え、あ、は」
半ば覚悟していたはずの事だった。トワイに問われた事のはずだった。だが。数十メートル先で、銃口が己に向けられている。その事実に、床に氷漬けになったかのようにシュゼは動けない。ふと、思考が脳裏に閃いた。このまま体を横に倒せばいい、まだ間に合う。弾は後ろへ抜けていく、自分には当たらない、自分は助かる。リュゼに当ってしまうかもしれないが、彼女なら───そこまで思考が浮かび上がった時、シュゼは衝撃を受けた。
今。たとえ頭の中とはいえ、己は、自分の命とリュゼの命を天秤にかけたのだ。その事実に、身体が固まった。
彼女の価値観では、自己犠牲は善、他人を身代わりにするなど悪。
シュゼがもし避ければ、数秒後に発射される弾はリュゼを貫くだろう。その選択が、自分の命を守るという観点からすれば最良だ。それで良いのだろうかと、それが正しいのだろうかと。少し前の彼女なら、リュゼを守るために動いたであろう、欠片も悩まなかったはずのことが、今になって彼女の足を止めていた。
そんな迷いを、アレンが共有するはずもなく。
トリガーに掛けられたアレンの指に力が入り。たぁん、と乾いた音を響かせてシュゼ目掛けて弾丸が飛翔する。
「姉さん……ッ!」
悲鳴のようなトーンで叫んだリュゼが、シュゼの膝の裏へ抱きついた。がくんとシュゼの体勢が崩れ、そのまま二人諸共床へ倒れ込む。弾丸はリュゼの黒髪を数束吹き飛ばし、後方の床へめり込んだ。
「リュゼ!?」
かなり横の方から状況を見て取ったらしいトワイの叫びが、シュゼの耳朶を殴りつけた。ハッと意識がリュゼへ向く。
「リュゼ、ごめん……お姉ちゃん、なのに───」
「お姉ちゃん、お姉ちゃんって………たかだか数秒、先に生まれてきただけでしょう!?」
ずっと一緒にいるから分かってたよ、と。リュゼはそう思う。自分が必死になって、強くなろうとすればするほど、姉の心は離れていくのだ。そう分かっていたと。弱いフリをして、守られるフリをして、でもそれで誰かが傷つくのはもっと嫌で。押し止めようのない激情が、立て続けに吐き出される。
「リュ」
「戦うなら! 私は、シュゼと肩並べて戦うの!」
横から口を挟む隙を与えず、リュゼはそう叫ぶ。その日、初めてリュゼは姉のことを名で呼んだ。
- Re: 宵と白黒 ( No.37 )
- 日時: 2020/10/11 10:30
- 名前: ライター ◆sjk4CWI3ws (ID: cl9811yw)
- 参照: http://www.kakiko.cc
「シファ・レグランス……貴方は、いったい幾つの顔を持っているのやら。シールとルクスィエの方でなにか繋がりがあったみたいだけど、まあしょうがないよね」
ルクスは、長い足を悠然と組んで呟いた。口元に微かな笑みが刻まれる。
完璧じゃないか、とふと思う。アレンとリフィスには、ノーシュを旗頭にしようとする敵対派閥を叩き潰せるようにしようと告げてあった。つまり、真名を破壊することである。
「大人しくお姉ちゃんの後にくっついとけば良かったのにね。……残念だな。僕ノーシュには期待していたんだぜ?」
そう嘯いて、すっと立ち上がる。
右手側に備え付けられた本棚に目を滑らせれば、微かに煌めくエメラルドが目に入る。その隣には、スマラグドゥスと遜色ないほどの価値を持つ装飾品が並べられていた。
真名を封じる依り代の価値は、その対象の真名と釣り合うものでなくてはならない。無論価値とは希少性などによるものではないのだが、それが重要なファクターであるのも事実だ。ならばノーシュの強大な真名に対して、スマラグドゥスという価値の高いものが適合したのも道理である。
真名の強大さとは、力の大きさのみで計れるものではない。その人物の意志の強さ──自分が自分であることを肯定する強さ──が、大きく関わってくる。
つまり名前とは真名を守るための、人間による防衛手段のひとつなのである。
ぼんやりとノーシュの真名を奪った時のことを思い返しながら、ルビーの嵌め込まれた指輪を手で弄ぶ。白い前髪を軽く払って、ルクスはふっと独りごちた。
「まあ、こんな希少なものに相応しいほどのキュラスの人間なんて、もうほとんど居ないのだろうけれどね」
唇から小さく、落胆したようなことばが零れた。
シファと呼ばれた老人──師匠──は、ちらりと立ち上がったルクスに目をやった。トワイもそれに釣られて、一瞬ルクスへ視線を投げる。
白い前髪の奥から覗いた底知れない黒色の瞳が、青年の肌に悪寒を走らせる。あれはいけない、とトワイの本能が叫んでいた。今の自分では対抗しようのない存在である、と。
それに気を取られた一瞬後。老人の右腕が視界の端に揺れた。
気付いたときには老人の杖が目の前へ迫っていて、青年は反射的に右腕を上げる。左足を軸にして一回転、その勢いをもって杖を押しとどめようと試みた。
ナイフと杖の腹が激しくぶつかり合い、力が身体を圧す。圧力をどうにか横へ流し、床を後ろへ蹴り飛ばした。棚を背にして床を擦り、トワイは立ち止まる。風圧が髪を激しく揺らした。
「お前なら、どんな力であるのかも対抗策も分かるだろう?」
「ッ!」
ふっと光が瞬いた。シファの視線の先にあるのは、書類や骨董品が並んだ棚。彼の手が真っ直ぐに伸ばされる。
トワイは咄嗟にしゃがみこんだ。風切り音を立てて頭上を抜けていったのは、投擲された小さな置き時計。
「相変わらず厄介な使い方をする……!」
思わず口の端からそんな言葉がこぼれた。後ろで棚に激突した時計が、まわりの装飾品とともに床に落下する。一瞬目が合って、息を詰めた。
───視界に入っている、ある一定以下の大きさのものを己の手元へ移動させる異能力。つまり、たくさんのものが置かれているこの部屋は、圧倒的にシファが有利なのだ。そして、その力は、手に握られていたり押さえられていたりしても発動する。
つまりそれは、視界の中に居れば、ナイフすら奪われる危険性があるということ───
一瞬で思い出せる限りのことを思い返し、青年は音を立てて床を蹴り飛ばした。真っ直ぐ前ではなく、右手側へ。老人の視線が振られ、一瞬自分が捉えられていないのが分かる。
その一瞬を、青年は逃さなかった。
足が壊れてしまうほどの強さで力を発動し、爆発的に加速。
強く床が踏み締められ、『脚力』という概念が強化される。
老人の横顔を捉えて、低い体勢からそのまま刺突を繰り出した。不意に一歩、力の発動を止める。スピードが落ち、トワイの動きにラグが生じる。
後ろの方で、ドアが開く音が響き渡った。
対応しようと動いていたシファの目が開かれ、杖が空振る。意図的に速度を落として空振らせようとしたのだ、と気づいた時には、トワイの身体が迫り切っていた。
びきり、と。
音を立てたのは、トワイの右足。
体が止まった。同時に刃も止まった、老人の首の皮を表面を撫でて。彼を殺すには、トワイにとって些か積み重ねた時間が長すぎた。
力のかかった右足が軋み、激痛が貫く。骨にヒビが入った気がした。がくりと視界が揺れて、吐き気が込み上げてくる。
「やはりなぁ、お前は……」
彼は元来優しい人間だ。冷たい殺し屋という鍍金がシュゼとリュゼによって剥がされて、本来の彼が現れたというのが正しいのだろうか。
ふと笑みを落として、老人は足の向きを変えた。
「ならどうすればいいってんだよ!?」
それは紛れもない本心の吐露、低い声が木霊する。ぎっと食い縛られた歯に、拳がきつく握られた。俯いて、長い前髪が目を隠す。
「さて、お前に選択肢は四つ。ルクスを直接殺すか、スマラグドゥスを直接奪い取るか、殺されるか……お前が俺を殺すかだ。何が怖い? 敵を葬り去るだけだ、お前が幾度もしてきたことであろう?」
静かに老人はそう告げた。明確な選択肢の提示、そして問い掛け。
「それが」
それへの答えを、トワイが言いかけた時。
不意に、リュゼたちがいるはずの方から乾いた音が響いた。びくりと意識が再び張り詰め、反射的に振り向く。ルクスのやや前方で、アレンと呼ばれていた黒髪の男が拳銃を構えていた。表情の見えない、能面のような貌だった。
- Re: 宵と白黒 ( No.38 )
- 日時: 2020/11/23 01:01
- 名前: ライター ◆sjk4CWI3ws (ID: cl9811yw)
- 参照: http://www.kakiko.cc
立て続けに悲鳴と同時。床へ倒れ込む音がした。
「リュゼ!?」
反射的に声を上げ、視線を横へ振る。血は見えない。それでもシファのことを完全に意識外に置いて飛び出しそうになって、ギリギリで踏みとどまる。思わず背中を向けていた、彼に……殺されるのか、と。
視線の先で立ち上がった二人が、何事か話しているのがかすかに聞こえた。どうやら二人とも怪我はないようで僅かに安堵する。だが、依然として数十メートル先の脅威が去っていないのも事実。
「なるほどな」
「どっちをだ……!」
小さくなにか呟いたシファのことを、今度こそ無視する。今までだって散々隙はあったのだから、殺そうと思えば殺せたのだ。アレンへとトワイが駆け出そうとした時───唐突に、後ろから老人の気配が消えた。凄まじいスピード。はやい、とつぶやきが漏れる。
はっとして、再び意識の焦点を老人へ向けた。
足音が響く。目を見開いて、後ろへと振り向いて。リュゼを狙って、杖が振り上げられていた。その状況を写して、次の瞬間トワイの足が踏み出される。壊れる、と思った。でも、それよりも何よりも。
「今か……」
呟いたアレンの声が遠く聞こえる。スライドが動く音も聞こえた。全てがスローモーションになったかのようだった。黒髪の少女を狙って振り下ろされる老人の杖、半歩足を引いたリュゼ。シュゼの手が伸びて、炎が宿される。彼女と共に戦わんと、彼女の意志を写すかのように燃え上がったそれ。青い光が目を刺した。
それから闘志を分け与えられたかのように。その一瞬で、トワイは今までにないスピードで加速する。
「ッはぁ!」
強烈な意志が力のリミッターを外したのだ。足の筋肉から、筋が断裂する音がした。貫かれたような痛みが駆け抜けて、膝から崩れ落ちそうになる。
あと一歩が届かない。
「リュゼ……!」
「恨むなら、俺を殺せないトワイを恨むことだ」
「私は!」
入り交じって三人の声が聞こえ、がくりと思考が揺れた。
青い火が舞っている。真っ直ぐに伸ばした左の手のひらの先、揺らぐ魂のように纏われた火。踏み締められた床と、隣に感じるリュゼの気配。大丈夫、と呟く。右手が一瞬、隣のリュゼと触れ合った。
「お姉ちゃんだ何だって言わないことが、出来ることをやらない理由にはならないでしょ……ッ!」
「私も、わたしに出来ることを……!」
二人の決意が、明確に紡ぎ出される。青く燐光を纏う確かな熱量を保った左手が、杖に向かって伸びた。
視界を満たした老人と杖、自分では何ら対抗手段を持ち合わせない。自分に何ができるのかと、リュゼがそう思ったほんの刹那。後ろに、紺色の髪が見えた。
鋭く息を飲む。それに向かって、真っ直ぐに手を伸ばして。はっきりと、時計の音が響いた。
かはっ、と。リュゼの口から血がこぼれた。途端に時計の音が弱々しくなる。うそ、と口の端から声が零れた。キャパシティを超えた力の行使。一日中、今までろくに使った事のなかった強力なものを乱用したのだから当然だ。
それでも、リュゼは意思を振り絞った。トワイが身を削っているのなら、己も身を削らなくてどうする、と。再び、音が復活する。真っ直ぐに、どこまでも清らかに。
足が再び戻ったのを、トワイは感じた。万全な状態へ。走れる、と思った。リュゼを守る、師匠を殺すことはもう厭わない。受け止められる、私なら大丈夫───シュゼとトワイが、そう決意した矢先。
たあん、と。乾いた音が響いた。
「が、はっ……」
紺色の髪が、後ろから数束空中へ跳ねる。弾が貫いた先は己ではなく───
視線を上座に振れば、アレンの拳銃の銃口が真っ直ぐにシファを照準していた。トワイの目の前で、赤く血が跳ねた。頬に降りかかるそれに、意識が奪われる。呆然とリュゼは上を見上げた。ゆっくりと力を失って倒れ込む彼。
「師匠ッ!」
自分でも驚くくらい張り詰めた声が、半ば悲鳴のようになってトワイの口から飛び出した。
「トワイさん、あ」
全て忘れて駆け寄ろうとした時、立て続けにスライドが引かれる音がした。今度の照準は、紛れもなく自分たちだ。
「無駄弾を撃たせないでもらえると助かるのだが……?」
アレンの呟きが落ちた。ルクスの口元に浮かぶ笑みが深まる。
「シュゼ、リュゼ……!」
トワイは刹那、どちらを取るべきかを迷ったように瞳を動かした。だが横合いから小さく、リュゼの声が響く。シュゼを信じて、と。空色の瞳は迷いなく。自分でも何故そんなことをしたのか分からない。
だが、この状況で唯一動けるシュゼを信じるべきだと、そう告げた。
「……私が……!」
───びりっ、と。隣で舞った血に呆然としていたシュゼの頭の中で、火花が散った。意識が急激に研ぎ澄まされる。それは極度の集中状態だったからかもしれない。何故かは分からないにせよ、シュゼは感じた。
アレンの持つ銃の中で、今にも張り裂けようとしている火薬を。
それを使えば、あれを止められると。
手を。伸ばせ、と。
「……っ、あああっ!」
弾丸の中に詰められていた火薬が、シュゼの力と共鳴する。きぃーん、と高音が脳裏に鳴り響く。頭が痛む。足元から、光が舞い上がった。
シュゼの左手が握りしめられる。
残弾十六発。その全てが、爆裂した。
「ぐ、っ!?」
アレンの手から、拳銃が跳ね落ちた。暴発か、と彼は口走る。だが、それにしてはおかしいほどに威力が強いし、引金にまだ触れていなかったはず。
内側から粉々になった拳銃は、まるで他の誰かの干渉を受けたかのように粉砕されていた。破片が幾つか手を切り裂いていき、熱された鉄の欠片が手を焼く。
「あ……!」
「シュゼ!」
華奢な少女の喉の奥から、掠れた声が零れる。一瞬飛びかけた意識が、リュゼの声で引き戻された。
凄まじい共鳴音が脳内に響き、そして止まる。手元の青い炎が一瞬白くなり、青に戻り消失した。頭が割れるように痛む。力の使いすぎだ、と思った。
ふらりと足から力が抜ける。ぎりりと歯を食いしばって、アレンへ視線を飛ばした。
死にかけの中で、ゆっくり走馬灯が巡っている気がする。彼を拾おうと思ったのは、本当に気まぐれだったはずだ。捨てる駒がいるのも悪くはないのかもしれない、と思ったからかもしれない。
「お前は、もう大丈夫だろ?」
掠れた声が零れ落ちた。名前を呼んでくれる誰かが他にいて、彼もまたその誰かを大切にしているのなら。きっともう、自分は要らないのだなと、そう思った。
──きっと、彼女は他者を変えられる何かを持っている存在なのだろう。一目見た時にわかったような気がしていた。あの少女が持つのは、自分の生ではなく、他人の生を望む力だ。他の人間とは本質が違うのだろう、と。
「死ぬのか、師匠……?」
「わ、わたし、なら、貴方を」
途切れ途切れに紡がれた少女の声。懸命に力を発動させようと、誰かが死ぬのは嫌だと。右手を翳して願って、それでも時計の針の音は響かない。口の中が血の味で満たされる。頭が痛い。身体を丸めて、深呼吸する。
同時に、シファもこほ、と口元から血を零れさせた。
「大丈夫だ、お嬢さん…………そうだな……してやられた、か? 口惜しい、と言うか……ルクスたちの計画を狂わせるのは……無理、みたいだな……」
ざわりと胸の奥で過去が揺れる。かつて自分を呼んでくれた少女の、爽やかな柑橘の香りが思い出された。ルクスィエもシールも、そしてキュラスも。皆哀れな一族だったのだな、と思う。
「ガキだな、さっきまでオレを殺すとか言っといて……自分が死にそうになったらそんなこと言うなんて、さ」
「笑っとけ。狙って……のは………れか?」
- Re: 宵と白黒【半分は更新】 ( No.40 )
- 日時: 2020/11/01 11:13
- 名前: ライター ◆sjk4CWI3ws (ID: cl9811yw)
- 参照: https://www.kakiko.info/upload_bbs3/index.php?mode=article&id=1854&page=1
頂きものを一応記しておこうかな、と思いまして。本文にはどうやらリンクが貼れないらしいので一つだけ。
だいぶ前に頂いたものなんですが、ヨモツカミさん(『継ぎ接ぎバーコード』『まあ座れ話はそれからだ』『枯れたカフカを見ろ』など)からシュゼとリュゼです。
ありがとうございます!!
(ついったーの方で他の方からも貰ってるんですが、とりあえずカキコの方だけで失礼します)
- Re: 宵と白黒【半分は更新】 ( No.41 )
- 日時: 2021/01/03 18:39
- 名前: ライター ◆sjk4CWI3ws (ID: cl9811yw)
弱々しく伸ばされた指先が、真っ直ぐに棚の一部を指さす。緑に煌めく懐中時計。自分の力が脅威になりうるのなら、そしてもう死ぬのなら、体面などなにも気にする事はなかった。
「そうだけど、でも、だけど」
ふっ、と。弱々しく光が瞬く。およそ殺しには向かない力だと、改めて思う。だから自分はトワイを拾ったのか、とも。それと同時に、そう思いたくない自分も確かに存在した。口から血が吐かれる。
なぜ生きているのかすら不思議なほどの致命傷を負いながらも、老人の手は伸ばされた。緑を彼の瞳が映す。
「まさか……!」
「ルクス様!」
彼らを遠くから眺めていたルクスが信じられない、という風に呟いた。アレンの叫びがそれを追う。
最悪を阻止しようと、ルクスは動く。手が懐中時計の蓋にかかる。ほんのわずか躊躇って、彼はノーシュの命を奪おうと、時計を破壊しようと試みる───よりも一歩。
シファの方が、早かった。
「し、しょう……」
トワイの声を、聞いたか聞かなかったのか。一際強く、光が閃く。ルクスの顔に、今度こそ明確な驚愕と動揺が走った。
「貴様、ッ!」
アレンが右手から血を流しながらそう叫ぶ。彼が動こうとしたその時、シュゼは真っ直ぐに手を突き出し叫んだ。いや、叫びと呼べるほどの声などもう出なかった。わずかに掠れた低いトーンの声が響く。
「止まって」
ぼっ、と青い炎が右手の中で小さく揺れる。警告にしかならない、弱々しい炎。
だが、アレンはその一瞬、少女の放つ『殺気』と呼べるなにかに竦んだ。守ろうとする意志が確かに、敵の足を止めている。そのまま動かないアレンから視線を外して、シュゼはそっと目を落とす。
「これが……」
「うん……きれい、だね」
スマラグドゥスの輝きを前にして、リュゼが小さく嘆息した。
しゃらり、と鎖が鳴る。老人の手元を銀の鎖が彩った。緑の貴石の表面を、ゆっくりと血が流れ落ちる。鎖を緩く搦めた彼の手に、トワイは手を伸ばした。なにかちいさく、師匠は呟く。
「好……なよ……に……い」
「聴こえねぇって、」
「ろ……」
そこで、老人の言葉は途切れた。それ以上、彼は何も言わなかった。否、言えなかった。微かに口元に笑みを浮かべて、殺し屋には度が過ぎるほど幸せげに。老人の呼吸は止まっていた。
シュゼとリュゼがつかの間息を止め、トワイはかすかに息を吐いた。
ありがとう、と。
四話:自由と命令
>>42-45
- Re: 宵と白黒【半分は更新】 ( No.42 )
- 日時: 2020/11/28 12:29
- 名前: ライター ◆sjk4CWI3ws (ID: cl9811yw)
四話:自由と命令
□ ▽ □
「貴女の、手首のソレ。ソレノ元の持ち主さんカラ、お願いサレタんです……!」
レンが力を発動し続けながら、右手で青のリボンタイを指し示した。
するとリフィスはハッと顔を上げる。目を隠しかけている前髪の奥から覗く瞳に、ほんの少し光が浮かんだ。微かに口元が弧を描き、氷のように纏われていた殺気が解けかける。
「そうですか……」
しんと静まり返った廊下に、少女の声が響き渡る。壁にいくつも設置された大きなオブジェが、きらきらと光を反射していた。
ふっと深呼吸して、レンが力の発動を止めた。汗が頬を滑り落ちる。その瞬間に彼女が飛びかかってくるのではないかと、そんな不安に一瞬囚われる。だが、現実にはそんなことはなく。かくりと少女の身体が揺らぎ、制動が解けた。人形じみた動きでつんのめるように、一歩二歩とリフィスは床を踏む。
「……何故です?」
「僕はアナタを殺しに来たノデハないので」
ほんの数メートルの距離を置いて、二人は相対する。
レンはずっと目を細め、リフィスの瞳をじっと見詰めた。方策など何もなかったし、彼女の為人を深く知っているわけでもなかった。だが、彼にはどうしてもリフィスと華鈴が重なって見える。自由を望むのか否かが異なっても、根本的な部分は同じだ。
誰か他人のいいように動かされて、簡単には抜けられない柵に囚われている、という。だから救ってやりたい。漫画の主人公みたいに、心を込めて話せばきっとできる、と。かつて彼女に出来なかったことを。
───誰かを重ねて見て幻想を抱くほど、自分は彼女に焦がれているのだな、と思う。
「ダカら……やはり、無理ナノです」
傷付けることなど、と口の端に溶かして、小さく呟く。ぐっと強く右手を握った。どうにかして説得しなくては、と思う。
その言葉は耳に届いていないのだろう、リフィスはふっとため息をついた。
「ああ……駄目ですね、ルクス様の命を果たさなくては。私はルクス様の為に生きなくてはならないのです」
余計な思考を追い出すように頭を振って、彼女は足を踏み出す。だが、黒髪の少年の目は、ただ真っ直ぐにリフィスの瞳を射ていた。その視線に込められたものが、どこまでもブランシェに似ていて。
ほんの少しだけ、自分でもよく分からない気持ちが胸の奥に生まれる。
「何故そんな目で私を見る……」
「ッ貴女は気付いてないかもシレナイけど! 人は、もっと自由に生きてイイんだ、望むように生きていいんだ! そんな洗脳ジミタやり方をする主なんて絶対に間違ってる!」
「洗脳、ですって?」
す、と。少女の瞳が、再度一瞬で凍るのをレンは見た。
「それは、ルクス様に仕えることが悪だと……そう宣っていると受け取られても仕方ない言い方ですよ、レン・イノウエ」
- Re: 宵と白黒 ( No.43 )
- 日時: 2020/12/05 10:13
- 名前: ライター ◆sjk4CWI3ws (ID: cl9811yw)
ルクスは彼女にとって存在意義だった。確かに力の制御が出来なかったリフィスを、曲りなりとも出来るようにしてくれたのはブランだ。不用意に人を傷つけてしまうかもしれない、なら自分は誰とも関わらない方がいい。
そんな風に思っていたリフィスを、彼女は救ってくれた。
それでも。
「……私は、要らなかったんですよ」
制限された力では役不足、さりとてそれがなくては人を傷付ける。その二択から自分を救ったのは、確かにルクスだったと、リフィスはそう記憶する。
洗脳されているのか、自分は。そう自問自答して、手のひらを見つめる。長く静寂が廊下に落ちた。社長室の方から、立て続けに発砲する音やら足音やら叫び声やらが響いてくる。
───強要しているつもりは欠片もないよ。拒否してもらってもかまわない。
真っ直ぐにリフィスの目を見つめてなお手を取って、ルクスはかつてそう言った。その手を握り返して、彼を主と定めることを選んだのは、間違いなく自分だ。
「私はルクス様に必要とされていればそれで良いのです。私は、自分の意思で、それを選んでいる」
ふと笑みを零して、リフィスはそう言った。光の僅かに戻った目でレンを見つめ返し、静かに彼女は告ぐ。
「あなたは、先程の方たちとはまた別の目的を持ってここに来た。だから、咎められるべきではないかもしれない。ですが、ルクス様はあなたすらも殺すことを命じられた───ならば、私はそれを遂行するのみ」
「……僕は、アナタを殺せない」
「なら大人しく、死んでください」
ふっ、とリフィスの右手が突き出される。今の彼女に、微塵の躊躇いなど存在しようはずもなく。
眼前に伸びた指先を目が捉えて、ようやく危機を認識する。ぞわりと肌が粟立って、半ば反射的に力を発動しかける。また戦況が膠着状態になるのを嫌って、レンは慌ててそれを止めた。
だが大人しく溶かされるわけにも行かず、床を蹴って後ろへ飛ぶ。
ふわり、と。リフィスの手のひらが空を切る。レンが嫌った千日手になることを薄々感じつつも、リフィスはそれでも愚直に手を伸ばした。
どうせ自分はそれしか出来ないのだから。
「それしか、私は必要とされていない───ッ!」
ルクスは、彼を殺せなければ、自分を必要のない存在だと思うだろうか。いや、きっと彼は思わない、とリフィスは刹那考える。あんなに配下を思い遣れる方がそんなこと、と。
後ろへ退がり続けることしか出来ない彼を追って、リフィスは飛ぶ。レンへ肉薄して、その刹那。
「僕は───」
ゴム製の靴底と、床が擦れ合う音がした。
「は……!?」
一歩、少年が踏み込む。
退ることしかしないと思っていた彼自らが、間合いのうちに踏み込んできた。それに僅か驚愕して、リフィスが僅かに攻撃を躊躇う。あたかもそれを狙っていたように、レンは鋭く手を伸ばした。
彼とリフィスの、たった数十センチメートルの間に、一瞬静寂が落ちる。
「僕ハ貴女二! そンな悲しいコトを言ってほしくない……ッ!」
レンの半ば悲鳴のような声が、空隙を裂いた。
力を使われるにせよ、距離を取ったって意味は無い、と。瞬間思考して、リフィスも踏み込む。黒い瞳と視線が交差、右手が彼の頭に向かって伸びた。
と同時に、少年の身体から力の行使を示す光の粒子が舞い上がる。
「僕はアナタを……!」
「ッ!」
逸らされるか、制動をかけられるか。反射的に右手を引いて、力によってもたらされるはずのブレーキに備えて重心を低く落とす。廊下に高くブーツの足音が反響した。どうせ彼は刃を持たないはずだ、と。
- Re: 宵と白黒 ( No.44 )
- 日時: 2020/12/13 00:10
- 名前: ライター ◆sjk4CWI3ws (ID: cl9811yw)
だが、いつまでも予期したような制動は訪れない。
黒髪の少年の顔から、ふっと表情が消えた。いつの間にか光輝は収まっていて、二人の間に膠着が落ちる。
「ブラフですか……!」
「ええ!」
それと同時、鋭く頭痛がこめかみに走る。過度の力の行使の際に表れる特徴的な頭痛。ふらりと足から力が抜ける。ショートブーツがたたらを踏んだ。
蛇口をしっかり閉めて、無駄を無くすイメージ──かつてブランが教えてくれた、力の制御のコツを思い出す。
そうして深呼吸する度、ゆっくりと頭痛が引いていくのが分かった。刹那飛んだ思考を立て直して、リフィスはすっとレンを睨む。
その先で、レンは何事か呟いていた。
『あなたはなんで……僕が間違ってるのか……? ブランさんの言葉は───僕やブランさんにはそう見えるってだけの話なのか……?』
───あの子に選択権なんてなにもなくて、ただ刷り込まれたことだけやってるだけだ。それじゃ機械となんも変わんないだろ……!
その言葉がゆっくり、レンの脳内に響く。
そうだ、きっとそうだ、とレンは信じる。少なくともレンにはそう思えたから。華鈴はあんなにも望んでいたではないか、誰の干渉も受けずに自由になることを。その価値は自分よりも大きかったのだろうから。ならば、自分が言うべきは。
「貴女はもう、解放されてイイんだと思うのです」
その先で、切なげで泣きそうな笑顔を顔に浮かべて、少年はそっと告げた。雨上がりの空気の匂いのような、苦しくて切ないなにかが、心の内を吹き荒れる。華鈴さんならなんて言うかな、と小さく呟いてみる。
「私は……」
解放されていい、と。自分は許されたかったのだろうか、とリフィスは思う。だから、ルクスの元に仕えたのか、と。
───もし、もしも。解放されていいってのが耳障りのいい、ブランさんに言わされた嘘だとしたらどうすればいい? ルクス様が私が思うような方ではないとしたら、このまま彼に縋った私は、要らないと思われるんじゃないのか?
「私は、必要ないんですか……? なにを……?」
焦燥が喉を灼いていた。自分が立っている場所が揺れている気がする。何をしていいかわからない。ここに指示を仰げるルクスは居ない。ならどうすればいいのだろう、と。ぐらぐらと頭が揺れる。もう何も分からない。
───今日で全部、終わりにしよう。キュラスの皆に示すんだ、僕が居た方が幸せだって。僕は皆を幸せに出来る存在だってことをさ!
そう言ったルクスの姿が、ふと閉じた瞼の裏に浮かんだ。
「承知しました」
しずかに了解を呟いて、リフィスは右手を伸ばした。ふっと心中が凪ぎかける。
それと同時に、先程の言葉がフラッシュバックした。要らない、と。
「あ」
彼を。彼を、殺さなくては。呼吸の度に、その焦りが身体中に溢れていく。そうしなくては、ルクスに切り捨てられるかもしれない。そんな恐怖が、焦燥となって喉に込み上げていた。
一方でそんなことのために動いている自分は、何か違う気もしていた。自分はそんな対価のためだけに、ルクスを従っていたのだろうか、と。必要とされるから従っていたのか。
なにかもっと、己の本質が───
「私は……要らないと言われるのが怖かったんですか? 私はなんでルクス様に仕えていたんですか? 私にとって唯一でも、ルクス様には簡単に切れる程の縁だったのですか? 洗脳されていたから、私とルクス様は、そんな関係だったの? それとも、私は贖罪がしたかった? 昔私は、ねえ、私は!」
「アナタとよく似た人ヲ知ってイマす。その人は居ナクナッテしまった。僕では足りなかった。僕は一番になれなかった、と思う。僕は彼女のことを、救うことが出来なかった」
- Re: 宵と白黒 ( No.45 )
- 日時: 2020/12/23 07:59
- 名前: ライター ◆sjk4CWI3ws (ID: cl9811yw)
レンは唐突に、そう言った。廊下の無機質な距離を挟んで、リフィスはレンの瞳を見る。空白がほんの一瞬広がった。
ゆっくりと息を吸った少年が、はっきりと少女に告げる。
「ダカラ、僕はアナタを救いたい。せめて……」
せめて、と、少年はそう言ったか。よく似た人を救えなかったから。その意味で、彼はそう言ったのか。
リフィスの中で何かが弾けた。顔をはね上げて、レンを睨む。かつてないほどの怒りを映して、その顔が歪んだ。
「それって、私を誰かに重ねて見てるってことですか……もう本当に、やめてください、私は! 私を必要としてください! 私の力じゃなくて、私の他じゃなくて、私を! 勝手に色々押し付けて、幻想抱かないでよ!」
思いの丈を吐き出して、リフィスは少年の目を見る。かつてないほど、彼女の心の内は波立っていた。群青の双眸が、凛烈とした光を宿して煌めく。
初めて目を合わせた時とは段違いの、荒れ狂った感情が叩きつけられて。ひゅ、とレンは気圧されたように息を飲んだ。
「ごめん、なさい」
そうだ、と思う。なぜ華鈴は己を好いてくれたのか、それを唐突に理解した。そしてリフィスが何を求めているか、ということさえも。
───私は華鈴。それ以外の何者でもない。
かつて彼女はそう言ったではないか。華鈴はきっと、自分を見てくれる人間を求めていたのだ、と。哀しげな目をして、少年は淡く自嘲の笑みを浮かべていた。
レンは華鈴と言う前例を知っているが故に、リフィスを見ることが出来ない。その人自身を見ないのは、決してしてはならないはずなのに。
「私はルクス様のことを何よりも大切に思っている。だってルクス様は、私を必要としてくれたから」
レンの吐き出した想いに答えるように、リフィスは呟いた。
5話:終幕
>>47-
- Re: 宵と白黒 ( No.46 )
- 日時: 2020/12/20 21:53
- 名前: ライター ◆sjk4CWI3ws (ID: cl9811yw)
- 参照: https://www.kakiko.cc/novel/novel6/index.cgi?mode=view&no=19542
ここで、お知らせをひとつ。
ヨモツカミさん作の『継ぎ接ぎバーコード』とコラボさせていただきました。楽しかったです……ありがとうございました! トワイとリュゼがジンくん、トトさんと喋っています。大感謝……!!!
上記リンクから飛べますので、よろしくお願いします。
- Re: 宵と白黒 ( No.47 )
- 日時: 2020/12/20 21:55
- 名前: ライター ◆sjk4CWI3ws (ID: cl9811yw)
- 参照: https://www.kakiko.cc/novel/novel6/index.cgi?mode
5話:終幕
「あ……はあ。本当はやりたくなかったんだけどね……トワイくんって言うのだっけ。きみがいちばん簡単そうだ」
ふと静寂が落ちた空間に、ルクスの言葉が落ちた。そのまま棚に近づいて、ゆっくりと飾ってあるものへ目を滑らせていく。目に付いたペンダントを手に取って、そっと三人へ足を向けた。
その仕草に、何かに気付いたらしいアレンがルクスへ振り向いた。
「用意、しておいてくれる?」
「ッ───承知、致しました。貴方が失敗など、するはずがない。私はそれを信じております」
「僕はいい人間に慕われたものだな……君とリフィスを見てるとよくそう思うのだよね」
なにか諌言を口走ろうとした彼を手で制し、ルクスはかすかに微笑んで、アレンにそう告げる。ふっと表情を元へ戻し頷くと、アレンは棚にそっと近づいた。置かれていた宝石箱のひとつへ手を伸ばして、くるりとルクスを振り返る。
淡い笑みすら浮かべて、ルクスは悠然とペンダントトップを握る。
トワイがその行動を怪訝に思った直後、シュゼがヒュッと息を吸った。あの動作、あのアレンの言葉には覚えがある。まさか、と刹那思い───トワイへ警告を発する間すらなく、唐突にガラスが砕けるような、清冽で怜悧な音が響き渡る。
凄まじい光輝が、部屋を照らした。ルクスの右手に握られた燐灰石のペンダントが、その光を纏って煌めいている。
「────!」
それと同時に、がくりとトワイが身体を半分に折る。噛み締められた歯がギリギリと音を立て、床の上で握りしめられかけた拳が暴れ回る。どこも身体は傷付いていないのに、全身が痛い。
凄まじい痛みが、身体を、魂を貫いていた。それは、魂を侵される苦痛だ。魂に刻まれた真名を、神の力の片鱗によって摘出し封じる───それが、真名を奪うということである。
「え、トワイさん!?」
「トワイさんッ」
シュゼとリュゼが動揺して声をかけても、動く気配がない。私の警告が間に合わなかったせいだ、一度見ていたのに───そんな後悔が湧き上がる。それでもシュゼは、弾くように顔を上げた。自分のすべきことをやる、と心に決めて。青い瞳がルクスの方向を睨みつける。
不意にアレンの黒い瞳と目が合って、彼女は鋭く息を飲んだ。ひたすらに苦しげな、誰かを心配するかのような、そんな目だった。
「やめてよ……」
彼は、ただルクスの命令で動くだけの人形などではなく。確かにアレンはルクスの忠臣であったのだと、その目を見てシュゼは悟った。
「───! ─あ、───」
「とわいさん!!」
トワイは呼んでも何も反応を返さない。ただ苦鳴を上げ続けるだけの彼を前に、何もできないことを悟って、それでもリュゼは必死に名前を呼んだ。なにか力になれていることを必死に祈りながら、彼の手を握る。
- Re: 宵と白黒 ( No.48 )
- 日時: 2020/12/27 15:22
- 名前: ライター ◆sjk4CWI3ws (ID: cl9811yw)
- 参照: https://www.kakiko.cc/novel/novel6/index.cgi?mode
「トワイさんッ! とわい、さん、トワイさん!」
リュゼがしかとトワイの手を握ってそう叫ぶ。
「はは……その程度で神に抗えるとでも?」
それを嘲笑うかのように、ルクスはふと呟いた。アレンがおもむろに彼に寄り、前に立ちはだかる。
ぼんやりとした、紺色の空間だった。真名奪いのみが視ることの出来る、魂の空間。中心に浮び上がる光へ、そっとルクスは『手』を伸ばす。質量も実体もない、ルクスのイメージで構成されたそれは、ただ真っ直ぐに不安定に明滅する光へと伸びる。
普通の人間ならば多くの防壁があるものだが──それは名前であったり、記憶であったりといった己を構成するもの──、この青年に限ってはそれが障子紙のように薄い。
大した労力をかけることなく、ルクスが真名へたどり着くかに見えたその時。
不意に『手』が、障壁にぶつかった。
誰かが彼のことを呼んでいる。真名を守るための名前で呼んでいた。それに応じようと、彼の魂が震える。それはつまり、彼であることを肯定しようとしている。障壁が強固になっていき、光がより光輝を増す───
ふっ、と痛みが消えた。淡くて優しい感覚に全身が包み込まれる。
青年の中で、魂に残っていた残滓のような記憶が舞い上がっていた。もう自分はとうに忘れてしまったと思っていた、幼い頃の記憶だ。
家族の記憶だった。擦り切れたフィルムが映し出す質の悪い映画のように、所々がはっきりと見えない。声などほぼ聴こえないに等しい。
────母もまた、殺し屋だった。紺の髪と、夕暮れ色の目の女性。
そして、裏の世界で勁く生きた女性だった。父は分からない、行きずりの男だったのかもしれない。依頼人だったのかもしれない、あるいは彼女を愛した男がいたのかもしれない。青年が物心ついた時には居なくて、でもそれは常闇街では珍しいことではなかった。
自分を産んで、五、六年が経った頃だったのだろうか。致命的なミスを犯し追われる身となった母は、自分を連れて狭い世界を逃げ惑った。
血塗れになって、ボロボロになって、それでも彼女は彼の背を押す。
『逃げ──い! ───、あなたの脚───大丈夫だから、どうか、生───』
ジーッ、ジーッと音を立てて記憶が揺らめく。声も映像も、もうまともに見えやしない。
でも、分かることだってある。裏の世界の辛さを、きっと母は知っていた。でも、彼女は産むことを選んだ。ただ生きてほしいと、そう願っていた。
それは、愛されていたということだろうか。ならば自分は何が欲しかったのだろう、と彼は思う。家族か、愛してくれる人か。自分はリュゼに何を見出したのだろう、と。
そうか、とふと悟った。
「そんなもので………!」
現実の世界で、ルクスの声が聞こえた気がした。悠然とした態度を常に崩さなかった彼の口の端に、僅かに焦燥が乗っているような。
シュゼと目を合わせていたアレンの瞳孔が開かれる。
「───…ッぐ…名前を呼れ……ッ…る、そんな普通が、欲しかった…………!」
痛みに呻きながら抗って、吐き出すように。それに、はっとリュゼが顔を上げる。シュゼが短く頷いて、リュゼの背を僅かに押した。
「私がここにいる……! 大丈夫、あなたはそこにあるから……!!」
リュゼが叫ぶように、そう言った。
- Re: 宵と白黒 ( No.49 )
- 日時: 2021/01/09 15:36
- 名前: ライター ◆sjk4CWI3ws (ID: cl9811yw)
弾けるようにネックレスがルクスの手から飛び、チェーンが空中へ舞う。天井の照明を反射して、真名の圧に耐えきれなかったそれが、きらきらと煌めいた。
がくりとルクスは膝を折る。かは、と、吐く息の中に血が混じっているのを見て、アレンは歯を食いしばった。だからあれほど、という言葉を口の端に溶かして、黒髪の男は立ち上がる。
ネックレスが、真名の力に対して全くもって釣り合わなかった。その場合の真名奪いへのフィードバックは、とてつもない痛みを伴う。本来そう易々と人間が行使できる力ではないのだ、とアレンは思う。
未だに痛みの余韻で立てないトワイと、それを介抱するように寄り添ったリュゼ。その二人を守るかのごとく、シュゼがきっと彼らを睨んで立ち上がった。
「ルクスさん、もうやめなよ。いまならきっと、まだ……!」
シュゼのその言葉に、ルクスはそっと眉根を寄せた。顔を上げた彼は、心底分からないとでも言いたげに首を傾げる。
「なにか勘違いしているようだから言っておくけれど。僕は僕自身の保身がしたいんじゃないんだぜ? 僕が居なきゃキュラスは成り立たない。ノーシュの記憶が戻れば、僕はこの立場を追われるだろうね。だから僕は君らを逃がす訳には行かない」
「いくらなんでも度が過ぎてるよ! そんなやり方じゃ、誰も幸せにならない……!」
シュゼが叩きつけるように叫んだ言葉に、ルクスは目を瞬かせた。数秒かけてその言葉を咀嚼する。その意味をようやく理解すると、無意識のうちに顔を歪めていた。
それに気付いたアレンが、主を庇うように声を響かせる。
「ルクス様、貴方は間違ってなどいない」
「アレン」
す、と、ルクスの右手がそっとアレンを制止した。圧倒的な威圧感を伴って、ルクスは淡々と、言い含めるように口を動かす。黒い瞳が煌々と光を帯びて三人を見つめた。
『幸せにならない』と。彼女はそう言っただろうか。その言葉が、頭の中にエコーを伴って響きわたる。
「もう、馬鹿みたいだな」
口元から血を零した彼は、凄絶なまでの笑みを閃かせていた。はははは、と。声にならない笑い声が、喉の奥から込み上げる。
自分が今までどれほど苦労してきたかも知らずに、この少女は。
それと同時に、それは自分の努力を否定されたくないだけのエゴなのだと、そう理解する自分も存在する。本当の救世主とは、本当の良き主とは、そんな醜いものではないのだろう、と。
「ルクス様、貴方は」
「さっきのが、黙れという意味だってことが分からなかったか?」
今まで張っていた糸が、ぷつりと切れたような。そんな口調で命を下す主に向けて、アレンは声を掛けようと試みる。感情など映さない仮面のようだった顔が、主を止めることが出来ないという事実を前にして、酷い焦燥に染っていた。
それに反して、ルクスの顔はとてつもなく静かだった。先程までの笑みは消えていて、仮面を付け替えたかのような無表情がそこにある。最後までアレンに言葉を紡がせぬまま、彼は告げた。
「終幕、だ」
彼はちらりとアレンに視線を投げる。微かにアレンが息を飲んだ。刹那躊躇うように俯いて、それでも無言で一礼する。ルクスだけでもどうにかして守りたかった、と後悔が胸に広がった。だがルクスがそれを望まないなら、それを尊重することもまた臣下の務めなのだと、そうアレンは理解する。
そう覚悟を決めて、アレンはルクスへ捧げるように、先程取った宝石箱の蓋を開けた。そこに埋め込まれていたのは、宝物の類ではなく。
「リュゼ、なにかしてくるかもしれない……トワイさんと懐中時計、お願い」
「シュゼ……最後まで向き合わないとダメだよ、私たちが始めたことだもの」
「分かってる」
誰も幸せになんてならない、と。リュゼと小声で会話する一方で、先程の自分の言葉を噛み締める。ルクスに殺されたたくさんの人たちも、ノーシュも。彼らを心配する家族、配下の者たち。その『誰も』には、彼らも含めて言ったつもりだった。主の身と思い、それらに板挟みになって苦しげなアレンを、虚無を抱えるリフィスを、精神を磨り減らすルクスを。
でもそれは、伝わらなかったのだ。
「ごめんなさい」
言葉を絞り出した。それでも、とシュゼは思う。独裁するような、そんなやり方が正当化されていいはずがないのだ。
アレンが宝石箱の中身を取り出そうとしている。そんな風に、シュゼとリュゼには見えていた。
- Re: 宵と白黒 ( No.50 )
- 日時: 2021/01/31 01:48
- 名前: ライター ◆sjk4CWI3ws (ID: cl9811yw)
□ △ □
「ソレでも僕には……僕には、アナタが救いを求メテいるようにしか見エナイ。僕は、ルクス・キュラスが悪人であるとしか思えない」
リフィスの言葉に、レンはそう応じた。照明の明かりに透かされる黒の瞳が、薄らとした光の膜を帯びる。
自分のまだ浅い人生では、そう人の心を動かせることなど言えやしない。現に自分は一度失敗しているから。それでも、それでも尚、彼女に諦めてほしくなかった。何をかすらも分からないけれど。
たとえそれが自分のエゴであったとしても、だ。
「ダケド……ソノ役目は、僕ではないのかもしれない」
認めたくはなかったけれど、自分では無理だ。レンはもう既に、そう理解していた。彼女が本当に望んでいることを、自分はしてやれないのだ。
「黙ってもらえませんか、レン・イノウエ……何が正しくて何が間違っているのか、私はもう分からないから」
昔から、他人を常に傷つけて生きてきた。それは無差別で、自分ではどうしようもなくて、なんの意味すらない忌むべきものだった。制御出来ない力とはそういうものだったから。
だからルクスの力の行使は、とても意味があるものに思えたのだ。誰かを罰するため、何かを裁くため、そして───守るために。それが世間一般では独裁と呼ばれるものであったとしても、リフィスからしてみればそれは正義だったのだ。
今、その認識が揺るがされているから。この声は酷く震えている。
「分からないんです。ルクス様が悪人なら、その悪人に必要とされたいと思う私も悪なのか。悪であることが、本当に間違っているのか」
最初と同じように、レンは少女と相対する。自分を真っ直ぐに見つめてくる瞳孔の光が、不規則に揺らいでいた。どこか不安げな色をのせた目元、かすかに震える唇。
ああ、とため息のような音が口から零れた。自分は彼女の何を見ていたのだろう、と後悔が込みあげる。こんなにも、彼女と華鈴は違うというのに。
単に見た目だけの問題ではなかった。不安定に揺らぎはするものの、動かぬ軸を持っていた華鈴。リフィスはその軸すらも今揺るがされ、まるで出来損ないの独楽のようだ。
自分は何も分かっていない。それを、レンは今、叩きつけられていた。
「ああ……ブランさんは……悪い人ではありません。私と同じ境遇だったから、私が見えていなかっただけで……それを表に出しこそしませんでしたが、きっとあの方には、私と過去の自分が重なって見えていたのでしょうね。私はつまり、『可哀想な子』であると」
どこまでも哀しげな、そして懐かしむような声で、少女はそう言った。レンに反駁を挟む間を与えずに、彼女は続ける。
「私は、私の思うように動いてもいいのでしょう?」
「ええ」
突然投げかけられた問、それに寸分の躊躇いすらなくレンは返した。自分がこれを肯定したなら、もう彼女を縛るものはなくなるのだと覚悟を決めて。ルクスの命令を優先するとリフィスが決めたなら、殺されてしまうかもしれないから。
一瞬、彼女が瞬いたのが見えた。胸の前で握りしめられた手に、力がこもるのも。浅く息を吸って、その群青の瞳が自分を捉えたのも。
「ならば私は、ルクス様を信じます。私はあなたにどう思われようと、何を言われようとルクス様を選ぶ。随分とあなたの言葉に揺り動かされてしまったけれど、もうきっとこれは不変です。だから、諦めてください」
言葉が落ちた。この音の振動だけが、レンの耳に届くのに時間がかかっているかのように。静寂が二人を縛っていた。
「そう、ですか」
ようやく一言絞り出した言葉は、先程の肯定とは随分異なって掠れていた。どうして、問うことは出来ない。リフィスの瞳がそれを許していなかったし、それをしてはいけないのだと悟ってもいた。今までの比ではないほどの強い光を宿して、確かに少女はそこに在る。
何よりも優先したい、誰よりも選びたい。
それは、きっと恋なのだ。そう少年は思考する。自分が選び続けてきたひとは、きっと自分を選んでくれはしなかった。だからこそ、彼女の背を押す選択をしたい。そう思えた。
- Re: 宵と白黒 ( No.51 )
- 日時: 2021/05/31 22:02
- 名前: ライター ◆sjk4CWI3ws (ID: cl9811yw)
「───ですが、また今からあなたと殺し合いをする気にはなれません。私はもう、それほど非情になれない。……ルクス様の方へ加勢をしに行きます。私を殺したいのなら、その隙にどうぞ」
リフィスは、薄く笑みを浮かべながらすっと一歩踏み出した。かつりと足音が響く。
「あなたがそこまで信頼してくれる理由が、僕には分からない」
「あなたは真剣だった。私自身を見てなかったのは事実かもしれないけれど、でも確実にあなたは向き合おうとしていた。違いますか」
意表を突かれて黙り込んでしまったレンを振り返らずに、リフィスは彼を追い抜いて扉の方へ歩いていく。彼女が扉に手をかけて、引き開けた。
その刹那の静寂を、まるで見越したかのように。
────爆音が、轟いた。
「は…!?」
「ツッ……!」
反射的に床面に伏せて身を丸めるが、それでもびりびりと耳鳴りがする。頭を直接殴られたかのような衝撃が駆け抜けた。廊下の向こうの方を見透かしてみれば、そちらの壁面が大きく爆ぜているのが目に入る。緩く炎が床を撫でていた。
直接確認した訳ではないが、おそらく、そちらにはエレベーターホールがある。レンはそう思考して瞬いた。
かろうじてこの廊下が密閉されていない──レンが非常階段の入口を背にして立っている──おかげで、爆発の圧で死ぬということはなかった。が、いざという時、高層ビルの最上階から地上一階まで階段を下りるというのは、あまりにも非現実的だ。
「リフィスさん!」
ば、と顔を上げてリフィスの方を見上げてみれば、彼女はぎりぎりで室内に滑り込み、難を逃れたようだった。
「ルクス様!」
自分などお構いなしなのだろう。あっという間に彼女の姿は消えていた。
その様子に小さく苦笑をこぼしてから、レンはリフィスの後を追おうと立ち上がる。が、くらりと一瞬目眩が生じた。爆圧の影響か、と呟いてから、どうにか壁伝いに歩き出す。
緑の非常灯が、彼を照らした。
□ △ □
─────爆音が、轟いた。
おそらく廊下、しかし、これは。
「ッ伏せろ!」
トワイが弾かれたように顔を上げて、直後僅かに顔を歪める。反射的にリュゼの手を引いて床へ伏せさせた。彼女がシュゼもしゃがませたのを確認して安堵した。
リュゼもまた、どこか呆然とした顔でルクスの方を見つめていた。小さく唇が動いている。何を言っているのかまでは分からなかったが、その視線が動いて姉の背を捉えたのは見えた。
ほんの数コンマ秒。
それを置いて、右手側の壁から轟音と共に炎が吹き上がる。そこにはオブジェがいくつか設置されていたはず。爆弾が隠されていたのか、と口走る。数は多いが、単体での威力はそこまでではないはずだ。
この部屋が相当広いからか、そこまでの衝撃ではなかったが、そこに近ければただではすまなかっただろう。反射的に立ち上がり、ちらりと出口の方を確認した。
出口は無事。しかし、廊下がどうかは分からない。爆発音から察するに、下の階へ降りる手段が残されていなくてもおかしくはない。
「な……んで、こんな」
シュゼの声は、ひどく震えていた。
視線を動かしてルクスたちを見遣れば、彼らにはひと欠片の動揺すら見当たらなかった。ならばこれは彼らの仕業だと断定する。耳鳴りがして、顔を歪めた。
先程の爆発で、火の手が徐々に回り始めている。おそらく壁が木造ではないからか、そこまで早い訳ではない。だが確かに、じわりじわりと、熱が這っている。
「火の手が回りきったら全員焼け死ぬぞ……!」
もう止められないと分かってはいながらも、警告めいたものを口に出さずには居られない。リュゼに小さく頷きを返してから、じわりと後ずさった。
「ははははは───ッ! 構わないさ、全部終わりにしてしまおうぜ! ……カハ、っは……本当はさ、僕たちは逃げるつもりでいたけど、まあ全部どうでもいいかなって思うんだよね!」
まるでこの状況に狂喜したように、一転大きく両手を広げて彼は叫ぶ。とてつもない圧がルクスの全身から放たれた気がして、シュゼは身体に力が入らなくなる感触すら覚える。
トワイもまた、微かだが鋭く息をこぼした。今のルクスは、精神を壊した者のそれ。早くここから脱出しなければならない、と焦りが一層強くなる。
「まあ……この感じは、いっそ爽快ですらあるけれどね」
刹那冷静に戻って、小さくルクスは呟いた。口からさらに血がこぼれたのが分かる。真名を奪おうと『手』を伸ばした時、トワイというらしい青年の魂の、いわば精神力とでも言うべきものが、凄まじい勢いで逆流した影響だった。まさかあの一瞬で、ここまでの強さに成長するとは思いもしなかった。
誰かに肯定されるということが、それほどまでに人を変えうるのだろうか。大して強い力を持つ訳でもない
彼に、ここまでやられてしまうとは。
「ルクス……様」
アレンはそっと、ルクスの名を呼んだ。シュゼ・キュラス。彼女の持つその名こそが問題だった、と思う。彼女たちキュラスの一族が幸せにならんと努力してきたのにも関わらず、それを当の本人が否定したのだ。彼が負った傷は計り知れない。
「ルクス様!」
鋭くて、少し高めの新たな声が、そこに飛び込んできた。そちらに二人の意識が数秒逸れる。
「行くぞ!」
素早く振り返るなりトワイは走り出そうとする。だが、その足はすぐに止まってしまった。爆発による火の手が、もう扉の方に回り始めていたからだ。
無言のまま、きつく歯を食いしばって踏み出したのはシュゼだった。まっすぐ伸ばされた手から煌めきが舞って、そのまま右に払われる。それは共鳴、先程アレンの銃を吹き飛ばした時と同様に、扉の方を覆わんとしている炎を自分のモノにしようとしているのだ。
赤々と、床を舐めるみたいに広がっていた炎が、じわりじわりと青く染まり出す。全部消し去るのは無理だとしても、少しの抜け道があればいい、と思考する。
「トワイさん!」
指揮者が、最後の音を切る時みたいに。ばっ、と右手を握りしめる。
一瞬で白に変化した炎たちが消失して、刹那道を作り出した。
ああ、と小さく、しかし確かに彼から応答。
リュゼの手をひいたまま、トワイは持ち前の反射神経を活かして飛び出した。シュゼが炎を制御下に置いている隙に。リュゼがはっとしたみたいに顔を上げて、シュゼへ手を伸ばした。その手をもう一度握りしめる。小さな火が足元を舐めはじめた。
それを飛び越して廊下へ転びでて、はっとして部屋を振り返った。
「レン! はやく!」
シュゼは振り返ってそう叫び、どうにか炎を抑え込む。鈍器で殴られているような頭痛が頭に巣食っていたが、無視してチカラを行使し続けた。
- Re: 宵と白黒 ( No.52 )
- 日時: 2021/06/08 20:05
- 名前: ライター ◆sjk4CWI3ws (ID: cl9811yw)
呼ばれたレンは、小さくそれに頷いた。が、彼女の方へ歩みはしない。自分にはまだすべきことがあるのだから、当然だとでも言いたげに。命が危機に陥りかねない状況下であるのにも関わらず、レンの動作はひどく泰然としていた。
「リフィスさん」
ただ、静謐。
真っ直ぐにルクスの方を見つめる群青の瞳、それへ視線は向けていない。彼らのそれは、どこまでも交わらない平行を走っている。
シュゼの方を向き、床を舐める炎を見つめながら、レンは声音のみで問いかけた。
「あなたはひとりで。私はここに残る」
リフィスは、当然のようにそう告げる。微塵の揺るぎもない、確かな声。
それを聞いたレンの口元に、薄く笑みが浮かぶ。あなたならそう言うと思っていた、とでも言いたげな顔で、そのまま白髪の少女に言い放った。薄く炎の色が透けて赤に染まる髪と、青の目。微塵もあのひとと似ている要素は無いのだけれど、持っている意志の強さは同じだ。それに、どこか惹かれる。
そう思ってから、ゆっくり瞬いて口を開く。
「僕ハ後カラ行く。シュゼたちハ先ニ行って」
見捨てることなど、出来ようはずがなかった。もう覚悟は出来ている。
───もう自分は、リフィスを華鈴と同じようにしか見られないから。
□ △ □
「あいつなら、きっと大丈夫だ」
「でも!」
「オレは、お前たちとレン、どっちかを取れって言われたらお前たちを取る。……行くぞ」
そう言って踏み出した一歩の足音が、妙に頭を抜けた。緊張や心労を抱いている時の重さとは違う、ざらりとした感触が残っている。
師匠の遺体を放置してきてしまった事への心残りか、それとも罪悪感をレンに抱いているのだろうか。棺に入れられて葬式なんてあんたの柄じゃないだろう、と問いかけるように呟いて、後悔を振り切る。
ちらりと後ろを振り返った視界の端で、短髪が揺れる。
見捨てた訳ではない、と心の奥で言い訳をした。とりあえず二人を安全なところまで連れていき、助けを呼ぶのが最善だと判断したからだ、とも付け加えてみる。
違う、と思った。
「解ってしまうから」
独り言のように、言う。
リフィスという少女と、彼女を見るレンの目を見た瞬間に解ってしまった。
彼にとってリフィスとは、自分にとっての双子のような存在なのだと。いや、多少の差異はあるだろうか。特に人の気持ちを読むのに長けているわけではないから、上手くそういうことを察することは出来ない。
だが、彼を邪魔することはきっと許されないと、そう思った。
トワイの呟きに、リュゼは薄く笑うのみだった。
- Re: 宵と白黒 ( No.53 )
- 日時: 2021/07/15 23:35
- 名前: ライター ◆sjk4CWI3ws (ID: cl9811yw)
□ △ □
「アレン、あなたのチカラでルクス様を……いえ、そんなことは無駄でしたね」
「当然だ」
ざらりとした、平坦な口調だった。
アレンの異能力、それはすなわち空間接続である。一定の距離を置いたふたつの空間を、擬似的に接続することが出来る。その強力さに違わず、アレン自身の負担は大きい。が、そんなことを理由にして彼は力を使わないのではなかった。
マットブラックの両目が、一切の揺らぎを見せずにリフィスヘ向けられる。群青と墨色が交わって、同時にある方向へ向けられた───すなわち、二人の主へと。
白髪を持つ主は、ゆっくりと口を開く。
「きみは最後まで可哀想な子だね、リフィス。だから、きみはもう『リフィス』を辞めなさい」
Sacrifice───異国の言葉で、『犠牲』を指す。ルクスに仕えるにあたって付けられた自分の名前、その意味を教えてくれたのは当のルクスだった。
水飴を溶かしこんだような甘い声音でありながら、そこになんの感情も込められてはいないのだ。
その矛盾に、そばに居たレンはわずかに身を引いて顔をしかめる。肌に走るそれは、嫌悪感と恐怖感。ルクス・キュラスという人間の本質を、少年は垣間見た。
「それでも、選んだのは私です」
そっと群青の瞳が伏せられる。それをふちどる睫毛が、ゆっくりと震えた。
「そう。アレンは? ……聞くまでもないかな」
どこか無関心さえ感じられる声音。平坦で均一で無機質な、コンクリートのような声だ。
アレンはそっと主へと歩み寄る。今までルクスが、こんなにも力を使う際に消耗したことはなかった、とアレンは思う。否、力を使って失敗したことがなかった。故にアレンの中でルクスは絶対であり、唯一だった。彼が持つ絶対性、カリスマ性とでも言うべきものが、アレンを惹き付けていたのだ。
「ええ。当然でしょう」
それでも、どうしようもなく彼を支えてやりたいと、アレンは思う。
ルクスはもう、ほとんど目を閉じかけていた。外傷はないと言っていい。では彼のどこが傷ついているというのか、それは魂である。肉体と魂は相関関係にあるのだ。肉体が欠けても魂に影響はないが、魂が欠けたり傷ついたりすれば、それは肉体に影響を及ぼす───通常では考えられないほど、強く。
じわり、じわりと、部屋の中の赤い範囲が広がってゆく。燃えきらないなにかが上げる黒煙が部屋に満ち満ちていきかけている。入口の大扉が空いていなければ、とっくのとうに全員が死んでいるだろう。
もう動けない様子のルクスを見てとって、ずっと黙り込んでいたレンが、意を決したように口を開いた。
「介錯を、してあげてクダサイ」
「かい、しゃく……?」
「あなたがルクスさんを殺すということです、リフィスさん」
アレンが大きく目を見開く。リフィスも、驚きで顔を染めた。
「本気で、言っているのか……」
彼が、かすれた声でそう言う。
「アキツに伝わル風習のヒトツで、死者を苦シマセズに送り出す方法ナンデす」
淡々と説明する少年の声が聞こえたのか聞こえていないのか、ルクスはうすく笑った。なにも言葉を発しはしないが──というよりはもう出来ないのだろう──アレンとリフィスを信じるように笑っている。
リフィスは考え込んでいるようだった。何が主にとって最善なのだろう、と。自分は彼に、なにをしたかったんだろう、と。
なにをしたかったんだろう。
「ああ……」
少女の口元から、吐息が零れた。そうか、と内心独りごちる。
「あなたと一緒に、平和に、死とかそんなこと考えなくていいぐらいに、笑いあいたかった。私、普通の世界で生きてみたかったです、ルクス様」
アレンはもう何も言わない。そっと主のそばに跪いている。ルクスもまた黙っている。火の爆ぜる音すらも割り込ませずに、静寂が満ちる。
「あなたのことが、大好きです」
忠愛であれ、恋愛であれ。
- Re: 宵と白黒 ( No.54 )
- 日時: 2021/07/18 22:47
- 名前: ライター ◆sjk4CWI3ws (ID: cl9811yw)
「ああ」
同じ音が、違う高さでもってレンの口からこぼれおちる。どうしようもなく美しい、と。胸の奥が締めつけられるような、刃で貫かれるような。
そっとリフィスがしゃがみこんで、ルクスの胸に指先を当てた。狭い領域に、彼女が力を集中させたのだ。なんの音も立てずに、彼の纏っていた服と、肌と心臓とが水と化してゆく。赤い液体がこぼれるが、それは血よりも薄い色合いをしていた。
円柱状を成してルクスを貫いたリフィスの力が、今完全に、彼を死に至らしめた。
「私は最後までここにいる。……ルクス様のあの言葉の意味を、分かっているだろう」
アレンは静かに当然を告げる。強い光を宿した漆黒の目が、確かにリフィスを捉えた。
「ええ。……ええ、分かっています。当然、でしょう」
からりとしていながら、どこか押さえつけているような声だった。泣いているわけではない。
ばちばちと爆ぜながら、炎が白と黒の主従を飲み込んでいきかける。アレンはゆるやかに跪くと、ルクスを見つめて、何事か呟いた。答えがあるはずもないのだが、彼は、満足気な笑みを見せて目を閉ざす。
□ △ □
「リフィスさん」
「ええ。……私は、生きなくてはならない。もう他に手がないのです、やりましょう」
窓からの飛び降り。炎に包まれた大扉の方へ抜けていくのが不可能となった今、逃げるとするならばもうそこしかありえないのだ。
一見自殺行為だが、自分とリフィスのチカラを合わせればどうにかなる、とレンは思考する。
リフィスが全てを出力に注げるよう───それでももう残滓を掻き集めているようにしかならないが───発動するタイミングはレンが操る。
「お願いします、リフィスさん」
異能が発動する際に使われている、具体的な器官というものは発見されていない。発見されていないというよりは、無いという方が正しいだろうか。
レンはそんなことなど知らない。だが、しかと確信している。即ち、自分の力で、強制的に異能を発動させることも可能であると。
はるか地上で、青い光がちらついている。
「───絶対に離さないで!」
「わかってますよ!」
一切の音もなく、リフィスが窓ガラスを溶かした。それと同時に、ふたりで窓枠に足をかける。なるべく空気抵抗が大きくなるように、全身を広げて───窓から、飛ぶ。
「りふぃす、さん……!」
目も開けていられない程の激しい風圧、しかしレンはそれを閉ざす訳にはいかなかった。なるべく離れないように、と、軽く繋いだ右手はまだ暖かい。どうして視覚だけを開いておくことはできないのか、と、取り留めもない思考が瞬いた。
そうしている間にも、重力という名の絶対律が、彼らを地上に戻さんとのしかかる。
「あ」
少女が、小さく声を零す。
とろり、と青が溶けた。それはブランのリボンタイであり、彼女への暗示。する、と手の間を抜ける水のごとき滑らかさで、手首からそれは解けていく。同時、あおいろがゆるやかに雫に変わった。下から吹き上がる風が、それらを全て空へと持ち上げる。
リフィスを見つめる黒の瞳が、一瞬青に染まった。
どうしてこのタイミングで、と呟かずにはいられない。それは異能の暴走、リボンタイが解けたのは風圧によるとしても、それが液化した理由は間違いがない。そして意識させられるのは隣の少年。
「だいじょうぶ、だから」
途切れ途切れの声が響く。
それにリフィスは何も言葉を返さなかった。否、返せなかったのである。そして、少女は視界を閉ざした。
永遠とも思える数瞬だった。ちょうど地面に顔を向ける体勢で落ちてゆくふたりの影が、いよいよ窓際まで到達したらしい炎によって生まれる。
「カウント───!」
耳元で唸る風を、少しの掠れすらもなく貫いて、少年の声が響き渡る。
「5!」
レンの瞳がゆるく動いて、地面との距離を測る。遅すぎたら、きっと全身の骨が砕けちる。早すぎてしまっても、液化したコンクリートは彼らを拒絶するだろう。
「4」
リフィスが閉ざしていた視界を一瞬開く。伺い見たのは、隣の少年。
「3、2──」
目を閉ざす。体内の力を振り絞る。真っ直ぐ伸ばした左手に、それを収斂する。
体内に、電流が走り抜けた感覚。ぞくり、と総毛立つのを、少女は感じとった。自分の意思に反して、力が漏れ出ていく感覚。これは知っている、と彼女は思う。同時に、昔とは違う、とも。恐怖感と、それを上回るひどくやさしいなにかがそこにあるから。
いち、という声はない。どぷ、と音を立てて──────二人の体が、水に沈む。否、それは水ではない。水よりも粘性の高い、いわばゲルのような。
ざ、と音を立てて。あまりの集中によって失われていた周りの喧騒が、一度にふたりへと襲いかかる。それはサイレンの音であり、通行人が囁き交わす音であり、足音であった。
「けほ、かは……」
「痛っ、う」
左手から突っ込む形となったリフィスは、思っていた以上の衝撃に顔を歪め、顔面も同時に着水する形になったレンもまた咳き込んでいる。お互い無傷とはいかなかったが、それでも、生きている。炎の中を脱出していくよりも遥かに被害の少ない方法で。
その事に安堵しながら立とうと、せめてこのゲル溜りから抜け出そうと、力が及んでいない地面に手をかけて這いずり出る。もう一度立ち上がろうと試みた瞬間に、ふらりと全身から力が抜けるのを感じた。
暗転。
- Re: 宵と白黒 ( No.55 )
- 日時: 2021/07/22 22:18
- 名前: ライター ◆sjk4CWI3ws (ID: cl9811yw)
「リ、ふぃすさ……か、」
まるで死にかけではないか。
全身がぎしぎしと痛むが骨が折れている気配はどこにもなく、自分たちの作戦が成功したのだと少年は安堵する。着水の際にうつ伏せの状態だったせいで、幾らか吸ってしまって咳きこんではいるが。
ずるりとゲル溜りから這い出て、倒れてしまった少女を気遣うように、その傍に跪く。が、極度の緊張──していたことに今気付いたが──が解けたからか、疲労からか、急に視界が白く飛びはじめる。音が次第に聞こえなくなっていって、ようやく意識が飛び始めているのだと気付いた。
気付いた時にはもう遅く、少年の意識は消えていた。
□ △ □
左、右。先頭を行くトワイが辺りを見回す。緑色の光を視界に入れるなり、そちらへと駆け出した。双子も彼の背を追って走り出す。
シュゼはぎりぎりまで炎の制御を保っていたいようだったが、そろそろ限界だったのだろう。ゆるりと下ろされる右手と同期して、光の粒が空間を透かした。ちらりと顔をしかめたのは、急に耳鳴りが止んで頭痛も無くなったことへの違和感だろうか。
ふ、と周りを彩っていた光輝が消失して、視界の中から色がひとつ消える。
「大丈夫、シュゼ」
「うん」
その様子を見てとったらしいリュゼが、ちらりとそちらを伺いながら声をかける。空色の目に、はっきりと心配げな色が載っていた。
それにゆっくりと苦笑して、白髪の少女はそう答える。真っ直ぐに正面を見て、先程から言おうと思っていたことを口に出す決意を固めた。
「……私、髪伸ばすね」
「うん。シュゼはきっと、長い方が似合うよ」
躊躇っていたのが馬鹿馬鹿しくなるほどの、清々しい返答だった。
まるで学校でする友人同士の会話のような。傍から見ればひどく気の抜けた言葉に、リュゼは笑みを浮かべた。その表情に反した感覚が、頭へと突き上げてくる。つん、と鼻の奥が痛くなって、目はじわりと熱を帯びていた。
追憶に沈みそうになる頭を振って、ただ正面を見つめる。先に扉の方へたどり着いたトワイが、扉に手をかけて顔をしかめた。
「鍵、かかってるな……!」
そうこうするあいだにも煙はそこに迫ってきていて、一刻も早く開けなければならないと、焦りばかりが募っていく。判断は一瞬だった。
す、と息を吸う。きらりと足に光を纏わせて、勢いよく扉に叩きつけた。途端、足が軋みをあげる。いい加減にしろ、と脳内で自分の声が響く。これ以上やれば本当に壊れる、と。口から溢れそうになる呻き声をどうにか押しとどめて、トワイは振り返った。
「はやく!」
シュゼとリュゼが横並びになって、トワイが蹴破った扉から出ていく。それを見送って、彼もまたそこに飛び込んだ。気休め程度でもそれ以上煙が侵入しないように、と扉を閉めると、がしゃりと音を立てながら防火シャッターが降りてくる。
これでもう完全に、階段の中と外は隔離された───そこで心に引っ掛るものの正体は、黒髪の少年であった。
非常階段は、珍しい螺旋状をしていた。特に内装が凝られているわけでもない、無機質な。モノトーンのそれが遥か下まで続いているのは、ある種退廃的ななにかを感じてしまう。こぉん、と足音が反響して、下へ抜けていった。無限とも思えるそれを、双子のペースに合わせて降る。
ちらりと壁面に目をやれば、そこにはXXIIIと蛍光色のペンキで塗られていた。23を意味する古代文字だが、その色のセンスがどうにもルクスと結びつかず、違和感が過ぎる。周りが暗くても見えるように、との配慮だろうか。確かに光源が段ごとに設置されたフットライトのみのこの空間では、その文字はとてもよく見えた。
そんなことを考えている場合ではないな、と苦笑して、ちらりとシュゼとリュゼに目をやった。
目の合ったリュゼが、かくりと首をかしげて上を見上げる。
「それにしても、どうしてここは残してあったんでしょう? 上だとスプリンクラーとかは動いていなかったのに、この階段は防火シャッターが作動した……」
「あと、結構降りてきてるはずなのに、次の階に接続するところがないよね……? 私たちがいた階が多分26だから、ここまでで25階とか24階に繋がるドアがあってもよさそうなのに」
シュゼも壁面に手を滑らせながらそう続けた。
「たぶん、ルクスが逃げるためだろうな。今まで使われたことがなかっただけで。ほら、こことかも埃が多いから。……扉がないのは、この階段自体がある種の避難場所だからだと思う」
未だ首を傾げている少女に、かつて同業者から聞いた噂話を思い返しつつ口を開く。
「何が起こるかわからないから、とりあえず一旦逃げておける場所としてここをつくったんじゃないかな。他の階とかから攻めこまれないように、一切接続するところがない──酒場にも同じような地下室があるって聞いたことがある。乱闘とかが起きて、店員に危害が加えられそうになった時に、ウェイトレスのひとたちを逃がしておく場所がさ」
そう考察しながらも一回止まっていいか、と誰に問うでもなく呟いて、そのまま立ち止まる。ブーツの紐を緩めに結び直しながら、壁に背をつけて座り込んだ。彼女に証拠を見せるみたいに床面に指を滑らせて、白い埃がまとわりつくのを確認する。
その隣でシュゼが、ぽつりと呟いた。
「……ありがとう、トワイさん」
質問に答えた事の礼だと思ったのだろう、大したことない、と口に出しかけたトワイが、彼女の表情を見て瞬間黙り込む。否、息を飲んだが故に黙り込まざるを得なかった。
シュゼは、目を細めていた。悲しみとも喜びとも似つかぬ、いわば慈しみのような。白亜の前髪が、仄暗い空間できらめいている。そんな彼女の視線の先にあるのは、たしかに光を跳ね返す銀色の懐中時計。スマラグドゥス、古語で『翡翠』を指す言葉だ。
その薄碧に目を細めながら、シュゼはどこか現実感のない感覚に囚われていた。およそたった一日とは思えまい。
つい昨日のことなのに、リュゼと酒場のドアを開けた瞬間がはるか昔のように感じられる。あの時見えた窓から射す夕陽の色、それは未だ褪せていない。
「私からも……ありがとうございました、トワイさん」
リュゼも淡く笑いながら、トワイにそう言う。空色の両眼が、ゆっくりと伏せられた。
シュゼが自分に対して抱いていた思い、自分がシュゼに対して抱えていた思い。全て吐き出してしまったら、とても楽だった。そのきっかけをくれたのはこの旅で、その助けとなってくれたのはトワイという青年で。
でも、旅に踏み出そうと、自分へ手を伸ばしたのは、シュゼだ。敵わない、と笑みがこぼれる。
「こちらこそありがとう、依頼人の方々」
疲れ切った声音ながら、確かな意志を込めて、トワイはそう言った。
「すまない、もう立てる。行こうか」
そして立ち上がる。
- Re: 宵と白黒 ( No.56 )
- 日時: 2021/07/27 23:43
- 名前: ライター ◆sjk4CWI3ws (ID: cl9811yw)
□ △ □
半ば転ぶようにして、三人は一階に降り立った。それはちょうどエントランスの受付の真横であり、外の道路がよく見える場所である。
「こんなとこにドアあるの、知らなかった……」
シュゼが呆然とそう呟いた。
外とこちらを隔てるガラスの自動ドアは全開にされ、正面には警察の車が止まっている。シュゼの瞳と同じような色をした青いライトが、夜の闇を打ち払っていた。
エントランスの中央付近には、ビル内に残っていたらしい数名の社員の姿がある。それと同じように、ビルの前には多くの人が集まっていた。
通報を受けてやって来ていたのだろう、警察の制服を纏った男性がこちらへ走り寄ってくる。
「ありがとうございます。───はい、ごめんなさい……。アレンさんの力で───そうです、多分ルクスさんが爆発させたんだと思うんですが」
ここは一族の人間である双子に任せた方が良いだろう、と一歩引いて見つめていると、リュゼの悲鳴のような声が耳を刺した。
「まだ……まだ、上に人がいるんです!」
入口の前で、ざわりと人々の声がにわかに大きくなる。何事だと一瞬その場の全員分の意識がそちらに向いて、野次馬たちの声が聞き取れた。
「落ちてくるぞ!」
「ふたりだ、なんだあれ……子供か!?」
そんな叫び声がする。
はっと三人が一様に目を見開いて、シュゼが真っ先に走り出した。制止を促す警察官の声など耳に全く入らないかのように、少女は駆け去っていく。リュゼが一瞬トワイの方を振り返ってから後に続いた。
「もしかして、さっき黒髪の子が言っていた──!?」
警察官の声だ。
「ああ! まさか飛び降りるとは……!」
思わなかったが、と語尾に溶かして、青年も双子の後に続く。ふたりを心配する思いは濃くなる一方で、レンを見捨ててきてしまったことの罪悪感はじわりじわりと薄れてきていた。
罪悪感。
そんなものを自分は抱けるのだと、トワイは小さく笑みをこぼす。果たしてそれが喜ぶべきことなのか、その時の彼には判断がつかなかったが、それでもその笑みに嘲りは含まれていない。
外へ飛び出すと、夜の空気が肌を撫でる。夜独特の、トワイにとっては馴染み深い澄んだ香りは、周りにいる人によってか環境によってか、どこか薄汚れていた。そこにどうしても消しきれない仄暗い香りが混ざっていないあたりが、彼にとっては新しい。
これが都会というやつか、と改めて実感する暇もなく、シュゼの声が耳に届いた。
「レン!?」
彼女の目に入ったのは、互いに寄り添うように倒れ込んだリフィスとレン。それだけ聞けば恋人たちのようであって、でもシュゼにはそれは違うのだと理解出来る。
だって彼らは向き合っていない。
お互いに違う方を向いて──背を向けあって──倒れている。
辺りは街灯と、林立するビルの中から漏れ出てくる光によって、あまり暗いわけではない。が、それ故に暗い部分はより闇が深く、レンたちが倒れている場所もまたちょうどビルの影となって判然としない。そこには、白い肌のみがぼんやりと浮かび上がっていた。
その場全体に視線を滑らせると、ぬらりと光る、明らかに地面ではないなにかが目に入る。奥に倒れているレンよりもさらに後ろだ。よく見れば、それと同じような物質が彼らにもまとわりついている気がしてならない。
少し鳥肌が立つのを感じながら、さらに駆け寄ろうとした少女を、警察官が押しとどめる。
ば、と黄色い規制線が張られ、救急車が到着した音がする。その場に踏み止まりながらも、シュゼは右手の人差し指を伸ばして口を開いた。
「なんだろう、あれ」
「分からない……。でも、息、してるみたいに見えるよ」
救急隊員たちに運ばれていくレンとリフィスの胸は、しっかりと上下しているようだった。その事に気づいて安堵の息を零しながら、リュゼはトワイを振り仰ぐ。
「トワイさん?」
リュゼは何か言いたげな彼の様子を察したのだろう。シュゼもそちらに目を向ける。
「なんて言えばいいんだろうな、その……幸せそう、だと思って」
困ったように眉を下げて、手で頭を掻きながら。ストレッチャーで運び込まれていく寸前に見えたその顔を思い返して、そう言語化する。幸せそう、という形容が正しいのかは分からないが、少なくともトワイはそう思った。
「そうだね。なんというか、満足してそうというか」
ゆっくりと口元を緩めながらシュゼは言って、その場から救急車が走り去って行くのを見届ける。
「トワイさんも嬉しそうな顔してますね」
「オレが?」
あなた以外に誰が居るんですか、と笑って、リュゼはゆるりと目を閉ざした。
「トワイさん、すごい笑えるひとじゃん。表情豊かっていうのかな」
シュゼにも立て続けにそう言われて、トワイは瞬いた。
笑える、か、と。今まで幾度も笑顔を浮かべたことはあるはずだが、彼女たちが言うのはそれではないのだろう、と察する。
「確かに。……理由に関して思い当たる節は、あるからな」
今まで殺してきたひとたちの血が、怨嗟が、身体に染み込んでいる気さえしていた。
だから自分は幸せになるべきではないとも思っていた。否、今も思っている。それが優しさというものに由来するのならば、それを知ってしまった己はもう『殺し屋』というものは出来ないのだと悟ってもいた。自分がなお苦しむと分かっていて続けられるほど、正義を頂く綺麗な仕事ではないからだ。
今まで経験したことのない、選択。
「リュゼたち……、は、さ。オレにどうあってほしい?」
曖昧な問いになってしまうことを咎める者は、きっといないだろう。なぜなら、彼はこんなにも、瞳を揺らして問うのだから。
「笑っててほしいです。好きなひとには笑っててほしいじゃないですか。あなたという人間に、笑っていてほしい」
さらりと風が吹いて、目線を合わせようと顔を上げた彼女の髪をすくいあげては放り出す。
自分の言葉が、果てしない傲慢であるとリュゼは理解していた。彼が過去に何をしてきたか知った上でそう言うのは、過去をなかったことにしようと、向き合おうとしていた彼の思いを踏みにじるも同義だからだ。
だが、それでも少女はそう望む。
たとえ何と言われようとも、彼のあの笑顔を美しいと思うから。命には終わりがあることを知っているからこその、どこか儚さの滲む笑顔を美しいと思うから、笑っていてほしいと願うのだ。
シュゼはなにも言わなかった。ただ目を閉じて、リュゼと同じように笑う姿が、肯定を示している。
「そっか。ありがとう」
答えが端的になってしまったのは、震える語尾を悟られないようにするため。目を外してそっぽを向く風になったのは、泣きそうな表情を見られないようにするためだった。
「ああ」
リュゼが、シュゼが。彼女らがそう望むのならば、自分はそうあろう、と。それは彼なりの恩返しであり、礼であった。
その答えに、リュゼが明確に笑う。
ため息がこぼれそうになる。今まで一度も見た事のなかったその笑顔に、強く惹かれる。命はまだまだ先があって、これからもずっと続いていくと信じている人間の、永劫を照らす太陽のような笑顔にひどく憧れる。うつくしい、と感じざるを得ない。
「ありがとう」
宵の口はもうとうに過ぎて、夜がしっとりと深くなっていく。でもまた陽は昇るのだ。
警察官に呼ばれてそちらへ歩いてゆく三人の姿が、ゆっくり雑踏に溶けていった。
───後にトワイは、「あの時告白したつもりだったんですが」と、リュゼに困惑されることになるのだが、それはまた別の話。
次章:エピローグ
《Essential-Self》
1話:追憶、あなたを
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