ダーク・ファンタジー小説

Re: 宵と白黒 ( No.33 )
日時: 2020/09/03 18:41
名前: ライター ◆sjk4CWI3ws (ID: cl9811yw)

3:信ずるもの
 
 黎明街の中心に位置する高層ビル。このビルこそがパスト・ウィル社の本社であり、キュラスという一族の拠点である。そして、その最上階。そこには、社長であり一族の長であるルクス・キュラスの居る社長室が存在する────

 大きな社長机、その正面に置かれた黒の豪奢な椅子。それらの後ろの一面ガラス窓、そこから差し込む夜の明かり。天井の照明が机の上のペンを光らせている。無数の書類や本、置物が並ぶ棚が右手側の壁には据え付けられていた。ワンフロアの半分近くが使われたこの部屋は、先程から静寂に満ち満ちている。

 不意に光輝が閃き、その静寂が破られた。なにか重いものが落ちるようなどさりという音が響き、静かに扉の前に人影が降り立つ。閃光が収まって、そこに姿を現したのは一人の男だった。そして、地面に折り重なる影は、倒れ伏している四人のヒト、だろうか。
 ゆっくりと男は顔を上げた。白皙の面が真っ直ぐに上座を見つめる。
 束の間広がった静寂を再び破り、今度は低い男の声が上座から響いた。

「ご苦労様、アレン。君の力はとても役に立つけれど、消耗が酷いだろう? すまないね、こんな雑用めいたことをさせてしまって」

 そのねぎらいの言葉を発した当代のキュラスは、口元の笑みを深めた。黒の椅子に深く腰掛けて、その整った美貌を楽しげに歪ませる。その手にはエメラルドが蓋に嵌め込まれた懐中時計が弄ばれていて、付けられた細い鎖が音を立てて擦れ合う。照明を反射して、緑玉が煌めいた。

「いいえ。ルクス様の為ならば、なにも。それに、まとめて飛ぶくらいならば全く問題はありません」

 アレンと呼ばれた黒髪の男は、一欠片の躊躇いもなくそう言った。社長机の前まで歩み寄り、ふわりと長い黒髪を揺らして微笑む。たとえ人殺しであろうとなんであろうと、彼はルクスに命じられればするだろう。この男こそが、ブランの言うルクスの狂信者の一人だった。
 不意にぽつりと、嗄れた声が響いた。

「自分に何をしろと言うのだ、キュラスの棟梁」

 その言葉を発したのは、社長机の横に立つ老人だった。杖のようなものを手に持って、感情などなさそうな横目でルクスを見つめる。

「ああ、貴方とリフィスたちは少し待ってね。そろそろ彼らが目を覚ます頃だ……まずは話し合い、だろう?」

 リフィスと呼ばれた、先程の老人の隣に立つ少女は無言で一礼した。それに返答しようと、老人が口を開きかけた、その時。
 空隙を突破って、テノールが響き渡った。
 
「リュゼ、シュゼ!? 大丈夫か!?」 

Re: 宵と白黒 ( No.34 )
日時: 2020/09/06 12:41
名前: ライター ◆sjk4CWI3ws (ID: cl9811yw)

□  ▲  □

 地が崩れていくような感覚がして、それでもトワイはリュゼの手を離さなかった。リュゼもまたシュゼと繋ぎあった手を離さない。あの長い黒髪の男に力を行使されたのだと分かっていても、逃げようがなかった。唐突に浮遊するような感覚が終わって、いきなり床に叩きつけられた。呼吸が上手く出来なくて、数瞬意識が飛んでいたのだろう。ここがどこだか分からない。瞼を閉じていてもなお、淡く明るさが感じとれる。屋外ではなく屋内へ入ったのだろうか。
 意識が明瞭になってきて、自分がどうなったのかを思い出した。深呼吸してばっと目を見開いて、直ぐに眩しさに目を細める。手のひらに、かすかに感じる暖かさがそこにあることに安堵した。

「リュゼ、シュゼ!? 大丈夫か!?」

 少女たち華奢な体が身じろいで、ゆっくりと上体が起きていく。外傷などもなさそうで、ほっとトワイは息を吐く。その隣で、レンも壁に背中をつけて起き上がった。半袖の寒さは感じない。適度な温度に空調が効いている。そのまま少年は天井に目をやった。シャンデリアめいた飾りの施された照明は、その財の大きさを強調しているようにも見てる。
 社長室めいた部屋はとても広くて、トワイたちの真っ直ぐ向こう側には一面ガラスの窓が広がっている。奥に透けて見える夜景は、無数の航空障害灯が赤く煌めいていて美しい。ゆっくりとそこから視線を動かして、大きな机の辺りへそれを投げる。
 そこにいた人影のひとつに、見覚えがあって。驚いて叫ぼうとしたとき、後ろから声が掛かった。

「トワイさん……!?」
「え、ここどこ!?」

 シュゼとリュゼの高い声が聞こえた。束の間振り向き、ふっと息を吐く。無事で良かった、と。その隣でレンもまた、前をきつく睨んでいた。

「あのひと、か……」

 小さく呟きが落ちる。ダークグレーの髪に、ライトグレーの毛先。ワンピースと、手首に巻かれた青い布───いや、ブランのリボンタイ。約束したからには必ず、とレンは思う。前髪の隙間から覗く彼女の群青色の瞳は、この明るい部屋の中でもどこか昏いように見えた。一瞬、二人の視線が交錯する。
 ふいに少女の瞳が逸らされて、彼女の後ろに立っていた男へ向けられた。

「やあやあ皆さんこんばんは! そしてようこそキュラスの城、いやこの社長室へ! 僕はパスト・ウィル社社長、ルクス・キュラス。どうぞ以後お見知り置きを」

 上座から、軽快に声が響く。
 びくりとリュゼの肩が跳ねた。シュゼが立ち上がり身構える。彼女たちを守るように、トワイは前に出て立ち上がった。レンがかすかに息を吐き、目を細める。

 常に笑っているかのように細い黒の目をさらに細め、愉しげにルクスは笑う。なにも気にせず、まるで散歩するかのように軽やかに。ざっと30メートルはありそうなフロアを、彼はゆっくりと歩いていく。ルクスたちから見て右手側、即ちトワイたちの左側。壁一面に据え付けられた本棚を、半分ほど過ぎ去った辺りで彼は立ち止まった。
 とても大切なものをしまうような、そんな手つきで彼は手に収まっていた懐中時計を本棚に飾る。磨き抜かれた銀色の蓋と、菱形に飾り切られたエメラルド。無数の装飾品やら本やら書類やらで整然と飾られた棚は、社長室に相応しく見えた。
 その懐中時計の装飾を一瞬見て取って、シュゼがひゅっ、と浅く息を吸った。何か声を上げる間もなく、ルクスは先手を打つように声を響かせた。
 
「裏切りそう、って言うかね。敵になりそうなキュラスのひとは、アレンとか、ノーシュとか、まあその辺の子に頼んで色々やってもらってるんだよ。それでね───きみたちは確か、アルフィーさんとこのシュゼとリュゼでしょう? 一体何をしようとしているのやら……そこの紺色の子は知らないけど、一緒に行動してたから連れてきた」

 そこで一旦、ルクスは言葉を切った。続けてレンの方へ目を移し、僅かに首を傾げる。

「ねえアレン、君が排除するために雇った殺し屋さんってそこの黒い子だよね? 二人目。なんでそっち側にいるんだ?」
「それは───」

 ルクスの誰何に、アレンが驚いてレンを見る。僅かに焦った口調になって、なにか彼が言おうとした時、そこに鋭く少年の声が割り込んだ。

「これは僕の意思ダ。僕が恩がアルから、僕自身ガ選ンだ! あなたたちとは、違ってな!」

 黒い瞳に強い意志の光が灯る。その気配から、最初に感じた嫌悪感が無くなっていることに気付いて、トワイは驚いた。人は変われるのだ、と。少しだけ、少しだけ想う。願わくば、自分も変われていることを。
 レンの言葉に、アレンもリフィスも動揺を示すことは無かった。言葉を返すことすらしない。ただちらりと目を向ける程度。それはきっと、彼らにとって当然のことだからだろう、とレンは思う。タイルの敷かれた床に靴底が擦れて、硬質な音を響かせる。
 
「貴方が、今棚に戻したそれ。それを、貴方たちから取り戻すために私たちはここに来たの。貴方のしてることは間違ってるって。誰かを犠牲にするやり方など、誰一人幸せにならないって。言いに来たんだよ!」

 シュゼが、そう言った。純粋な青の目が鋭く煌めき、ルクスを睨む。となりでリュゼがそっと、自分の胸に手を当てた。そちらへ振り返ったトワイと一瞬視線が絡み、僅かに彼女は微笑んだ。ふ、と視線が動いて、リュゼが姉の後ろ姿を見つめる。かつりとタイルにブーツの底がぶつかって、彼女はシュゼの隣に立った。

「そうか。うーん、残念だね。僕もさ、好き好んで同族を殺したくなんてないよ? でも僕は、キュラスを発展させていかなくてはならない。だから殺すのさ。と言ってもそんな戦闘など出来ないからね……僕がするのは、もしもの時の後始末と責務を追うことだけ。つまりね……」

 ルクスはそう言い放って、口元の笑みを深めた。ぞわりと怖気立つほどの執着と、曲がり折れた正義だと。シュゼはそう感じる。かつてはここまで歪んでなかったはずなのに、なんて。

「人を使うのさ───全員。殺してしまって」

 明確な命令が彼の口から紡がれた。
 それを聞いて、アレンとリフィス、そして老人が閃くような速さで動き出した。

Re: 宵と白黒 ( No.35 )
日時: 2020/09/17 20:25
名前: ライター ◆sjk4CWI3ws (ID: cl9811yw)

 □  △  □
 フロアの床を蹴り飛ばして走ってくる少女は、レンの予想以上に速かった。
 と、不意に先程までいっぱいに少女が映っていた視界が背景だけになって、レンは慌てて視線を下げる。
 それとほぼ同時にリフィスは、体を前傾させていた。
 は、と口の端に驚愕の言葉が乗る。僅か一拍初動が遅れて生じた、そのわずかな隙を縫ってリフィスは手を伸ばした。その右手に纏われた光輝に、レンの警戒が最大まで張り詰める。
 反射的に胸の前で構えたナイフと、彼女の華奢な手が触れ合いかけ──黒の刃が、溶け落ちた。刃を形作っていた鋼鉄が、まるで水のように変化したのだ。
 ひとつの黒い雫となって、刃だったものは床に滴る。
 
「ッ!」
「っは、浅い……!」

 本当は今のでレンの身体まで触れるはずだったのに、とリフィスは秘かに歯噛みする。やはりリーチが足りない。そのまま本当に床に倒れ込みそうになりながらも、左手を床に突いて姿勢を回復する。
 
 追撃されるか、いや姿勢が崩れるか、こちらから何か───いくつかの思考が断続的に、レンの脳裏を駆け巡る。次の瞬間少年が選んだのは、反撃では無かった。
 
 凄まじい勢いで後退し、真後ろにあったドアを回し蹴りで蹴り開ける。木製ではあるもののスライドドアの形状をとるそれは、縦枠に勢い良く激突して音を立てた。
 柄だけになったナイフを放り捨て、彼は廊下へ飛び出す。自由に動けるスペースの多い社長室では不利極まりない。
 回り込まれて後ろから攻撃されるリスクを減らすのならば、戦場は細く絞るべき───レンの黒の瞳が、きゅっと収縮した。
 
「何を……」

 小さく呟いて、少女もまた追撃を掛けようと廊下へ飛び出す。
 リフィスの右手が突き出され、青いタイが目に焼き付く。社長室と同じように照明で照らされた廊下に、二人の足音と影が落ちる。
 刹那、レンの力が発動した。
 彼女は確かに、右手を突き出そうとした。そして、レンに触れようとしたのだ。
 だが。リフィスの手は、真っ直ぐに上に伸びていた。
 
「少シ、お話したいことがアリマして!」
「貴方の力ですか、これは」
 
 レンは少女の身体に走る信号を書き換え続けていた。右手を上に突き出す、という信号を、下に突き出す、というそれに書き換える───それが、彼が《人形使い》と呼ばれる所以である。彼が避け続けているのではなく、相手側が逸らされ続けている。
 己の体の芯を狙って放たれた左の掌底を、右に逸らすように。力の籠った左手が逸れて、リフィスは体勢を崩しながらも、左足で床を踏み締めて回し蹴りを繰り出す。
 えそれはちょっと体勢的に危うくないですか、という言葉が少年の口から漏れかける。ばさりと翻ったワンピースの裾、それらから慌てて視線を外した。バックジャンプして躱して、レンはそのまま口を開く。

「あの! 僕の話を! 聞イテクレマせんか!?」
 
 いくら呼びかけても、リフィスは応じなかった。群青色の瞳が怜悧にレンを見据え、ただ殺そうと迫ってくる。こうなれば、実力行使しかないと───ようやく、レンはその結論に至った。
 
「ハァッ!」

 明瞭に、気合いが響いた。はっと少女が顔を上げ、反射的に後退する。否、しようとした。
 びきりとリフィスの脚が止まる。動け動けと念じる度に、動けなくなっているような気さえする。手を触れなければ彼女の力ははたらかない。いや、触れずとも領域を指定して使うことは出来るだろうが、精神力を削られる。
 その空隙を縫って、そっとレンは年上の少女に歩み寄る。
 顔に浮かべた微笑みの裏で、彼もまた必死だった。近付けば近付くほど、冷や汗が吹き出る。力が解けた瞬間に彼女の力で攻撃されるのは目に見えているからだ。触ったモノを液化する能力なのだろうか───何にせよ、その対象が人体になったときにどうなるかなど自明であり、レンも水溜まりになって死ぬなどごめんである。

□  △  □
 
 老人が自分へ迫ってきたとき、トワイは驚愕とともに呟いた。
 
「師匠……」
「トワイ。俺は、お前を殺すぞ」
 
 嗄れた声音が低く、トワイの耳朶を打つ。リュゼとシュゼを守るように、ジリジリと後退しながらも彼は前を向く。老人の手に握られた杖、それが彼の武器だ。それの先端がまっすぐに己に向けられているのをきつく睨む。
 
『僕は頭が良くてね? 大体のことは掴んでいるし、それに応じた策も打てる。貴方を雇ったのは、《宵》を精神的に殺すためさ。殺し屋さんは簡単には死なない、ならば心から殺せばいいじゃない。貴方だって、分かっているのだろ? 自分ではもう、彼には勝てないって』
 
 ふっと老人の耳にルクスの声が蘇る。
 トワイが家を出ていったすぐ後のことだった。煩く言う人間がいなくなったからと昼から飲みに行った時、彼は黒い長髪の男の依頼を受けたのだ───トワイを殺してくれ、という依頼を。
 そして会ったルクスという男は、裏社会に浸ってきた老人の目から見ても狂っている人間だった。
 どう考えてもおかしい正義を、当然のように語る。まるで無邪気な子供のように。だが、それと同時に、彼は責任を負う覚悟を持っているようでもあった。だからこそついて行こうとする者がいるのだろうが、とも思う。
 皮肉げな口調でもなく、憐れむ口調でもなく、自慢げな口調でもなく。ただルクスは淡々とそう言った。そして老人もまた、シニカルに笑ってそれを認める。
 トワイはもう自分より強い。それは分かりきっている。ならばなぜ、と。
 
「最後に言ってやらねばならぬな……お前はどちらを選ぶのか、と」
 
 そう老人は答えを出した。最後に問わなくてはならない、彼の未来を。彼の師匠として。そして──自分だけが思っていることかもしれないにせよ──親の代わりとして。

□  △  □

Re: 宵と白黒 ( No.36 )
日時: 2020/09/29 00:21
名前: ライター ◆sjk4CWI3ws (ID: cl9811yw)
参照: http://www.kakiko.cc

 アレン・キュラスは、ルクス・キュラスに敬愛と尊崇を捧げている。
 【『真名奪い』は神側の人間だ。そもそも力とは、人間が獲得した『防衛手段』であり『対抗手段』である。だが、あまりにも進化した人間を恐れた神は、真名奪いという形で神の力を分け与えた】
 タリスクに伝わる神話では、真名奪いと力についてそう語られる。時として力は神をも超越するのだ。かつて、秋津の二人の少女が神から罰を受けたように。
 真名奪いの力は、何者にも邪魔されない。たとえ魂の時を戻そうと真名は戻らない。しろとなっていたもの──ノーシュの場合であればスマラグドゥス──を破壊されれば、真名は行き場を失う。魂にも他のものにも宿れずに消滅する。真名を失った人間はそれ以上人間としてのかたちを保てず霧散むさんし、消失を迎える──つまり死である。 
 この圧倒的な力が故に、ルクスはキュラスの一族に栄華をもたらす存在であると崇められ、畏れられてきた。だが、そんな者たちの望みが叶うはずもなく、彼が長になってもたらされたのは、粛清による変革へんかくであった。
 懐古かいこ鬱屈うっくつとしていた若者たちからの期待、粛清が呼んだ憎悪。それらを一身に受けて、ルクスの人格は軋み、歪んだ。だが、決して折れはしなかった。常人ならばそこで折れてしまいそうなものを、彼は傍目からは何も分からないほど飄々と受け流す。
 それが出来たのはきっと、己が正しいという絶対的な自信があったからだ、とアレンは思う。批判が一族の中からのみに留まらず、他の一族から集まるのも気にかけず。そんなルクスが、アレンにとって好ましかった。人の理から外れて法から外れて、自らの行いが悪であると理解して尚、ルクスについていくと思えるほどに。
 
「ルクス様の命ですので」
 
 そんな言葉が、口の端からこぼれた。
 動揺して身を引いている二人の少女を真正面に捉え、アレンはふわりとスーツの内ポケットへ手を差し込んだ。かしゃりと音を立てて引き抜かれた黒光りする拳銃の銃口が、躊躇うことなく向けられる。
 
「え、あ、は」
 
 半ば覚悟していたはずの事だった。トワイに問われた事のはずだった。だが。数十メートル先で、銃口が己に向けられている。その事実に、床に氷漬けになったかのようにシュゼは動けない。ふと、思考が脳裏に閃いた。このまま体を横に倒せばいい、まだ間に合う。弾は後ろへ抜けていく、自分には当たらない、自分は助かる。リュゼに当ってしまうかもしれないが、彼女なら───そこまで思考が浮かび上がった時、シュゼは衝撃を受けた。
 今。たとえ頭の中とはいえ、己は、自分の命とリュゼの命を天秤にかけたのだ。その事実に、身体が固まった。
 彼女の価値観では、自己犠牲は善、他人を身代わりにするなど悪。
 シュゼがもし避ければ、数秒後に発射される弾はリュゼを貫くだろう。その選択が、自分の命を守るという観点からすれば最良だ。それで良いのだろうかと、それが正しいのだろうかと。少し前の彼女なら、リュゼを守るために動いたであろう、欠片も悩まなかったはずのことが、今になって彼女の足を止めていた。
 そんな迷いを、アレンが共有するはずもなく。
 トリガーに掛けられたアレンの指に力が入り。たぁん、と乾いた音を響かせてシュゼ目掛けて弾丸が飛翔する。
 
「姉さん……ッ!」

 悲鳴のようなトーンで叫んだリュゼが、シュゼの膝の裏へ抱きついた。がくんとシュゼの体勢が崩れ、そのまま二人諸共床へ倒れ込む。弾丸はリュゼの黒髪を数束吹き飛ばし、後方の床へめり込んだ。
 
「リュゼ!?」
 
 かなり横の方から状況を見て取ったらしいトワイの叫びが、シュゼの耳朶を殴りつけた。ハッと意識がリュゼへ向く。

「リュゼ、ごめん……お姉ちゃん、なのに───」
「お姉ちゃん、お姉ちゃんって………たかだか数秒、先に生まれてきただけでしょう!?」
 
 ずっと一緒にいるから分かってたよ、と。リュゼはそう思う。自分が必死になって、強くなろうとすればするほど、姉の心は離れていくのだ。そう分かっていたと。弱いフリをして、守られるフリをして、でもそれで誰かが傷つくのはもっと嫌で。押し止めようのない激情が、立て続けに吐き出される。
 
「リュ」
「戦うなら! 私は、シュゼと肩並べて戦うの!」

 横から口を挟む隙を与えず、リュゼはそう叫ぶ。その日、初めてリュゼは姉のことを名で呼んだ。

Re: 宵と白黒 ( No.37 )
日時: 2020/10/11 10:30
名前: ライター ◆sjk4CWI3ws (ID: cl9811yw)
参照: http://www.kakiko.cc



「シファ・レグランス……貴方は、いったい幾つの顔を持っているのやら。シールとルクスィエの方でなにか繋がりがあったみたいだけど、まあしょうがないよね」
 
 ルクスは、長い足を悠然と組んで呟いた。口元に微かな笑みが刻まれる。
 完璧じゃないか、とふと思う。アレンとリフィスには、ノーシュを旗頭にしようとする敵対派閥を叩き潰せるようにしようと告げてあった。つまり、真名を破壊することである。
 
「大人しくお姉ちゃんの後にくっついとけば良かったのにね。……残念だな。僕ノーシュには期待していたんだぜ?」
 
 そう嘯いて、すっと立ち上がる。
 右手側に備え付けられた本棚に目を滑らせれば、微かに煌めくエメラルドが目に入る。その隣には、スマラグドゥスと遜色ないほどの価値を持つ装飾品が並べられていた。
 真名を封じる依り代の価値は、その対象の真名と釣り合うものでなくてはならない。無論価値とは希少性などによるものではないのだが、それが重要なファクターであるのも事実だ。ならばノーシュの強大な真名に対して、スマラグドゥスという価値の高いものが適合したのも道理である。
 真名の強大さとは、力の大きさのみで計れるものではない。その人物の意志の強さ──自分が自分であることを肯定する強さ──が、大きく関わってくる。
 つまり名前とは真名を守るための、人間による防衛手段のひとつなのである。
 ぼんやりとノーシュの真名を奪った時のことを思い返しながら、ルビーの嵌め込まれた指輪を手で弄ぶ。白い前髪を軽く払って、ルクスはふっと独りごちた。
 
「まあ、こんな希少なものに相応しいほどのキュラスの人間なんて、もうほとんど居ないのだろうけれどね」
 
 唇から小さく、落胆したようなことばが零れた。

  
 シファと呼ばれた老人──師匠──は、ちらりと立ち上がったルクスに目をやった。トワイもそれに釣られて、一瞬ルクスへ視線を投げる。
 白い前髪の奥から覗いた底知れない黒色の瞳が、青年の肌に悪寒を走らせる。あれはいけない、とトワイの本能が叫んでいた。今の自分では対抗しようのない存在である、と。
 それに気を取られた一瞬後。老人の右腕が視界の端に揺れた。
 気付いたときには老人の杖が目の前へ迫っていて、青年は反射的に右腕を上げる。左足を軸にして一回転、その勢いをもって杖を押しとどめようと試みた。
 ナイフと杖の腹が激しくぶつかり合い、力が身体をす。圧力をどうにか横へ流し、床を後ろへ蹴り飛ばした。棚を背にして床を擦り、トワイは立ち止まる。風圧が髪を激しく揺らした。

「お前なら、どんな力であるのかも対抗策も分かるだろう?」 
「ッ!」

 ふっと光が瞬いた。シファの視線の先にあるのは、書類や骨董品が並んだ棚。彼の手が真っ直ぐに伸ばされる。
 トワイは咄嗟にしゃがみこんだ。風切り音を立てて頭上を抜けていったのは、投擲された小さな置き時計。
 
「相変わらず厄介な使い方をする……!」
 
 思わず口の端からそんな言葉がこぼれた。後ろで棚に激突した時計が、まわりの装飾品とともに床に落下する。一瞬目が合って、息を詰めた。
 ───視界に入っている、ある一定以下の大きさのものを己の手元へ移動させる異能力。つまり、たくさんのものが置かれているこの部屋は、圧倒的にシファが有利なのだ。そして、その力は、手に握られていたり押さえられていたりしても発動する。
 つまりそれは、視界の中に居れば、ナイフすら奪われる危険性があるということ───
 一瞬で思い出せる限りのことを思い返し、青年は音を立てて床を蹴り飛ばした。真っ直ぐ前ではなく、右手側へ。老人の視線が振られ、一瞬自分が捉えられていないのが分かる。
 その一瞬を、青年は逃さなかった。
 足が壊れてしまうほどの強さで力を発動し、爆発的に加速。
 強く床が踏み締められ、『脚力』という概念イメージが強化される。
 老人の横顔を捉えて、低い体勢からそのまま刺突を繰り出した。不意に一歩、力の発動を止める。スピードが落ち、トワイの動きにラグが生じる。
 後ろの方で、ドアが開く音が響き渡った。
 対応しようと動いていたシファの目が開かれ、杖が空振る。意図的に速度を落として空振らせようとしたのだ、と気づいた時には、トワイの身体が迫り切っていた。

 びきり、と。
 音を立てたのは、トワイの右足。 
 体が止まった。同時に刃も止まった、老人の首の皮を表面を撫でて。彼を殺すには、トワイにとっていささか積み重ねた時間が長すぎた。
 力のかかった右足が軋み、激痛が貫く。骨にヒビが入った気がした。がくりと視界が揺れて、吐き気が込み上げてくる。
 
「やはりなぁ、お前は……」
 
 彼は元来優しい人間だ。冷たい殺し屋という鍍金メッキがシュゼとリュゼによって剥がされて、本来の彼が現れたというのが正しいのだろうか。
 ふと笑みを落として、老人は足の向きを変えた。
 
「ならどうすればいいってんだよ!?」 
 
 それは紛れもない本心の吐露、低い声が木霊する。ぎっと食い縛られた歯に、拳がきつく握られた。俯いて、長い前髪が目を隠す。
 
「さて、お前に選択肢は四つ。ルクスを直接殺すか、スマラグドゥスを直接奪い取るか、殺されるか……お前が俺を殺すかだ。何が怖い? 敵を葬り去るだけだ、お前が幾度もしてきたことであろう?」
 
 静かに老人はそう告げた。明確な選択肢の提示、そして問い掛け。
 
「それが」
 
 それへの答えを、トワイが言いかけた時。
 不意に、リュゼたちがいるはずの方から乾いた音が響いた。びくりと意識が再び張り詰め、反射的に振り向く。ルクスのやや前方で、アレンと呼ばれていた黒髪の男が拳銃を構えていた。表情の見えない、能面のようなかおだった。

Re: 宵と白黒 ( No.38 )
日時: 2020/11/23 01:01
名前: ライター ◆sjk4CWI3ws (ID: cl9811yw)
参照: http://www.kakiko.cc


 立て続けに悲鳴と同時。床へ倒れ込む音がした。
 
「リュゼ!?」
 
 反射的に声を上げ、視線を横へ振る。血は見えない。それでもシファのことを完全に意識外に置いて飛び出しそうになって、ギリギリで踏みとどまる。思わず背中を向けていた、彼に……殺されるのか、と。
 視線の先で立ち上がった二人が、何事か話しているのがかすかに聞こえた。どうやら二人とも怪我はないようで僅かに安堵する。だが、依然として数十メートル先の脅威が去っていないのも事実。
 
「なるほどな」
「どっちをだ……!」

 小さくなにか呟いたシファのことを、今度こそ無視する。今までだって散々隙はあったのだから、殺そうと思えば殺せたのだ。アレンへとトワイが駆け出そうとした時───唐突に、後ろから老人の気配が消えた。凄まじいスピード。はやい、とつぶやきが漏れる。
 はっとして、再び意識の焦点を老人へ向けた。
 足音が響く。目を見開いて、後ろへと振り向いて。リュゼを狙って、杖が振り上げられていた。その状況を写して、次の瞬間トワイの足が踏み出される。壊れる、と思った。でも、それよりも何よりも。
 
「今か……」
 
 呟いたアレンの声が遠く聞こえる。スライドが動く音も聞こえた。全てがスローモーションになったかのようだった。黒髪の少女を狙って振り下ろされる老人の杖、半歩足を引いたリュゼ。シュゼの手が伸びて、炎が宿される。彼女と共に戦わんと、彼女の意志を写すかのように燃え上がったそれ。青い光が目を刺した。
 それから闘志を分け与えられたかのように。その一瞬で、トワイは今までにないスピードで加速する。

「ッはぁ!」

 強烈な意志が力のリミッターを外したのだ。足の筋肉から、筋が断裂する音がした。貫かれたような痛みが駆け抜けて、膝から崩れ落ちそうになる。
 あと一歩が届かない。
 
「リュゼ……!」
「恨むなら、俺を殺せないトワイを恨むことだ」
「私は!」
 
 入り交じって三人の声が聞こえ、がくりと思考が揺れた。
 青い火が舞っている。真っ直ぐに伸ばした左の手のひらの先、揺らぐ魂のように纏われた火。踏み締められた床と、隣に感じるリュゼの気配。大丈夫、と呟く。右手が一瞬、隣のリュゼと触れ合った。

「お姉ちゃんだ何だって言わないことが、出来ることをやらない理由にはならないでしょ……ッ!」
「私も、わたしに出来ることを……!」

 二人の決意が、明確に紡ぎ出される。青く燐光を纏う確かな熱量を保った左手が、杖に向かって伸びた。
 視界を満たした老人と杖、自分では何ら対抗手段を持ち合わせない。自分に何ができるのかと、リュゼがそう思ったほんの刹那。後ろに、紺色の髪が見えた。
 鋭く息を飲む。それに向かって、真っ直ぐに手を伸ばして。はっきりと、時計の音が響いた。
 かはっ、と。リュゼの口から血がこぼれた。途端に時計の音が弱々しくなる。うそ、と口の端から声が零れた。キャパシティを超えた力の行使。一日中、今までろくに使った事のなかった強力なものを乱用したのだから当然だ。
 それでも、リュゼは意思を振り絞った。トワイが身を削っているのなら、己も身を削らなくてどうする、と。再び、音が復活する。真っ直ぐに、どこまでも清らかに。
 足が再び戻ったのを、トワイは感じた。万全な状態へ。走れる、と思った。リュゼを守る、師匠を殺すことはもう厭わない。受け止められる、私なら大丈夫───シュゼとトワイが、そう決意した矢先。

 たあん、と。乾いた音が響いた。
 
「が、はっ……」
 
 紺色の髪が、後ろから数束空中へ跳ねる。弾が貫いた先は己ではなく───

 視線を上座に振れば、アレンの拳銃の銃口が真っ直ぐにシファを照準していた。トワイの目の前で、赤く血が跳ねた。頬に降りかかるそれに、意識が奪われる。呆然とリュゼは上を見上げた。ゆっくりと力を失って倒れ込む彼。
 
「師匠ッ!」
 
 自分でも驚くくらい張り詰めた声が、半ば悲鳴のようになってトワイの口から飛び出した。
 
「トワイさん、あ」
 
 全て忘れて駆け寄ろうとした時、立て続けにスライドが引かれる音がした。今度の照準は、紛れもなく自分たちだ。
 
「無駄弾を撃たせないでもらえると助かるのだが……?」
 
 アレンの呟きが落ちた。ルクスの口元に浮かぶ笑みが深まる。

「シュゼ、リュゼ……!」
 
 トワイは刹那、どちらを取るべきかを迷ったように瞳を動かした。だが横合いから小さく、リュゼの声が響く。シュゼを信じて、と。空色の瞳は迷いなく。自分でも何故そんなことをしたのか分からない。
 だが、この状況で唯一動けるシュゼを信じるべきだと、そう告げた。
 
「……私が……!」
 
 ───びりっ、と。隣で舞った血に呆然としていたシュゼの頭の中で、火花が散った。意識が急激に研ぎ澄まされる。それは極度の集中状態だったからかもしれない。何故かは分からないにせよ、シュゼは感じた。
 アレンの持つ銃の中で、今にも張り裂けようとしている火薬を。
 それを使えば、あれを止められると。
 手を。伸ばせ、と。
 
「……っ、あああっ!」
 
 弾丸の中に詰められていた火薬が、シュゼの力と共鳴する。きぃーん、と高音が脳裏に鳴り響く。頭が痛む。足元から、光が舞い上がった。
 シュゼの左手が握りしめられる。 
 残弾十六発。その全てが、爆裂した。
 
「ぐ、っ!?」
 
 アレンの手から、拳銃が跳ね落ちた。暴発か、と彼は口走る。だが、それにしてはおかしいほどに威力が強いし、引金トリガーにまだ触れていなかったはず。
 内側から粉々になった拳銃は、まるで他の誰かの干渉を受けたかのように粉砕されていた。破片が幾つか手を切り裂いていき、熱された鉄の欠片が手を焼く。
 
「あ……!」
「シュゼ!」
 
 華奢な少女の喉の奥から、掠れた声が零れる。一瞬飛びかけた意識が、リュゼの声で引き戻された。
 凄まじい共鳴音が脳内に響き、そして止まる。手元の青い炎が一瞬白くなり、青に戻り消失した。頭が割れるように痛む。力の使いすぎだ、と思った。
 ふらりと足から力が抜ける。ぎりりと歯を食いしばって、アレンへ視線を飛ばした。 

 死にかけの中で、ゆっくり走馬灯が巡っている気がする。彼を拾おうと思ったのは、本当に気まぐれだったはずだ。捨てる駒がいるのも悪くはないのかもしれない、と思ったからかもしれない。
 
「お前は、もう大丈夫だろ?」
 
 掠れた声が零れ落ちた。名前を呼んでくれる誰かが他にいて、彼もまたその誰かを大切にしているのなら。きっともう、自分は要らないのだなと、そう思った。
 ──きっと、彼女は他者を変えられる何かを持っている存在なのだろう。一目見た時にわかったような気がしていた。あの少女が持つのは、自分の生ではなく、他人の生を望む力だ。他の人間とは本質が違うのだろう、と。
 
「死ぬのか、師匠……?」
「わ、わたし、なら、貴方を」 
 
 途切れ途切れに紡がれた少女の声。懸命に力を発動させようと、誰かが死ぬのは嫌だと。右手を翳して願って、それでも時計の針の音は響かない。口の中が血の味で満たされる。頭が痛い。身体を丸めて、深呼吸する。
 同時に、シファもこほ、と口元から血を零れさせた。
 
「大丈夫だ、お嬢さん…………そうだな……してやられた、か? 口惜くちおしい、と言うか……ルクスたちの計画を狂わせるのは……無理、みたいだな……」
 
 ざわりと胸の奥で過去が揺れる。かつて自分を呼んでくれた少女の、爽やかな柑橘の香りが思い出された。ルクスィエもシールも、そしてキュラスも。皆哀れな一族だったのだな、と思う。

「ガキだな、さっきまでオレを殺すとか言っといて……自分が死にそうになったらそんなこと言うなんて、さ」
「笑っとけ。狙って……のは………れか?」 

Re: 宵と白黒【半分は更新】 ( No.40 )
日時: 2020/11/01 11:13
名前: ライター ◆sjk4CWI3ws (ID: cl9811yw)
参照: https://www.kakiko.info/upload_bbs3/index.php?mode=article&id=1854&page=1

頂きものを一応記しておこうかな、と思いまして。本文にはどうやらリンクが貼れないらしいので一つだけ。

だいぶ前に頂いたものなんですが、ヨモツカミさん(『継ぎ接ぎバーコード』『まあ座れ話はそれからだ』『枯れたカフカを見ろ』など)からシュゼとリュゼです。
ありがとうございます!!

(ついったーの方で他の方からも貰ってるんですが、とりあえずカキコの方だけで失礼します)

Re: 宵と白黒【半分は更新】 ( No.41 )
日時: 2021/01/03 18:39
名前: ライター ◆sjk4CWI3ws (ID: cl9811yw)

 弱々しく伸ばされた指先が、真っ直ぐに棚の一部をゆびさす。緑に煌めく懐中時計。自分の力が脅威になりうるのなら、そしてもう死ぬのなら、体面などなにも気にする事はなかった。
 
「そうだけど、でも、だけど」

 ふっ、と。弱々しく光が瞬く。およそ殺しには向かない力だと、改めて思う。だから自分はトワイを拾ったのか、とも。それと同時に、そう思いたくない自分も確かに存在した。口から血が吐かれる。
 なぜ生きているのかすら不思議なほどの致命傷を負いながらも、老人の手は伸ばされた。緑を彼の瞳が映す。
 
「まさか……!」
「ルクス様!」
 
 彼らを遠くから眺めていたルクスが信じられない、という風に呟いた。アレンの叫びがそれを追う。
 最悪を阻止しようと、ルクスは動く。手が懐中時計の蓋にかかる。ほんのわずか躊躇って、彼はノーシュの命を奪おうと、時計を破壊しようと試みる───よりも一歩。
 シファの方が、早かった。
 
「し、しょう……」
 
 トワイの声を、聞いたか聞かなかったのか。一際強く、光が閃く。ルクスの顔に、今度こそ明確な驚愕と動揺が走った。
 
「貴様、ッ!」

 アレンが右手から血を流しながらそう叫ぶ。彼が動こうとしたその時、シュゼは真っ直ぐに手を突き出し叫んだ。いや、叫びと呼べるほどの声などもう出なかった。わずかに掠れた低いトーンの声が響く。

「止まって」

 ぼっ、と青い炎が右手の中で小さく揺れる。警告にしかならない、弱々しい炎。
 だが、アレンはその一瞬、少女の放つ『殺気』と呼べるなにかに竦んだ。守ろうとする意志が確かに、アレンの足を止めている。そのまま動かないアレンから視線を外して、シュゼはそっと目を落とす。

「これが……」
「うん……きれい、だね」

 スマラグドゥスの輝きを前にして、リュゼが小さく嘆息した。
 しゃらり、と鎖が鳴る。老人の手元を銀の鎖が彩った。緑の貴石の表面を、ゆっくりと血が流れ落ちる。鎖を緩く搦めた彼の手に、トワイは手を伸ばした。なにかちいさく、師匠は呟く。

「好……なよ……に……い」
「聴こえねぇって、」
「ろ……」

 そこで、老人の言葉は途切れた。それ以上、彼は何も言わなかった。否、言えなかった。微かに口元に笑みを浮かべて、殺し屋には度が過ぎるほど幸せげに。老人の呼吸は止まっていた。
 シュゼとリュゼがつかの間息を止め、トワイはかすかに息を吐いた。
 ありがとう、と。 


四話:自由と命令
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