ダーク・ファンタジー小説

Re: 宵と白黒 ( No.35 )
日時: 2020/09/17 20:25
名前: ライター ◆sjk4CWI3ws (ID: cl9811yw)

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 フロアの床を蹴り飛ばして走ってくる少女は、レンの予想以上に速かった。
 と、不意に先程までいっぱいに少女が映っていた視界が背景だけになって、レンは慌てて視線を下げる。
 それとほぼ同時にリフィスは、体を前傾させていた。
 は、と口の端に驚愕の言葉が乗る。僅か一拍初動が遅れて生じた、そのわずかな隙を縫ってリフィスは手を伸ばした。その右手に纏われた光輝に、レンの警戒が最大まで張り詰める。
 反射的に胸の前で構えたナイフと、彼女の華奢な手が触れ合いかけ──黒の刃が、溶け落ちた。刃を形作っていた鋼鉄が、まるで水のように変化したのだ。
 ひとつの黒い雫となって、刃だったものは床に滴る。
 
「ッ!」
「っは、浅い……!」

 本当は今のでレンの身体まで触れるはずだったのに、とリフィスは秘かに歯噛みする。やはりリーチが足りない。そのまま本当に床に倒れ込みそうになりながらも、左手を床に突いて姿勢を回復する。
 
 追撃されるか、いや姿勢が崩れるか、こちらから何か───いくつかの思考が断続的に、レンの脳裏を駆け巡る。次の瞬間少年が選んだのは、反撃では無かった。
 
 凄まじい勢いで後退し、真後ろにあったドアを回し蹴りで蹴り開ける。木製ではあるもののスライドドアの形状をとるそれは、縦枠に勢い良く激突して音を立てた。
 柄だけになったナイフを放り捨て、彼は廊下へ飛び出す。自由に動けるスペースの多い社長室では不利極まりない。
 回り込まれて後ろから攻撃されるリスクを減らすのならば、戦場は細く絞るべき───レンの黒の瞳が、きゅっと収縮した。
 
「何を……」

 小さく呟いて、少女もまた追撃を掛けようと廊下へ飛び出す。
 リフィスの右手が突き出され、青いタイが目に焼き付く。社長室と同じように照明で照らされた廊下に、二人の足音と影が落ちる。
 刹那、レンの力が発動した。
 彼女は確かに、右手を突き出そうとした。そして、レンに触れようとしたのだ。
 だが。リフィスの手は、真っ直ぐに上に伸びていた。
 
「少シ、お話したいことがアリマして!」
「貴方の力ですか、これは」
 
 レンは少女の身体に走る信号を書き換え続けていた。右手を上に突き出す、という信号を、下に突き出す、というそれに書き換える───それが、彼が《人形使い》と呼ばれる所以である。彼が避け続けているのではなく、相手側が逸らされ続けている。
 己の体の芯を狙って放たれた左の掌底を、右に逸らすように。力の籠った左手が逸れて、リフィスは体勢を崩しながらも、左足で床を踏み締めて回し蹴りを繰り出す。
 えそれはちょっと体勢的に危うくないですか、という言葉が少年の口から漏れかける。ばさりと翻ったワンピースの裾、それらから慌てて視線を外した。バックジャンプして躱して、レンはそのまま口を開く。

「あの! 僕の話を! 聞イテクレマせんか!?」
 
 いくら呼びかけても、リフィスは応じなかった。群青色の瞳が怜悧にレンを見据え、ただ殺そうと迫ってくる。こうなれば、実力行使しかないと───ようやく、レンはその結論に至った。
 
「ハァッ!」

 明瞭に、気合いが響いた。はっと少女が顔を上げ、反射的に後退する。否、しようとした。
 びきりとリフィスの脚が止まる。動け動けと念じる度に、動けなくなっているような気さえする。手を触れなければ彼女の力ははたらかない。いや、触れずとも領域を指定して使うことは出来るだろうが、精神力を削られる。
 その空隙を縫って、そっとレンは年上の少女に歩み寄る。
 顔に浮かべた微笑みの裏で、彼もまた必死だった。近付けば近付くほど、冷や汗が吹き出る。力が解けた瞬間に彼女の力で攻撃されるのは目に見えているからだ。触ったモノを液化する能力なのだろうか───何にせよ、その対象が人体になったときにどうなるかなど自明であり、レンも水溜まりになって死ぬなどごめんである。

□  △  □
 
 老人が自分へ迫ってきたとき、トワイは驚愕とともに呟いた。
 
「師匠……」
「トワイ。俺は、お前を殺すぞ」
 
 嗄れた声音が低く、トワイの耳朶を打つ。リュゼとシュゼを守るように、ジリジリと後退しながらも彼は前を向く。老人の手に握られた杖、それが彼の武器だ。それの先端がまっすぐに己に向けられているのをきつく睨む。
 
『僕は頭が良くてね? 大体のことは掴んでいるし、それに応じた策も打てる。貴方を雇ったのは、《宵》を精神的に殺すためさ。殺し屋さんは簡単には死なない、ならば心から殺せばいいじゃない。貴方だって、分かっているのだろ? 自分ではもう、彼には勝てないって』
 
 ふっと老人の耳にルクスの声が蘇る。
 トワイが家を出ていったすぐ後のことだった。煩く言う人間がいなくなったからと昼から飲みに行った時、彼は黒い長髪の男の依頼を受けたのだ───トワイを殺してくれ、という依頼を。
 そして会ったルクスという男は、裏社会に浸ってきた老人の目から見ても狂っている人間だった。
 どう考えてもおかしい正義を、当然のように語る。まるで無邪気な子供のように。だが、それと同時に、彼は責任を負う覚悟を持っているようでもあった。だからこそついて行こうとする者がいるのだろうが、とも思う。
 皮肉げな口調でもなく、憐れむ口調でもなく、自慢げな口調でもなく。ただルクスは淡々とそう言った。そして老人もまた、シニカルに笑ってそれを認める。
 トワイはもう自分より強い。それは分かりきっている。ならばなぜ、と。
 
「最後に言ってやらねばならぬな……お前はどちらを選ぶのか、と」
 
 そう老人は答えを出した。最後に問わなくてはならない、彼の未来を。彼の師匠として。そして──自分だけが思っていることかもしれないにせよ──親の代わりとして。

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