ダーク・ファンタジー小説

Re: 宵と白黒 ( No.47 )
日時: 2020/12/20 21:55
名前: ライター ◆sjk4CWI3ws (ID: cl9811yw)
参照: https://www.kakiko.cc/novel/novel6/index.cgi?mode

5話:終幕
 
  
「あ……はあ。本当はやりたくなかったんだけどね……トワイくんって言うのだっけ。きみがいちばん簡単そうだ」
 
 ふと静寂が落ちた空間に、ルクスの言葉が落ちた。そのまま棚に近づいて、ゆっくりと飾ってあるものへ目を滑らせていく。目に付いたペンダントを手に取って、そっと三人へ足を向けた。
 その仕草に、何かに気付いたらしいアレンがルクスへ振り向いた。
 
「用意、しておいてくれる?」
「ッ───承知、致しました。貴方が失敗など、するはずがない。私はそれを信じております」
「僕はいい人間に慕われたものだな……君とリフィスを見てるとよくそう思うのだよね」
 
 なにか諌言かんげんを口走ろうとした彼を手で制し、ルクスはかすかに微笑んで、アレンにそう告げる。ふっと表情を元へ戻し頷くと、アレンは棚にそっと近づいた。置かれていた宝石箱のひとつへ手を伸ばして、くるりとルクスを振り返る。
 淡い笑みすら浮かべて、ルクスは悠然とペンダントトップを握る。
 トワイがその行動を怪訝に思った直後、シュゼがヒュッと息を吸った。あの動作、あのアレンの言葉には覚えがある。まさか、と刹那思い───トワイへ警告を発する間すらなく、唐突にガラスが砕けるような、清冽で怜悧な音が響き渡る。
 凄まじい光輝が、部屋を照らした。ルクスの右手に握られた燐灰石アパタイトのペンダントが、その光を纏って煌めいている。
 
「────!」
 
 それと同時に、がくりとトワイが身体を半分に折る。噛み締められた歯がギリギリと音を立て、床の上で握りしめられかけた拳が暴れ回る。どこも身体は傷付いていないのに、全身が痛い。
 凄まじい痛みが、身体を、魂を貫いていた。それは、魂を侵される苦痛だ。魂に刻まれた真名を、神の力の片鱗によって摘出し封じる───それが、真名を奪うということである。
 
「え、トワイさん!?」
「トワイさんッ」
 
 シュゼとリュゼが動揺して声をかけても、動く気配がない。私の警告が間に合わなかったせいだ、一度見ていたのに───そんな後悔が湧き上がる。それでもシュゼは、はじくように顔を上げた。自分のすべきことをやる、と心に決めて。青い瞳がルクスの方向を睨みつける。

 不意にアレンの黒い瞳と目が合って、彼女は鋭く息を飲んだ。ひたすらに苦しげな、誰かを心配するかのような、そんな目だった。
 
「やめてよ……」
 
 彼は、ただルクスの命令で動くだけの人形などではなく。確かにアレンはルクスの忠臣であったのだと、その目を見てシュゼは悟った。
 
「───! ─あ、───」
「とわいさん!!」
 
 トワイは呼んでも何も反応を返さない。ただ苦鳴を上げ続けるだけの彼を前に、何もできないことを悟って、それでもリュゼは必死に名前を呼んだ。なにか力になれていることを必死に祈りながら、彼の手を握る。

Re: 宵と白黒 ( No.48 )
日時: 2020/12/27 15:22
名前: ライター ◆sjk4CWI3ws (ID: cl9811yw)
参照: https://www.kakiko.cc/novel/novel6/index.cgi?mode

「トワイさんッ! とわい、さん、トワイさん!」
 
 リュゼがしかとトワイの手を握ってそう叫ぶ。
 
「はは……その程度で神にあらがえるとでも?」

 それを嘲笑うかのように、ルクスはふと呟いた。アレンがおもむろに彼に寄り、前に立ちはだかる。

 ぼんやりとした、紺色の空間だった。真名奪いのみが視ることの出来る、魂の空間。中心に浮び上がる光へ、そっとルクスは『手』を伸ばす。質量も実体もない、ルクスのイメージで構成されたそれは、ただ真っ直ぐに不安定に明滅する光へと伸びる。
 普通の人間ならば多くの防壁があるものだが──それは名前であったり、記憶であったりといった己を構成するもの──、この青年に限ってはそれが障子紙のように薄い。
 大した労力をかけることなく、ルクスが真名へたどり着くかに見えたその時。
 不意に『手』が、障壁にぶつかった。
 誰かが彼のことを呼んでいる。真名を守るための名前で呼んでいた。それに応じようと、彼の魂が震える。それはつまり、彼であることを肯定しようとしている。障壁が強固になっていき、光がより光輝を増す───
 
 ふっ、と痛みが消えた。淡くて優しい感覚に全身が包み込まれる。
 青年の中で、魂に残っていた残滓のような記憶が舞い上がっていた。もう自分はとうに忘れてしまったと思っていた、幼い頃の記憶だ。
 家族の記憶だった。擦り切れたフィルムが映し出す質の悪い映画のように、所々がはっきりと見えない。声などほぼ聴こえないに等しい。
 ────母もまた、殺し屋だった。紺の髪と、夕暮れ色の目の女性。
 そして、裏の世界でつよく生きた女性だった。父は分からない、行きずりの男だったのかもしれない。依頼人だったのかもしれない、あるいは彼女を愛した男がいたのかもしれない。青年が物心ついた時には居なくて、でもそれは常闇街では珍しいことではなかった。

 自分を産んで、五、六年が経った頃だったのだろうか。致命的なミスを犯し追われる身となった母は、自分を連れて狭い世界を逃げ惑った。
 血塗れになって、ボロボロになって、それでも彼女は彼の背を押す。
 
『逃げ──い! ───、あなたの脚───大丈夫だから、どうか、生───』
  
 ジーッ、ジーッと音を立てて記憶が揺らめく。声も映像も、もうまともに見えやしない。 
 でも、分かることだってある。裏の世界の辛さを、きっと母は知っていた。でも、彼女は産むことを選んだ。ただ生きてほしいと、そう願っていた。
 それは、愛されていたということだろうか。ならば自分は何が欲しかったのだろう、と彼は思う。家族か、愛してくれる人か。自分はリュゼに何を見出したのだろう、と。
 そうか、とふと悟った。
 
「そんなもので………!」
 
 現実の世界で、ルクスの声が聞こえた気がした。悠然とした態度を常に崩さなかった彼の口の端に、僅かに焦燥が乗っているような。
 シュゼと目を合わせていたアレンの瞳孔が開かれる。
 
「───…ッぐ…名前を呼れ……ッ…る、そんな普通が、欲しかった…………!」
 
 痛みに呻きながら抗って、吐き出すように。それに、はっとリュゼが顔を上げる。シュゼが短く頷いて、リュゼの背を僅かに押した。
 
「私がここにいる……! 大丈夫、あなたはそこにあるから……!!」

 リュゼが叫ぶように、そう言った。

Re: 宵と白黒 ( No.49 )
日時: 2021/01/09 15:36
名前: ライター ◆sjk4CWI3ws (ID: cl9811yw)

 弾けるようにネックレスがルクスの手から飛び、チェーンが空中へ舞う。天井の照明を反射して、真名の圧に耐えきれなかったそれが、きらきらと煌めいた。
 がくりとルクスは膝を折る。かは、と、吐く息の中に血が混じっているのを見て、アレンは歯を食いしばった。だからあれほど、という言葉を口の端に溶かして、黒髪の男は立ち上がる。
 ネックレスが、真名の力に対して全くもって釣り合わなかった。その場合の真名奪いへのフィードバックは、とてつもない痛みを伴う。本来そう易々と人間が行使できる力ではないのだ、とアレンは思う。
 未だに痛みの余韻で立てないトワイと、それを介抱するように寄り添ったリュゼ。その二人を守るかのごとく、シュゼがきっと彼らを睨んで立ち上がった。
 
「ルクスさん、もうやめなよ。いまならきっと、まだ……!」
 
 シュゼのその言葉に、ルクスはそっと眉根を寄せた。顔を上げた彼は、心底分からないとでも言いたげに首を傾げる。
 
「なにか勘違いしているようだから言っておくけれど。僕は僕自身の保身がしたいんじゃないんだぜ? 僕が居なきゃキュラスは成り立たない。ノーシュの記憶が戻れば、僕はこの立場を追われるだろうね。だから僕は君らを逃がす訳には行かない」
「いくらなんでも度が過ぎてるよ! そんなやり方じゃ、誰も幸せにならない……!」
 
 シュゼが叩きつけるように叫んだ言葉に、ルクスは目を瞬かせた。数秒かけてその言葉を咀嚼する。その意味をようやく理解すると、無意識のうちに顔を歪めていた。
 それに気付いたアレンが、主を庇うように声を響かせる。
 
「ルクス様、貴方は間違ってなどいない」
「アレン」
 
 す、と、ルクスの右手がそっとアレンを制止した。圧倒的な威圧感を伴って、ルクスは淡々と、言い含めるように口を動かす。黒い瞳が煌々こうこうと光を帯びて三人を見つめた。
 『幸せにならない』と。彼女はそう言っただろうか。その言葉が、頭の中にエコーを伴って響きわたる。
 
「もう、馬鹿みたいだな」

 口元から血を零した彼は、凄絶なまでの笑みを閃かせていた。はははは、と。声にならない笑い声が、喉の奥から込み上げる。
 自分が今までどれほど苦労してきたかも知らずに、この少女は。
 それと同時に、それは自分の努力を否定されたくないだけのエゴなのだと、そう理解する自分も存在する。本当の救世主とは、本当の良き主とは、そんな醜いものではないのだろう、と。
 
「ルクス様、貴方は」
「さっきのが、黙れという意味だってことが分からなかったか?」
 
 今まで張っていた糸が、ぷつりと切れたような。そんな口調でめいを下す主に向けて、アレンは声を掛けようと試みる。感情など映さない仮面のようだった顔が、主を止めることが出来ないという事実を前にして、酷い焦燥に染っていた。
 それに反して、ルクスの顔はとてつもなく静かだった。先程までの笑みは消えていて、仮面を付け替えたかのような無表情がそこにある。最後までアレンに言葉を紡がせぬまま、彼は告げた。
 
「終幕、だ」
 
 彼はちらりとアレンに視線を投げる。微かにアレンが息を飲んだ。刹那躊躇うように俯いて、それでも無言で一礼する。ルクスだけでもどうにかして守りたかった、と後悔が胸に広がった。だがルクスがそれを望まないなら、それを尊重することもまた臣下の務めなのだと、そうアレンは理解する。
 そう覚悟を決めて、アレンはルクスへ捧げるように、先程取った宝石箱の蓋を開けた。そこに埋め込まれていたのは、宝物の類ではなく。

「リュゼ、なにかしてくるかもしれない……トワイさんと懐中時計、お願い」
「シュゼ……最後まで向き合わないとダメだよ、私たちが始めたことだもの」
「分かってる」
 
 誰も幸せになんてならない、と。リュゼと小声で会話する一方で、先程の自分の言葉を噛み締める。ルクスに殺されたたくさんの人たちも、ノーシュも。彼らを心配する家族、配下の者たち。その『誰も』には、彼らも含めて言ったつもりだった。主の身と思い、それらに板挟みになって苦しげなアレンを、虚無を抱えるリフィスを、精神こころを磨り減らすルクスを。
 でもそれは、伝わらなかったのだ。
 
「ごめんなさい」
 
 言葉を絞り出した。それでも、とシュゼは思う。独裁するような、そんなやり方が正当化されていいはずがないのだ。
 アレンが宝石箱の中身を取り出そうとしている。そんな風に、シュゼとリュゼには見えていた。 

Re: 宵と白黒 ( No.50 )
日時: 2021/01/31 01:48
名前: ライター ◆sjk4CWI3ws (ID: cl9811yw)

□  △  □

「ソレでも僕には……僕には、アナタが救いを求メテいるようにしか見エナイ。僕は、ルクス・キュラスが悪人であるとしか思えない」
 
 リフィスの言葉に、レンはそう応じた。照明の明かりに透かされる黒の瞳が、薄らとした光の膜を帯びる。 
 自分のまだ浅い人生では、そう人の心を動かせることなど言えやしない。現に自分は一度失敗しているから。それでも、それでも尚、彼女に諦めてほしくなかった。何をかすらも分からないけれど。
 たとえそれが自分のエゴであったとしても、だ。
 
「ダケド……ソノ役目は、僕ではないのかもしれない」
 
 認めたくはなかったけれど、自分では無理だ。レンはもう既に、そう理解していた。彼女が本当に望んでいることを、自分はしてやれないのだ。
 
「黙ってもらえませんか、レン・イノウエ……何が正しくて何が間違っているのか、私はもう分からないから」

 昔から、他人を常に傷つけて生きてきた。それは無差別で、自分ではどうしようもなくて、なんの意味すらない忌むべきものだった。制御出来ない力とはそういうものだったから。
 だからルクスの力の行使は、とても意味があるものに思えたのだ。誰かを罰するため、何かを裁くため、そして───守るために。それが世間一般では独裁と呼ばれるものであったとしても、リフィスからしてみればそれは正義だったのだ。
 今、その認識が揺るがされているから。この声は酷く震えている。
 
「分からないんです。ルクス様が悪人なら、その悪人に必要とされたいと思う私も悪なのか。悪であることが、本当に間違っているのか」

 最初と同じように、レンは少女と相対する。自分を真っ直ぐに見つめてくる瞳孔の光が、不規則に揺らいでいた。どこか不安げな色をのせた目元、かすかに震える唇。
 ああ、とため息のような音が口からこぼれた。自分は彼女の何を見ていたのだろう、と後悔が込みあげる。こんなにも、彼女と華鈴は違うというのに。
 単に見た目だけの問題ではなかった。不安定に揺らぎはするものの、動かぬ軸を持っていた華鈴。リフィスはその軸すらも今揺るがされ、まるで出来損ないの独楽こまのようだ。
 自分は何も分かっていない。それを、レンは今、叩きつけられていた。
 
「ああ……ブランさんは……悪い人ではありません。私と同じ境遇だったから、私が見えていなかっただけで……それを表に出しこそしませんでしたが、きっとあの方には、私と過去の自分が重なって見えていたのでしょうね。私はつまり、『可哀想な子』であると」
 
 どこまでも哀しげな、そして懐かしむような声で、少女はそう言った。レンに反駁はんばくを挟む間を与えずに、彼女は続ける。
 
「私は、私の思うように動いてもいいのでしょう?」
「ええ」
 
 突然投げかけられたとい、それに寸分の躊躇いすらなくレンは返した。自分がこれを肯定したなら、もう彼女を縛るものはなくなるのだと覚悟を決めて。ルクスの命令を優先するとリフィスが決めたなら、殺されてしまうかもしれないから。
 一瞬、彼女が瞬いたのが見えた。胸の前で握りしめられた手に、力がこもるのも。浅く息を吸って、その群青の瞳が自分を捉えたのも。
 
「ならば私は、ルクス様を信じます。私はあなたにどう思われようと、何を言われようとルクス様を選ぶ。随分とあなたの言葉に揺り動かされてしまったけれど、もうきっとこれは不変です。だから、諦めてください」
 
 言葉が落ちた。この音の振動だけが、レンの耳に届くのに時間がかかっているかのように。静寂が二人を縛っていた。
 
「そう、ですか」
 
 ようやく一言絞り出した言葉は、先程の肯定とは随分異なって掠れていた。どうして、問うことは出来ない。リフィスの瞳がそれを許していなかったし、それをしてはいけないのだと悟ってもいた。今までの比ではないほどの強い光を宿して、確かに少女はそこに在る。
 何よりも優先したい、誰よりも選びたい。
 それは、きっと恋なのだ。そう少年は思考する。自分が選び続けてきたひとは、きっと自分を選んでくれはしなかった。だからこそ、彼女の背を押す選択をしたい。そう思えた。 

Re: 宵と白黒 ( No.51 )
日時: 2021/05/31 22:02
名前: ライター ◆sjk4CWI3ws (ID: cl9811yw)

「───ですが、また今からあなたと殺し合いをする気にはなれません。私はもう、それほど非情になれない。……ルクス様の方へ加勢をしに行きます。私を殺したいのなら、その隙にどうぞ」
 
 リフィスは、薄く笑みを浮かべながらすっと一歩踏み出した。かつりと足音が響く。
 
「あなたがそこまで信頼してくれる理由が、僕には分からない」
「あなたは真剣だった。私自身を見てなかったのは事実かもしれないけれど、でも確実にあなたは向き合おうとしていた。違いますか」
 
 意表を突かれて黙り込んでしまったレンを振り返らずに、リフィスは彼を追い抜いて扉の方へ歩いていく。彼女が扉に手をかけて、引き開けた。
 その刹那の静寂を、まるで見越したかのように。
 ────爆音が、轟いた。
 
「は…!?」
「ツッ……!」
 
 反射的に床面に伏せて身を丸めるが、それでもびりびりと耳鳴りがする。頭を直接殴られたかのような衝撃が駆け抜けた。廊下の向こうの方を見透かしてみれば、そちらの壁面が大きく爆ぜているのが目に入る。緩く炎が床を撫でていた。
 直接確認した訳ではないが、おそらく、そちらにはエレベーターホールがある。レンはそう思考して瞬いた。
 かろうじてこの廊下が密閉されていない──レンが非常階段の入口を背にして立っている──おかげで、爆発の圧で死ぬということはなかった。が、いざという時、高層ビルの最上階から地上一階まで階段を下りるというのは、あまりにも非現実的だ。
 
「リフィスさん!」
 
 ば、と顔を上げてリフィスの方を見上げてみれば、彼女はぎりぎりで室内に滑り込み、難を逃れたようだった。
 
「ルクス様!」

 自分などお構いなしなのだろう。あっという間に彼女の姿は消えていた。
 その様子に小さく苦笑をこぼしてから、レンはリフィスの後を追おうと立ち上がる。が、くらりと一瞬目眩が生じた。爆圧の影響か、と呟いてから、どうにか壁伝いに歩き出す。
 緑の非常灯が、彼を照らした。
 
□  △  □
 
 ─────爆音が、轟いた。
 おそらく廊下、しかし、これは。
 
「ッ伏せろ!」
 
 トワイが弾かれたように顔を上げて、直後僅かに顔を歪める。反射的にリュゼの手を引いて床へ伏せさせた。彼女がシュゼもしゃがませたのを確認して安堵した。
 リュゼもまた、どこか呆然とした顔でルクスの方を見つめていた。小さく唇が動いている。何を言っているのかまでは分からなかったが、その視線が動いて姉の背を捉えたのは見えた。
 ほんの数コンマ秒。
 それを置いて、右手側の壁から轟音と共に炎が吹き上がる。そこにはオブジェがいくつか設置されていたはず。爆弾が隠されていたのか、と口走る。数は多いが、単体での威力はそこまでではないはずだ。
 この部屋が相当広いからか、そこまでの衝撃ではなかったが、そこに近ければただではすまなかっただろう。反射的に立ち上がり、ちらりと出口の方を確認した。
 出口は無事。しかし、廊下がどうかは分からない。爆発音から察するに、下の階へ降りる手段が残されていなくてもおかしくはない。

「な……んで、こんな」 

 シュゼの声は、ひどく震えていた。 
 視線を動かしてルクスたちを見遣れば、彼らにはひと欠片の動揺すら見当たらなかった。ならばこれは彼らの仕業だと断定する。耳鳴りがして、顔を歪めた。
 先程の爆発で、火の手が徐々に回り始めている。おそらく壁が木造ではないからか、そこまで早い訳ではない。だが確かに、じわりじわりと、熱が這っている。
 
「火の手が回りきったら全員焼け死ぬぞ……!」

 もう止められないと分かってはいながらも、警告めいたものを口に出さずには居られない。リュゼに小さく頷きを返してから、じわりと後ずさった。
 
「ははははは───ッ! 構わないさ、全部終わりにしてしまおうぜ! ……カハ、っは……本当はさ、僕たちは逃げるつもりでいたけど、まあ全部どうでもいいかなって思うんだよね!」
 
 まるでこの状況に狂喜したように、一転大きく両手を広げて彼は叫ぶ。とてつもない圧がルクスの全身から放たれた気がして、シュゼは身体に力が入らなくなる感触すら覚える。
 トワイもまた、微かだが鋭く息をこぼした。今のルクスは、精神を壊した者のそれ。早くここから脱出しなければならない、と焦りが一層強くなる。
 
「まあ……この感じは、いっそ爽快ですらあるけれどね」
 
 刹那冷静に戻って、小さくルクスは呟いた。口からさらに血がこぼれたのが分かる。真名を奪おうと『手』を伸ばした時、トワイというらしい青年の魂の、いわば精神力とでも言うべきものが、凄まじい勢いで逆流した影響だった。まさかあの一瞬で、ここまでの強さに成長するとは思いもしなかった。
 誰かに肯定されるということが、それほどまでに人を変えうるのだろうか。大して強い力を持つ訳でもない
彼に、ここまでやられてしまうとは。
 
「ルクス……様」

 アレンはそっと、ルクスの名を呼んだ。シュゼ・キュラス。彼女の持つその名こそが問題だった、と思う。彼女たちキュラスの一族が幸せにならんと努力してきたのにも関わらず、それを当の本人が否定したのだ。彼が負った傷は計り知れない。

「ルクス様!」
 
 鋭くて、少し高めの新たな声が、そこに飛び込んできた。そちらに二人の意識が数秒逸れる。

「行くぞ!」
 
 素早く振り返るなりトワイは走り出そうとする。だが、その足はすぐに止まってしまった。爆発による火の手が、もう扉の方に回り始めていたからだ。
 無言のまま、きつく歯を食いしばって踏み出したのはシュゼだった。まっすぐ伸ばされた手から煌めきが舞って、そのまま右に払われる。それは共鳴、先程アレンの銃を吹き飛ばした時と同様に、扉の方を覆わんとしている炎を自分のモノにしようとしているのだ。
 赤々と、床を舐めるみたいに広がっていた炎が、じわりじわりと青く染まり出す。全部消し去るのは無理だとしても、少しの抜け道があればいい、と思考する。
 
「トワイさん!」
 
 指揮者が、最後の音を切る時みたいに。ばっ、と右手を握りしめる。
 一瞬で白に変化した炎たちが消失して、刹那道を作り出した。
 ああ、と小さく、しかし確かに彼から応答。
 リュゼの手をひいたまま、トワイは持ち前の反射神経を活かして飛び出した。シュゼが炎を制御下に置いている隙に。リュゼがはっとしたみたいに顔を上げて、シュゼへ手を伸ばした。その手をもう一度握りしめる。小さな火が足元を舐めはじめた。
 それを飛び越して廊下へまろびでて、はっとして部屋を振り返った。
 
「レン! はやく!」
 
 シュゼは振り返ってそう叫び、どうにか炎を抑え込む。鈍器で殴られているような頭痛が頭に巣食っていたが、無視してチカラを行使し続けた。

Re: 宵と白黒 ( No.52 )
日時: 2021/06/08 20:05
名前: ライター ◆sjk4CWI3ws (ID: cl9811yw)

 呼ばれたレンは、小さくそれに頷いた。が、彼女の方へ歩みはしない。自分にはまだすべきことがあるのだから、当然だとでも言いたげに。命が危機に陥りかねない状況下であるのにも関わらず、レンの動作はひどく泰然としていた。
 
「リフィスさん」
 
 ただ、静謐。
 真っ直ぐにルクスの方を見つめる群青の瞳、それへ視線は向けていない。彼らのそれは、どこまでも交わらない平行を走っている。
 シュゼの方を向き、床を舐める炎を見つめながら、レンは声音のみで問いかけた。
 
「あなたはひとりで。私はここに残る」
 
 リフィスは、当然のようにそう告げる。微塵の揺るぎもない、確かな声。
 それを聞いたレンの口元に、薄く笑みが浮かぶ。あなたならそう言うと思っていた、とでも言いたげな顔で、そのまま白髪の少女に言い放った。薄く炎の色が透けて赤に染まる髪と、青の目。微塵もあのひとと似ている要素は無いのだけれど、持っている意志の強さは同じだ。それに、どこか惹かれる。
 そう思ってから、ゆっくり瞬いて口を開く。
 
「僕ハ後カラ行く。シュゼたちハ先ニ行って」
 
 見捨てることなど、出来ようはずがなかった。もう覚悟は出来ている。
 ───もう自分は、リフィスを華鈴と同じようにしか見られないから。
 
 □  △  □
 
「あいつなら、きっと大丈夫だ」
「でも!」
「オレは、お前たちとレン、どっちかを取れって言われたらお前たちを取る。……行くぞ」
 
 そう言って踏み出した一歩の足音が、妙に頭を抜けた。緊張や心労を抱いている時の重さとは違う、ざらりとした感触が残っている。
 師匠の遺体を放置してきてしまった事への心残りか、それとも罪悪感をレンに抱いているのだろうか。棺に入れられて葬式なんてあんたの柄じゃないだろう、と問いかけるように呟いて、後悔を振り切る。
 ちらりと後ろを振り返った視界の端で、短髪が揺れる。
 見捨てた訳ではない、と心の奥で言い訳をした。とりあえず二人を安全なところまで連れていき、助けを呼ぶのが最善だと判断したからだ、とも付け加えてみる。
 違う、と思った。
 
「解ってしまうから」

 独り言のように、言う。
 リフィスという少女と、彼女を見るレンの目を見た瞬間に解ってしまった。
 彼にとってリフィスとは、自分にとっての双子のような存在なのだと。いや、多少の差異はあるだろうか。特に人の気持ちを読むのに長けているわけではないから、上手くそういうことを察することは出来ない。
 だが、彼を邪魔することはきっと許されないと、そう思った。
 トワイの呟きに、リュゼは薄く笑うのみだった。

Re: 宵と白黒 ( No.53 )
日時: 2021/07/15 23:35
名前: ライター ◆sjk4CWI3ws (ID: cl9811yw)

□  △  □

「アレン、あなたのチカラでルクス様を……いえ、そんなことは無駄でしたね」
「当然だ」
 
 ざらりとした、平坦な口調だった。
 アレンの異能力、それはすなわち空間接続である。一定の距離を置いたふたつの空間を、擬似的に接続することが出来る。その強力さに違わず、アレン自身の負担は大きい。が、そんなことを理由にして彼は力を使わないのではなかった。
 マットブラックの両目が、一切の揺らぎを見せずにリフィスヘ向けられる。群青と墨色が交わって、同時にある方向へ向けられた───すなわち、二人の主へと。
 白髪を持つ主は、ゆっくりと口を開く。
 
「きみは最後まで可哀想な子だね、リフィス。だから、きみはもう『リフィス』を辞めなさい」
 
 Sacrifice───異国の言葉で、『犠牲』を指す。ルクスに仕えるにあたって付けられた自分の名前、その意味を教えてくれたのは当のルクスだった。
 水飴を溶かしこんだような甘い声音でありながら、そこになんの感情も込められてはいないのだ。
 その矛盾に、そばに居たレンはわずかに身を引いて顔をしかめる。肌に走るそれは、嫌悪感と恐怖感。ルクス・キュラスという人間の本質を、少年は垣間見た。
 
「それでも、選んだのは私です」
 
 そっと群青の瞳が伏せられる。それをふちどる睫毛が、ゆっくりと震えた。
 
「そう。アレンは? ……聞くまでもないかな」
 
 どこか無関心さえ感じられる声音。平坦で均一で無機質な、コンクリートのような声だ。
 アレンはそっと主へと歩み寄る。今までルクスが、こんなにも力を使う際に消耗したことはなかった、とアレンは思う。否、力を使って失敗したことがなかった。故にアレンの中でルクスは絶対であり、唯一だった。彼が持つ絶対性、カリスマ性とでも言うべきものが、アレンを惹き付けていたのだ。
 
「ええ。当然でしょう」
 
 それでも、どうしようもなく彼を支えてやりたいと、アレンは思う。
 ルクスはもう、ほとんど目を閉じかけていた。外傷はないと言っていい。では彼のどこが傷ついているというのか、それは魂である。肉体と魂は相関関係にあるのだ。肉体が欠けても魂に影響はないが、魂が欠けたり傷ついたりすれば、それは肉体に影響を及ぼす───通常では考えられないほど、強く。
 じわり、じわりと、部屋の中の赤い範囲が広がってゆく。燃えきらないなにかが上げる黒煙が部屋に満ち満ちていきかけている。入口の大扉が空いていなければ、とっくのとうに全員が死んでいるだろう。
 もう動けない様子のルクスを見てとって、ずっと黙り込んでいたレンが、意を決したように口を開いた。
 
「介錯を、してあげてクダサイ」
「かい、しゃく……?」
「あなたがルクスさんを殺すということです、リフィスさん」
 
 アレンが大きく目を見開く。リフィスも、驚きで顔を染めた。
 
「本気で、言っているのか……」
 
 彼が、かすれた声でそう言う。
 
「アキツに伝わル風習のヒトツで、死者を苦シマセズに送り出す方法ナンデす」
 
 淡々と説明する少年の声が聞こえたのか聞こえていないのか、ルクスはうすく笑った。なにも言葉を発しはしないが──というよりはもう出来ないのだろう──アレンとリフィスを信じるように笑っている。
 リフィスは考え込んでいるようだった。何が主にとって最善なのだろう、と。自分は彼に、なにをしたかったんだろう、と。
 なにをしたかったんだろう。
 
「ああ……」
 
 少女の口元から、吐息が零れた。そうか、と内心独りごちる。
 
「あなたと一緒に、平和に、死とかそんなこと考えなくていいぐらいに、笑いあいたかった。私、普通の世界で生きてみたかったです、ルクス様」
 
 アレンはもう何も言わない。そっと主のそばに跪いている。ルクスもまた黙っている。火の爆ぜる音すらも割り込ませずに、静寂が満ちる。
 
「あなたのことが、大好きです」
 
 忠愛であれ、恋愛であれ。

Re: 宵と白黒 ( No.54 )
日時: 2021/07/18 22:47
名前: ライター ◆sjk4CWI3ws (ID: cl9811yw)

「ああ」
 
 同じ音が、違う高さでもってレンの口からこぼれおちる。どうしようもなく美しい、と。胸の奥が締めつけられるような、刃で貫かれるような。
 そっとリフィスがしゃがみこんで、ルクスの胸に指先を当てた。狭い領域に、彼女が力を集中させたのだ。なんの音も立てずに、彼の纏っていた服と、肌と心臓とが水と化してゆく。赤い液体がこぼれるが、それは血よりも薄い色合いをしていた。
 円柱状を成してルクスを貫いたリフィスの力が、今完全に、彼を死に至らしめた。
 
「私は最後までここにいる。……ルクス様のあの言葉の意味を、分かっているだろう」
 
 アレンは静かに当然を告げる。強い光を宿した漆黒の目が、確かにリフィスを捉えた。
 
「ええ。……ええ、分かっています。当然、でしょう」
 
 からりとしていながら、どこか押さえつけているような声だった。泣いているわけではない。
 ばちばちと爆ぜながら、炎が白と黒の主従を飲み込んでいきかける。アレンはゆるやかに跪くと、ルクスを見つめて、何事か呟いた。答えがあるはずもないのだが、彼は、満足気な笑みを見せて目を閉ざす。
 
□ △ □
 
「リフィスさん」
「ええ。……私は、生きなくてはならない。もう他に手がないのです、やりましょう」
 
 窓からの飛び降り。炎に包まれた大扉の方へ抜けていくのが不可能となった今、逃げるとするならばもうそこしかありえないのだ。
 一見自殺行為だが、自分とリフィスのチカラを合わせればどうにかなる、とレンは思考する。
 リフィスが全てを出力に注げるよう───それでももう残滓を掻き集めているようにしかならないが───発動するタイミングはレンが操る。
 
「お願いします、リフィスさん」
 
 異能が発動する際に使われている、具体的な器官というものは発見されていない。発見されていないというよりは、無いという方が正しいだろうか。
 レンはそんなことなど知らない。だが、しかと確信している。即ち、自分の力で、強制的に異能を発動させることも可能であると。
 はるか地上で、青い光がちらついている。
 
「───絶対に離さないで!」
「わかってますよ!」
 
 一切の音もなく、リフィスが窓ガラスを溶かした。それと同時に、ふたりで窓枠に足をかける。なるべく空気抵抗が大きくなるように、全身を広げて───窓から、飛ぶ。
 
「りふぃす、さん……!」
 
 目も開けていられない程の激しい風圧、しかしレンはそれを閉ざす訳にはいかなかった。なるべく離れないように、と、軽く繋いだ右手はまだ暖かい。どうして視覚だけを開いておくことはできないのか、と、取り留めもない思考が瞬いた。
 そうしている間にも、重力という名の絶対律が、彼らを地上に戻さんとのしかかる。
 
「あ」
 
 少女が、小さく声を零す。
 とろり、と青が溶けた。それはブランのリボンタイであり、彼女への暗示。する、と手の間を抜ける水のごとき滑らかさで、手首からそれは解けていく。同時、あおいろがゆるやかに雫に変わった。下から吹き上がる風が、それらを全て空へと持ち上げる。
 リフィスを見つめる黒の瞳が、一瞬青に染まった。
 どうしてこのタイミングで、と呟かずにはいられない。それは異能の暴走、リボンタイが解けたのは風圧によるとしても、それが液化した理由は間違いがない。そして意識させられるのは隣の少年。
 
「だいじょうぶ、だから」
 
 途切れ途切れの声が響く。
 それにリフィスは何も言葉を返さなかった。否、返せなかったのである。そして、少女は視界を閉ざした。
 永遠とも思える数瞬だった。ちょうど地面に顔を向ける体勢で落ちてゆくふたりの影が、いよいよ窓際まで到達したらしい炎によって生まれる。

「カウント───!」
 
 耳元で唸る風を、少しの掠れすらもなく貫いて、少年の声が響き渡る。
 
「5!」
 
 レンの瞳がゆるく動いて、地面との距離を測る。遅すぎたら、きっと全身の骨が砕けちる。早すぎてしまっても、液化したコンクリートは彼らを拒絶するだろう。
 
「4」
 
 リフィスが閉ざしていた視界を一瞬開く。伺い見たのは、隣の少年。
 
「3、2──」
 
 目を閉ざす。体内の力を振り絞る。真っ直ぐ伸ばした左手に、それを収斂する。
 体内に、電流が走り抜けた感覚。ぞくり、と総毛立つのを、少女は感じとった。自分の意思に反して、力が漏れ出ていく感覚。これは知っている、と彼女は思う。同時に、昔とは違う、とも。恐怖感と、それを上回るひどくやさしいなにかがそこにあるから。
 いち、という声はない。どぷ、と音を立てて──────二人の体が、水に沈む。否、それは水ではない。水よりも粘性の高い、いわばゲルのような。
 ざ、と音を立てて。あまりの集中によって失われていた周りの喧騒が、一度にふたりへと襲いかかる。それはサイレンの音であり、通行人が囁き交わす音であり、足音であった。
 
「けほ、かは……」
「痛っ、う」
 
 左手から突っ込む形となったリフィスは、思っていた以上の衝撃に顔を歪め、顔面も同時に着水する形になったレンもまた咳き込んでいる。お互い無傷とはいかなかったが、それでも、生きている。炎の中を脱出していくよりも遥かに被害の少ない方法で。
 その事に安堵しながら立とうと、せめてこのゲル溜りから抜け出そうと、力が及んでいない地面に手をかけて這いずり出る。もう一度立ち上がろうと試みた瞬間に、ふらりと全身から力が抜けるのを感じた。
 暗転。 

Re: 宵と白黒 ( No.55 )
日時: 2021/07/22 22:18
名前: ライター ◆sjk4CWI3ws (ID: cl9811yw)

「リ、ふぃすさ……か、」
 
 まるで死にかけではないか。
 全身がぎしぎしと痛むが骨が折れている気配はどこにもなく、自分たちの作戦が成功したのだと少年は安堵する。着水の際にうつ伏せの状態だったせいで、幾らか吸ってしまって咳きこんではいるが。
 ずるりとゲル溜りから這い出て、倒れてしまった少女を気遣うように、その傍に跪く。が、極度の緊張──していたことに今気付いたが──が解けたからか、疲労からか、急に視界が白く飛びはじめる。音が次第に聞こえなくなっていって、ようやく意識が飛び始めているのだと気付いた。
 気付いた時にはもう遅く、少年の意識は消えていた。
 
□ △ □
  
 左、右。先頭を行くトワイが辺りを見回す。緑色の光を視界に入れるなり、そちらへと駆け出した。双子も彼の背を追って走り出す。
 シュゼはぎりぎりまで炎の制御を保っていたいようだったが、そろそろ限界だったのだろう。ゆるりと下ろされる右手と同期して、光の粒が空間を透かした。ちらりと顔をしかめたのは、急に耳鳴りが止んで頭痛も無くなったことへの違和感だろうか。
 ふ、と周りを彩っていた光輝が消失して、視界の中から色がひとつ消える。
 
「大丈夫、シュゼ」
「うん」
 
 その様子を見てとったらしいリュゼが、ちらりとそちらを伺いながら声をかける。空色の目に、はっきりと心配げな色が載っていた。
 それにゆっくりと苦笑して、白髪の少女はそう答える。真っ直ぐに正面を見て、先程から言おうと思っていたことを口に出す決意を固めた。
 
「……私、髪伸ばすね」
「うん。シュゼはきっと、長い方が似合うよ」
 
 躊躇っていたのが馬鹿馬鹿しくなるほどの、清々しい返答だった。
 まるで学校でする友人同士の会話のような。傍から見ればひどく気の抜けた言葉に、リュゼは笑みを浮かべた。その表情に反した感覚が、頭へと突き上げてくる。つん、と鼻の奥が痛くなって、目はじわりと熱を帯びていた。
 追憶に沈みそうになる頭を振って、ただ正面を見つめる。先に扉の方へたどり着いたトワイが、扉に手をかけて顔をしかめた。

「鍵、かかってるな……!」
 
 そうこうするあいだにも煙はそこに迫ってきていて、一刻も早く開けなければならないと、焦りばかりが募っていく。判断は一瞬だった。
 す、と息を吸う。きらりと足に光を纏わせて、勢いよく扉に叩きつけた。途端、足が軋みをあげる。いい加減にしろ、と脳内で自分の声が響く。これ以上やれば本当に壊れる、と。口から溢れそうになる呻き声をどうにか押しとどめて、トワイは振り返った。
 
「はやく!」
 
 シュゼとリュゼが横並びになって、トワイが蹴破った扉から出ていく。それを見送って、彼もまたそこに飛び込んだ。気休め程度でもそれ以上煙が侵入しないように、と扉を閉めると、がしゃりと音を立てながら防火シャッターが降りてくる。
 これでもう完全に、階段の中と外は隔離された───そこで心に引っ掛るものの正体は、黒髪の少年であった。
 非常階段は、珍しい螺旋状をしていた。特に内装が凝られているわけでもない、無機質な。モノトーンのそれが遥か下まで続いているのは、ある種退廃的ななにかを感じてしまう。こぉん、と足音が反響して、下へ抜けていった。無限とも思えるそれを、双子のペースに合わせてくだる。 
 ちらりと壁面に目をやれば、そこにはXXIIIと蛍光色のペンキで塗られていた。23を意味する古代文字だが、その色のセンスがどうにもルクスと結びつかず、違和感が過ぎる。周りが暗くても見えるように、との配慮だろうか。確かに光源が段ごとに設置されたフットライトのみのこの空間では、その文字はとてもよく見えた。
 そんなことを考えている場合ではないな、と苦笑して、ちらりとシュゼとリュゼに目をやった。
 目の合ったリュゼが、かくりと首をかしげて上を見上げる。
 
「それにしても、どうしてここは残してあったんでしょう? 上だとスプリンクラーとかは動いていなかったのに、この階段は防火シャッターが作動した……」
「あと、結構降りてきてるはずなのに、次の階に接続するところがないよね……? 私たちがいた階が多分26だから、ここまでで25階とか24階に繋がるドアがあってもよさそうなのに」
 
 シュゼも壁面に手を滑らせながらそう続けた。
 
「たぶん、ルクスが逃げるためだろうな。今まで使われたことがなかっただけで。ほら、こことかも埃が多いから。……扉がないのは、この階段自体がある種の避難場所だからだと思う」
 
 未だ首を傾げている少女に、かつて同業者から聞いた噂話を思い返しつつ口を開く。
 
「何が起こるかわからないから、とりあえず一旦逃げておける場所としてここをつくったんじゃないかな。他の階とかから攻めこまれないように、一切接続するところがない──酒場にも同じような地下室があるって聞いたことがある。乱闘とかが起きて、店員に危害が加えられそうになった時に、ウェイトレスのひとたちを逃がしておく場所がさ」
 
 そう考察しながらも一回止まっていいか、と誰に問うでもなく呟いて、そのまま立ち止まる。ブーツの紐を緩めに結び直しながら、壁に背をつけて座り込んだ。彼女に証拠を見せるみたいに床面に指を滑らせて、白い埃がまとわりつくのを確認する。
 その隣でシュゼが、ぽつりと呟いた。
 
「……ありがとう、トワイさん」
 
 質問に答えた事の礼だと思ったのだろう、大したことない、と口に出しかけたトワイが、彼女の表情を見て瞬間黙り込む。否、息を飲んだが故に黙り込まざるを得なかった。
 シュゼは、目を細めていた。悲しみとも喜びとも似つかぬ、いわば慈しみのような。白亜の前髪が、仄暗い空間できらめいている。そんな彼女の視線の先にあるのは、たしかに光を跳ね返す銀色の懐中時計。スマラグドゥス、古語で『翡翠』を指す言葉だ。
 その薄碧に目を細めながら、シュゼはどこか現実感のない感覚に囚われていた。およそたった一日とは思えまい。
 つい昨日のことなのに、リュゼと酒場のドアを開けた瞬間がはるか昔のように感じられる。あの時見えた窓から射す夕陽の色、それは未だせていない。
 
「私からも……ありがとうございました、トワイさん」

 リュゼも淡く笑いながら、トワイにそう言う。空色の両眼が、ゆっくりと伏せられた。
 シュゼが自分に対して抱いていた思い、自分がシュゼに対して抱えていた思い。全て吐き出してしまったら、とても楽だった。そのきっかけをくれたのはこの旅で、その助けとなってくれたのはトワイという青年で。
 でも、旅に踏み出そうと、自分へ手を伸ばしたのは、シュゼだ。敵わない、と笑みがこぼれる。
  
「こちらこそありがとう、依頼人の方々」
 
 疲れ切った声音ながら、確かな意志を込めて、トワイはそう言った。

「すまない、もう立てる。行こうか」

 そして立ち上がる。

Re: 宵と白黒 ( No.56 )
日時: 2021/07/27 23:43
名前: ライター ◆sjk4CWI3ws (ID: cl9811yw)

□ △ □

 半ば転ぶようにして、三人は一階に降り立った。それはちょうどエントランスの受付の真横であり、外の道路がよく見える場所である。
 
「こんなとこにドアあるの、知らなかった……」
 
 シュゼが呆然とそう呟いた。
 外とこちらを隔てるガラスの自動ドアは全開にされ、正面には警察の車が止まっている。シュゼの瞳と同じような色をした青いライトが、夜の闇を打ち払っていた。
 エントランスの中央付近には、ビル内に残っていたらしい数名の社員の姿がある。それと同じように、ビルの前には多くの人が集まっていた。
 通報を受けてやって来ていたのだろう、警察の制服を纏った男性がこちらへ走り寄ってくる。
 
「ありがとうございます。───はい、ごめんなさい……。アレンさんの力で───そうです、多分ルクスさんが爆発させたんだと思うんですが」
 
 ここは一族の人間である双子に任せた方が良いだろう、と一歩引いて見つめていると、リュゼの悲鳴のような声が耳を刺した。
 
「まだ……まだ、上に人がいるんです!」
 
 入口の前で、ざわりと人々の声がにわかに大きくなる。何事だと一瞬その場の全員分の意識がそちらに向いて、野次馬たちの声が聞き取れた。
 
「落ちてくるぞ!」
「ふたりだ、なんだあれ……子供か!?」

 そんな叫び声がする。
 はっと三人が一様に目を見開いて、シュゼが真っ先に走り出した。制止を促す警察官の声など耳に全く入らないかのように、少女は駆け去っていく。リュゼが一瞬トワイの方を振り返ってから後に続いた。
 
「もしかして、さっき黒髪の子が言っていた──!?」
 
 警察官の声だ。
 
「ああ! まさか飛び降りるとは……!」
 
 思わなかったが、と語尾に溶かして、青年も双子の後に続く。ふたりを心配する思いは濃くなる一方で、レンを見捨ててきてしまったことの罪悪感はじわりじわりと薄れてきていた。
 罪悪感。
 そんなものを自分は抱けるのだと、トワイは小さく笑みをこぼす。果たしてそれが喜ぶべきことなのか、その時の彼には判断がつかなかったが、それでもその笑みにあざけりは含まれていない。
 外へ飛び出すと、夜の空気が肌を撫でる。夜独特の、トワイにとっては馴染み深い澄んだ香りは、周りにいる人によってか環境によってか、どこか薄汚れていた。そこにどうしても消しきれない仄暗い香りが混ざっていないあたりが、彼にとっては新しい。
 これが都会というやつか、と改めて実感する暇もなく、シュゼの声が耳に届いた。

「レン!?」
 
 彼女の目に入ったのは、互いに寄り添うように倒れ込んだリフィスとレン。それだけ聞けば恋人たちのようであって、でもシュゼにはそれは違うのだと理解出来る。
 だって彼らは向き合っていない。
 お互いに違う方を向いて──背を向けあって──倒れている。
 辺りは街灯と、林立するビルの中から漏れ出てくる光によって、あまり暗いわけではない。が、それ故に暗い部分はより闇が深く、レンたちが倒れている場所もまたちょうどビルの影となって判然としない。そこには、白い肌のみがぼんやりと浮かび上がっていた。
 その場全体に視線を滑らせると、ぬらりと光る、明らかに地面ではないなにかが目に入る。奥に倒れているレンよりもさらに後ろだ。よく見れば、それと同じような物質が彼らにもまとわりついている気がしてならない。
 少し鳥肌が立つのを感じながら、さらに駆け寄ろうとした少女を、警察官が押しとどめる。
 ば、と黄色い規制線が張られ、救急車が到着した音がする。その場に踏み止まりながらも、シュゼは右手の人差し指を伸ばして口を開いた。
 
「なんだろう、あれ」
「分からない……。でも、息、してるみたいに見えるよ」

 救急隊員たちに運ばれていくレンとリフィスの胸は、しっかりと上下しているようだった。その事に気づいて安堵の息を零しながら、リュゼはトワイを振り仰ぐ。 

「トワイさん?」
 
 リュゼは何か言いたげな彼の様子を察したのだろう。シュゼもそちらに目を向ける。
 
「なんて言えばいいんだろうな、その……幸せそう、だと思って」

 困ったように眉を下げて、手で頭を掻きながら。ストレッチャーで運び込まれていく寸前に見えたその顔を思い返して、そう言語化する。幸せそう、という形容が正しいのかは分からないが、少なくともトワイはそう思った。

「そうだね。なんというか、満足してそうというか」
 
 ゆっくりと口元を緩めながらシュゼは言って、その場から救急車が走り去って行くのを見届ける。
 
「トワイさんも嬉しそうな顔してますね」
「オレが?」

 あなた以外に誰が居るんですか、と笑って、リュゼはゆるりと目を閉ざした。
 
「トワイさん、すごい笑えるひとじゃん。表情豊かっていうのかな」
 
 シュゼにも立て続けにそう言われて、トワイは瞬いた。
 笑える、か、と。今まで幾度も笑顔を浮かべたことはあるはずだが、彼女たちが言うのはそれではないのだろう、と察する。
 
「確かに。……理由に関して思い当たる節は、あるからな」
 
 今まで殺してきたひとたちの血が、怨嗟えんさが、身体に染み込んでいる気さえしていた。
 だから自分は幸せになるべきではないとも思っていた。否、今も思っている。それが優しさというものに由来するのならば、それを知ってしまった己はもう『殺し屋』というものは出来ないのだと悟ってもいた。自分がなお苦しむと分かっていて続けられるほど、正義を頂く綺麗な仕事ではないからだ。
 今まで経験したことのない、選択。
 
「リュゼたち……、は、さ。オレにどうあってほしい?」
 
 曖昧な問いになってしまうことを咎める者は、きっといないだろう。なぜなら、彼はこんなにも、瞳を揺らして問うのだから。
 
「笑っててほしいです。好きなひとには笑っててほしいじゃないですか。あなたという人間に、笑っていてほしい」

 さらりと風が吹いて、目線を合わせようと顔を上げた彼女の髪をすくいあげては放り出す。
 自分の言葉が、果てしない傲慢であるとリュゼは理解していた。彼が過去に何をしてきたか知った上でそう言うのは、過去をなかったことにしようと、向き合おうとしていた彼の思いを踏みにじるも同義だからだ。
 だが、それでも少女はそう望む。
 たとえ何と言われようとも、彼のあの笑顔を美しいと思うから。命には終わりがあることを知っているからこその、どこか儚さの滲む笑顔を美しいと思うから、笑っていてほしいと願うのだ。
 シュゼはなにも言わなかった。ただ目を閉じて、リュゼと同じように笑う姿が、肯定を示している。
 
「そっか。ありがとう」
 
 答えが端的になってしまったのは、震える語尾を悟られないようにするため。目を外してそっぽを向く風になったのは、泣きそうな表情を見られないようにするためだった。
 
「ああ」
 
 リュゼが、シュゼが。彼女らがそう望むのならば、自分はそうあろう、と。それは彼なりの恩返しであり、礼であった。
 その答えに、リュゼが明確に笑う。
 ため息がこぼれそうになる。今まで一度も見た事のなかったその笑顔に、強く惹かれる。命はまだまだ先があって、これからもずっと続いていくと信じている人間の、永劫えいごうを照らす太陽のような笑顔にひどく憧れる。うつくしい、と感じざるを得ない。
 
「ありがとう」
 
 宵の口はもうとうに過ぎて、夜がしっとりと深くなっていく。でもまた陽は昇るのだ。
 警察官に呼ばれてそちらへ歩いてゆく三人の姿が、ゆっくり雑踏に溶けていった。
 
  
 ───後にトワイは、「あの時告白したつもりだったんですが」と、リュゼに困惑されることになるのだが、それはまた別の話。
 
 
 
次章:エピローグ 
   《Essential-Self》
   1話:追憶、あなたを
 >>57-

Re: 宵と白黒【第四章完結】 ( No.57 )
日時: 2021/08/05 19:05
名前: ライター ◆sjk4CWI3ws (ID: cl9811yw)

エピローグ 《Essential-Self》
1話:追憶、あなたを

 あれから、一年と半年ほどが過ぎただろうか。
 いきなり倒れたリフィスは力の使い過ぎであったようで、特段後遺症などもなく、もう普通に暮らしている。高層ビルの最上階から力頼みで飛び降りるなどという無茶をしたことは、さすがにブランたちから怒られてしまったが。
 キュラスの一族がどうなったか、というのは、レンはあまりよく知らない。というか、特段知りたいとも思わなかったというのが正しいだろうか。
 シュゼたちはどうやら夢を追いかけることに忙しいようで、別れを告げたのは昨日のことだ。

「帰ったら、なにかしたいことがあるのでしたよね」
 
 目を閉じて、静かに回想に耽っていた少年は、ふっと顔を上げた。目線の先の澄み切った冬の空は、どこまでも青い。
 そのまま視線を横に滑らせれば、彼女のハーフアップにまとめたダークグレーの髪と、ライトグレーの毛先が風に吹かれて揺れていた。日が沈んだ直後の空のような群青の目が、優しげな光を湛えて真っ直ぐにレンを見つめる。

「うん。まず謝って、あと……会いたい人もいるし」

 そっと左手首に目を向ける。今でこそ薄くなってはいるけれど、消えない傷跡だ。

「そう。……ならば、湿っぽい話は止めましょうか。そうですね、明るい話……ああ、訛りが抜けてきてます、貴方のことば。これでは貴方とノーシュ様の区別がつかない。困ったものです。喋り方を変えてみませんか、貴方の国では西の方言が有名でしょう?」
「無理ですよ。そんな上っ面だけのことをしては、その地域のひとに怒られてしまう。それに、貴女が主の声を聞き違えるコトなどないでしょ?」

 レンの軽口に微笑んで、リフィスは頷いた。
 あの後、病院のベットで目を覚ましたリフィスは、泣いた。自分を責めるのでもなく、主への怒りでもなく、ただ、ルクス・キュラスという人間をいたんで泣いたのだ。
 でも、もう彼女は立ち直った。レンにとって立ち直ったように見えているだけであって、本当はそうでないのかもしれないが、この豊かな表情と煌めきを灯した目が、それを真実だと証明しているように思える。
 『自分の秘書になってくれないか』というノーシュの誘いに、ようやく答えを出したのも、それが理由なのだろう。
 くすくすと笑い声が二人の間に零れ落ちた。彼女は彼女なりの答えを、あの時出せたのだろう、と思う。
 不意に閑静を切り裂いて、列車の警笛が響き渡った。それと共に流れるアナウンスは冬の空気を伝ってハッキリと耳に届く。レンはゆっくりと目を瞬かせ、笑った。

「定刻通り、です───行きますね」

 そう言ったレンは、リュックサックをしっかりと背負い直した。くしゃりと笑うリフィスの唇が、ゆっくりと動くのを見詰める。
 
「お互い、幸せになれるように頑張りましょうね」
「はい。貴女もどうか、幸せであって下さい」

 ふっと互いに一礼。一生の別れという訳ではないだろうが、もう当分会うことはないだろう、そう思って。
 時間にしてみれば、それは一瞬だった。だが、彼らにとってはいつになく濃い一瞬だった。刹那視線が交錯して、互いを見つめる。
 リフィスは、満面の笑みを浮かべていた。

「さようなら、リフィスさん」
「ええ。ありがとうございました、レン」

Re: 宵と白黒 ( No.58 )
日時: 2022/03/27 22:05
名前: ライター ◆sjk4CWI3ws (ID: cl9811yw)

 それでも次の瞬間には、レンはくるりと身を翻す。数段高くなっている列車に乗り込んで、そっと窓際の席まで移動した。
 四人がけのボックスシート。一人きりでそこに座る。贅沢だな、と思って苦笑して、取り敢えずリュックサックを隣に置いた。暖房の暖かさが身に染みて、吐き出す息はもう白くない。
 窓際に座っているから、リフィスがまだホームに居るのが見えた。真っ直ぐに彼女がこちらを見上げてくるのが目に映る。
 そっと手をあげて、振ったのが分かった。気をつけて、と口元が動いたのが見える。レンもまた、ゆっくりと手を振った。またね、と口を動かす。
 列車が動きだして、がくりと体が揺れた。徐々にスピードを上げて、ホームは遠くなっていく。しばし余韻に浸るように目を閉じたレンに、横合いから声が掛かった。

『すみません、相席よろしいですか?』

 少女の声だ。しかも、秋津の言葉の。ふっと顔を上げて見てみれば、まず目に入ったのは大量の荷物だった。それから、上級学校──それもかなり古くからある──の生徒が着るような紺地に白の着物と、長い黒髪が目に入る。
 その持ち主であろう少女は、レンの目の前のシートを指さしていた。辺りを見回すと、もう既に座席は埋まりかけている。数席空いている所もあるが、恐らくこれらの荷物が邪魔なのだろう。

『良いですよ! どうぞ……』

 さっとリュックサックを自分の膝上に載せて、レンは微笑んだ。彼女に荷物を置いてもらうように前の席を指し示す。
 隣の席にゆっくり腰を下ろした少女に、レンは心配げに問いかける。

『あの、僕席移りましょうか? やっぱり窮屈かなって』
『いえ、このままで大丈夫ですよ。ありがとうございます。……私、高梨の一族の人間なんですが、あなたはどちらの?』

 一族、と小さくレンは反芻するように呟く。この着物から薄々察せられていたが、やはり相当名家の令嬢なのだろうか。あの一日が一瞬フラッシュバックしかけて、瞬いていた。
 閑話休題それはともかく。秋津には未だ一族を名乗るひとが居るのだ、と少し新鮮な思いを抱きながら、ゆっくりとした調子で少年は言う。
 
『井上の──清和の流れを汲んでる井上の者です。あの、伺いたいことがあるんですけど構いませんか……?』
『ああ、なるほど。伺いたいこと、とは? お答えできるものは限られてきますけれど』

 人の良さそうな笑みを顔に浮かべて、彼女はそう言う。
 
『ええと……。命風神社の宮司さんはどうなりましたか?』
 
 その問いを発するのに、数瞬の躊躇いを必要とした。分かりきっているようで信じたくないようで、それにしては心は冷めているようでもある。
 そんなレンの心の内を知らないままに、彼女はゆるく瞬いてから口を開いた。

『ああ。継承の式典には私も参列しましたよ。とても綺麗な長い髪の方で──そう、妹君の方だったのよね』

 最後に付け足された一言が、レンに現実を叩きつけた。心の奥底でそれは理解していたはずだったのに。
 
『ありがとう、ございます』 
 
 震え声で口に出したその言葉と共に、つうと頬が濡れてゆく。季節は冬だからだろう、先程までは太陽は透明であったはずなのに、射し込むそれはもう斜陽だ。冬らしい、濃く澄んだ夕の色が、彼の左半身を照らしていく。
 その様子に焦ったのか、慌てた声がする。
 
『え……!? あの、すみません私、なにか気に障ることを』
『いえ、大丈夫です。すこし思い出してしまうことがあって』
 
 そう言って誤魔化すように笑っていれば、ゆっくりと列車が減速していくのが感じられる。どうにも彼女と目を合わせていられずに外に視線を投げれば、一番国境に近い駅に車両は停車するようだった。
 駅のホームにすらも落ち葉が迷い込んでいて、その色がやたら目を惹いた。

Re: 宵と白黒 ( No.59 )
日時: 2022/03/27 21:48
名前: ライター ◆sjk4CWI3ws (ID: cl9811yw)


 ふふ、と。かすかに空気が崩れる。薄っすらと、彼女は笑ったようだった。レンが目を向ける。
 
『素敵な方でしたよね。……祭事で一度お話したことがあるのですけれど、とても美しかったのを覚えていますもの』
 
 学校の方でもよく話題になっていました、と続けられて、レンはゆっくりと瞬いた。あまりに身近にいたから気づけなかったけれど、彼女はそういう立場の人間だったのだ、と。そして、それに縛られていることを嫌った人。
 そっと顔を伏せて、く、と膝の上で拳を握る。
 
『そうですね。……そうなんですよ。ほんとうに、きれいなひとだった。何よりも、誰よりもつよくて、きれいで』
 
 ほんとうに、と繰り返す。目線が揺れる。視界にぼんやりと膜が張って、耳鳴りがするような。ひゅ、と喉が軋む。こんなことばかりだ。
 幾度繰り返してもなお、じくじくと痛みを残すそれ。こんなに苦しむくらいならば忘れたままのほうが良かったか。そんなはずがなかった、とレンは思う。たとえ一番じゃなくても、僕はあなたが一番だった。
 そんなレンの様子に、少女は何かを悟ったらしかった。また次の駅に向けて流れ出した景色を見つめながら、声が響く。
 
『───命風神社の代替わりがあったということは、そういうことだとは知っていましたけれど。……すみません、深く立ち入るような話になってしまって。でも、きっと……』
 
 彼女はもう一度微笑んだ。
 
『あの方はきっと、あなたに救われていたと思いますよ』
『え、』
 
 それは、と問い返すよりも早く、彼女は立ち上がってしまっていた。どこか恥じるような早口で、少女は告げる。
 
『──そういうものだということです。……出過ぎたことを申しました。もう着きますから、失礼しますね。ありがとうございました』
 
 彼女が言い終わるのとほぼ同じくらいだろうか、急激に身体が減速を覚える。窓の外に目を向ければ、次の駅が見えてきたところであった。
 
『え、っと。ありがとうございました、こちらこそなんだかすみません』
 
 夕日が当たらなくなったからだろうか、彼女の存外に黒い瞳に目を向けてそう言う。柔らかな、上流階級特有とでも言うべき微笑みを浮かべて、少女はそのまま背を向けた。
 彼女との会話で、なにか救われたわけではなかった。ただ、大切なことに気付けそうな気はしていた。 

Re: 宵と白黒 ( No.60 )
日時: 2022/11/05 01:00
名前: ライター ◆sjk4CWI3ws (ID: cl9811yw)

 △ □ △
 
 本当に久しぶりに吸った秋津の空気は、どこまでも清涼だった。街の中を歩いてみれば、多少変わっているところはあっても大きく変わったところはないように思える。
 ここはそういうところだったと、蓮は久しぶりに思い出した。ある種厳格な空気で、外部の者を受け入れつつも断として変わらない。決定的な変化を拒んで、緩やかに停滞している。
 それが悪いこととは思わなかったし、暮らしにくいわけではなかったように思う。ただ、今はすこしだけ、この国のそんな気質を恨んでもいた。
 しばらく歩いていけば、命風神社の門前町──即ち、蓮の生まれ育った街に到着する。まっすぐ鳥居まで突き抜ける大通りは、昔と変わらず賑やかだった。
 斜陽は背後からさしているお陰で眩しくはない。が、目をあけていられなくてそれを眇めた。胸の中が擦られる。不意の郷愁だった。
 
「どうしようか」
 
 そう呟きながら、どうにも家があったはずの方へ足が向けられなかった。叔父であり、育ての親でもある楓樹にはとても迷惑をかけてしまったはずだから、すぐに帰らなければならないのは解っているのに。
 ただ、会わなくてはならないと感じた。華鈴には妹がいたはずだったから。
 
 ゆるく傾斜のかかった通りを抜けて、鳥居の前に立つ。それは、記憶と寸分違わぬ赤さを持っていた。
 一礼してそこを抜け、こんな時間になってもまだ参拝客で賑わう境内を抜けていく。どこにいるかなんで分からなかったし、もう宮司となったはずの人に気軽に会えるのかすらわからなかったけれど。
 と、人々に紛れて、緑色の髪が揺れる。
 
「あ──」
 
 息を呑む。無意識に目線が追ってしまう。そこだけ空気が違うような気がしていた。二つ結びにされた長い髪と、白を基調にした着物。華鈴と瓜二つのようで、少しづつ異なっている。
 ふっ、と彼女が、誰かを探すように辺りを見回した。目を離せない。
 その黒い瞳と、一瞬で強烈に目が合う。細められ、すぐに見開かれる。
 
「華恋さん、ですか」
「あなたが井上蓮?」
 
 同時に、互いを問う。
 それは、華鈴とはまた異なった声だった。透き通る冬の夕焼けような、どこか冷たさを纏う声が自分の名前を呼んでいる。

「そうですが……。なぜ、それを知っているのですか」
 
 表情に驚愕をにじませながら、蓮は問い返した。蓮の記憶が正しければ、華恋、即ち華鈴の妹と話したことはなかったはずだから。
 華恋は少しためらったようだった。
 
「姉様が昔、よく話してくれてたの。継承が近くなってからは全然だったけれど。……ついてきなさい」
 
 くるりと背を向けて、彼女は屋敷へと歩んでいく。いつも華鈴と会うのは林の中か、あるいは墓所の中だったから、そこへは向かったことがない。
 ゆるやかに昔を回想しながら、蓮は華恋の背を追った。
 
□  △  □
 
 通された華恋の自室は、冷たく閑散としていた。まるで生活感のない家具たちが、広い畳敷きの上に置かれている。唯一、壁際の本棚だけが埃を被っていなかった。
 西日は、障子を透かして柔らかな光へと変わっている。仄暗い部屋に蓮と華恋の影が濃く滲んだ。
 
「お邪魔します……」
「座って」
 
 言われるがままに腰をおろせば、華恋も向き合う形でそこに座る。
 白い喉が動いて、息を吸ったのがわかった。
 
「慣習は、変わらなかったの?」

 一瞬、蓮は彼女の言わんとするところを掴みかねた。まっすぐに視線が交わる。
 そして理解した。彼女の言う慣習とは何なのかを。なぜ、華恋がそんな遠回しな言い方をしたのかも。
 影はいよいよ濃くなって、日が沈んだあとの薄青さが部屋を満たしていく。蓮の身体に窓からの光が遮られて、華恋の全身がゆるやかに暗くなる。
 す、と蓮は視線を横へ逃した。 
 
「ええ」
 
 端的な返答だった。
 そう、と華恋もまた目線を木張りの天井へ投げる。そのまま口元が引き結ばれて、また開かれた。
 
「私が……私で、よかったの……?」
 
 薄く、物音ひとつでかき消されてしまいそうなほどに弱い誰何だった。
 彼女の握りしめられた両の手が、なにかを抑えつけるように震えた。が、それは叶わなかったようだった。
 音がしそうなほどの強い意志を伴って、目が合う。
 勢いよく、華恋は蓮の方へ身を乗り出した。肩を両手で掴まれる。
 
「消えるのは私だったはずじゃない、ねえ! どうして貴方止めてくれなかったの、姉様は貴方のせいでいなくなったんじゃないの!」
 
 瞬間、激しい感情の塊が、蓮に叩きつけられる。
 先程までは冷ややかで近づき難いような雰囲気を持っていた彼女が、今は明確に感情を顕にしていた。

Re: 宵と白黒 ( No.61 )
日時: 2022/04/02 01:23
名前: ライター ◆sjk4CWI3ws (ID: cl9811yw)

「そんなこと、言われたって……」

 蓮の、逆光で一段と暗くなった黒い瞳が泳ぐ。じわりと寒気が身体を這い上がって、きつく手を握りしめた。
 若干弁明するような語調を帯びてしまったことに気づいて、それを嫌悪するように口を引き結ぶ。それを良しとしないような、克明な鋭さをもって華恋は彼を見つめていた。
 何を言えばいいかなど、その時の蓮にはわからなかった。わからなかったから、感情のままに吐露してしまったのだろう。
 薄い闇のなかで、わずかな光を反射して瞳がきらりと光った。
  
「そんなの分かんないですよ! 僕だって華鈴さんに消えてほしくなんてなかった、大好きだった! でも止められなかった、……好きだから止めるわけには行かなかった」
 
 突発的に強く溢れ出てきた感情は、思い返して言語化すれば腑に落ちた。
 それを聞いた華恋もまた、同じような表情を浮かべていた。すとん、と両手の力が抜けて、少年の肩の上から畳に落ちる。うっすら埃が舞った。
 その姿勢のまま、顔を俯けて彼女は問いかける。
 
「なにか言ってた? 姉様は」
「好きだ、って」
 
 蓮の予想に反して、華恋はその言葉にあまり驚いてはいないようだった。
 ふ、と唐突に顔を上げた彼女は、そのまま小さな声で呟く。ほかには、と。記憶を辿るように、蓮の黒い瞳が閉じられる。
 
「あと、ありがとうって」
 
 うすく目を開けた蓮が、そう言った。
 
「そう……」
 
 短く落ちた華恋の言葉を最後にして、だだっ広い部屋の中を静寂が満たした。
 なにか考えるように目を瞑っていた華恋は、ふっと唐突に笑みを浮かべた。それは花が咲くようなものではなくて、例えば厚い雲の合間からぼんやりと陽光が漏れるようなものだった。消えてほしくないとこちらに願わせるのにも関わらず、ゆっくりとどこかに消えてしまう。
 声が落ちる。
 
「羨ましい」
「……はい?」
「姉様は、恋が出来たのね。私には出来なかったこと……」
 
 華恋は何かを惜しむような笑みを浮かべた。するりと畳の上を白い指先が滑って、暗い青さに沈む部屋の中でぼんやりとひかる。肩口で揺れる緑の髪を、もう片方の手が鬱陶しげに払い除けた。
 恋。刹那、好きだよ、という言葉が、蓮の脳裏に蘇る。夕焼けも、初秋の空気の香りも、指先を掠めていった髪の感触も。
 なにもつかめないような、空虚さが胸を満たした。
 
「恋、って……、相手のことを好きっておもうこと、でいいんですか」
「そうに決まってるじゃない」
「好きなら、なんで……」

 胸の奥、それはこびりついて離れない。諦めていたもののようで、ずっと手に握りしめていたもののような。
 恋と知ってしまえば、それは明確な形を成して重くおもく伸し掛るのだろう。
 
姉様あのひとの心の中なんて私は知らない。でも、きっと姉様はあなたのことが好きだったんだと思うわ。というか、そんな嘘を吐く質ではないでしょう?」
「そうですね。……そう、だったんですね」
  
 僕にはわからなかった、と仄暗い調子で蓮は言う。

「ならこれでお相子よ」
 
 先程の笑みから、少し雲が吹き払われたような表情で、華恋は呟いた。なんの事か分かっていないのだろう、彼は徐に首を傾げる。
 
「残されるのは、私も同じなのにね。……きっと、あなたが一番だったんだわ」
 
 ゆっくりと華恋は、蓮に目を合わせる。何かを惜しむように、そこに何かを見出そうとするかのように。 
 数瞬が過ぎて、彼女はふっと表情を消した。
 
「僕が、一番だった」
 
 その時間があってすら、意味を咀嚼できなかった。それほどまでに衝撃だったのか、蓮はそのまま呆然としている。ああ、と呟いた。
 恋なんかわからなかった。だが今、明確に示されてしまえばどうだろう。色んな感情がぐちゃぐちゃに混ざりあって、絵の具を全部混ぜたら黒になるみたいに、蓮の瞳から涙がこぼれ落ちる。
 その涙にどんな意味、あるいは気持ちがこもっていたのかは、それをまっすぐ見続けていた華恋ですら分からなかった。
 彼女は、ゆっくりと息を吐く。

「時間を取らせてしまってごめんなさい。───ありがとう」
「──こちらこそ、ありがとうございました」
 
 絞り出すような、嗚咽混じりの掠れた声だった。
 
 そのあとどうやって立って、どうやって歩いて境内を出たのか、蓮は覚えていない。
 ただ、屋敷の中から抜けて、まだ山の端にかすかに残る夕日の橙を目にした時、意識が一気に鮮明になったのを覚えている。
 雨が上がったあとのような、爽やかさだけが頭に残っていた。
 しばらく境内を歩いていけば、常緑樹の森と大きな赤い鳥居が目に入る。風雨に晒され続けてなお、その厳粛な赤を保てているのは、やはりここが神を祀る場所だからか。
 社の方へ一礼して、蓮は鳥居をくぐった。その瞬間、すこし苦しくなる。
 それは先程これをくぐったときのようなざらつきではない。昔と同じ、まだあのひとと話していたい、帰りたくないという、ある種子供じみた感情だった。
 それ以上でも以下でもなかった。ただ、どこか救われた気はしていた。
 
「また来ますね、華鈴さん」
 
 そちらに向けて、呟く。
 ふわり、常緑樹の森を、なにか囁くように揺らして。やわらかく、どこか冬の入り口にしてはあたたかい風が吹いた。



二話:現下、あなたに
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