ダーク・ファンタジー小説

Re: 宵と白黒 ( No.55 )
日時: 2021/07/22 22:18
名前: ライター ◆sjk4CWI3ws (ID: cl9811yw)

「リ、ふぃすさ……か、」
 
 まるで死にかけではないか。
 全身がぎしぎしと痛むが骨が折れている気配はどこにもなく、自分たちの作戦が成功したのだと少年は安堵する。着水の際にうつ伏せの状態だったせいで、幾らか吸ってしまって咳きこんではいるが。
 ずるりとゲル溜りから這い出て、倒れてしまった少女を気遣うように、その傍に跪く。が、極度の緊張──していたことに今気付いたが──が解けたからか、疲労からか、急に視界が白く飛びはじめる。音が次第に聞こえなくなっていって、ようやく意識が飛び始めているのだと気付いた。
 気付いた時にはもう遅く、少年の意識は消えていた。
 
□ △ □
  
 左、右。先頭を行くトワイが辺りを見回す。緑色の光を視界に入れるなり、そちらへと駆け出した。双子も彼の背を追って走り出す。
 シュゼはぎりぎりまで炎の制御を保っていたいようだったが、そろそろ限界だったのだろう。ゆるりと下ろされる右手と同期して、光の粒が空間を透かした。ちらりと顔をしかめたのは、急に耳鳴りが止んで頭痛も無くなったことへの違和感だろうか。
 ふ、と周りを彩っていた光輝が消失して、視界の中から色がひとつ消える。
 
「大丈夫、シュゼ」
「うん」
 
 その様子を見てとったらしいリュゼが、ちらりとそちらを伺いながら声をかける。空色の目に、はっきりと心配げな色が載っていた。
 それにゆっくりと苦笑して、白髪の少女はそう答える。真っ直ぐに正面を見て、先程から言おうと思っていたことを口に出す決意を固めた。
 
「……私、髪伸ばすね」
「うん。シュゼはきっと、長い方が似合うよ」
 
 躊躇っていたのが馬鹿馬鹿しくなるほどの、清々しい返答だった。
 まるで学校でする友人同士の会話のような。傍から見ればひどく気の抜けた言葉に、リュゼは笑みを浮かべた。その表情に反した感覚が、頭へと突き上げてくる。つん、と鼻の奥が痛くなって、目はじわりと熱を帯びていた。
 追憶に沈みそうになる頭を振って、ただ正面を見つめる。先に扉の方へたどり着いたトワイが、扉に手をかけて顔をしかめた。

「鍵、かかってるな……!」
 
 そうこうするあいだにも煙はそこに迫ってきていて、一刻も早く開けなければならないと、焦りばかりが募っていく。判断は一瞬だった。
 す、と息を吸う。きらりと足に光を纏わせて、勢いよく扉に叩きつけた。途端、足が軋みをあげる。いい加減にしろ、と脳内で自分の声が響く。これ以上やれば本当に壊れる、と。口から溢れそうになる呻き声をどうにか押しとどめて、トワイは振り返った。
 
「はやく!」
 
 シュゼとリュゼが横並びになって、トワイが蹴破った扉から出ていく。それを見送って、彼もまたそこに飛び込んだ。気休め程度でもそれ以上煙が侵入しないように、と扉を閉めると、がしゃりと音を立てながら防火シャッターが降りてくる。
 これでもう完全に、階段の中と外は隔離された───そこで心に引っ掛るものの正体は、黒髪の少年であった。
 非常階段は、珍しい螺旋状をしていた。特に内装が凝られているわけでもない、無機質な。モノトーンのそれが遥か下まで続いているのは、ある種退廃的ななにかを感じてしまう。こぉん、と足音が反響して、下へ抜けていった。無限とも思えるそれを、双子のペースに合わせてくだる。 
 ちらりと壁面に目をやれば、そこにはXXIIIと蛍光色のペンキで塗られていた。23を意味する古代文字だが、その色のセンスがどうにもルクスと結びつかず、違和感が過ぎる。周りが暗くても見えるように、との配慮だろうか。確かに光源が段ごとに設置されたフットライトのみのこの空間では、その文字はとてもよく見えた。
 そんなことを考えている場合ではないな、と苦笑して、ちらりとシュゼとリュゼに目をやった。
 目の合ったリュゼが、かくりと首をかしげて上を見上げる。
 
「それにしても、どうしてここは残してあったんでしょう? 上だとスプリンクラーとかは動いていなかったのに、この階段は防火シャッターが作動した……」
「あと、結構降りてきてるはずなのに、次の階に接続するところがないよね……? 私たちがいた階が多分26だから、ここまでで25階とか24階に繋がるドアがあってもよさそうなのに」
 
 シュゼも壁面に手を滑らせながらそう続けた。
 
「たぶん、ルクスが逃げるためだろうな。今まで使われたことがなかっただけで。ほら、こことかも埃が多いから。……扉がないのは、この階段自体がある種の避難場所だからだと思う」
 
 未だ首を傾げている少女に、かつて同業者から聞いた噂話を思い返しつつ口を開く。
 
「何が起こるかわからないから、とりあえず一旦逃げておける場所としてここをつくったんじゃないかな。他の階とかから攻めこまれないように、一切接続するところがない──酒場にも同じような地下室があるって聞いたことがある。乱闘とかが起きて、店員に危害が加えられそうになった時に、ウェイトレスのひとたちを逃がしておく場所がさ」
 
 そう考察しながらも一回止まっていいか、と誰に問うでもなく呟いて、そのまま立ち止まる。ブーツの紐を緩めに結び直しながら、壁に背をつけて座り込んだ。彼女に証拠を見せるみたいに床面に指を滑らせて、白い埃がまとわりつくのを確認する。
 その隣でシュゼが、ぽつりと呟いた。
 
「……ありがとう、トワイさん」
 
 質問に答えた事の礼だと思ったのだろう、大したことない、と口に出しかけたトワイが、彼女の表情を見て瞬間黙り込む。否、息を飲んだが故に黙り込まざるを得なかった。
 シュゼは、目を細めていた。悲しみとも喜びとも似つかぬ、いわば慈しみのような。白亜の前髪が、仄暗い空間できらめいている。そんな彼女の視線の先にあるのは、たしかに光を跳ね返す銀色の懐中時計。スマラグドゥス、古語で『翡翠』を指す言葉だ。
 その薄碧に目を細めながら、シュゼはどこか現実感のない感覚に囚われていた。およそたった一日とは思えまい。
 つい昨日のことなのに、リュゼと酒場のドアを開けた瞬間がはるか昔のように感じられる。あの時見えた窓から射す夕陽の色、それは未だせていない。
 
「私からも……ありがとうございました、トワイさん」

 リュゼも淡く笑いながら、トワイにそう言う。空色の両眼が、ゆっくりと伏せられた。
 シュゼが自分に対して抱いていた思い、自分がシュゼに対して抱えていた思い。全て吐き出してしまったら、とても楽だった。そのきっかけをくれたのはこの旅で、その助けとなってくれたのはトワイという青年で。
 でも、旅に踏み出そうと、自分へ手を伸ばしたのは、シュゼだ。敵わない、と笑みがこぼれる。
  
「こちらこそありがとう、依頼人の方々」
 
 疲れ切った声音ながら、確かな意志を込めて、トワイはそう言った。

「すまない、もう立てる。行こうか」

 そして立ち上がる。