ダーク・ファンタジー小説
- 『Chika』 ( No.10 )
- 日時: 2020/12/13 20:54
- 名前: 厳島やよい (ID: gK3tU2qa)
2.『彼女の祈り』
「おねえちゃん!」
次の日の夕方、病院から帰ってきてポストに詰まったチラシや手紙を取り除いていると、うしろから妙になつかしい声で呼びかけられた。
「あーら、六年ぶりのいもーとちゃんじゃない」
振り向けば、ずいぶん背の伸びた妹が立っていた。わたしとは似ても似つかない明るい茶髪を高く結って、わたしよりも大人びた服装で。記憶の中の、ぼんやりとした彼女の印象とは相違点が多い。
五つ年下だから、浪人でもしていない限りはもう大学生か。
「大丈夫だったの? 歩道橋から落ちたんでしょう」
妹は、わたしの髪をそっとかき上げて、まだガーゼの貼りつけてある額を見つめてきた。電車で来たと言うけれど、わざわざ県を跨いでまで駆けつけてくれただなんて、申し訳なくなってくる。
「歩道橋の階段、ね。たいした怪我じゃないよ。一日で退院したし」
外では寒いし、とりあえず部屋にあがってもらって、積もる話に花を咲かせることにした。いちごオレのパウダーが余っていたので、温めた牛乳に溶かして渡したら、めちゃくちゃ喜ばれた。小さい頃から大好物だもんな。
「もう、きょうになってお母さんから聞いたんだよ。なんなのあの人? 信じられない」
「わたしよりいもーとちゃんのほうが可愛いんだもん、当たり前だべ、へっへー」
「おねえちゃん……」
そんなに深刻そうな顔をしないでほしい。事実を述べただけなのだから。
淹れたばかりのホットコーヒーをすすりながら、わたしはあの家での日々を思い返す。
はじまりはいつだっただろう。物心ついたときには、生意気で可愛げのない子だと母親から罵られていたような気がする。わたしが学校でいじめられているのだと知っても、おまえが悪いんだと逆に責められたっけ。それなのに、小学校にあがったばかりの妹が不登校になったときは、全面的に彼女の味方についていた。
妹は、いじめられていたわけでもない。成績が悪かったわけでもない。たくさんの友達に恵まれて、なにひとつ不自由のない生活だったはずなのに、本人も、どうして学校に行けなくなったのかはわからないと言っていた。わたしがひとりぼっちで自殺未遂やリストカットを繰り返していた間、彼女は温かい場所で守られていた。
だからわたしは、あの家が、母親がきらいだ。二度と敷居を跨ぎたくないとすら思う。
なんだか、また切りたくなってきた。さすがに今はしないけど。
「きょうはこれからどうするの? あてがないならうちに泊まっていけばいいよ、狭いけど」
「ううん、もう帰る。お母さんがご飯作って待ってるし、彼氏さんにも悪いし」
「は?」
千嘉のこと、話したっけ。
早々に荷物をまとめはじめる彼女をあっけにとられながら見ていると、玄関のチャイムがなった。
「んじゃね」
流れるようにきれいな動作で、ドアを開けて出ていく。外に立っていたのは千嘉で、どーもどーもーと頭を下げ合ってぶつけそうになりながらふたりが入れ替わった。彼が家に来るのはこれで二度目だ。
こちらから連絡したわけでもされたわけでもないから、抜打ち家庭訪問みたいなものになってしまったけれど、とりあえず彼には上がってもらうことにして、お湯を沸かすのと妹の使っていたマグカップを洗うためにキッチンに立った。
「おねえちゃん」
その後ろ姿を、ドアを押さえてずっと見ていたらしい彼女が控えめな声でわたしを呼ぶ。
「無事でよかった。それと、いちごオレ好きなの、覚えててくれてうれしかったよ」
ありがとう。
最後に言い残して妹はアパートから去っていった。これまでの人生、一度もひとから悪意を向けられたことなんてないような、きれいな笑顔で。
ざあああ、ざあああ、と、指先とシンクをつたう水流が、ひどく冷たい。
「どうした? 怖い顔して」
隣から、千嘉が不思議そうに覗きこんできた。
「……なんでもないよ」
止まっていた手を無心で動かしながら答える。
妹はなにも悪くないことくらい、百も承知している。この気持ちが嫉妬に由来するものなのだということも自覚している。だけど……だからこそ、なのかもしれない。
わたしは、そんな妹のことが、ほんとうはいちばん大嫌いなのだ。
- 『Chika』 ( No.11 )
- 日時: 2020/12/14 22:20
- 名前: 厳島やよい (ID: l/xDenkt)
「この怪我、どうしたの」
あめ玉みたいにきれいな目が、じっと見つめてくる。
新しく淹れたばかりのコーヒーを手渡したとき、彼が、さっき妹がしたのと同じようにわたしの前髪をかき上げた。妹よりも触れ方が優しかった。
「転んじゃったの、階段で」
「どこの?」
「ここから駅までの途中、通りに歩道橋があるでしょう。その階段」
「……おとといの帰りか」
ぜんぶお見通し、といった感じだった。息をついて、千嘉がコーヒーをすする。
これ以上隠してもしょうがないと思ったので、通行人がすぐに救急車を呼んでくれたらしいことも、一日で退院して帰ってきたばかりなのだということも白状した。
「どうして連絡してくれなかったの」
「大したことじゃないもん」
「大したことだよ。女の子なんだし。もし何センチかずれてたら──」
「ごめんね。もう、大丈夫だから」
すでに、部屋いっぱいにコーヒーの香りが広がっている。
彼の言葉を遮る形になってしまったけれど、この話題はもう切り上げたかった。仕事のメールを確認していいかとたずねると、すこしの沈黙のあと、頷いてくれたのでパソコンを立ち上げる。嘘やごまかしのつもりはなかった。メールのアカウントは携帯と同期させているが、病院ではずっと電源を切っていたし、帰りのバスでも二件しか返信できていない。ただでさえ仕事が滞っているし、これ以上のんびりしているわけにはいかないのだ。
スケジュール帳や添付ファイルなんかとにらみ合いながら、それぞれの返事をぱちぱちと打ち込んでいると、後ろのベッドに腰かけている千嘉がきいてきた。
「だれかに、突き落とされた?」
思わず一瞬、手が止まる。あのとき気を失う直前、見えた顔。間違いでなければ、あれは。
「ううん」
うまく、笑えているだろうか。声が震えないよう、しずかに深呼吸して、わたしは嘘をついた。自分の足で歩けるように。彼に依存しないで生きるための、第一歩として。
「わたしの不注意だよ」
◎
あたしのおねえちゃんは、高校に上がると同時に家を出ていってから、お母さんにはいないものとして扱われている。
小さな頃から予兆はあった。まだお父さんが家にいた頃、つまりあたしのいちばん古い記憶の中で、すでに姉妹間での差別は始まっていたのだ。具体的な内容を思い出そうとすると、頭痛と共に吐き気まで催しそうになるので記憶の再生を中断する。きっとあたしに耐性がないだけで、ほかのひとから見れば大したことではないのかもしれない。
お母さんはおねえちゃんのことを嫌っていたけれど、あたしはおねえちゃんのことが大好きだった。もちろんいまでも好きだ。理由なんてないし、いらないと思う。
「いもーとちゃんはいい子だね、わたしと違って」
よく、そう言って頭をなでられたっけ。髪を通る、やさしい指の感触が大好きで、昔はずいぶん短めに切っていた。
実家の最寄り駅で電車を降り、駐輪場にとめていた自転車にまたがって、家路を急いだ。もうすぐ晩ごはんの時間だから。お母さんは、あんまり長くひとりぼっちだと泣いてしまうから。
もうあたりは真っ暗だった。この町も一応は県庁所在地にあるくせに、はじっこの区だとか場所が悪いこととかを差し引いても、街灯や人通りのほとんどない辺鄙な地域だ。花見の名所としてそこそこ有名らしいけど、当然ライトアップなんかしないし、そもそもいまは冬だし。ぶぅううん、と音を鳴らしながら前方を照らす、自転車の灯り以外に頼れるものはない。
おねえちゃんが中学に上がった頃から、家の中はわかりやすく荒れ始めた。死ねだの殺すだのと物騒な言葉が飛び交って、物が落ちる音や壊れる音が、リビングやおねえちゃんの部屋からよく聞こえてくるようになった。そんな時間は自分の部屋にこもるようにしていたこともあって、あたしに悪意の矛先が向けられることは決してなかったけれど、毎日毎晩、とても怖かったのをよく覚えている。学校ではそんなこと、だれにも言えなくて、なんでだか、いちばんの友達にも打ち明けられなくて。
それ以外に悩みはなかった。衣食住に不自由はない。実家は決して貧乏ではないし、むしろ贅沢をさせてもらっていたほうだと思う。あたしを友達だと言ってくれる子はたくさんいて、勉強や運動も楽しくて、先生やお母さんはたくさん褒めてくれる。あたしにはたくさんの才能があるんだって、言ってくれる。幸い、性格が歪むような出来事も起こらなかった。
自分で言うのもおかしいけれど、あたしは恵まれている子だ。だから、周囲からの印象や期待にふさわしい子どもであるように、振る舞っていた。
そうしていたら、だれにも助けを求められなくなってしまったのだ。
家にも学校にも、居場所がないように思えて孤独だった。
あれから約十年。ようやく、ぼんやりとだけれど、自分が不登校児となるに至った理由がわかった気がする。
「ごめんね、みんな」
自分がなにか傷つけるようなことをしたせいなんじゃないかと泣いていた、けいちゃん、りょうすけくん、しんくん、のぞみちゃん。
なんども家にあたしの様子を見に来てくれた、あいこ先生。武内先生。湯島先生。
家にとじこもっていた間、あたしの好きなものばかり作ってくれた、お母さん。
こっそりメールをくれて、久々に会いにきてくれた、お父さん。
ほんとはこんなあたしのことが好きじゃない、おねえちゃん。
…………あたしが、生まれてこなければ。みんなを不用意に傷つけたり、不幸にしたりせずに済んだのかもしれない。
おねえちゃんをあんなに苦しめることも、なかったのかもしれない。
「ごめんね」
罪悪感なんて、きっと一生消えない。背負って生きていくしかない。これまでたくさんの人を悲しませた分、たくさんの幸せを食べて不幸を吐いて生きてきた分、たくさんの幸せをひとに与えなくちゃいけないんだと思う。だから死にたいとは考えないようにしている。いまはただ、一生懸命に生きて、まず大人になることが目標だ。だれかを安心させられる、だれかの居場所になれるような大人に。
家の近所の古い神社に着いたので、歩道のわきに自転車をとめて鳥居をくぐった。家から出掛けるとき、帰ってくるとき、あたしはここで必ず挨拶をする。だれに言われたわけでもなく、昔からずっと続けてきたことだ。お隣さんとはずいぶん離れているから、近所迷惑になるということはたぶんないのだろうけど、控えめに鐘を鳴らして手を合わせた。
きょうを、何事もなく過ごすことができました。姉は無事でした。
あしたも、穏やかに過ごせますように。
おねえちゃんが、彼氏さんと仲良くやっていけますように。おねえちゃんが、神様に守られますように。
最近、あたしはこの家の、家族の秘密を知ってしまった。幼い頃から胸のどこかにあった、ささくれくらいの小さな違和感の正体がそこにあったのだ。
そうならないように、あの人はこれまで、必死で隠してくれていたんだろうなと思う。あのときの選択の結果に結び付いたのかもしれないと思う。あたしたちを大切に思ってくれていたから黙っていたのだろうに、あたしはあの人の愛情を粉々に打ち砕くようなことをしてしまったのだ。どんなに小さなささくれでも、無理に千切れば痛いし、血が出ることだってある。
悔やんでも、悔やみきれない。だから、彼女が自身の意思で知ることになるまで、わたしはこの秘密を墓場まで持っていく覚悟でいることにする。
………………。
…………。
……。
閉じていたまぶたを開いたとき、かすかに足音が聞こえた気がして。
振り向こうとした瞬間、頭になにか、とても重たいものが落ちてきた。
目の前に大きく火花が散る。その場に立っていることすら難しくなって、視界がぐわぁんと傾いていった。何秒か、それとも何分も気を失っていたのか。意識を取り戻した瞬間に、溢れんばかりの不快感が身体中に襲ってきた。
痛い。
熱い。
なに、これ。だれ、いつ、から? う、
「、あ、あああ阿ェアアアtっっ!」
痛みのあまり、奇声とともに釣り上げられた魚みたいにのたうち回ることしかできなかった。それすらきちんと出来ていたかどうかあやふやだ。
なんで?
なんで、こんな。
ぼやけてくる視界に、人影が映った。レンガみたいなものを持っているし、あたしを殴った張本人だろう。暗いから表情は見えなかったけれど、笑っているなとわかった。
その人が、あたしの顔めがけてレンガを振り上げる。いよいよ殺される、そう思っても、両腕で気持ち程度にかばうことしかできない。
大きな衝撃と、痛みがふたたびやってきて、ぐしゃ、と音が聞こえたような気がした。
それからのことは、なにもおぼえていない。
◎