ダーク・ファンタジー小説
- 『Chika』 ( No.12 )
- 日時: 2020/12/16 23:24
- 名前: 厳島やよい (ID: l/xDenkt)
3.『-1』
千嘉が帰ってからひとりで夕食を済ませたあと、さっそくヘッドホンを当てて机に向かった。金曜日の午後、ちょうどきりの良いところでやめていた作業にとりかかる。
依頼主にほとんどこだわりがないので、いつも通りの要望に従い、指先に染みついた作業を繰り返していく。時間だけはかかるが、この人の仕事は大変と感じない。
面倒で投げ出したくなるのは(もちろん、そんな感情はおくびにも出さないが)、最初の打ち合わせや確認をいい加減に済ませたりそもそも放棄したりするような、ごく一部の新規依頼者との取引である。彼らの要望通りに仕上げて納品したあとで、これが違うあれを直せなどと大量の修正を命じてくるのでさすがに参ってしまうのだ。大抵値切ってくるし。もう、全身が痒くなってくる。
こんなことを思えるだけわたしの運がよすぎで、現実は、もっと大きな社会ではそんな相手ばかりなのだろう。わたしの性格や生活習慣のせいか、会社勤めの知人には遠回しに嫌みを言われたり羨ましがられることも多々あるけれど、どうかそんな目で見ないでほしい。わたしも色眼鏡はかけないから。
仕事でも家庭でもプライベートな人間関係でも、だれだって苦労を抱えているのは同じだ。それを理由に自分を鼓舞するのは大変結構。でも、ひとに同じ苦労を強要したり、求めたりしちゃいけない。
この世界に生きるわたしたちは、もっともっと、楽をしていいと思う。いやなことはいやと言っていいと思う。どう頑張ってもできないことはできないのだし、辛いものは辛い。
指を鳴らした瞬間に一変してくれるほど、世界は単純じゃないけど。
薄くて軽い「今よりきっと少しはマシ」を何年も何十年も、何百年もかけて、ミルフィーユみたいにたくさん積み重ねていくしかないのだ。わたしも生涯で、一枚でもいいから重ねることに貢献できればいいなと思う。……思いながら、この数年で、自身の考え方がずいぶん確立してきたことに気がついた。自分でも気がつかないうちに、わたしはわたしの「今よりきっと少しはマシ」を積み重ねてこられたのかもしれない。
何か月後か、何年後かはわからないけど。わたしは、きっと変われる。そう信じてみたい。
*
それから数日がすぎて、溜まっていた仕事もすこしは目処が立ってきた。時計は何度目かの深夜二時前を指している。空はこんなに暗いし風も冷たいし月もたぶん出ていないからだいぶ眠い。
昔から、ものごとに熱中している間はほかのことが見えなくなるたちなのだ。はじめのうちは気づけば夜が明けていたなんてザラだったっけ。
椅子から立ち上がって、脚がつらない程度に伸びて伸びて伸びまくった。さすがにもう寝よう。台所で軽くうがいをしてから、ベッドに向かって一直線、飛び込んでやるぞーと意気込んだのと同時に携帯の通知音が耳に突き刺さってきた。
〈きみと話をしたいな〉
〈明後日の夜とかどう?〉
LINEにメッセージが送られてきた。
わたしを突き落とした、犯人から。
少しだけ考えてから、まあ、あさってならと、返事を打ち込む。
〈いいよ。どこで落ち合う?〉
〈当日電話する〉
〈大丈夫、きみのアパートからそれほど遠くはない〉
〈わかった〉
既読がついて、やりとりはそこで途絶えた。わたしも部屋の明かりを消し、今度こそ布団に潜り込んで、目を閉じる。シーツの冷たさを感じるのはほんの一瞬で、すぐに体が温まってきた。
とくに何か言われたわけでもないが、ひとりで行こうと思った。だれにも迷惑をかけたくなかったから。
約束の日の晩、わたしが呼び出されたのは、市内の片隅にある古い神社だった。遠くの控えめな街灯が照らし出す境内のど真ん中で、その人は大の字になって寝転がっている。
「隙しかないね。今度はわたしが刺してあげようか」
わたしの声で、彼女はゆっくり、ゆっくりと起き上がった。
「やれるもんならやってみろよ、ばぁあか」
少年のような声が、間延びして響いてくる。
おそらく紺色のデニムに、黒いコート、その下に着ている黒いパーカーのフードを深く被りマスクまでつけていて、よほど目立ちたくないんだなあと感心してしまった。むしろ風景から浮いているけど。階段から突き落としてきたときも、同じ格好をしていたもんねえ。
二ヶ月前、千嘉を紹介してくれた大学時代の同期生、真幌深幸ちゃん。
「へえ、一人できたんだ」
深幸は辺りを見回し、こちらに近づいてきながらフードとマスクを外した。けっこう髪が長かったはずなのだけど、幼い頃のわたしの妹と同じくらいに、いや、それ以上ばっさりと切り落としている。
わたしよりも少し背の低い彼女を見つめていたら、その髪型と雰囲気に妙な既視感をおぼえた。いつ、どこで見たのだろう。頭の中の引出しをひっくり返して思い出そうとしてみても、合致する記憶がなかなかみつからない。
「……ねぇ、だい「だれがひとりだって?」
「え」
彼女自身に直接訊いてしまおうかと思ったそのとき、うしろから千嘉の声が聞こえてきた。深幸も大きく目を見開いて、歩を止める。彼女はなぜだかとても怒っているように思えた。
「どうせ俺には何も言ってくんないだろうから、つけてきた」
「は? しねすとーかー」
「この子じゃなくて、おまえが言うの? 面白いねえ」
わたしの隣まで歩いてきた千嘉も、彼女以上に怒っている。暗闇で表情はよく見えないけど、そう感じた。たぶん勘づかれている、深幸がわたしを突き落としたことに。
空気が重い。ただでさえ寒くてつらいのによけい早く帰りたくなってくる。だから、わたしからこの状況を動かさないと、と口を開いた。
「深幸。どうしてあんなことしたの?」
- 『Chika』 ( No.13 )
- 日時: 2020/12/18 00:19
- 名前: 厳島やよい (ID: l/xDenkt)
あくまでも、理由をきちんと知りたいだけだった。
心当たりがないなんて言えるほど美しい人生を送ってきたわけじゃない。もしかしたら、どこかで彼女を深く傷つけていたかもしれないから。そうだったなら仕方ない。彼女の思いを、怒りや悲しみを、わたしは受け止めなくちゃいけないと思う。たとえ突き落とされようが、刺されようが。謝って済むなんて考えていない。
「その質問に一言で答えられるくらいの理由なら、わざわざきみを殺そうとなんかしないよ。でもあえて言うなら…………嫉妬? うん、きみの全部が妬ましいよね」
ずい、と目の前まで顔を近づけてきて、深幸が答えた。喜怒哀楽のすべてが混ざりあったような、わたしを見つめる真っ暗な目の奥に、吸い込まれてしまいそうになる。だめだ、この人とは目を合わせちゃいけない。本能がそう警告してくる。
嫉妬。
嫉妬、かあ。
相手の劣等感を煽りやすい自覚はある、昔から。生まれ持ったものならわりと恵まれているし、ひとより色々なことが出来てしまうタイプだし、水面下での努力や苦しみはなるべく表に出さないよう、注意もしている。だから、当然と言えば当然なんだけど。こればかりは、相手自身の心の問題でしかない。
たくさんの人たちを振り回してきた二十四年のうちの数年間、深幸はそんなわたしと繋がり続けていてくれた、大切な友人のひとりだと思っていたんだけどな。そっかー。
「本当は、ずっと千花のことが大嫌いだったよ」
憎悪にまみれた告白なのに、彼女の声があんまりきれいで、背中と腰がぞくぞくした。わたしって声フェチだったのかしら、そんな冗談はさておき。
「だから、死にたがりなきみを呪ってあげる。忘れないでねぇ」
「っ、は?」
彼女はコートの中から取り出した包丁を、
「千花!!」
その光景を、大きく塞ぐように、千嘉が覆い被さってくる。刃先がわたしに向かうと思ったのだろう。優しくて、無謀な人だ。
小さく、切り裂くような音がして、静寂が訪れる。何が起こったのかよくわからなかったが、少し遅れて聞こえてきた深幸の呻き声で、なんとなく予想がついてしまった。
視界が遮断されても、彼女が死へと向かう音は鮮明に、耳の奥へ流れ込んでくる。死を意味する臭いはかすかにここに溶け出している。そんな状況に、右腕の傷跡がひどく疼いてしまう。気づけば震えが止まらなくなっていた。
怖かった。恐かった。怖かった。こわかった。なにが? 深幸が目の前で死んでいくのが? 自分の中からこんなどす黒いものが溢れてくるのが? なのにひどく冷めている自分を千嘉に見られてしまうのが?
笑えてくる。
わたしは、きっと変われるんだと思っていた。でもそれは、こんな気持ちに蓋をしていたからなんだ。
積み上げてきていたものは、蓋でしかない。わたしの根本的な部分は、何も変わっちゃいないんだ。
千嘉は、嫌いだった自分の名前がわたしのおかげで好きになれたとかって言ってくれたっけ。たしか妹も、花束みたいできれいだって言ってくれた。でもわたしは、今でもあんまり好きじゃない。この名前が。
お母さんは、生まれたばかりのわたしを見ながら、何を思ってこんな名前をつけたのかなあ。
こんなクズみたいな、生きている価値も無いような人間に育っちゃったよ、ねえ。あっはっはっ。
「……千花?」
深幸の声がしなくなってから、どのくらい経っただろう。
わたしを庇ってくれていた千嘉から離れて、地面に転がっている死体を見下ろした。しゃがんでみると、血の臭いがより濃く感じられる。冬なのに。冬だから、かな。
「うらやましい」
千嘉には聞こえないように、その耳元でそっとささやく。
「わたしも、今の深幸くらいに自己中になれたらよかった」
中学生のとき。そうしたら、きっと一思いに、前向きに死ぬことができていただろう。いまみたいな後ろ向きな気持ちじゃなく。
乱れた髪の奥で、彼女が笑ったように見えたのは、気のせいだったかもしれない。
たった三人の友人が、ひとり、いなくなってしまった。
「かえろっか、千嘉」