ダーク・ファンタジー小説
- 『Chika』 ( No.17 )
- 日時: 2020/12/22 00:23
- 名前: 厳島やよい (ID: l/xDenkt)
5.『Chika,Good night』
目が覚めたとき、服も着ていないのに汗で背中が濡れていた。隣を探っても、まだ夜は明けていないというのに彼の気配がきれいさっぱり消えている。温もりすら残っていない。
「千嘉?」
急いで部屋着に腕を通し、ジャンパーを引き掴んで外に出た。息を切らしながら、底冷えする寒さの中を駆けていく。まだ始発は出ていないから、タクシーでも拾っていない限りは間に合うかもしれない。
でも、そんな考え以上に。
彼がひとりで消えてしまうんじゃないかと、怖かった。
昨夜、彼の問いかけに対してわたしは頷いたのに。彼に首を絞められたとき、結局逃げてしまったくせに。
千嘉が死んでしまっていたらどうしようと、考えた。それは、自分が死ぬことよりもずっと怖かったのだ。
わたしは千嘉に生きていてほしい。これから先も、わたしに飽きてしまうまでずっといっしょに。寂しい気持ちも、甘えたい気持ちも、死にたい気持ちもぜんぶ、ぜんぶ受け止めるから。それしか、わたしにはできないけれど、それだけならわたしにはできるから。
心に身体が追いつかない。もつれそうになる脚をなんとか止めて、乱れる呼吸をととのえる。そうしていたら、すぐそばの公園のベンチに、求めていた背中を認めた。
「さがしたよ」
まだ星の瞬く空を見上げている。反応があまりに薄いので、わたしのことが見えていないのか、それとも、じつは昨日わたしは死んでしまっていて、幽霊にでもなったんじゃないのかと一瞬本気で疑うほどだった。
隣に同じように座ってみる。少しの間があって、肩に凭れかかってきた。彼のほうが背が高いし、わたしの肩も小さいしで、疲れそうだなとか思ってしまう。彼にとってはどうでもいいことなのだろうけど。
「枕元に置き手紙、してきたのに」
「たぶんどっかに落としちゃった。慌ててたから」
「…………ごめんね」
返事の代わりに、そのやわらかい髪をなでてみた。うちのシャンプーの匂いがする。いつもとは違う匂い。
「今日、お仕事とかある?」
「ないよー、土曜だから」
「ああ、そっか。今日って土曜日か」
「あるあるー」
なんか。
なんか、いつもと違う。匂い以外にも、違和感がある。小さなちいさな、ほんの些細な違和感。
「ねえねえ、千花」
「ん?」
「この前、次は千花が朝ごはん作ってくれるって言ってたでしょう。食べてみたいなあ」
「いいよ。じゃあ帰ろうか」
彼がいつものように手を繋いできたので立ち上がろうとしたら、ひょいと腕を引かれて、またベンチに座らされてしまった。地味にお尻が痛い。がつんってなった。
「もうちょっと、こうしてて」
「そろそろ寒いんですけどー」
「ごめん、我慢してね」
彼の言う「もうちょっと」は、わたしが想像するよりだいぶ短くて、気がついたらアパートに戻ってきていたほどだった。
お米を鍋で炊いている間に、換気をして、洗濯機を回して、歯を磨いて、顔を洗って、味噌汁と卵焼きを作って、納豆を用意して。これだけやってもまだ外は暗い。こんなに早起きして朝食をとるのも半年ぶりくらいなので、変な感じだ。千嘉はなぜかうしろでちょこんと踏み台に座って、猫や犬みたいにわたしの作業を見ているし、なんだか調子が狂ってしまう。
「そこ、寒くない? ていうかわたし見てて楽しい?」
「寒くないし楽しいよ」
「あ、そ」
折り畳みの机と座布団を収納から引っ張り出し、できあがったごはんを盛り付け、キッチンから、寝室兼居間兼仕事部屋であるとなりの部屋まで彼と運んでいった。狭いアパートで申し訳なくなってくる。
「美味しそー! ひとにごはん作ってもらうの、久しぶりだなあ」
とても嬉しそうに箸を手に取る彼を眺めながら、味噌汁をすすった。そういえばわたしも、外食や旅行にいったときなんかはべつとして、ひとの作るごはんを食べたのはここ数年、千嘉の家に泊まった日くらいだったな。
「キャベツって味噌汁に入れても旨いんだね」
「ご飯と味噌汁はまだ残ってるから、足りなかったらおかわりして」
「する!」
「まだ半分も食べてないのに」
あんまり無邪気に言うものだから、つい笑ってしまう。
昨夜深幸が死んだことも、後先考えずに千嘉と心中しようとしていたことも、ぜんぶぜんぶ、夢だったんじゃないかと思う。そのくらいの幸せが、やっぱりまだ辛い。
- 『Chika』 ( No.18 )
- 日時: 2020/12/23 00:05
- 名前: 厳島やよい (ID: l/xDenkt)
早起きをした反動か、その後昼間はふたりで眠ってしまっていた。
本を読んで、デリバリーで昼食を頼んで、ゲームをして。外からかすかに聞こえてくる、鳥や犬の鳴き声に耳をすませながら微睡む。なんとも贅沢な休日だったと思う。
千嘉が今夜は早く寝たいと言うので、夕方には別れることにした。こんどはわたしが駅まで送って、というか勝手についていって、改札前で解散する。バスに揺られる約二十分、名残惜しくてたまらなかったけれど、彼のわたしの手を握る力がいつもより強かったので、夕焼けを眺めながらだまって堪えることにした。どうにもならないことに駄々をこねていても仕方ない。そう考えられるようになっただけ、充分な進歩だろう。
駅前は当然いつもより賑やかで、クリスマスも近いせいか街路樹や建物に点々とイルミネーションなんかが飾りつけられ、空気も浮き立っている。千嘉はそんな周囲をゆっくり見回してから、わたしに向き合った。
「じゃあ、ここで。ありがとう、わざわざ送ってくれて」
「くっついてただけですけどねー」
「それでも嬉しいから……ほかにもたくさん、ありがとう」
「こちらこそ。気をつけて帰ってね」
「うん」
そんなに愛しそうに見つめないでほしい。いやでも溢れるほどに伝わってくるから。
人通りが少なくなった瞬間を見計らい、彼はわたしの額にそっとキスをしてから、改札の向こうに消えていった。
ひとりになると、寒さが肌を刺すように強くなった気がする。いろんな音が大きく聞こえるような気がする。しばらく、具体的には三分くらい、意味もなくぼんやりとその場に立ち尽くしてから、帰りのバスが来るまでケーキ屋さんや雑貨店を見てまわった。そうこうしているうちに、空はすっかり夜の帳を下ろしていた。
家に帰ったら、お風呂を沸かして、その間に軽く床を掃除して、入浴後にはご飯をつくって食べる。食器を洗ってからメールを確認して、少し仕事を進めて、日付が変わる前にはベッドに潜り込んだ。
次の日からはいつも通りの平日だ。朝の七時には起きて、ご飯を炊いて、洗濯機を回して歯を磨いて、顔を洗って、朝食をとって。洗濯物を干したあと、日中は適度な休憩や昼食の時間も挟みつつ、机に向かいつづける。ときどき買い物に出たり病院に行ったりもして、夜になればシャワーを浴びて夕食をとり、余裕があればまた少し作業を進めるか、読書をして日付が変わる前に就寝する。それを何度も繰り返す。二年間で、身体に染みついたわたしの生活習慣。最近意図的に変えた習慣といえば、千嘉に合わせて、自分の休日も週末にずらしたことくらいだろうか。自分が好きでやったこととはいえ、未だに慣れない。これまでの癖でついつい早起きしてしまうこともあるし、ごみ出しの曜日は間違えるし、どこに出かけても混んでいるし。
木曜日の夜。そんなことを考えながらパソコンをシャットダウンして、布団の上に放り投げてあった携帯電話を手に取ったら、友人から一時間前に新着メッセージが来ていた。
〈いろいろ平気? ニュース見たよ〉
…………はて。
〈なんのこと?〉
〈わたしは元気だけど〉
狐や狸や爬虫類その他でも召喚しそうな返事になってしまった。歩くのはわりと好きだ。と、まあそのくらい何のことをおっしゃっているのかわからない。送信先を間違えたんじゃないのか。
〈そっか、あんたテレビ持ってないんだっけ〉
相手もわたしが理解できていないとわかったのだろう。わたしの〈?〉に既読がついてから五分以上経って、ようやくふきだしが追加された。
〈あたしもさっき知ったばっかりなんだけど、春巻のお母さん、真幌深幸に殺されたんだよ〉
〈妹さんも、あの子にやられたんじゃないかって〉
〈え?〉
読み間違いでもしたのかと思った。昔、そういうことがあったから。だから何度も読み返した。彼女が貼り付けてくれたネットニュースのURLも踏んでみた。
残念ながら、読み間違いでも嘘でもなく。
母親は実家のリビングで惨殺されていて、妹は近所の古い神社で頭部を殴打され、意識不明の重体。手を下したという深幸は、当然あのときに死んでいた。
〈連絡、なにも来てない〉
〈とりあえず、諸々のことはお父さんがやっておいてくれるってよ。マスコミとかにつけ回されたら可哀想だからって〉
〈さっき、あたしのところに伝えにきてくれたから〉
〈うちの父が?〉
〈うん〉
〈ありがとう、迷惑かけちゃったね〉
〈そんなの今さらすぎるから笑〉
〈とにかく、しばらくの間は引きこもりに徹するように。なんか困ったことあれば呼べよー〉
ゆるキャラのような白い動物が布団にくるまっている、イラストのスタンプが最後に送られてきて、メッセージは途絶えた。彼女のさりげない優しさが身にしみる。
こちらに越してきたときは家出も同然だったし、当時もう実家にいなかった父も、わたしの連絡先を把握することは難しかったのだろう。父親と、妹の無事(ではないけれど、とりあえず生きていたこと)に胸をなで下ろすと同時に、自分が疑われずに済んだことにも安心してしまった。遅れて冷や汗が噴き出してくる。自己中心的な思考に、自分でもあきれてしまった。
あいつは……深幸は、わたしを死なせるためにここまでしたのか。そんなに死んでほしいなら、もっとはやく、直接殺してくれればよかったのに。そうすれば彼女に何ら関係のないふたりが、危害を加えられることもなかったわけだ。母親のことも妹のことも嫌いだけれど。
深幸に対して抱いているこの感情は、怒りなのだろうか。なんだか、自分自身がよくわからなってくる。
- 『Chika』 ( No.19 )
- 日時: 2020/12/23 21:41
- 名前: 厳島やよい (ID: l/xDenkt)
ひとまず、しばらくは外で会えないかもしれない旨を千嘉に伝えなければと、彼とのトークルームを開こうとしたのだけど。
アイコンの画像は消え、名前の欄も〈メンバーがいません〉の表示に変わっていた。メッセージの最後の表示は三日前、つまりは最後に会った翌日の〈Unknownが退出しました〉。
「え」
これまで何度も見たことのある画面。わたしに愛想を尽かした人たちは、大抵こうやって姿を消していった。
変なスイッチでも入ってしまったみたいに過去のいろいろな記憶がなだれこんできて、背中が冷たくなる。息が詰まる。千嘉とは喧嘩をしたこともなかった、なにか我慢させていた様子もなかった、暴言を吐いたこともなかった、千嘉に八つ当たりしたりいまから死んでやるなんて言いだしたことも一度だってなかった、彼はいつも温かいやわらかい笑顔でわたしを見てくれていて、優しく手を握ってくれて、何度もわたしを抱きしめてくれて、なんでだかそばにいるとすごくすごく安心して、二人きりのときはキスばっかりせがんできて子どもみたいに甘えてきて、そうかと思えばわたしにも思いきり甘えさせてくれて、わたしの好きなものとか嫌いなものとかこんな短い間になぜかたくさん覚えてくれていて、その服すごくかわいい似合ってるとか前髪切ったでしょとか珍しくいつもと違うリップを買って使ったときなんてよくわからないけど雰囲気変わったよね今日もかわいいよとかまじでこっちが恥ずかしくなるくらいに褒め倒してくれるようなもう意味わかんないくらいむちゃくちゃかわいくてかっこよくてできた人でそんなところもいやほかにもたくさん全部ぜんぶ大好きでしょうがなくて。
なのに、そんな、いま、どうして。
祈るように彼へ直接電話をかけても、すでに番号が使われていないと音声案内されるだけだった。
なんでだろう。なんで千嘉までいままでとおんなじようにいなくなっちゃったんだろう。今回は違う、この人のことは失望させたくないってやってきたのに。好きな人でもできたのかな、わたしが嫌なことしちゃってたかな、悩みでもあったのかな…………………………あ。
────枕元に置き手紙、してきたのに
あの日の、ささくれ程度の違和感が示していたものは、このことだったのかもしれない。あの朝、もし彼が、そのまま消えるつもりで家を出ていこうとしていたのなら。携帯のライトで照らしながらベッドの下を覗きこむ。ずいぶん奥のほうに紙が落ちていた。ベッドごと動かしてみようかと試みたものの、想像以上に重くてびくともしない。
ワイパーの棒を使ってなんとか取り出してみると、わたしのデスクの引出しにあるメモ帳を何枚か使った、書き置き、というより、短い手紙だった。わたしが昼寝をしている間にでも書き直したのかもしれない。
〈 晴柀千花様
これを見つけたとき、俺はもう、いなくなっていると思います。死んではいませんが、捜しても見つけられないでしょう。ほかに好きな人ができたとか、嘘をついて別れようかとも考えたんだけど出来ませんでした。突然勝手なことをしてごめんなさい。
千花があの夜、頷いてくれてすごく嬉しかった。いままでそうたずねてきた相手たちは、自分を頭のおかしい奴だと言っていなくなってしまったから。でも千花が、やっぱり死ねない、怖いと言ったとき、それと同じくらい安心もして申し訳なくなった。連れていっちゃだめだと思った。千花を大好きになってしまったからだろうね〉
〈きみには、この世界で、明るい場所で生きていてほしい。生きて、どんなかたちでもいいから幸せになってほしい。俺の死にたいという気持ちに巻き込みたくない。
自分で書きながら、すげー勝手なこと言ってるなって情けなくなってくる。ごめんね。本当に、ごめんなさい。できるだけ早く俺のことは忘れてください。
短い間だったけど、すこし辛くなるくらいに幸せでした。ありがとう。さようなら。 雨宮千嘉 〉
読み終えた瞬間、わたしは友人の言いつけも、終電のことも、捜しても見つけられないという文も忘れて、部屋を飛び出していた。今にも溢れだしそうになる涙をこらえて、ひた走る。また走る。
いまになってやっと思い出した。千嘉と別れたあの日は、日曜日じゃなくて土曜日だったんだ。その話も朝にしていたのに、五日間、勘違いをしていた。たぶん、未だに土日休みに慣れていないことがばれていたんだろうな。その上で、たった一晩の間に決心して、数日でわたしの前からいなくなったのだ。
渦巻く思いは言葉になんてなりそうにもない。もし「そんなの嘘だよ」と彼がいま目の前に現れてくれたとしても、わたしは何も言えないと思う。
電車に揺られながら、とうとうこらえきれずに泣いてしまった。乗客たちの視線は思いきり俯いて無視する。四つ先で降りた駅前でナンパしてきた酔っぱらいの男も、居酒屋の客引きもことごとく無視した。
三回しか行ったことはないけど、マンションの場所なら覚えている。部屋番号だって、教えてもらったエントランスの暗証番号だってちゃんと覚えている。なのに、なのに、何度部屋のチャイムを鳴らしても彼は出てこない。
……いままでの日々は、時間は、ふたりで作り上げてきたものは一体なんだったのだろう。千嘉とだけは、こうなりたくなかったんだけどな。
つんとした静かで冷たい空気が、容赦なく肌に、喉の奥に刺さってくる。
わたしは、長い夢でも見ていたのかもしれない。千嘉や深幸たちと出会ったことも、家出をしたことも、母親が死んだことなんかもすべて妄想で、目が覚めたら、実家で母さんと怒鳴り合っている、あの地獄みたいな日々に逆戻りしているのかも。
そうだ。きっとそうなんだ。そうじゃなきゃ、何なんだよ。
〆