ダーク・ファンタジー小説
- Re: 祈りの花束【短・中編集】 ( No.20 )
- 日時: 2020/12/25 00:17
- 名前: 厳島やよい (ID: l/xDenkt)
不幸な事件だったと、だれかが言った。
◯
6.『±』
父親が自殺して以来、ひどく不安定になった母親とうまくいかず、彼女は高校卒業後に実家を出た。夜の水商売で稼ぎを得て、ひとり静かに都市部の古いアパートで生活していた。
都会はいい。ひっそりと生きていれば、他人には興味や関心を向けられず、干渉されることもないから。彼女にとって果てしない自由がそこにはあって、幸せな毎日だった。たとえ母親や祖父母が認めないとしても、彼女にとってはそれが正しい暮らしなのだ。
もうだれにも邪魔をされたくない。清潔な家で、好きなときに寝て起きて、好きなものを食べて、買いたい服やアクセサリーや化粧品をたくさん買うのだ。社会の常識やルールさえ守れば、自分のためだけに生きられる。それがすべて叶えられるのが嬉しかった。
……そんな幸せを打ち砕かれる日は、前触れもなく訪れた。仕事からの帰り道に、見知らぬ男にレイプされたのだ。彼女が働く繁華街の、汚い暗い路地裏で。いつか相手をしたことのある客だったのかもしれないが、彼女の記憶の中に、目の前の男と一致するような顔は見当たらない。
叫ぼうとすれば容赦なく殴られた。頑張って伸ばしてきた髪は鋏で切り落とされてしまった。ショックと、酒臭い息がかかってくる不快感で思わず吐いてしまったが、それでも男は粘着質な笑みを浮かべつづけている。そういう性癖なのだろうと思った。
痛い。寒い。気持ち悪い。助けてほしい。でも、もしだれかがやって来たら、その瞬間に殺されてしまうのかもしれないという恐怖もある。だからどうか、だれも気づかないで。ここに来ないで。
やがてひどい無力感に襲われて、彼女は抵抗することも涙を流すこともやめてしまった。頭がぼんやりする。自分の手足ですら、自分のものでないような感覚がした。
男は分厚い携帯電話を開いて、ぼろぼろになった彼女のことを何枚も写真に撮っていく。他言すればネットにばらまくと脅迫されたが、そんなことを言われずともすでに放心状態で、通報する気もだれかに相談する気も失せていた。
いつのまにか家に帰ってきていて、部屋に上がった瞬間、涙が勝手に溢れてとまらない。叫び出してしまいたくて、けれどもただでさえ夜中だからそんなことはできなくて、布団を千切りそうになるくらい強く噛んで堪えていた。
自分は汚れてしまった。
汚ない、汚ない、汚ない汚ない汚ない。
風呂場の鏡に映る身体が何時間洗っても綺麗になってくれなかった。タオルで肌を擦りすぎて痛い。ところどころに血が滲み、お湯も石鹸もひどくしみる。ふと、あの日つけられた下腹部の傷に目が留まって、耐えきれずに鏡を割った。
そんな夜をやり過ごし続けていると、生理がこないことに気がついて。あの日の男以外に心当たりはない。それは、彼女にとってあまりにも重い事実だった。現実から目を背け、ひたすらに部屋で眠り続けた。
それでもだんだんと腹が膨れ、重くなっていく。物理的にも精神的にも、身動きがとれなくなってくる。母親が事故で死んだとしらせに祖母が訪ねてきて、変わり果てた彼女の姿を見たころには、もう後戻りできなくなっていた。長い間祖母に叱られ、泣きわめかれ、叩かれていた気がするが、よく覚えていない。
それからは実家に連れ戻され、祖母に身のまわりの面倒を見てもらっていた。ずっと頭がぼんやりとして、自分が生きていないみたいだった。
途切れとぎれの記憶を渡り歩くと、気がつけば、久々に会う幼馴染みの彼が隣にいて。自分の手を取りながら、祖父母に向かって恥ずかしい台詞を並べ立てていた。
昔、だめな恋人に振り回され落ちぶれていたわたしを本気で叱ってくれて、手をさしのべてくれて。そんな彼の想いを知りながら、酷い態度で踏みにじり、わたしはこの町を離れたのに。それなのに、どうしてだろう。わたしは夢でも見ているのかもしれない。
ついには祖父に実家を追い出され、知らない家で彼といっしょに過ごしていた彼女は真剣にそう思っていた。
隣で眠る赤ん坊の顔が、よく見えない。こいつが自分の子どもだなんて認められない。世話なんかしたくない。自分の体も心もぼろぼろなのに、毎日毎日、昼夜問わず泣き声がうるさくて、頭痛がしてくる。捻り潰したくなる。赤ん坊の顔をきちんと見ようとして忌まわしい記憶がよみがえるたび、彼女は奇声を上げ、赤ん坊や自身を傷つけようとし、宥めてくる彼にも無意識に暴力を振るっていた。
もう、彼女のそばにこの子を置いていてはだめなのかもしれない。彼はそう考え、やはり子どもは彼女の祖父母に託すべきなのではないかと迷い始めたが、ある日を境にぴたりと、彼女が暴れなくなった。
「こいつ、すごくわたしに似てるよ、かぁいいねー」
少々乱暴に小さな体をつつきながら、笑って言う。
ふしぎに思った彼が赤ん坊をよく見ると、生まれたばかりの頃より幾分か顔つきが変わっているように思えた。これまで彼女にとっては父親似に見えていたのだろう。それで取り乱していたのか。
「……きみは美人さんだから、きっとこの子もすごく可愛い女の子に育つね」
「なんかそれもやだなあ」
彼女の笑顔は、あまりに脆く、赤ん坊よりも危うく、触れれば壊れてしまいそうだった。
強く子どもの服を握りしめるのを見て、彼は慌てて、けれど優しく彼女を抱き寄せる。腕の中にやすやすと収まり、そのうち自分に体を預けて眠り始めてしまった彼女を見ていると、重たい、重たい悲しみが込み上げてきて、しょうがなかった。彼女がすべての感情や記憶を手放した無表情で眠っているのが辛かった。
ただ今日まで生きていてくれただけでも嬉しい。こうしてまた出会えたことも奇跡だと思う。でも、彼女に、すこしでもいいから昔のように笑っていてほしい。すこしでもいいから幸せでいてほしい。
どうすればいいだろう。
彼女とこの子から少しでも不幸を遠ざけるためには、どうすればいいだろう。
考えて、考えて、考えて。
彼はひとつの方法しか思いつかなかった。
彼女の不安定さを利用して、つけこみ、内側から彼女の世界を再構築しようとした。
「やっぱりさー、千花は僕に似てるんだよ。パパ似なんじゃない?」
義祖父母の言うとおり、僕もいまの彼女も、やっぱり"ふつうじゃない"のかもしれない。
- 『Chika』 ( No.21 )
- 日時: 2020/12/26 21:58
- 名前: 厳島やよい (ID: l/xDenkt)
難しいようで、簡単だった。はじめのうちは困惑していたが、夢の中に生きているような彼女にとっては、嘘と真実の境界線もそれほど曖昧なのだろう。彼女の中で事実が書き替えられるのに、時間はかからなかった。
時おり、彼女がはげしく錯乱する夜がある。娘が物心ついてからも相変わらず。頭が痛くなるほどの叫び声を聞こうとも、殴られようとも、自分の服に思い切り嘔吐されようとも、耐えた。耐えて、堪えて、彼女の手を離さなかった。
それから数年が過ぎて、千花に妹ができた。生まれた頃から自分にそっくりで、けれども自分とはとても似つかない亜麻色の髪をしていた。母親に似たのだろう。他者の入る余地がないほど、彼女はそんな次女につきっきりになり、千花に対して育児放棄をするようになった。
だから僕が、彼女の代わりに千花のほとんどの面倒を見ていた。とはいえ、以前とほとんど生活に変わりはない。この子の母親だという自覚が著しく欠けているのだろうなと、改めて思う。この子の昼寝している隣で僕を求めるような始末なのだ。さすがに拒むけれど、そうするとあからさまに不機嫌で暴力的になるから辛い。事件の後遺症なのかと思うと、頭ごなしに咎めることもできないし。
そんな毎日がつづいても。いびつな空間にさえ目をつむれば、わりと静かで、平穏な家庭だ。そう言い聞かせて、やり過ごして。
千花が保育園を出る頃には、うちにいるのは長女と次女と、体だけ大きな子どもなのだと、思うようになっていた。
*
手放しで喜ぶつもりはないし、最低限の家事育児はもちろんつづけているけれど、仕事を含め、次女のことで自分の時間を必要以上に削られなくなったというのは嬉しいことだ。
長女も小学校に上がってから、だんだん手がかからなくなってきた。外の世界が楽しくて仕方ないのだろう。
人間というのはつくづく無いものねだりなもので、そんな生活に少し、寂しさも感じていた。だから空いた時間にはひとりで外へ出掛けて、久々の趣味に打ち込んでいたのだ。
色々なことが少しずつ、うまくいきはじめたのだと、いい方向にむいてきたのだと思っていた。でも、彼女の世界は僕の世界と大きくずれていた。見えるもの、感じるものがあまりにも違っているのだということを、頭では理解していても肌ではわかっていなかったのだ。
「博史、あんた浮気してるでしょう」
彼女のそのひとことで、僕たちの世界は、音を立てて崩れ落ちた。
見たことがないほど、彼女は怒り、悲しみ、家中のたくさんのものを壊し、次女にまでその矛先を向けた。いままでとはなにか違うと、千花も感じ取って宥めようとしたのだが、彼女はその手を強く払いのけた。
ぜんぶおまえのせいだ。こんな思いをするくらいならおまえなんか産まなければよかったんだ。あんな、あんなゴミクズみたいなやつの────
叫び声のつづきを、八歳になったばかりの千花には聞かせまいと、咄嗟に両耳を塞いだ。
僕は、どうなったっていい。悪者になってもかまわないから。もう二度と、この子達に会えなくなってもかまわないから。
どうかそれだけは、千花が知ることなく、育っていけますように。
自分が他のみんなと何一つ変わらない、かけがえのない大切な存在なのだとわかってくれますように。
三人に、ひとつでも多くの幸せが訪れますように。
「パパなんかだいっきらい。二度と帰ってこないで」
それが、僕の願いだ。
6(0).『±』 終