ダーク・ファンタジー小説
- 『Chika』 ( No.22 )
- 日時: 2021/01/12 21:25
- 名前: 厳島やよい (ID: l/xDenkt)
- 参照: https://www.kakiko.info/upload_bbs/index.php?mode=article&id=6569
7.『日照雨が上がる』
千嘉の隣の部屋に住んでいる大学生くらいの女性が帰ってきて、泣き崩れていたところに声をかけられた。わたしはまったく覚えていなかったものの、彼の部屋に来ていたときに何度か挨拶を交わしていたらしく"となりの雨宮さんの彼女さん"と記憶されていたそうだ。かいつまんで事情を説明すると、彼は月曜あたりにマンションを出ていったばかりだと教えてくれた。
もちろん引っ越し先は彼女も知らなかった。わたしと同棲するために県外に出るのだと伝えていたらしい。その一言で、おそらく県内にはいないだろうとわたしも判断した。
その後「冷えてしまいますから」と彼女が部屋に上げてくれて、温かい紅茶まで淹れてくれた。とてもいい香りがした。
互いに名前すら知らなかったような間柄なのに、話を聞いてくれて、タクシーまで手配していただいてしまって。年下の女の子だというのに、申し訳ないやらなにやらでいっぱいいっぱいだ。
「こちらこそすみません。同じような経験があったので、感情移入してしまって。私はただのお隣さんですけど、二人のこと、ほんとうに素敵だなって思ってますよ。ですからどうかお気になさらないでください」
「ありがとうございます……当分立ち直れないかもしれませんが」
「いいんですよ、すぐ立ち直ろうとしなくても。無理に忘れようともしなくていいんです」
気が済むまで落ち込んでいい。気が済むまで毎日彼を思い出していい。
そう言って外まで見送ってくれた、彼女のやさしい、そしてどこかひどく悲しげな笑顔は、いまでも鮮明におぼえている。
「……納得のいく別れなんて、この世には存在しないから」
わたしは他人に親切にされるということに免疫がないのだなと、そのとき改めて認識できた。
千嘉と別れて二年になるいま。彼が死んでしまったいま。わたしは以前のわたしより、少しでも前に進めているだろうか。明るい場所を自分の足だけで、しっかりと地面を踏みしめて。
ときどき、いや、しょっちゅう、こうして後ろを振り向くことがある。振り向いた先は真っ暗で、いくつも死体が転がっていて、たまらないほどの罪悪感が首を絞めてくる。自分が殺したのだと錯覚してしまうことがある。わたしは何人ものひとの幸せを壊して、奪い取って、不幸を吐き出して、撒き散らして生きている。自分の存在ってただの公害じゃないか。実家には未だに帰れないし、事件から二週間以上経って目を覚ました妹の顔も、見に行けていない。左手が使い物にならなくなってしまったと、父が言っていたっけ。彼女は右利きだったのが、不幸中の幸いだろうか。
ふらりと、死んでしまおうかと思う夜もあった。でも、結局最後の一歩が踏み出せやしなかった。ビルの屋上にあがってみても、包丁を握っても、駅のホームに立ってみても、眠剤のシートを破いてみても、歩道橋から街を見渡してみても。千嘉と死のうとしたあの日を、深幸が目の前で死んだあの時を、クラスメートが死んだあのときを思い出してしまう。そうして怖くなって、彼女の思うつぼになるだろうと踏みとどまって、次の日にはまた死にたくなって、その繰り返しだ。
それでも、いままでのように友人に泣きつくことはしなかった。千嘉と別れたことを話せたのも、あれから半年以上過ぎた頃だったし。
ただひとりで、なんとか毎日をやり過ごしていた。働いている間だけは、いやなことを考えずに済むから。
段々、だんだん、寒さが厳しくなって、段々、だんだん、日が伸びて、寒さが和らいできて。咲いたばかりの桜が瞬く間に散り、気づけば夏になり、蝉の鳴き声が聞こえなくなるころには、自殺を考えることもほとんどなくなっていた。その代わりに、なんだかときどき頭がぼんやりとするようになってしまったけれど。
彼の訃報をきいた翌朝。眠りから覚め、また少し靄がかかる頭で部屋を見回し、枕元の携帯電話に触れると「じゅうにじかぁ」時計はいつもよりずいぶん遅い時間を示していた。
「…………え、おひる、うまのこく、ヌーン!」
ふらつきながらも毛布をけとばして起床した。いつも少し開けて眠るのに、夜から閉めっぱなしにしていた窓のカーテンを開くと、真っ白い太陽光が遠慮がちに全身へ降り注いできた。寒さも相まっていっぺんに眠気が消え失せる。でも脳内の靄は消えてくれない。
とりあえず換気のために窓を開け、急いで顔を洗いにいった。ごはんは、ゆうべの残りの白米でおにぎりでも作ろう。
午前中の時間を犠牲にして、ライフゲージは全回復させることができた。この調子なら、取りかかっている作業も夕方には終わらせられるだろう、後ろがまだまだ立て込んでいるけれど。友人の言う通り、わたしは仕事だけはよくできるやつなのだ。体力さえあればどうとでもなる。
落ち着いたら、何をしようかな。新しい服なんか買って、美容室に行って、久々に手の込んだ料理を作ったりして、あとは海を見に行きたい。冬だけど、だれも人のいない寒い海で潮風に当たりたい。その風景を絵に描きたい。ラップに包んだ温かい塩むすびを頬張り、窓を閉めながら、考える。
生きるために、好きなことをするために、明るい場所を歩くために。わたしは今日もコーヒーを淹れ、ヘッドホンを耳に当て、机に向かう。
本当に、死にたいと思える暇がない。
とてもありがたいことに。
それから一週間が過ぎた頃。
行きつけの美容室で髪を切り、人の少ない午後二時半あたりを狙っていつものようにスーパーまで買い物に出た帰りに、コートの中で携帯が震えた。ちょうど、昔深幸に突き落とされた歩道橋の上のど真ん中で立ち止まる。通知を開くと、友人からのメッセージだった。
〈月並みな言葉だけど、あたしは、今日まで春巻が生きててくれてよかったって思うよ〉
最後のやり取りである〈もうする気は失せたかな〉の続きなのだろう。多かれ少なかれ、あれからずっと気にかけてくれていたのかもしれない。
〈少なくとも、あんたが嫌になるまで、あたしはこれからも一緒にいるつもりだから〉
〈だからまあ、よろしく。それだけ〉
なんとまあ、珍しいことを。雪でも降るんじゃないのか。
思わずくすくすと笑ってしまいながらも、返事を打ち込む。
〈それって月並み? 太陽並みじゃない?〉
〈ありがてー〉
〈いやいや、月並みって、そうじゃないから笑〉
〈冗談ですよ笑〉
〈ほんとにありがとうね。十年も、こんなわたしの友達でいてくれて〉
そう。家を出て、地元の公立高校に入学して、すぐうしろの席だった彼女と出会ってから、約十年。いろいろあって学校に足が向かなくなったときも、転校しても、別々の大学に進んでからも、彼女が地元から引っ越しても、転職しても。ひとりぼっちになったときも、どんなときも、いろいろな形で寄り添いつづけてくれた。心強い味方でいてくれた。
ゆっくりとまぶたを閉じて、追憶する。
長かった。すごく、長かったな。泣いちゃいそうになるくらい。
わたしは、その恩を彼女に返せているのだろうか。「そんなのいらないよ、キモいから」と笑われそうな気もする。
携帯をしまってまた歩き出そうと、したとき。コートの袖口にふわりと白いものが舞い降りた。
「ほんとに降ってきた」
空を見上げると、境界線の曖昧な雲から、雪が風に吹かれて花びらのように降っている。やわらかい太陽の光で粒がきらめいて、とてもきれいだった。
もしかして、妹の名前ってこれが由来なのかな、いまさら気がついたけれど。冬生まれだし充分ありえる。いつか……妹にきいてみないと。
すれ違った知らない親子がわたしと同じように立ち止まり、空を仰いで雪だねえと楽しそうに話している。子供の格好や持ち物から察するに、保育園からの帰りなのだろう。
雪は数分もしないうちにやみ、うしろではしゃいでいた親子もふたりで『雪のペンキ屋さん』を歌いながら歩道橋から下りていってしまった。いまのってペンキどころか鉛筆書きにも満たないよなー、そういえば白い色鉛筆っていちばん減りが遅かったなー、ていうか地味に歌詞怖いなーなどとくだらないことを考えつつ、わたしも再び、ゆっくりと帰り道をなぞりはじめた。
どこかで聞いたことがある。わたしたちが故人のことを思い出すとき、天国にいる彼らのもとには花が降るらしい。死後世界の信仰の有無はさておき、本当にそうなるなら素敵だと思うし、死者にとってはそれほど嬉しいことなのだという喩えであったとしても、なんだか積極的に思い出してあげたくなる話だなと思う。
さっき見た、あんな風な、きれいな花だといいな。
千嘉のところにも、深幸のところにも、母親のところにも、顔も知らないおじいちゃんやおばあちゃんのところにも、あんなきれいな花が降っていればいい。少なくとも三人くらいは嫌がりそうだけれど、まあ、それが供養というものなのだろう。
きっとこれから何十年、何百回、何千回と彼らに花を降らせながら生きていくにちがいない。わたしは"千花"なのだから。
それならこの名前も悪くないかなと、乾いたアスファルトを踏みしめながら、ようやく思うことができた。
もうすぐ年が明ける。家に着いたら、ずっと後まわしにしつづけていた大掃除の、準備を始めよう。
『Chika』 完
風花:
1.晴天に、花びらが舞うようにちらつく雪。山岳地帯の雪が上昇気流に乗って風下側に落ちてくるもの。
(Weblio辞書より引用)