ダーク・ファンタジー小説
- 『Chika』 ( No.8 )
- 日時: 2020/12/11 22:33
- 名前: 厳島やよい (ID: l/xDenkt)
1.『彼の死』
昔の恋人が自殺したらしい。十二月も半ばの深夜、そんな報せが唐突に、わたしのもとへ舞い込んできた。
片手の指で足りるほど数少ない友人のひとりから送られてきた、短いLINEのメッセージ。それをぼんやりと見つめながら、マグカップに残った冷めかけのコーヒーをちびちびとすする。築三十年、家賃七万のワンルームのアパートで過ごすひとり暮らしの夜は、いつもひどく静かだ。その静けさが気に入ったから、人生で二度目の引っ越しのとき、ここに住もうと決めたわけだけど。
〈一応、早く伝えておいたほうがいいかなと思って〉
ぽん、とふきだしが追加された。
こうして直接、彼女に教えてもらえてよかったと思う。二年前のこともあるし。遅れて純度の低い噂やヒレだらけの伝言ゲームで知るより、よほどいい。それを見越して彼女も教えてくれたのだろう。
〈ねえ春巻〉
〈あんたはさ、いまでもまだ、死にたいって思う?〉
既読をつけるだけで返信しないわたしに、友人が問いかけてくる。春巻、というのはわたしのあだ名だ。名字の読み間違いから転じて彼女からのみそう呼ばれるようになったのだけど、それはまあ、置いておいて。
〈まあ、ときどきほんのりと思うことはあるけど〉
〈もうする気は失せたかな〉
それだけの返事をしてから、携帯電話を机の上に伏せる。
手元のパソコンモニターには、締め切り間近の仕事が途切れたままになっていた。この一・二週間、以前から懇意にしてくださっている有名配信者の動画編集作業に追われつづけているのだ。最近ますます再生回数が伸びてきたようで、月当たりの依頼回数は倍増している。もちろんわたしもべつの仕事をいくつも抱えているので、労働量も膨れ上がっていく一方。正直、死にたいと思う暇がない。全国の自殺志願者を敵に回しそうな発言ではあるが。
有り難いことに、生活に困らないだけの報酬はいただけている。彼との仕事だけに専念する道も見えているものの、将来への不安が勝って一歩を踏み出せない。とはいえ、若い女ひとりの体力ではそろそろ限界を迎えそうだ。どうにでもできるくせに表面上は八方塞がりで、そんな状況をどこかで楽しんでいる自分もいる。我ながら面倒くさい生き物だと思う。
「あぁぁ、ねっ……む」
机に突っ伏しながら見上げた壁時計は、午前一時まえを指していた。このところの睡眠不足が祟って、もともとない気力が一層削がれている。いまはベッドに歩いていくことすらできそうにない。それでも頭の中ではたくさんの情報が行き交っていて、昼間以上に騒がしい。とりあえずこの峠を越えたら、しばらく彼の依頼以外はセーブしよう。あと数日の辛抱だ。
明かりを消すのも億劫なので、ひとまず瞼をおろして、視界を暗くする。
そう、こんなとき。
こんな一瞬に「死にたい」は忍び寄ってこようとする。ずいぶん穏やかでやさしくて、軽くなったけれど、それでも喉の奥が苦しくなる。
────ねえ、おれといっしょに死んでくれる?
あのときの、いまにも泣き出しそうな彼の口許がよみがえる。はっと我にかえってから、寒いさむいユニットバスの洗面所で、息を荒げながらカミソリを握りしめていることに気がついた。何年ぶりだろう、こんなこと。
スウェットをまくりあげた右腕の内側には、古い傷跡がいまだに生々しく並んでいて、じっと見ていると自分でも吐きそうになってくる。よく平気だったよな、あの人は。彼以外の元交際相手たちにはドン引きされた、それどころか本当に目の前で吐かれたこともある代物だというのに。
水滴の跡で濁ったままの鏡の向こうに、薄ら笑いを浮かべるわたしがいた。目元にはクマができていて、持病のせいだなんて言い訳もいいところに肌も荒れていて、髪だって、この多忙で美容室に行けていないせいか伸び放題のぼさぼさだ。母親譲りで顔立ちだけは整っている自覚があるけれど、これはひどい。自分で自分を平手打ちしてから無心で歯を磨き、部屋中の明かりを消して布団に潜り込んだ。
こんな日は、さっさと眠ってしまうほうがいい。夢にまで見るかもしれないけど、余計に仕事がきつくなるかもしれないけど、そのときはそのときだ。
自分の命のほうがよほど大事だから。
あれから二年たった今、そう考えられるようになったくらいには、成長していると思う。
〆
二年前の秋、大学時代からの友人に紹介され出会った彼は、中学の同級生だった。クラスは違ったし、部活や委員会でいっしょになったことももちろん一度だってないけれど、それでも顔を合わせて名乗りあったとき「ああ、あんたか」と同じ表情をしていた。人間の記憶力は意外に侮れない。
コーヒーが大好き。煙草はきらい。インテリアやファッションはシンプルなのが好き。夏より冬が好き。掃除が大きらいだけど綺麗好き。犬派でも猫派でもなく鳥派。どちらかといえば夜型。お酒はそこまで好きじゃないけど、弱くもない。映画やライブは家でひとりで観たい。ときどき趣味で一枚絵を描くこと。読書は好きだけど早く読めなくてすこし苦手なこと。
会話を重ねるごとに、わたしたちにはたくさんの共通点があることを知り、初対面の日からあっというまの二ヶ月が過ぎた。気づいたときには手を繋いで歩くようになっていて、キスまで済ませた。こんなことも互いに初めてではないし、むしろおとなしすぎるほうだと思う。わたしなんて酔った勢いで一線を越えてしまったことが四回(そのうち二回は当時の恋人だが)あるし。けれどまあ、そんな記憶はお互いそっと胸の奥へしまっておくに限る。過去がどうであれ、いま隣にいる人間を大切にできているのだからなんの問題もない。
「下の名前、おんなじだから覚えてたんだ」
最近ふたりで偶然見つけた、駅前の個人経営の居酒屋さんで夕食をとっていたとき。彼が、焼き鳥を頬張るわたしをいとおしそうに眺めながら、そう言った。
「俺、あんま自分の名前好きじゃなくて。でもいまは、ちょっとだけ、よかったかもなって思う」
金曜の夜だからか、まわりの席はほとんど、顔を赤くして笑っている会社帰りのサラリーマンやOLたちで埋まっている。
忙しそうに行き交う、黒いエプロンとバンダナの若い店員たち、奥のテレビから流れている曲に重なるだれかの歌声、アルコールの独特な香り、すこし煙たい空気。いつもより賑やかで、でもわたしたちはいつもどおり静かに、壁際のすみの二人席で話していて。
酔っているわけでもないのにふわふわしてしまう。こんな時間をいっしょに過ごせるだれかが現れるのを、わたしは心のどこかでずっと待っていたのかもしれない。
「ありがとう、チカ」
呟いたのは、どちらだったのか。
店を出たあとは、三度目の、彼の住むマンションへ行くことになった。
- 『Chika』 ( No.9 )
- 日時: 2020/12/12 22:28
- 名前: 厳島やよい (ID: l/xDenkt)
どうしてわたしが"こう"なったのか、ときどき考えてしまうことがある。
小学生の頃、父親が不倫して家を出ていったからかもしれない。そのとき母親に、おまえなんて産まなければよかったと泣き叫びながら言われたからかもしれない。中学の頃、いちばんの友達の片想いしていた人がわたしを好きになってしまって、結果的に絶縁したからかもしれない。高校の頃、好きだった人がある日突然線路に飛び込んだからかもしれない。思い当たることならたくさんあるけど、どれも間接的な理由でしかないなと思った。
塵も積もればなんとやら。けれど、きちんとこまめに掃除をしていれば清潔を保つことができたはずだ。結局は、ホウキすら持とうとしなかった自分の弱さが原因だという答えに着地する。じゃあ、その弱さが作り出されたのはいつなのだろう。……これ以上考えていると、卵が先か鶏が先かというような問いにすり替わりそうなので、思考を打ち切る。
いま、友人と呼べる存在は、五十人ほどいるLINEの友だちの内、三人だけ。成人するまでに自殺しようとしたことは数知れず、そんなわたしの前から姿を消した男の数も二桁を突破している。「もう疲れた」と言われて振られるならまだいいほうだ。
そんなだから。そんなだから、不安で仕方なくなる。諦めて、決めつけるようになる。どうせ自分は捨てられるのだ、みんな自分の前からいなくなってしまうのだと。表面では当たり障りのないみんなが望むような女の子を演じて、そんなわたしに近づいてくる人間だからと、何度も試すような真似をしていた。いまから死ぬと真夜中に電話をかけたり、血だらけになった腕の写真を送りつけたり。まさしく黒歴史だ。真っ黒な負のスパイラル。
「でも春巻きって、仕事だけはできるからねぇ。それでなんとか生きてけてんだから、運がいいよ」
友人である三人のうちのひとり、普段からよく連絡を取りあっていて遊ぶことも多い、高校の同級生である彼女と旅行にいったとき、けらけら笑いながら言われたのを覚えている。
図星だ。ほんとうに。
相手さえ選べば、仕事に裏切られることはほとんどない。そういう理由で、働きづめているときほど心が安定していた。こなせばこなした分だけ、お金ももらえるわけだし。
でもいまは違った。決して忙しいわけではないのに、形のあるものをもらっているわけでもないのに、穏やかに毎日を過ごすことができている。自傷の回数も格段に減った。
「このまま泊まってく? 俺は明日休みだし、そこは気にしないでいいよ」
九時から放送している数年前の邦画を垂れ流しつつ、隣のダイニングキッチンで冷蔵庫に頭を突っ込んでいる彼がたずねてくる。
「どーしよっかなー」
いままでの自分なら、答えは一択だっただろう。でも、帰ってゆっくり本を読みながら寝落ちるのもいいし、なにもせずに時間を浪費するのもありだな。……ふつうの人たちは、これまでこんな風に考えて生きていたのか、いまさら知った。なんという贅沢。
麦茶を注いで持ってきてくれた彼が視線でキスをせがんでくるので、
「しょーがにゃーねー」
右頬、左頬、唇にしてあげた。子犬みたいにかわいらしく喜ぶものだから、おでこにも一回。これ以上はとめどがなくなるので自重する。
「あらっ、もうおしまい?」
「今夜は泊まってくから、あとでね」
「よっしゃあああ」
高校生か。喉元まで出かかった言葉は抑えた。
テレビの中では、CMが明けて映画の本編が再開している。風邪を引いて熱に浮かされている男性が「もも、くいたい」などと主人公の女性にメールして困惑させていた。番組情報を見てみると、昔読んでいた漫画の実写化作品のようだ。こんなシーンあったっけ。
大きなソファに座って、布張りの生地を足先でなぞりながら、わたしも桃食べたいなーとか考えて麦茶を飲みつつ映画をみていると、横から些か遠慮がちに抱きしめられた。画面ではせっかく自宅へ見舞いに来てくれた主人公に対し、泥棒でも見たかのように男性が大声をあげているところだった。わたしはなぜか耳たぶをかじられた。くすぐったい。
「これ観たいの、あとにして」
「途中からじゃ内容わかんないでしょ。こんどビデオ借りてくればいいじゃん」
「やですー」
リモコンを手に取って音量を上げようとしたら、こんどは首筋に歯を立てられた。これは地味に痛い。
「どうしたの、痛いよ」
昔、怪我をしてしまうほど強く首を噛まれたことがある。だから大して引きもしないけれど、そいつが異常に独占欲の強い男だったことを思い出して、身構えてしまった。状況も状況だし。
そんな予想を裏切るように、わたしの腕を軽々と掴んで、耳元で問いかけてきた。
「じゃあ、これは痛くないんだ」
驚くわけでもなく、責めるわけでもなく。ただ確認をとるように。
「……痛くは、ない」
「そう」
「いつから知ってたの?」
「ひみつ」
数秒の沈黙のあと、彼はわたしの頭を何度かなでて、離れた。
*
次の日は朝からつめたい雨が降っていた。まだ六時だというのに、マンションの八階から見下ろす街には色とりどりの傘が咲いて、駅の方角へ向かって進んでいく。
学生時代のアルバイト以来、わたしは通勤というものをしたことがない。仕事の内容によっては依頼主のもとへ足を運ぶこともあるが、それとこれとは訳が違う。千嘉は平日なら、毎日こんなふうに家と会社を往復しているんだろうな。
顔を洗い、次第につよく香りはじめたコーヒーのにおいにつられてリビングへ赴くと、彼がふたり分の朝食を作ってくれているところだった。
「おはよう。よく眠れた?」
「ん、たぶん」
「それはよかった。座ってて、もうできるから」
ぼふ、とソファに腰を下ろす。すでに机に並んでいる平皿には、スクランブルエッグと茹でたウインナー、ミニトマトが控えめに盛り付けられていた。テレビ画面は、民放の報道番組。うしろには、カウンターの向こうに千嘉がいる。
「ん? どしたの」
ソファにのけぞるようにして見ていたわたしの視線に気づき、コーヒーとトーストを運ぶ彼がたずねてきた。
「なんでも」
そんな瞬間がとても幸せだなあと感じてしまって。
「こんどはわたしが作っていい? 朝ごはん」
「お、じゃあ冷蔵庫の中身を整頓しとかないとねー」
「どんだけ散らかってんのよ」
幸せというものに慣れていないわたしには、なんだか辛かった。
「まじでごめんね、ここまででも平気?」
「だいじょうぶ。ありがとう」
ばいばい、と手を振って、歩き出す。角を曲がるまで、一度も振り返ることなく。
夕方、洗濯したきのうの服に着替えてから、車で地元の駅前に送ってもらった。ほんとうはアパートまでの予定だったのだけど、上司から急な呼び出しがかかったそうで、やむをえずといったところだ。スーパーで買い物を終えた頃には雨もすっかり上がり、アスファルトのところどころにできた水たまりを避けながら三十分、いっぱいになった袋を提げてのんびり歩いた。
まだ五時前だというのに暗い街中を見回していたら、なんだか心細くなってきた。首都圏内ではあるが、この地域も都内からみればじゅうぶん田舎と称されるにふさわしい。道中の児童公園にも図書館の周囲にも人気はなく、気温もぐんぐんと下がっていく。一瞬だけ、千嘉に電話をかけようかと考えがよぎったものの振りきり、すこしでも明るい場所に出ようと歩道橋をわたった。
いままでのわたしなら、きっと迷わず彼に連絡していた。けれどもう、二十四歳なのだ。いつまでも他人に依存しているわけにはいかない。いい加減、自分の足で立って生きていかなくちゃいけない。怖くても苦しくても、死にたくなっても、これからはもうひとりで乗り越えなきゃいけない。少しずつ、すこしずつ。
歩道橋のうえから望む澄んだ西の空には、地平線近くに、ほのかに夕焼けの名残がひろがっていた。がんばろう。自分にも聞こえないくらい、ちいさな声で厚いマフラーの中に呟く。そうしてふたたび歩き始め、階段を下りようとした、そのとき。
とんっ、と。背中を押される感覚があって。
「……っ、え?」
理解が追いつく間もなく、わたしは、階段を転げ落ちていった。
犯人は、
はんにんは、
ねえ、どうして。
- 『Chika』 ( No.10 )
- 日時: 2020/12/13 20:54
- 名前: 厳島やよい (ID: gK3tU2qa)
2.『彼女の祈り』
「おねえちゃん!」
次の日の夕方、病院から帰ってきてポストに詰まったチラシや手紙を取り除いていると、うしろから妙になつかしい声で呼びかけられた。
「あーら、六年ぶりのいもーとちゃんじゃない」
振り向けば、ずいぶん背の伸びた妹が立っていた。わたしとは似ても似つかない明るい茶髪を高く結って、わたしよりも大人びた服装で。記憶の中の、ぼんやりとした彼女の印象とは相違点が多い。
五つ年下だから、浪人でもしていない限りはもう大学生か。
「大丈夫だったの? 歩道橋から落ちたんでしょう」
妹は、わたしの髪をそっとかき上げて、まだガーゼの貼りつけてある額を見つめてきた。電車で来たと言うけれど、わざわざ県を跨いでまで駆けつけてくれただなんて、申し訳なくなってくる。
「歩道橋の階段、ね。たいした怪我じゃないよ。一日で退院したし」
外では寒いし、とりあえず部屋にあがってもらって、積もる話に花を咲かせることにした。いちごオレのパウダーが余っていたので、温めた牛乳に溶かして渡したら、めちゃくちゃ喜ばれた。小さい頃から大好物だもんな。
「もう、きょうになってお母さんから聞いたんだよ。なんなのあの人? 信じられない」
「わたしよりいもーとちゃんのほうが可愛いんだもん、当たり前だべ、へっへー」
「おねえちゃん……」
そんなに深刻そうな顔をしないでほしい。事実を述べただけなのだから。
淹れたばかりのホットコーヒーをすすりながら、わたしはあの家での日々を思い返す。
はじまりはいつだっただろう。物心ついたときには、生意気で可愛げのない子だと母親から罵られていたような気がする。わたしが学校でいじめられているのだと知っても、おまえが悪いんだと逆に責められたっけ。それなのに、小学校にあがったばかりの妹が不登校になったときは、全面的に彼女の味方についていた。
妹は、いじめられていたわけでもない。成績が悪かったわけでもない。たくさんの友達に恵まれて、なにひとつ不自由のない生活だったはずなのに、本人も、どうして学校に行けなくなったのかはわからないと言っていた。わたしがひとりぼっちで自殺未遂やリストカットを繰り返していた間、彼女は温かい場所で守られていた。
だからわたしは、あの家が、母親がきらいだ。二度と敷居を跨ぎたくないとすら思う。
なんだか、また切りたくなってきた。さすがに今はしないけど。
「きょうはこれからどうするの? あてがないならうちに泊まっていけばいいよ、狭いけど」
「ううん、もう帰る。お母さんがご飯作って待ってるし、彼氏さんにも悪いし」
「は?」
千嘉のこと、話したっけ。
早々に荷物をまとめはじめる彼女をあっけにとられながら見ていると、玄関のチャイムがなった。
「んじゃね」
流れるようにきれいな動作で、ドアを開けて出ていく。外に立っていたのは千嘉で、どーもどーもーと頭を下げ合ってぶつけそうになりながらふたりが入れ替わった。彼が家に来るのはこれで二度目だ。
こちらから連絡したわけでもされたわけでもないから、抜打ち家庭訪問みたいなものになってしまったけれど、とりあえず彼には上がってもらうことにして、お湯を沸かすのと妹の使っていたマグカップを洗うためにキッチンに立った。
「おねえちゃん」
その後ろ姿を、ドアを押さえてずっと見ていたらしい彼女が控えめな声でわたしを呼ぶ。
「無事でよかった。それと、いちごオレ好きなの、覚えててくれてうれしかったよ」
ありがとう。
最後に言い残して妹はアパートから去っていった。これまでの人生、一度もひとから悪意を向けられたことなんてないような、きれいな笑顔で。
ざあああ、ざあああ、と、指先とシンクをつたう水流が、ひどく冷たい。
「どうした? 怖い顔して」
隣から、千嘉が不思議そうに覗きこんできた。
「……なんでもないよ」
止まっていた手を無心で動かしながら答える。
妹はなにも悪くないことくらい、百も承知している。この気持ちが嫉妬に由来するものなのだということも自覚している。だけど……だからこそ、なのかもしれない。
わたしは、そんな妹のことが、ほんとうはいちばん大嫌いなのだ。
- 『Chika』 ( No.11 )
- 日時: 2020/12/14 22:20
- 名前: 厳島やよい (ID: l/xDenkt)
「この怪我、どうしたの」
あめ玉みたいにきれいな目が、じっと見つめてくる。
新しく淹れたばかりのコーヒーを手渡したとき、彼が、さっき妹がしたのと同じようにわたしの前髪をかき上げた。妹よりも触れ方が優しかった。
「転んじゃったの、階段で」
「どこの?」
「ここから駅までの途中、通りに歩道橋があるでしょう。その階段」
「……おとといの帰りか」
ぜんぶお見通し、といった感じだった。息をついて、千嘉がコーヒーをすする。
これ以上隠してもしょうがないと思ったので、通行人がすぐに救急車を呼んでくれたらしいことも、一日で退院して帰ってきたばかりなのだということも白状した。
「どうして連絡してくれなかったの」
「大したことじゃないもん」
「大したことだよ。女の子なんだし。もし何センチかずれてたら──」
「ごめんね。もう、大丈夫だから」
すでに、部屋いっぱいにコーヒーの香りが広がっている。
彼の言葉を遮る形になってしまったけれど、この話題はもう切り上げたかった。仕事のメールを確認していいかとたずねると、すこしの沈黙のあと、頷いてくれたのでパソコンを立ち上げる。嘘やごまかしのつもりはなかった。メールのアカウントは携帯と同期させているが、病院ではずっと電源を切っていたし、帰りのバスでも二件しか返信できていない。ただでさえ仕事が滞っているし、これ以上のんびりしているわけにはいかないのだ。
スケジュール帳や添付ファイルなんかとにらみ合いながら、それぞれの返事をぱちぱちと打ち込んでいると、後ろのベッドに腰かけている千嘉がきいてきた。
「だれかに、突き落とされた?」
思わず一瞬、手が止まる。あのとき気を失う直前、見えた顔。間違いでなければ、あれは。
「ううん」
うまく、笑えているだろうか。声が震えないよう、しずかに深呼吸して、わたしは嘘をついた。自分の足で歩けるように。彼に依存しないで生きるための、第一歩として。
「わたしの不注意だよ」
◎
あたしのおねえちゃんは、高校に上がると同時に家を出ていってから、お母さんにはいないものとして扱われている。
小さな頃から予兆はあった。まだお父さんが家にいた頃、つまりあたしのいちばん古い記憶の中で、すでに姉妹間での差別は始まっていたのだ。具体的な内容を思い出そうとすると、頭痛と共に吐き気まで催しそうになるので記憶の再生を中断する。きっとあたしに耐性がないだけで、ほかのひとから見れば大したことではないのかもしれない。
お母さんはおねえちゃんのことを嫌っていたけれど、あたしはおねえちゃんのことが大好きだった。もちろんいまでも好きだ。理由なんてないし、いらないと思う。
「いもーとちゃんはいい子だね、わたしと違って」
よく、そう言って頭をなでられたっけ。髪を通る、やさしい指の感触が大好きで、昔はずいぶん短めに切っていた。
実家の最寄り駅で電車を降り、駐輪場にとめていた自転車にまたがって、家路を急いだ。もうすぐ晩ごはんの時間だから。お母さんは、あんまり長くひとりぼっちだと泣いてしまうから。
もうあたりは真っ暗だった。この町も一応は県庁所在地にあるくせに、はじっこの区だとか場所が悪いこととかを差し引いても、街灯や人通りのほとんどない辺鄙な地域だ。花見の名所としてそこそこ有名らしいけど、当然ライトアップなんかしないし、そもそもいまは冬だし。ぶぅううん、と音を鳴らしながら前方を照らす、自転車の灯り以外に頼れるものはない。
おねえちゃんが中学に上がった頃から、家の中はわかりやすく荒れ始めた。死ねだの殺すだのと物騒な言葉が飛び交って、物が落ちる音や壊れる音が、リビングやおねえちゃんの部屋からよく聞こえてくるようになった。そんな時間は自分の部屋にこもるようにしていたこともあって、あたしに悪意の矛先が向けられることは決してなかったけれど、毎日毎晩、とても怖かったのをよく覚えている。学校ではそんなこと、だれにも言えなくて、なんでだか、いちばんの友達にも打ち明けられなくて。
それ以外に悩みはなかった。衣食住に不自由はない。実家は決して貧乏ではないし、むしろ贅沢をさせてもらっていたほうだと思う。あたしを友達だと言ってくれる子はたくさんいて、勉強や運動も楽しくて、先生やお母さんはたくさん褒めてくれる。あたしにはたくさんの才能があるんだって、言ってくれる。幸い、性格が歪むような出来事も起こらなかった。
自分で言うのもおかしいけれど、あたしは恵まれている子だ。だから、周囲からの印象や期待にふさわしい子どもであるように、振る舞っていた。
そうしていたら、だれにも助けを求められなくなってしまったのだ。
家にも学校にも、居場所がないように思えて孤独だった。
あれから約十年。ようやく、ぼんやりとだけれど、自分が不登校児となるに至った理由がわかった気がする。
「ごめんね、みんな」
自分がなにか傷つけるようなことをしたせいなんじゃないかと泣いていた、けいちゃん、りょうすけくん、しんくん、のぞみちゃん。
なんども家にあたしの様子を見に来てくれた、あいこ先生。武内先生。湯島先生。
家にとじこもっていた間、あたしの好きなものばかり作ってくれた、お母さん。
こっそりメールをくれて、久々に会いにきてくれた、お父さん。
ほんとはこんなあたしのことが好きじゃない、おねえちゃん。
…………あたしが、生まれてこなければ。みんなを不用意に傷つけたり、不幸にしたりせずに済んだのかもしれない。
おねえちゃんをあんなに苦しめることも、なかったのかもしれない。
「ごめんね」
罪悪感なんて、きっと一生消えない。背負って生きていくしかない。これまでたくさんの人を悲しませた分、たくさんの幸せを食べて不幸を吐いて生きてきた分、たくさんの幸せをひとに与えなくちゃいけないんだと思う。だから死にたいとは考えないようにしている。いまはただ、一生懸命に生きて、まず大人になることが目標だ。だれかを安心させられる、だれかの居場所になれるような大人に。
家の近所の古い神社に着いたので、歩道のわきに自転車をとめて鳥居をくぐった。家から出掛けるとき、帰ってくるとき、あたしはここで必ず挨拶をする。だれに言われたわけでもなく、昔からずっと続けてきたことだ。お隣さんとはずいぶん離れているから、近所迷惑になるということはたぶんないのだろうけど、控えめに鐘を鳴らして手を合わせた。
きょうを、何事もなく過ごすことができました。姉は無事でした。
あしたも、穏やかに過ごせますように。
おねえちゃんが、彼氏さんと仲良くやっていけますように。おねえちゃんが、神様に守られますように。
最近、あたしはこの家の、家族の秘密を知ってしまった。幼い頃から胸のどこかにあった、ささくれくらいの小さな違和感の正体がそこにあったのだ。
そうならないように、あの人はこれまで、必死で隠してくれていたんだろうなと思う。あのときの選択の結果に結び付いたのかもしれないと思う。あたしたちを大切に思ってくれていたから黙っていたのだろうに、あたしはあの人の愛情を粉々に打ち砕くようなことをしてしまったのだ。どんなに小さなささくれでも、無理に千切れば痛いし、血が出ることだってある。
悔やんでも、悔やみきれない。だから、彼女が自身の意思で知ることになるまで、わたしはこの秘密を墓場まで持っていく覚悟でいることにする。
………………。
…………。
……。
閉じていたまぶたを開いたとき、かすかに足音が聞こえた気がして。
振り向こうとした瞬間、頭になにか、とても重たいものが落ちてきた。
目の前に大きく火花が散る。その場に立っていることすら難しくなって、視界がぐわぁんと傾いていった。何秒か、それとも何分も気を失っていたのか。意識を取り戻した瞬間に、溢れんばかりの不快感が身体中に襲ってきた。
痛い。
熱い。
なに、これ。だれ、いつ、から? う、
「、あ、あああ阿ェアアアtっっ!」
痛みのあまり、奇声とともに釣り上げられた魚みたいにのたうち回ることしかできなかった。それすらきちんと出来ていたかどうかあやふやだ。
なんで?
なんで、こんな。
ぼやけてくる視界に、人影が映った。レンガみたいなものを持っているし、あたしを殴った張本人だろう。暗いから表情は見えなかったけれど、笑っているなとわかった。
その人が、あたしの顔めがけてレンガを振り上げる。いよいよ殺される、そう思っても、両腕で気持ち程度にかばうことしかできない。
大きな衝撃と、痛みがふたたびやってきて、ぐしゃ、と音が聞こえたような気がした。
それからのことは、なにもおぼえていない。
◎
- 『Chika』 ( No.12 )
- 日時: 2020/12/16 23:24
- 名前: 厳島やよい (ID: l/xDenkt)
3.『-1』
千嘉が帰ってからひとりで夕食を済ませたあと、さっそくヘッドホンを当てて机に向かった。金曜日の午後、ちょうどきりの良いところでやめていた作業にとりかかる。
依頼主にほとんどこだわりがないので、いつも通りの要望に従い、指先に染みついた作業を繰り返していく。時間だけはかかるが、この人の仕事は大変と感じない。
面倒で投げ出したくなるのは(もちろん、そんな感情はおくびにも出さないが)、最初の打ち合わせや確認をいい加減に済ませたりそもそも放棄したりするような、ごく一部の新規依頼者との取引である。彼らの要望通りに仕上げて納品したあとで、これが違うあれを直せなどと大量の修正を命じてくるのでさすがに参ってしまうのだ。大抵値切ってくるし。もう、全身が痒くなってくる。
こんなことを思えるだけわたしの運がよすぎで、現実は、もっと大きな社会ではそんな相手ばかりなのだろう。わたしの性格や生活習慣のせいか、会社勤めの知人には遠回しに嫌みを言われたり羨ましがられることも多々あるけれど、どうかそんな目で見ないでほしい。わたしも色眼鏡はかけないから。
仕事でも家庭でもプライベートな人間関係でも、だれだって苦労を抱えているのは同じだ。それを理由に自分を鼓舞するのは大変結構。でも、ひとに同じ苦労を強要したり、求めたりしちゃいけない。
この世界に生きるわたしたちは、もっともっと、楽をしていいと思う。いやなことはいやと言っていいと思う。どう頑張ってもできないことはできないのだし、辛いものは辛い。
指を鳴らした瞬間に一変してくれるほど、世界は単純じゃないけど。
薄くて軽い「今よりきっと少しはマシ」を何年も何十年も、何百年もかけて、ミルフィーユみたいにたくさん積み重ねていくしかないのだ。わたしも生涯で、一枚でもいいから重ねることに貢献できればいいなと思う。……思いながら、この数年で、自身の考え方がずいぶん確立してきたことに気がついた。自分でも気がつかないうちに、わたしはわたしの「今よりきっと少しはマシ」を積み重ねてこられたのかもしれない。
何か月後か、何年後かはわからないけど。わたしは、きっと変われる。そう信じてみたい。
*
それから数日がすぎて、溜まっていた仕事もすこしは目処が立ってきた。時計は何度目かの深夜二時前を指している。空はこんなに暗いし風も冷たいし月もたぶん出ていないからだいぶ眠い。
昔から、ものごとに熱中している間はほかのことが見えなくなるたちなのだ。はじめのうちは気づけば夜が明けていたなんてザラだったっけ。
椅子から立ち上がって、脚がつらない程度に伸びて伸びて伸びまくった。さすがにもう寝よう。台所で軽くうがいをしてから、ベッドに向かって一直線、飛び込んでやるぞーと意気込んだのと同時に携帯の通知音が耳に突き刺さってきた。
〈きみと話をしたいな〉
〈明後日の夜とかどう?〉
LINEにメッセージが送られてきた。
わたしを突き落とした、犯人から。
少しだけ考えてから、まあ、あさってならと、返事を打ち込む。
〈いいよ。どこで落ち合う?〉
〈当日電話する〉
〈大丈夫、きみのアパートからそれほど遠くはない〉
〈わかった〉
既読がついて、やりとりはそこで途絶えた。わたしも部屋の明かりを消し、今度こそ布団に潜り込んで、目を閉じる。シーツの冷たさを感じるのはほんの一瞬で、すぐに体が温まってきた。
とくに何か言われたわけでもないが、ひとりで行こうと思った。だれにも迷惑をかけたくなかったから。
約束の日の晩、わたしが呼び出されたのは、市内の片隅にある古い神社だった。遠くの控えめな街灯が照らし出す境内のど真ん中で、その人は大の字になって寝転がっている。
「隙しかないね。今度はわたしが刺してあげようか」
わたしの声で、彼女はゆっくり、ゆっくりと起き上がった。
「やれるもんならやってみろよ、ばぁあか」
少年のような声が、間延びして響いてくる。
おそらく紺色のデニムに、黒いコート、その下に着ている黒いパーカーのフードを深く被りマスクまでつけていて、よほど目立ちたくないんだなあと感心してしまった。むしろ風景から浮いているけど。階段から突き落としてきたときも、同じ格好をしていたもんねえ。
二ヶ月前、千嘉を紹介してくれた大学時代の同期生、真幌深幸ちゃん。
「へえ、一人できたんだ」
深幸は辺りを見回し、こちらに近づいてきながらフードとマスクを外した。けっこう髪が長かったはずなのだけど、幼い頃のわたしの妹と同じくらいに、いや、それ以上ばっさりと切り落としている。
わたしよりも少し背の低い彼女を見つめていたら、その髪型と雰囲気に妙な既視感をおぼえた。いつ、どこで見たのだろう。頭の中の引出しをひっくり返して思い出そうとしてみても、合致する記憶がなかなかみつからない。
「……ねぇ、だい「だれがひとりだって?」
「え」
彼女自身に直接訊いてしまおうかと思ったそのとき、うしろから千嘉の声が聞こえてきた。深幸も大きく目を見開いて、歩を止める。彼女はなぜだかとても怒っているように思えた。
「どうせ俺には何も言ってくんないだろうから、つけてきた」
「は? しねすとーかー」
「この子じゃなくて、おまえが言うの? 面白いねえ」
わたしの隣まで歩いてきた千嘉も、彼女以上に怒っている。暗闇で表情はよく見えないけど、そう感じた。たぶん勘づかれている、深幸がわたしを突き落としたことに。
空気が重い。ただでさえ寒くてつらいのによけい早く帰りたくなってくる。だから、わたしからこの状況を動かさないと、と口を開いた。
「深幸。どうしてあんなことしたの?」
- 『Chika』 ( No.13 )
- 日時: 2020/12/18 00:19
- 名前: 厳島やよい (ID: l/xDenkt)
あくまでも、理由をきちんと知りたいだけだった。
心当たりがないなんて言えるほど美しい人生を送ってきたわけじゃない。もしかしたら、どこかで彼女を深く傷つけていたかもしれないから。そうだったなら仕方ない。彼女の思いを、怒りや悲しみを、わたしは受け止めなくちゃいけないと思う。たとえ突き落とされようが、刺されようが。謝って済むなんて考えていない。
「その質問に一言で答えられるくらいの理由なら、わざわざきみを殺そうとなんかしないよ。でもあえて言うなら…………嫉妬? うん、きみの全部が妬ましいよね」
ずい、と目の前まで顔を近づけてきて、深幸が答えた。喜怒哀楽のすべてが混ざりあったような、わたしを見つめる真っ暗な目の奥に、吸い込まれてしまいそうになる。だめだ、この人とは目を合わせちゃいけない。本能がそう警告してくる。
嫉妬。
嫉妬、かあ。
相手の劣等感を煽りやすい自覚はある、昔から。生まれ持ったものならわりと恵まれているし、ひとより色々なことが出来てしまうタイプだし、水面下での努力や苦しみはなるべく表に出さないよう、注意もしている。だから、当然と言えば当然なんだけど。こればかりは、相手自身の心の問題でしかない。
たくさんの人たちを振り回してきた二十四年のうちの数年間、深幸はそんなわたしと繋がり続けていてくれた、大切な友人のひとりだと思っていたんだけどな。そっかー。
「本当は、ずっと千花のことが大嫌いだったよ」
憎悪にまみれた告白なのに、彼女の声があんまりきれいで、背中と腰がぞくぞくした。わたしって声フェチだったのかしら、そんな冗談はさておき。
「だから、死にたがりなきみを呪ってあげる。忘れないでねぇ」
「っ、は?」
彼女はコートの中から取り出した包丁を、
「千花!!」
その光景を、大きく塞ぐように、千嘉が覆い被さってくる。刃先がわたしに向かうと思ったのだろう。優しくて、無謀な人だ。
小さく、切り裂くような音がして、静寂が訪れる。何が起こったのかよくわからなかったが、少し遅れて聞こえてきた深幸の呻き声で、なんとなく予想がついてしまった。
視界が遮断されても、彼女が死へと向かう音は鮮明に、耳の奥へ流れ込んでくる。死を意味する臭いはかすかにここに溶け出している。そんな状況に、右腕の傷跡がひどく疼いてしまう。気づけば震えが止まらなくなっていた。
怖かった。恐かった。怖かった。こわかった。なにが? 深幸が目の前で死んでいくのが? 自分の中からこんなどす黒いものが溢れてくるのが? なのにひどく冷めている自分を千嘉に見られてしまうのが?
笑えてくる。
わたしは、きっと変われるんだと思っていた。でもそれは、こんな気持ちに蓋をしていたからなんだ。
積み上げてきていたものは、蓋でしかない。わたしの根本的な部分は、何も変わっちゃいないんだ。
千嘉は、嫌いだった自分の名前がわたしのおかげで好きになれたとかって言ってくれたっけ。たしか妹も、花束みたいできれいだって言ってくれた。でもわたしは、今でもあんまり好きじゃない。この名前が。
お母さんは、生まれたばかりのわたしを見ながら、何を思ってこんな名前をつけたのかなあ。
こんなクズみたいな、生きている価値も無いような人間に育っちゃったよ、ねえ。あっはっはっ。
「……千花?」
深幸の声がしなくなってから、どのくらい経っただろう。
わたしを庇ってくれていた千嘉から離れて、地面に転がっている死体を見下ろした。しゃがんでみると、血の臭いがより濃く感じられる。冬なのに。冬だから、かな。
「うらやましい」
千嘉には聞こえないように、その耳元でそっとささやく。
「わたしも、今の深幸くらいに自己中になれたらよかった」
中学生のとき。そうしたら、きっと一思いに、前向きに死ぬことができていただろう。いまみたいな後ろ向きな気持ちじゃなく。
乱れた髪の奥で、彼女が笑ったように見えたのは、気のせいだったかもしれない。
たった三人の友人が、ひとり、いなくなってしまった。
「かえろっか、千嘉」
- 『Chika』 ( No.14 )
- 日時: 2021/03/18 12:55
- 名前: 厳島やよい (ID: l/xDenkt)
- 参照: https://www.kakiko.info/upload_bbs/index.php?mode=article&id=6580&page=1
4.『愛の部品』
※
はじまりはいつだっただろう。中学二年生になった頃かな。同じ組の、雨宮千嘉という男の子のことが気になりだしたのは。
わたしは彼のことをあんまり知らない。陸上部のレギュラーで、生徒会の会計で、好きな給食のメニューは揚げパンとカレーライス、コーヒー牛乳で、いつも成績がいいけどじつは暗記科目が苦手で、ちょっと歳の離れた弟さんがいることくらいしか知らない。話したこともほとんどないと思う。
いつだったか、小学生の頃からの親友が「話したこともないくせに、相手のことを何も知らないくせに好きになるなんて、信じられない」と言っていたのを思い出したので、となりの班にいる彼女には秘密にしていた。
わたしは人付き合いがとても苦手で、友人と呼べる存在もいまのところ彼女しかいなかった。二学期になってもクラスメートの名前が曖昧だし、校則の強制入部でしかたなく選んだ美術部からも、いつのまにか足が遠退いている。
冬のほのかに暖かい日差しに当たりながら、まどろんでいるような。灰色がかってぼんやりとした毎日だ。
三年ほど前、つまり小学五年生の頃に母に捨てられた父とわたしは、あの人の出ていったマンションで二人暮らしをしている。父は離婚後しばらく仕事ばかりの毎日で、最後に会話をしたのがいつか覚えていないほどだったのだけど、去年の秋ごろ、珍しく連れていってもらったファミリーレストランで、知らない女の人を紹介された。
初対面ゆえにきちんとしてくれているのだろうという点を差し引いても、母とはまったく異なる系統の出で立ちで、歳も母より一回り近く下に見えた。ゆくゆくは父の新しい妻になると、彼は言う。
ふざけるなと思った。
母がいなくなって、すこしは大変だったけれど平穏な日々を手に入れることができた。勉強と部活を頑張りながら、父の分まで家のこともして、ふたりだけの静かな生活を作り上げてきて。いきなりそこに部外者がやってきて「あなたと家族になりたい」?
わたしが寝不足になりながらも、このちいさなちいさな世界を守り続けてきた間、父は仕事と言いながらこいつと何をしていたんだろう。考えるだけで胃液がせり上がってくる。運ばれてきた大好きなドリアも当然喉を通らず、わたしは当たり障りのない笑顔と言葉を使い、すぐにひとりで帰った。
それから半年後。こどものわたしに拒否権なんてあるはずもなく、ふたりはめでたく入籍する運びとなった。義母は当然のようにわたしたちのマンションの一室に移り住み、以前は母と父の寝室だったそこに、新しく彼女の荷物が運び込まれた。
わたしよりも下手くそな料理を食卓に並べ、父と楽しそうに話しこんでいる姿を見ていたら、心の奥底がひどく冷えてきて、喉がつまって、家の中ではだれとも話せなくなってしまった。けれどもまあ、学校ですらほとんど他人とは話さないし、とくに困ることもない。
「ねえ、真幌も英徳が志望校なの?」
二年生になってしばらくした頃、何度目かの校内模試のあとで雨宮くんが話しかけてきた。十月にしてはだいぶ寒い、体育の、ソフトボールのとき。久々の男女合同授業だ。
わたしは珍しく生理が重くて、貧血ぎみだったので保健室前でカイロ片手に見学していた。雨宮くんも風邪気味だからと、わたしの隣で地面に座って、クラスメートたちの試合を眺めていた。はじめてきちんと会話をした、しかも二人きりの場面だったと思う。
「う、うん。併願だけど。あと二つは滑り止め、用意しとくつもり」
「そっかー、もうそこまで考えてんのか。すげえな」
「そんなことないよ。部活なんてほとんど行ってないし、委員会とかも入ってないもん。もしかして、雨宮くんも英徳?」
「そうだよ。母親に言われるがままって感じだけど、点数的にもこのまま成績を維持すればいいだけだし、べつにいいかなって。ちょー惰性ですよ」
「こども想いのお母さんだね」
「そうか? ちょっと点落ちるだけでマジギレすんだぜ」
笑った勢いで咳きこんでしまっている。本当は家で寝ているほうがいいのだろうに、内申に響くからと休めない、もしくは休ませてもらえないのだろう。
わたしは、大丈夫? と訊かれることも、訊くことも苦手だ。大丈夫、と返されることを前提とした、最終的にはそうとしか答えさせない意図の透けた質問なのが大嫌いで。だから、苦しむ彼を黙って見ていることしかできない。
「風邪ひいたのも、自己管理がなってないってさ。こっちは毎晩遅くまで机に向かって、朝から部活もやって、生徒会の仕事までやってんのに。管理する暇がねえっつーの」
「あんまりしゃべんないほうがいいよ。喉痛めちゃうから」
「……真幌は優しいな」
ばこん、と、ボールの打つ音が響いた。うちのクラスがヒットを打ったらしい。
わたしたちも、黙って、球の行方とランナーたちを目で追った。
セーフ。一塁を踏んで息を切らしている男子生徒が、こちらに向かって叫んでくる。
「千嘉ァア、打ったぞー! 見てたかこのヤロー!」
そんな彼の姿に、みんなくすくすと笑っている。雨宮くんも手を振って応えてあげていた。
自分でも、ちゃんとは、わからないけど。そうだ、あのときからわたしは。
- 『Chika』 ( No.15 )
- 日時: 2020/12/19 21:33
- 名前: 厳島やよい (ID: l/xDenkt)
相変わらず部活はさぼりがちだったものの、父に頼んで塾に通い始めると、肌に合っていたのかぐんと成績が上がった。その後の入試でも無事合格することができ、わたしは晴れて第一志望校に進学することが決まったのである。
卒業間近のころ、雨宮くんも英徳に受かったと本人から知らされた。本当は県内一の公立が本命だったのだけど、落ちてしまったらしい。それを聞いて、英徳に受かったくらいで大喜びしていた自分が恥ずかしくなったけれど、雨宮くんと同じ高校に通えることのほうがずっと嬉しかった。しかしその後、高校ではクラスが離れ、これまでのようには話せなくなってしまった。彼もわたしのことなんて早々に忘れてしまったと思う。
幸いわたしにも新しく友人ができて、放課後にはアルバイトなんかもするようになった。
それでも。わたしは、ずっと密かに雨宮くんに憧れつづけていた。
何人か、彼の恋人が入れかわり続けていた間もずっと。
「あ、もしかして真幌?」
「そうだよ。久しぶり」
だから彼と同じ大学に進学して、同じサークルに入った。
それからも、ずっと。また新しい女の子とくっついては離れていくのを傍らで見ていた。
彼女らのうちのひとりと、短い間だけれど交際していたことがある。そのとき、どうして雨宮くんと別れたのか訊いて、その理由に愕然としてしまった。
そういうのって、小説や映画の中だけでの出来事だと思っていたから。
「ああいうの、メンヘラっつーの? もうドン引きだよ。ちょっとは好きだったんだけどなー」
独り暮らしのワンルームマンション。わたしの部屋で、徒歩三分のコンビニで買ってきた発泡酒を呷る彼女がぼやく。その膝に寝転んで、絡めたきれいな手指に無意識に歯を立てながら、思ってしまった。
うらやましいなと。そして少しだけ、怖いなとも。
どっちが、だろうな。
「深幸はそんなこと言わないっしょ?」
「……言わないよ」
その頃には既に、千花とも知り合いになっていた。
千花は、わたしとは縁遠い人間に見えて、じつはわたしにだいぶ近いタイプの子だった。ただの知り合い程度だった間柄が、どうしてこんなに変化したのかはあまりよく覚えていない。たぶん共通の知人たちで飲みに行ったとか、そういうきっかけからだろう。
小学生の頃に父親が家を出ていき、それから母親ともうまくいかず、高校進学と同時に独り暮らしをはじめたらしい。本当は他人と関わるのも苦手なのだと言っていた。彼女の場合、それより寂しさや依存心が大きく勝ってしまって、相手をとっかえひっかえする羽目になっているのだけど。体力のある人だなと思う。
それから何度か、夜中に自殺をほのめかすような電話を掛けられることがあった。あくまでもフラットに相手をしつづけていたので、幸か不幸か、わたしの立ち位置はずっと据え置きだった。大抵の人間はそこで嫌気がさして付き合いをやめるらしいから、わたしはよほどの変わり者なのかもしれない。
月に一度は会って、サティなんかで一日中ふらふらと遊んで、ご飯でも食べてからなんとなく解散する。そんな軽い付き合いだ。大人しそうに見えて男遊びの激しい(個人的な感想だ)彼女の愚痴を聞かされつづけても、ふとした瞬間に夥しいアームカットの痕を見てしまっても、時折ひどく荒くなる気性を目の前にしても、わたしは特になんとも思わなかった。だれにでも裏の顔があるのは当然だから。
わたしにだってある。
こどもの頃から漠然と死にたいなと考えているし、基本的に他人に興味がない。人間らしく振る舞おうと頑張っているけど、本当は世界のことなんかどうだっていい。現実ならまあともかく、物語の中で人や犬が死んだくらいで泣く奴も正直めちゃくちゃキモいと思う。嫌いだ。
自分がとても恵まれている人間なくせに、その自覚もなく、悲劇のヒロインぶる奴も大嫌い。
だからわたしは、自身のことはもちろん、そんなわたしによく似た千花のことも大嫌い。
ならばどうして彼女から離れないのかと問われそうなものだが、べつに、嫌いな奴と仲良くしちゃいけないなんて決まりはないし、目的を達成するためにそうしているだけなのだし。だから、それから五年弱、わたしは千花を好きな振りをつづけた。雨宮くんへの想いも封じ込めて。
そして、二十四歳の秋。中学も大学も同じだったのに、互いを認識すらしていなかった千花と千嘉を、引き合わせた。わたしといっしょに、死にたがりなみんなで地獄に落ちてもらうために。
彼の願いを、わたしなら叶えてあげられるのに、彼はわたしを選んではくれなかったから。
嫉妬みたいな、復讐みたいな、痴情みたいな。
ぎりぎり死なない程度に千花に怪我をさせて、ふたりを絶望に突き落としてやるつもりだった。なのに、一回目、あっさりと失敗して。二回目、千嘉があいつをつけてきて、身を呈してまで庇おうとして。
ナイフが彼を切り裂いたとき、めちゃくちゃ後悔した。死にたくなった。
だから、わたしは。
人は死ぬとき、聴覚だけが最後の最後まで残るらしいと、どこかできいたことがある。
「うらやましい」
小さなちいさな声が、聞こえた気がした。幻聴だったのかもしれない。
「わたしも、今の深幸くらいに自己中になれたらよかった」
雨宮くんに告白する勇気もなかったくせにね。
自分でも思うよ。わたしってちょー身勝手な奴だったなあって。
※
- 『Chika』 ( No.16 )
- 日時: 2020/12/20 22:12
- 名前: 厳島やよい (ID: l/xDenkt)
「千嘉、気づいてたんじゃない?」
「何に」
帰り道、電車に揺られている間はお互いにずっと黙っていたけれど、最寄り駅からわたしのアパートに向かって歩き出したら、幾分か空気にゆるみが生じた。どちらともなく手を繋いで、白い息を吐きながらだれもいない夜の住宅街を進んでいく。
わたしたちが、目の前で自殺した女の子の死体を知らんぷりして帰ってきたなんて、だれが想像できるだろうか。千嘉のコートの背中にできた裂け目を見たって、大抵そんな結論には至らないだろう。
「深幸ってさ、中学の頃から千嘉のこと、好きだったんでしょう」
「ああ……そう、だね」
彼は気まずそうに視線を逸らした。べつに浮気を疑ったりなんてしないけど、彼なりの事情だとか思いがあってのこれまでの行動だったのだろうと考えると、少しだけ、彼のきれいな手の甲に爪を立ててしまいたくなるのだ。明日切るつもりだったのでだいぶ伸びている。痛いだろうからやめておいた。
「さっきやっと思い出したの、深幸とも中学が同じだったこと。あの子、三年のとき生徒会で書記をやってたよね。千嘉は会長になってたっけ」
ふたりが話していたとき、やっと思い出したのだ。似たような光景を、当時一度は見たことがあったから。やっぱり人間の記憶力は侮れないなー。
「でもたぶん、そういうんじゃないよ」
「え?」
「恋愛感情としての好き、じゃないと思う」
千嘉はそれから、わたしの部屋に着いてふたり分のコーヒーを淹れるまで、ずっと黙っていた。
「自分で言うのもなんだけど、崇拝されてたんじゃないのかな」
やっと発せられたその言葉が、外でのつづきなのだと理解するのに少々時間を要した。具体的には十三秒。
すー、はい。吸う灰? いや、噎せるか。
「崇拝?」
まあ確かに、色々とできる人ではあるけど。宗教でもあるまいし、そんな言い方って。
わたしの部屋にはテレビが無い。だからかよけいに合間合間の静けさが増幅する。とりあえず、生きて帰ってこられて、よかった……のかなあ。最悪の事態も想定していたので、ちょっぴり力が抜けてしまった。
スボンのポケットに忍ばせていたカッターナイフを、そっとペン立てに戻した。また穏やかな毎日を築きあげていかないと。明日から、また仕事も再開しないと。落ち込めるほど実感も湧かないし。
空になったマグカップをデスクにおいて、千嘉の座るとなり、ソファがわりのベッドに腰をおろした直後だった。一切の無駄なく、軽い力で肩を押されて。視界には、数センチの距離にある千嘉のきれいな無表情と、見慣れた天井だけが収まっていた。
「友達も親も恋人もみんなそうだった。優等生で明るくて優しい"雨宮千嘉"っていう表の顔ばっかり見て、求めて、期待して。それだけならまだ良かったよ。でも、少しでも冷たい"俺"の本性を見せれば勝手に失望して離れていく。中学のときさぁ、真幌だけは違うのかなーって思っちゃったの。でもやっぱそんな訳なかった。わかっちゃうんだよねえ、こいつ俺のこと美化したなとか、嫌な意味で好かれちゃったなとか。自意識過剰かな、それって」
このたった二ヶ月ほどでも、千嘉のことはいろいろと知ってきたつもりだ。
幼い頃から天才肌だけど、高校受験ではじめての挫折を経験したこと。そのとき落ちた高校に、自分より成績の劣るはずの弟が通っていたこと。じつは両親とうまくいっていなかったこと。そんなふたりが、四年前に事故で亡くなっていること。彼はその事故に巻き込まれたものの、なんとか弟と生き残ったこと。そのときの後遺症で、大好きなスポーツが思いきりできなくなったこと。外ではいつも他人に頼られ大きな責任を背負い、期待されつづける彼だって、ただの甘えたがりの、寂しがりの男の子だということ。
千嘉にとってわたしは、たぶん、数少ない──ひょっとしたら初めての──ほかとは違うひとりなのかもしれない。
「簡単に言っていいことじゃないと承知の上で言うけど、わたしにも少しだけわかるよ、その気持ち」
本当は、もっと大きく頷きたい。すごくわかるよ、頑張ってきたんだねと抱き締めたい。彼自身をまるごと肯定したい。でも、全部を知っているわけじゃないから。彼とは違う世界を生きてきたんだから。
重い鎧を着て戦いつづけてきた彼と、早々にそんなものは脱ぎ捨て、拗ねてひねくれて戦うことを放棄したわたしとは、同じわけがないのだから。
千嘉はわたしの耳のそばに顔を埋めて、しばらくじっとしていた。頭や背中をなでてやることくらいしかできない。
「……真幌は、わざわざいまになって俺を千花に引き合わせた。最初からそうするつもりだったのかもしれない。全部、わかってて、こうしたのかも」
そうか。深幸は、わたしなんかよりずっとずっと千嘉のそばにいたんだもんね、中学のときから。
「ねえ、千花は」
ゆっくりと顔を上げてわたしを見つめてくるその表情は、二十四年分の悲しみが滲む、いまにも泣き出してしまいそうな色をしていた。
「おれといっしょに死んでくれる?」
そんな彼を少しだけ、具体的には二秒だけ、見つめてから。
わたしは頷いた。
しあわせ。しあわせ。しあわせ。しあわせ。いたい。くるしい。うれしい。かなしい。しあわせ。うれしい。かなしい。くるしい。くるしい。こわい。こわい。いたいよ、くるしい、こわいこわいいたい、こわい、くるしいこわい、くるしい、こわい、こわい、こわ、れ
- 『Chika』 ( No.17 )
- 日時: 2020/12/22 00:23
- 名前: 厳島やよい (ID: l/xDenkt)
5.『Chika,Good night』
目が覚めたとき、服も着ていないのに汗で背中が濡れていた。隣を探っても、まだ夜は明けていないというのに彼の気配がきれいさっぱり消えている。温もりすら残っていない。
「千嘉?」
急いで部屋着に腕を通し、ジャンパーを引き掴んで外に出た。息を切らしながら、底冷えする寒さの中を駆けていく。まだ始発は出ていないから、タクシーでも拾っていない限りは間に合うかもしれない。
でも、そんな考え以上に。
彼がひとりで消えてしまうんじゃないかと、怖かった。
昨夜、彼の問いかけに対してわたしは頷いたのに。彼に首を絞められたとき、結局逃げてしまったくせに。
千嘉が死んでしまっていたらどうしようと、考えた。それは、自分が死ぬことよりもずっと怖かったのだ。
わたしは千嘉に生きていてほしい。これから先も、わたしに飽きてしまうまでずっといっしょに。寂しい気持ちも、甘えたい気持ちも、死にたい気持ちもぜんぶ、ぜんぶ受け止めるから。それしか、わたしにはできないけれど、それだけならわたしにはできるから。
心に身体が追いつかない。もつれそうになる脚をなんとか止めて、乱れる呼吸をととのえる。そうしていたら、すぐそばの公園のベンチに、求めていた背中を認めた。
「さがしたよ」
まだ星の瞬く空を見上げている。反応があまりに薄いので、わたしのことが見えていないのか、それとも、じつは昨日わたしは死んでしまっていて、幽霊にでもなったんじゃないのかと一瞬本気で疑うほどだった。
隣に同じように座ってみる。少しの間があって、肩に凭れかかってきた。彼のほうが背が高いし、わたしの肩も小さいしで、疲れそうだなとか思ってしまう。彼にとってはどうでもいいことなのだろうけど。
「枕元に置き手紙、してきたのに」
「たぶんどっかに落としちゃった。慌ててたから」
「…………ごめんね」
返事の代わりに、そのやわらかい髪をなでてみた。うちのシャンプーの匂いがする。いつもとは違う匂い。
「今日、お仕事とかある?」
「ないよー、土曜だから」
「ああ、そっか。今日って土曜日か」
「あるあるー」
なんか。
なんか、いつもと違う。匂い以外にも、違和感がある。小さなちいさな、ほんの些細な違和感。
「ねえねえ、千花」
「ん?」
「この前、次は千花が朝ごはん作ってくれるって言ってたでしょう。食べてみたいなあ」
「いいよ。じゃあ帰ろうか」
彼がいつものように手を繋いできたので立ち上がろうとしたら、ひょいと腕を引かれて、またベンチに座らされてしまった。地味にお尻が痛い。がつんってなった。
「もうちょっと、こうしてて」
「そろそろ寒いんですけどー」
「ごめん、我慢してね」
彼の言う「もうちょっと」は、わたしが想像するよりだいぶ短くて、気がついたらアパートに戻ってきていたほどだった。
お米を鍋で炊いている間に、換気をして、洗濯機を回して、歯を磨いて、顔を洗って、味噌汁と卵焼きを作って、納豆を用意して。これだけやってもまだ外は暗い。こんなに早起きして朝食をとるのも半年ぶりくらいなので、変な感じだ。千嘉はなぜかうしろでちょこんと踏み台に座って、猫や犬みたいにわたしの作業を見ているし、なんだか調子が狂ってしまう。
「そこ、寒くない? ていうかわたし見てて楽しい?」
「寒くないし楽しいよ」
「あ、そ」
折り畳みの机と座布団を収納から引っ張り出し、できあがったごはんを盛り付け、キッチンから、寝室兼居間兼仕事部屋であるとなりの部屋まで彼と運んでいった。狭いアパートで申し訳なくなってくる。
「美味しそー! ひとにごはん作ってもらうの、久しぶりだなあ」
とても嬉しそうに箸を手に取る彼を眺めながら、味噌汁をすすった。そういえばわたしも、外食や旅行にいったときなんかはべつとして、ひとの作るごはんを食べたのはここ数年、千嘉の家に泊まった日くらいだったな。
「キャベツって味噌汁に入れても旨いんだね」
「ご飯と味噌汁はまだ残ってるから、足りなかったらおかわりして」
「する!」
「まだ半分も食べてないのに」
あんまり無邪気に言うものだから、つい笑ってしまう。
昨夜深幸が死んだことも、後先考えずに千嘉と心中しようとしていたことも、ぜんぶぜんぶ、夢だったんじゃないかと思う。そのくらいの幸せが、やっぱりまだ辛い。
- 『Chika』 ( No.18 )
- 日時: 2020/12/23 00:05
- 名前: 厳島やよい (ID: l/xDenkt)
早起きをした反動か、その後昼間はふたりで眠ってしまっていた。
本を読んで、デリバリーで昼食を頼んで、ゲームをして。外からかすかに聞こえてくる、鳥や犬の鳴き声に耳をすませながら微睡む。なんとも贅沢な休日だったと思う。
千嘉が今夜は早く寝たいと言うので、夕方には別れることにした。こんどはわたしが駅まで送って、というか勝手についていって、改札前で解散する。バスに揺られる約二十分、名残惜しくてたまらなかったけれど、彼のわたしの手を握る力がいつもより強かったので、夕焼けを眺めながらだまって堪えることにした。どうにもならないことに駄々をこねていても仕方ない。そう考えられるようになっただけ、充分な進歩だろう。
駅前は当然いつもより賑やかで、クリスマスも近いせいか街路樹や建物に点々とイルミネーションなんかが飾りつけられ、空気も浮き立っている。千嘉はそんな周囲をゆっくり見回してから、わたしに向き合った。
「じゃあ、ここで。ありがとう、わざわざ送ってくれて」
「くっついてただけですけどねー」
「それでも嬉しいから……ほかにもたくさん、ありがとう」
「こちらこそ。気をつけて帰ってね」
「うん」
そんなに愛しそうに見つめないでほしい。いやでも溢れるほどに伝わってくるから。
人通りが少なくなった瞬間を見計らい、彼はわたしの額にそっとキスをしてから、改札の向こうに消えていった。
ひとりになると、寒さが肌を刺すように強くなった気がする。いろんな音が大きく聞こえるような気がする。しばらく、具体的には三分くらい、意味もなくぼんやりとその場に立ち尽くしてから、帰りのバスが来るまでケーキ屋さんや雑貨店を見てまわった。そうこうしているうちに、空はすっかり夜の帳を下ろしていた。
家に帰ったら、お風呂を沸かして、その間に軽く床を掃除して、入浴後にはご飯をつくって食べる。食器を洗ってからメールを確認して、少し仕事を進めて、日付が変わる前にはベッドに潜り込んだ。
次の日からはいつも通りの平日だ。朝の七時には起きて、ご飯を炊いて、洗濯機を回して歯を磨いて、顔を洗って、朝食をとって。洗濯物を干したあと、日中は適度な休憩や昼食の時間も挟みつつ、机に向かいつづける。ときどき買い物に出たり病院に行ったりもして、夜になればシャワーを浴びて夕食をとり、余裕があればまた少し作業を進めるか、読書をして日付が変わる前に就寝する。それを何度も繰り返す。二年間で、身体に染みついたわたしの生活習慣。最近意図的に変えた習慣といえば、千嘉に合わせて、自分の休日も週末にずらしたことくらいだろうか。自分が好きでやったこととはいえ、未だに慣れない。これまでの癖でついつい早起きしてしまうこともあるし、ごみ出しの曜日は間違えるし、どこに出かけても混んでいるし。
木曜日の夜。そんなことを考えながらパソコンをシャットダウンして、布団の上に放り投げてあった携帯電話を手に取ったら、友人から一時間前に新着メッセージが来ていた。
〈いろいろ平気? ニュース見たよ〉
…………はて。
〈なんのこと?〉
〈わたしは元気だけど〉
狐や狸や爬虫類その他でも召喚しそうな返事になってしまった。歩くのはわりと好きだ。と、まあそのくらい何のことをおっしゃっているのかわからない。送信先を間違えたんじゃないのか。
〈そっか、あんたテレビ持ってないんだっけ〉
相手もわたしが理解できていないとわかったのだろう。わたしの〈?〉に既読がついてから五分以上経って、ようやくふきだしが追加された。
〈あたしもさっき知ったばっかりなんだけど、春巻のお母さん、真幌深幸に殺されたんだよ〉
〈妹さんも、あの子にやられたんじゃないかって〉
〈え?〉
読み間違いでもしたのかと思った。昔、そういうことがあったから。だから何度も読み返した。彼女が貼り付けてくれたネットニュースのURLも踏んでみた。
残念ながら、読み間違いでも嘘でもなく。
母親は実家のリビングで惨殺されていて、妹は近所の古い神社で頭部を殴打され、意識不明の重体。手を下したという深幸は、当然あのときに死んでいた。
〈連絡、なにも来てない〉
〈とりあえず、諸々のことはお父さんがやっておいてくれるってよ。マスコミとかにつけ回されたら可哀想だからって〉
〈さっき、あたしのところに伝えにきてくれたから〉
〈うちの父が?〉
〈うん〉
〈ありがとう、迷惑かけちゃったね〉
〈そんなの今さらすぎるから笑〉
〈とにかく、しばらくの間は引きこもりに徹するように。なんか困ったことあれば呼べよー〉
ゆるキャラのような白い動物が布団にくるまっている、イラストのスタンプが最後に送られてきて、メッセージは途絶えた。彼女のさりげない優しさが身にしみる。
こちらに越してきたときは家出も同然だったし、当時もう実家にいなかった父も、わたしの連絡先を把握することは難しかったのだろう。父親と、妹の無事(ではないけれど、とりあえず生きていたこと)に胸をなで下ろすと同時に、自分が疑われずに済んだことにも安心してしまった。遅れて冷や汗が噴き出してくる。自己中心的な思考に、自分でもあきれてしまった。
あいつは……深幸は、わたしを死なせるためにここまでしたのか。そんなに死んでほしいなら、もっとはやく、直接殺してくれればよかったのに。そうすれば彼女に何ら関係のないふたりが、危害を加えられることもなかったわけだ。母親のことも妹のことも嫌いだけれど。
深幸に対して抱いているこの感情は、怒りなのだろうか。なんだか、自分自身がよくわからなってくる。
- 『Chika』 ( No.19 )
- 日時: 2020/12/23 21:41
- 名前: 厳島やよい (ID: l/xDenkt)
ひとまず、しばらくは外で会えないかもしれない旨を千嘉に伝えなければと、彼とのトークルームを開こうとしたのだけど。
アイコンの画像は消え、名前の欄も〈メンバーがいません〉の表示に変わっていた。メッセージの最後の表示は三日前、つまりは最後に会った翌日の〈Unknownが退出しました〉。
「え」
これまで何度も見たことのある画面。わたしに愛想を尽かした人たちは、大抵こうやって姿を消していった。
変なスイッチでも入ってしまったみたいに過去のいろいろな記憶がなだれこんできて、背中が冷たくなる。息が詰まる。千嘉とは喧嘩をしたこともなかった、なにか我慢させていた様子もなかった、暴言を吐いたこともなかった、千嘉に八つ当たりしたりいまから死んでやるなんて言いだしたことも一度だってなかった、彼はいつも温かいやわらかい笑顔でわたしを見てくれていて、優しく手を握ってくれて、何度もわたしを抱きしめてくれて、なんでだかそばにいるとすごくすごく安心して、二人きりのときはキスばっかりせがんできて子どもみたいに甘えてきて、そうかと思えばわたしにも思いきり甘えさせてくれて、わたしの好きなものとか嫌いなものとかこんな短い間になぜかたくさん覚えてくれていて、その服すごくかわいい似合ってるとか前髪切ったでしょとか珍しくいつもと違うリップを買って使ったときなんてよくわからないけど雰囲気変わったよね今日もかわいいよとかまじでこっちが恥ずかしくなるくらいに褒め倒してくれるようなもう意味わかんないくらいむちゃくちゃかわいくてかっこよくてできた人でそんなところもいやほかにもたくさん全部ぜんぶ大好きでしょうがなくて。
なのに、そんな、いま、どうして。
祈るように彼へ直接電話をかけても、すでに番号が使われていないと音声案内されるだけだった。
なんでだろう。なんで千嘉までいままでとおんなじようにいなくなっちゃったんだろう。今回は違う、この人のことは失望させたくないってやってきたのに。好きな人でもできたのかな、わたしが嫌なことしちゃってたかな、悩みでもあったのかな…………………………あ。
────枕元に置き手紙、してきたのに
あの日の、ささくれ程度の違和感が示していたものは、このことだったのかもしれない。あの朝、もし彼が、そのまま消えるつもりで家を出ていこうとしていたのなら。携帯のライトで照らしながらベッドの下を覗きこむ。ずいぶん奥のほうに紙が落ちていた。ベッドごと動かしてみようかと試みたものの、想像以上に重くてびくともしない。
ワイパーの棒を使ってなんとか取り出してみると、わたしのデスクの引出しにあるメモ帳を何枚か使った、書き置き、というより、短い手紙だった。わたしが昼寝をしている間にでも書き直したのかもしれない。
〈 晴柀千花様
これを見つけたとき、俺はもう、いなくなっていると思います。死んではいませんが、捜しても見つけられないでしょう。ほかに好きな人ができたとか、嘘をついて別れようかとも考えたんだけど出来ませんでした。突然勝手なことをしてごめんなさい。
千花があの夜、頷いてくれてすごく嬉しかった。いままでそうたずねてきた相手たちは、自分を頭のおかしい奴だと言っていなくなってしまったから。でも千花が、やっぱり死ねない、怖いと言ったとき、それと同じくらい安心もして申し訳なくなった。連れていっちゃだめだと思った。千花を大好きになってしまったからだろうね〉
〈きみには、この世界で、明るい場所で生きていてほしい。生きて、どんなかたちでもいいから幸せになってほしい。俺の死にたいという気持ちに巻き込みたくない。
自分で書きながら、すげー勝手なこと言ってるなって情けなくなってくる。ごめんね。本当に、ごめんなさい。できるだけ早く俺のことは忘れてください。
短い間だったけど、すこし辛くなるくらいに幸せでした。ありがとう。さようなら。 雨宮千嘉 〉
読み終えた瞬間、わたしは友人の言いつけも、終電のことも、捜しても見つけられないという文も忘れて、部屋を飛び出していた。今にも溢れだしそうになる涙をこらえて、ひた走る。また走る。
いまになってやっと思い出した。千嘉と別れたあの日は、日曜日じゃなくて土曜日だったんだ。その話も朝にしていたのに、五日間、勘違いをしていた。たぶん、未だに土日休みに慣れていないことがばれていたんだろうな。その上で、たった一晩の間に決心して、数日でわたしの前からいなくなったのだ。
渦巻く思いは言葉になんてなりそうにもない。もし「そんなの嘘だよ」と彼がいま目の前に現れてくれたとしても、わたしは何も言えないと思う。
電車に揺られながら、とうとうこらえきれずに泣いてしまった。乗客たちの視線は思いきり俯いて無視する。四つ先で降りた駅前でナンパしてきた酔っぱらいの男も、居酒屋の客引きもことごとく無視した。
三回しか行ったことはないけど、マンションの場所なら覚えている。部屋番号だって、教えてもらったエントランスの暗証番号だってちゃんと覚えている。なのに、なのに、何度部屋のチャイムを鳴らしても彼は出てこない。
……いままでの日々は、時間は、ふたりで作り上げてきたものは一体なんだったのだろう。千嘉とだけは、こうなりたくなかったんだけどな。
つんとした静かで冷たい空気が、容赦なく肌に、喉の奥に刺さってくる。
わたしは、長い夢でも見ていたのかもしれない。千嘉や深幸たちと出会ったことも、家出をしたことも、母親が死んだことなんかもすべて妄想で、目が覚めたら、実家で母さんと怒鳴り合っている、あの地獄みたいな日々に逆戻りしているのかも。
そうだ。きっとそうなんだ。そうじゃなきゃ、何なんだよ。
〆
- Re: 祈りの花束【短・中編集】 ( No.20 )
- 日時: 2020/12/25 00:17
- 名前: 厳島やよい (ID: l/xDenkt)
不幸な事件だったと、だれかが言った。
◯
6.『±』
父親が自殺して以来、ひどく不安定になった母親とうまくいかず、彼女は高校卒業後に実家を出た。夜の水商売で稼ぎを得て、ひとり静かに都市部の古いアパートで生活していた。
都会はいい。ひっそりと生きていれば、他人には興味や関心を向けられず、干渉されることもないから。彼女にとって果てしない自由がそこにはあって、幸せな毎日だった。たとえ母親や祖父母が認めないとしても、彼女にとってはそれが正しい暮らしなのだ。
もうだれにも邪魔をされたくない。清潔な家で、好きなときに寝て起きて、好きなものを食べて、買いたい服やアクセサリーや化粧品をたくさん買うのだ。社会の常識やルールさえ守れば、自分のためだけに生きられる。それがすべて叶えられるのが嬉しかった。
……そんな幸せを打ち砕かれる日は、前触れもなく訪れた。仕事からの帰り道に、見知らぬ男にレイプされたのだ。彼女が働く繁華街の、汚い暗い路地裏で。いつか相手をしたことのある客だったのかもしれないが、彼女の記憶の中に、目の前の男と一致するような顔は見当たらない。
叫ぼうとすれば容赦なく殴られた。頑張って伸ばしてきた髪は鋏で切り落とされてしまった。ショックと、酒臭い息がかかってくる不快感で思わず吐いてしまったが、それでも男は粘着質な笑みを浮かべつづけている。そういう性癖なのだろうと思った。
痛い。寒い。気持ち悪い。助けてほしい。でも、もしだれかがやって来たら、その瞬間に殺されてしまうのかもしれないという恐怖もある。だからどうか、だれも気づかないで。ここに来ないで。
やがてひどい無力感に襲われて、彼女は抵抗することも涙を流すこともやめてしまった。頭がぼんやりする。自分の手足ですら、自分のものでないような感覚がした。
男は分厚い携帯電話を開いて、ぼろぼろになった彼女のことを何枚も写真に撮っていく。他言すればネットにばらまくと脅迫されたが、そんなことを言われずともすでに放心状態で、通報する気もだれかに相談する気も失せていた。
いつのまにか家に帰ってきていて、部屋に上がった瞬間、涙が勝手に溢れてとまらない。叫び出してしまいたくて、けれどもただでさえ夜中だからそんなことはできなくて、布団を千切りそうになるくらい強く噛んで堪えていた。
自分は汚れてしまった。
汚ない、汚ない、汚ない汚ない汚ない。
風呂場の鏡に映る身体が何時間洗っても綺麗になってくれなかった。タオルで肌を擦りすぎて痛い。ところどころに血が滲み、お湯も石鹸もひどくしみる。ふと、あの日つけられた下腹部の傷に目が留まって、耐えきれずに鏡を割った。
そんな夜をやり過ごし続けていると、生理がこないことに気がついて。あの日の男以外に心当たりはない。それは、彼女にとってあまりにも重い事実だった。現実から目を背け、ひたすらに部屋で眠り続けた。
それでもだんだんと腹が膨れ、重くなっていく。物理的にも精神的にも、身動きがとれなくなってくる。母親が事故で死んだとしらせに祖母が訪ねてきて、変わり果てた彼女の姿を見たころには、もう後戻りできなくなっていた。長い間祖母に叱られ、泣きわめかれ、叩かれていた気がするが、よく覚えていない。
それからは実家に連れ戻され、祖母に身のまわりの面倒を見てもらっていた。ずっと頭がぼんやりとして、自分が生きていないみたいだった。
途切れとぎれの記憶を渡り歩くと、気がつけば、久々に会う幼馴染みの彼が隣にいて。自分の手を取りながら、祖父母に向かって恥ずかしい台詞を並べ立てていた。
昔、だめな恋人に振り回され落ちぶれていたわたしを本気で叱ってくれて、手をさしのべてくれて。そんな彼の想いを知りながら、酷い態度で踏みにじり、わたしはこの町を離れたのに。それなのに、どうしてだろう。わたしは夢でも見ているのかもしれない。
ついには祖父に実家を追い出され、知らない家で彼といっしょに過ごしていた彼女は真剣にそう思っていた。
隣で眠る赤ん坊の顔が、よく見えない。こいつが自分の子どもだなんて認められない。世話なんかしたくない。自分の体も心もぼろぼろなのに、毎日毎日、昼夜問わず泣き声がうるさくて、頭痛がしてくる。捻り潰したくなる。赤ん坊の顔をきちんと見ようとして忌まわしい記憶がよみがえるたび、彼女は奇声を上げ、赤ん坊や自身を傷つけようとし、宥めてくる彼にも無意識に暴力を振るっていた。
もう、彼女のそばにこの子を置いていてはだめなのかもしれない。彼はそう考え、やはり子どもは彼女の祖父母に託すべきなのではないかと迷い始めたが、ある日を境にぴたりと、彼女が暴れなくなった。
「こいつ、すごくわたしに似てるよ、かぁいいねー」
少々乱暴に小さな体をつつきながら、笑って言う。
ふしぎに思った彼が赤ん坊をよく見ると、生まれたばかりの頃より幾分か顔つきが変わっているように思えた。これまで彼女にとっては父親似に見えていたのだろう。それで取り乱していたのか。
「……きみは美人さんだから、きっとこの子もすごく可愛い女の子に育つね」
「なんかそれもやだなあ」
彼女の笑顔は、あまりに脆く、赤ん坊よりも危うく、触れれば壊れてしまいそうだった。
強く子どもの服を握りしめるのを見て、彼は慌てて、けれど優しく彼女を抱き寄せる。腕の中にやすやすと収まり、そのうち自分に体を預けて眠り始めてしまった彼女を見ていると、重たい、重たい悲しみが込み上げてきて、しょうがなかった。彼女がすべての感情や記憶を手放した無表情で眠っているのが辛かった。
ただ今日まで生きていてくれただけでも嬉しい。こうしてまた出会えたことも奇跡だと思う。でも、彼女に、すこしでもいいから昔のように笑っていてほしい。すこしでもいいから幸せでいてほしい。
どうすればいいだろう。
彼女とこの子から少しでも不幸を遠ざけるためには、どうすればいいだろう。
考えて、考えて、考えて。
彼はひとつの方法しか思いつかなかった。
彼女の不安定さを利用して、つけこみ、内側から彼女の世界を再構築しようとした。
「やっぱりさー、千花は僕に似てるんだよ。パパ似なんじゃない?」
義祖父母の言うとおり、僕もいまの彼女も、やっぱり"ふつうじゃない"のかもしれない。
- 『Chika』 ( No.21 )
- 日時: 2020/12/26 21:58
- 名前: 厳島やよい (ID: l/xDenkt)
難しいようで、簡単だった。はじめのうちは困惑していたが、夢の中に生きているような彼女にとっては、嘘と真実の境界線もそれほど曖昧なのだろう。彼女の中で事実が書き替えられるのに、時間はかからなかった。
時おり、彼女がはげしく錯乱する夜がある。娘が物心ついてからも相変わらず。頭が痛くなるほどの叫び声を聞こうとも、殴られようとも、自分の服に思い切り嘔吐されようとも、耐えた。耐えて、堪えて、彼女の手を離さなかった。
それから数年が過ぎて、千花に妹ができた。生まれた頃から自分にそっくりで、けれども自分とはとても似つかない亜麻色の髪をしていた。母親に似たのだろう。他者の入る余地がないほど、彼女はそんな次女につきっきりになり、千花に対して育児放棄をするようになった。
だから僕が、彼女の代わりに千花のほとんどの面倒を見ていた。とはいえ、以前とほとんど生活に変わりはない。この子の母親だという自覚が著しく欠けているのだろうなと、改めて思う。この子の昼寝している隣で僕を求めるような始末なのだ。さすがに拒むけれど、そうするとあからさまに不機嫌で暴力的になるから辛い。事件の後遺症なのかと思うと、頭ごなしに咎めることもできないし。
そんな毎日がつづいても。いびつな空間にさえ目をつむれば、わりと静かで、平穏な家庭だ。そう言い聞かせて、やり過ごして。
千花が保育園を出る頃には、うちにいるのは長女と次女と、体だけ大きな子どもなのだと、思うようになっていた。
*
手放しで喜ぶつもりはないし、最低限の家事育児はもちろんつづけているけれど、仕事を含め、次女のことで自分の時間を必要以上に削られなくなったというのは嬉しいことだ。
長女も小学校に上がってから、だんだん手がかからなくなってきた。外の世界が楽しくて仕方ないのだろう。
人間というのはつくづく無いものねだりなもので、そんな生活に少し、寂しさも感じていた。だから空いた時間にはひとりで外へ出掛けて、久々の趣味に打ち込んでいたのだ。
色々なことが少しずつ、うまくいきはじめたのだと、いい方向にむいてきたのだと思っていた。でも、彼女の世界は僕の世界と大きくずれていた。見えるもの、感じるものがあまりにも違っているのだということを、頭では理解していても肌ではわかっていなかったのだ。
「博史、あんた浮気してるでしょう」
彼女のそのひとことで、僕たちの世界は、音を立てて崩れ落ちた。
見たことがないほど、彼女は怒り、悲しみ、家中のたくさんのものを壊し、次女にまでその矛先を向けた。いままでとはなにか違うと、千花も感じ取って宥めようとしたのだが、彼女はその手を強く払いのけた。
ぜんぶおまえのせいだ。こんな思いをするくらいならおまえなんか産まなければよかったんだ。あんな、あんなゴミクズみたいなやつの────
叫び声のつづきを、八歳になったばかりの千花には聞かせまいと、咄嗟に両耳を塞いだ。
僕は、どうなったっていい。悪者になってもかまわないから。もう二度と、この子達に会えなくなってもかまわないから。
どうかそれだけは、千花が知ることなく、育っていけますように。
自分が他のみんなと何一つ変わらない、かけがえのない大切な存在なのだとわかってくれますように。
三人に、ひとつでも多くの幸せが訪れますように。
「パパなんかだいっきらい。二度と帰ってこないで」
それが、僕の願いだ。
6(0).『±』 終
- 『Chika』 ( No.22 )
- 日時: 2021/01/12 21:25
- 名前: 厳島やよい (ID: l/xDenkt)
- 参照: https://www.kakiko.info/upload_bbs/index.php?mode=article&id=6569
7.『日照雨が上がる』
千嘉の隣の部屋に住んでいる大学生くらいの女性が帰ってきて、泣き崩れていたところに声をかけられた。わたしはまったく覚えていなかったものの、彼の部屋に来ていたときに何度か挨拶を交わしていたらしく"となりの雨宮さんの彼女さん"と記憶されていたそうだ。かいつまんで事情を説明すると、彼は月曜あたりにマンションを出ていったばかりだと教えてくれた。
もちろん引っ越し先は彼女も知らなかった。わたしと同棲するために県外に出るのだと伝えていたらしい。その一言で、おそらく県内にはいないだろうとわたしも判断した。
その後「冷えてしまいますから」と彼女が部屋に上げてくれて、温かい紅茶まで淹れてくれた。とてもいい香りがした。
互いに名前すら知らなかったような間柄なのに、話を聞いてくれて、タクシーまで手配していただいてしまって。年下の女の子だというのに、申し訳ないやらなにやらでいっぱいいっぱいだ。
「こちらこそすみません。同じような経験があったので、感情移入してしまって。私はただのお隣さんですけど、二人のこと、ほんとうに素敵だなって思ってますよ。ですからどうかお気になさらないでください」
「ありがとうございます……当分立ち直れないかもしれませんが」
「いいんですよ、すぐ立ち直ろうとしなくても。無理に忘れようともしなくていいんです」
気が済むまで落ち込んでいい。気が済むまで毎日彼を思い出していい。
そう言って外まで見送ってくれた、彼女のやさしい、そしてどこかひどく悲しげな笑顔は、いまでも鮮明におぼえている。
「……納得のいく別れなんて、この世には存在しないから」
わたしは他人に親切にされるということに免疫がないのだなと、そのとき改めて認識できた。
千嘉と別れて二年になるいま。彼が死んでしまったいま。わたしは以前のわたしより、少しでも前に進めているだろうか。明るい場所を自分の足だけで、しっかりと地面を踏みしめて。
ときどき、いや、しょっちゅう、こうして後ろを振り向くことがある。振り向いた先は真っ暗で、いくつも死体が転がっていて、たまらないほどの罪悪感が首を絞めてくる。自分が殺したのだと錯覚してしまうことがある。わたしは何人ものひとの幸せを壊して、奪い取って、不幸を吐き出して、撒き散らして生きている。自分の存在ってただの公害じゃないか。実家には未だに帰れないし、事件から二週間以上経って目を覚ました妹の顔も、見に行けていない。左手が使い物にならなくなってしまったと、父が言っていたっけ。彼女は右利きだったのが、不幸中の幸いだろうか。
ふらりと、死んでしまおうかと思う夜もあった。でも、結局最後の一歩が踏み出せやしなかった。ビルの屋上にあがってみても、包丁を握っても、駅のホームに立ってみても、眠剤のシートを破いてみても、歩道橋から街を見渡してみても。千嘉と死のうとしたあの日を、深幸が目の前で死んだあの時を、クラスメートが死んだあのときを思い出してしまう。そうして怖くなって、彼女の思うつぼになるだろうと踏みとどまって、次の日にはまた死にたくなって、その繰り返しだ。
それでも、いままでのように友人に泣きつくことはしなかった。千嘉と別れたことを話せたのも、あれから半年以上過ぎた頃だったし。
ただひとりで、なんとか毎日をやり過ごしていた。働いている間だけは、いやなことを考えずに済むから。
段々、だんだん、寒さが厳しくなって、段々、だんだん、日が伸びて、寒さが和らいできて。咲いたばかりの桜が瞬く間に散り、気づけば夏になり、蝉の鳴き声が聞こえなくなるころには、自殺を考えることもほとんどなくなっていた。その代わりに、なんだかときどき頭がぼんやりとするようになってしまったけれど。
彼の訃報をきいた翌朝。眠りから覚め、また少し靄がかかる頭で部屋を見回し、枕元の携帯電話に触れると「じゅうにじかぁ」時計はいつもよりずいぶん遅い時間を示していた。
「…………え、おひる、うまのこく、ヌーン!」
ふらつきながらも毛布をけとばして起床した。いつも少し開けて眠るのに、夜から閉めっぱなしにしていた窓のカーテンを開くと、真っ白い太陽光が遠慮がちに全身へ降り注いできた。寒さも相まっていっぺんに眠気が消え失せる。でも脳内の靄は消えてくれない。
とりあえず換気のために窓を開け、急いで顔を洗いにいった。ごはんは、ゆうべの残りの白米でおにぎりでも作ろう。
午前中の時間を犠牲にして、ライフゲージは全回復させることができた。この調子なら、取りかかっている作業も夕方には終わらせられるだろう、後ろがまだまだ立て込んでいるけれど。友人の言う通り、わたしは仕事だけはよくできるやつなのだ。体力さえあればどうとでもなる。
落ち着いたら、何をしようかな。新しい服なんか買って、美容室に行って、久々に手の込んだ料理を作ったりして、あとは海を見に行きたい。冬だけど、だれも人のいない寒い海で潮風に当たりたい。その風景を絵に描きたい。ラップに包んだ温かい塩むすびを頬張り、窓を閉めながら、考える。
生きるために、好きなことをするために、明るい場所を歩くために。わたしは今日もコーヒーを淹れ、ヘッドホンを耳に当て、机に向かう。
本当に、死にたいと思える暇がない。
とてもありがたいことに。
それから一週間が過ぎた頃。
行きつけの美容室で髪を切り、人の少ない午後二時半あたりを狙っていつものようにスーパーまで買い物に出た帰りに、コートの中で携帯が震えた。ちょうど、昔深幸に突き落とされた歩道橋の上のど真ん中で立ち止まる。通知を開くと、友人からのメッセージだった。
〈月並みな言葉だけど、あたしは、今日まで春巻が生きててくれてよかったって思うよ〉
最後のやり取りである〈もうする気は失せたかな〉の続きなのだろう。多かれ少なかれ、あれからずっと気にかけてくれていたのかもしれない。
〈少なくとも、あんたが嫌になるまで、あたしはこれからも一緒にいるつもりだから〉
〈だからまあ、よろしく。それだけ〉
なんとまあ、珍しいことを。雪でも降るんじゃないのか。
思わずくすくすと笑ってしまいながらも、返事を打ち込む。
〈それって月並み? 太陽並みじゃない?〉
〈ありがてー〉
〈いやいや、月並みって、そうじゃないから笑〉
〈冗談ですよ笑〉
〈ほんとにありがとうね。十年も、こんなわたしの友達でいてくれて〉
そう。家を出て、地元の公立高校に入学して、すぐうしろの席だった彼女と出会ってから、約十年。いろいろあって学校に足が向かなくなったときも、転校しても、別々の大学に進んでからも、彼女が地元から引っ越しても、転職しても。ひとりぼっちになったときも、どんなときも、いろいろな形で寄り添いつづけてくれた。心強い味方でいてくれた。
ゆっくりとまぶたを閉じて、追憶する。
長かった。すごく、長かったな。泣いちゃいそうになるくらい。
わたしは、その恩を彼女に返せているのだろうか。「そんなのいらないよ、キモいから」と笑われそうな気もする。
携帯をしまってまた歩き出そうと、したとき。コートの袖口にふわりと白いものが舞い降りた。
「ほんとに降ってきた」
空を見上げると、境界線の曖昧な雲から、雪が風に吹かれて花びらのように降っている。やわらかい太陽の光で粒がきらめいて、とてもきれいだった。
もしかして、妹の名前ってこれが由来なのかな、いまさら気がついたけれど。冬生まれだし充分ありえる。いつか……妹にきいてみないと。
すれ違った知らない親子がわたしと同じように立ち止まり、空を仰いで雪だねえと楽しそうに話している。子供の格好や持ち物から察するに、保育園からの帰りなのだろう。
雪は数分もしないうちにやみ、うしろではしゃいでいた親子もふたりで『雪のペンキ屋さん』を歌いながら歩道橋から下りていってしまった。いまのってペンキどころか鉛筆書きにも満たないよなー、そういえば白い色鉛筆っていちばん減りが遅かったなー、ていうか地味に歌詞怖いなーなどとくだらないことを考えつつ、わたしも再び、ゆっくりと帰り道をなぞりはじめた。
どこかで聞いたことがある。わたしたちが故人のことを思い出すとき、天国にいる彼らのもとには花が降るらしい。死後世界の信仰の有無はさておき、本当にそうなるなら素敵だと思うし、死者にとってはそれほど嬉しいことなのだという喩えであったとしても、なんだか積極的に思い出してあげたくなる話だなと思う。
さっき見た、あんな風な、きれいな花だといいな。
千嘉のところにも、深幸のところにも、母親のところにも、顔も知らないおじいちゃんやおばあちゃんのところにも、あんなきれいな花が降っていればいい。少なくとも三人くらいは嫌がりそうだけれど、まあ、それが供養というものなのだろう。
きっとこれから何十年、何百回、何千回と彼らに花を降らせながら生きていくにちがいない。わたしは"千花"なのだから。
それならこの名前も悪くないかなと、乾いたアスファルトを踏みしめながら、ようやく思うことができた。
もうすぐ年が明ける。家に着いたら、ずっと後まわしにしつづけていた大掃除の、準備を始めよう。
『Chika』 完
風花:
1.晴天に、花びらが舞うようにちらつく雪。山岳地帯の雪が上昇気流に乗って風下側に落ちてくるもの。
(Weblio辞書より引用)