ダーク・ファンタジー小説
- 『Chika』 ( No.8 )
- 日時: 2020/12/11 22:33
- 名前: 厳島やよい (ID: l/xDenkt)
1.『彼の死』
昔の恋人が自殺したらしい。十二月も半ばの深夜、そんな報せが唐突に、わたしのもとへ舞い込んできた。
片手の指で足りるほど数少ない友人のひとりから送られてきた、短いLINEのメッセージ。それをぼんやりと見つめながら、マグカップに残った冷めかけのコーヒーをちびちびとすする。築三十年、家賃七万のワンルームのアパートで過ごすひとり暮らしの夜は、いつもひどく静かだ。その静けさが気に入ったから、人生で二度目の引っ越しのとき、ここに住もうと決めたわけだけど。
〈一応、早く伝えておいたほうがいいかなと思って〉
ぽん、とふきだしが追加された。
こうして直接、彼女に教えてもらえてよかったと思う。二年前のこともあるし。遅れて純度の低い噂やヒレだらけの伝言ゲームで知るより、よほどいい。それを見越して彼女も教えてくれたのだろう。
〈ねえ春巻〉
〈あんたはさ、いまでもまだ、死にたいって思う?〉
既読をつけるだけで返信しないわたしに、友人が問いかけてくる。春巻、というのはわたしのあだ名だ。名字の読み間違いから転じて彼女からのみそう呼ばれるようになったのだけど、それはまあ、置いておいて。
〈まあ、ときどきほんのりと思うことはあるけど〉
〈もうする気は失せたかな〉
それだけの返事をしてから、携帯電話を机の上に伏せる。
手元のパソコンモニターには、締め切り間近の仕事が途切れたままになっていた。この一・二週間、以前から懇意にしてくださっている有名配信者の動画編集作業に追われつづけているのだ。最近ますます再生回数が伸びてきたようで、月当たりの依頼回数は倍増している。もちろんわたしもべつの仕事をいくつも抱えているので、労働量も膨れ上がっていく一方。正直、死にたいと思う暇がない。全国の自殺志願者を敵に回しそうな発言ではあるが。
有り難いことに、生活に困らないだけの報酬はいただけている。彼との仕事だけに専念する道も見えているものの、将来への不安が勝って一歩を踏み出せない。とはいえ、若い女ひとりの体力ではそろそろ限界を迎えそうだ。どうにでもできるくせに表面上は八方塞がりで、そんな状況をどこかで楽しんでいる自分もいる。我ながら面倒くさい生き物だと思う。
「あぁぁ、ねっ……む」
机に突っ伏しながら見上げた壁時計は、午前一時まえを指していた。このところの睡眠不足が祟って、もともとない気力が一層削がれている。いまはベッドに歩いていくことすらできそうにない。それでも頭の中ではたくさんの情報が行き交っていて、昼間以上に騒がしい。とりあえずこの峠を越えたら、しばらく彼の依頼以外はセーブしよう。あと数日の辛抱だ。
明かりを消すのも億劫なので、ひとまず瞼をおろして、視界を暗くする。
そう、こんなとき。
こんな一瞬に「死にたい」は忍び寄ってこようとする。ずいぶん穏やかでやさしくて、軽くなったけれど、それでも喉の奥が苦しくなる。
────ねえ、おれといっしょに死んでくれる?
あのときの、いまにも泣き出しそうな彼の口許がよみがえる。はっと我にかえってから、寒いさむいユニットバスの洗面所で、息を荒げながらカミソリを握りしめていることに気がついた。何年ぶりだろう、こんなこと。
スウェットをまくりあげた右腕の内側には、古い傷跡がいまだに生々しく並んでいて、じっと見ていると自分でも吐きそうになってくる。よく平気だったよな、あの人は。彼以外の元交際相手たちにはドン引きされた、それどころか本当に目の前で吐かれたこともある代物だというのに。
水滴の跡で濁ったままの鏡の向こうに、薄ら笑いを浮かべるわたしがいた。目元にはクマができていて、持病のせいだなんて言い訳もいいところに肌も荒れていて、髪だって、この多忙で美容室に行けていないせいか伸び放題のぼさぼさだ。母親譲りで顔立ちだけは整っている自覚があるけれど、これはひどい。自分で自分を平手打ちしてから無心で歯を磨き、部屋中の明かりを消して布団に潜り込んだ。
こんな日は、さっさと眠ってしまうほうがいい。夢にまで見るかもしれないけど、余計に仕事がきつくなるかもしれないけど、そのときはそのときだ。
自分の命のほうがよほど大事だから。
あれから二年たった今、そう考えられるようになったくらいには、成長していると思う。
〆
二年前の秋、大学時代からの友人に紹介され出会った彼は、中学の同級生だった。クラスは違ったし、部活や委員会でいっしょになったことももちろん一度だってないけれど、それでも顔を合わせて名乗りあったとき「ああ、あんたか」と同じ表情をしていた。人間の記憶力は意外に侮れない。
コーヒーが大好き。煙草はきらい。インテリアやファッションはシンプルなのが好き。夏より冬が好き。掃除が大きらいだけど綺麗好き。犬派でも猫派でもなく鳥派。どちらかといえば夜型。お酒はそこまで好きじゃないけど、弱くもない。映画やライブは家でひとりで観たい。ときどき趣味で一枚絵を描くこと。読書は好きだけど早く読めなくてすこし苦手なこと。
会話を重ねるごとに、わたしたちにはたくさんの共通点があることを知り、初対面の日からあっというまの二ヶ月が過ぎた。気づいたときには手を繋いで歩くようになっていて、キスまで済ませた。こんなことも互いに初めてではないし、むしろおとなしすぎるほうだと思う。わたしなんて酔った勢いで一線を越えてしまったことが四回(そのうち二回は当時の恋人だが)あるし。けれどまあ、そんな記憶はお互いそっと胸の奥へしまっておくに限る。過去がどうであれ、いま隣にいる人間を大切にできているのだからなんの問題もない。
「下の名前、おんなじだから覚えてたんだ」
最近ふたりで偶然見つけた、駅前の個人経営の居酒屋さんで夕食をとっていたとき。彼が、焼き鳥を頬張るわたしをいとおしそうに眺めながら、そう言った。
「俺、あんま自分の名前好きじゃなくて。でもいまは、ちょっとだけ、よかったかもなって思う」
金曜の夜だからか、まわりの席はほとんど、顔を赤くして笑っている会社帰りのサラリーマンやOLたちで埋まっている。
忙しそうに行き交う、黒いエプロンとバンダナの若い店員たち、奥のテレビから流れている曲に重なるだれかの歌声、アルコールの独特な香り、すこし煙たい空気。いつもより賑やかで、でもわたしたちはいつもどおり静かに、壁際のすみの二人席で話していて。
酔っているわけでもないのにふわふわしてしまう。こんな時間をいっしょに過ごせるだれかが現れるのを、わたしは心のどこかでずっと待っていたのかもしれない。
「ありがとう、チカ」
呟いたのは、どちらだったのか。
店を出たあとは、三度目の、彼の住むマンションへ行くことになった。
- 『Chika』 ( No.9 )
- 日時: 2020/12/12 22:28
- 名前: 厳島やよい (ID: l/xDenkt)
どうしてわたしが"こう"なったのか、ときどき考えてしまうことがある。
小学生の頃、父親が不倫して家を出ていったからかもしれない。そのとき母親に、おまえなんて産まなければよかったと泣き叫びながら言われたからかもしれない。中学の頃、いちばんの友達の片想いしていた人がわたしを好きになってしまって、結果的に絶縁したからかもしれない。高校の頃、好きだった人がある日突然線路に飛び込んだからかもしれない。思い当たることならたくさんあるけど、どれも間接的な理由でしかないなと思った。
塵も積もればなんとやら。けれど、きちんとこまめに掃除をしていれば清潔を保つことができたはずだ。結局は、ホウキすら持とうとしなかった自分の弱さが原因だという答えに着地する。じゃあ、その弱さが作り出されたのはいつなのだろう。……これ以上考えていると、卵が先か鶏が先かというような問いにすり替わりそうなので、思考を打ち切る。
いま、友人と呼べる存在は、五十人ほどいるLINEの友だちの内、三人だけ。成人するまでに自殺しようとしたことは数知れず、そんなわたしの前から姿を消した男の数も二桁を突破している。「もう疲れた」と言われて振られるならまだいいほうだ。
そんなだから。そんなだから、不安で仕方なくなる。諦めて、決めつけるようになる。どうせ自分は捨てられるのだ、みんな自分の前からいなくなってしまうのだと。表面では当たり障りのないみんなが望むような女の子を演じて、そんなわたしに近づいてくる人間だからと、何度も試すような真似をしていた。いまから死ぬと真夜中に電話をかけたり、血だらけになった腕の写真を送りつけたり。まさしく黒歴史だ。真っ黒な負のスパイラル。
「でも春巻きって、仕事だけはできるからねぇ。それでなんとか生きてけてんだから、運がいいよ」
友人である三人のうちのひとり、普段からよく連絡を取りあっていて遊ぶことも多い、高校の同級生である彼女と旅行にいったとき、けらけら笑いながら言われたのを覚えている。
図星だ。ほんとうに。
相手さえ選べば、仕事に裏切られることはほとんどない。そういう理由で、働きづめているときほど心が安定していた。こなせばこなした分だけ、お金ももらえるわけだし。
でもいまは違った。決して忙しいわけではないのに、形のあるものをもらっているわけでもないのに、穏やかに毎日を過ごすことができている。自傷の回数も格段に減った。
「このまま泊まってく? 俺は明日休みだし、そこは気にしないでいいよ」
九時から放送している数年前の邦画を垂れ流しつつ、隣のダイニングキッチンで冷蔵庫に頭を突っ込んでいる彼がたずねてくる。
「どーしよっかなー」
いままでの自分なら、答えは一択だっただろう。でも、帰ってゆっくり本を読みながら寝落ちるのもいいし、なにもせずに時間を浪費するのもありだな。……ふつうの人たちは、これまでこんな風に考えて生きていたのか、いまさら知った。なんという贅沢。
麦茶を注いで持ってきてくれた彼が視線でキスをせがんでくるので、
「しょーがにゃーねー」
右頬、左頬、唇にしてあげた。子犬みたいにかわいらしく喜ぶものだから、おでこにも一回。これ以上はとめどがなくなるので自重する。
「あらっ、もうおしまい?」
「今夜は泊まってくから、あとでね」
「よっしゃあああ」
高校生か。喉元まで出かかった言葉は抑えた。
テレビの中では、CMが明けて映画の本編が再開している。風邪を引いて熱に浮かされている男性が「もも、くいたい」などと主人公の女性にメールして困惑させていた。番組情報を見てみると、昔読んでいた漫画の実写化作品のようだ。こんなシーンあったっけ。
大きなソファに座って、布張りの生地を足先でなぞりながら、わたしも桃食べたいなーとか考えて麦茶を飲みつつ映画をみていると、横から些か遠慮がちに抱きしめられた。画面ではせっかく自宅へ見舞いに来てくれた主人公に対し、泥棒でも見たかのように男性が大声をあげているところだった。わたしはなぜか耳たぶをかじられた。くすぐったい。
「これ観たいの、あとにして」
「途中からじゃ内容わかんないでしょ。こんどビデオ借りてくればいいじゃん」
「やですー」
リモコンを手に取って音量を上げようとしたら、こんどは首筋に歯を立てられた。これは地味に痛い。
「どうしたの、痛いよ」
昔、怪我をしてしまうほど強く首を噛まれたことがある。だから大して引きもしないけれど、そいつが異常に独占欲の強い男だったことを思い出して、身構えてしまった。状況も状況だし。
そんな予想を裏切るように、わたしの腕を軽々と掴んで、耳元で問いかけてきた。
「じゃあ、これは痛くないんだ」
驚くわけでもなく、責めるわけでもなく。ただ確認をとるように。
「……痛くは、ない」
「そう」
「いつから知ってたの?」
「ひみつ」
数秒の沈黙のあと、彼はわたしの頭を何度かなでて、離れた。
*
次の日は朝からつめたい雨が降っていた。まだ六時だというのに、マンションの八階から見下ろす街には色とりどりの傘が咲いて、駅の方角へ向かって進んでいく。
学生時代のアルバイト以来、わたしは通勤というものをしたことがない。仕事の内容によっては依頼主のもとへ足を運ぶこともあるが、それとこれとは訳が違う。千嘉は平日なら、毎日こんなふうに家と会社を往復しているんだろうな。
顔を洗い、次第につよく香りはじめたコーヒーのにおいにつられてリビングへ赴くと、彼がふたり分の朝食を作ってくれているところだった。
「おはよう。よく眠れた?」
「ん、たぶん」
「それはよかった。座ってて、もうできるから」
ぼふ、とソファに腰を下ろす。すでに机に並んでいる平皿には、スクランブルエッグと茹でたウインナー、ミニトマトが控えめに盛り付けられていた。テレビ画面は、民放の報道番組。うしろには、カウンターの向こうに千嘉がいる。
「ん? どしたの」
ソファにのけぞるようにして見ていたわたしの視線に気づき、コーヒーとトーストを運ぶ彼がたずねてきた。
「なんでも」
そんな瞬間がとても幸せだなあと感じてしまって。
「こんどはわたしが作っていい? 朝ごはん」
「お、じゃあ冷蔵庫の中身を整頓しとかないとねー」
「どんだけ散らかってんのよ」
幸せというものに慣れていないわたしには、なんだか辛かった。
「まじでごめんね、ここまででも平気?」
「だいじょうぶ。ありがとう」
ばいばい、と手を振って、歩き出す。角を曲がるまで、一度も振り返ることなく。
夕方、洗濯したきのうの服に着替えてから、車で地元の駅前に送ってもらった。ほんとうはアパートまでの予定だったのだけど、上司から急な呼び出しがかかったそうで、やむをえずといったところだ。スーパーで買い物を終えた頃には雨もすっかり上がり、アスファルトのところどころにできた水たまりを避けながら三十分、いっぱいになった袋を提げてのんびり歩いた。
まだ五時前だというのに暗い街中を見回していたら、なんだか心細くなってきた。首都圏内ではあるが、この地域も都内からみればじゅうぶん田舎と称されるにふさわしい。道中の児童公園にも図書館の周囲にも人気はなく、気温もぐんぐんと下がっていく。一瞬だけ、千嘉に電話をかけようかと考えがよぎったものの振りきり、すこしでも明るい場所に出ようと歩道橋をわたった。
いままでのわたしなら、きっと迷わず彼に連絡していた。けれどもう、二十四歳なのだ。いつまでも他人に依存しているわけにはいかない。いい加減、自分の足で立って生きていかなくちゃいけない。怖くても苦しくても、死にたくなっても、これからはもうひとりで乗り越えなきゃいけない。少しずつ、すこしずつ。
歩道橋のうえから望む澄んだ西の空には、地平線近くに、ほのかに夕焼けの名残がひろがっていた。がんばろう。自分にも聞こえないくらい、ちいさな声で厚いマフラーの中に呟く。そうしてふたたび歩き始め、階段を下りようとした、そのとき。
とんっ、と。背中を押される感覚があって。
「……っ、え?」
理解が追いつく間もなく、わたしは、階段を転げ落ちていった。
犯人は、
はんにんは、
ねえ、どうして。