ダーク・ファンタジー小説

Re: この馬鹿馬鹿しい世界にも……【※注意書をお読みください】 ( No.179 )
日時: 2021/06/26 10:27
名前: ぶたの丸焼き ◆ytYskFWcig (ID: T1/NqzP3)

 1

 今日は、早めに教室に来てみた。わたしは登校時間が長いから、家を出るのはいつも早いけど、それ以上に。

 理由は、花園さんに会いたかったから。何時に来ても花園さんはいるし、先生が「毎朝一番に登校してるわよね」と、花園さんを褒めているのを聞いたことがある。

 どうしてなのかまでは知らないけれど、花園さんはいつも早く登校してくるのだ。

 入口のドアについている窓から中を覗き、花園さんがいることを確認して、わたしはドアのへこみに手をかけ、横に動かした。

 がららららっ

 普段なら周りの人の話し声で遮られて聞こえないドアの開閉音が、廊下に響き渡った。

 わたしはびっくりして、すぐに花園さんの方を見た。

 花園さんは、何も変わらず、ずっと、頬杖をついて外の景色を見ている。

 花園さんの席は教卓から見て一番後ろの列の窓際。他生徒から人気の席だ。バケガクはほかの学校と比べて席替えが少ない。だから、春から秋にかけるまで、花園さんはずっとあの席にいる。

 一度自分の席に寄り、荷物を置いて、わたしは花園さんに近づいた。

「花園さん、おはようございます」

 返事、してくれるかな。無視されたらどうしよう。わたし、返事がなかったことを気にしないほどのメンタル持ってないよ?

 そう考えながら待っていると、少し間を置いて、花園さんが言う。

「うん」

 花園さんは、ちらりともこちらを見なかった。
 返事が来ただけ、まだまし、なのかな? いや、わたしがずっとここにいると迷惑だから、かな。

「あ、あの、お話してもいいですか?」
「嫌」

 うっ。そういうことの返事は速い。

 2 >>180

Re: この馬鹿馬鹿しい世界にも……【※注意書をお読みください】 ( No.180 )
日時: 2021/12/22 19:27
名前: ぶたの丸焼き ◆ytYskFWcig (ID: 7xmoQBau)

 2

 わたしは何を言えばいいのかわからず、おろおろしながらその場で留まっている。

「なに」

 鬱陶うっとうしそうな顔を、花園さんは、わたしに向けた。

 えっ、話してくれるの?

「そこにいられる方が、迷惑」

 わたしの頭の中を読んだようなタイミングで、花園さんが言った。
 うう、まあ、そりゃそうか。

「あの、その」

 あれ、なんて言おうとしてたんだっけ。

『真白、落ち着け。友達になりたいんだろ?』

 ナギーがコソッとわたしに言った。
 すると、花園さんが眉をひそめた。怪訝そう、といった言葉がとても似合うような表情。
 こんなにあからさまに表情を変えるところは、あまり、見たことない。

「は?」

 !

 初めて花園さんに『質問』された! ……こんなことで喜ばないよね、普通。

『ぼくの声が聞こえるの? 変だなあ、君には姿を見せていないはずなんだけど?』

 そういえば、精霊は他種族に自分の姿を見せたり見せなかったりするんだっけ。

「聞こえる。見える」

 駆け引きのようにも聞こえるナギーの言葉に、花園さんは淡々と返した。

『ふうん?』

 ナギーはなにか気になりはした様子だったけど、それ以上何も言うわけでもなく、あっさりと引き下がった。

 3 >>181

Re: この馬鹿馬鹿しい世界にも……【※注意書をお読みください】 ( No.181 )
日時: 2021/06/27 10:03
名前: ぶたの丸焼き ◆ytYskFWcig (ID: 8uCE87u6)

 3

『邪魔しちゃったね。続きをどうぞ、真白?』
「う、うん」

 ナギーに促され、わたしは花園さんに言葉を掛ける。

「花園さん」

 下がもつれそうになりながら、わたしは、言った。

「わたしと、友達になってください」

 すると。

 花園さんの表情に、急激な変化があった。

 まず、顔から血の色が失せた。もともと白い肌が、淡い青を帯びる。
 次に、わたしから顔を背け、右手で口元を抑えた。まるで吐き気を懸命に堪えているかのように。

「ふーっ、ふーっ、ふーっ」

 細い指の隙間から、浅く荒い息が漏れる。

 な、なに?

 わたしは何が何だかわからなくて、ナギーに助けを求める目を向けた。けれどナギーはじっと花園さんを見るだけで、わたしの方は見ない。

「はな、ぞのさん?」

「いや」

 その声は、いつもの淡白な音ではなかった。
 普段よりも僅かに高く、そして震えた、『人間らしい』声。

「トモダチは」

 わたしは自分の存在すらも忘れて、目の前の状況に見入っていた。
 花園さんとは思えない『人間』が、突如そこに現れたことが、わたしに驚き以外の何の感情も抱くことを許さなかったのだ。

「真白さん」

 けれど、その時間はほんの数秒だった。
 肩に手を置かれ、わたしの意識はわたしの中へ帰る。
 声の主は、男性らしかった。大きく少し硬い手が、わたしの左肩を、強く、掴んでいた。

「なにしてんの?」

 その人物が、わたしの背後から顔をのぞかせる。笑っている。でも、確実に、怒っている。わたしはいままでの彼の行動から、そう答えを導き出した。

 4 >>182

Re: この馬鹿馬鹿しい世界にも……【※注意書をお読みください】 ( No.182 )
日時: 2021/06/27 16:46
名前: ぶたの丸焼き ◆ytYskFWcig (ID: a0tKrw1x)

 4

 時計を見ると、時刻は八時に迫っていた。花園さんほどではないにしろ、登校が早い人は、そろそろ教室に着き始める時間帯だ。

 そして噂によると、笹木野さんはその人たちの中でも比較的早い。理由はもちろん、『花園さんに会いたい』からなんだとか。毎朝早いわけではないけれど、その傾向は強いらしい。

 笹木野さんは、それほどまでに花園さんが好きで。花園さんは、それほどまでに笹木野さんに好かれていて。
 なんで。

「言わないならいい」

 わたしが現実逃避をしてしまっていたことを、笹木野さんは、わたしが回答を拒否したと受け取ったようだ。

「とりあえず、どいて」

 さすがに突き飛ばしはしないものの、そのギリギリの範囲の力で笹木野さんはわたしの身体を押しのけた。

「ひゃあっ」

 わたしの体幹が悪いのも考慮してくれたのか、少しバランスは崩したけど、倒れるまでには至らなかった。

 笹木野さんはわたしのことなど見もしないで、すぐに花園さんに声を掛けた。

 やっぱり、今まで優しかったのは、優しいふりだったんだ。
 やっぱり、わたしには、だれも。

「日向、移動出来るか? 人が少ないうちに、早めに休憩出来る場所に行こう」

 花園さんはなにも言わない。いつもの『無視』ではなく、『返事をする余裕もない』ような、そんな感じがした。
 無言のまま立ち上がり、顔を下に向け、教室を出ようと促す笹木野さんに続く。

「ごめん、なさい」

 その言葉は、当然わたしに向けられた言葉なんてはずがなく。

「気にするな」

 声を掛けられた本人は、ぽんぽんと優しく、左手で花園さんの頭を撫でた。
 なんで。なんで。

 どうして、わたしには、だれもいないの。

 5 >>183

Re: この馬鹿馬鹿しい世界にも……【※注意書をお読みください】 ( No.183 )
日時: 2021/06/28 17:28
名前: ぶたの丸焼き ◆ytYskFWcig (ID: w4lZuq26)

 5

 その日の放課後も、わたしは終始落ち込んでいた。心なしか、空気もよどんで感じられ、視界も霞んで見える。体調が悪い訳では無いけど、気分が悪い。ちょっと、気持ち悪い。

『真白、元気出しなよ。ちゃんと伝えただけ偉いよ?』

 ナギーはそうやってはげましてくれるけど、なんだか心がこもっていないような気がして、あまりなぐさめにはなっていなかった。

『それに、あの二人も気にしてないみたいだよ? 女の子の方は真白にそもそも興味がなかったし、男の子の方も、きっと前から仮面を被ってただけなんだろうね』
「そんなのわかってるよ!」

 わたしはちょっと怒って、ナギーに言った。こんなの八つ当たりに近いとわかってるけど、だからと言って、それで感情を抑えられれば苦労しない。

「どうせわたしはあの人たちにとってなんの価値もない存在だもの! そんなのわかってる!」

 なんとなくその場に居たくなくて、わたしは乱暴に通学鞄とほうきを掴んで、教室の出口へ向かった。
 わたしの席は前から四列目の、教卓から見て中央より少し右に寄ったあたり。机の群衆をくねくねと進み、開いたままのドアから、一歩を踏み出した。

「えっ?」
「うわっ」

 とにかく外へ出ることを意識し過ぎて、廊下を走っていた男の子に気づかなかった。

 わたしと男の子は激突しなかった。男の子は瞬時に床を蹴って、わたしから見て右へ飛んだ。

 しかし、わたしはそんなこと出来ない。

「ふぎゃぅ!」

 わたしは盛大に、その場でこけた。

『真白、大丈夫?』

 ナギーの声がした。

「う、うん、なんとか」

 そう言いながら起き上がるわたしに、男の子は言った。

「なんだよ、危ないなあ」

 6 >>184

Re: この馬鹿馬鹿しい世界にも……【※注意書をお読みください】 ( No.184 )
日時: 2021/06/29 18:28
名前: ぶたの丸焼き ◆ytYskFWcig (ID: v2BiiJyf)

 6

 えっ?!

 ちゃんと前を見てなかったわたしも悪いけど、廊下を走ってた男の子だって悪いんじゃないの?

 言葉には出さないものの、わたしは呆気に取られていた。

 そして、男の子の姿をまともに見た途端、別の意味で、わたしは呆気に取られた。

 すごい、美少年。

 わたしは顔がいい人を好きになるようなタイプではないけれど、目を奪われたりするくらいはある。いまが、それだ。

 夕日のオレンジ色を反射するように、まるで金粉を振りまいているように輝く金髪。

 目は桃色だけど、とても濃い、深い、それでいて透き通ったような透明感のある色。それは一種の宝石にも感じられた。

 目鼻立ちはすごく整っていて、でも気後れするようなものではない。どこか少年のあどけなさを感じさせ、むしろ親しみやすいような雰囲気をまとっている。

 背はわたしと同じくらい、かな。わたしは年齢の割には背が低い方なので、年下かな。いや、他種族だったらその限りではないのか。

 ネクタイの色は、紫。わたしの一つ上の、IVグループだ。

「あ、あの、すみませ」
「ごめんなさい、大丈夫でしたか?」
「へっ?」

 男の子はわたしに駆け寄り、わたしの身体を見る。

 え、なになに。さっきのややドスの効いた声はわたしの聞き間違い? 声音がいい人そのものになってる。

「すみません、先輩に失礼なことをしてしまって、ほんと、申し訳ないです。
 急いでいたもので、ちゃんと前を見ていなくて」

 深々と頭を下げる男の子を見て、わたしはしばらく停止していたけれど、ナギーに服の裾を引っ張られて、我に返った。

「大丈夫です! 頭を上げてください!」

 生徒の大半はもう下校しているとはいえ、まだ人影は多い。それなりに注目を集めてしまっているし、もう遅い気もするけど、あまり目立ちたくない。

 そのことを察してくれたのか、男の子は顔を上げた。

『名前聞いときな。何も無いとは思うけど、一応』

 ナギーから言われて、わたしは男の子に名前を尋ねる。

「あの、名前を教えてもらってもいいですか?
 わたしは、真白です」

 すると男の子はハッとした表情をし、慌てて名乗った。

「失礼しました。ボクは花園 朝日です」

 7 >>185

Re: この馬鹿馬鹿しい世界にも……【※注意書をお読みください】 ( No.185 )
日時: 2021/06/30 21:45
名前: ぶたの丸焼き ◆ytYskFWcig (ID: LIyXzI4u)

 7

 はな、ぞの?
 花園、朝日?
 なんだか、すごく聞き覚えのあるなま……

 あ。

 花園日向。
 花園朝日。

 苗字は同じだし、日向と朝日って名前も似てる。両方とも、太陽に関連する言葉だ。
 瞳の色は違うけど、髪の色は同じ。
 それにさっき、わたしのこと『先輩』って呼んだ。なら、年はともかく、下級生。下級生はこのかんに用事は滅多にないはず。でもこの教室には、花園さんがいる。

 そして過去の新聞記事に、花園さんには弟がいるって、書いていたような気がする。
 ということは。

「もしかして、花園さんの」
「しっ! あまり言わないように姉から言われているんです!」

 男の子、えっと、朝日くんって呼んでいいのかな? 朝日くんは人差し指を口の前に立て、わたしの言葉を遮る。わたしは無言でこくこく頷いて、それに応えた。

 黙っているよう言ったということは、つまり、そういうことだ。

「さっきのことは、後日お詫びをさせていただきます。本当にすみませんでした」

 朝日くんはもう一度、今度は浅く、頭を下げた。

 それから教室の中を見て、その端正な顔をしかめた。

「逃げたな」

 そうぽつりと声を漏らす。

「逃げた?」
「あ、いえ。こっちの話です
 では、姉もいないようなので、失礼します」

 朝日くんはそう優しく微笑んで、立ち去った。

 8 >>186

Re: この馬鹿馬鹿しい世界にも……【※注意書をお読みください】 ( No.186 )
日時: 2021/07/01 18:15
名前: ぶたの丸焼き ◆ytYskFWcig (ID: sLuITfo7)

 8

「お帰りなさい、真白。キドはいまお昼寝してるわ」

 今日はモナがひとりで出迎えてくれた。

「ただいま、モナ」

 モナは首を傾げた。

「なにかあったの?」
「え、どうして? 何も無いよ」

 問いに問いで返したわたしに、モナは「うーん」と唸りながら言う。

「落ち込んだような、嬉しいような、変な匂いがするの。真逆の感情が混じったみたいな、匂い」
「ええっ?!」

 落ち込んだ、というのは身に覚えがある。今朝の出来事以外にありえない。でも、嬉しいって、なに? 今日は特に何もない、いつも通りの日常だったのに。

『あー、それ、あれだ。落ち込んでるのは今朝、真白がヘマやって、花園日向……よりかは笹木野龍馬を怒らせたんだよ。
 そんで嬉しいのは、今日の放課後、年下っぽい顔の良い男子生徒と話したから。
 だろ?』
「ふええ?! ちがうちがう! えっと、いや」
「あら、真白に好きな人でも出来たの?」
「ちがうって!」
『そうなんじゃねえの?』
「だから、ちがうって!」

「うるさいニャー!!」

 キドの怒声が響いた。
 見ると、ドアの向こうで、毛を逆立てたキドの姿があった。

「せっかく気持ちよく寝てたのにニャ! ひどいニャひどいニャ!」

「わああ! ごめん、キド!」

 キドは昼寝の邪魔をされるのが大嫌いなのだ。
 唯一大声を上げていたわたしは、その後ひたすらキドに頭を下げ、長年貯め続けたお小遣いの一部をキドのおもちゃを買うのに使うと約束した。
 キドは「いいのを買ってほしいニャ」と言ったけど、モナが怒って止めた。

「ただでさえ少ないお小遣いをキドの昼寝なんかに使ってもらえるだけありがたいと思いなさい!」

 らしい。

 9 >>187

Re: この馬鹿馬鹿しい世界にも……【※注意書をお読みください】 ( No.187 )
日時: 2021/07/02 18:10
名前: ぶたの丸焼き ◆ytYskFWcig (ID: JSwWcgga)

 9

『でもさ、満更でもなさそうだったよ』
「どこが?!」

 晩ご飯も終わりお風呂にも入って歯磨きも終えて、さあ寝るぞといったところで、ナギーに放課後の話を蒸し返された。

『ていうのは冗談で』

 冗談を言っていた割には至極真面目な顔をして、ナギーがわたしを見た。

『あいつには、気をつけた方がいいと思う。これはぼくの勘だけど、あいつからは、何か嫌な気配がした。
 いや、それともうひとつ、ぼくの知っている『何か』の気配もあった。それについても気になる』
「なにか?」

 ナギーは不思議な精霊で、わたしどころか、モナの知らないことも沢山知っていたりする。長年一緒にいるけれど、性格もうまくつかめない。意地悪になったり優しくなったり、厳しくなったり甘くなったり。

 わたしとナギーの契約は、『仮契約』。それも授業で組んだわけではなく、うーん、いつ初めて結んだんだっけ? とにかく、ずっと昔から『仮契約』を更新し続けている。何度か先生から『本契約』を結ばないのかと尋ねられたことがあるけど、答えはいつもノーだった。

 ナギーは、理由は教えてくれない、というか、本人も忘れてしまったようだけれど、『本契約』が出来ないらしい。
 ナギーは他の〈アンファン〉とは違い自分が誕生した当時のことを覚えているそうだ。つまり、仮契約の期間が切れ、しばらく時間が空いたとしても、思い出を忘れることがない。しかし、誕生ははるか昔のことで、当時のことはほとんど思い出せないそうだ。記憶力がもたなかったらしい。いつか忘れてしまうのは、精霊も人間も、一緒なんだな。もしかしたら、神様もそうなのかも。

 ……寂しいな。

『もしかしたら、ぼくの過去に関係しているのかもしれない。確かに感じたことのある気配だった。でも、いまはそのことはいい。いまさら思い出したいなんて思わないしね。
 とにかく、真白は彼に気をつけること。また会いに来るみたいなことを言っていたから、そのときに用心して。わかった?』

 わたしは首をひねった。

「うーん。ナギーの言っていることはなんとなくわかったけど、具体的に、わたしはどうしたらいいの?」

『そうだね、とりあえず、自分の情報を相手に与えないこと。次会ったときに、次回の接触を図る挙動が見えたら、もう会わないって遠回しに伝えて。それが無理でも、会う回数を減らしたり、会う時々の間隔をなるべく大きくして』

 そんな器用なことがわたしに出来るとでも思ってるのかな。いや、出来る限り頑張るけどね。

『ぼくも、なるべく真白に付いているようにするから』

 そっか。それなら、安心かな。今日のナギーは協力的だ。
 わたしは頷いて、わかったと示した。

 10 >>188

Re: この馬鹿馬鹿しい世界にも……【※注意書をお読みください】 ( No.188 )
日時: 2021/07/03 10:40
名前: ぶたの丸焼き ◆ytYskFWcig (ID: JSwWcgga)

 10

「せんぱーい!」

 朝日くんとの再会はなんと、翌日のことだった。いまは登校中で、時間としては朝なので、初めて会ってから半日と数時間しか経っていない。

 朝日くんはわたしよりも後ろを飛んでいるらしく、本人の姿は見えない。後ろを見るなんて高度な技術はわたしには不可能で、かと言って無視するわけにもいかず、わたしは目立たないくらいに声を張り上げた。

「おはようございます! ごめんなさい、わたし後ろ見れないんです!!」

 前を向かれたまま後ろに向けて声を届けられると、聞く側からするととても聞き取り辛い。この場合もそうらしく、朝日くんの返事は数秒遅れた。

「わかりました」
「きゃあっ!」

 朝日くんの声が、わたしの真隣で聞こえた。さっきの遠くから聞こえるような響きながら伝わる声ではなく、よりクリアで聞き取りやすく、近距離ゆえの大きな声。

 わたしはびっくりして、バランスを崩した。わたしの体を支えていた見えない上向きの力が無くなり、重力に引かれて落ちていく。

 わあああああああああああああああああああっっ!!!!!!!!

 わたしはあまり高い場所を飛んだりはしない。けれどそれは他の人と比べたらの話であって、地面からは五十メートルは離れている。これは法律で、歩行者などとの事故を防ぐために、飛行する時は地上から少なくとも五十メートルは上空を飛ぶように定められているのだ。
 とはいえわたしは着陸が苦手なのでいつもバケガクよりも手前で降りている。でも、その位置はもっと前なの! もう少し先なの!

 恐怖で声が出なかった。ああ、モナとキドが見える。あれ、わたしもいる。いまより小さいかな。これはきっと走馬灯。

「空を水とし、『浮』の力、対象の者にかかる力を相殺せよ!」

 朝日くんが不思議な呪文を唱えると、わたしの体はピタリと止まった。まるで糸に絡まった操り人形のような格好になり、不格好に浮いている。

 いまの魔法は、なんだろう? あまり聞いたことがない呪文だった。天陽族が使う【浮遊魔法】なのかな?
 花園さんが魔法を使うところは滅多に見ないから、わかんないな。

「驚かせてしまってごめんなさい」

 わたしの落下が止まったと同時に急降下し、わたしのほうきを回収してくれた朝日くんが戻ってきた。
 わたしは朝日くんに支えられながらほうきに乗り直し、言った。

「あの、とりあえず着陸してもいいですか?」

 朝日くんはバツの悪そうな顔をして、それから苦笑し、「わかりました」と答えた。

 11 >>189

Re: この馬鹿馬鹿しい世界にも……【※注意書をお読みください】 ( No.189 )
日時: 2021/07/03 21:23
名前: ぶたの丸焼き ◆ytYskFWcig (ID: 6MRlB86t)

 11

 校門までは、まだそれなりに距離がある。時間に余裕はある。わたしたちは一緒に道を歩いていた。

「いや、ほんとに、すみませんでした。驚かせたつもりはなかったんです」

 しゅんとしてうつむきながら、朝日くんはわたしより少し後ろを歩いている。

「いいですよ、わたしも気にしてませんから」

 わたしがそう言うと、朝日くんはパッと顔を上げた。その表情は純粋な笑顔で、わたしはうっかり、朝日くんが花園さんの弟であるということや、昨晩のナギーの注意を忘れそうになる。

「あの、さっきの魔法ってなんですか? 聞いたことがない呪文だったような気がして」

 わたしだってわたしなりに魔法の努力はしている。魔法の種類はその土地や種族によって無数に分けられ、呪文も魔法のタイプも全然違ってくる。モナやナギーに協力してもらって、色んな魔法を勉強してきた。なかなかわたしに合う魔法には出会えないけれど。
 だけど、さっき朝日くんが唱えた魔法に覚えはなかった。わたしがただ忘れている可能性もあるけど。

「さっきの魔法?
 ああ、【浮遊魔法】のことですか?」

 朝日くんは笑みを浮かべたまま、楽しそうに説明してくれた。

「あれは、姉の魔法なんです。
 本来、【浮遊魔法】というのは対象の中に自分の魔力を込めて行う魔法なんですけど、姉はたまに対象物を破裂させてしまうので、別の方法で【浮遊魔法】を行っているんです」

 別の方法?

「でも、あんな呪文聞いたことありません」

 すると朝日くんはにまっと笑った。口元を緩めて、自慢げに語る。

「あれは姉のオリジナル魔法です。姉は自分で魔法を作ることが出来るんですよ」

 魔法を、作る?!

「なぜ姉がⅤグループなのか、理解できませんね。本来ならばⅠグループであるべきなのに。まあ、姉が自分からⅤグループに入るように仕向けたのかもしれませんけどね」
「そんなことが出来るんですか? 魔法を作るなんて」

 魔法を作るには、魔法発動の原理とか、そういう難しいことをすごく深い部分まで知らないと出来ないって聞いたことがある。花園さんには、それが出来るっていうの?

「はい! 姉はすごいんですよ!」

 そう言う朝日くんの表情は本当に嬉しそうで。

 そんな顔をしてくれる家族がいる花園さんを、少しだけ、羨ましいと思ってしまった。

「あの、もし先輩さえ良ければ、敬語を外して貰えませんか? ボクは年はともかく下級生ですので」

 以前わたしが心の中で思ったようなことを言って、朝日くんが提案した。

 えっ。

 わたしは家族を除いて、だれかにタメ口で話したことがない。正直に言って、会ってまだ日の浅い(というか一日も経っていない)人に急に砕けて接するのは抵抗がある。
 でも。

「わかった。じゃあ、そうさせてもらうね」

 Ⅴグループであるわたしにも、先輩だからと敬意を払ってくれる朝日くんに、わたしは好意を持っていた。否、持ってしまっていた。

『ちょっと、真白』

 ナギーがわたしの髪をぐいっと引っ張った。

『なに仲良さそうにしてるの。昨日話したばかりだろ』

 うっ、そうだったそうだった。
 でも、人懐こそうな雰囲気の朝日くんは、つい気を許してしまう力があるのだ。不可抗力なのだ。うん。

『心の中で言い訳しても駄目』

 心の中を読まないで。

 12 >>190

Re: この馬鹿馬鹿しい世界にも……【※注意書をお読みください】 ( No.190 )
日時: 2021/07/04 10:58
名前: ぶたの丸焼き ◆ytYskFWcig (ID: 6MRlB86t)

 12

「あの、先輩」

 校門が見えてきた辺りで、朝日くんが言った。
 なんとなく言い辛そうに、モジモジしている。

「今日のお昼休みか放課後、会えたりしませんか?」
「ええっ?!」

『真白! 断れ!』

 すかさずナギーが言う。

「迷惑、ですよね」

 わたしの罪悪感を加速させるような表情で、朝日くんはうつむく。そんな顔をされると、わたしは何も言えなくなるよ。
 断らなきゃ、断らなきゃ、ことわら……

『おいお前!』

 朝日くんに姿を見せたらしいナギーが、朝日くんに向かって言った。

『なんかお前隠してるだろ! 真白に関わりたいなら、腹の中見せてからにしろ!』

 すると朝日くんは一瞬だけぽかんとして、すぐにナギーに手を伸ばした。

「わあ、先輩の契約精霊ですか?! 性別の異なる精霊と契約するって、珍しいんじゃないですか?
 綺麗な髪と目と羽だなあ! もしかしなくても補色? 紫色と黄色って補色だよね? 美しいなあ! あ、これは黄色と言うよりも琥珀色かな?」

 ナギーをがしりと両手に収め、もともと宝石のように輝く瞳を、さらにキラキラさせてナギーを凝視する。

「えと、精霊が好きなの?」

 急に人が変わったように話す朝日くんに呆気に取られつつ、わたしは尋ねた。

「はい! 姉の影響で」

 姉、というときの朝日くんの表情は、とろけるように幸せそうで、それなのに、どこかかすかに狂気を感じるような笑みだった。

「ボクの契約精霊はビリキナっていうんです。あまりそばにいるときはないんですけど、機会があればまた紹介しますね! ちょっと変わってるやつですけど」

 もごもごと叫ぶナギーを右手に包み、朝日くんが言う。

「あの、それで、どうですか? 今日、会えますか?」

 ついさっきまでの行動が恥ずかしく思えたのか、ほんのり頬を赤くして(しかしナギーは離さない)、わたしに再度尋ねる。

「え、あ、うん、大丈夫」

 そう言った直後、ナギーがものすごい顔で睨みつけていることに気づいた。

 あっ、しまった、つい!

「やったあ!! じゃあお昼に本館の屋上で待ってますね! お昼ご一緒しましょ!」

 ちょうど校門に着いたところで、朝日くんはナギーを解放し、本館、第一館に向かって走っていった。

 13 >>191

Re: この馬鹿馬鹿しい世界にも……【※注意書をお読みください】 ( No.191 )
日時: 2021/07/04 14:06
名前: ぶたの丸焼き ◆ytYskFWcig (ID: FX8aUA2f)

 13

『真白さどうして受け入れちゃったわけどう考えても急に豹変しすぎだったでしょ演技に決まってるでしょあんなのどうしてわかんないかなまったくもう』

 昼休みに第一館の屋上に向かう道中も、ナギーはわたしに延々と嫌味を言っていた。散々忠告したわたしにそれを無視され、挙句朝日くんに羽交い締めされたおかげで、ナギーの不機嫌度は最高潮だった。

『まあ、人がいいのは真白の長所だからね。欠点でもあるけど』
「ごめんなさい」

 何回謝ったことだろう。二桁いっててもおかしくないと思う。 

『それにしても、やっぱりあいつ、おかしいよ。かなり強引に真白を誘ったでしょ? なんか企んでるよ、絶対』

 そうなの、かな。わたしには、ただのいい人に見えるけど。
 姉に両親を殺された人にしては、全然暗くないし、むしろ明るくて、雰囲気もなんだか幼くて、弟って感じがする。
 いや、まあ、姉に両親を殺されたのに普通過ぎるっていうのも、それはそれで不気味ではあるけれど。
 それに、「姉」って言った時のあの表情。親の仇に向ける表情ではない気がする。昨日も花園さんを教室まで探しに来たみたいだし。きっと、花園さんのことが大好きなんだろうな。

 そこまで考えて、わたしはとある考えが浮かんだ。
 やっぱり、《白眼の親殺し》は本当じゃないんだ。花園さんが人殺しっていうのも、でまかせなんだ。

 そう思うと、足が軽くなった。なんだ、そうなんだ、そっか。

 わたしは少し気分良く、朝日くんの待つ屋上への扉を押し開けた。

 ぎいっ

 やや錆び付いた扉が、不快な金属音をたてて重々しく開く。秋の心地よく冷えた風が校舎に吹き込む。

「先輩!」

 満面の笑みを浮かべた朝日くんが、わたしに駆け寄った。

 14 >>192

Re: この馬鹿馬鹿しい世界にも……【※注意書をお読みください】 ( No.192 )
日時: 2021/07/05 13:30
名前: ぶたの丸焼き ◆ytYskFWcig (ID: JSwWcgga)

 14

「第一館まで足を運んでくださって、ありがとうございます」

 そう言って朝日くんは、首を傾げる。

「もしかして先輩、学食なんですか? だったら食堂で待ち合わせた方が良かったですね」

 え、なんのこと?
 わたしは首をひねったあと、ああ、と頷いた。

「ちがうよ。わたしのお昼ご飯はこれ」

 わたしは右手に包んでいた紙を朝日くんに見せた。

「これね、すごいんだよ。飴玉なんだけどね、すぐにお腹がふくれるんだよ」

 包み紙を開くと、中から白色の飴玉が姿を現す。透明感はなく、艶はあれど、色は濁っている。
 朝日くんはなぜか顔をしかめて、わたしに言った。

「お腹がふくれるのは飴玉に込められた魔力が脳に作用して満腹中枢を刺激するからですよね。あまり体にいいとは言えません」

 まんぷくちゅうすう?
 わたしはこの飴玉を、村の小さなギルドでよく貰ったり買ったりしている。そのときの注意事項にそんな言葉が出てきたような気がする。食べ過ぎは良くないとだけ理解したけど。

「もしかして、知らないんですか? それはあくまで非常時に満腹感を紛らわせるために使うもので、常用していいものじゃないんですよ。食事はきちんと摂って、栄養を補給しないと、冗談抜きで死にますよ」

 厳しい顔をして、首を傾げていたわたしに言う。心配してくれてるのかな。

「だい」
「大丈夫とか、通じませんからね」

 わたしと朝日くんの声が重なった。
 それから朝日くんは顎に手を当てて、ぶつぶつと呟く。

「姉ちゃんは自覚がある分まだマシなのか? いや、自覚がないということはまだ救いがあるのか。姉ちゃんは危険性を理解した上で使ってたからな」

 姉ちゃん? 姉ちゃんって、花園さんのことだよね? 花園さんも食べるんだ、これ。でも、そんなところ見たことないけどな。あーでも、確かに使ってそう。

「姉もよく、その飴をなめてました。姉は他の人とは何かが違うので長期間の使用も平気でしたが、危ないと感じたら通常の食事を摂っていました」

 ……。
 言われなくったって、わかってるよ。でも、出来ないんだもん。仕方ないじゃない。お金が無いから、たまにしかお昼は食べられないの。

「だから、明日からボク、先輩の分のお弁当作って持ってきます!」
「へ?」
『は?』

 朝日くんは瞳をきらきらさせて、わたしに言った。
 え、なんで? どうしてそんなことをしてくれるの?

「普段からたまに夕食作ったり、お弁当を自分で作ったりしてますので、食べられるくらいの料理なら作れますよ!」
「え、えっと」
『真白、止めておけ。何を盛られるかわからないぞ』

 ナギーがわたしに言う。
 盛られる? なにを?
 でも、流石に悪いよね。断ろう。

「ごめんね、そこまでしてもらうわけにはいかないや」

 朝日くんは、何故か不思議そうな顔をして、それから、頷いた。

「わかりました」

 そして、申し訳なさを滲ませた顔で笑う。

「急に変なことを言ってしまってすみません」

 15 >>193

Re: この馬鹿馬鹿しい世界にも……【※注意書をお読みください】 ( No.193 )
日時: 2021/07/06 23:14
名前: ぶたの丸焼き ◆ytYskFWcig (ID: zvgOH9ns)

 15

 朝日くんはお弁当を食べながら、わたしの話を聞いてくれていた。好きなこととか嫌いなこととか。ナギーに言われたからあまり詳しい自分のことは言わなかったけれど。でも、こういうのって久しぶりな気がする。

「そういえば、先輩は普段どこでお昼を食べているんですか?」
「うーん、わたしは飴をなめるだけだから、教室を出たりとかはしないかな。
 あ、でも、こうやって外で食べるのもいいなって、今日思ったよ」

 第一館の屋上だから人が多いのかなと思っていたけれど、そんなことは無かった。まばらにいることは確かだけど、どちらかというと四季の木の周りの方が人が多い。
 静かに風に吹かれるのも、いいなって思った。

「よかったです!」

 お弁当を食べ終わったらしく、朝日くんはお弁当箱を片付け始めた。
 この時間は、もうすぐ、終わるんだ。

「では、また会えたら」

 そう言って朝日くんはベンチから腰を浮かせて、わたしに笑いかけた。
 あれ、次を誘ってはくれないんだ。

 そう思ってわたしは、『何か』を口にしようとした。それが何なのか、じぶんでもわからなかった。

 なに、期待してるの。へんな夢はみちゃだめって、わかっていることじゃない。
 わたしは、誰の『トクベツ』にもなれないんだから。

『何か』を喉に押し込んで、別の言葉を発する。

「うん、またね」

 わたしはさみしい気持ちをひたすらに抑えて、消えていく朝日くんの体を見つめていた。
 やがて姿が見えなくなって、ナギーは言った。

『とりあえず、次の約束はしなかったな』
「そう、だね」
『ん? どうした、いいことじゃないか。自衛は自分にしか出来ないんだぞ?』
「う、ん」

 朝日くんとはいつもいる館もクラスもグループも違う。もしかしたら、もう会えないのかもしれない。会えたとしても、朝日くんはわたしに話しかけてくれるのかな。

 どうしてだか、わたしは自分の心臓が縮んでいくような錯覚を覚えた。

 針で心臓を中から突かれるような、そんな、不快な痛みとともに。

 16 >>194

Re: この馬鹿馬鹿しい世界にも……【※注意書をお読みください】 ( No.194 )
日時: 2021/07/07 20:40
名前: ぶたの丸焼き ◆ytYskFWcig (ID: Cb0oSIti)

 16

 あれから数日経った。予想通り、全然朝日くんには会えていない。そして何故か、ナギーがいなくなった。こういうことはたまにあるから心配してはいないけど、ナギーの忠告を無視してしまったわたしに呆れちゃったのかなとか考えてしまう。

 でも。

 ナギーがいないから、朝日くんと会うことを否定する人がいなくなった。
 会いに、行こうかな。

 って、なに考えてるの! わたしに呆れちゃったんだったら、わたしは尚更ナギーとの約束を守らないといけないのに。

「それ、ほんとなのか?」

 わたしの後ろで、笹木野さんの声がした。どうやら、花園さんとなにかを話しているようだ。

「うん」

 教室は他の人たちの声で騒がしいけれど、わたしと花園さんの席は比較的近い。辛うじて声を拾うくらいなら、なんとかできる。

「やっぱり、私が悪い影響を与えてしまっているんだと思う」
「日向だけが原因じゃないだろ」
「そうかもしれない。でも、私はあの子に近いから」

 あの子? あの子って、誰だろ。
 朝日くん、かな。

 朝日くんって、花園さんの弟なんだよね。花園さんは、朝日くんのお姉さんなんだよね。

 ……。
__________

 その日のお昼休み。わたしは第一館の屋上に来ていた。前に来た時よりも冷えた風に身を震わせ、周りを見回す。人はいる。でも、朝日くんはいない。

 わたし、なにしてるんだろ、どうしちゃったんだろ。何しに来たんだろう。気づいたらここにいた。朝日くんを探しに来たの? なんのために?

 いいや、帰ろう。
 そう思って、わたしは足を後ろに向けた。

「あ、先輩!!」
「うわあああっ!」

 真後ろにいた朝日くんに驚き、わたしはバランスを崩して体が後ろに引かれた。
 すかさず朝日くんが左手を伸ばして、わたしの右手をつかむ。そのままぐっと体を引き寄せられ、わたしは転ばずに済んだ。結構、力が強いんだ。

「また驚かせてしまいましたね」

 えへへ、と頭をかきながらはにかむ。

 久しぶり、と言っても一週間ぶりのその表情を見て、わたしは名前のわからない『何か』が心の中に湧き上がった。

 17 >>195

Re: この馬鹿馬鹿しい世界にも……【※注意書をお読みください】 ( No.195 )
日時: 2021/07/09 22:03
名前: ぶたの丸焼き ◆ytYskFWcig (ID: 9AGFDH0G)

 17

 朝日くんはにこにこと笑って、元気に言った。

「どうぞ!」

 わたしたちは横並びにペンチに腰かけていた。朝日くんが肩から提げていた鞄から、お弁当箱を取り出して、わたしに渡す。

「作ってきました!」
「えっ?! そんな、悪いよ!」
「先輩に倒れて欲しくないので。
 あ、それとも、ボクの料理は食べたくないですか?」

 上目遣いでこちらを見る朝日くんに、わたしは罪悪感を膨らませた。
 うーん、食べようかな、いや、でも、うーん。

 正直に言うと、すごく食べたい。朝日くんは「中身見せますね!」と言ってお弁当箱の蓋を開けている。
 真っ赤なプチトマトにぷりぷりした卵焼き。きゅうりのサラダに輝く白米、そしてメインディッシュなのであろう二つのミニハンバーグ。

「こんな定番のものですみません。先輩の好みがわからなかったので、とりあえず万人受けしそうなものを作ってきたんです。トマトはあまり人気がないみたいですけど」

 わたしは好き嫌いがない。食べられるものを食べられるときに食べる。好きだとか嫌いだとか、そんなことは言ってられないのだ。
 そしてあさひくんのお弁当は、単純に、美味しそう。
 というか、料理上手なんだね。わたしより上手い。なんか、複雑。

「えへへ、やっぱり、いらないですかね。ボクなんかの……」

 朝日くんはそう言いながら、お弁当箱を鞄に仕舞おうとする。

「え、あ、食べる!」

 わたしは咄嗟にそう言ってしまった。あ、と気づいた時にはもう遅い。次会った時、ナギーに色々言われるんだろうなあ。

 でも。

 わたしは、朝日くんの心の底から嬉しそうなこの笑顔を見ていると、なんだかとても、幸せな気分になるのだった。

 18 >>196

Re: この馬鹿馬鹿しい世界にも……【※注意書をお読みください】 ( No.196 )
日時: 2021/07/09 22:02
名前: ぶたの丸焼き ◆ytYskFWcig (ID: 9AGFDH0G)

 18

「ああ、そうだ!」

 お弁当を食べ終わってまたわたしが話していると、朝日くんは急に大きな声を出した。どうしたのとわたしが訊くよりも先に、がさごそと自分の鞄を探り始める。

「あの時のお詫び、まだしてませんでしたよね」

 お詫び?
 あ、初めてあった日にぶつかったことかな。あんなの、もういいのに。

 朝日くんは小さな箱を取り出した。蓋付きの箱で、その蓋は下の箱をすっぽりと包むタイプの大きなものだった。

「会って間もないのにこれを渡すのは失礼かなと思ったんですけど、先輩さえ良ければ」

 そう言いながら手渡された箱を、わたしはおそるおそる受け取った。箱は木製で、滑らかで暖かな感触が心地良かった。重量はあまりないようで軽い。箱の大きさは片手に乗せても余るくらいなので、中身も小さな物なのだろう。

「いま開けてもいいの?」
「もちろんです」

 その答えを聞いて、わたしは蓋を開けた。構造上少し開けにくかったけれど何とかして蓋を外し、中を見る。

 これは、ペンダントかな? 細い、縄のような紐に、硬い鱗が一つ通されている。鱗は青く光る漆黒で、表面はつるりとしていた。厚みは五ミリよりもやや大きいと思われるので、魚の鱗ではない、と思う。

「女性に贈る物ではなかったですね」

 わたしがなんの反応も示さなかったことに、朝日くんはわたしがペンダントを気に入らなかったのだと解釈したようだ。
 わたしは慌てて否定する。

「そ、そんなこと、ないよ! わたしは、うれしいよ!」

 朝日くんから何かを貰えたということ自体が、すごく嬉しいの。
 そんなこと恥ずかしくて言えないけど、でも、これが本心。心の底から嬉しい。

「大事にするね、ありがとう」

 朝日くんは安心したように笑った。

 19 >>197

Re: この馬鹿馬鹿しい世界にも……【※注意書をお読みください】 ( No.197 )
日時: 2021/07/10 11:51
名前: ぶたの丸焼き ◆ytYskFWcig (ID: Di8TedTz)

 19

「でも、これはなんの鱗なの?」
「竜です」
「りゅっ?!」

 なんでもないことのように朝日くんは言うけれど、確か竜の鱗は高級品だったはず。竜は『神の使い』と呼ばれるほどの伝説的な生き物で、『一度でもその姿を見れたなら、その人の一生は幸福に包まれるだろう』なんて言い伝えもあるほど。ちなみにドラゴンハンターは『堕竜』と呼ばれる下界人に災いをもたらすであろうと予想される竜しか狩ってはいけないとされている。これは国際法で定められているけれど、破る人も多いってモナが言ってた。
 それは、竜の鱗は守護の力を、堕竜の鱗は破滅の力を持つとされ、堕竜の鱗よりも竜の鱗の方が貴族の人達が買いたがるんだって。

「あ、違いますよ! これは買ったんじゃなくて、竜にわけてもらったんです!」

 わけてもらった?
 ということは、朝日くんは竜にあったことがあるの?

「内緒ですよ。竜と関わったことのある奴なんて、ボクくらい……」

 朝日くんは不自然なところで言葉を切った。
 けれどそれは極一瞬のことで、すぐに言葉を続ける。

「なので、これは二人だけの秘密です。お守り代わりに服の下にでも隠して持っていてください」

 秘密。
 そのたった三文字の言葉がやけにわたしの心に絡みついて、やけに甘く感じて。それはまるで、蜂蜜のようだった。

「ボク、いつもここで食べているので、気が向いたら来てください。先輩が来るまで、本でも読んで待ってますから」

 朝日くんは鞄から、カバーがかけられた本を取り出した。本が入っていたんだ。

「うん。えと、それじゃあ」

 わたしは自分の頬が緩むのを自覚した。

「またね」

 またね。次に会おうねという、約束。

 朝日くんは、とても優しげな笑顔で、頷いた。

 20 >>198

Re: この馬鹿馬鹿しい世界にも……【※注意書をお読みください】 ( No.198 )
日時: 2021/07/10 21:59
名前: ぶたの丸焼き ◆ytYskFWcig (ID: 4QFpS9Ez)

 20

 それからというもの、わたしたちはほぼ毎日お昼に一緒にいるようになった。朝日くんは敬語は外れないものの、話し方や声のトーンが、かなり打ち解けたものになっている。

「え、朝日くん、入学試験の筆記テスト、クラスで五十位より上だったの?!」

 以前はわたしばかり話していたけれど、最近になって、朝日くんも自分のことを話してくれるようになっていた。

「はい。そもそもボクはバケガクに入学することを祖父母から反対されていたので、前に通っていた学校の定期試験とバケガクの入学試験で成績上位者に入れなかったら入学を認めないって言われて」

 反対されていたの? どうしてだろう。確かにバケガクは世間一般から見て蔑まれている。でも世界的に有名な生徒や卒業生だっているし、なにより入学出来る生徒は限られている。なんだかすごい先生も集まっているから、教育環境は整っているらしいのに。

「姉が、いますから」

 わたしが疑問に思っていることを察したのか、朝日くんは寂しげに話してくれた。

「祖父母は、特に祖母は、姉のことを毛嫌いしていて、姉もボクを遠ざけようとしていて、『あの事件』から一度もあったことがなかったんです。ボクは会いたかったんですけどね」

 朝日くんは、ぎこちなく笑う。その表情にはいつになく憂愁の影が落ちていた。

「お姉さんのことが好きなんだね」

 わたしはなにを言うべきなのかわからず、でもなにかを言った方がいい気がして、そう言った。

「姉は、すごい人なんです。本人は、隠しているみたいですけど」

 朝日くんは、ぐしゃりとズボンにしわを作った。その声はなんだか悔しげで、苦しげだった。
 花園さんが何かを隠しているというのは、なんとなく察しがついていた。春にあった《サバイバル》でダンジョンに潜ったときも、わたしと同じⅤグループとは思えないくらい落ち着いていたりして、なんだか、ダンジョンに慣れているような印象を受けた。花園さんはあまり自分のことを話さない。わたしなんかには尚更だ。

「す、すみません。雰囲気悪くしちゃって」

 いつもよりも元気の無い、無理して作ったような笑顔を浮かべて、朝日くんは硬い声を発した。それを見て、わたしはなぜだか胸が痛んだ。

 21 >>199

Re: この馬鹿馬鹿しい世界にも……【※注意書をお読みください】 ( No.199 )
日時: 2021/07/11 11:02
名前: ぶたの丸焼き ◆ytYskFWcig (ID: 4QFpS9Ez)

 21

「大丈夫だよ。気にしないで?」

 朝日くんのような綺麗な笑みは浮かべられないけれど、それでもわたしなりに、精一杯の笑顔を見せた。

「わたしは話してくれて嬉しいよ。いつもわたしが話してばかりだもん。無理も良くないし」

 そう。無理は良くない。ストレスを溜め込んでも、良いことなんて何も無い。自己嫌悪に陥って、抜け出せなくなるだけだ。
 だから、もっと話して欲しい。

「わたしで良ければ聞くよ。もちろん、朝日くんが良ければだけど」

 そう言ったはいいけれど、朝日くんの顔に、先程までの明るい笑みが戻ることは無かった。

「ふー」

 その代わりに大きなため息を吐いて、目に光を取り戻した。

「ありがとうございます! 優しいんですね、先輩」

 知ってましたけど、と笑って、手早く弁当箱をしまった。

「今日は調子が悪いみたいなので、これで失礼しますね。ありがとうございました」
「あ、うん、じゃあね」

 そう言ってわたしは手を振った。少し、寂しいなと思ってしまった。
 その時だった。

「まーしーろー!」

 久しぶりに聞いた、スナタさんの声が耳に飛び込んだ。声がした方向を振り向くと、長く淡い桃色の髪を秋の風にたなびかせて、大きく手を振っていた。小動物のように近くに駆け寄り、ふにゃりと笑う。

「真白もここでご飯食べてたんだね。ここ、お気に入りだったりするの?」

 急に会話が始まって戸惑ったわたしは、ほとんど無意識で首を横に振った。

「えっと、朝日くんに誘われて」
「朝日くん?」

 そこで初めて朝日くんに気づいたようで、「あっ!」と声を上げた。

「ひなたー! この子って、日向の弟くんじゃない?」

 すると、腰を浮かせてわたしに背を向けていた朝日くんは首を痛める勢いで振り向いた。
 そしてスナタさんの目線の先を追い、花園さんの姿を見つけたらしく、直線的に突進した。

「姉ちゃん!」

 花園さんは避けるでもなく優しく受け止め、そのあと自分の体から朝日くんを離した。その表情はあからさまに嫌そうで、朝日くんはむっと頬をふくらませる。

「なんだよその顔! 久しぶりに会えたのに!」
「家でも会ってる」
「学校で会ったのは久しぶりだろ! それに、帰ってこなかったり部屋から出なかったりして、一緒に暮らしてても会えないことの方が多いじゃんか!」
「……」
「こらあっ! 無視するな!」

 花園さんは相変わらずの無表情だけど、雰囲気はとても仲良しで、わたしは二人が姉弟なのだと嫌でも再確認させられた。

 22 >>200

Re: この馬鹿馬鹿しい世界にも……【※注意書をお読みください】 ( No.200 )
日時: 2021/07/11 22:10
名前: ぶたの丸焼き ◆ytYskFWcig (ID: KS1.rBE0)

 22

 あれ?
 わたしはふと、とあることに気がついた。その疑問を問おうと思ったほぼ同時に、スナタさんが質問した。

「日向、朝日くんと一緒に住んでるの?」

 確か二人は例の事件がきっかけで、離れて暮らしていたそうな。さっきの話といい寂しげな朝日くんの表情といい、てっきりいまも別の家に住んでいると思ってたんだけど。

「おじいちゃんとおばあちゃんが亡くなったから」

 !
 な、くなった? じゃあ、二人の家族はもう、二人だけになったんだ。

「あっ、そうなんだ、えと、あの」
「気にしなくていい」

 スナタさんが申し訳なさそうに縮んでいるのを、花園さんがなだめた。そう言う花園さんの表情は、少しだけ、ほんの少しだけ、悲しそうだった。
 お祖父さんとお祖母さんには、大事にしてもらっていたのかな。

「私の弟である朝日を受け入れてくれる親戚なんていなかったし、それよりもまず朝日が他の家に行くことを拒否したの。これ以上無理をさせるのも嫌だったから」
「だって、あいつら嫌いだもん。姉ちゃんの悪口ばっかり言ってるし」

 むすっとしつつも甘えた声で、朝日くんが花園さんに言う。花園さんが朝日くんの頭を撫でた。朝日くんは幸せそうに、にへへ、と笑う。さっきまでの暗い雰囲気が嘘のようだ。

 やっぱり、朝日くんの中では、わたしよりも花園さんの方が上なんだな。いや、わかっていたことだけど。朝日くんが花園さんのことを大好きなのは、話している中でもわかる。
 でも。

 胸が痛い。この気持ちは何? チクチクして気持ち悪い。苦しい。これは、何なの?

 わたしは胸に手を当てて、服越しに朝日くんから貰った竜の鱗のペンダントを強く握りしめた。

 23 >>201

Re: この馬鹿馬鹿しい世界にも……【※注意書をお読みください】 ( No.201 )
日時: 2021/07/12 15:02
名前: ぶたの丸焼き ◆ytYskFWcig (ID: KS1.rBE0)

 23

「真白、なんだか変な臭いするわよ」

 家に着いて唐突に、モナがわたしにそう言った。眉間にしわを寄せて、不快そうに顔をしかめている。

「ええっ?!」

 お風呂には毎日ちゃんと入っているし、今日は汗をかくような出来事もなかった。体に臭いがつくことはないはずなのに!

「うん、するニャ。ましろ、なにかあったニャ?」

 キドが首を傾げた。その声音は心配そうで、わたしはそのことに違和感を覚えた。

「ごめんなさい、真白。言い方が悪かったわね。私が言った『臭い』は『オーラ』のようなもののことなの。嫌な『気』を真白から感じる。何か変なものが取り憑いているんじゃないかしら?
 最近調子が悪いとか、体に異常があったことってない?」

 体に異常? うーん。
 わたしはしばらく考えた。腕を組んでそれっぽい格好をしながら。

「そういえば、なんだかよく胸がチクチク痛むようになったの。それくらいかな?」
「それってどんなとき?」
「えっと、最近朝日くんとお昼一緒してるって言ったことあるでしょ? 昼休みが終わって朝日くんとさよならするときとか、あと今日、花園さんが屋上に来てね、朝日くんが花園さんにべったりだったの。それを見たときも痛かったかな」

 すると、鋭かったモナの眼光がふっと緩み、代わりにキラキラとした光が宿った。そしてそれから、にやにやと笑い始める。
 え、なに?

「真白、それって『嫉妬』じゃない?」
「しっとぉぉおおおおおお?!」

 自分の口から信じられないくらい大きな声が出て、わたしは思わず口を抑えた。

「どうしたんだい真白。大きな声を出して」

 今日は早めに帰ってきていたらしいおばあちゃんが、ひょこっと顔をのぞかせる。

「なっ、なんでもない!」

 わたしは慌てて自分の部屋に駆け込み、ぴしゃんとドアを閉めた。
 なのに、部屋にはしれっとモナがいた。さすがモナ。羨ましいくらい動きが早い。

 24 >>202

Re: この馬鹿馬鹿しい世界にも……【※注意書をお読みください】 ( No.202 )
日時: 2021/07/12 15:01
名前: ぶたの丸焼き ◆ytYskFWcig (ID: KS1.rBE0)

 24

「うん。何かが取り憑いているんじゃないかと思ったけど、どうやら違うようね。真白が『嫉妬』の感情を抱いたのはあまり喜べることではないけれど、これも成長だものね。私は見守るわよ」
「何の話?!」
「え? 好きなんでしょう? 朝日くんのことが」
「ちっ、ちがっ」

 わたしは自分の頬が赤くなるのを自覚した。体中が熱い。まるで炎を吹きそうなくらい。
 わたしが最近感じていた感情は、『嫉妬』だったの?

 わたしは初めて、自分の感情に気づいた。

 おそらく、それがきっかけだったのだろう。

『そうじゃよ』

 耳元で、声がした。女性のように思う。成人した女性特有の高い声。

 わたしはばっと後ろを見た。
 誰も、いない?
 そこには、部屋の壁に取り付けられた小さな窓と、そこに映る鮮やかな秋色に染まった赤い木々だけだった。

「どうしたの?」
「い、いま、後ろに、誰か」

『後ろになぞおらんよ』

 また声がした。今度は耳元ではなく、わたしの体から溢れるように響いた。その瞬間、わたしの胸が激しく痛んだ。
 わたしは痛みのあまり声も出ず、痛む箇所辺りにある服をぐしゃりと掴んだ。
 そして、しゃがみこむ。

「真白! どうしたの?!」
「い、たい。むねが、いたいの……」

 辛うじてそう伝えた。わたしの声はかすれていて、我ながら聞き取り辛いだろうと思うようなものだったけれど、モナは正確に聞き取ってくれたようだ。

「胸が!? 大変、おばあさんを呼んでくるわ!」

 霞む視界の中で、モナがドアから飛び出していくのを見た。
 行かないで。そう思いはするけれど、声が出ない。手を伸ばそうとするも、実際は右手がピクリと動いただけだった。

 ばたんっ!

 突然、開けっ放しにされていたドアが閉じた。そこには、誰もいないはずなのに。

『邪魔な奴は消えたな』

 その声は、明らかに今までとは違っていた。
 初めに聞いた、耳元で囁く声でもない。
 体中から響く声でもない。

 わたしに襲い掛かるように、後ろから、這い寄るように声が響いていた。

 おそるおそる振り向くと、そこには。

 小さな箱に無理やり押し込められたような姿勢で佇む、巨大な竜がいた。青く光る黒い鱗がその身を包み、目は恐ろしいほど鋭くギラギラと黒く光っている。

「り、りゅう」

 カタカタと震える口から、そう声が漏れた。

『いや、違うぞ。わらわは海蛇じゃ。竜なぞと一緒にするでない。彼奴あやつは竜だとそなたに伝えていたようじゃがの』
「あやつ?」

 海蛇はわたしの問いに答えず、フンと鼻息を吹いた。

『さて、本題じゃ。人間よ、妾と契約を結べ。妾は『七つの大罪』がひとり、『嫉妬の大罪の悪魔〔レヴィアタン〕』じゃ。光栄に思え。妾に出来ぬことなど数少ない。そなたの願いをなんでも叶えてやろう。その胸の痛みも、すぐに取り除いてやろう』

「なん、でも……?」

 その言葉が、わたしにはとても甘美なものに聞こえた。わたしはいままで、ずっと我慢してきた。本当はもっと美味しいものをいっぱい食べたい、綺麗なものを着てみたい、魔法をたくさん使いこなせるようになりたい、魔力が欲しい、足が早くなりたい、剣を扱えるようになりたい、本当の、家族に、会いたい。

『思った通りじゃ。そなたは欲に満ちていながら、発欲に飢えておる。そういった人間は、悪魔との契約に適性があるのじゃ』

 レヴィアタンは愉快そうに笑いながら、その口から青い炎を吹き出した。メラメラと揺らぐ炎の中から、一枚の羊皮紙と羽根ペンが落ちる。

『契約書じゃ。一番下にそなたの血を染み込ませた羽根ペンで名を記せ。それで契約は完了する』
「血?」
『ああ、そうじゃ。そなたのような人間は、簡単に血を流す。少し痛いのを我慢するだけじゃ。それだけで妾のような高等な悪魔と契約を結べるのじゃ。なんせ妾は『七つの大罪』の悪魔なのじゃからの」

 七つの大罪。確か、モナから聞いたことがある。あまり覚えていないけれど、他の悪魔とは明らかに違う強い力を持つ悪魔だとだけ覚えてる。
 そんな悪魔と契約出来れば、わたしは……!

 わたしは羽根ペンを手にし、左手の平に先端を当てた。心臓の音が早鐘のように鳴り響き、右手は震える。炎の中から出てきたにも関わらずヒヤリと冷たい金属の感触に、恐怖を覚えた。

「っ!」

 わたしは羽ペンを突き刺した。じわじわと滲むような、それでいて一点に集中する痛みに顔をしかめる。
 羽ペンの先端があか色に染まったことを確認し、わたしは契約書にそれを走らせた。書き終えると、殴り書きで潰れた文字が鈍く青く光った。

『契約完了じゃな』

 こころなしか楽しそうに響く声が、遠くに聞こえた。

『おい、まだ気絶するでない。胸の痛みは治まったであろう。
 説明することがあるのじゃ。まず、普段妾はそなたが持つペンダントに宿っておる。妾の気まぐれが起きぬ限り、心話が可能じゃ。それからそなたはこれ以降、自由に妾の力を使うことが出来る。もちろん限度があるがの。まあそれはおいおい自分で体験するがよい。それから……』

 まだ何か言っている。でも、そのほとんどをわたしは聞き取ることが出来なかった。視界もだんだんぼやけてきている。胸の痛みはないけれど、頭がぼうっとしてきた。
 わたしは自分でも気付かぬうちに、意識を途絶えさせた。

 第二幕【完】