ダーク・ファンタジー小説
- Re: この馬鹿馬鹿しい世界にも……【※注意書をお読みください】 ( No.309 )
- 日時: 2022/10/06 05:13
- 名前: ぶたの丸焼き ◆ytYskFWcig (ID: 4CP.eg2q)
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今朝リンたちを入れていたあの箱を確認したら、中身が空だった。リンだけならまだしも、ナギーまでいない。死んだことで消滅したわけではないように思う。そもそも精霊が死んだときに自力で出られるわけがない。ジョーカーが回収したのかな。それとも姉ちゃんが見つけたのかな。どうでもいいや。そもそも何が気になって確認したんだっけ。
ああ、そうだ。リンが死んだのかどうかが気になってたんだった。あれ、『どうして』気になっていたんだっけ?
──どうでもいい。
ボクは手袋を着けて一階のリビングに向かった。そこには既に姉ちゃんがいて、新聞を開いて椅子に座っている。机の上には二人分の朝食が乗っていて、遠目からでも湯気が立っているのがわかる。
「おはよう、姉ちゃん」
頬の筋肉を持ち上げてみる。姉ちゃんはちょっとだけ目を細めて、言葉を返した。
「おはよう」
そして、少し首を傾げる。
「体調、どう?」
苦しい。
「大丈夫だよ」
なんで?
「一晩寝たらスッキリした」
苦しい理由が、わからない。何が苦しいのかも、わからない。
いいや。どうでもいい。
「そう」
感情のこもっていない声と目で応えて、姉ちゃんは新聞に目を落とした。なんだか難しい顔をしている。
「どうしたの? なにが書いてあるの?」
「龍馬が行方不明。神獣が暴れてる」
あまりにも淡々とした口調で、ボクはその言葉を理解するのに少しの時間が必要だった。
「え……」
頭からつま先まで、一気に体温が下がったような気がした。サアッと音が聞こえるくらい。もちろんそれらは錯覚だけど、この焦りは、錯覚じゃない。
「キメラセル、ニオ・セディウムの両方を合わせた上での神獣の中の最上種〈フェンリル〉。初めて出現した場所は明らかになっていない。[黒大陸]のどこか、らしい。
龍馬の行方不明と関係がある可能性があるって書いてる」
姉ちゃんはそこで一度言葉を止めて、新聞を置いてボクに向き直った。
「朝日、よく聞いて」
なんの感情も浮かばない姉ちゃんの目が、ボクを見る。虚ろで、空っぽで、だけどそれでも、他の誰よりも美しい、姉ちゃんの瞳。
「カツェランフォートの当主は、昨日、屋敷に大陸ファーストの人間が侵入したと主張している」
笹木野龍馬が消えたというのに、姉ちゃんはちっともうろたえていない。どこを取って見てもいつも通りだ。ちょっと残念。
「朝日、聞いて」
やや語気を強めて、姉ちゃんが言った。
「戦争が、起こる。今すぐでなくとも、確実に」
戦争。それがこの世に実在するものだということ自体はボクも知っている。記事の大きさは別として毎日のように新聞に世界のどこかで起こっている戦争のことが書いてあるし、学校でも、戦争で家族を亡くしたとか、あるいは生徒自身が戦争に行くとかで学校を休んだりする人が結構いる。だけどボクがそれを体験したことはない。だから戦争というものがどれだけ恐ろしく残虐なものなのかはよくわからない。戦争経験者からの話や学校の授業でそれらを伝えられたりはするけれど、自分で経験したわけではないのだから漠然と『怖いもの、恐ろしいもの』としか思えないのも無理ない。そう。無理ないのだとわかって欲しい。わからないのだ、戦争など。
「この大陸ファーストには結界がある。でも、わかっていると思う。もうほとんど機能していない」
姉ちゃんは、一拍おいて、言った。
「神は、この地を見放した」
──ま、そうだろうね。
この地は清らかであるべきだった。けれど、穢れてしまった。いわゆる、『神に選ばれた』人々によって。
世界の滅亡から逃れるための方舟は、とうの昔に崩れてしまった。これから起こるであろう戦争の引き金はボクであっても、根本的な原因は他にあるのかもしれない。
「この地に神の加護は、もう存在しない。この地に安全な場所は存在しない」
そうだね。だけど、唯一安全だと言える場所が、この世界にはある。
「朝日」
姉ちゃんがボクを呼んだ。そちらに顔を向けると陰が落ちた、二つの空虚な目がボクを見ていた。瞳にボクが映っているかどうかはわからない。
「大陸を、出ようか」
急に言われて驚きはした。だけど。
「うん、わかった」
ボクは笑顔で頷いた。ボクが姉ちゃんを疑うなんてあり得ない。あってはいけない、そんなこと。
どうして?
どうしてもだ。何があっても覆ることはない。
「どこに行くの?」
姉ちゃんは目を伏せた。どういった感情がそうさせたのか、それを知る術はボクにない。
「バケガクへ」
なんとなくだけどそんな気はしていた。というか、頼れる人のいないボクたちがここを出て受け入れてくれる場所なんてあそこしかない。ボクは、まあ、なんとかしようと思えばなんとかなるけどさ。
「その前に、本家に行こう」
姉ちゃんはいつの間に出していたのか、机の上の本家からの手紙を指した。ああ。そういえばあったね、そんなもの。
「本家に行った帰りにそのままバケガクに行く。持って行きたいものがあれば持って行っておいて。もうこの家には戻らない」
姉ちゃんがまっすぐに、ボクを見る。
「この家には、火を放つ」
ボクは自然と笑みが溢れた。
「いいね」
この世界において光は、そして火は裁きを意味する。法を司る太陽神『ヘリアンダー』から由来する考え方だ。神聖なる火は物体をこの世から消すときにその物体に付属する、罪や穢れを落とし、清らかな状態で天界へ送るらしい。きっとこの家についた汚れも何もかもをそぎ落としてくれることだろう。
「準備が出来次第出発する」
「うん、わかった」
この家にいい思い出なんてあんまりない。持っていける思い出は、ほとんどない。最低限の必需品だけ持っていこう。それで足りるはずだ。
持っていきたい思い出など、皆無だ。
ボクは朝食を済ませると荷物をまとめるために自室に戻った。思い返すとこの家で過ごした記憶はひどく浅い。生まれてから十年と少し、それから八年は本家で過ごした。ボクの年齢からその年月を差し引いた年月しか、ボクはこの家で、この部屋で過ごしていない。この家に戻ってきたとき、この部屋に戻ってきたとき、ボクは確かに嬉しかった。でもそれはこの場所に何か情があったからではない。姉ちゃんはボクの部屋をボクがいた頃そのままにしてくれていた。そのことが姉ちゃんの中のボクの存在を示しているような気がして嬉しかった。それだけだ。
まず机上を見やる。あの木箱はいらない。
クローゼットを開ける。選択の必要は特にない。元々服の量が多くないから。本家で着ていた周りの大人から買い与えられた服は既に捨てた。戻ってきたとき服もそのままだったからそれを着ている。ボクはあの九年前の事件から全く成長していない。カチャカチャといらない音を鳴らしながら整理をしていると、真っ黒な衣装が目についた。ああ、そういえばあったね。これはどうしようか。持っていかなくていい気がする。もう使うことはないだろうし。なんとなくポケットを探ってみると、中から二つに欠けた白い石が出て来た。あの時の折れた奥歯はまた生えていた。というより元からそうであったようだった。どこからが夢で、どこまでが現実か。全て現実だったのか夢だったのか。とにかく、少なくともあの出来事は現実だったらしい。
いらない。
ボクは服をカバンに詰めてアイテムボックスに入れた。旅行用の大きな鞄はほとんどが余白だった。バケガクで使う教材は大抵学校のロッカーに入れてあるので、持っていくものはあまりない。あとは洗面道具を用意すれば、それでいいかな。
「ビリキナ、行くよ」
いつもの通学鞄に入ったビリキナに声をかけた。返事はない。昨日の夜目覚めてから妙に静かだ。姿すら見せようとしない。一度確認したからいることはわかってる。
「……いるよね?」
ちょっと不安になって念のため確認してみる。鞄を開けると、底で小さくなって座っていた。何も言わずに俯いているのかと思えばそうではなく、聞き取れないくらいの微かな声で何かブツブツ唱えている。どうかしたのと問いかけても返事はない。大して興味もないのですぐに閉じて鞄を肩にかけた。部屋の中を整頓して家の中をある程度見て、家を出る準備は整った。
リビングに戻ると、姉ちゃんがいた。ボクがリビングを出たときと様子はあまり変わっていない。静かな空っぽの二つの目を、真っ白な手で支える新聞に向けている。
「出来た?」
ボクにすぐ気づいたらしい姉ちゃんが、目だけをこちらに向けて問いかけた。
「うん」
多分姉ちゃんは既に用意を済ませていたんだろう。手早く新聞を畳み、並んだ食器はそのままにして立ち上がる。
「それじゃあ、行こうか」
何も盛られていない食器、机に置かれた真新しい新聞、そよ風に揺らされるカーテンと、カーテンから漏れる光に照らされるリビング。華やかさは微塵もない質素な場所だけど、生活感だけはちゃんとある。今から出かけるボクらの帰りを疑っていないと主張するような、空気。これから燃やされてしまうなんて、ただの少しも思っていないのだろう。
これが当然だったんだ。これが当たり前だったんだ。だけども一度外に出てしまえば、もう見れない。何故だろう。胸が苦しい。息はできるのに、苦しい。
「朝日?」
足が動かなかったボクを、姉ちゃんは不思議そうに見つめた。姉ちゃんは苦しくないのかな。どうして? どうして辛くないの? ボクとの思い出の形が消えてしまうのに? 燃えてしまうのに? なくなってしまうのに? 姉ちゃんはそれでいいの?
「ううん。なんでもない、行こう」
ぐしゃぐしゃに絡まった糸の玉を、ごくんと飲み込んだ。
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