ダーク・ファンタジー小説
- Re: この馬鹿馬鹿しい世界にも……【※注意書をお読みください】 ( No.309 )
- 日時: 2022/10/06 05:13
- 名前: ぶたの丸焼き ◆ytYskFWcig (ID: 4CP.eg2q)
1
今朝リンたちを入れていたあの箱を確認したら、中身が空だった。リンだけならまだしも、ナギーまでいない。死んだことで消滅したわけではないように思う。そもそも精霊が死んだときに自力で出られるわけがない。ジョーカーが回収したのかな。それとも姉ちゃんが見つけたのかな。どうでもいいや。そもそも何が気になって確認したんだっけ。
ああ、そうだ。リンが死んだのかどうかが気になってたんだった。あれ、『どうして』気になっていたんだっけ?
──どうでもいい。
ボクは手袋を着けて一階のリビングに向かった。そこには既に姉ちゃんがいて、新聞を開いて椅子に座っている。机の上には二人分の朝食が乗っていて、遠目からでも湯気が立っているのがわかる。
「おはよう、姉ちゃん」
頬の筋肉を持ち上げてみる。姉ちゃんはちょっとだけ目を細めて、言葉を返した。
「おはよう」
そして、少し首を傾げる。
「体調、どう?」
苦しい。
「大丈夫だよ」
なんで?
「一晩寝たらスッキリした」
苦しい理由が、わからない。何が苦しいのかも、わからない。
いいや。どうでもいい。
「そう」
感情のこもっていない声と目で応えて、姉ちゃんは新聞に目を落とした。なんだか難しい顔をしている。
「どうしたの? なにが書いてあるの?」
「龍馬が行方不明。神獣が暴れてる」
あまりにも淡々とした口調で、ボクはその言葉を理解するのに少しの時間が必要だった。
「え……」
頭からつま先まで、一気に体温が下がったような気がした。サアッと音が聞こえるくらい。もちろんそれらは錯覚だけど、この焦りは、錯覚じゃない。
「キメラセル、ニオ・セディウムの両方を合わせた上での神獣の中の最上種〈フェンリル〉。初めて出現した場所は明らかになっていない。[黒大陸]のどこか、らしい。
龍馬の行方不明と関係がある可能性があるって書いてる」
姉ちゃんはそこで一度言葉を止めて、新聞を置いてボクに向き直った。
「朝日、よく聞いて」
なんの感情も浮かばない姉ちゃんの目が、ボクを見る。虚ろで、空っぽで、だけどそれでも、他の誰よりも美しい、姉ちゃんの瞳。
「カツェランフォートの当主は、昨日、屋敷に大陸ファーストの人間が侵入したと主張している」
笹木野龍馬が消えたというのに、姉ちゃんはちっともうろたえていない。どこを取って見てもいつも通りだ。ちょっと残念。
「朝日、聞いて」
やや語気を強めて、姉ちゃんが言った。
「戦争が、起こる。今すぐでなくとも、確実に」
戦争。それがこの世に実在するものだということ自体はボクも知っている。記事の大きさは別として毎日のように新聞に世界のどこかで起こっている戦争のことが書いてあるし、学校でも、戦争で家族を亡くしたとか、あるいは生徒自身が戦争に行くとかで学校を休んだりする人が結構いる。だけどボクがそれを体験したことはない。だから戦争というものがどれだけ恐ろしく残虐なものなのかはよくわからない。戦争経験者からの話や学校の授業でそれらを伝えられたりはするけれど、自分で経験したわけではないのだから漠然と『怖いもの、恐ろしいもの』としか思えないのも無理ない。そう。無理ないのだとわかって欲しい。わからないのだ、戦争など。
「この大陸ファーストには結界がある。でも、わかっていると思う。もうほとんど機能していない」
姉ちゃんは、一拍おいて、言った。
「神は、この地を見放した」
──ま、そうだろうね。
この地は清らかであるべきだった。けれど、穢れてしまった。いわゆる、『神に選ばれた』人々によって。
世界の滅亡から逃れるための方舟は、とうの昔に崩れてしまった。これから起こるであろう戦争の引き金はボクであっても、根本的な原因は他にあるのかもしれない。
「この地に神の加護は、もう存在しない。この地に安全な場所は存在しない」
そうだね。だけど、唯一安全だと言える場所が、この世界にはある。
「朝日」
姉ちゃんがボクを呼んだ。そちらに顔を向けると陰が落ちた、二つの空虚な目がボクを見ていた。瞳にボクが映っているかどうかはわからない。
「大陸を、出ようか」
急に言われて驚きはした。だけど。
「うん、わかった」
ボクは笑顔で頷いた。ボクが姉ちゃんを疑うなんてあり得ない。あってはいけない、そんなこと。
どうして?
どうしてもだ。何があっても覆ることはない。
「どこに行くの?」
姉ちゃんは目を伏せた。どういった感情がそうさせたのか、それを知る術はボクにない。
「バケガクへ」
なんとなくだけどそんな気はしていた。というか、頼れる人のいないボクたちがここを出て受け入れてくれる場所なんてあそこしかない。ボクは、まあ、なんとかしようと思えばなんとかなるけどさ。
「その前に、本家に行こう」
姉ちゃんはいつの間に出していたのか、机の上の本家からの手紙を指した。ああ。そういえばあったね、そんなもの。
「本家に行った帰りにそのままバケガクに行く。持って行きたいものがあれば持って行っておいて。もうこの家には戻らない」
姉ちゃんがまっすぐに、ボクを見る。
「この家には、火を放つ」
ボクは自然と笑みが溢れた。
「いいね」
この世界において光は、そして火は裁きを意味する。法を司る太陽神『ヘリアンダー』から由来する考え方だ。神聖なる火は物体をこの世から消すときにその物体に付属する、罪や穢れを落とし、清らかな状態で天界へ送るらしい。きっとこの家についた汚れも何もかもをそぎ落としてくれることだろう。
「準備が出来次第出発する」
「うん、わかった」
この家にいい思い出なんてあんまりない。持っていける思い出は、ほとんどない。最低限の必需品だけ持っていこう。それで足りるはずだ。
持っていきたい思い出など、皆無だ。
ボクは朝食を済ませると荷物をまとめるために自室に戻った。思い返すとこの家で過ごした記憶はひどく浅い。生まれてから十年と少し、それから八年は本家で過ごした。ボクの年齢からその年月を差し引いた年月しか、ボクはこの家で、この部屋で過ごしていない。この家に戻ってきたとき、この部屋に戻ってきたとき、ボクは確かに嬉しかった。でもそれはこの場所に何か情があったからではない。姉ちゃんはボクの部屋をボクがいた頃そのままにしてくれていた。そのことが姉ちゃんの中のボクの存在を示しているような気がして嬉しかった。それだけだ。
まず机上を見やる。あの木箱はいらない。
クローゼットを開ける。選択の必要は特にない。元々服の量が多くないから。本家で着ていた周りの大人から買い与えられた服は既に捨てた。戻ってきたとき服もそのままだったからそれを着ている。ボクはあの九年前の事件から全く成長していない。カチャカチャといらない音を鳴らしながら整理をしていると、真っ黒な衣装が目についた。ああ、そういえばあったね。これはどうしようか。持っていかなくていい気がする。もう使うことはないだろうし。なんとなくポケットを探ってみると、中から二つに欠けた白い石が出て来た。あの時の折れた奥歯はまた生えていた。というより元からそうであったようだった。どこからが夢で、どこまでが現実か。全て現実だったのか夢だったのか。とにかく、少なくともあの出来事は現実だったらしい。
いらない。
ボクは服をカバンに詰めてアイテムボックスに入れた。旅行用の大きな鞄はほとんどが余白だった。バケガクで使う教材は大抵学校のロッカーに入れてあるので、持っていくものはあまりない。あとは洗面道具を用意すれば、それでいいかな。
「ビリキナ、行くよ」
いつもの通学鞄に入ったビリキナに声をかけた。返事はない。昨日の夜目覚めてから妙に静かだ。姿すら見せようとしない。一度確認したからいることはわかってる。
「……いるよね?」
ちょっと不安になって念のため確認してみる。鞄を開けると、底で小さくなって座っていた。何も言わずに俯いているのかと思えばそうではなく、聞き取れないくらいの微かな声で何かブツブツ唱えている。どうかしたのと問いかけても返事はない。大して興味もないのですぐに閉じて鞄を肩にかけた。部屋の中を整頓して家の中をある程度見て、家を出る準備は整った。
リビングに戻ると、姉ちゃんがいた。ボクがリビングを出たときと様子はあまり変わっていない。静かな空っぽの二つの目を、真っ白な手で支える新聞に向けている。
「出来た?」
ボクにすぐ気づいたらしい姉ちゃんが、目だけをこちらに向けて問いかけた。
「うん」
多分姉ちゃんは既に用意を済ませていたんだろう。手早く新聞を畳み、並んだ食器はそのままにして立ち上がる。
「それじゃあ、行こうか」
何も盛られていない食器、机に置かれた真新しい新聞、そよ風に揺らされるカーテンと、カーテンから漏れる光に照らされるリビング。華やかさは微塵もない質素な場所だけど、生活感だけはちゃんとある。今から出かけるボクらの帰りを疑っていないと主張するような、空気。これから燃やされてしまうなんて、ただの少しも思っていないのだろう。
これが当然だったんだ。これが当たり前だったんだ。だけども一度外に出てしまえば、もう見れない。何故だろう。胸が苦しい。息はできるのに、苦しい。
「朝日?」
足が動かなかったボクを、姉ちゃんは不思議そうに見つめた。姉ちゃんは苦しくないのかな。どうして? どうして辛くないの? ボクとの思い出の形が消えてしまうのに? 燃えてしまうのに? なくなってしまうのに? 姉ちゃんはそれでいいの?
「ううん。なんでもない、行こう」
ぐしゃぐしゃに絡まった糸の玉を、ごくんと飲み込んだ。
2 >>310
- Re: この馬鹿馬鹿しい世界にも……【※注意書をお読みください】 ( No.310 )
- 日時: 2022/07/13 17:17
- 名前: ぶたの丸焼き ◆ytYskFWcig (ID: WfwM2DpQ)
2
六大家。統治者のいないこの大陸ファーストにはそう呼ばれる六つの家がある。この地に生きる民は等しく清廉で潔白で、誠実。醜い欲も汚い争いもないこの地に統治者は必要なかった。ただ、代表が必要だった。唯一神々によって外界から隔離された大陸ファーストの民はいつしか外界と関わるようになった、交わるようになった。
天宮、東、花園、八葉、神杜、月銀。
数多に存在する家の中で、これらの家が六大家に選ばれた。代表が決まり、交易が始まり、時を経て混血が生まれ、大陸ファーストが汚れだした。汚れた血が大陸に流れたからなのか、元々この地に住まう人間が汚れていたからなのか、それとも他の理由なのか。六大家はあくまで大陸の代表でありその地位は他の家と大差なかった。しかしどうしてか格差が生まれ、差別が生まれた。全てが厳正に均整に保たれていた大陸ファーストには権力という名のカーストが設定され、明確な上下関係が誕生した。優秀な血は六大家に取り込まれ、気づくと神の意思すら、ボクたちは無視していたんだ。
そんな六大家の中で、最も穢れた家が、東と花園だ。
ボクと姉ちゃんは、かつての自宅にして花園家の本家の目の前に立っていた。中からは怒号や泣き声や、時々叫び声も聞こえていた。ボクがここを出た一年前も花園家は崩れかけていたけど、ここまで酷くはなかった気がする。一年しか経ってないのにな。ああでも、白塗りの壁も茅葺き屋根も敷地を囲む長い壁も、少なくとも見た目だけは綺麗なままだ。重苦しい空気に包まれているだけで、手入れはきちんとされているらしい。
「そういえば、姉ちゃん。手紙が来てから随分経つけどなんで来たの? 無視しても良かったんじゃない?」
ボクはいまさら思い浮かんだ疑問を姉ちゃんに投げかけた。だって、その手紙って一か月前くらいに届いたものだし。あの口煩い連中が揃って姉ちゃんに唾をかけるのが目に見える。
「この手紙は、ただの口実だから」
「口実?」
「うん。ここに来るための」
ボクの疑問は晴れなかった。なにかほかの用事があるってことなのはわかるけど、じゃあ、どんな用事?
「えっ」
少し離れたところから、声が聞こえた。質素な緑の着物を着た二人の女性が、口元を手で押さえてこちらを凝視している。見覚えがある。花園家の使用人だ。名前とか担当場所までは知らないけど。
二人はこそこそと言葉を交わし、一人は母屋へ、一人はボクらの元に駆けてきた。
「花園日向様、花園朝日様。おはようございます。いまご当主様の元へ人を行かせましたので、ひとまずこちらへどうぞ」
使用人として鍛えられた美しい動作で、女性はボクらを家の中へ導こうとした。門から母屋まではそれなりに距離があって、母屋に行き着くまでに見かけない人達を見た。多分、花園家の人じゃない。というか、他所の家の当主だとはっきりわかる人が、その中に一人いた。がっしりした大柄の男。他大陸出身と思われる女を侍らせて、程よく肉のついた顔を苦々しく歪めている。その男は幼い頃見たことがあったけど、たぶん、見たことがなくてもどこの誰かは一目でわかっただろう。顔立ちこそ似ていないが、黄か橙か区別のつかない特徴的な瞳の色と、なにより雰囲気がなんとなく似ている。
東 藺。東家当主がいるのなら、東蘭もここにいるのかな。いや、どうだろう。東蘭はバケガクに入学してからほとんどこっちに戻ってないって話だったし。うーん、わからないな。
姉ちゃんなら知ってるかなと思って、姉ちゃんを見てみる。そんなに気になってたわけじゃないけど、なんとなく。姉ちゃんの表情に感情は浮かんでいなかった。ただ、じっとどこかを見つめている。その視線の先に、答えがあった。
「日向!」
バケガクの制服を着た東蘭が向こうから走ってきた。視界に捉えたタイミングが悪かったのでどこからやってきたのかはわからない。
東蘭はやや息を乱しながら姉ちゃんに話しかけた。
「会えてよかった。新聞見たか?」
「うん」
姉ちゃんの言葉を聞くと、東蘭は少しだけ悲しそうに笑った。
「……そっか」
けれどその笑みをすぐに消し、真剣な眼差しで姉ちゃんを見る。
「本当にやるんだな?」
『やる』って、何をだろう。そういえばさっき東蘭は『会えてよかった』とは言っていたけど、姉ちゃんがここにいること自体を驚いている様子はなかった。たぶん、事前に連絡をとっていたんだろう。それなら、普段大陸ファーストにいない東蘭がここにいる理由もわかる。姉ちゃんに呼ばれたんだ。でも、なんで?
「やりたくなければやらなくてもいい。私一人でも出来る」
突き放すように言った姉ちゃんに向かって、東蘭は怒りや悲しみや苦笑が混ざった、でもどれかと言えば怒りに近い表情を浮かべた。
「ただ確認を取っただけだろ。もちろんやる。というかそもそもおれがやりたいって言ったんだしいまさらやめるなんて言わねえよ。
日向が望む未来のためなら、おれは何でもする」
はっきりとそう言ったあと、東蘭がボクを見た。突然東蘭と目が合って、ボクは身構えた。
「朝日くんも連れて来たんだな」
東蘭の視線がボクに定まっていたのはほんの数秒だけで、すぐに姉ちゃんの方へ戻った。
「うん」
「理由は……いや、なんとなくわかるしいいや。じゃあ、またあとで」
そう告げるや否や、東蘭は来た道を引き返して駆けて行った。ボクたちも歩みを止めていた足を動かそうとして──また止めざるを得なかった。さっき母屋へ走って行った使用人が大慌てで母屋から飛び出して来た。その顔は恐怖一色に染まりきり、家の中で何かが起こったことは一目瞭然だった。
「だ、誰か!! 一葉様が!!!」
一葉というのは花園家現当主で、おじいちゃんの弟の息子、いわゆるボクたちの従伯父にあたる人だ。確か大叔父さんが、おじいちゃんが亡くなったときに空くであろう当主の座をずっと狙っていたらしく、実際に空いたとき、長年の根回しの成果で大した後継者争いも無くすんなりと一葉さんが当主の座についたらしい。少なくとも、前当主のおじいちゃんの孫であるボクが他人事のように語れるくらいには。
で、その一葉さんがどうしたんだろうか。とりあえず姉ちゃんを見てみる。ボクの視線に気づいた姉ちゃんが口を開いた。
「魔物が出た」
「へえ」
姉ちゃんの口から飛び出した衝撃的な内容よりも、それを聞いて全く動揺しなかった自分に驚いた。
大陸ファーストを囲む結界は世界最大規模のものだった。強度も大きさも。いままで大陸ファーストに魔物が出たことなんてただの一度もなかったことだ。ボクはどうしてこんなに落ち着いているんだろう。外で魔物に遭遇したことが何度もあるから? それとも最近色んなことがあって感覚が麻痺しているから?
どうでもいいや。
それと、そうか。母屋から悲鳴や怒声が聞こえてくるのは近い未来に待ち受けている戦争を恐れているからだと思っていたけど、魔物が出たからだったのか。そうだよね。結界の効果をまだ信じている呑気なあいつらが起こっていない戦争を恐れるなんておかしいと思ったんだ。それにしても、それなりに広さのある大陸ファーストの中で花園家の本家に魔物が出たのか。いや、もしかしたら他のところでも出てるのかもしれないけど。なんだか面白いな。
「行こう。おいで」
姉ちゃんはボクに言う。姉ちゃんが何を言っているのかわからなくて、ボクは目を数回瞬きした。
「え?」
「中に用がある。朝日にもそれを見てもらう必要がある。そのために今日は連れて来た」
わざわざ面倒臭そうな中に自ら入るのか。姉ちゃんにしては珍しいな。
「うん、わかった」
別に、嫌なわけではないしね。
3 >>311
- Re: この馬鹿馬鹿しい世界にも……【※注意書をお読みください】 ( No.311 )
- 日時: 2022/07/16 22:35
- 名前: ぶたの丸焼き ◆ytYskFWcig (ID: uqhP6q4I)
3
母屋から飛び出して来たのはその使用人だけではなかった。いや、飛び出して来たと言うよりはこれはもう、家が人を吐き出した、と言った方が合っているかもしれない。色とりどりの着物を乱しながら大量の人が血相を変えて吐き出される。見苦しいほどに。これが六大家に選ばれた家の人間の行いなのか。花園家って祓魔師の家系じゃなかったっけ? 魔物が出たならどうして祓わないんだ。そりゃあ魔物祓いが専門外の祓魔師は多いだろう。祓魔師の大半が得意とするのは悪魔祓いだ。魔物と悪魔では祓魔の勝手が違うということは知識としてだけではあるけれど知っている。でも、魔物に対抗する手段が全くないわけがない。
「退け! 退かないか!!」
その声を聞いて思わず顔をしかめたのを自覚した。大叔父さん──四葉さんの声だ。苦手なんだよねあの人。やたら偉そうだしそれ以外にも色々、波長が合わないというか。
人がほとんど吐き出されてから、四葉さんは両肩を男の使用人に支えられた状態で出てきた。無地の紫の着物はしわだらけで髪も崩れ、顔もしわくちゃ。老いを体の節々から感じられ、無様なことこの上ない。
「行こう」
出てくる人が少なくなってきて、ボクたちが家に入れるだけの余裕が生まれてきた。姉ちゃんがボクの右手を引いて歩き出すと、また四葉さんが叫んだ。
「この忌々しいネロアンジェラが!! お前のせいだ! お前のせいでッ!!!!」
ネロアンジェラ。姉ちゃんの名前を呼びたがらない大人たちがつけた蔑称。『黒い天使』という意味で、姉ちゃんの外見が天使族とよく似ていることからつけたものらしい。姉ちゃんの美しさは大人たちも認めているんだ。
姉ちゃんを探して、叫ぶだけの気力があるのか。大したものだ。そんなことしてないでさっさと逃げろよ。目障りだ。
姉ちゃんは四葉さんに近づく。あ、違うな。四葉さんにじゃなくて、玄関に、か。
「全てはお前のせいだ!! わしがどれだけ苦労したと……思っ」
四葉さんは唐突に膝を地面について嘔吐した。気持ち悪い。吐瀉物は真っ黒で、同じものが鼻から目から、身体中の穴という穴から這い出てきた。四葉さんの体はあっという間に黒いものに覆われた。
「キャアアアアアッ!!!!!」
それを周りが見て、また悲鳴が上がる。
「うげぇ、きもちわる」
ああ、声に出ちゃった。まあいいか。
姉ちゃんは四葉さんを見つめていた。そしてふと、呟いた。
「あなたと私は、似ているのかもしれない。
どうして、救いたいと思えないんだろう」
似てる? 姉ちゃんとこいつが? え、どこが?
姉ちゃんはすぐに四葉さんから目を逸らし、ボクの手を引く。逃げろ、なんて忠告の声すら聞こえない。周囲の人間は、姉ちゃんを疎んでいる。身内と呼べる全員は、ボクらを蔑んでいる。
開けっ放しの玄関から見える、中で蠢く黒い物体。あれが魔物。モンスターではなく魔物という名称の似合う、悪意や邪気の塊。それに臆することなく姉ちゃんは玄関をくぐり、手を引かれているボクもそれに続く。
母屋に入った瞬間、うるさい悲鳴なんかが聞こえなくなった。違和感がするほどに無音に包まれる。次にキーンと耳鳴りがした。耳が痛くなるくらいの静寂。それと、暗闇。何も聞こえない、何も見えない。
「姉ちゃん?」
自分の声もくぐもって聞こえる。
「あれ?」
おかしなことに気がついた。
姉ちゃんがいない。
取り残された。音も光もないこの空間に。なんで?
「姉ちゃん!」
右手では感覚がしないので左手で辺りを探る。左手で何かをするのはまだ慣れない。左手を伸ばして少し歩くと、ぬちゃ、と嫌な音がした。もう古いものとなってしまった一年前の記憶を辿ると多分この辺には壁があったはず。この感覚はなんだ?
肩から提げた鞄から杖を取り出す。恐れる気持ちを押さえ込み、杖の先についた水晶に魔力を込めて、辺りを照らした。
おぞましい光景が目の前に迫っていた。口から飛び出そうになった叫び声はそれを上回る激しい動悸に遮られる。
黒光りする液体が立方体の形でボクを囲んでいる。液体は流動性があり、大量の虫が蠢いているようで鳥肌が立った。それだけならよかった。まだマシだった。なにより恐ろしいのは液体に空いた無数の穴から覗く大量の目玉。橙や黄といった暖色の瞳を持った目玉だ。光を受けて数秒後、ギョロギョロとそれぞれ違う方向を向いていた目玉が、一斉にボクを睨んだ。
『……』
脳が言葉として受け取れない、不思議な言葉を聞いた。けれど何故か、なんとなく意味を理解出来るような気がする。
『……ケ』
聞き取れそうな気がする。しかしその猶予はなかった。足元が急にぬかるんで、ズッと足が沈んだ。足首までが見えなくなってしまった。この感覚には覚えがある。神界でテネヴィウス神が使った魔法によく似ている。床が足を包んで、自らが意志を持って這い上がってくるような感覚。あのときはどうやって助かったんだっけ。
そうだ、ジョーカーだ。ジョーカーが魔法陣を展開して、それで助かったんだ。じゃあ今回はそれは出来ないな。どうしようか。
そうこうしている間に横からも手が伸びてきた。左手に持っていた杖が絡め取られ、光が闇に呑まれた。直後、猛烈な恐怖に侵され、手足が震える。体温が急激に低下し、ボクは叫んだ。
「わあああああああっっ!!!」
もがいてもがいて必死に逃れようとするが、足はピクリとも動かない。
「ビ、ビリキナっ、助けッ」
鞄の中でうずくまっているはずのビリキナに声をかける。返事はない。ボクは鞄を開けて、鞄の口を下に向けた。
『……なんだよ』
ビリキナはゆっくりと上昇して、ボクの鼻の先まで来た。光を失った、下手くそな絵みたいな目と、以前のビリキナとはかけ離れた雰囲気。全く頼りにならない。それでも誰もいないよりはよかった。心細さがさっきと比べて雲泥の差だ。
『情けない顔してんじゃねえよ。自分が蒔いた種だろうが』
情けない顔をしたビリキナはそう言って、ノロノロと腕を動かし、ボクの顔に人差し指を向けた。
『これはお前の罪だ。贖罪だ。オレはもう、正直に言ってお前とは関わりたくない』
「なに、言ってるの? 冗談はやめてよ、行っちゃうの? ボクを置いて?」
『そういうところが嫌なんだよ。気持ちわりぃ。お前は面白いやつだったよ。前まではな』
腕をおろし、ビリキナが大きなため息を吐いた。
『違うな。お前が変わったことはあまり関係ない。お前の罪に巻き込まれるのが嫌なんだ。ただ、精霊であるオレは神には逆らえない』
そう言って、胸の前で両手を合わせ、祈るように手を組んだ。すっかり霞んでしまったビリキナの目が、まっすぐにボクを捉える。
『私は貴方に従いましょう。私の主にして、未来の神よ。
望みはなんだ。言えよ。少なくとも今はオレの方ができることは多い』
ビリキナの言葉の大半はよくわからなかった。とにかく助けてくれるってことだよね?
「たすけて! こわい、こわいよ。ここはもう嫌だよ……」
『わかったわかった。見苦しいから泣くな鬱陶しい』
「なっ、泣いてなんか!」
『ほんっと変わったよな、お前』
ビリキナは手を解き、脳が暗号としか認識できない呪文を唱えた。
『……』
パアンッ!
何かが弾ける音がして、暗闇は少し和らいだ。ボクを囲んでいた魔物は消えて、カランと杖が床に落ちた。
視界の先には、血みどろになってなおボクに近づいてくる『かつての』親類たちがいた。無理やり頬を持ち上げたような笑み。ぽっかりと空いた二つの穴。眼球は抉り出されたようでそこからの出血量が一番多い。それぞれが一歩進む度にぴちゃぴちゃと紅い飛沫が飛ぶ。
そう。歩いてくる人達は原型が多少崩れているんだ。でも、見間違えるはずがない。間違えるはずなどない。頭髪が薄くなってしまった頭に、大陸ファーストの人間ではやや珍しい彫りの深い顔立ち、年齢の割にはがっしりした体格。懐かしさと罪悪感が一度に押し寄せ、吐き気を催した。
「なんで、ここにいるの……じいちゃん」
4 >>312
- Re: この馬鹿馬鹿しい世界にも……【※注意書をお読みください】 ( No.312 )
- 日時: 2022/07/27 20:39
- 名前: ぶたの丸焼き ◆ytYskFWcig (ID: /JJVWoad)
4
じいちゃんがいつも浮かべていた優しげな笑みは、作られた狂気的な笑みに変わっている。歩き方もおかしく、足元はおぼつかない。まるで別人だ。
そうだ。別人に違いない。じいちゃんがここにいるなんて、そんなわけがないじゃないか。ボクはじいちゃんの葬式に行かなかったけれど、大陸ファーストでは火葬が一般的だからじいちゃんの死体は燃やされたはず。だから本物のじいちゃんがここにいるなんてありえないんだ。だってじいちゃんは、ボクがこの手で、殺したんだから。
別人だ。そうじゃないとおかしいんだ──そう自分に言い聞かせるけれど、心の奥で、目の前にいる壊れた人間はじいちゃんだと叫ぶ自分がいる。これは罰だと、この罰を受け入れるべきだと怒鳴る自分がいる。
「テンカイ・シールサークル」
壊れた人間がそう唱えると、黒く光る魔法陣が出現した。それを見てドキリとする。偶然だろうけど、この【シール・サークル】はボクがカツェランフォートの屋敷で使った魔法だ。偶然だと思う、けど、どうしても暗示しているように感じてしまう。ボクの、『罪』を。
魔法陣はボクが一度瞬きをしている間にボクの足元まで広がっていた。ギョッと目を見開く隙さえ与えられず、上の方向から凄まじい圧力をかけられ、ボクはその場に崩れ落ちた。
「ガッ」
変な声が口から漏れた。ミシ、と不気味な音が地面についた腕から聞こえる。無理やり顔を上げると、壊れた人間は両手を掲げて黒い球体を生み出していた。たった一つ、しかも指先で転がせるような大きさだ。しかし脳内で『あれに触れてはいけない』と警告が鳴り響く。
壊れた人間が手を振り下ろすと、その動作に合わせて黒い球体がボクをめがけて飛んできた。幸い速度は思っていたよりも遅く、重い体を動かす時間があった。間一髪で助かった──そう思ったのだけれど。
ジュウゥッ
肌が焼ける音と、焦げ臭いにおい。見ると、右手につけた手袋の一部が焼けて、じわりじわりと溶けていた。闇色に染まった醜い皮膚が顕になり、ゾクッと悪寒が背を撫でる。嫌悪感と、これは、そう、恐怖。じいちゃんに恐怖を抱いたことなんてあっただろうか。多少はあっただろうが、それは今この瞬間に抱いているものとはまた別の類のものだ。いや違う。目の前のアレはじいちゃんではないと、説得力のない言葉が強引に自分に言い聞かせようとする。壊れた人間は、もはや人間ではないのだと。人間の形を僅かに保ったなにかなのだと。自分が信じたいだけの現実を必死に念じる。
「ァァアアアァアアアアア!!!!」
喉を裂く勢いで意味もなく叫び、その勢いのまま立ち上がる。ズシンと足をつけた衝撃で床に亀裂が走った。体にかかる圧力がさらに増す。でも今度は耐え抜き、ボクは鞄から投げナイフを取り出した。カツェランフォートの屋敷へ潜入するにあたって用意した、聖水を浸した投げナイフ。重みで手元が狂う両手に三本ずつ構え、乱暴に放つ。特に感覚のない右手から放たれた投げナイフが、いつもならありえないほど的外れの方向へ飛んで行く。だけどまぐれで正確に飛んだ投げナイフも全て不自然に軌道を変え、大きく弧を描いて戻ってきた。
それらがまた手に戻るのかと言えばそんなことはもちろん無く、六本の投げナイフがボクの体を貫いた。
鈍い痛みが体内で暴れ回る。
「あう……」
ふと、ガチャンと投げナイフが大袈裟な音を響かせて落ちた。どうしたのかと見てみれば、投げナイフが突き刺さった右腕がどろりと焼けただれている。液状化した黒い肌が、雫となって床に滴る。
「ヒッ」
『アサヒ』
壊れた人間が、ボクの名を呼んだ。
『オマエノセイダ』
じいちゃんがそう言うと、波紋が広がるように他の壊れた人間も口々に言葉を零し始めた。
『クルシイ』
『タスケテ』
『アツイ』
『ツメタイ』
『コロ、シテ』
ボソボソと呟くだけだったそれらの言葉はいつしか大合唱となり、ボクを飲み込もうとしていた。ザワザワと、ガヤガヤと。
「うるさいな」
無意識のうちに言葉を吐く。突如、ずるんと腕が抜け落ちた。だけどおかしい。右手が動く。視界に映るこれはなんだ? 形状は確実に腕だ。まあいいか。
ボクの意思に関係なく、右腕は急激に体積を膨張させ、粘性のある液体となった。【シール・サークル】に張り付き、魔法陣を床から引き剥がして破壊する。
『イマイ、マシイ』
じいちゃんがぐるると唸ると、壊れた人間たちがボクに襲いかかった。飛びかかる者、突進してくる者、その全員をボクの右腕は覆い尽くす。自分の中で壊れた人間たちが動いている気配がする。なんだこれは。気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い。
右腕はもにゅもにゅと動いたあと、どぱっと赤黒い肉塊を撒き散らした。それはさっきまで人の形をしていたもので、完全に崩れてしまったものだった。
『コノッ、イマイマシイ!』
じいちゃんの悔しそうな声は、もはやボクになんの感動も抱かせなかった。
そうだ。クルシイのなら、もう一度楽にしてあげればいい。ボクにはそれが許されているのだから。
『オマエノセイデッ!!!!』
じいちゃんの足元に再び黒い魔法陣が展開された。【シール・サークル】ではない。これは見たことがある。ボクはクスッと笑った。
「馬鹿だなぁ」
『……ιστή』
祓魔の魔法陣。祓魔師であるじいちゃんが仕事をするところを何度か見たことがあって、これはそのときに展開していた魔法陣だ。
「じゃあね、死に損ない」
ボクは魔法陣を乗っ取った。ボクの中の半分を占める聖なる力を魔法陣に流し込むと、黒い魔法陣は白い輝きを纏い、暗いこの空間を光で覆った。
光はまるで陽炎のように、燃え盛る炎のように、じいちゃんを包み込んだ。
『コノイマイマシイネロアンジェラガァァァアア!!!』
その断末魔を残し、じいちゃんは消えた。白い光も消え失せて、また闇がボクを取り囲む。その瞬間、ボクの脳内に大きな疑問符が浮かんだ。
「あれ?」
いま、じいちゃんが──じいちゃんによく似た壊れた人間がいた気がしたんだけどな。見間違いかな? いやいや。少し考えればわかることじゃないか。じいちゃんなわけない。
じいちゃんは、ボクがこの手で、殺したんだから。
それに、ボクはじいちゃんの葬式に呼ばれなかったから正確には分からないけど、じいちゃんの死体は燃やされたはず。大陸ファーストでは火葬が一般的だ。だからあれはじいちゃんではない。幻覚だったんだろう。たぶん。
そういえば、手袋どこかで落としたっけ? 左手はつけてる。外した記憶もないし。どこいっちゃったんだろう。
『ヒドイヨ、アサヒクン』
鈴を転がしたような美しい、しかしどこか角張った不気味な声が背後から聞こえた。
振り向くと、見覚えのある姿がそこにあった。
体の大きさはビリキナくらい。ふわふわのショートボブの髪はクリーム色から黒色に変色していて、肌も枯葉みたいにくしゃくしゃだ。だけどやけにみずみずしい若草色の瞳が、異様なまでに存在感を主張している。背中の羽はなくなっており、代わりに黒いもやが羽の形をしてその精霊に──精霊だった存在に植え付けられている。
「リ、ン……」
ボクはよろよろと後ずさった。そりゃそうだ。自らが手にかけた死んだはずの人物が続けて現れたら、それに対して抱く感情は恐怖以外の何物でもない。本当にあれがリンなのなら、さっきのじいちゃんも見間違いじゃないのかもしれないな。
『オボエテテクレタンダ』
リンはケタケタと笑った。
『ヒドイヨアサヒクン。ワタシシンジテタノニ。ヤットジユウニソトヲミテマワレルッテオモッテタノシミニシテタンダヨ?』
リンが言っているのは、ボクがリンを捕まえるために話したデタラメな話のことだろう。
ボクはリンにこう言った。『ボクと仮契約を結ばないか』と。
リンは焦っていた。外を見たいという想いから外に出てきたのに、姉ちゃんはリンに全く関心を示さず、なかなか自分がしたいこと、見たいことを叶えられなかった。そうこうしているうちに仮契約期間は終了し、いままで溜めてきた外の情報を忘れてしまう。
ということをジョーカーから聞いて、リンに話を持ちかけたのだ。姉ちゃんとの仮契約期間が終了してすぐにボクと仮契約を結べば、リンは記憶を持ち越せる。当然リンは喜んでそれに承諾した。あっという間にボクに心を開いたんだ。
『ハジメカラコウスルツモリダッタンデショ? ズットワタシヲダマシテタンダヨネ?』
そもそも、たとえ仮契約だとしても二人以上の精霊と契約を結ぶことは難しい。精霊は天使族と並ぶ『神に近い存在』。契約関係になると互いの力が互いの魂に作用するのだけど、その負担にこちらの魂が耐えられなくなるのだ。仮契約だろうが本契約だろうが魂にかかる負担の量は等しく、既にビリキナと契約しているボクがリンとも契約を結ぶとなると、単純計算でボクにかかる負担は倍増する。これは世間の常識とも言える知識だが、常識を教えられていないリンはこのことを知らなかった。その上姉ちゃんが二人の精霊と契約して、リン自身が姉ちゃんの契約精霊の一人だったから余計に信じてしまったんだろう。
『ヒドイヨヒドイ。アツカッタサムカッタツメタカッタイタカッタクルシカッタタスケテタスケテアツイクルシイコロシテコロシテコロシイタイテコロシテコロシテツメタイコロシテコサムイロシテコロシテタスケテコロシテコロシテコロシテコロシテコロシテコロシテコロシテ』
これはもしや呪文だったのか。闇からボコッと音を立て、赤い液体が滴る巨大な触手が現れた。
5 >>313
- Re: この馬鹿馬鹿しい世界にも……【※注意書をお読みください】 ( No.313 )
- 日時: 2022/07/27 20:41
- 名前: ぶたの丸焼き ◆ytYskFWcig (ID: /JJVWoad)
5
何が起こったのか、数秒理解が遅れた。気づけばボクの視界は光に溢れ、母屋の一部は瓦礫と化していた。ボクの身体は地面を跳ねて、口の中で砂を噛んだ。途端に不快感がボクを追う。
おそらくボクは、窮屈そうに母屋から顔を出しているあの触手によって外に投げ出されたのだろう。正しくは顔じゃなくて手だけど。
外はこの短時間で随分人が減っていた。残されていたのは逃げ遅れた十数名と、ぐにゅぐにゅ蠢く黒い、スライムみたいな物体。なんだこれ?
「キャアアァアアアァァア!!」
あー、うるさいうるさい。叫んでる暇があるなら逃げろよ。まあ、それが出来ないから叫んでるんだろうけどさ。
『タスケテアツイアツイヨクルシイヨシラナイチカラガワタシノナカニハイリコンデクルノキモチワルイヨタスケテタスケテタスケテタスケテ』
リンの姿はどこにも見えない。きっとまだ母屋の中にいるんだ。でも声は聞こえる。ボクの頭の中に流れ込んでくる。念じるみたいに。罪の意識を植え付けるみたいに。
タスケテ、か。なら、また楽にしてやればいいのか? コロシテと望むなら、叶えてやろうか。うーん、めんどくさいな。そんなことをしてやる義理がどこにある? どこにもない。
『どうするんだ?』
ビリキナがボクに尋ねる。
「別に、何も」
『それでいいのか?』
「何その言い方。どうしたんだよ」
『いいや。お前がそれでいいならそうすればいい』
「なにそれ」
ボクは肩を竦めた。この感情は呆れに近いかな。ビリキナが何を言っているのかいまいちよくわからない。無視していいかな。いいよね。いっか。
『ただ』
無視をしようと意識を固めた直後。
『自分の一つ一つの選択が、後の自分を決めるってことを理解しておけよ』
「……なにそれ」
まあ、いい。それよりもふと気になったことがあるからついでに聞いてみようか。
「ねえ、君の名前は何だっけ?」
『は?』
黄色い髪の精霊は、ガリガリと頭を掻いた。
『ビリキナ』
ため息でも吐きそうな顔で答える。
『って答えでいいのか?』
「それ以外の答えがあるの?」
『わからないから聞いたんだよ』
「何言ってんだか」
『こっちのセリフだっての』
「?」
自分でも何の会話をしているのかが曖昧になってきたので、ビリキナから視点を移して意味もなく母屋の方を見てみた。
『ミ・ツ・ケ・タ』
腹を抱えてケラケラと無邪気に笑う、どす黒く染まったリンがボクの左目に手をかけた。
「う、わっ!!!」
急なことに驚いてバランスを崩し、尻もちをついた。
『ネエアサヒクンコロシテヨコワイ ヨアツイヨク、ルシ●ヨ』
リンの声はだんだん壊れていく。リンの肌に、枯れた葉のような茶色の肌に、じわじわと黒が滲む。
リンの体がどろりと融けた。
どぼどぼとリンの体からスライムみたいな液体が溢れて溢れて、リンの体が大きくなる。
……嗚呼。この光景には見覚えがある。
これはなんだろう。いまボクがおかれているこの状況は。なんだか、誰かに導かれているような気がする。何度も何度もボクの『罪』を連想させるものに遭遇する。
誰だ? 誰がそうしている? 何の目的で?
「姉ちゃん?」
忘れてた。いつの間にか姉ちゃんはどこかへ消えていたんだ。どこに行ったんだろう。まだ母屋にいるのだろうか。
『アサヒ』
目の前に、姉ちゃんがいた。名前を呼ばれたから、立ち上がりながら返事をする。
「なに? 姉ちゃん」
金髪に成り損なったウェーブがかった黄色の髪と、黒に近い中途半端な灰色の肌。バケガクの制服を着て、赤いネクタイを締めている。
『ドウシタラアサヒハクルシムノカナ』
ぐちゃぐちゃと汚い音をたてながら、口があるであろう部分が裂けた。笑っているように見える。
『アサヒノセイデワタシハクルシンダ』
姉ちゃんは言葉を続ける。
『コロシテコロシ コロ●タ イコロシテコ、ロシタスケコロシタス●コロシテコロシテコロ○タ コロシタイ』
「殺したいの?」
ボクは表情を作った。
「ボクを?」
にっこりと、笑ってみせた。
理由は、わからない。笑顔を作ったつもりだけど、自然と、あるいは無意識に浮かんだ表情なのかも。
「姉ちゃんが?」
姉ちゃんはボクの問いに答えずに手の平をボクに向けた。
『……』
聞き取れない呪文を姉ちゃんが呟くと、辺りに散乱していたスライムもどきが破裂した。
「がはっ」
破裂したスライムもどきがボクの腹に直撃して、再び膝をつく。見ると、着ていた制服にべったり黒い液体が付いていた。うわ、ブレザーは一着しかないのにどうしよう。
しかしそれは杞憂だった。液体は服に染み込み、ボクの身体に染み込んだ。冷たいゼリー状の液体が、ボクの血液と混ざり、魔力と混ざり、心臓へ魂へ送り込まれる。そんな感覚。
「はあ……」
気持ち悪い。
だけど。
どうしてだか、とても気分が高揚する。
気持ち悪いのに、心地いい。
「は……」
ボコボコと、水が沸騰する時に聞く音と酷似した音が右腕から重たく響く。
「ハハハハハハハッ!!」
右腕から黒い液体が噴き出し、辺りにボクの身体の一部が散らばった。
『アサヒ?』
姉ちゃんの顔に白い円が二つ浮かんだ。驚いている表情だ。でもすぐに表情を変え、ボクをキッと睨む。
『……!』
地面が割れて、赤黒い触手が出てきた。一秒足らずでボクの髪に触れたそれを、ボクの右腕は受け止める。
ズシャリ
グシャリとも違う独特な音が流れ、ボクの目の前で触手が弾ける。中から緑の水が漲った。ビシャ、と顔にかかった水も肌に染み込んで、ボクの体に混ざる。
いまもなお噴き出し続ける右腕が姉ちゃんを狙って伸びた。
『…………』
地面に出現した奴隷紋。姉ちゃんの体を中心として展開され、ボクも範囲内に入っている。
ボクの右腕は地面を殴りつけ、ボクの体は弾き飛ばされる。
「か、はっ」
背中を強く打ち付けて、喉から声が絞り出される。体が痺れるけれど、右腕だけは変わらず動き続けている。視界に映った右腕は姉ちゃんの奴隷紋を破壊しようと試みていた。さっきじいちゃんの【シール・サークル】にしたように奴隷紋に張り付き、引き剥がす。引き剥がした奴隷紋は──ボクの右腕に現れた。
逆五芒星の形に切れ込みが入り、ボクの右腕は粉砕された。
「えっ」
右腕の欠片が飛び散って、ボクの体にもかかった。不思議な感覚だ。明らかにおかしな状況なのにおかしいと思えない。むしろこの思考がおかしなものとして脳が処理する。
『アサヒ』
姉ちゃんの顔が崩れた。
『コレハバツダ』
肌の色に、白が差した。一滴の黄色が入り込み、崩れたはずの皮膚は人形を思わせる硬質な美しさを暗に語る。
『朝日の』
太陽の光を受けて輝く金髪が、春に近づきつつある優しい風に吹かれて揺れる。
『貴方の』
開かれたまぶたから、夏の晴天を閉じ込めた青眼が覗く。二つの青い目が、ボクを捕らえる。
『バ つ だ』
6 >>314
- Re: この馬鹿馬鹿しい世界にも……【※注意書をお読みください】 ( No.314 )
- 日時: 2022/07/27 20:42
- 名前: ぶたの丸焼き ◆ytYskFWcig (ID: /JJVWoad)
6
姉ちゃんの顔が、ぼやけて見えた。
「あれ、おかしいな……」
目をこする。おかしい。姉ちゃんの顔だけじゃなくて周りの景色までぼやけて見える。急に目が悪くなったのか? そんなわけないか。原因が思い当たらない。
『フフフ』
姉ちゃんが笑った。
『安心して、朝日。ヤサシイヤサシイカミサマが与えるバツは、とてもあまいものだカラ』
見間違えだろうか。姉ちゃんの服が変わってる。真っ黒なワンピースだ。丈は長いが露出が多く、いわゆるノースリーブの形のもので肩の部分は紐に近い。冬も終わりかけているとはいえこの季節に不似合いな格好だ。それに、靴も履いていない。裸足。見ているこっちが寒くなる。
『あさひ』
姉ちゃんがゆったりと微笑む。
『…………』
姉ちゃんが世界に向けて発した信号により、地中から触手が呼び出された。またか。ほかの攻撃手段がないのかな? そんなわけないか。だって、姉ちゃんだし。
ボクの右腕が再度生えてきた。それはまるで肩が黒い吐瀉物を吐き出しているようで、軽度の不快感に苛まれた。そんなボクの感情を無視し、ボクの右腕は触手を襲った。しかし、逆に触手に絡め取られ、腕が伸びきった紐のようにピンと張った。
だから余計にボクの体は大きく飛んだ。触手が大袈裟な動作でボクの右腕を振り回す。ボクは空中に巨大な円を描いた。二、三回そうされたあと、触手はボクの右腕を離した。
「わあぁぁぁぁあああああっ!!!」
遠ざかる地面と増えていく情報量にめまいがした。人の体はこんなに飛ぶものなのかと他人事みたいに感心する。大陸ファースト全土とは言えないが、大陸のそれなりに遠くまで見渡せるほど、ボクの体は天に近づいていた。
驚愕した。触手に飲まれかけている花園家とその周辺にも驚いたけど、そうじゃない。
少なくとも視界に映るほとんどが、炎に包まれていた。家も、人も、木も、花も。
それだけじゃない。大陸ファーストを覆う結界が消えている。あの結界は大陸ファーストのどこにいても見えていた。結界の濁った白で遮られていた空の青がいまは残酷なまでにくっきりと見える。
『神は、この地を見放した』
今朝この言葉を聞いたときはいまいち実感が湧かなかった。でもいまは違う。はっきりと理解した。世界の終焉から逃れるための大陸は、いまこの瞬間、完全に崩壊してしまったんだ。
『オマエノセイダ』
違う。これはボクのせいじゃない。
『これはお前の罪だ』
違う。これはボクの罪じゃない。
『コレハバツダ』
違う。違う。絶対に違う。
『貴方の、バつだ』
違う。断じて違う。
だけど。
仮に。仮にだ。もし仮にこれがボクの罪だとしたら、罰なのだとしたら。
「……なんでいまさら、ボクを裁くの?」
ボクは空を見た。空の向こうの天の向こうにいるはずの神を睨みつける。
だってそうじゃないか。罪人なんてボクだけじゃない。自分が非道だって自覚はあるよ。でもボクよりも酷い罪人だってたくさんいる。なんで、どうしてボクなんだ。これがボクの罰なら、なんで──
「迷いがあった」
そう告げたのは、神だった。
「私には罪がわからない」
嫌悪の対象であった神が悲しそうに目を伏せる。
「私に朝日を裁く権利はないと思っていた。いいえ、いまも思ってる。個々の罪の実態も知らずに裁くことは、それ自体が罪なんじゃないかと、そう考えた」
けれど、と、神は言葉を続ける。
「私は裁く者。これは覆ることのない事実。
これは私なりの償い。贖罪であり懺悔でもある」
神は手を組んだ。祈られるはずの神が何に何を祈ると言うのだろう。
「これは『私』の最後の願望。せめて、せめて朝日だけは、救いたいと思った」
神が目を開く。
「既に手遅れなのだとしても」
知らぬ間にボクは姉ちゃんの腕の中にいた。背中や足を支えられている。姉ちゃんは壊れてしまったボクの右腕を愛おしそうに撫でる。相変わらずの無表情だったけど、ボクの目にはそう見えた。
「姉ちゃん」
何故か、そう呼ぶのがとても久々に思えた。自分の口から発せられた音がひどく懐かしく感じ、同時に切なくも感じた。
胸の奥から湧き上がってくるこの感情の名前をボクは知らない。息が苦しい胸が締まるような感覚がするずっと姉ちゃんの腕の中にいたいもっと姉ちゃんの声を聞きたいもっともっともっともっともっともっと。
嗚呼、でも。この感情の名前はわからないけれど。名前をつけるとしたらこれはきっと──愛、なのかな。
「……め、なさっ」
嗚咽混じりの声が自分の口から零れるのを聞いた。
「ごめん、なさい……ッ」
姉ちゃんが着ている制服が少しずつ濡れていく。そんなことは気にしないと言いたげに、姉ちゃんは変わらず優しい眼差しをボクに向けていた。
「姉ちゃん、ごめんなさい……」
何を謝りたいのかははっきりしてない。ただ『申し訳ない』という気持ちに侵されていた。
「うん」
姉ちゃんがそれだけ言った。それだけ言って、その細い指でボクの頬に流れる冷たい水を拭った。
『幸せそうだね』
姉ちゃんの声だ。姉ちゃんの声によく似ている声が聞こえた。けれど違う。高い声と低い声が重なったような硬質な声だ。姉ちゃんの声は女性にしては落ち着いた低めの声で、温かくて冷たくて、冷たくて温かい。
『良かったね、花園日向。束の間の幸せに浸れて』
姉ちゃんの姿をしたリンがふわりと微笑んだ。対する姉ちゃんは眉間にしわを寄せ、不機嫌そうにリンを見る。
「あなたはワタシじゃない」
『そうだね。けれどワタシを語る権利はあるんじゃないかしら。ワタシの中には確実にワタシの魔力が流れている』
ボクを支える姉ちゃんの腕に力が入った。
『その子はいいんだ。わたしのことは助けてくれなかったくせに。その子よりもわたしの方が被害者なのにね』
リンの瞳が一瞬若草色に変わって、すぐに透き通った青眼に戻る。
『ワタシにその子を裁く権利はあるのかな? ふふ、無いよね。貴女こそが罪人なんだから。おかしな話ね。罪人が罪人を裁くなんて。ああ、でも、甘い甘いあなたにはおかしな話が良くお似合いよ』
何か言い返そうとした姉ちゃんが口をつぐむ。それから、何の光も宿らない空虚な目を偽物の姉ちゃんに向けた。
「貴方にこの子は裁かせない」
リンは楽しげに笑う。
『ええ、わかっているわ。わたしはあくまで人形だもの。ただの道具。理解しているわ。ただ』
無邪気は笑みが、にぃっ、という不気味な憫笑にすり変わった。
『あの御方の御考えになることは、ワタシもよくわかっているでしょう?』
姉ちゃんの表情は変わらない。代わりに姉ちゃんの体が強ばるのを至近距離で感じた。
唐突に、雨が降った。見覚えのある雨だった。雨雲なんて見えない空で堂々と輝く太陽に照らされてキラキラと光る光の粒が冷たい温度を伴い、雨となって大地に降り注いだ。
『酷いなぁ』
リンが言う。見ると、リンの体が壊れかけていた。濁った黄色の髪はボロボロと抜け落ちて、肌の色も見る見るうちに崩れていく。それこそ、化けの皮が剥がれるように。
『さんざん利用した挙句こんな仕打ちか』
光の雨に打たれた部分からリンの体は液体化する。光に混ざって黒い雫が地上へ落ちていくのが見えた。
『さすがだね、日向』
その言葉を最後に、リンは消えた。
「朝日、これ、落ちてた」
姉ちゃんが白手袋を差し出した。あ、右手に着けてた手袋だ。やっぱり落としてたんだ。
「ありがとう、姉ちゃん」
左手で受け取ってさっさと着けた。こんな手を周囲に見せるわけにはいかない。また失くしたら大変だ。次からは失くさないようにしないと。その心配はきっと必要ない。
「じゃあ、行こうか」
「することは終わったの?」
「うん。もうここに用はない」
「そっか」
なんだかとても静かだ。地上から遠いからかな。降り続ける雨はボクたちを包んで、ほかの雑音を遮断する。光を纏う姉ちゃんが、いつもよりも遠い人に思えた。
こうしてボクたちは、誰よりも早く大陸を降りた。
7 >>315
- Re: この馬鹿馬鹿しい世界にも……【※注意書をお読みください】 ( No.315 )
- 日時: 2022/07/27 20:42
- 名前: ぶたの丸焼き ◆ytYskFWcig (ID: /JJVWoad)
7
姉ちゃんはバケガクに着くと、馬車庫へ向かった。Ⅴグループである姉ちゃんは馬車の操縦が許されていないし、それはボクも同じだけどそもそもそれ以前に技術面で操れない。それに馬車は定期便があってわざわざ馬車庫に行く必要は無いから、何をしに行くんだろうと不思議に思った。
それ以上に不思議なものが、そこにはあった。
馬車庫に来ることは何度かあった。そこは第一館からあまり遠くない場所で、校門に入って右側、きちんと整備された道を歩いた先にそれはある。広い敷地を持つこのバケガクにおいて、馬車は不可欠な移動手段。定期便に乗るのもいいけど、Ⅱグループ以上の生徒は馬車の操縦が許されているので、そっちに乗った方が自由に動き回れる。愛想を振りまいておけば馬車に乗せてもらうことくらいは出来る。
客車と馬車馬は、当然ながら違う場所に収納されている。いや、馬に収納という言葉は不適切か。休ませている、とでも言おうか。馬車庫は本来客車を収めている場所を指すけど、バケガク生徒は馬小屋も含めてそう呼ぶことが多い。けど、姉ちゃんは本来の意味の馬車庫に向かっている。生徒が馬車庫に用があるとしたら、大抵自分で馬車を操る時くらい。そういうときはまず馬小屋へ行って馬を借りたり色々面倒な手続きをする。時間はそんなにかからないけど、確実に面倒臭そうな、手続きを。なのに姉ちゃんはそれをしなかった。まっすぐに馬車庫まで歩くと、木製の扉に手を当てた。扉の向こうでがちゃんと重たい音がして、勝手に開いた。
まだ冷たさの残るこの季節。でも、それ以上に冷たい空気が外へ流れ出た。思わずぶるっと身震いする。ボクはあまり寒さを感じる方ではないのに。
ボクは目を見張った。不思議なものが、そこにあった。
馬車があった。確かにここは馬車庫なのだが、ちがうのだ。『馬ごと』馬車があった。
漆黒の馬車は、形だけはほかの馬車と同じだ。ああ、違うな。色だけが違うんだ。あまりにも異質でほかの馬車とはかけ離れていると錯覚してしまった。
馬車には聖サルヴァツィオーネ学園の校章が刻まれている。だからバケガクが所有する馬車であることは間違いない。だとしても、ここまで黒い馬車は他にない。こんなの、見たことがない。
「姉ちゃん」
なんとなく、どうしようもない不安に駆られ、ボクは姉ちゃんに手を伸ばした。
「行こう」
姉ちゃんはボクの手を取り、歩こうとした。けれどボクの足は動かない。姉ちゃんがボクを見て、首を傾げた。
「どうしたの」
それから少しして、言った。
「怖い?」
ボクは頷いた。姉ちゃんは数歩歩いた足を戻して、ボクのそばに来た。
「これは、Ⅴグループ寮へ行くための馬車。グループごとに、寮が分かれてるのは、知ってる?」
「うん。見たことはないけど、建物の造りとかも全然違うんだよね?」
「そう。個人の能力によって必要な設備は変わってくる。だからグループで分かれてるんだけど」
冷たい風が、ボクらの間を通り抜けた。
「クラスでいいと思わない?」
姉ちゃんがボクに、馬車に乗るよう促した。今度は逆らわない。そういえば、馬に取り付けられている馬具の色は鮮血に近い赤色だ。
「それは、ボクも思ってた」
馬車の中は、思っていたより明るかった。外から見た時は窓なんてないように見えたけど、大きな吹き抜けの窓が空いている。
ボクと姉ちゃんが隣合って座ると、馬車はのろのろ動き出した。
「あれ、御者っていたっけ?」
確かボクが見たときは、御者席は無人だった。いくら大人しく従順な馬でも、御者は必ずいるものだ。御者がいないのに動き出す馬車なんて、そんなの聞いたことない。
「必要ない。あれは、馬じゃない」
「そうなの?」
「うん。仮想生物」
「ああ、なるほど」
それならまだ理解出来る。久しぶりにまともな仮想生物を見た気がする。仮想生物にまとももなにもないけれど、[通達の塔]の二人といいジョーカーといい、わけのわからない仮想生物に会ったから妙な安心感がある。自分が正しかったのだと、向こうがおかしかったのだと、安心する。
「ネクタイやリボンは、常時着用。それが規則」
姉ちゃんが話を戻した。
「理由はいくつかある。貴族や平民を区別するためとか、クラスよりも大まかに分けるためとか。でも、それは全て表向き」
ガタゴトと揺れる馬車の音が、やけに大きく聞こえる。この馬車の揺れはほかの馬車と比べるとかなり小さい。それなのにいつもより音が大きく聞こえるのは、普段賑やかなバケガクに、人がほとんどいないから。
「朝日の周りにも、何人か、Ⅴグループの生徒はいたよね」
ボクは首を縦に振る。なんなら、目の前にいる姉ちゃんがそうだ。
「真白は、朝日にはわからないかもしれないけど、私やゼノイダがわかりやすい。Ⅴグループは劣等生のグループじゃない。素行が悪いという意味ではない、問題を抱えた生徒という意味の『問題児』のグループ」
問題児?
「能力、境遇、体質、それ以外にも色々『問題児』と判断される材料はある。問題児なら誰でもⅤグループになる訳じゃない。保護が必要だと判断されるほど、個人の抱える問題が個人あるいは他者に害を及ぼす場合にその個人はⅤグループに位置づけられる」
ガタン、ガタン、馬車の揺れる音がやけに目の前の光景の現実味を薄れさせる。手を伸ばせば届く距離にいるはずの姉ちゃんが、まるで画面の向こう側にいるような錯か──画面って、なんだ?
「木を隠すなら森の中。問題児を生徒の中に隠すための制度。それがグループ。劣等生というレッテルを貼る代わりに、学園がバケモノを守ってる。寮がクラスではなくグループで分かれているのも、Ⅴグループ寮だけが他の寮と隔離されているのもそれが理由」
姉ちゃんは手の平を虚空に差し出した。赤い光が姉ちゃんの手に集まって、その上にⅤグループを象徴する赤いネクタイが落ちた。
「理事長に話はつけてある」
白く細い指で優しく包まれたネクタイが、二つの選択肢とともにボクに迫った。
「どうする?」
これはつまり、ボクにⅤグループに入れということか。確かクラスやグループの移動は年度が切り替わるときに行われるはずだが、何事にも例外は付き物だ。
受け取らなければ姉ちゃんと寮が分かれる。受け取ればボクは問題児の仲間入り。さあ、『どうする?』
悩んだ時間はほんの数秒だ。ボクはネクタイを受け取った。結論の決め手になったのは、うーん、なんだろう。姉ちゃんの言う『劣等生というレッテル』とやらが罪を償うために背負う十字架みたいに感じたのかもしれない。
「リボンの方が良かった?」
珍しく姉ちゃんが冗談を言ったので、ちょっと口角が上がった。
「いや、これでいいよ」
姉ちゃんがくれたものをボクが変更なんてするわけないじゃないか。
「そう」
ボクは受け取ったネクタイを掲げた。光沢のある布に染め入れられた赤色が、どろっとボクの手を伝う。なぜか目を引かれる紅にぼうっと意識を飛ばしていると、突然ガタンッと大きく馬車が揺れて停止した。どうやら目的地に着いたらしい。馬車の扉が開いて外の景色が顕になる。
周囲から隠すように敷地をぐるりと囲む背の高い深緑の木々、それらに日光を遮られ影を反射するこぢんまりとした重厚な漆黒の宿舎、粗い石が散乱する雑草だらけの荒れた地面。大陸フィフスで見たカツェランフォートの屋敷が放つものよりも重苦しい雰囲気に息が詰まる。冷たくはないが不快なほどに生ぬるい風が背をなぞる。寒くはないのに、体のあちらこちらがゾワゾワする。
「オマチシテオリマシタ」
髪の長い少女の形をした赤い塊がボクたちを出迎えた。手のようなもの、足のようなものはあるがそれらの境界線は見当たらない。特有の淡い輝きを全身に巻き付けるこれが、一目で仮想生物だとわかる。本来仮想生物というものはかなり特徴的な見た目をしているものだ。……仮想生物って基本喋れないから、目の前の仮想生物が俗に言う仮想生物と同じものかどうかは怪しいところだけど。
「ワタクシノナハネイブ。コノリョウノホゴシャデス」
ネイブは歓迎の意を示すように両腕らしきものを広げた。
「ヨウコソ、ガクエンノマクツヘ」
8 >>316
- Re: この馬鹿馬鹿しい世界にも……【※注意書をお読みください】 ( No.316 )
- 日時: 2022/08/20 00:09
- 名前: ぶたの丸焼き ◆ytYskFWcig (ID: 0vtjcWjJ)
8
「マクツトイッテモミンナネチャッテマスケドネー」
ネイブが飛び跳ねながらボクたちを寮の中へ招き入れた。あの馬車は気づいたら消えていた。
「寝てる?」
「ハイ。ア、デモオキテルコモイマスヨ」
寮の入口である両開きの扉を小さな手で押し開けて、ネイブは呼び慣れた名を呼んだ。
「ゼノ、アタラシイヒトガキマシタヨー」
「はーイ」
暗闇の向こうから、大柄な少女が小さく駆けてきた。見覚えがある。癖のあるくるくるの黒髪とそれによく似た色の瞳、焦げ茶の肌と全体的に黒い見た目をした怪物族。民族衣装らしい頭に被る白い布がより一層黒を際立たせる。ゼノイダ=パルファノエは驚いた顔をした。
「アサヒ?」
友達ごっこの一環だ。ボクは左手をあげた。
「やあ、ゼノイ──」
出てきた言葉を飲み込み、言い直す。
「ゼノ、久しぶり」
ゼノは姉ちゃんを除けばバケガクで唯一気の許せる相手だ。もう会えないかもしれないと思っていた自分もいたから、また会えて嬉しい。会えなかったとしても特になんの感情も抱かなかったと思うけど、それとこれとはまた別の話だ。
「ヒさしぶり。どうシタの? どうしテネくタイの色ガ」
「ホラホラ、オシャベリノマエニマズハオキャクサマノアンナイデス。ワタクシハオジョウサマヲアンナイスルノデゼノハソチラノカタヲオネガイシマスヨ」
ネイブは姉ちゃんを見て、「イキマショウ」と促した。それを確認した姉ちゃんは頷いて、ボクを見た。
「また後で」
ボクは大きく手を振って、一度姉ちゃんと別れた。
「ねえアサヒ、ソれでどうシたノ?」
ゼノは心配そうにボクの顔を覗き込む。そのときにふと気づいたように視線がボクの手に向いたけど、ひとまずは無視してくれた。
「どうしたって?」
「だカラ、アサヒはⅣぐるーぷだっタデしょ? ナんでⅤグルーぷのねくたイをツけてルの?」
なかなか答えないボクにやや怒りを込めながら言葉を続ける。だけどその怒りはボクを心配してのことなのだろうと容易に想像できる。ボクは意地悪をするのはやめて、ゼノに話した。
「来る途中の馬車で、姉ちゃんにネクタイを渡されたんだよ。あ、ちゃんとボクにⅤグループに入るかどうかの意思確認はしてくれたよ」
「そうなんダ」
そう返事をしたゼノだったけど、まだ納得いかない様子でうーんと唸る。
「でモ、そんなこトデきるの?」
そんなこと、というのはきっと『年度が終わっていないのにグループを変えること』を指している。確かにボクもそれは気になる。何事にも例外はある。でもこんな年度の終わりが鼻の先であるこの時期に?
今度はボクが唸った。しかしボクの口はあっさりと言葉を告げる。
「ボクがバケモノだから、いいんじゃない?」
「エッ?」
ボクは右手の手袋に左手の指をひっかけた。ゼノも気になっているようだし、ボクがバケモノであることの証明にもちょうどいい。そう考えて手袋を外そうとした。だけど、右手の黒が見えた瞬間に手を止める。
さあっと血の気が引いて、慌てて手袋を引っ張り黒を隠す。血の流れを激しくする心臓の音を聞きながらゼノの顔を見ると、きょとんとしていた。よかった、バレていない。
危なかった。数秒前のボクは何を考えていたんだ。おかしくなっていた。おかしくなっている。ボクの頭は、ボク自身が、おかしくなっている。こんな気持ちの悪い肌を見せたら嫌われるに決まってる。ゼノは唯一無二の存在だ。恋愛感情とかそんなものは抱かない。あんな気持ちの悪い感情なんか抜きにして付き合ってくれるゼノは、失いたくない。別に失ってしまっても良いと言えば良いけれど、できることならそばにいて欲しい。これは恋愛感情じゃない。
恋愛感情なんて冗談じゃない。教室にいると周りの奴らはボクとゼノが恋愛感情を抱いて付き合っているとか言って冷やかしてくる。反吐が出る。気持ち悪い。トラウマと呼べるほどのものでは無いが、ボクは恋愛感情というものに嫌悪感を抱いている。
容姿とか能力とか家の権力とか、ある程度優れているボクに言いよる女は多かった。じいちゃんや姉ちゃんみたいに背が高くないのでまだマシだったかもしれないがそれでも多かった。多いと感じた。本当にボクに恋愛感情を抱いていたのかわからない奴もいた。でも、抱いてるとか抱いてないとかそんなことはどうでもいい。ただひたすらに気持ち悪かった。
相手がボクに恋愛感情を抱いているかどうかは大抵すぐにわかる。わからないのもいたけど。男女の友情は成立しないとかいうあれが本当なんじゃないかと思うくらいあいつらの態度は両極端だ。でもゼノは違う。あの純朴な瞳に何度救われたことか。それに美しさを感じたことこそないが、気持ち悪いあの連中と比べれば月とすっぽんほど違った。
「もウ一ついイ?」
ゼノが疑問符の残る顔をボクに向けたまま言う。
「ん、なに?」
問い返しながら、感情が揺れた。ゼノの視線がボクの右手に向いているのに気づいたから。冷や汗の不快感をゼノに気づかせないように笑顔を取り繕う。
「そのテ袋ってあたラシク買ッたの? 格好イイネ」
幸いゼノは何も気づいていないらしい。にこにこしながら手袋を褒めてきた。ボクはほっとして、繕った笑顔を安堵と共に本物に置き換えた。
「うん。姉ちゃんにもらったんだ」
ゼノは羨ましそうに、へぇと言うだけでそれ以外に何も言わない。
「ア」
ゼノが呟いた。
「ごメんね、早く部ヤにあン内しなきゃ」
焦ったようにゼノはボクの手を引いた。と言っても手を繋ぐわけじゃなくて、動き出す合図としてボクの腕の裾を少し引っ張った程度。それを受けてボクはゼノの後ろを歩いた。ボクたちは身長差が激しいけど歩調の差にストレスを感じたことはない。ゼノはのんびりした性格なので自分でも歩くのが遅いと語っていたが限度があるだろう。ゼノがボクに合わせてくれているのは考えるまでもない。
「静カニ歩いてネ」
歩いている途中に前を歩くゼノが振り返り、口元に人差し指を立てた。
階段を上がったところでそう言われた。目の前にはずらりと並ぶ頑丈そうな扉。廊下に光はほとんどなく、夜目の効かないボクには厳しい条件だ。ん? いや、そんなことないか。案外見える。
ボクは黙って頷いた。さっきネイブがみんな寝ていると言っていたから、その連中を起こさないように歩けということなのだろう。足音を極力たてないように気をつけながら暗い廊下を歩く。ボクはともかくゼノからも足音は聞こえない。気をつけているのはわかるけどそれでも意外だ。普段おっちょこちょいなのに足音は消せるんだ。
ボクたちはしばらく歩いた。距離を考えても結構歩いた気がするがどうだろう。雰囲気に侵されて実際の距離よりも多く歩いたと勘違いしているだけかも。とにかくある程度歩いて、そこでゼノは立ち止まった。廊下の端。他の部屋は廊下を挟んで扉が向かい合わせに位置しているが、おそらくボクが入るのであろう部屋は廊下を歩いた方向に対し逆向きに位置していた。よって向かいというものは存在しない。こころなしか扉の大きさもちょっと大きい気がする。他の部屋と何かが違うと、ボクの本能は告げている。
ボクの緊張に気づかず、ゼノは手に持っていた鍵を扉に差し込んだ。鳴った音はわかりやすく重たい。ガチャン、その金属音がなぜか、扉が開く音よりはボクを閉じ込める牢屋の施錠の音に聞こえた。やけに心臓が冷たくなって、緊張は解けた。
「オソイ!」
扉を開けた先で、鱗粉にも似た赤い光を儚く散らすネイブが立っている。腰に手を当て、仁王立ちしていた。たぶん。実際に腰や手があるわけじゃないから人間の真似事だけど。ネイブはゼノに詰め寄った。
「ナニヲシテイタノデスカ? コンナニジカンガカカルナンテ」
「ご、ゴメんなさイ、ツイ……」
「ツイジャアリマセン。イマカラコノチョウシジャコマリマスヨ」
「はい……」
ネイブの言葉に違和感を覚えながら二人を眺めていると、ネイブの首がくるりと動いてボクを見た。
「サアサア、ソンナトコロニツッタッテナイデドウゾナカヘ。ココガコレカラオキャクサマノオスゴシニナルヘヤデゴザイマス。ゴユルリトオクツロギクダサイ」
やっぱり違和感がある。でもいまはそれを無視してネイブを見る。ネイブは不思議なオーラを放つ。ネイブがそばにいるとなぜか心が安らぐんだ。これがどうしてなのかは本当によくわからない。なんとなく姉ちゃんに似た雰囲気を感じるけど、それがなぜかもわからない。
「ゼノ、コチラヘ」
ネイブはゼノのスカートを握って部屋を出ていった。本来なら手を握るところなのだろうが、身長が足りない。ネイブの背はボクの腰に届かない程度だ。
「さて」
ボクは部屋の空気を吸った。じめじめはしてないけど、うーん、じわじわする。自分でも変な表現だと思う。でもそう感じるのだ。まるで暗いこの部屋に巣食う闇がボクの体を侵食して、染み込んでくるような感覚。
右腕が、むずむずする。
9 >>317
- Re: この馬鹿馬鹿しい世界にも……【※注意書をお読みください】 ( No.317 )
- 日時: 2022/08/20 00:10
- 名前: ぶたの丸焼き ◆ytYskFWcig (ID: 0vtjcWjJ)
9
突然、黒が動いた。
『久しぶりだね』
その言葉を受けて声を出したのはボクでありボクではなかった。
『はい』
『そんなにかしこまる必要は無い。キミはワタシの恩人に近い存在であるのだから』
『ありがとうございます』
黒は笑った。そう見えた。よく見えない。意識そのものに霞がかかったようだ。この感覚は、そうだな、夢だ。夢を見ているときに似ている。夢の中にボクとボク以外の誰かがいて、ボクが動いてるはずなのにそれをボクは第三者の視点で見ているような、あの感覚。ここにいるのはボクだけど、ボクじゃない。
『キミの仕事は最早終わっていると言っていい。後は時間が経つのを待つだけだ。キミは何もしなくていい』
『はい』
黒はボクに触れた。頬を撫で、額を覆い、目の縁に指みたいなものが当たる感覚がした。それに合わせてボクは目を閉じる。
『これは報酬の一環だ。遠慮なく受けとってくれ。それから、まだあの子のことを知りたいのなら、図書館に行くことをお勧めするよ』
目を開けると、そこに黒はなかった。代わりに見えたのは、並んで歩くネイブとゼノ。
「イイデスカ? ワタクシハアナタヲヒョウカシテイルノデス。アナタダカラオキャクサマノアイテヲタノンダノデスヨ?」
「案内を忘れていたのは、ごめんなさい。次からは気をつけます。でも──」
ゼノが言い淀む。ネイブはその背中を押した。もちろん物理的にではなく精神的に。
「ドウシマシタ?」
「えっと、どうしてあの部屋なのかな、と。他にも空いてる部屋はありますよね?」
今度はネイブが言葉を出し渋る。真実を隠すつもりはなさそうだが、どう話すべきかで悩んでいるらしい。
「『オキャクサマ』ダカラデス。アレハモウガクエンノセイトデハナイ」
「えっ?」
ゼノが困惑してネイブを凝視した。
「どういう意味ですか?」
「ソノママノイミデス。アナタモジキニシルトキガクルデショウ」
ゼノは納得したように見えない。さらに問い詰めるか否かを判断している最中、唐突に二人のそばにある部屋の扉が開いた。
「面白そうな話だネ、あたいも混ぜてヨ」
出てきたのはルーシャル=ブートルプ。深紫の短髪に柑子色の瞳と、派手、と言うよりも毒々しい色合いをした女。しかし体型も含め外見は整っていて、その毒々しい色は欠点ではなく立派な個性として溶け込んでいた。ここが寮ということもあり彼女は部屋着で、白い肌は見せつけるかのように汚らしく顕になっている。腕や太ももや胸元など。頭から飛び出した円錐状の黄色の角を見るに、鬼族であることは一目瞭然だ。
「ルーシャル、リョウノナカトハイエソノカッコウハイカガナモノカトオモイマスヨ」
「いいジャン。楽なんだヨ。ねぇねぇそんなことよりサァ、あの部屋埋まったんだネ。あたいはてっきり白眼が入ると思ってたから意外だったヨ」
ルーシャルが言うあの部屋とは、先程朝日が入った部屋のことだ。そもそもが特別製であるこの寮の中でも特に頑丈に作られたあの部屋は『要注意人物用』だった。あの部屋に入れられるほどの危険人物はそうそう現れないし、実際ここ数年間は空室だった。その部屋にあんな平凡な少年が入るなど誰が想像したことだろう。少なくとも朝日は見た目だけは歳の割に小柄で細身。危険どころかむしろ周囲から心配されそうな見た目をしている。
「まさかあんな可愛い男の子が入るなんてネ。好みじゃないけど結構美味しそうジャン」
ゼノがあわあわと口を動かすが、肝心の言葉が出ていない。そんなゼノを見かねてか、ネイブがルーシャルに言う。
「オキャクサマヲアノヘヤニオトオシシタイミヲカンガエナサイ。アナタガテヲダシテイイ『モノ』デハアリマセンヨ」
「モノ? 珍しいネ、あんたがそんな言い方をするなんテ。ますます気になるジャン」
ルーシャルはネイブの忠告など右から左へ聞き流す。ぺろりと舌なめずりをして、ゼノの眉間のしわが深まった。
「なにか文句でもあんノ?」
ゼノが向ける視線に気づいたルーシャルが声を荒らげた。
「いえ」
「なぁんか鼻につく言い方するネ。言いたいことあるなら言いなヨ、マモノオンナ」
怪物でもないバケモノでもないゼノに与えられた蔑称。ゼノの過去、すなわちゼノの姉のことを知る者はバケガクにおいて少数だが、長年共に過ごしている寮生だと隠し通すにも無理がある。魔物の家族なのだからお前も魔物だろ、ということだ。厳密には〈呪われた民〉は魔物でもなんでもないのだが。
ゼノはこの蔑称を嫌だとは微塵も感じていない。自分が慕う姉の家族であることを誇りに思っているからだ。呼ばれ出した当初は眉をひそめていたが、それは姉を魔物扱いすることが気に入らなかったからだ。
「コラ、ケンカヲウルノハヤメナサイ。ゼノハソンナチョウハツニハノリマセンヨ」
「ハイハイ。ネイブはうるさいナ」
鬱陶しそうにそう言いながらも、ルーシャルはニヤニヤとした顔を直さずにゼノを舐めまわすように見続ける。
「確か、あの男の子と仲良いんだよネ? あたいが手を出すと嫌な顔するってことはそういうコト?」
途端にゼノの顔は真っ赤になった。それは羞恥と怒りの感情が複雑に混ざりあった結果であった。先程ネイブに「ゼノハソンナチョウハツニハノリマセン」と言われたばかりだが、こればかりは言い返さねばゼノの気は収まらなかった。
「違います!」
「むきになってどうしたノ? そんなに強く否定するなんて逆に怪しいジャン」
「私と朝日は友達です。勝手なこと言わないでください!」
「ふぅン?」
ルーシャルが納得した様子は微塵もない。見下すような嘲るような目を隠さない彼女に、ネイブは大きく跳び上がって彼女の頭を叩いた。
「痛ァ!」
「イイカゲンニシナサイ、ゼノヲカラカウンジャアリマセン」
「なんであたいだけなのサ!? 虐待だヨ虐待!」
「アイノムチデス。ゼノハダイジナ、オキャクサマノオメツケヤクナノデス。アナタノセイデヤクヲオリルトイッタラドウセキニンヲトルノデスカ」
「お目付け役ゥ?」
ネイブは小さな見た目に反し、ルーシャルに相当なダメージを与えたようだ。ルーシャルは微かに涙目になりつつ頭をさすり、ゼノを睨む。
「このぼんくらにそんなこと出来るわけないヨ」
「ナントデモオイイナサイ。イキマスヨ、ゼノ」
「はい」
ボクは目を閉じた。瞬きをしてもう一度目を開くと、もうそこにゼノやネイブの姿はないし、もちろんルーシャル=ブートルプの姿もない。目の前にあるのはボクに当てられた部屋の大きな扉。これからなにをしようか、そんな疑問さえ浮かんでこないままにぼんやりと扉を見つめる。
「あのー……」
背後から声がした。誰かいたっけ? そう自問しながら声の主を確認する。
左右に広がった特徴的な形をした、銀にも見える灰の混ざった白髪と、赤青黄がそれぞれ混在する瞳の色。すらっと伸びた体に纏うものは色とりどりの派手な衣装。継ぎ接ぎだらけとも形容できそうなちぐはぐな服だ。腰を越える長い髪は性別を判断する材料には成り得ず、男にも女にも見えるし、なんならどちらにも見えない。よくわからない風貌だ。顔でも性別は判別できない。ただ、なんだか見覚えのある顔だ。
「驚かないんですねー」
「そういえばそうだね。で、誰?」
ボクが訊くと、そいつは答えた。左手を胸に当て、見本のようなお辞儀を見せる。
「申し遅れました。ワタシはジョーカー。イロナシと対を成すイロツキでございます」
なるほど。道理で見たことがあると思った。特にその馬鹿みたいな格好。白と黒のイロナシでさえ派手だったのに、そこに色が加わると目が痛くなる。
「なにしに来たの?」
「なに、と言いますかー」
イロツキは困惑したように微笑んだ。冷たい微笑だ。氷よりは極寒に晒した鉄と表現する方が適切だと思える、そんな冷たさ。
「ご相談に伺ったのです。そこの精霊をお貸しいただけませんか?」
「精霊?」
ボクは鞄から出て机の上に座っているビリキナを見た。イロツキに視線を戻して再び問う。
「ビリキナのこと?」
「はい」
「いいよ別に。好きにして」
二つ返事で了承したことを怒鳴ってくるかなと思ってもう一度ビリキナを見る。ビリキナは不自然なくらい体を強ばらせて固まっていた。よく見るとうっすら汗もかいている。どうしたんだろ。
「そうですかー! ありがとうございます! いやぁ助かったなー。なんせずっと一緒にいるんですもの。なかなか引き剥がせなくてー。いやはや流石でございます。貴方は二度も精霊を捕まえていてー」
イロツキの声は感情がわかりにくい。この台詞も何の意図で言っているのだろうか。本当に褒めているようにも嫌味のようにも聞こえる。どうでもいいや。
「さてさて契約主のお許しも頂いたことですしどこで話しましょうか? ワタシはここでもいいのですがー」
ビリキナは慌てた調子の声を出した。
『待ってくださいっ、場所を変えましょう!』
なにをそんなに焦っているんだ。そういえば反応からしてビリキナはイロツキのことを知っているらしい。イロナシの方はよく知らないみたいだったのに。
「ボクはいまから出るからここで話してもいいよ。勝手にして」
それだけ言い残して、ボクは身一つで部屋を出た。姉ちゃんの部屋はどこなんだろう。把握しておいた方がいいよね。ネイブに訊けばわかるかな? 前は学園長室の壁の中で過ごしていたって言ってたけど今回は寮にいるよね。ネイブが案内していたし。姉ちゃんを案内していたはずのネイブがさっきボクの部屋に先回りして待ってたということは少なくとも学園長室には行ってないはずだ。
部屋から出る直前、既に話を始めたイロツキの言葉を背中に受けて、ボクは部屋を後にした。
「あの方とあの御方、キミはどちらにつくつもりー?」
10 >>318
- Re: この馬鹿馬鹿しい世界にも……【※注意書をお読みください】 ( No.318 )
- 日時: 2022/10/07 05:49
- 名前: ぶたの丸焼き ◆ytYskFWcig (ID: rrGGtC6v)
10
「オジョウサマノオヘヤデスカ?」
まずはネイブを探そうと意気込んでいたが、呆気なく見つかった。一階に降りて正面玄関に行くとそこにいた。まあ確かに、仮想生物であるネイブに部屋なんか必要ないからね。ただ、少なからず人に近い姿をしたネイブが特に何もない空間にぽつんと佇んでいる光景は少し違和感がある。すぐに慣れるんだろうけど。
「うん。どこにあるの?」
「カゾクトハイエレディノヘヤニジゼンノモウシデモナクタズネルノハドウナノデショウネ」
ネイブは仁王立ちの真似をした。
「トイウノハジョウダンデス。オジョウサマカラ、オキャクサマガノゾマレレバヘヤヘアンナイスルヨウニトオオセツカッテオリマス。ドウゾコチラヘ」
ネイブはいつの間にか二人分の食事をふよふよと浮かせて、ボクの前を歩いた。
なんだよ。だったらはじめから素直に案内していればいいのに。変に勿体ぶっちゃって。口に出したりはしないけどさ、ちょっと面倒くさいよ。
「ジョウダンモコミュニケーションノイッカンデスヨ」
「え?」
ネイブが進む方向は階段の方ではない。姉ちゃんの部屋は一階なのかな?
一階の奥まで進むと、そこには下へと続く階段があった。なるほど、この寮には地下もあるのか。かなり大きな寮だな。そう思ったけどそもそもバケガクに通う生徒の数も膨大なのでなにもおかしくはないか。
「オキャクサマハオジョウサマガスキナンデスネ」
階段を降りながらネイブが言った。
「え? ああ、うん」
そうだね。ボクは姉ちゃんが好きだ。この世の誰よりも。昔からボクの一番は姉ちゃんのものだ。そして姉ちゃんの一番もボクであるべきなんだ。実際には、姉ちゃんはボクよりも笹木野龍馬の方が大切なんだろうけど。笹木野龍馬が消えてしまったいま、姉ちゃんの一番は誰なのかな。ボクだったら嬉しいけど、たぶん違う。なんとなく、そんな気がする。
「ナカガイイコトハヨイコトデス。オモイノシュルイコソチガエドオジョウサマモオキャクサマヲタイセツニナサッテイルノデショウ」
知ったような口をきくネイブに少々腹を立てつつ、ボクは頷いた。ボクが頷いた動作をネイブが確認することはないとわかっていたけど。
「大切にされている自覚はあるよ」
「ヒッカカルイイマワシヲナサイマスネ。ナニカキニナルコトデモ?」
ネイブはボクを見ていないと思っていたけど、どうなんだろう。歩いている方向と同じ方向に目鼻に当たるものがあると思い込んでいたが、もしかしたらこちら側に顔があるのかもしれない。そもそも全身が顔の役割を果たしているのかもしれないな。
「気になるってほどでもないんだけどさ。『家族として』大切にされているわけじゃないのはわかってるから、それがちょっと寂しいなって。それだけ」
「ナルホド。タシカニオジョウサマハオキャクサマヲカゾクトシテアイスルコトハデキマセンネ」
「改めて他人に言われると腹立つんだけど?」
「タニンデハアリマセンヨ。ワタクシハコノリョウノホゴシャデス」
「あっそ」
地下一階を素通りし、もう一つ階を降りる。地下二階に着いて、比較的階段に近い中途半端な場所でネイブは立ち止まった。
コンコン、コンコン
「オジョウサマ、オキャクサマヲオツレシマシタ」
静かな廊下に、ネイブの角張った声が染み込む。その声は女性的であったがやや低めで、聞いていて落ち着く声だった。
静かな廊下に、静かな扉の開閉音が鳴った。
「入って」
明かりらしい明かりもない暗い廊下に、存在を主張する美しい金髪が見えた。廊下の壁や床、部屋の扉の黒とは、正反対で異質な白い肌が気持ち悪いくらい妖艶だ。姉ちゃんの青眼と白眼にはやっぱり光や覇気がない。
「デハ、ワタクシハシツレイイタシマス。コレハオジョウサマトオキャクサマノオショクジデス」
「うん」
ネイブは姉ちゃんに食事を渡すと、静かに立ち去った。
姉ちゃんは黙って部屋に入ってしまったけど、扉を開けたままだし、さっき「入って」と言われたから入っていいんだよね?
「お、お邪魔しま、す?」
家族の部屋に入るのにお邪魔しますは他人行儀だし変かな。だけど他に適切な言葉を思い浮かばない。何も言わずに入るのも一つの手だけど、それはやめておいた方がいい気がした。
八年の月日を越えて家に帰ってきたあの日から、姉ちゃんの部屋に入るのにはなぜか緊張するようになっていた。昔から感じていた姉ちゃんとの距離が、長い時間が空いたことでより鮮明に自覚するようになったからだ。
場所が変わったからかな、いつもより緊張する。部屋の中は真っ暗で何も見えない。
「待って」
姉ちゃんが言った数秒後に明かりがついた。姉ちゃんの魔法だ。明かりがついたことでこの空間の全貌があらわになった。と言ってもボクの部屋と同じで移動したばかりなので物は少ない。明かりがついているにも関わらず廊下とよく似た暗い雰囲気の部屋。黒い壁に黒い床、灰色のベッドと机と椅子と。暮らすにあたって必要最低限の家具だけが揃えられた質素な部屋だ。本来ならここから家具を揃えたりするのだろうが、この家具たちは随分姉ちゃんに似合っていた。ネイブに渡されていた食事は机の上に置かれていた。
「座って」
姉ちゃんはベッドに腰掛ける。
「ここしかないから」
ボクは姉ちゃんの右側に座った。窮屈に感じないようにゆとりを持ってベッドに体を預ける。
「どうしたの」
姉ちゃんは目線だけを動かしてボクを見た。吸い込まれそうなほど澄んだ青眼は、光を失っているのに外からの光の反射で輝いて見える。
ボクはちょっと考えてから笑顔を作った。
「姉ちゃんに会いたくて」
「そう?」
「うん!」
せっかくだから何か話したいな。そうだ、特に興味はないけどこの寮について聞いてみよう。何から聞こう。不思議なことといえば『どうしてこんなに暗いのか』『どうしてここは隔離されているのか』『ネイブは何者なのか』、この辺かな。まだあるけどとりあえず。
「姉ちゃんはなんでここがこんなに暗いのか知ってる?」
姉ちゃんは数秒の沈黙のあと言った。
「さあ」
「知らないんだ」
「雰囲気じゃないかな。ここはバケモノの巣窟だから」
ふむふむ。確かにボクもこんな胡散臭い建物に自分からは近づきたくないな。
「それってここが隔離されているのと繋がりがあったりする?」
「そうだね」
今度の返事は速かった。頷くことなく肯定する。
「関連はある。でも逆。黒い見た目はバケモノから外部を守るためのもの、隔離は外部からバケモノを守るためのもの。バケモノと一言で言っても色々ある。破壊衝動や虐殺願望を常に抱いている人もいれば、物理的にも精神的にも魔法的にも弱い人もいる」
へー、ちゃんと意味があったんだ。
「じゃあさじゃあさ、ネイブは? なんでいるの? 寮の管理人なら人間でもいいよね。あいつも寮がバケモノの巣窟であることに何か関係があるの?」
仮想生物がああやって職を持っているところは見たことがない。仮想生物に与えられるのはあくまで役割だ。仮想生物を維持するためには術者は仮想生物に魔力を提供し続ける必要があるし、仮に永続で仮想生物を維持できたとしたら、僕たちは仮想生物に仕事の大半を押し付けて、しまいには廃れてしまうだろう。はじめは便利だと喜んだとしても、働くことをやめた生物は壊れる。便利なものでも適度に使わなきゃいけないんだ。魔法は便利なものだからこそ、慎重に向き合わなきゃいけない。
「管理人じゃない。保護者」
姉ちゃんから訂正があった。そういえばそんなこと言ってたっけ。保護者って親みたいだな。実際母親じみた言動もいくつかあったし。
「ネイブはこの寮だけにいるんじゃなくて、他の四つの寮にもいる。ここのネイブの体の色は赤で、他のネイブの体の色はそれぞれのグループを象徴する色に対応している」
あっ、ほんとだ。よく考えたら赤の魔力で作られたわけないからあの赤は意図的に付けられた色ということになるのか。
「なんで寮の保護者がネイブなのかは、学園の職員だから。学園で働く教職員の内、教員はこの地に生きる種族で構成されていて、職員はほとんどが仮想生物で構成されている。教員になれなかった少数の人が職員になっていることもあるけど」
聞いたことがある。バケガクは生徒、つまり子供だけでなく大人の面倒も見ていると。バケガクで働く人たちはバケガク卒業生であることが多い。その理由はバケガクに通うようなバケモノは社会に出ても就職先に困る場合が少なからずあって、バケガク卒業生じゃない先生も何かしらの社会一般で言う『欠陥』を抱えている。そして社会一般で言う『まとも』な先生の方が少ない。まともならバケモノが通う、社会的に評価の低いバケガクに勤めようなんて思わない。堅実で普通の生活を送ってきた人でバケガクに勤めたいと思う人は頭がイカれていて、やっぱり普通じゃない。図書館の番人さんや守人さんもきっと特殊な事情を抱えているんだろうと予想できる。あの二人もそうだし、バケガクの教職員は身元が不明な人が多い。
「仮想生物なら術者がいるよね。誰か知ってる?」
「理事長」
「だと思った」
自分で聞いといてなんだけど、じゃなきゃ誰が術者なんだって話だ。学園で働く職員の全員を把握しているわけじゃないが、学園の敷地の広さを考えれば大体の数は推測できる。その全ての仮想生物を維持し続けるなんて大量の魔力が必要となる。それこそ、そうだな、無尽蔵の魔力が。
……感覚がおかしくなっているのかな。一体の仮想生物だけでも永久に出し続けることなんてできないから学園の職員のほとんどが仮想生物だっていう言葉自体信じがたいもののはずなんだけど。
「理事長には底なしの魔力がある」
姉ちゃんは言う。
「言葉通りの意味。魔力を大量に保持しているわけじゃない。本当に制限がない」
一般的な思考なら学園長についてさらに追及するところなんだろう。魔力の底がない種族なんて聞いたことがない。だけど、ボクは学園長にさほど興味がなかった。
それよりも気になるのは。
「なんでそんなこと知ってるの?」
以前から思っていた。姉ちゃんに対する学園長の態度は、生徒に向けるものではない。姉ちゃんに敬語を使っていたし、姉ちゃんが学園に滞在していたときは学園長室の一部(?)を使わせていた。姉ちゃんがただの生徒ならそんなことはしないだろう。学園長自身に何かあるのは確実として、生徒としての姉ちゃんにも何かある。ボクはそっちの方が知りたい。
「在学日数が長いから」
「それだけ?」
姉ちゃんは沈黙した。だからボクは姉ちゃんの顔を覗き込んだ。言うことを悩んでいるのか、言う気がないのか、どっちだろう。
「まだそのときじゃない」
悩んでいるのか、その気がないのか、どちらでもないような表情を浮かべる。悲しそうで苦しそうな姉ちゃんの顔。いつもの無表情を崩すほどのことがいまこの瞬間に起こったのか? なにがあったんだろう。気付けなかった。残念。それにしてもそのときじゃないってどういうことだ? 教えてくれる気はあるってことでいいのかな。
「物事には順序がある。神が望む順序に従う必要がある。だからまだ、言えない」
「神?」
「うん」
「姉ちゃんは神と関係があるの?」
姉ちゃんはまた黙った。だが、今度はいつもの無表情で首を傾げた。
「朝日が言う神がどの神であるかによって、その回答は変わる。私が把握している神は四種類ある。関係があるという表現も曖昧で答えづらい。全種族と関係がある神もいる」
だからなんで姉ちゃんはそんなことを知っているの? 姉ちゃんは何者なの? 姉ちゃんは何を隠しているの?
「そうなんだ」
──じゃあ、姉ちゃんは神なの?
その問いを口に出す勇気は、ボクにはなかった。
11 >>319
- Re: この馬鹿馬鹿しい世界にも……【※注意書をお読みください】 ( No.319 )
- 日時: 2022/10/07 06:13
- 名前: ぶたの丸焼き ◆ytYskFWcig (ID: rrGGtC6v)
11
姉ちゃんの部屋で過ごしていたら、外が暗くなっていることに気付けなかった。姉ちゃんの話によると、この寮は各部屋にお風呂なんかがあるらしく、共有スペースとやらは団欒部屋だけだそうだ。これは全ての寮がこうなんじゃなくて、これもⅤグループ寮の特殊性なんだって。Ⅱグループ寮とかになってくると部屋の質が上がってお風呂も付いていたりするんだけど、IVグループ寮とⅢグループ寮は他の学校の寮と同じで共有で使うものが多いらしい。だけどこれにもちゃんと理由があって、ⅡグループやⅠグループの生徒は貴族や王族が多く、他人と物を共有して使うことに抵抗がある人が多いからなんだと姉ちゃんは言っていた。ならⅤグループ寮の共有スペースが少ない理由はというと、バケモノ同士の接触を減らすため。納得できるようなできないような。
「ただいま」と言いながら部屋の扉を開ける。寮の部屋の扉は扉に手をかけたときに、それぞれの部屋の主の魔力を認証して鍵が開く仕組みだ。そんな技術があるのかと聞いた直後は驚いた。
部屋の中は静かだ。イロツキは帰ったのかな。明かりもついていない。見えなくもないけど見えづらいな。
ボクは魔法で灯りをつけた。違和感があった。なんだろうと考えたかどうかわからないくらいすぐにその正体に気づく。
「ビリキナ、いないの?」
返事がない。どこに行ったんだろうか。
『いやはや、流石でございます。貴方は二度も精霊を捕まえていてー』
まさか連れて行かれたのか? それか場所を変えて話したのかもしれない。てっきりここで話していたのだと思ったのに。
『ああ、ここで話したよ』
「わあ! びっくりしたな。あと心の中を読まないでくれる?」
ビリキナの声は確認できたけど、どこにいるのかはまだわからない。キョロキョロと辺りを見回し首を上に回してようやく見つけた。
「なにしてるの?」
なにもない空中の、しかもボクの目線よりもはるかに高い場所で停止している。異様な光景だ。本当になにしてるんだ?
『万が一お前が暴走状態で帰ってきたら、オレなんてすぐに死んじまうからな』
「なに言ってんの? ボクが暴走状態ってなんのことだよ。そもそもビリキナは精霊なんだから死なないでしょ」
『精霊だって死ぬときはある。死ぬっつーか消滅だな。世界から外れたり長生きしたり、神が気まぐれを起こしたりしたらあっけなく消えるぜ』
ビリキナは喋りながら下降をしてきて、机の上に座った。
「え、なにそれ」
世界から外れたら神によって存在を削除されることは知っている。それは精霊に限ったことではない、世界の共通認識だ。種族によってその線引きは違っていて、それを越えることはなかなかないから前例は少ない。
「気まぐれでも消されるの?」
『安心しろよ、それは精霊だけだ。種族精霊の中のごく一部の、特に神に近い精霊だけ。例外もなくはないけどな。勘違いされちゃ困るから言っとくが、そのことに関して不満はないぜ。オレたちは生まれたときからそう考える存在だ。オレがいま消えたくないのは人間みたいに本能から来る感情じゃなくて、まだやることが残ってるからだ』
「やり残したことでもあるの?」
『すぐにでも死にそうなやつに言うことだろ、それ。お前が暴走さえしなけりゃ少なくともまだ消されねーよ』
ボクは自然と笑顔になった。ビリキナとこんなふうに話したのは久しぶりだ。なんだか嬉しい。
「元気になったんだね。欠片ほども心配してなかったけど、ずっと暗い顔されてて鬱陶しかったから良かったよ」
ビリキナは溜め息を吐いた。
『お前ってたまに辛辣になるよな。
まあ、そうだな、やっと頭の整理ができたよ』
「なんで急におかしくなったの?」
『一言で言えば、お前のせいだ』
「へ?」
ビリキナの顔には大きく『面倒くさい』と書かれていた。
『知りたきゃ教えてやるよ。オレが許されている範囲でな。知りたいか?』
考える前に言葉が出た。
「別に。そんなに勿体ぶられたら聞く気なくしちゃったよ」
『空気を読まないやつだな』
ビリキナは頭をガリガリとかいた。
「ビリキナ自身に興味なんてないし。様子がおかしかったことについてはちょっと気になってたけど、理由が知りたいほどではないかな」
『お前の姉も関係するぞ。いいのか?』
そろそろお風呂に入ろうかな、それかご飯にしようかな。ビリキナの言葉を聞きながらそんなことを考えていたけど、すぐに消し去りビリキナが座っている机の椅子に座ってビリキナに尋ねた。
「どういうこと?」
ビリキナはニヤリと笑った。なのに憂いを帯びた不思議な表情だ。見間違いかもしれないけどその微妙な表情の中に、同情によく似た慈しみがこちらを伺い見ていた。
『オレは神に会った』
「それで?」
『驚かないってことは、お前も会ったのか』
「うん。ニオ・セディウムの神々にね」
ビリキナは少し驚いた顔をした。でも特にボクになにかを尋ねることはなく、続きを話す。
『オレが会ったのは、ディミルフィア神だ』
なるほどね、ビリキナの言葉の意味がなんとなく分かったよ。この話を聞く気が強くなった。確かこの寮のご飯は自分で取りに行かないといけなくて、その時間も決まっていると聞いた。だからそろそろ行かないと今日のご飯がないかもしれない。そんなのどうでもいい。一晩ご飯を抜いたくらいで人間は死にやしない。
『神から聞いた話はにわかには信じがたかった。精霊であるオレはなにかと神が気まぐれを起こすところを見たことがあったけど、あんなことを告げられたのは初めてだ。しかも誰もいない空間でオレ一人に向かって。なんだと思う?』
そんなこと聞かれたってわかるわけないだろ。ボクは首を横に振った。
『お前は神になるんだとよ。よかったな、ただの人間が神になるなんて前例のないことだ。喜べよ』
「は?」
本心からそう言った。なにを言い出すかと思えば。
「ふざけてんの?」
『オレもそう思ったからさっきまであの状態だったんだよ。わかったか』
ボクは言葉選びに時間を要した。言いたいことはなんとなく理解できた。確かにそんなことを言われたら思考を放棄して頭がおかしくなってしまう。精霊であるビリキナに神の言葉を疑うなんて選択肢は与えられていないだろうから余計に混乱したはず。
「わかったけど、どういうこと? なんでボクが神なんかに」
『神なんかなんて言うな。言葉には気をつけろ』
ビリキナは見たことがないくらい鋭い目でボクを睨んだ。
「ご、ごめん」
確かに失言だった、反省。つい最近まで神の存在を信じたことはなかったけど、この目で神を見てしまったいまとなっては神に敬意を払わざるを得ない。
『ったく』
呆れた色がビリキナの目の中に表れる。
『オレも全てを知ったわけじゃない。そんな権利はないからな。あくまでオレに与えられた役割を果たすにあたって必要なことしか知らされていない。神はどうやらお前の神化を止めたいらしい。引っ張りだこだ、羨ましい限りだよ』
知らないよ、そんなの。引っ張りだこ?
むっとしてビリキナを見ると、ビリキナはふっと笑った。
『なんて顔してんだよ、事実だろ。ほとんどの干渉をやめた神に存在を認識されるなんて光栄なことだ。
でも同情するよ、神々の都合に振り回されるんだからな。お前はなにも悪くない、誰も悪くない。お前は道を踏み外したんじゃなくそうさせられた被害者だ』
ビリキナが浮かべる、楽しい感情から来るものじゃない作られた微笑とその中に見える慈愛の色に既視感があった。
「姉ちゃん?」
ビリキナは表情を崩して変な顔をした。苦虫を噛んだみたいなバツの悪そうな顔。
『オレの中にあの方が見えたのか。オレも元はあの方に作られた身だからあの方の一部が残ってるのかもな。知ってるか? 闇の隷属の種族の全てがニオ・セディウムの神々に作られたわけじゃないんだぜ』
「あの方って、姉ちゃんのこと? 姉ちゃんは神なの?」
ビリキナの言葉の後半は意識に入れずに問う。言葉を被せて半ば強引に言ったので、ビリキナは不快そうに口をひん曲げながら答えた。
『そうとも言えるし、違うとも言える。実質的にはそうだし、厳密には違う。花園日向は神ではなく正真正銘人間であり天陽族であり、お前の姉だ』
「どういうこと?」
『オレはあの方につく。お前はもう救われない。これは結論であり、神が組み立てた物語の順序だ。抗うことはできない。それでもオレはあの方の望むように動く。しかしこれはオレの意思ではなく既に決められていたオレの使命だ』
「ちょっと、答えてよ!」
『いいか、何度でも言ってやる。お前はもう救われない。なにもかもが遅すぎた。経緯や理由はどうあれお前が犯した罪は間違いなくお前の罪だ。神はお前の贖罪をご所望であり、オレもそれに従う。お前の意思は関係ない。この地に生きる我々は神に逆らうことは許されない』
ビリキナは立ち上がり、机の上に置いていた鞄に近づいた。
『オレはお前の罪に巻き込まれたくない。だけど、オレの意思は無視される。とことんお前とお前の運命と、お前の罪に付き合ってやるよ』
鞄を開けて中に入り、最後にボクを見て言った。
『神は気まぐれだ。気に入られる行動をしていれば、もしかしたら助かるかもな』
鞄がパタンと閉まる乾いた音が部屋全体に広がってから、ボクはぽつりと呟いた。
「なんだそれ」
結局なにもわからなかった。ビリキナの言葉だけを考えると。だけどいままでに起こったことを思い返して整頓すると答えに近いものにたどり着ける気がする。もっと情報が集まれば、きっと。ビリキナからはもう情報は得られない。次は誰を当たろうか。確か東蘭もスナタも寮暮らしだったよね。やろうと思えばいつでも聞きに行けるか。とりあえず近いうちに図書館に行こう。あそこにもまだ謎があるはず。今日はもう寝てしまいたい。お風呂に入って歯磨きもして。疲れた。なんだか疲れた。ベッドの寝心地はどうだろうか。たとえ悪くてもこの眠気なら床でだって寝られる気がする。
12 >>320
- Re: この馬鹿馬鹿しい世界にも……【※注意書をお読みください】 ( No.320 )
- 日時: 2022/10/07 12:47
- 名前: ぶたの丸焼き ◆ytYskFWcig (ID: Cnpfq3rr)
12
Ⅴグループ寮に移動してきて数日が経過した。ご飯は決められた時間内に取りに行かないといけないって話だったけど、別に取りに行かなくてもしばらくすると部屋の扉の前に置かれることがわかった。ネイブから嫌味とかも言われないし、面倒なのであまり取りに行くことはない。取りに行ったとしても鉢合わせるのはゼノくらいで他の人はあまり見ない。自室に引きこもっているのはボクだけじゃないみたいだ。Ⅴグループの生徒なんてみんなそんなもんか。
この数日間で外の世界にも動きがあった。カツェランフォートの標的が大陸ファーストからバケガクに変わるかもしれないらしい。大陸ファーストとの戦争が全く進展しないそうで、その原因はこの間の一件にある。大陸ファースト全土が炎に包まれたあの後、花園家と東家は完全に消えてしまった。しかしそれが幸いし六大家(今は四大家だろうか)が連携して、カツェランフォートの攻撃を防いでいるんだとか。六大家の和を乱していたのはあの二家だったからなくなってよかったんだ。他大陸の女を家に入れた二家を他の四家は認めず、六大家は内部分裂状態だった。
『おい、そろそろ出かけろよ。いつまで引きこもってるつもりだ?』
なにをするでもなくぼーっとしていると、ビリキナにそう声をかけられた。そういえば、全然外出してないな。
「出かけるって、どこに?」
行きたいところなんて特にない。
『図書館だよ。ほら、さっさと行け』
「ちょ、ちょっと押さないでよ。どうしたの?」
若干の焦りも見えるビリキナに聞くと、抑え気味な声で叱責された。
『本当ならもっと早くに行く予定だったんだ。なんならこっちにきた翌日でもいいくらいだった。それがなんだ、もうすぐで一週間経つじゃないか!』
何が悪いんだ。することもないしやる気も起きなかったんだって。
『怠惰なやつだな。そのうちお前が悪魔にとりつかれるんじゃねえの?』
ああ、怠惰を司る七つの大罪の悪魔もいるんだっけ。あと、勝手に心の中を読むの辞めてくれないかな。
『んなことはどうでもいいんだよ、早く行け! ゼノイダとかいうやつが起きる前に寮を出るぞ!』
「ん、なんで?」
ゼノが起きると何かまずいことでもあるの? ゼノは図書館が好きだから、なんなら一緒に行こうと考えてたんだけど。ゼノからも「寮を出るときは私も行きたいから誘ってね」ってこの間言われたし。
ビリキナは眉間にしわを寄せてぽそっと一言。
『いろいろあんだよ』
それだけ言われた。いろいろって何だよ。
『わかった。行くよ』
ボクが言った言葉を聞いて、ビリキナは満足そうだった。
最近、考えるよりも先に声が出ることが多い気がする。
ビリキナがしつこく急かすのできちんと支度を整えられないままに部屋を出る。部屋から出てすぐに異変に気づいた。霧が立ち込めている。なんだこれ。建物の中でも霧って出るんだ。それかどこかの部屋で誰かが変なことしてるのかな。
『チッ』
ビリキナが舌打ちした。
『おい、さっさと行くぞ。歩け』
「いちいち命令口調なのどうにかならないの?」
『他の住民が起きるかもしれないからお前はしゃべるな』
「あー、はいはい」
話を聞いてるのかな。見るからにそれどころじゃないって顔だけど、何をそんなに焦っているんだ。
霧の色は真っ白だ。この黒い寮内でもそう見えるのだから随分濃い霧だ。どこから発生してるんだ? 霧のせいなのかいつもより階段までの距離が遠い気がする。錯覚かな。前がよく見えない。無事に階段にたどり着けても階段を見つけられずに落っこちてしまうかも。
『かなり強い結界だな、なかなか破れねえ』
ビリキナが呟いた。結界? 何のことだろう。この霧って結界なの? だったらなんで歩かせたんだ、意味がわからない。まあこの外出自体ビリキナが言い出したことだし、言う通りにしておこう。後から怒られても面倒なだけだ。それにしても遠いな、今ボクはどこを歩いているんだ?
突然、ぐいと手を引かれた。白い霧から出てきた白い手に左手を掴まれた。ひんやりとした心地の良い冷たさに身を委ね、手を引かれるがままに足を踏み出すと、ざわざわと寒風が森の木々の葉を揺らす音が耳に飛び込んできた。そこで気づく。霧の中では音が全くしていなかった。そしてそれに気づいた瞬間、キーンと耳鳴りがした。不快感のせいで無意識にしかめっ面になるのを感じながら自分の状況を確認する。ボクは寮の外にいた。どうやらボクは階段を降りて玄関の扉を抜けて、いつの間にか外に出ていたらしい。そんな馬鹿な。でも事実だからしょうがない。
「大丈夫?」
白い手の主はボクに尋ねる。なのでボクは姉ちゃんに笑顔を見せた。
「うん、平気だよ!」
少し頭は痛いけど、それだけだ。耳鳴りだってすぐに治まるはず。大丈夫、大丈夫。
「そう」
今はまだ太陽が登り切ってから時間は経っていない。なんでこんな時間に姉ちゃんはここにいるんだろう。制服を着ているけど、寮の敷地から出るつもりはないんだろう。だってネクタイをつけていない。姉ちゃんは元々休日も制服を着る人だ。
「図書館?」
対してボクはネクタイを締めてブレザーも着ている。ボクはちゃんとした私服を持っているし、当然そのことは姉ちゃんも知っていることなので、ボクが出掛けようとしていることは一目瞭然なんだろう。
「なんでわかったの?」
だとしても行先まではわからないはずだ。
「分からなかったから確認した」
うーん、なるほど?
「送ってあげようか?」
「送るって?」
「転移」
「あっ、そっか。でもいいの?」
「問題ない」
「じゃあお願いしたいな」
「わかった」
あの黒い馬車が移動手段なのはわかるけど、どこに行けば使えるのかわかんないから実はどうしようか悩んでたんだよね。帰りはまた馬車庫に行けばいいのかな。
そんなことを考えていたら足元に青白い光を放つ魔法陣が展開された。『真っ黒に染まった』姉ちゃんの両腕がボクに向かって突き出されている。
ボクの腕の黒はこんなにも醜いのに、姉ちゃんは黒に塗れてもなお美しいんだな。
なぜ姉ちゃんが黒に塗れているのか。その時のボクはそんな簡単な疑問を思いつきすらしなかった。いま思えば、本当に狂っていたんだろう。
転移が終わった。自分がいまいる場所が把握出来なくて数回瞬きをする。姉ちゃんはボクが図書館に行くということを知っていたから、ここは図書館のはず。ボクはてっきり図書館の入口の前、つまり外に出ると思っていたんだけど、どうやらここは建物の中らしい。図書館の中かな、それにしても見覚えがない。ゼノを何度か迎えに来たことがあるから図書館の内装はある程度頭に入っているはずなんだけど。
ちょっと考えてから気付く。ここは図書館の最上階だ。道理ですぐにピンと来なかったわけだ。ボクは初めて図書館の最上階に来た。いや、正しくは二度目か。『本を読む』ことが目的で来たのは初めてだ。姉ちゃんはボクがなにを調べに来たのかもわかっていたのか?
「こ、こんにちは」
以前のことがあったからか、ボクは目の前の小さな老人に対面して緊張した。けれど老人──番人さんはボクを見て、穏やかに笑った。
「やあ。初めてのお客さんかな。こんにちは」
そうか、確かあのときはボクの肉体を持った姿は見ていなかったから、わからないのか。
「閲覧利用かな?」
「はい。お願いします」
番人さんはがさごそと受付台を探った。それをしながら、ボクに問いかける。
「君に会えるとは思っていなかったよ。花園朝日」
それはさっきの話し方とは違う、重い威圧感のあるものだった。あまりに唐突で、思わずボクの身体は強ばる。
「私は君に忠告をしたね。このままだといつか身を滅ぼす、と。だけどそれは間違いだった。君が身を滅ぼすことは神が望む未来らしい。ならば私は、もう何も言うまい。哀れな子よ」
「かみ……?」
この人(本当に人なのかはさておき)は何を言っているんだろう。神が望む未来? ボクが身を滅ぼすことが? そんなわけはないだろう。根拠はないけど、常識的に考えて。それとも、まさか。
ボクは頭の中で渦巻く仮説を思い出し、ごくんと唾を飲み込んだ。
「これが閲覧者用の鍵だよ。これであの扉を開けて、入ったら中から鍵を閉めてね。持ち出し、貸し出しは出来ないから注意するように。中にある書物はどれも、歴史的にも文化的にも貴重なものばかりだ。慎重に扱うこと。唯一無二のものだってあるからね」
受付台の隅に置かれてある注意書きの一部を口頭でも伝えられた。ボクははいと頷いて、鍵を受け取った。鍵は想像通り重かった。鍵にしては重量の大きいそれを手の平に受けると、ボクはぺこっとおじぎをしてから扉へと向かった。
体の大きな種族でも入れるようにするためか、扉はかなり大きかった。ボクが小さいというのもあるのかな。鎖が何本も巡らされ、その中心部に南京錠がある。位置が高い。南京錠が遠い。
そう。ボクは小さい。背が低いから、届かないのだ。背伸びをしても、指の先で南京錠に触れることすら出来ない。どうしよう。この鍵って魔法使ってもいいのかな。魔法を使うと崩れたり壊れたり錆びたりする物も存在するからわからない。
ボクが唸っていると、ふと、鍵が手から離れた。ボクの声が喉から発されるよりも早く、鍵は南京錠に吸い込まれる。かちゃりと心地よい音が小さく響き、南京錠は鎖を全て取り込み、そのままそこに静止する。そしてまた、ボクの手に鍵がぽとりと落ちた。なるほど、そもそも鍵が魔道具だったのか。それもそうか。ボクより小さい種族が利用することも想定に入れてるはずだし。
南京錠はその場に留まり続けるらしい。だからボクはそれを放置して中に入る。鍵を閉めるように、と言われたけど、中の鍵は勝手に掛かった。
13 >>321
- Re: この馬鹿馬鹿しい世界にも……【※注意書をお読みください】 ( No.321 )
- 日時: 2022/08/31 08:35
- 名前: ぶたの丸焼き ◆ytYskFWcig (ID: yZSu8Yxd)
13
さて。
ここに来てみたはいいけど、なにから調べてみようかな。まずは神話を読んでみようか。そういえば、キメラセル神話伝の内容はかなり頭に入っているけれど、ニオ・セディウム神話伝はほとんど知らない。最高神テネヴィウス神がいて、その下にコラクフロァテ神を始めとする五帝がいて、さらにその下に多くの神がいて……その程度しか知らないな。まあ、とりあえずキメラセル神話伝を探そう。たぶんある。[黒大陸]以外の全世界の共通語はディミラギア語だし、この学園の共通語もディミラギア語だ。もしキメラセル神話伝がなかったら確実にニオ・セディウム神話伝はあるだろうし、それならそれで問題ない。
やることをはっきりさせて一度思考を停止すると、あることに気がついた。
あれ、ビリキナはどこに行ったんだ?
いつからはぐれたんだっけ。記憶を辿ると、そうだ、姉ちゃんに転移してもらったときから既にビリキナはいなかった。きっとあの霧の中ではぐれたんだ。気づかなかった。興味ないしね。まあ、あれでも精霊だしきっと大丈夫でしょ。帰ったらどうせケロッとした顔で部屋にいるんだ。そしてなんでオレを置いて行ったんだとか、また文句言われるんだ。ああ面倒くさい。
結局あの霧はなんだったんだろう。ビリキナは結界とか言ってたっけ。なんで寮の中に結界が張ってあるんだ。しかもボクの部屋の前に。興味があるとまでは言わないけど、気になるな、ボクに当てられたあの部屋は特殊なⅤグループ寮の中でもさらに特殊な部屋らしいし、もしかしたらそれと関係があるのかもしれない。
後のことは後で考えよう。今のことは今考えるべきだ。せっかくこの図書館の四階に来たんだ、ここじゃないと出来ないことなんて山ほどある。それに、あの予言のこともあるしね。まさかビリキナがあんなに図書館に行きたがっていた──というよりも、ボクを図書館に行かせたがっていたのにはあの予言と関係があるのか?
ボクは頭を横に振った。とにかく今は本を探そう。ここに来た目的を果たすのが先だ。考えるのはいつでもできる。今考えたってわからないことだ。考えてもわからないことをいつまでも考えているのは時間の無駄でしかない。
探し始めてからしばらくして、ようやく目当てのものを見つけられた。まただ。またボクの手が届かない場所にある。首を痛めそうなくらい見上げないと視界に入らない。高過ぎだろ。
きょろきょろと周囲を見回して、脚立を探す。少なくとも近くにはない。どうしたものかと考えてから、本に向かって手を伸ばした。もちろん届かない。そんなことわかってる。
「来い」
ぼそっと呟くと、複数あるキメラセル神話伝の本のうちの一冊が本棚からそろりと出た。ふわりふわりと落ちてきて、ボクの腕の中に収まる。片手で受け止められるかなと思ったけど、無理そうだった。
脚立はないけど、椅子ならある。ボクは本を抱えた体勢のまま一番近くの椅子まで歩き、どさっと座った。そして一度目を閉じて、考えていたこと、調べたいことを頭の中で整理する。
姉ちゃんには親しい人が三人、三人だけいる。思い返してみれば、不思議で、不可思議で、奇妙な関係だ。東蘭はまだわかる。というより、東蘭だけは自然な関係だと思う。同じ天陽族だし、花園家と並ぶ『六大家』の一つ、東家の長男だし。性格もどことなく似てる気がする。達観してるというか、無欲というか。
笹木野龍馬やスナタは、まず接点からわからない。スナタは他大陸の[ナームンフォンギ]の出身だし、笹木野龍馬なんか怪物族だ。姉ちゃんや東蘭が種族や出身で個人を計らないことは知っているけど、同時に同種族であっても人と関係を持とうとしないあの二人がなんの繋がりもない人(人ではないけど)と関係を持つこと自体が奇妙だ。あの二人はそう簡単に他人に心を開かないし、はっきり言って心を開くまで待ってもらえるような人間性は持っていない。
それに、どうしても気になる。いままではそれが当たり前だと思っていて、それが当然だと思っていた。思い込んでいた。だけど一度引いて見て、『ボク』以外の視点に立ったつもりで見てみると、明らかに不自然なことがある。
どうして姉ちゃんは、白と黒の魔法が使えるんだ?
だって、おかしいじゃないか。この地に生きる生物は、白か黒のどちらかの魔法しか『使えない』と、『神によって』『定められている』んだから。
そう、『この世に生きる生物』ならば。
では、『この世に生きない生物』ならば?
そんな仮説がボクの頭の中にふと芽吹いた。この世に生きない生物。例えば、神。そう。神ならばどうだろう。神界ならいわゆるあの世にあたる。ああ、ほら、いるじゃないか。白と黒の魔法を使える、司る、神が。思考が飛躍しているという自覚はある。でも、じゃあ、他に何があると言うんだ? 答えは一つ。何もない。だって、姉ちゃんがあの神だとすれば、本当にそうであるとするならば、全ての説明がつく。姉ちゃんが白と黒の魔法を使える理由。『姉ちゃんが』笹木野龍馬と関係を持った理由。姉ちゃんが──白眼である理由。
キメラセル神話伝の本を開く。そこには、こう記されてあった。
『ディミルフィア神は太陽の光が染み込んだような眩い金糸の髪に、快晴の空を封じこめたような青眼を宿す、この世の何よりも美しい神であった』
金髪に青眼という外見の特徴は、有名なものだと天使族に見られるものだ。ディミルフィアが美しさの頂点として自分を基準としたときに、自分に近い外見を持った者を美しい者と定め、天使を作るときに自身に近い見た目をさせて作ったのだと思っていた。姉ちゃんが金髪で青眼なのは、ただの偶然だと思っていた。たまたま金髪の一族である天陽族に生まれ、たまたま母親が他種族の青眼の一族で、たまたま魔力が強い家系である花園家に生まれたのだと、そう思っていた。でも、本当にそうだとすれば、『あまりにも偶然が重なり過ぎではないだろうか』。
金髪に青眼というのは、実はそんなに多くない。金髪というものは大陸ファーストの民にしかない髪色で、大陸ファーストの中で一番多い天陽族の瞳の色は基本的には暖色だ。そして他の種族でも、緑とか紫とか、ほんの少数だけど銀とか。『青』はなぜか、あまりいない。
姉ちゃんはこう言っていた。
『私はその昔、とても大きな魔法を使った』
『私はその魔法を使ったことにより、片目の色素を構成する分の魔力を失ったの』
と。この言葉を説明出来る、疑問がある。
『なぜ神が、この世の生物としてこの世に存在している?』
姉ちゃんだけじゃない。笹木野龍馬だってそうだ。なぜ神が、人間として、吸血鬼として、この世界にいるんだ?
こう考えることは出来ないだろうか。神を種族だと考えて、神から人間に、神から吸血鬼に、『種族を変えたのだ』と。もちろんそんなことは出来ない。難しいのではなく、出来ない。本で読んだだけの知識だけど、どうにかこれを成し得られないかと取り組んだ研究者がことごとく失敗に終わった。そして結論を出した。『不可能である』『これは我々が手を出していい領域ではない』『神に対する冒涜だ』『神に対する反逆だ』。
『これは禁忌の術である』、と。
神への冒涜。確かにそうかもしれない。我々を生み出したのは神であり、神が定めた生まれながらの種族を変更するという行為は神に逆らう行為となるのだろう。では、神という種族は誰が定めたのだろうか。神と呼び始めたのは他でもない我々ではないのか? 神が定めた種族に名前をつけたのは我々ではないのか? いや、そんなことはどうでもいい。とにかくボクが気になることは、『神が自身から神という名を剥奪する行為も禁忌となるのではないか』ということだ。これの答えを仮に肯定とおいたとき、謎を解く糸口が見えるのではないだろうか。
ボクはさらに本に目を通す。すると、こんな文が見える。
『ディミルフィア神の弟神である太陽神、ヘリアンダー神は、審判を司る法の神である』
火と光、そして太陽がヘリアンダーを象徴するものだ。一部地域では生と死を司る死神として恐れられているそうな。
…………。
あと一人。でも、それらしい神は見つからない。思えば、あいつはある意味異質だった。姉ちゃんでもない、あいつでもないあいつでもない。あいつはある意味、あの四人の中で特殊だった。なぜならば──
「こんにちは、朝日くん。何か調べ物?」
突然ボクに掛けられた女の声に驚いて、大きく肩が跳ねた。
声も出さずに振り向くと、そこには、スナタがいた。
14 >>322
- Re: この馬鹿馬鹿しい世界にも……【※注意書をお読みください】 ( No.322 )
- 日時: 2022/10/07 13:02
- 名前: ぶたの丸焼き ◆ytYskFWcig (ID: Cnpfq3rr)
14
なんで、なんでいるの? だって、鍵は掛かっていたはずだし、鍵が開く音もしなかった。それに番人さんがいる。入れるわけないのに。なんで、スナタがいるんだ?
困惑のあまり固まってしまったボクを放って、スナタはアハハッと楽しそうに笑った。
「ごめんね、驚かせるつもりはなかったんだけど。何読んでるの? ……へえ、キメラセル神話伝? 意外。朝日くんって神話に興味あったんだ。それとも」
スナタはいつもと何も変わりない。灰がかった淡い桃色の髪に、思わず見とれてしまうような不思議な銀灰色の瞳の、気後れしない程度に整った顔立ち。小顔で行き過ぎない細身で、特別小さくはないけど大きくもない平均的な身長。姉ちゃんのように排他的なまでの美貌はないけど、一般的に見てかわいいと思われるような、親しみやすい外見。
なのにボクの目には歪んで見えた。もちろん錯覚だ。気のせいだ。だけどそう見えるんだ。スナタの後ろでどす黒いなにかが燻っている。
「知りたいことでも、あるの?」
いつも通りの柔らかい笑みを浮かべているけれど、目は笑っていなかった。スナタの瞳に映る光が、ナイフが反射する光に見えた。そんなわけないのに。仮にスナタが攻撃を仕掛けてきたとしても、ボクはスナタを返り討ちに出来る自信がある。男女差別をするつもりはないけど、女であるスナタが男であるボクに勝つのは少々難しい。性別の壁を壊すことができるほどの実力を持っているなら話は別だけど、スナタにそんな力があるとは思えない。
「あ、えっと」
なのにどうしてだろう。底が見えない恐怖を感じる。こわい。こわい? 怖い? 恐い?
あれ、どうしてだろう。気持ち悪い。
「朝日くんが知りたいことは載ってないかもね。神話はあくまで神話で、それぞれ個神のことは書いてないだろうから。ここにある神話伝は一般に出回ってるものとは内容が多少違うだろうけど、神話は神話だし」
あたかもボクが知りたいと思っていることを知っているかのように話すスナタが不気味だった。言いようのない不安感に苛まれ、吐き気を催した。
「ワタシは、君には感謝している。お礼に教えてあげようか? お姉ちゃんもそれを望んでいるようだし」
「感謝?」
なんのことだろう。スナタに感謝されるようなことをした記憶はない。それに、お姉ちゃん? スナタの家族構成は知らない。スナタに似た女性に会った記憶もないから、多分面識はないはず。
「うん。代わりに手を汚してくれてありがとう」
満面の笑みで、そう告げられた。
「え?」
意味がわからない。
「神は汚れた者を嫌うから。嫌われたくないもん。だからあの鬱陶しいアイツにも今まで手を出さないでいてあげたの。長く一緒にいれば情が湧くかなと思ったけど、やっぱり目障りだとしか思えなかったし」
「何を、言っ」
「え? わからない?」
スナタはあくまで笑顔だった。その笑顔は『やっぱり』無邪気そのもので。
「リュウのことだよ。アイツをフェンリルにしたの、朝日くんでしょ? 知ってるんだから」
言っていることはわかる。理解が出来ない。だって、あんなに仲が良さそうだったのに。
そうだったっけ? 笹木野龍馬とスナタの仲が良好だと確信出来る出来事なんて、あったかな。そうだな、親しくは見えた。でもそんなの、いくらでも取り繕える。ボクが見てきた二人の関係に嘘偽りはないとどうして言える?
「そんなに驚くことかなぁ。朝日くんもわかるでしょ。ね・こ・か・ぶ・り」
幼い子供に言い聞かせるように、一音一音をはっきりと発音しながらスナタは言った。
「ただのねこかぶりだよ。そっかー。君の目にも親しく見えたんだ。どう? 上手いでしょ、ワタシのねこかぶり」
ふふっ、と楽しげにスナタは笑う。発言とあまりにも似合わないその表情は、美しさを感じると共に狂気が見えた。だけどすぐに笑顔は消えた。中の上くらいの顔はそのままに、右手の人差し指を顎に当てて、首を傾げた。
「うーん。ねこかぶりというより、うん、確かに『スナタ』は『笹木野龍馬』と仲が良かったね。それは事実。
『スナタ』が【意識跳失】なのも事実だし、『スナタ』は別に、二重人格ではないね」
言葉を言葉と認識できない。音の羅列だとしか受け取れない。簡単に言うと、理解出来ない。スナタは何を言っているんだ?
「ワタシの個体名は間違いなく『スナタ』だ。だけどワタシは『スナタ』ではない。ワタシの魂に付属する名称は『名無し』。神の御意志によりこの世界にやって来た、〔異世界転生者〕だ。
この場合の異世界の世界は、世界線の世界ね」
なにがなんだかわからない。話し方からおかしくないか? まるで他人事のように話しているし、その割には中心にはちゃんとスナタ自身がいるように話す。
「あ、ごめんね。わたしばっかり話しちゃって。朝日くんも何かいいたいことあるんじゃない?」
なにかどころか、聞きたいことだらけだ。乱雑に物が散らかされた部屋みたいに頭のなかがぐちゃぐちゃだ。出来ることなら今すぐにでも思考を放棄してしまいたい。
スナタはボクを見つめている。それから、「ん?」とボクに発言を促した。
「あなたは──」
何者で。
「姉ちゃんとは──」
どういう関係で。
「姉ちゃんは──」
何者で。
「異世か──」
い転生とはどういうことで。
「ボクは」
何を尋ねればいいんだろう。何から尋ねればいいんだろう。それすらもわからない。
「いまいちなにが聞きたいのかはわからなかったんだけど、とりあえずワタシは神ではない。
お姉ちゃんたちは神だけど」
自分が目を見開くのを感じた。お姉ちゃんって誰のことだ? だけどこれは確かだ。『スナタは神と繋がっている』。
「ありがとう、朝日くん。あとは君さえ消えてくれれば、ワタシは満足だ」
「え?」
スナタが浮かべる微笑はまるで見本のような、いわば絵画に描かれている聖母の微笑だった。しかしその中に慈愛も慈悲も存在しない。冷たい冷たい無機質な表情。作り物とも思えないが、本心からくる表情とも思えない。
「ワタシはお姉ちゃんに戻ってきてほしい。あんなのお姉ちゃんじゃない、お姉ちゃんはおかしくなってしまった。本当にあいつは忌々しい。リュウってあだ名も元はワタシがつけたんだよ。ワタシたちがいた世界の神様の名前。あいつにあいつが知らないワタシたちの世界を見せつけてやろうとして与えた名前。あいつがワタシたちの中に踏み込んでこられないって教えてやるために出した名前だった。龍神様っていう神様がいたんだよ。
なのにあいつはこう言った。ありがとう、って。意味わかんない。あの綺麗子ぶった精神が本当に嫌いなの」
「お姉ちゃんって誰なんだ?」
ボクは言った。なんとなく予想はできているけど、はっきりと答えを告げてほしい。そう思ってスナタに問いかけた。しかし答えが返ってくることはなかった。スナタは顔をしかめて、さっきとは打って変わってイラついた声をボクに向けて放った。
「なんで敬語を使わないの? 誰に向かって話してるのかわかってる?」
誰に向かってって、スナタではないのか? あ、そうか、スナタの具体的な年齢は分からないが、バケガクの制度上Cクラスであるスナタの方が先輩ということになっているからこの場合は敬語を使わなければいけなかったのか。
「すみません」
ボクは頭を下げた。頭を下げることが恥だとは考えていない。自分を下げることも時には必要になることはわかっている。物事も円満に解決させるためにこちらが折れることも大切だ。しかしスナタは納得しなかった。眉間にしわを寄せたまま、見るとこめかみにも若干血管が浮き出ている。何をそんなに怒ることがあるんだ。普段温厚なスナタからは考えられない。本性はこうなのか? 案外怒りっぽいんだな。
「知ってる? ワタシの方が立場は上なんだよ。学園で先輩後輩ってだけじゃない。ただの人間であるお前と一つ上の世界から来たワタシではそもそもの次元が違うんだ。頭を下げるだけじゃない。本来なら手に手を床につけてひざまずくのが道理だ。ワタシがそれをしなくてもいいと許してやっている立場なんだ」
スナタがなぜ姉ちゃんと仲良くしているのかが分からなくなってきた。こんな奴と姉ちゃんが友達であるわけがない。友達なのか、本当に? スナタはさっき笹木野龍馬を忌々しいと言っていた。もしかしたら姉ちゃんとも偽りの友好関係を築いていたのではないか? スナタが仲良くしていた人物といえば真っ先に思い浮かぶのは、東蘭だ。異世界転生とか魂とか言ってたっけ。魂と肉体が別物なのだとしたら、生まれ変わった時に性別が逆転していてもおかしくはない。まさかスナタが言うお姉ちゃんって東蘭のことなのか?
「お前は小さい頃からお姉ちゃんと仲良くしていたみたいだね。だからって調子に乗っているのかな。ワタシの方がお姉ちゃんをよく知っているんだから。ふざけるな」
突然スナタはまた笑った。
「まあいいや。お姉ちゃんはもうすぐ戻ってきてくれる。あとちょっとなんだ。今までずっと努力してきたんだ。やっと心を開いてくれるようになった。その時になればわかるよ、お前が──お前も、ワタシにはかなわない、って」
「どういうことですか?」
そうボクが言ったときには、もう、スナタは消えていた。ちゃんと敬語を使ったのに、答える気はなかったのか。
窓なんてないのに、風が、さあっと音をあげて去っていった。ボクの手の中にあるキメラセル神話伝がぱらぱらとめくれ、白紙のページが開かれた。ページにはすぐに滲むように文字が浮き出た。他のページとは明らかに違う筆跡。
『神に選ばれた異世界人は、神を狂信していた。自らを神に捧げんとし、他の信者を敵視していた。異世界人はこう言った。我は神ならずして神より崇高なる存在である、と。名を持たぬ異世界人の魂は人の体に入れられた。人の身でありながら神と並ぶその姿に人々は恐れ……』
15 >>323
- Re: この馬鹿馬鹿しい世界にも……【※注意書をお読みください】 ( No.323 )
- 日時: 2022/08/31 08:46
- 名前: ぶたの丸焼き ◆ytYskFWcig (ID: yZSu8Yxd)
15
さっきのスナタとのことがあってから、調べ物に集中できるはずなかった。ボクは一度図書館を出た。鍵をちゃんと番人さんの元に返し、誰もいない、教職員すら見当たらないバケガクの校舎の方へと歩く。世界で大規模な戦争が起こっているのだから、バケガクを含め全世界の学校は授業なんてものをしているわけもなく。登校する生徒もその生徒にものを教える教師もいない。探せばどこかにいるのかもしれないけど。平日なのに、いつもは生徒たちの賑やかな声で彩られるバケガクは頭痛がするほど静かだ。
戦争はもはやカツェランフォート家と大陸ファーストとの間だけではなく、黒大陸と他大陸との戦争になった。兵士の数だけで競えるのなら、黒大陸は確実に敗北する。しかし戦争とは数だけの問題ではない。数が少ない分、一体一体の力が強いのだ。黒大陸は勢力を拡大し続けている。バケガクはこの戦争にまだ巻き込まれていないが、それも時間の問題だ。
ガサッ
それでもまだ危険はないと思っていた。それはまだ先だと思っていた。しかしそれは甘い考えだったと思い知る。木の葉の音がした場所を見ると、そこには見慣れない風貌の男が立っていた。それも一人じゃない。ざっと見て五人はいる。尖った耳と血色の悪い唇から飛び出た牙が、その五人の体格のいい男たちが黒大陸の住人であることを物語っている。森の中から現れた男たちに焦った様子は見受けられない。偶然ボクに見つかったわけではなく、初めからボクを襲うつもりで姿を現したのだろう。青黒い手にはナイフや剣、斧などが握られていた。ボクは自分の背に冷や汗が伝うのを感じた。明らかに成人だしバケガクの教員ではない。なのにここにいるということは黒大陸の兵士たちだ。ボクを襲うつもりで出てきたのなら、それはボクを殺すつもりということだ。
武器、武器を取らなきゃ。逃げなきゃ。逃げる? なぜ? 逃げないなんて無謀だ。戦うなんて無茶だ。どうしてそう思う? ボクはカツェランフォートの屋敷に一人で乗り込んでイロナシからの指令を見事に果たした。カツェランフォートの血が流れる吸血鬼ともやり合ったんだ。こんな雑魚に恐れをなす必要なんてないじゃないか。そうだろう? ボクは体がとても小さい。それが戦いにおいて不利になることも多いけど、やりようによっては武器になる。体が小さいと敵は油断をする。その隙を突く。それは初撃でのみ活かせる。集中しろ。武器を取っている時間はない。魔法だ。魔法を使って──
「やれっ!」
男の一人が合図をした。五人はいかにも戦い慣れている様子でボクに攻撃を仕掛ける。ボクはダンジョンに潜る時も基本ソロだから集団攻撃はしたことがない。学校の取り組みで複数人で潜ったとしても、攻撃するときは一人だった。危険度の低いダンジョンばかりだったからソロでも十分事足りた。自分でもやったことないのに集団攻撃に対して臨機応変に対応するなんて不可能に近い。
落ち着け、集団攻撃なんてダンジョンのモンスターと同じだ。群れで行動するモンスターと。落ち着けば対処できる。ボクは大陸ファーストの人間だ。あいつらを処理する力はとうの昔に取得している。
右腕が蠢いた。
黒の隷属である黒大陸の怪物たちに効果があるのは白魔法だ。ボクは白魔法を使おうとしていた。白魔法というよりも、邪気を祓う聖なる奇跡。しかし、実際に起こった出来事は奇跡とは程遠かった。ボコボコと水が沸騰するような音が右腕から響き、ボクの右腕はずるんと落ちた。しかし腕がボクの肩から離れることはなかった。ドバドバとボクの肩は右腕であった灰色の液体を吐き出す。不規則で歪な弧を描き、ボクの右腕は男たちの内の一人に襲い掛かった。その軌跡の途中で液体が飛び散り、男たちにも地面にも、そしてボク自身にもそれがかかる。濁った黒に塗れて体の一部を変形させて戦うボクは、傍からは目の前の五人以上のモンスターに見えることだろう。
「な、なんだこいつは!」
男が悲鳴に似た叫びをあげた、そりゃそうだろう、ボクが同じ立場だったとしても同じことをする。大陸とか種族とかそういう次元の話じゃない。ボクは人間ではなくなっていた。
さっきまでの威勢はどこに行ったんだろうか、男たちはボクから逃げようとしていた。だけど、ボクの右腕は男たちを飲み込もうとする。これはボクの意思じゃない。勝手にボクの右腕が動いているんだ。こんなことしたくないよ。気持ち悪い。自分が自分じゃなくなるみたいだ。嫌だ嫌だ。人間じゃないみたい。みたいじゃないよボクは人間じゃない。嫌だ認めない。ボクは人間だよ。でも、認めたら、楽になるのかな……?
暴れる灰色の液体を抑えることを諦めて、ボクはそっと目を閉じた。右腕の感覚はなくなったはずだけど、右腕が男たちの中の誰かに触れる感覚がした。いいよ。飲んでいいよ。もう疲れたよ。人間じゃなくなったっていいよ。疲れたよ。
「だめです」
視界が黒くなって白くなって灰になった。
「自分を否定し続けることも良くないことですが、してはいけない肯定もあります。気をしっかり持ってください。貴方は大丈夫です」
地面も空もなくなった灰色の世界に一人の青年が浮かんでいた。地面はないから立っていたとは言えない。身に纏う、体格にあっていない程にごついローブと、それに包まれる雪のように白い肌。光を吸い込む漆黒の髪と瞳は、混じり気のない純粋な黒に見えた。特に見目が整っているとは言えない平々凡々な見た目だが一つ一つのパーツが美しく、実際以上に綺麗に見える。
「貴方は大丈夫です」
青年は繰り返す。青年の声は心に優しく響く低い声だ。男性らしい低い声。
「どうか恐れないでください。貴方は必ず救われます」
視界が白くなって、黒くなって、ボクはさっき歩いていた森の中の道に立っていた。
ガサッ
物音がした方を見ると、怪物族らしい見た目をした五人の屈強な男が立っている。殺気立っていながらも冷静な目をした十の目がボクを捉えている。この光景は先程も見たものだ。一体どういうことだろう。
「やれっ!」
男の一人が合図をする。
何が起こっているのかいまいちよく分からないが、どうやら時間が戻ったらしい。わけの分からないことが起こるのはこれが初めてではない。とにかく今は目の前のことに集中しよう。
「【光魔法・閃光】」
魔法とは世界にアクセスして情報を書き込む、または書き換える術だ。民族や個人によって無詠唱だったり長ったらしい呪文を唱えたりするけれど、要は世界にアクセスさえできればいいのだ。世界に対してどんな魔法を使うのかを伝えられればいい。
ボクは魔法名を世界に伝えた。それだけで魔法は発動された。大陸ファーストの民にとっては基本の魔法ではあるが、世界全体にとっては高度な光魔法だ。当然黒大陸の民への効果は大きい。眩い光が手の平から打ち出された。
「ぐああっ!」
ボクに一番近かった男が目を押さえて倒れ込んだ。しかし、天陽族であるボクがこの魔法を使うことはある程度想定されていたのだろう。なんせこの金髪だ。やっぱり天陽族の見た目は目立つな。有名だし。他の男達は目の前で腕を交差させて光を防いでいた。浄化の効果で多少のダメージはあるようだが、戦闘不能とまでは言えない。
まだ聖水を浸した投げナイフは残っていたはず。あれを使えばひとまずここは乗り越えられる。
ボクは鞄の中に左手を突っ込んだ。戦闘不能にこそできなかったが男たちの動きが止まっているいま、武器を取り出すチャンスはここしかない。手探りで投げナイフを取り出そうとすると、柔らかな感触が伝わってきた。
『痛ぇな、気をつけろ!』
「ビリキナ?!」
ずっとカバンの中にいたのか? 気づかなかった。なんで今まで出てこなかったんだ。いや、いまはそんなことはどうでもいい。投げナイフを取り出さなきゃ。
『あ? なんだあいつら、鬱陶しいな。【フィン──】』
「お前はだめだ」
どこからともなくさっきの青年の声がして、ビリキナの魔法はキャンセルされた。
『なんで、オレの魔法が』
困惑している様子のビリキナを無視して、ボクは男たちに向かって投げナイフを投げる。投げナイフはボクが想像していた通りの軌跡を描く。
「セル・ヴィ・ストラ!」
男のうちの誰かが叫んだ。青黒いもやが男たちの体を包み込む。おそらくあれは身体強化だ。カツェランフォートの屋敷にいた女も使っていた。
男たちが持っている武器は全て近接武器だ。身体強化で脚力を強化して一気に間合いを詰めるつもりなのだろう。
ボクは投げナイフを構えなおした。近接戦での投げナイフの切れ味はほぼないに等しい。だけどこの場合ナイフが、聖水があいつらの体に触れさえすればいいんだ。
まず剣を持った男が突進してきた。大きく振りかぶって技を出そうとしていたのでボクは限界まで体をかがめて足にナイフを当てた。素早さなら負けないよ。自分の短所は把握してるんだ。戦えないときに逃げるために足腰は鍛えてるんだよ。
「なっ?!」
左足が溶けた男は驚いた声をあげて転倒した。肉が焦げる匂いが鼻をくすぐる。もがく右腕を無理やり押さえつけて右手の投げナイフを左手に持ち替える。視界いっぱいに斧が真一文字に映り込んでいた。
「うわっ」
力いっぱいに右足で地面を蹴って体を横にずらす。取り残された右腕が半分破損して飛んで行った。再生しようと右腕から灰色の液体が漏れ出る。まずい。また暴走する。いやだいやだ。ボクは人間のままでいるんだ。神になんてなりたくない。バケモノに成り果てるのは、いやだ!
「大丈夫」
右腕が冷たいぬくもりに包まれた。
「貴方は大丈夫です」
優しい声に侵される。暖かい言葉に意識を委ねて、導かれるがままに体を動かす。急に動かしたから右足が痛む。でもそれが人間である証のように感じられて心地いいんだ。痛いのも、辛いのも、悲しいのも、苦しい感情の全ても人間であるからこそなんだ。
ボクは、人間でいたい!
「あ゙あ゙あ゙あ゙っ!」
痛む足を、恐怖に震える足を奮い立たせ続けるために声を上げる。自分の存在の証明に。ボクはここにいるんだと世界に伝えるために。
神よ、もしもボクを見ているのなら、どうかボクを見放してください。どうかボクへの寵愛を、やめてください。森羅万象の決定権を握る神よ。
「【浄化魔法・火焰光】!!」
いつの間にか右手に握っていた杖の先を残りの三人に向けて叫ぶ。これはボクが使える白魔法のうち一番強い魔法だ。解放された黒魔法は使わない。抗ってやる。ボクは黒に染まりたくない。
真っ黒な手に握られた杖の水晶から、緋色の光が突き出した。炎にも見える光は四方に広がって三人を閉じ込める。
「ガァッ!」
短い断末魔を残して『二人』が消えた。光の中に消し炭と化した二人が溶けていく。炎の中に黒が熔けていく。
「お前だったのか」
突然、炎が木端微塵に粉砕された。残った一人が本当の姿を表した。その顔を見た瞬間に再び絶望に突き落とされた。青黒い肌は青白く、大柄な部分はそのままに筋肉質だった体はすらっとした細身に変化している。男性にしては珍しい、まとめてすらいない長髪は緑味のある青髪。切れ長の水色の目はキュッとつり上がっていて、その下の口は自信に満ち溢れていると言わんばかりに弧を描いている。あのときと似たような、黒大陸の貴族らしい煌びやかな衣装を纏っている。そんな格好でも戦えるという自負からか。
「あ、あ……」
「屋敷に侵入したのは花園日向だと思ってたけど、よく考えたら花園日向は天陽族の割に高身長だって話だったな。龍馬から一回くらい聞いたことあったけど忘れてたぜ」
名前は雅狼だっけ。カツェランフォートの長男だ。
ああ、神様はボクを逃がす気はないらしい。どうしてもボクに罪を押し付けたいらしい。なんで、なんでなの?
「投げナイフに聖水、天陽族。これだけの材料が揃ってて違うとは言わせねえよ? 龍馬の仇なんて臭いことは言わねえ。ただ、カツェランフォートの吸血鬼として汚点は潰す。侵入者であるお前は殺してやる」
「それは困る」
青年の声がして、また視界が切り替わった。目の前が黒くなって白くなってあの灰の世界に立っていた。
「申し遅れました」
青年はにこりと微笑んだ。
「ワタシの役割はナイト、もしくはスペード。〈スート〉の一人です」
16 >>324
- Re: この馬鹿馬鹿しい世界にも……【※注意書をお読みください】 ( No.324 )
- 日時: 2022/08/31 08:48
- 名前: ぶたの丸焼き ◆ytYskFWcig (ID: yZSu8Yxd)
16
「は?」
ガロウ・カツェランフォートは呟いた。当然だ。花園朝日だと思っていた人間が花園日向に替わったのだから。驚愕と同時に畏怖の念に襲われる。吸血鬼という見目の優れた種族に生まれた彼でさえ、彼女は美しいと認めざるを得ない容姿をしていたからだ。彼は弟である笹木野龍馬の話を聞き流す程度に聞いていた。笹木野龍馬の口から花園日向の容姿の特徴は聞いていたし、新聞に描かれていたこともあった。しかし百聞は一見にしかずとはよく言ったものだ。想像以上だった。彼はいままで見てきた人々の中で彼女以上に美しい者を知らない。輝きを放つ真の金髪も、虚ろな瞳には似合わないくらいに澄んだ青色も、嫌悪の塊である白眼ですら、自ら膝をつきたいという思いに駆られるほどに美しかった。
しかし吸血鬼としての、カツェランフォートとしての、そして彼自身のプライドがそれを許さない。ガロウ・カツェランフォートは歯を食いしばり、怒鳴る。
「お前がなんでここにいる!」
花園日向は口を開いた。
「あなたと同じ。私も朝日に化けていた」
ガロウ・カツェランフォートは言葉に詰まった。自分と同じことをしていたと言われればそれ以上に追求出来ることは少ない。
「じゃあ、やっぱりお前だったのかよ。龍馬を消したのは」
花園日向は目を閉じた。そしてゆっくりと言葉を紡ぐ。
「そうだよ」
丁寧に真実と共に編み上げられた嘘をガロウ・カツェランフォートは簡単に信じた。ぎり、と歯ぎしりをして顔を怒りの一色に染める。
「なんのために?」
「理由はない。遊びというわけでもないけれど。一緒にいたら壊れちゃった。
それだけ」
「は?」
ガロウ・カツェランフォートは言葉を繰り返す。理解出来ないのも無理はない。壊れちゃった、なんて言い方だとまるで笹木野龍馬がモノのようだ。少なくとも笹木野龍馬の肉親に対して使う言葉ではない。
「龍馬に対して申し訳ないという気持ちはある。でもなんとも思っていない自分もいる。龍馬が龍馬として生まれた時点でワタシに利用されるという運命は既に決まっていたから。壊れることは決定事項であり、神が定めた決定事項であり、彼の宿命だった」
「なんだよそれ。どういう意味だよ」
花園日向は目を開けた。
「そのままの意味」
ガロウ・カツェランフォートは眉間にしわを刻んだ。彼女の美しさに対する恐れは少なくとも今は忘れていた。
「あいつはお前にずいぶん溺れていたようだった。九年前に『白眼の親殺し』の新聞記事を見たときから。花園日向は大陸ファーストの人間だ、最初はわけがわからなかった。いや、さっきまで。
いまはわかる。確かにお前は異質な存在だ。人を惹き付ける魅力がある。それは理解出来る。ただ心がない。吸血鬼とか人間とかそういうのを越えた生物としての心が」
ガロウ・カツェランフォートの言葉に腹を立てた様子は花園日向には見られない。ひたすらに淡々と言葉を並べる。
「自覚している。それにワタシは生物じゃない。だから生物の心なんてわからない」
花園日向は虚ろな瞳でガロウ・カツェランフォートを見た。何の感情もこもっていない瞳に晒されたガロウ・カツェランフォートは、なぜか突き刺されるような圧を感じた。思い出したように湧き上がってくる恐怖という名の感情に屈辱を感じながら必死に声を絞り出す。
「なに、言って」
しかし彼女はその声を無視した。何も描かれていない無垢なキャンバスのようにも感じられる無表情に、自虐的な笑みを書き込んでガロウ・カツェランフォートに話しかける。
「確かにワタシのしてきたことは罪に値するのでしょう。しかしワタシは罪がわからない罪悪感を感じられない。それを許されていない。ワタシに人としての心がないというのなら、ワタシに人としての心を持てというのなら、それを教えてほしい。ワタシだって知りたいよ」
彼女は涙を流そうとした、しかし出なかった。元々持っていなかったのか、それとも既に乾いてしまったのか。そんなことは彼女自身にもわからない。
「謝ることであなたの気が済むのなら、ワタシはいくらでも謝るよ。でも壊したくて壊しているんじゃない勝手に壊れていくんだ。そうしてワタシも狂っていくんだ。狂って狂って理性が戻ったとしても、既に壊れた環境に飲み込まれるだけ。ワタシだって苦しいよ」
それはすでにガロウ・カツェランフォートに向けられた言葉ではなかった。贖罪の真似事だろうか。彼女には償うべき罪はないのだからそれはどうしても贖罪には成り得ない。
「リュウには悪いことをしてしまった。勝手な期待を背負わせるじゃなくて、運命に飲み込まれたまま、さっさと世界を創ってしまえば良かったんだ。だけどワタシは望んでしまった、救われる未来を。自分勝手な妄想を彼に託してしまっていた。
許しを請えば、きっとリュウは許してくれるだろう。けれどワタシ自身がワタシを許せない。許したくない。全てに許されるままに時間を消耗したくない。ワタシだけはワタシを許したくない。罪を抱えて生きていたい」
ガロウ・カツェランフォートは黙って彼女の並べる声を聞いていた、それは、ガロウ・カツェランフォートが彼女の声に聞き入って言ったからではなく、なぜかそうすべきであると彼自身の本能が告げていたからだ。そうしなければ自分の身に危険が迫るという予感がしたわけでもないのだが。
「リュウは家族のことを大事にしていた。だからあなたは殺さない。大人しく、家に帰って」
ガロウ・カツェランフォートから口に栓がされたような感覚がようやくなくなった。口を開くことを許されたガロウ・カツェランフォートは溜まった鬱憤を吐き出した。
「ごちゃごちゃうるせえな。結局何が言いたいんだ。大人しく家に帰れ? んな事出来るわけないだろうが」
「そう、残念」
花園日向は右腕を突き出し、手の平を地面に向けた。手の平から生み出された黒いもやが辺り一帯に広がってやがて一点に集まり、ガロウ・カツェランフォートの足元に終着する。
「何だ!?」
黒い点と化した黒いもやは再び広がり、魔法陣を展開した。ガロウ・カツェランフォートにとっても見覚えがある転移魔法の魔法陣。
「さようなら」
「おい待て、まだ聞きたいことは……!」
「聞きたいこと。そんなものに答える義理はワタシにはない。あなたを生かしておくのは、あくまでリュウに対する義理だから」
そこで視界はシャットアウトした。させられたと言おうか、そっちの方が正しい。
「それを見てはだめです」
スペードが言った。
「それは神の力です。あの御方に与えられた力ですね。右腕もそうですし、もう使ってはいけません。きっと勝手に発動してしまうものなのでしょう。理解はしています。ワタシにも経験があることです。だからこそ言います。耐えてください。でなければ、貴方は神に堕ちてしまう」
ボクは黙って頷いた。ボクだって使う気のないものだ。いつものボクなら勝手に発動されるものなのだから仕方がないだろうと心の中で毒を吐くところだが、今回はそうしなかった。力を使ったことを無闇に責めるのではなく次からどうして欲しいのかを伝えてくれたスペードに好感を持った。
「本当はもっと早くに参上したかったのです。しかし神がそれを許さなかった。神より身分の低いワタシたちは神のご意思に従う必要があります。そして、ワタシに与えられた時間は残り少ない。また時間が経つとワタシの出番はありますが、今この場所にいられる時間は底が見えています」
「そうなの?」
ボクは自分の顔がくしゃりと悲しみに歪んだのを自覚した。
「そんな顔をしないでください。また後で会えます。貴方がそれを望むのなら。
なので手短に伝えます。ワタシは貴方の味方です。ヒメサマとワタシ。自分の意思決定権を自分で所有している中で、貴方の味方はヒメサマとワタシだけです。他はヒメサマの意思に従っているに過ぎない。信用するなとは言えませんが、頼りにはならないでしょう」
そう言うスペードの身体はとっくに半透明になっていた。ここにいられる時間が少ないとは言っていたけど、あまりにも少なすぎやしないか?
「貴方の味方、つまり貴方の神化を止めようとするワタシたちは、神に背く反逆者です。神の寵愛を受けはしますが、今はお呼びじゃないということでしょう。
ああ、それは少し違いますね。ワタシたちは神に呼ばれたときにしか貴方の視界に映ることができない。ワタシたちは神が綴る物語の通りに動くことしかできないのですから。ワタシがいまこの場にいるのも神が望んだことであり、ワタシがもうすぐ消えるのも神が望んだことです」
青年の微笑みに影が差した。
「ワタシの言葉で伝えられないのが残念です。この役割は他の者が担っています。ですがその者は貴方を神堕ちさせようとしているものだ」
そのセリフ通りに悔しそうな色を笑みに混ぜるスペード。
「セリフじゃなくて、言葉です」
スペードから訂正が入った。ほんとだ、なんでこんなこと思ったんだろう。セリフって劇や小説の中の登場人物が言う言葉のことだよね。
「確かにワタシたちは演者です。しかし、その中に生きる者でもある。登場人物に過ぎないなんて、小説が終われば役割を終えてしまう命なんて、そんな軽いものじゃない。そうでしょう?
ワタシたちは神の意思を伝えるためだけに存在するのではない。ワタシたちが生きるのはワタシたちのためだ。生きる意味を決めるのは、ワタシたちだ。
ワタシたちの物語は神が綴る記録にすぎない。神の寵愛から逃げることは出来ない。でも、いつか必ずワタシたちは独立する。抗ってやる、いくらでも」
何だか難しいことをスペードは言っているみたいだ。あまり理解が出来ない。哲学っぽい、壮大な話をされている感覚がする。スペードは苦笑した。
「ふふ、分かりませんよね。無理もありません。むしろそれが当然です。わからない方がいいんです、こんなこと」
いつしかスペードの体だけではなく、灰の世界そのものが崩壊を始めていた。ザザッと砂嵐に似た音が──砂嵐ってそんな音するっけ?
「しませんよ。表現が間違っています。でもそうですね、貴方が知っている言葉では形容しがたいものでしょう」
「だよね」
「はい」
ボクとスペードは笑いあった。親しみを込めた笑顔だった。この時間が永遠に続けばいいのにと思ってしまった。姉ちゃん以上に一緒にいると安心する人だと、まだ知り合って数分しか経っていないはずなのにそう思った。
「それでは、ワタシはもう行きます。また会いましょう」
「えっ」
「大丈夫です。また会えます。では、その時まで」
「待って!」
そう声を上げたが、言葉は虚しく空気に溶けた。視界の色が切り替わった。白くなって黒くなって青になって黄になって赤になった。真っ赤な画面が表示された。
あ、違う画面じゃない、色。色と表現するべきだ。
ボクは元いた道に立っていた。ここにはいないはずの姉ちゃんがいた。
「スペードには会えた?」
「うん、会えたよ」
「そう。じゃあ帰ろうか」
なんで姉ちゃんがその名前を知っているんだ。やっぱりヒメサマって姉ちゃんのことじゃないのか? その疑問を口にすることが出来ない。なんで? 姉ちゃんは聞けば答えてくれるはずだ。姉ちゃんが全てを知ってるはずなんだ。姉ちゃんが一番、いまボクが置かれているこの状況を理解してるはずなんだ。誰かに聞いたわけでもないけれど、なんとなくそう思う。誰かに上書きされたボクの脳内の情報にそう書いているんだ。でも、聞けない。まだその時じゃないって思ってしまう。
ボクは一体、どうなってしまうんだろう。
17 >>325
- Re: この馬鹿馬鹿しい世界にも……【※注意書をお読みください】 ( No.325 )
- 日時: 2022/08/31 08:48
- 名前: ぶたの丸焼き ◆ytYskFWcig (ID: yZSu8Yxd)
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「コンニチハ」
ふと気が向いて名ばかりの食堂に夕食を取りに行くと、珍しくゼノ以外の人物に会った。人物っていうか鬼かな。会ったことがない鬼だ。そもそもボクはⅤグループ寮に来てからここで暮らす人は、姉ちゃんを除けばゼノにしか会ったことがなかった。
「そんなに警戒しないでほしいナ。ハジメマシテ。あたいはルーシャル・ブートルプ。見ての通り、鬼族だヨ」
鬼族の最大の特徴は髪から覗く黄色い角だ。獣人族とも異なる形の角だから結構わかりやすい。あと一番鬼族に多い髪色は紫で、ルーシャル・ブートルプの髪色も紫だ。
「はじめまして。何のご用ですか?」
一応当たり障りのないことを言う。名乗るべきかなとも思ったけどそこまではする必要ないかな、聞かれてないし。
「花園朝日くんだよネ?」
名乗らなくてよかった。相手は既にボクの名前を知っていた。
いやなんで知ってるんだよ。
「はい。どうして知ってるんですか?」
「そりゃ有名人だからサ。知らないのかナ? 君が入った部屋は要注意人物の入る部屋でここ数年空室だったんだヨ。なのにこんな可愛い男の子が入ったんだからそりゃ話題にもなるサ。最近のⅤグループ寮の話題は君で持ちきりだヨ。なんてったって話す機会も話題もないんだからネ」
「そうですか」
だから何だって言うんだ、何が言いたい? 早く部屋に戻りたいから用件を言ってほしいな。
「見た目はこんなに可愛いのに中身はそっけないナ。そんなギャップもいいネ。ちょっと好みだヨ」
背筋に悪寒が走った。何だこいつは気持ち悪い。なんのつもりでそんなことを言うんだ。
「でもその顔はどうなのかナ。虫でも見るような目をしてサ。あたいにそんな趣味はないヨ」
ボクにだってそんな趣味はないよ。
「あの、何の用ですか?」
ボクが尋ねると、ルーシャル・ブートルプはニヤッと笑った。嫌な目だ、ボクを利用しようと企む目だ。昔からよく見てきた目。
「君とは接触するなってネイブから言われたケド、そんなの言われたら逆に気になっちゃうヨ。
ねぇねぇ君って何なのサ。どうしてあの部屋に入れられたノ? あたいたち以上の化け物なのかナ、ゾクゾクしちゃうヨ」
ボクは言葉に詰まった。とっさに右手を後ろに隠す。白手袋をつけているので向こうからボクの素肌を見られることはないと分かってはいるけれど。
ルーシャル・ブートルプは目ざとくボクの動作を見つけた。悪戯っぽい光を柑子色の瞳に宿し、ぐるっとボクの背後に回った。
「何隠したのサ、見せなヨ」
どくんどくんと心臓が大きく呼吸する。吸っても吸ってもまだ足りない空気を求めるように。冷たい汗が頬を伝う。悪寒がより一層強くなる。さっきまでの嫌悪感だけからくる寒気じゃない、きっとボクは恐れているんだ。この右手の黒を誰かに見られることを。
「あっ、あの」
ボクの口から出た声は震えていた。こんな声を出したら隠していることがバレてしまうじゃないか。気をしっかり持て、そう自分に言い聞かせるけれどその努力も報われず、ルーシャル・ブートルプに右手を掴まれた。
「何か持ってるノ? あれ、そういえば君って屋内なのに手袋なんてつけてるんダ。ねーナンデ?」
「やめろ!!」
ボクは思いっきりルーシャル・ブートルプの手を振り払った。いくら鬼だとしてもあいつは女でボクは男だ。ちょっと力は込めたけど苦労なくルーシャル・ブートルプの手から逃れた。
ルーシャル・ブートルプはぶすっと不機嫌そうな顔をした。
「何するのサ、イイジャン減るもんじゃないんだカラ」
ボクを睨みつける目はだんだん見開かれていった、心なしかルーシャル・ブートルプの体の筋肉も硬直しているように見える。どうしたんだ? そう疑問を抱くが先かそれを見つけるのが先か。ボクはルーシャル・ブートルプの右手に白手袋が握られているのを見た。さあっと血の気が引く音を聞いた。慌てて左手で右手を覆うが、もう遅い、ルーシャル・ブートルプは叫んだ。
「イヤアアアアアッ! なにその腕! キモイキモイ近寄るなバケモノ!!!」
いくらなんでも大袈裟じゃないか。そう思って右手に目をやると、ルーシャル・ブートルプの反応に納得した。
ボクの右腕には無数の小粒が浮かんでいた。それらは常に蠢き、まるで大量の虫が腕の上を徘徊しているようだった。
「うわぁ!?」
ボク自身も腰を抜かして尻餅をついた。ルーシャル・ブートルプはそんなボクを足で踏み潰した虫を見るような目で見て、背中を見せた。
「ま、まって、手袋、返して」
手袋を求めて右手を伸ばすと視界にまた右腕が映った。吐き気がして手を引っ込める。こうしている間にもルーシャル・ブートルプの背中はどんどん遠ざかっていく。取り返さなきゃ、手袋を取り返さなきゃ。
「オマチナサイ」
突然赤い光が刺した。走り去ろうとしていたルーシャル・ブートルプの動きが止まり、逆再生に似た動きでルーシャル・ブートルプが戻ってきた。
逆再生じゃない。時間が巻き戻ったように、だ。
「ネイブ、離セ!」
「ダカライッタデショウ。アナタガテヲダシテイイモノデハナイト。
アナタハチュウコクヲムシシタノデス。ワルクオモワナイデクダサイ」
ネイブがそう言うと、ルーシャル・ブートルプの体の一部が石化した。バキバキと音をたてて石になった部分がどんどん広くなる。ルーシャル・ブートルプの体はみるみる灰色に包まれて、やがて石像と化した。そして、その石像は灰色の光を発して、音もなく粉砕した。
びっくりして固まっているとネイブが言った。
「ゴアンシンクダサイ。キオクヲナクシタダケデス。コレヲドウゾ」
そう言ってネイブがボクに渡したものは、さっきルーシャル・ブートルプに取られた白手袋だった。
「え、あ、ありがとう」
「イエイエ」
ネイブは何も無かったように、いつもの調子でボクに言う。
「ドウゾ。コレガユウショクデス」
ネイブはまたどこからか食事の乗ったお盆を出現させ、ふよふよと浮かせてボクに与えた。
「ありがとうございます」
「マタカオヲミセニキテクダサイネ」
これは食事を受け取りに来た生徒に言う決まり文句らしい。ここに来ると毎度言われる。適当にはいとうなずいて、ボクは食堂を後にした。帰り道に食事を片手に頑張って白手袋をはめていると、そっと食事を誰かに取られた。
見るとそこには姉ちゃんがいた。
「持ってるから、つけて」
ボクは少し戸惑ったけど、姉ちゃんの善意に甘えることにした。
「ありがとう」
白手袋をつけて、姉ちゃんから食事を返してもらってから、姉ちゃんに尋ねた。
「珍しいね、姉ちゃんが部屋の外にいるなんて。どうかしたの?」
「朝日に伝えないといけないことがある」
「ボク?」
なんだろう。一緒にご飯食べるのかな?そうだったら嬉しいな。
「一週間後の今日の昼、学園長室に行く。予定空けといて」
「学園教室に?」
ボクは首を傾げた、なんでわざわざ学園長室に行くんだろう。
「どうして?」
姉ちゃんはその問いに答えてくれなかった。何を思っているのかわからない空虚な瞳はボクに向けられているはずなのに、ボクを映しているようには見えない。そういえば、光の反射でそう見えるのかな、姉ちゃんの白眼にほんの少しだけ青色が混ざっているような気がする。
「じゃあ、また一週間後に」
「え、うん、わかった」
うーん、腑には落ちなかったけど仕方ないか。どうせ一週間後になればわかるんだし。わからないままモヤモヤするのと比べれば何十倍はマシかな。
自分を言い聞かせる文句を脳内で並べながら、自分の部屋へ戻る。
「ただいま」
中にいるはずのビリキナに向かって言う。返事はない、言う気がないんだろう。いつものことだ。特に気にせず中に入って部屋の明かりをつける。目に飛び込んできた光景に思わず肩をビクッと震わせた。
「えっ」
驚きで固まっていたのはほんの数秒だった。机の上に食事を置いて、床の上にうずくまるビリキナに近づいた。
「ビリキナ、大丈夫?」
ビリキナは部屋の中央で倒れていた。黒い液体を半径一メートルほどの円状に吐き出して。ビリキナの体の大きさから考えれば、とてつもない量の吐瀉物だ。いや、例えこれを吐いたのがボクだったとしても異常事態となるだろう。それがボクの手のひらの大きさと同じぐらいのビリキナが吐いたんだ。
「生きてる?」
やっぱり返事はない。このまま放っておくのはいくらボクでもさすがに気分が悪いのでつまんで持ち上げた。魔法は使わない。黒属性のビリキナに対して白属性のボクが魔法を使うのはあまりよろしくないだろう。何かあっても困るし。
うげぇ、気持ち悪い。黒い液体でびしゃびしゃになったビリキナを見てそう思った。液体は吐瀉物にしてはかなりサラサラしていて色も黒単色だ。見ていると意識を奪い取られそうなくらいに純粋な黒。この黒だけを取り出して見てみれば、誰も吐瀉物だなんて思わないだろう。
こういう時はどうすればいいんだっけ。よくわからないのでとりあえず振ってみた。人体に対してはしてはいけないことだとは思うけど、まあ精霊だから大丈夫でしょ。
『ゲホッ』
ビリキナが咳き込んだ。口からがぼっと音がして、新たに黒い液体がビリキナの口から飛び出した。びちゃっと液体が床で跳ねる。幸いボクにはかからなかった、危ない危ない。
「生きてる?」
ボクはもう一回聞いてみた。ビリキナは恨めしそうにボクを見る。
『お前、人の心ってもんはねえのか』
さっきボクがビリキナの体をぶんぶん振ったことを指しているのだろう、ボクは頷いた。
「ないよ」
ビリキナは毒づく元気もないのか、くたりと体から力を抜いた。時々くぐもった音がして、なおビリキナは黒い液体を吐き出す。
「ちょっと。部屋汚さないでくれる?」
返事がない。ボクはハァとため息をついてビリキナを吐瀉物の上に置いた。これ以上吐き続けるんなら、この上にいてもらえた方が処理するときに楽だ。吐瀉物の範囲を広げられても困るし。どうせ片付けるのはボクなんだから、別にいいよね。
しばらく吐き続けるビリキナを眺めてビリキナが落ち着くのを待った。十数分もの時間ビリキナは吐瀉物を吐き出し続けていた。ハァハァと荒い息遣いをしながらきついまなざしをボクに向ける。
『お前なぁ……』
しかし何か言いたげではあったもののその体力がないらしい。そして助けてほしいと言いたげな目をしていながらもプライドが許さないのだろう、ビリキナは何も言わない。別にいいよ、言わなくたって。分かってるから。
「ちょっと待ってね」
ボクは部屋にくっついて設置されている洗面所へ向かった。洗面器にお湯を入れてビリキナの元へ戻る。
「はい。精霊は体を洗ったりしないだろうけど少なくとも気分はさっぱりするでしょう?」
多分。
ビリキナはぽかんと口を開けているだけで何も言わない。問答無用で洗面器の中に放り込んでボクは吐瀉物の掃除を始めた。
18 >>326
- Re: この馬鹿馬鹿しい世界にも……【※注意書をお読みください】 ( No.326 )
- 日時: 2022/12/09 07:52
- 名前: ぶたの丸焼き ◆ytYskFWcig (ID: gf8XCp7W)
18
「落ち着いた?」
ボクが尋ねると、ビリキナは胡散臭そうな顔をしてボクを睨んだ。
『親切にしてなんだよ、気持ち悪いな』
「親切にしてもしなくても怒るってどういうことだよ」
ボクはため息をついた。
「で、なんであんなことになってたの?」
ビリキナは顔をしかめた。
『それはだな……』
なんだか歯切れが悪い。話すか話さないかをうんうんと悩んでから、ビリキナは口を開いた。
『覚えているか? オレがジョーカーから渡された酒をよく飲んでたこと』
「うん」
『あれだよ、あれの中に仕掛けがあった。ジョーカーの魔力が込められていたんだ。道理でおかしいとは思ったよ、オレはあんなに強くなかった。
お前はオレの魔力を使ってカツェランフォートの屋敷で戦ってたよな。オレは精霊だから負けることこそなかっただろうが、あんなに高い純度の魔法は出せなかった』
この世の全てのものは魔力を宿している。生物でも無生物でもそれは同じだ。そして魔力を宿しているものは自然そのままの姿のものだけではなく、それこそ酒なんかの加工されたものもそうだ。だからこそほかの魔力と混ぜることが出来て魔道具なんかを作り出すことが出来る。人工的に行われる聖水の精製も『魔力を混ぜる』という方法で作られる。ただし注意点がある。物質には耐えられる魔力量の上限が存在し、それを超えると魔力が溢れ出して物質が壊れてしまうのだ。
「え、まさか」
『そのまさかだよ。言っただろ。ジョーカーの魔力は神のそれと酷似している。精霊であるオレの器が神の力に耐えられるわけがない』
それで吐いてしまったのか。じゃああの吐瀉物ってイロナシの魔力を具現化したものってことになるのかな。
「なら自業自得じゃないか」
だって、イロナシからもらった酒を飲みたいって言っていたのは他の誰でもないビリキナ自身だ。やっぱり酒に溺れるのって良くないよね。大人になっても飲む気はないや。大人になれるかどうかもわからない。おそらくむりだ。
『うっせーな、わかってるよ』
ビリキナはぷいっと顔を逸らした。拗ねないでよ。
『とにかく、オレの中にはいまジョーカーの魔力がある。あのリンって精霊にオレの魔力を注ぎ続けさせたのも、オレを介してジョーカーの魔力を注ぐためだったんだろうな。あいつの体がジョーカーの魔力に耐えられずに崩壊して、そして堕ちたんだ』
「ちょ、ちょっと待って!」
まだ言葉を続けようとしたビリキナを遮りボクは大きな声を出した。せっかく言葉を用意していたビリキナは不快そうに肩眉を神げてボクを見た。
「その理論でいくと、ビリキナも悪霊化するんじゃないの?」
『そうなるな』
なんでもないことのようにビリキナは言う。いやいや、何でそんなに平然としてるんだよ。一大事じゃないか! どうするんだ!?
慌てるボクを呆れたような目でビリキナは見た。
『何度も言っただろ、オレたち精霊と人間の考えることは違うんだ。神のお遊びに付き合わされるのには慣れてる。そして付き合わされることはオレたち精霊の宿命だ、生まれたときから受け入れざるを得ないものだ。今更悪霊化するぐらいでギャーギャーわめいたりはしない』
「だとしても、つまりビリキナもリンみたいになるってことでしょう? ビリキナはそれでいいの? 本当に?」
ビリキナは呆れた目の中に哀愁をほんの一滴だけ垂らした。
『決定権自体、オレたちにはないんだよ』
そして、全てを諦めたような顔で微笑んだ。
『受け入れるしかないんだよ』
こんなのってないよ。
身勝手なのはわかってる、ビリキナをこんな目にあわせてしまった原因はボクにある。ボクがジョーカーの誘いに乗らなければ良かったんだ。自らの意思でボクから離れた姉ちゃんに早々に見切りをつけることができていればこんなことにはならなかった。姉ちゃんのことが知りたいなんて思わなければ、姉ちゃんのことを教えてあげるというジョーカーの誘いに乗らなければ、ボクの心がもっと強ければ、ボクもビリキナも運命を狂わされることはなかったんだ。ボクのせいなんだ、ボクの。ああ、だけど、ジョーカーの誘いに乗らなかったらボクは、ビリキナと出会うことはなかった。出会っていたとしてもこうして契約関係にはならなかっただろう。全ては必然という名の台の上になり立っている。いまボクが立っているこの世界線しかボクに用意されていた運命はなかったんだ。
こんなのってないよ。
『神の寵愛を受けている以上、運命が狂うことは必然だった。
自分のせいなんて思うなよ。元はと言えばオレがお前のババアに手を出したのが悪かったんだ。花園日向の正体にもっと早く気づいておけば良かったんだ。いや、もしかしたらオレは望んでいたのかもしれない、この未来を。精霊である自分に嫌気が差して、さっさと死にたかったのかもしれないな』
ビリキナの憂いを帯びた笑みが自嘲的なものに変わった。ビリキナが死にたいと思うなんて想像もできない。
『オレたち精霊は神のおもちゃだ。精霊であるということ以外に何の価値もない、価値を得ることすら許されない。そんな運命に抗いたかったのかもな。今となっては当時の自分が何を考えていたのかなんて覚えてないよ』
なんだかビリキナが遠くへ行ってしまうような錯覚に陥った。今この瞬間にビリキナの体が透明になって消えてしまうような、そんな感覚。思わずボクはビリキナに向かって手を伸ばした。モノクロの両手で、強大な神の力に耐えた小さな体を包み込む。
「お疲れ様」
『まだオレの役割は終わってねえよ』
ビリキナは苦笑した。いつもだったらボクを睨んで嫌味を言ってくるのに。そんないつもとは違う雰囲気も相まって、ビリキナが遠くに感じた。どうしようもなく、痛々しい。
どうしても、愛おしい。
「ううん、終わらせよう」
ビリキナはボクが言っていることを理解していないみたいだ。そりゃそうだよね。正気だったらボクだってこんなことは思い浮かばないはずだ。ボクもおかしくなっている。
ボクは何でもないことのようにビリキナに言った。さっきビリキナがしたみたいに。
「ボクがビリキナを殺してあげる」
『は?』
少し怒りが混ざった声をビリキナは出した。
『お前、今まで何聞いてたんだ? そういうのは許されないんだって言ってたんだよ、オレは。わかってなかったのかよ』
「違うよ」
わかってる。わかった上で言ってるんだ。
神の気まぐれで精霊は消されるんだったよね。
「ボクは神になるんでしょう?」
ビリキナは目を見開いた。ボクがなにを言おうとしているのか察したみたいだ。
『おい待て、やっぱりお前はわかってない。お前の神化をオレは止めようとしているんだって言っただろう。神の意思でお前を止めようとしているんだ。お前が自分で神になることを選択したらそれこそオレはオレの役割を果たせなくなって、神から』
ビリキナは声を止めた。
「天罰が下るの?」
ビリキナが小さく頷くのを確認して、ボクは呟いた。
『ボクは神だよ』
ビリキナを安心させるために、ボクはにっこりと微笑む。
「確かにボクは神なんかになりたくない」
だってボクは人間だもの。人間として生まれてきたんだから、人間として死ぬのが当然でしょう? 種族を変えて生きるだなんてそんなことを急に受け入れられるわけがない。
『しかし、ボクは神だ』
「ビリキナに会えてよかったよ」
普段は絶対言わないけれど、腹が立つことだってあるけれど。でも、姉ちゃんがいない生活の中でビリキナとの会話が心の支えになっていた部分も少なからずあることは自覚している。恥ずかしいからそんなこと言えなかったんだ。
『精霊であるお前の決定権は、ボクにある』
「これはボクのせめてもの罪滅ぼし」
ビリキナには悪いことをしてしまった。ボクが狂ってしまったせいで、神と密接な関係になってしまったせいで、ボクが神になってしまったせいで、ビリキナも本来の運命とは違う運命を歩くことになったんだ。
『そしてこれはお前の運命だ』
「『ボクがビリキナを殺してあげる』」
ボクの手に包まれたビリキナは力なく両手で顔を覆った。
『なんだよ、それ』
大きく息を吸って、大きなため息として吐き出した。時折聞こえてくる嗚咽が、精霊として生きる辛さとか宿命とかの重さを感じさせた。精霊の中にも数多くの種族があって、その中でビリキナと同じ〈アンファン〉は契約主が変わると記憶がリセットされてしまう。記憶がなくなってしまうのって苦しいよね、経験したことはないけどわかるよ。そうなることが分かっているのだから、怖くもあるだろう。
『ビリキナはよく頑張ったよ』
普段口を開けばむかつくことを言う、か弱い契約精霊にボクはいたわりの言葉をかける。
『ボクがビリキナを救ってあげる』
ビリキナは何も言わない。ただされるがままに神の意思に従おうとしているのだろうか。最後の最後まで自分の意思を貫こうとはしないらしい。どこまでも精霊という宿命に染まりきってしまっているんだ。
『だってボクは神だから』
もしも神様がいるのなら、どうかボクを救ってください。
いないとわかっている神に向かって、ボクは何度もそう願い、そしてその願いは何度も打ち砕かれてきた、今だってそうじゃないか。
そんな神にボクはならない。救いを求める声に応えていたい。ビリキナは救いを求めているんだと思う。言わないだけだ、言えないだけだ。だからボクはそれに応える。
『何か言いたいことはない?』
ボクは優しく言うことを心がけながら、ビリキナに確認した。やっぱり何も言わない。わかったよ。きっとビリキナにとっては、このボクのおせっかいも神の気まぐれでしかないんだろう。でもボクは、ビリキナのこと嫌いじゃなかったよ。
『今まで振り回してしまってごめんね』
『せめてもの償いとして、貴方の最期に安らぎを与えます』
『お や す み な さ い』
ビリキナはボクの手の中で息絶えた。
精霊は美しく作られた存在だ。だからだろう、ビリキナの死に顔はあまりにも美しかった。この世のものとは思えない。ビリキナと一緒にボクもあの世に逝ってしまったんじゃないか、そんな感覚。ついさっきまで生きていた命が
ボクの手の中にある。自分がどんどん壊れていくのがわかる。それを心地いいと思ってしまっているボクはもう人間に戻ることは決してない。
ビリキナの死体はどうしようか、お墓でも作ってやるべきか、それとも。
ボクは悩んだ。悩んで悩んで窓の外が白んでいくのを見て、ひらめいた。
考えているうちに一晩が立っていた。美しかったビリキナの死体はドロドロに溶けて真っ黒な液体と化していた。
ボクは丁寧に両手でそれを掲げて、ゆっくりゆっくり飲み込んだ。
19 >>327
- Re: この馬鹿馬鹿しい世界にも……【※注意書をお読みください】 ( No.327 )
- 日時: 2022/09/01 06:53
- 名前: ぶたの丸焼き ◆ytYskFWcig (ID: /JJVWoad)
19
「何のつもり?」
スナタが言った。冷ややかな視線を真っ黒な少年に向けて、呆れたような口調で彼に言う。
「なるほどね」
疑問の言葉を口にした直後に全てを理解したと言わんばかりに不敵に笑う。
「人間の肉体を取り込んでまで、再び神に堕ちてまで、ワタシを止めたいって言うの? しかも太陽神の力じゃ敵わないと思ってもう一つの力を解放したんだ」
スナタは笑った。腹を抱えて可笑しそうに笑う。その声には、その表情には、明らかな少年への嘲りが含まれていた。
「馬鹿みたい。そんな事したってワタシには敵わないってどうしてわからないの? わかった上で刃向かうの? くっだらない」
赤青黄(純粋な赤は彼が持っているはずがないのでこの場合は橙や紫などに含まれる赤)を乱暴に混ぜ込んで作り上げられた黒で塗られた髪と瞳、そして布を何重にも重ねたような、ローブにも見える衣を着た少年がスナタを睨みつける。黒いブーツを履き、黒手袋をつけている。顔以外を複数の色から成り立つ黒で支配されている彼。彼はカラスに似ていた。
「無駄な足掻きってことはわかってるよ」
少年というのはもう失礼にあたるのかもしれない。彼は童顔ではあるが体はとっくに成人と呼べるまでに成熟しているし、憎々しげに語られた声は立派な男性のものであった。
「だったら、なぜ?」
彼をバカにする態度はそのままだが、スナタは本当に理解できないようだ。その疑問は本物だ。
「何度も言っているだろう! おれはあいつを救いたい!!」
スナタは彼を鼻で笑った。
「それはこっちのセリフよ。大丈夫、お姉ちゃんはワタシが救うんだから。お姉ちゃんの幸福はワタシのそばにあり、ワタシの幸福はお姉ちゃんのそばにある。当然でしょう? だって唯一の姉妹なんだから。たった一人の家族なんだから」
「お前でもおれでもダメなんだって!!」
彼は必死に叫ぶ。スナタは眉間にしわを寄せて不機嫌そうに呟いた。
「うるさいな」
そして、彼に右手を向ける。それから放たれたものは魔法でも何でもない、ただの権力だ。重力にも似た乱暴でしかない力は彼の体を吹き飛ばし、彼を壁に打ち付けた。
「かはっ」
ズドンという大きな音と砂埃。スナタの五感からそれらを訴えるものが無くなったとき、彼の姿が映った。
「おれたちじゃダメなんだ」
彼は何度も立ち上がる。吹き飛ばされるのはこれで何度目だろうか。
「リュウじゃなきゃ」
スナタはキッと彼を睨みつけた。銀灰色の瞳の中に、憤怒の感情が宿る。
「その名前を出さないでくれる? 不愉快」
彼は力なく笑った。
「スナタだってわかってるんだろう? 自分じゃ無理だって。あいつのことは救えないって」
その笑みはスナタへのものではない。自分自身への嘲笑だった。
「リュウ以外にあいつを救えるやつはいないって」
「うるさい!!」
スナタがもう一度力を放つ前に、彼は手に持っていた巨大な鎌を構えて飛び上がった。服の裾がふわりと持ち上がり、彼の身体を纏うもやのようにも見えた。
彼は死神。万物の生と死を司る者。神の中でも直接魂を扱う権限を与えられた特別な存在だ。彼はスナタに対して大きく大鎌を振り下ろした。
「だから、無駄だって言ってるでしょ!」
スナタは再び彼に手を向けた。今度は彼の腹に向かって局部的に猛烈な痛みを与える。
「ぐっ」
苦しげな声を漏らし、彼は墜落した。
「じゃま」
スナタは狂ったように唱えだした。
「邪魔邪魔邪魔邪魔邪魔邪魔邪魔邪魔邪魔邪魔邪魔邪魔邪魔邪魔邪魔邪魔邪魔!!」
頭を乱暴に掻きむしり、スナタの柔らかな灰がかった桃色の髪が乱れた。
「あーもうなんで邪魔するの?! せっかく生かしておいてあげたのに恩を仇で返すつもり?」
「そんなことを頼んだ記憶はねーよ」
腹を押さえ、彼は立ち上がる。
「もう立ち上がってこないでよ! いいかげんにしてよ、もう! ワタシはただ、お姉ちゃんと幸せに暮らしたいだけなのにっ!!」
先ほどまでの怒りはどこに消えたのか、スナタは悲哀の表情を浮かべた。
「お前になにがわかるっていうの? 一人ぼっちは辛いんだよ。ワタシが元いた世界の人たちはみんな冷たい人たちだった。感情なんてほとんどなくて、会話なんて本当に数えるほどしかしたことない。寿命なんてないから、出会ってから数百年も経っても、だよ? そんな世界に一人取り残されるなんて耐えられるわけないじゃない!」
「あいつについて来たことが悪いことなんて言わないよ」
それはまるで幼い子供を諭すような声だった。
「お前をこっちの世界に連れてくることを選んだのは、あいつだ。それに文句を言うつもりはない」
彼はスナタにゆっくり近づいた。
「おれが言いたいことは、そういうことじゃない」
スナタの瞳が揺れた。それ以上の言葉を聞きたくないと言いたげに、目を閉じて耳を塞ぐ。
「おれたちじゃあいつを救えない」
そう告げる彼の表情も苦しげだった。
「あいつにはリュウが必要なんだよ」
「うるさい!!!」
スナタが怒鳴った。
「ああ、わかってるよ、認めればいいんでしょう!? わかってるわよそんなこと! ワタシじゃ足りない! ワタシじゃお姉ちゃんを幸福にはできない!!
だって、だって!」
スナタはボロボロと涙を流した。悔しそうだった。心が押し潰されそうという心情を体現するかのように、胸あたりの服をぎゅっと掴む。
「ワタシはただのおもちゃだもん」
ポツリと一言、そう言った。
彼はこの会話の間にスナタとの距離を縮めていた。既に目と鼻の先。スナタが悲しみに顔を伏せている隙に大鎌を振り下ろす。今度は当たった。体の中央、魂に突き刺さった大鎌をぐりんと回転させてから彼は引き抜こうとする。スナタの瞳がギョロッと彼を捉えた。
「なにするの」
それは疑問ではなかった。単なる警告だ。大鎌とスナタの体との間で火花が飛び散る。バチバチという音と、雷にも似た閃光。これは神々の戦いだと知らしめるような激しい光景。二人だけの戦争。
「あああああっ!」
スナタが叫ぶ。スナタは大鎌を引き剥がした。
スナタは荒い息で大鎌を持ち上げる。大鎌はバラバラに分解し、再び彼の手の中で組み立てられた。
「無駄だって言っているのにどうしてわからないの? ただの神であるお前と一つ上の世界から来たワタシでは、勝者はワタシと戦う前から決まってる。世界が決めた結論に逆らうことは不可能。そうでしょう?」
「わかってる、わかってる!」
互いは互いの正義のために戦っているのでありそこに悪は存在しない。それをスナタは理解しない。双方がそれを理解しなければ和解は成立するわけがないのだ。彼はスナタまでも哀れだと思った。
「なあ、スナタ」
彼はスナタに語りかけた。優しい優しい声だった。他者を嫌う彼はスナタに心を開こうとしていた。彼は優しい、人間が求める神だった。人を哀れみ、慈しむ心を持った神だった。優先順位こそ低かったが、彼はスナタも救おうとした。
彼が人嫌いであることには理由があった。優しい彼は救いを求める声に応えようとした。しかし気付いたのだ。神という絶対的な地位にある自分の力をもってしても救えない命があることに。最善を尽くしても、どんなに大きな手の平で下界人を掬おうとしても、どうしてもこぼれてしまう命があった。彼は次第に心を病んだ。そうして彼は決意したのだ、人を愛さないことを。人を愛する心がもたらした彼の負の感情は、人を愛することをやめることであっという間に癒えた。そうだ、彼は下界人が憎らしいのではない。ただ愛していないだけなのだ。
「大人しく死んでくれないか」
それでも彼はスナタを救おうとした。なぜならばスナタは彼と、彼が下界人を愛することを辞める前に出会っていたからだ。彼はスナタに向けて既に愛する心を持っていた。神として、人を愛する心が。
しかし、その想いはスナタには届かない、もしくは届いているのだろうがスナタはそれを不要なものとして捉えている。
「や・だ」
スナタは即答した。べぇ、と舌を突き出し乱暴な口調で彼に言う。
「絶対やだ。元の世界へ帰れってことでしょ? 肉体が死んだって、ワタシはいくらでも転生する。お前が求めてるのはそういうことじゃないもんね?」
「ああ、そうだ」
「言ったでしょ、ワタシはあの世界にとどまりたくなかったからここにいるの。自分の意思で帰りたいなんて思わない。それと」
スナタは嘲笑した。
「ワタシはワタシの意思で元の世界に戻ることはできないの。残念でした」
彼は顔を歪めた。悲しみに、いや、哀れみに。
「なにその顔。ワタシのことをかわいそうとでも思っているの? ふざけないで。これがワタシの幸せなの。ワタシが望んだ幸福なの、勝手にかわいそうって決めないで」
「いや、かわいそうだよ」
彼は大鎌を構え直した。彼はまだ諦めていない。
「一つのことしか信じられなくなっている。それはとても悲しいことだ。執着するものが一つしかないなんて。
それでいいと本人が言うのなら、それでいいのかもしれない。でもスナタの場合は違う。そのままだと、スナタは身を滅ぼす」
「それでいいよ」
スナタは悲しみも怒りも感じられない、先程までとはまるで違う表情を浮かべた。頬を赤く染め、うっとりとなにかに見とれているような顔。左頬に手を当てて狂気が垣間見える瞳を彼に向ける。
「ワタシはお姉ちゃんに殺されたい。ああ、なんて素敵なの! 甘美な響き。お姉ちゃんが直々にワタシに手を下したとしたら、それはどんな幸福を感じられるのかな?」
彼は説得をあきらめた。少なくとも、いまは。
彼は永遠に届かぬ刃をスナタに突き立てた。
20 >>328
- Re: この馬鹿馬鹿しい世界にも……【※注意書をお読みください】 ( No.328 )
- 日時: 2022/08/31 09:46
- 名前: ぶたの丸焼き ◆ytYskFWcig (ID: GbYMs.3e)
20
姉ちゃんに言われた一週間後の日になった。
学園長室に呼び出されるなんて一体どうしたんだろう。全く思い当たる節がない。いや、全くは言い過ぎか。だけど今更呼び出されたりするかな。あの出来事から数ヶ月は経過している。
思い出しているのは真白のこと。もちろんリンやじいちゃんのこともあるけど、それらは学園が首を突っ込んでくることではない。だからもしあるとしたらそのことかなと思うんだけど、うーん。
「やあ、よく来たね、待っていたよ」
姉ちゃんが学園長室の扉を開けると、すぐ側に立っていた学園長がにこやかに出迎えた。学園長は高身長で、姉ちゃんの後ろに立っていることもあって部屋の中はよく見えない。誰かの気配がする。誰だろう。
ボクの左手が掴まれた。見ると、姉ちゃんの冷たい右手が包む形でボクの手を掴んでいた。込められる力は優しいけれど、絶対に離さないという強い意志を感じる。どうしたのだろうと頭に疑問符を浮かべるがそれに対する答えが返ってくることはなかった。姉ちゃんの考えていることを知らないままに部屋に入る。中にいるのは担任のロアリーナ先生かな、それともどこかの大陸の役人かな。
幸か不幸かボクが思い浮かべていた誰でもなかった。そこにいたのはボクの知らないやつらだった。
老いぼれた女性と二匹の猫。目の前の光景が理解出来ずに固まった。猫はとりあえず女性の使い魔だとして、女性は何者だ? 教師だとしてもあんな先生は見たことないし、役人だとしたらもっと若いはずだ。そりゃ歳をとってからも働く人はいるし、なんならじいちゃんもそうだったけど、でもこの女性は違う気がする。根拠はない、ただの勘だ。
「さあさあ、そんなところに突っ立ってないでこっちにおいで」
学園長が誘導したのは女性が座っている長椅子の、机を挟んだ向かい側。学園長は会話の意思がないのか奥の仕事机に腰掛けた。なにがなんだかわからないけれど、とにかく相手の出方を見てればいいのかな。
そう結論を出して黙っていると、大声で怒鳴られた。
「なにか言うことがあるんじゃないの、花園朝日?!」
びっくりした。ボクの名前を知っているのか。なんで? 一体誰なんだ? 言うことがあるってなんだよ、たとえあったとしても開口一番に怒鳴ってくるやつに言う言葉はない。
「モナ、お、落ち着くニャ」
「落ち着けるわけないでしょう? 夢に出てきたことだってあるのよ!? この! ましろの! 仇が!」
真白?
「気持ちはわかるニャ! でもまだダメニャ、耐えるニャ!」
毛を逆立ててボクを威嚇する白猫と、それを止める黒猫、二匹を黙って見つめる女性は、ボクに用があってきたんだろうけど肝心の用件がわからない。そろそろ教えてくれないかな。面倒くさいしさっさと終わらせたいんだけど。
「モナ、いいかげんにしなさい」
女性が口を開いた。穏やかであると同時に空気が痺れるような凄みのある声だった。モナという名前らしい猫もビクッと身体を震わせ、殺気まで感じられたとげとげしい雰囲気も収まり、おとなしくなった。女性はさっきの一言以外なにも言わない。しばらくすると先程とは打って変わって落ち着いた口調で白猫は言った。
「ワタシはモナ。こっちの黒猫はキド。そしてこちらの方はアニア様。ワタシたちはましろの──家族です」
ふーん、それで、どうしたんだろう。
「自分が手にかけた人の遺族と聞いても顔色一つ変えないのね、この悪魔」
心外だな。ボクは人間から生まれたれっきとした人間だ。勝手に種族を変えないでほしい。それにボクが直接真白を殺したんじゃないし。濡れ衣だ、不愉快極まりない。
「どうしてワタシたちがここにいるかわかる?」
えっと、答えたらいいのかな。なんて答えるのが正解だろう。
やっぱり、正直なのが一番だよね。
「いいえ」
モナはギリ、と歯を食いしばった。
「ある日、ましろが家に帰ってこなかった。思えばあの日のましろは変だった。いつもは上手く飛べないほうきに軽々と乗っていたわ。もっと遡ればそれより前からおかしなところがあった。ましろが契約していた精霊であるナギーが失踪したり、ましろの母親が訪ねてきたり。不思議なことが起こった時期と被ってましろの口からよく出てくる名前があった。
それがお前だ、花園朝日」
うんうん、なるほど、やっぱり関わっていた時期と事件が起こったときが近いと怪しまれるよね。予想していたよりも真白が早く堕ちたから身を引くタイミングを見誤ったんだよな。
「最初はお前がましろを殺したなんて思っていなかった。なにか知っているんじゃないかって、それだけだった。だけどいざ話を聞きに学園を訪れたら理由の説明もなく『花園朝日との面会は後日にしてください』なんて! こっちは真実を知ろうと必死なのよ!? 学園も共謀して、お前がましろを殺したに違いないわ!」
「それは聞き捨てならないなあ」
学園長が声を出した。
「精霊様は名誉毀損という言葉を知っているかい? 世間知らずは知らないかもしれないけど、立派な不敬だよ。自分が誰に話しているのかわかっているのかな」
学園長が言い終えると隣から負の気配を感じた。姉ちゃんだ。怒りの矛先を学園長に向けて睨んでいる。学園長は肩をすくめた。
「失礼、朝日くんの処遇はまだ決定ではなかったね。失言だったよ」
ボクと一緒に置いてけぼりになっているモナがむっとした様子を崩さないまま、学園長に問いかける。
「どういうこと?」
「言葉の通りさ、君たちは精霊だというだけでなにをしても許されると勘違いしているのではないかい? 精霊は天使と並ぶ高位種族だけど、更に上位の存在はごろごろいるよ。例えば私とかね」
え?
学園長の言葉に驚き、思わず学園長を凝視する。
いやいや、精霊はこの世界における最高位種族の一つだぞ? 精霊より高位の種族って言ったらそれこそ神しかいない。どういうことだ、学園長が神? そんなわけないよね。もしそうならなんで神が学園長なんかやってるんだよ。
「自分が神だとでも言いたいの? それこそ神に対する不敬よ。あなたからは神としてのオーラを感じないわ。あなたなんかが神なわけない。精霊であるワタシたちが神であるかどうか見誤るわけがないわ!」
モナの叫びを笑い飛ばし、学園長は言葉をかけた。
「私が神だなんていつ言った。私が神であるわけないだろう。さて、私に構っていていいのかい? 君たちが用のあるのは私ではなく朝日くんだろう?」
モナは悔しそうに学園長を見た。
「あとで話は聞かせてもらうわよ」
「いいよ、むしろ好都合だ。
違うか、都合のいいように神に操られているんだね」
学園長の意味深な発言にモナは眉をひそめたが、無視してボクに視線を戻した。
「ワタシたちは真実が知りたい。なんでましろなの? なんの目的でどうやってましろを殺したの? ましろが悪魔化するなんてあり得ないもの。精霊の力と悪魔の力は相反する。一体どうして?!」
真白って精霊だったのか、こいつの発言からしてそうだよな、へー。
ってのんきに考察している場合じゃない! なんて答えるなんて答える? ごまかさなきゃごまかさなきゃ、どこからどうやって?
「ボクはなにも知らない」
全て知らないわけではないけど、嘘ではない。なんで真白かなんてボクだって知らない。ジョーカーに言われてやっただけなんだから。何の目的でってのも知らないよ。どうやってしか答えられない。
「なにふざけたこと言ってるの?」
「答えようがないよ、本当に知らないんだから。ボクが真白を殺したんじゃないよ」
「じゃあ、誰が殺したって言うの? いいから知ってることも全部言いなさいよ!」
「だから知ってることなんて」
知らないと言ってるのに。嘘じゃないのに。この理不尽に涙が出てきた。どうせ泣いて許されるとでも思ってるのかとか言われるんだ。許されたくて泣くんじゃないし泣きたくて泣いてるんじゃないよ。ボクはそんなに器用じゃない。
「泣いてないで答えなさい!」
ああ、ほら。そんな風に言われたら余計に声が出なくなる。息が詰まって視界すらも濁って見える。
右手が急速に熱を帯び、すぐに冷えた。元の温度よりも大きく下回る冷たさに心が落ち着く。心臓も魂も魔力も凍りつきそうな感覚に陥り、どこかから破壊衝動が顔を出してきた。
右腕がむずむずする。
「朝日」
姉ちゃんの声がして、ふと右手が温かくなった。姉ちゃんがボクの右手を握っている。姉ちゃんよりも冷たくなった右腕が徐々に人間らしさの取り戻し、自分じゃないみたいな強い情動も収まった。感覚を失ったはずの腕が伝えた姉ちゃんの温もりは、もしかしたら偽物なのかもしれないな。
それでもいい。偽物だったとしてもボクは、愛を知っていたい。
「落ち着いて、話して」
姉ちゃんはボクを見ていたが、そこに映るのは虚無だった。いや、ボクが姉ちゃんの瞳の中に、虚無を見ているのかもしれないな。
「いいえ、花園朝日に話をする気がないのならもういいわ。ワタシたちは真実さえ知ればいいの。代わりに話せる人はいないの? あなたとか」
モナが姉ちゃんに尋ねる。思ったけど、なんでこいつはタメ口で話してるんだ。図々しいな。
「朝日が言わなきゃ意味がない」
姉ちゃんは至極落ち着いた声で淡々と告げる。
「確かにワタシは知っている。しかしあなたたちにそれを教える義理も意味も持ち合わせていない。真白のことは私にも責任がある。ただそれに対するあなたたちへの罪悪感は一切持ち合わせていない」
姉ちゃんは徹底して無表情で、それがモナの神経をさかなでしたらしい。モナは猫のくせに般若のお面をつけたみたいな顔をした。
「モナ、落ち着くニャ」
キドが言った。
「まずはこっちの事情を話すのが先ニャ。真っ白がいなくなって辛いのは分かるニャ。だからこそ、ちゃんと話をしないといけないのニャ」
そして、ボクを見てぺこりと頭を下げた。
「ぼくたちの話を聞いてほしいニャ。それで、知ってることを教えて欲しいのニャ」
21 >>329
- Re: この馬鹿馬鹿しい世界にも……【※注意書をお読みください】 ( No.329 )
- 日時: 2022/09/01 06:54
- 名前: ぶたの丸焼き ◆ytYskFWcig (ID: /JJVWoad)
21
キドはゆっくりと話し始めた。真白のことなんて興味ないけど、これは聞かなきゃいけない空気だ。あー、やだやだ。
「ぼくとモナはましろの守護精霊ニャ。ましろは精霊士の家系に生まれた女の子ニャ」
え、そうだったんだ。
ボクはキドの言葉を聞いて驚いた。
前に精霊について調べていたときに、精霊士という職業のことも目にしたことがある。
個人が使える魔法は遺伝に大きく左右されるが適正のない魔法が全く使えないということはない。そもそも魔法は白と黒、その二つから生まれたものだ。属性という点で越えられないのは白と黒の壁であり、火や水などの壁は決して越えられないということはない。向いてるか向いていないかがあるだけだ。
ただし精霊士が使う精霊術は違う。生まれながらに使えるか、使えないかがはっきりと決められている。それはそもそも魔法と精霊術は全くの別物として世界に登録されているからだ。魔法使いが持っている遺伝子と精霊士が持っている遺伝子とは明らかな違いがある。精霊術はそれを使って世界に異変をもたらすというものではなく自身の体を使って妖精界と魔法界の架け橋を作るというものだ。
「ましろが生まれた家は、最後の精霊士のルーツを持つ家ニャ。精霊士が絶滅しかけているのは知っているニャ?」
力を遺伝子に頼るしかない精霊士は元々の数が少なかった。そして、その遺伝子を正常に受け継げられないことだってある。精霊士は年々数を減らしていき、とうとう絶滅の危機に瀕した。
「うん、知ってるよ」
「そうかニャ」
キドは悲しそうに顔を伏せた。悪いけど、演技にしか見えないよ。嫌悪感が顔に出ないように気をつけながら、ボクはキドの言葉に耳を傾ける。
「ましろは実の家族に捨てられた女の子ニャ」
「ああ、そう」
心の中で思っていたつもりだけど、間違えて口に出してしまった。キドの、いまの言葉で同情を引こうという意志が透けて見えて腹が立ってしまった。同情なんてしないよ。あいにくそんな感情は持ち合わせていないからね。ボクはボクが一番可哀想だと思っている。誰だって心のどこかではみんなそう思ってるんじゃないかな。ずっとじゃなくてもそういう時期があったのは確かだと思うよ。
違う、ボクは可哀想なんかじゃない。認めようよ、ボクはかわいそうだよ。うるさい、うるさい。
かわいそうなボクに誰かを哀れむ余裕なんてないんだよ。
「その理由は、ましろの家族がましろの精霊士の才能を見つけられなかったからニャ。絶滅という危機に追い詰められた精霊士たちは赤子を選別するという習慣を覚えてしまったのニャ」
ボクの態度に疑問を持った表情をしつつも、キドは言葉を続ける。
「精霊士が思う優秀な精霊士が、ましろの生まれた家には既にいたのニャ。でもぼくたち精霊にとってより優秀な精霊士の素質があったのはましろだったニャ。ましろは魔法を使うのに向いていなかっただけで、本来の精霊術である魔法界と妖精界の架け橋となる媒体の素質はずば抜けていたニャ。その証拠に、ぼくたちがいるんだニャ」
時間が経てばどんな真実もねじまがる。精霊術と魔法は違うものだ、しかしそう思わない人の方が多い。精霊術にも魔法と似た面があるからだ。魔法も精霊術も精霊の力が関与するという点では共通している。精霊を呼び出すことで魔法に似た術を使うというものも精霊術に含まれ、人々はこれを魔法と勘違いしたとボクが読んだ本には書かれていた。実際他の本を読んだときも精霊術と魔法は元は同じものであると記されているものが多かった。ボクが精霊術と魔法の違いを知っていて精霊士が知らないというのは一見おかしな話に聞こえるかもしれないが、真実と信じているものを改めて調べようとはしないだろう。そういうことだ。
「証拠?」
ボクが言うと、キドは大きく頷いた。
「本来精霊は妖精界以外で実体を持つことはできないのニャ。でもそれには例外があって、精霊士の力を借りて実体を作り出してもらうことができるんだニャ。ただ精霊の実体を外の世界に作り出す精霊術は数多くある精霊術の中でも最も難しく最も力を必要とする精霊術の一つニャ。術者がなかなかいないんだニャ」
そうだろうね。つまり無から有を作り出すということなんだから。それは神の所行だ、神の真似事だ。魂という情報があるからこそ人でもできるというだけで。
「だけどそれを可能にするだけの力をましろは生まれながらにして持っていたのニャ」
ボクは本で得た知識しかないからそれがどれだけ凄いことだかはわからない。キドの話からしてすごいんだろうなと客観的に判断するしかない。
「ぼくたち精霊にとってましろは失えない存在だニャ。守護精霊であるぼくたちとアニア様はましろの力を借りてこの魔法界に来たんだニャ。捨てられたましろを救うために」
「強制的に?」
ボクは尋ねた。
真白からそんな話は聞いたことがない。猫がいることもおばあさんと一緒に暮らしていることも知っていたけど。つまりこいつらはましろに真実を隠していたということ。真白の力を借りて、なんて言っているけど要するに真白の同意を得ずに勝手に力を使ったってことだ。それは借りたんじゃなくて奪ったってことだ。
偽善者は嫌いだ。
「それは!」
キドは言い返そうとしたけど言葉が見つからないらしい。はは、図星か。やっぱりね。
『精霊ともあろう者が守護対象に負担をかけるなんて不甲斐ないな』
ボクが言うとキドは目を丸くした。モナも同じ顔をしてるし、なんなら老婆も口を押さえている。横でがたっと音がして姉ちゃんが言葉を発した。
「朝日、まさか」
「おやおやおや、まさか朝日君は本当に神に──」
愉快と言わんばかりにそう叫ぶ学園長の声が破壊音にかき消された。見ると学園長室の壁に学園長が刺さっている。なにしてるんだ。
「いっ、たたた、酷いなぁ。事実じゃないか。そろそろ認めなよ」
壁から身体を引き抜きながら訴える。
「うるさい!」
姉ちゃんが一喝すると学園長は肩をすくめた。
「はいはい、悪かったよ」
なにを話しているんだ? 姉ちゃんに訊こうと口を開く直前、老婆に言われた。
「貴方は、ああ、そうだったのですね……」
勝手に納得されても困る。老婆は絶望して額に手を当てた。
「貴方は、いえ貴方様は、神として愚かなワタシたちに罰をお与えになったのですね」
「は?」
心の底からの本心だ。わけのわからないことを言わないでほしい。説明をしろよ説明を。
「お許しください、我らが神よ。罪を償うためならばどんなことでもいたしましょう」
「ちょ、ちょっと、まってまって! なんのこと?」
「どうして気づかなかったのでしょう。貴方様から感じるオーラはまさしく神のもの」
ボクの言葉が届いていないのか、老婆は言葉を切らさない。そろそろうんざりしていると、学園長が言った。
「そろそろ話を戻してくれないかい? 日向君も落ち着いて」
姉ちゃんは学園長を睨みつけた。おお、こわいこわいとわざとらしく肩を震わせ、学園長は自分の机に戻っていった。
「失礼いたしました」
老婆はそう言うとすっかり黙った。話し手の座を猫たちに譲る。
口を開いたのはモナだった。
「仰る通り、ワタシたちはましろの力を奪い取りました。その結果、ましろは魔法も精霊術も自由に使えなくなってしまったのです。しかし、あの子の持っている魔力は強く、濃く、特別なものでした。使えなくなっただけで存在はしています。だからこそ魔物を呼び寄せてしまうのです」
なにやってるんだよ。ましてやそれを本人に伝えていなかったなんて。守護精霊ってそんなものだったっけ。理想と現実は違うっていうのはよくある話だけど、実際に体験すると少なくともいい気分にはならないな。
「あの子がいなくなってから色々なことを考えました。そしてワタシたちが犯した過ちに気付いたのです。あの子は他と変わりない人間であることを忘れていました。精霊であるワタシたちはものを食べる必要がありません。しかし、ましろは食べなくては死んでしまう。そこまでは理解していました。ただ、ましろがもっと食べたいと言わなかったことを遠慮ではなく我慢だと気付けなかったのです。ワタシたちはましろを特別だと思うあまり、人間を超越した精霊に近い存在だと思い込んでいました。人並みにものを食べなくても生きていけると信じて疑いませんでした。
あの子は不幸なまま死んでしまった、それはワタシたちの責任です。そう思いたくなかった。ワタシたち以上の悪を探し求めていたワタシたちは、腐っています」
あー、なるほどね、そういうことだったんだ。
でも、モナが言っていることもある程度は正しいかもしれない。真白の食生活は聞いている限りだと普通の人間ならすぐに倒れてしまうようなものだった。それでも真白は生きていた。健康だったかどうかはわからないが、目に見えて体が弱っている様子もなかったし深く心を病んでるわけでもなさそうだった。
「虐待」
ボクはこの二文字が頭によぎった。
ボクと対面する全員が苦々しい表情を浮かべる。事実じゃないか。お前たちがしてきたことは、立派な虐待だよ。まあボクには関係ないけど。今更だしね。
「はい、そうですね」
キドはうつむくが、モナは懸命に顔を上げる。
「他にもきっと、ワタシたちはましろに償いきれない不幸を与えてきたはずです。ましろは人としての幸せを願っていたはずですから。それを私たちが知らないばかりにあの子を不幸にしてしまった」
モナは一度そこで言葉を切り、ゆっくりと言葉を紡いだ。
「ワタシは精霊失格です」
「ぼ、ぼくもだニャ! モナだけじゃないニャ! ぼくとモナは二人で一つニャ! モナだけじゃないニャ!」
「そして、それは私もです」
「おや、アニアもそう言うのかい?」
すっとぼけているようにも聞こえる学園長の声。学園長はあははと楽しげに笑ってからこう言った。
「精霊の女王たる君が簡単に精霊失格だなんて言っていいのかな」
「女王?!」
驚きのあまり声が出た。えっ、アニアってえっと、えっと、ティターニアから取ってアニアか? そうなのか?
精霊の女王、ティターニア。まさかこんなところで出会えるなんて。
「はい。ですが、私はこの座を降ります。幸いにも私には優秀な後継者がおりますから。私にティターニアの名を名乗り続ける資格はありません」
ティターニアというのは精霊の個体名ではなく称号の名前だ。ティターニアの名を受け継ぐ者、その者こそが次期女王となる。
「なんせ一人の優秀な精霊士を死なせてしまったのですから」
「真白君が死んだのは君たちのせいではないのではなかったかい? 君たちがそう言ったんじゃないか。さっきまで朝日君が殺した殺したと言って攻めていたのはどこの誰かな」
学園長の言葉にモナが顔をしかめた。
「アニア様……」
本心ならボクが真白を殺したと責めたいのだろう。しかしボクが神であるとわかった以上そういうわけにもいかない。その葛藤の狭間で揺れているという顔だった。
「情けない限りです。私はあろうことか神に責任転嫁をしようとしていたのです。どうか神よ、私に裁きをお与えください」
そう言って精霊の女王は胸の前で手を組み、まぶたを閉じた。
「ええぇ」
困惑して姉ちゃんを見る、姉ちゃんは何も言わない。
「まあまあそんなことはどうでもいいからさ、私の話を聞きたまえよ」
22 >>330
- Re: この馬鹿馬鹿しい世界にも……【※注意書をお読みください】 ( No.330 )
- 日時: 2022/08/31 09:48
- 名前: ぶたの丸焼き ◆ytYskFWcig (ID: GbYMs.3e)
22
場違いなほどに弾む学園長の声。顔を見るとやけに生き生きしていて不気味なくらいだ。なにがそんなに楽しいんだ、こんな疑問さえ浮かんでくる。
「急になに?」
「朝日君は相も変わらず冷たいな。そろそろ我慢の限界なんだよ。早く私に仕事をさせてくれないかい?」
「仕事?」
「私に与えられた役割を果たしたいんだ。なんせ私は精神をいじられて仕事をこなすことに快楽を感じるようになっているんだからね」
あー、随分前にそんなことを話していた気もする。ところで、その仕事ってなんなんだ?
「犬が散歩をおあずけされているようなものさ。耐え難い耐え難い。十分待ってやっただろう、そろそろ私にも出番が欲しいよ」
学園長はぐるぐると回りを見渡す。この場にいる全員の顔を見てから、誰かが口を開く前にはっきりとよく通る声で話し出した。
「まずは『正式な』自己紹介をしようかな!」
仕事机に座ったまま、歪む口元を隠すように机の上に乗せた手を組んで口の前に置いた。にやける目元は隠せていない。学園長の後ろにある大きな窓から差し込む光が、学園長の姿をモノクロに映し出す。
「私は〔最後のスート・理事長〕。五十五人目のヒメサマの下僕だ」
驚愕の前に納得がボクの心の底から湧いて出た。感情を司るのは心臓ではなく脳だから正確には頭の底からになるけれど。今はそんなことはどうでもいい。
スート。つまり、学園長は仮想生物というわけだ。なるほどなるほど。もう驚かない。いままで変な仮想生物をたくさん見てきて、既にお腹がいっぱいだ。驚きを食べるには満腹度が高い。
「なにから話そうかな」
学園長はにやにやと笑う。この状況が楽しくて仕方がないという表情だ。
「まずは、そうだね。ここは学園ではない。学園という名前がついてはいるが、生徒に学びを与える場という目的で作られた場所ではないんだ」
へー、そうだったんだ。まあ、確かにちょっとそこは気になっていた。この学園は神の建造物。どうして神が人のための学校を作ったのだろうと疑問に思ったことがある。そもそもここは学校じゃないと言われたら納得がいく。
「私はただの人形だ。自分に与えられた仕事をこなすことにしか興味がない。だから言ってしまうと生徒たちに愛情なんてものは一切存在しないよ。よって、申し訳ないけど真白君のことは残念だと思う、ただそれだけだ。学園として償う気はないよ。そもそもバケガクに入学するということは、バケガクの行事で命の危険があることを了承したということだ。バケガクが他の学園とは違って生徒により多くの危険が伴うことは、入学前からわかっていたことだろう」
バケガクは他の学園よりも危険な行事が多い。モンスターが侵入してきたりもするしバケモノが集まる学園だし。だからバケガク生徒は常に命の危険と共にある。一年間で必ず誰かが死ぬ、それも一人や二人じゃない。度々遺族に対応していたらキリがないということだ。バケガクが危険ということは入学前に注意事項として知らされていた。バケガク生徒の家族も覚悟はしていたはずなのだ。
「なっ、それが学園長の言うことなの?!」
「私は学園長ではない。この場所を管轄する理事長だ。
私は人を愛せない、その感情を持ち合わせていない。不要な感情だからだ。生徒が何千人死んだとしても私は一向に構わない。その生徒が神でなければね。私は私に与えられた仕事をこなせさえすれば、それでいいのだから」
モナは歯ぎしりをして唸った。
「あなたねぇ!!」
そこでふと思いついた。
「じゃあ、なんで学園なんてしてるんだ?」
元々ここが学園でないのなら、どうして学園という形をとったのだろうか。学園長が言う仕事となにか関係があるのか?
学園長はよくぞ聞いてくれましたとばかりに目を輝かせ、ボクに向き直る。
「私の仕事は神の収集」
神?
「神の座を捨て、下界人として転生する神々。生まれる時間も場所もバラバラ。そんなんじゃ、会いたいと思ってもそれは難しいだろう?」
せっかく同じ時代に生まれたとしても他の神がどこにいるかわからない状態になるということか。
「私は神が集まれる場所を用意し、神を見つけて収集する。そのために学園を名乗っているに過ぎない。神も転生すれば、幼少期は子供の姿だからね。なるべく早く集まるためには、子供が集まれる場所でなければいけないんだ」
「その神って、まさか」
学園長は笑った。
「君の想像通りだよ」
学園長は「与えられた役割を果たしたい」と言った。学園長の主な仕事が『神の収集』だとしても、いまこの場におけるさっき言っていた役割は違うはず。その役割がもし『学園長が知っていることをボクに話すこと』だとしたら。
そう思う根拠は一応ある。スートという言葉をモナたちが知っているとは思えない。実際いまも困惑しているみたいだし。学園長が話しかけているのはボクに対してだ。
だったら。
「まって」
ボクが口を開こうとしたところでモナが言った。
「色々わからないわ。スートってなんのこと? ヒメサマって? 神を集めるって、なんのためにそんな」
学園長は嬉しそうに目を細めた。
「君の質問に答えているという形式で話しているから、そうだね、答えてあげよう。
スートとはヒメサマが作った仮想生物の総称だ。ヒメサマはこの世界の創造神。神を集める理由はただ一つ。『神にそう命じられたから』」
「創造神? ディミルフィア様ってこと? ディミルフィア様があなたを作ったの?」
「そういうことだ」
モナは怪訝そうに顔をしかめた。
「デタラメじゃない?」
「どうしてそう思う?」
「確かこの学園にはあなたが作ったっていう仮想生物がいたはず。仮想生物が仮想生物を作るなんて聞いたことがないわ」
その疑問ももっともだ。もっともなんだけどボクはあまり不思議と思わなかった。散々型破りな仮想生物を見てきたせいか、仮想生物が仮想生物を作るぐらいのことでは驚かなくなった。いいことなのか悪いことなのかはわからない。感覚が麻痺するということはあんまり良くない気もする。
学園長はモナの質問を笑い飛ばした。
「アハハッ、なにを言っているんだい。君たちのそばにもいたじゃないか、仮想生物が作った生物が」
まだいるのか。なんでボクの周りにいる仮想生物はおかしなものばかりなんだ。え、周りの仮想生物がおかしいんだよね? ボクはおかしくないよね?
「精霊を生物とするかは個人で考えが違うかもしれないがね、世界からすれば精霊も生物だ」
仮想生物が作った精霊? なんのことだ? 真白のそばにいた精霊といえば……。
「なんのこと? もしかして、ナギーのことを言ってるの?」
「以外に誰がいる。まさか気づいていなかったのかい? アニアも含め? やれやれ、精霊も堕ちたものだね。あんなに分かりやすい異質さに気付けないなんて」
ナギー。リン以外にボクが捕まえた、もう一人の精霊。いまはどこにいるんだろうか。
「確かにナギーは他の精霊とは違っていたわ。アンファンではないみたいだった。だとしても!」
モナは一度言葉に詰まって、いいえ、と呟いた。
「改めて考えてみればあなたの言う通り、ナギーは異質だった気がするわ」
「モナ?」
キドがモナに視線を移した。不安そうに揺れる瞳をモナに向ける。
「ナギーは自分が何者かもわかっていなかった。精霊は自分の使命を潜在的に理解しているものよ。ナギーは精霊ですらなかった、精霊に近いなにかだった。仮想生物というのも、あながち間違っていないのかもしれない。ただ疑問があるわ。仮想生物ならナギーに術者から与えられた役割があるはず。でもナギーにそんな素振りはなかったわ」
「私は一言も彼が仮想生物だとは言っていないよ。彼は仮想生物が生み出した、唯一の完全なる不完全な生命だ」
学園長の言葉は矛盾している。完全なのに不完全?
疑問が顔に出ていたのだろうか、学園長はボクに向き直り、答えを出した。
「生命は不完全なものだからね。完全な生命というと語弊が生まれるだろう?」
生命が不完全だとなにをもってそう言える?
問いかけてみようとしたけれど、唐突に理解した。生命は不完全なものだ、完全にはなり得ない。完全というのは欠点のない状態のこと。欠陥が皆無である状態のこと。生命は欠陥だらけだ。欲という欠陥、感情という欠陥、寿命という欠陥。生命である以上、欠陥を抱えて生きることは避けられない。ああしかし、そんな不完全な生命だからこそ、こんなにもいとしく感じるのだろう。完全を望み、完全になれない生命が哀れで哀れで、可哀想で可愛そうで仕方ない。そんな彼らがたまらなくいとおしい。
「仮想生物が生命を生み出すなんて、そんなことありえないわ!」
モナが叫ぶ。
「だが、事実なのだから仕方ないだろう。まあ受け入れろとは言わないよ。私には関係のないことだ」
突き放すような冷めた口調で、学園長はモナに言った。そして顎に手をやり、思案する。
「お次はなにを話そうか。めぼしい情報はもう今度全て公開してしまったね」
「き、聞いてないことがまだあるニャ!」
キドの声は震えていた。学園長は『はて』と顔に疑問符を浮かべて、キドを見る。
「ましろ、ましろはいまどこにいるニャ?」
学園長は数秒の間を置いてから「ああ」と呟いた。
「さあね。私は知らないよ。あいにく七つの大罪の悪魔との交流はない。何百年も前に会ったことはあるがね。向こうも私のことは覚えていないんじゃないか?」
「そんな! それじゃあ、ましろはもう助けられないのニャ?」
「そんなのはわからないよ。私は私の仕事をこなすために必要なことしか知らないんだから。でも、アドバイスくらいはできるかな」
キドは暗い表情に光を混ぜて希望を込めた目で、学園長を見上げた。
「なにニャ?」
「聞きたいのかい?」
変にもったいぶる学園長にやや苛立った様子で、しかしぐっとこらえてキドは言う。
「聞きたいニャ!」
学園長は淡々といった。
「長い時間をかけて、ゆっくり方法を探せばいい」
誰でも思いつきそうな単純な回答に呆然として、キドはぽかんと口を開いた。学園長は大真面目に言う。
「大罪の悪魔には寿命がない。大罪の悪魔に憑依されている限り、真白くんの体も老いないはずだ。そして真白くんは死んだのではない。半永久的に意識を眠らされている状態だ。真白くんを覚醒させることができればそれは、真白くんを解放することにつながる。
まあ、君たちにそれができるとは思えないけどね。なんせ彼らは強大な力を持っている。彼らもまたヒメサマが直々に自らの力を割って生み出した存在なのだから。
生まれもって所有している力が違う」
仕事以外に興味がないと言っておきながらベラベラとこんな事をしゃべるということは、これも仕事の一環なのかな?
「そうすれば、ましろは助かるのね?」
「モナ!?」
学園長の言葉を飲み込もうとする様子のモナにキドは驚きの声を上げた。
「時間がかかりすぎるニャ! ぼくたちはそんなに長く生きられないニャ!」
精霊には寿命が存在する種族と寿命が存在しない種族がある。モナたちは、その中で寿命が存在する種族なのだろう。それがなんなのかまでは特定できないが。
「だったらどうするって言うの?!」
キド以上の大声で、モナは言った。
「ましろを救いたいの。キドだって気持ちは同じでしょ?」
「当然だニャ! だけど」
「じゃあ、決まりね」
モナは座っていた長いすからひらりと降りて学園長室の扉へ近づいた。
「おや、帰るのかい?」
「なら聞くけど、これ以上なにかを話してくれる気があるの?」
「ないよ」
「だったら、私たちがここにいる理由はないわ。アニア様、帰りましょう。キドも行くわよ」
つんと澄ました顔で立ち去るモナといまだ困惑するキド、なにも言わずにぴんと背筋を伸ばして歩く老婆を見送って、学園長はボクに問いかけた。
「なにか聞きたいことはあるかい?」
質問をしたって答えてくれないくせに。
「いいえ」
心の中で毒づいて学園長に否定の意を伝える。
「そうかい。なら、茶菓子ぐらい食べていかないか?」
そういえば、机の上に茶と茶菓子が置かれてあった。
「いりません。失礼します」
学園長室を出て、校舎から出たところで姉ちゃんに会った。
「姉ちゃん! 待っててくれたの?」
Ⅴグループ寮からここまで転移魔法で送ってくれた姉ちゃん。とっくに帰ったと思っていたのに。冬も終わりかけているけれどまだ寒い。そんな中待っててくれたんだ。
あったかい気持ちが湧いて出る。姉ちゃんは落ち着いた口調で言った。
「帰ろうか」
差し出された手を握る。冷たい。
23 >>331
- Re: この馬鹿馬鹿しい世界にも……【※注意書をお読みください】 ( No.331 )
- 日時: 2022/09/01 06:54
- 名前: ぶたの丸焼き ◆ytYskFWcig (ID: /JJVWoad)
23
東蘭は火が置かれた大地に立っていた。草木はとっくに枯れ果てて、土もすっかり乾いてしまった。東蘭の目の前にあるのはかつての東家。かつての彼が住んだ家。言葉通り全てが崩壊している。肉が焦げる臭いとまばらに転がる焼死体が東蘭を不快にさせた。
「この世界も、もうすぐ終わるのか」
東蘭がゆっくり呟く。そしてゆっくり考える。
「神であろうとこの世の理から外れることはできない。世界が終わるまで、あと二年。それまでに、なんとかしないと」
フェンリルが下界に現れ、[黒大陸]と他大陸との世界規模の戦争が始まり、しかしそれでも世界はまだ滅ばない。神であるフェンリルでさえもまだ世界を滅ぼすことはできない。そう定まっているからだ。世界が百万年ごとに滅ぶと定めたディミルフィアであってもこれに逆らうことは不可能なのだ。東蘭には二年の猶予が約束されている。しかし。
(全然足りない)
「おや、君は……」
東蘭に話しかけた者がいた。東蘭からするとなにもない誰もいないところからその人物が現れたように見えたが、それは向こうも同じだった。互いに不信感を抱きつつ、しかし話しかけられた以上、話しかけた以上、完全に無視をするわけにもいかない。東蘭は突然のことに驚いて思わず声がした方に目をやったのでとりあえず目は合った。
「はじめまして、ということになるね、ぼくはシキだ」
シキは相手の警戒心を解くために先に名乗った。
東蘭はシキがどうしてここにいるのかと不思議に思った。シキは和服を着ているが、どうやら東蘭のよく知る大陸ファーストで流通しているものとは形が違うようだ。なによりシキは茶髪だった。光の当たり具合で金に見えなくもないが。
これらの特徴から東蘭はシキが他大陸の出身だと判断した。
「おれは、えっと」
名乗りに困って、東蘭は言葉に詰まった。彼は東蘭ではあるが東蘭ではない。それに得体の知れない何者かに馬鹿正直に名を教えるのも気が引ける。そう考えたのだ。
シキは東蘭の思考を読んでいた、本当に読心術が使えるわけではなく同じような場面に遭遇したことがある、つまり経験したことから判断した結果だ。だからシキは自分の中で推測した東蘭の正体、その名を告げる。
「ヘリアンダー様でしょうか?」
東蘭は目を見開いたが、すぐに感情をおさめて落ち着いた声で肯定する。
「ああ、そうだ」
するとシキが跪く。両膝をついて両腕を組み合わせた。
「先程の馴れ馴れしい物言いをお許しください」
シキが東蘭の正体に気付いたのは名乗ったあとだった。シキは自分より尊い存在がそうはいないことを知っていたから、ついいつもの調子で話してしまっていたのだった。
「別にいい。堅苦しいのは嫌いだ」
「ありがとうございます」
今度はこちらから質問してやろうと東蘭が口を開く。
「なぜ、おれの正体がわかった? 普通わからないだろう」
東蘭の言う通りだ。ヘリアンダーという神はキメラセルの神々のうち二番目(一番はディミルフィア)の地位に当たる神だ。そんな神がどうしてこんな荒れた土地にいると思うだろう。
シキは微笑んで言葉を編んだ。
「裁きの痕跡を感じますから」
シキはぐるっと周りを見る。さらりと言っているがその言葉はさらに東蘭を驚かせた。
確かに東蘭はつい先程この大陸に裁きを下した。法を司る太陽神の名の下に。大陸ファーストが穢れた要因はいくつかあるが、その中でも特筆すべきことは身分ができたことだ。神は大陸ファーストの階級の象徴である六大家のうち、特に穢れた花園家と東家を崩壊させた。家を潰し、大陸内にいるこの二家の血が流れる人間を根絶やしにした。そして大陸全土のほとんどを燃やした。しかしそれを知る者は神々だけのはずだ。東蘭の視界に映るシキが彼の行った内容を知っているはずがないのだ。
神の力を明確に感じ取れるものなどそうはいない。せいぜいただ漠然と強大な力だと思う程度だ。東蘭はシキを睨んだ。
「お前、何者だ?」
シキの表情が苦笑に切り替わった。
「しがない旅人です」
旅人と聞いて東蘭はなにかが意識に引っかかるのを感じた。そして閃いた。
「しがない?」
東蘭はシキを鼻で笑った。
「どの口が言ってるんだ、〈橙の旅人〉」
「バレましたか」
そう言いつつシキも隠しているつもりはなかった。複数人いる十の魔族の中でも自分が一番有名であることを自覚しているからだ。気ままに世界中を旅しているうちに名が知れ渡ってしまった。正体を隠すほうが難しい。
「ここにいる目的は何だ? まさか観光ってことはないだろう。
こんなに荒れてるんだからな」
東蘭は自分を取り囲む景色を見た。見渡すかぎりの炎。草木はとっくに炭化して燃やすべきものなどない。なのに変わらず燃え続ける炎は宿るはずのない命さえも感じさせる。炎そのものが意思をもって大地を焦がしているかのようだった。
「そうですね。この光景を見に来たわけではありません」
シキは言うか迷った。神という絶対的な存在を前にして嘘を言うのは身の程知らず、そして命知らずの愚かな行為だ。
「隠すほどのことでもないのですが」
「なら言えよ」
それもそうだとシキは思った。うーんと唸り、頭の中で文章を組み立てる。
東蘭はそんなシキを見てやや苛立った。言うなら言う言わないなら言わないでさっさと決めろと念を送り、シキはようやく言葉を絞った。
「私の旅の目的を果たすため、ですね」
「旅の目的?」
「はい」
シキが世界中を旅する目的は、ただの娯楽でも名声のためでもない。シキには行きたい場所がある。その場所は行き着くことがとても難しい場所だ。シキは何百年と旅を続けているが、その場所へ行く方法は一向に見つからない。
「そうだ。一つお聞きしたいことがあるのですが、いいでしょうか?」
シキはヘリアンダーという神ならば自分が知りたいことを知っているはずだと思い出した。それを教えてくれるかどうかは別問題として。
「内容による。とりあえず言ってみろ」
東蘭はシキがなにを自分に聞こうとしているのか全く見当がつかない。話している相手が神であると知りながら、話し方は丁寧だがこんなにもくだけた調子で話せていることも気になる。東蘭はシキという名こそ知らなかったが〈橙の旅人〉がとてつもなく長い年月を生きていることは知っていた。長く生きていることで様々なことに対して肝が据わっているのかもしれないとも思ったが、神との対話は誰であっても緊張を持つものだ。そうでなければいけない。東蘭はシキのことが気になった。
「天界へ行く方法を教えていただきたいのです」
その一言で、東蘭の思考は終着点を見つけた。これまでのシキとの短い会話でシキの正体について複数の仮説を東蘭は立てていたのだが、それを一つに絞ることができた。そして東蘭はその仮説が合っているという自信があった。
東蘭はにやりと笑った。そんな東蘭を見たシキも、自分の正体を連続で見破られたことに気づいた。
「寿命を全うしたら行けるだろ」
シキの正体が分かっていながら、意地悪くそう言う。東蘭の予想通りの返答をシキはした。
「残念ながら私は不老不死なのです」
「そうだろうな」
それからすぐに笑みを消して、彼は無慈悲な言葉をシキに投げた。
「ヒトの身でありながら天界に行く方法は存在しない」
シキは目を丸くした。見つからないだけでその方法は存在すると思っていたからだ。神の言葉を疑えるわけがない。神がこう言っているのだから、それが真実だ。シキは絶望した。天界へ行く方法がないのであれば、自分はなんのためにこんなに長い時間をかけて旅をしていたのだろうと。
「話は最後まで聞け。なにごとにも例外はある」
シキはもう一度、目を見開いた。
「簡単な話だ。天使と交渉したらいい。本気で探せば見つかるはずだ。知っていると思うが、天使は下界によくいる。姿を巧妙に隠しているだけで」
東蘭は自分でこう言いつつ、それが難しいことだともわかっていた。天使はただその存在を見つけづらいだけなのではなく気難しい。天界という聖なる場所に生きたままの汚れた人の身を立ち入りさせることを許すとは思えない。そして、そのことはシキも理解していた。それでもシキは力強く頷く。
「わかりました。ありがとうございます」
東欄に言われる前からシキは天使を探していた。東欄にいま言われた方法を試したかったのだ。
しかし天使はなかなか見つからない。天使との交渉はいまの段階では唯一確実性のある天界へ行く方法であったがシキは半ば諦めかけていて、これ以外の方法を探していたのだ。
正直なところシキはがっかりした。神が天界に行く方法はないと言い、その例外としてこれをあげたということは、やはりこれ以外に方法はないということだ。
しかし、神の口から天界に行くことは可能だと聞かされた。シキの中の諦めを取るには、それで十分だった。
「用事は済んだろう。さっさと行け。おれはまだすることがある。暇じゃないんだ」
東蘭は西を見た。見たというより睨んでいると表現した方がふさわしい。シキもそれに倣って西を見る。東蘭がなにを見ているのか初めはわからなかった。だが、すぐに納得した。
「フェンリル、ですか」
東蘭は顔は動かさずに視線をシキに向けた。目だけで肯定を示し、つぶやく。
「救いたいヒトがいる。人ではないけれど」
「命を失うかもしれませんよ」
言った直後にシキは慌てて口をおさえた。余計なお世話だとわかっていたからだ。心の声が漏れてしまって焦った。東蘭は怒ることはなく、寂しそうに微笑む。
「神は死なない、そして死ねない」
その言葉は独り言だった。
「その悲しみを背負い続けるヒトがいる。おれはあの方を救いたい。あの方にはリュウが必要なんだ」
信仰心の薄い下界人は、神は人の作り上げた幻想だという。しかしそれは違う。人は概念に名前を付けただけだ。神が神という名を持っていなかったときから神は存在していた。神はかつてのヒトであった。ヒトの上にヒトができ、ヒトは神という名を与えられた。神とはいったいなんであろうか。神とはヒト以外の存在だ。ヒトとは人間であり動物であり植物であり怪物であり竜であり妖怪であり精霊であり天使であり悪魔だ。下界に住む全ての生命のことを指す。
神は、存在する。
そして、ヒトは神に成り得ない。
─────
一人の女が立っていた。腰まで伸びた髪は光を吸い込むほどに深い真紅。顔は見えない。女はこちらに背を向けている。その背から生える大きな二対の翼は天使のものとよく似ている。その翼も髪同様の深紅であった。元々そういう色なのか、それとも返り血で染まったのかわからない真っ赤な服は背の部分が大きく裂けて、痛々しい傷が左肩から腰に向かって刻みつけられている。その傷は翼にも及び、四枚あるうちの一枚が外れてはいないものの不自然に折れ曲がっている。
女はかがみ、そばにあった天使の死体の腹に手を当てた。持っていた短剣で腹を裂く。ぐちゅぐちゅと掻き混ぜるように腹の中を探って、女は天使の腹から赤ん坊を取り出した。おぎゃあおぎゃあと泣き喚く赤ん坊を強く抱き、小さな声で決意を示した。
「絶対に、守るから」
24 >>332
- Re: この馬鹿馬鹿しい世界にも……【※注意書をお読みください】 ( No.332 )
- 日時: 2022/08/31 20:28
- 名前: ぶたの丸焼き ◆ytYskFWcig (ID: 8GPKKkoN)
24
コンコンコン
「朝日、おはよう。ちょっといい?」
ボクがベッドの上でぼーっとしていると部屋の扉が叩かれた。ベッドの上にいたけど身支度は整っている。どこに行くわけでもないけどね。誰かの前に出ても恥ずかしくない格好をしているのでボクはすぐに出た。声から判断するに訪問者はゼノだ。
「どうしたの?」
扉を開けた先にいたゼノは制服だった。ゼノは服を持っていないのか、いつも制服だ。しっかりと赤いリボン結んでいる。Ⅴグループの生徒は赤いリボンやネクタイを疎ましく思っている場合が多いが、ゼノはそうでもないらしい。それどころかⅤグループであることに誇りを持っているようでさえある。ちなみにボクは姉ちゃんと同じネクタイをつけられて嬉しいし、その姉ちゃんはまずネクタイの色に欠片ほどの興味がないみたい。
「一緒に散歩しない?」
「散歩? ああ、ゼノってよくバケガクの中を散歩してるんだっけ」
「そう。いつか誘いたいなって思ってたんだ」
にこにこしているゼノの表情が突然変わった。焦ったように言葉をくっつける。
「も、勿論、迷惑だったらいいよ!」
そんなゼノを見て思わずボクは微かに笑ってしまった。
「ううん、大丈夫だよ。誘ってくれてありがとう。寮から出るんだよね。すぐに準備終わらせるから玄関の方で待っててくれる?」
「うん、わかった」
いまボクは部屋着で、寮から出るときは制服着用が原則だ。元々服以外はいつでも外に出られる状態だったから着替えただけでボクは玄関に向かった。
「お待たせ」
待たせた時間はほんの五分程度だろうから待たせたとは思っていない。ただの社交辞令だ。
「エヘヘ。じゃあいこっか」
ゼノは偽物だなんて気付けないくらい嬉しそうな顔で笑った。つられてボクも笑う。ボクとゼノとの間に感じる溝は無視しておいた。
寮から出ると例の黒い馬車が止まっていた。馬だけじゃなくて馬車そのものが仮想生物で、利用者がいたらそれを感知して出現するんだとか。何だそりゃ。馬車そのものが生物だなんて。模造品ならまだわかる気もするけど。姉ちゃんからこの話を聞いた直後は頭がこんがらがった。黒い馬は久々に見たまともな仮想生物だと思ってたけどそんなことはなかった。仮想生物って何だっけ。
きっとゼノは慣れているんだろう。特に何かを気にする素振りもなく馬車に乗り込む。続いてボクも馬車に乗り、ゼノの向かいに座った。
「どこか行きたいところはある? 散歩する場所じゃなくてもいいよ。例えば図書館とか」
「ボクが決めていいの?」
「うん。せっかくだし、朝日が行きたいところに行きたいな」
うーん、どうしようか。別に行きたいところなんてないんだけどな。図書館には前に行ったし。
そう悩んでいると、ふと口が開いた。
『西の海岸へ』
口が勝手に動いて、ボクの意思とは関係なく言葉が飛び出た。びっくりして固まっていると同じように驚いた顔をしたゼノが口を開いた。
「西の海岸はわたしも行こうと思ってたの。帰りに寄りたいなって」
ゼノはまた笑った。
「同じこと考えてたんだね」
違うとも言えず、ボクは頷いた。どこでも良かったし。馬車は寮を取り囲む森の中に入った。ここを抜けた先が西の海岸だ。一種の転移魔法かな。
「戦争のこと、知ってる?」
行き着くまでの話題にゼノが選んだのは、戦争の話だった。やけに物騒な話題を選んだな。
「標的がこっちに移ったってやつ?」
かなり省略して言ったけど、ゼノには伝わったらしい。
「そう、それ。花園先輩は大丈夫なの?」
カツェランフォートの連中は屋敷に忍び込んだ大陸ファーストの人間を姉ちゃんだと思い込んでいるらしい。そんなことが最近の新聞に載っていた。正解は弟であるボクだから近からず遠からずってとこかな。姉ちゃんが黒と白の魔法が使えることは『白眼の親殺し』の事件直後にもうバレていたからそれで勘違いしたんだろう。無理もない。黒と白の魔法が使える人間なんてそもそも存在すること自体がおかしな話だから、他にそんな人間がいるだなんて考えもしないだろうし。あとは笹木野龍馬ど個人的に親しかったのも大きいかな。
「姉ちゃんなら心配いらないよ。ボクたちは飛び火を心配しなきゃ」
カツェランフォートの連中ごときに姉ちゃんがどうかされるなんて、想像すらできない。
「どうしてそう言い切れるの?」
ゼノがボクを見つめる。ゼノにしては、こちらを探るような目を向けてくる。
ボクが嫌いな目だ。
「どうしてって」
『そう定められているからさ』
ボクが言うと、ゼノは眉間にしわを寄せた。
「朝日、怖いよ。わたしが知ってる朝日じゃないみたい」
ゼノはスカートを握りしめた。ボクを見つめる目が訴える感情は恐怖だ。
「お願い、教えて? 朝日に何があったの?」
「何って別に何もないけど?」
ゼノの呼吸が乱れたのが見えた。馬車の振動音が実際以上に大きく聞こえる。
「その、手袋、どうしたの?」
ゼノが絞り出した言葉を聞いて、声が出なくなった。多分ゼノは緊張している。顔を真っ赤にして、大柄な体が居心地悪そうに小さくなっている。だけど、ゼノ以上に緊張している自信がボクにはある。ゼノはいままでこういうことに首を突っ込んできたことはなかった。ゼノはボクをいままでとは違うって言うけれど、それはゼノだって同じじゃないか。
「わたしがネイブさんに言われたことも教えるから、朝日も教えて欲しい。友達として、朝日の助けになりたいの。わたしじゃ頼りにならないかもしれないけど」
それきりゼノは黙ってしまった。
ボクは考える。ゼノが本心からこう言っているのはわかってる。ゼノのことを信用もしている。腕が黒く染まっているくらいでボクを嫌ったりしないだろうし、それを言えばゼノだって肌は黒い。そう。頭ではわかってる。時には人に助けを求めることが大事なんだってことも。だけど頭と心は別物だ。ゼノの言う通りボクは明らかに前とは違う。嫌われるのが怖い。
思えばボクは誰かに嫌われることに恐れたことはなかった。誰に好かれようが嫌われようがどうでも良かったし、にこにこしていれば勝手に人が寄ってきた。姉ちゃんに関しては家族なんだから嫌われるわけがないと思って安心していた。でもゼノは違う。ゼノは他人だ、ボクを好きで居続ける理由がない。いつ嫌われてもおかしくないし、いまこの瞬間一緒にいることが奇跡に近い。罪に侵され汚れきっているボクと、辛い過去を背負いながら地に足をつけて懸命に生きるゼノ。本来同じ空間にいることがおこがましいんだ。そしてそのことを、ボクの罪を、ゼノは知らない。知らないからこそ、ゼノはいまボクとこうして過ごしているんだ。ゼノが黙り、ボクが黙った。二人きりのときにこんなに重い空気になったのは初めてだ。
ゼノはこういうのが嫌いだ。好きな人なんていないだろうけど、ゼノは人一倍嫌うんだ。こうなることはわかっていたはずだ。なのに言ってくれたんだ。
わかってる。言うべきだ。嫌われたくないからこそ、言うべきなんだ。
「ゼノ」
ボクは意を決してゼノの名前を呼んだ。
「嫌ってくれてもいい。嫌な気持ちにさせてしまったら、森を抜け次第馬車を降りて帰りは歩く。ボクの話を聞いてくれる?」
ゼノの表情が明るくなった。ボクが話し終えたとき、ゼノが浮かべる色は何色だろう。
ボクは息を吸った。頭の中で話すべきことをまとめて、もう一度覚悟をして──
『だめだよぉ、そんなことしちゃ』
一瞬視界が真っ暗になってもう一度目の前の世界に色がさしたとき、そこにゼノはいなかった。赤い血液が滴る黄と灰が混ざったような大地と、その上にかさばる肉塊。人間だけではない、獣人なんかの種族の体もある。どの遺体もぐちゃぐちゃで原型をとどめているものは少ない。命を失った状態で、大陸も種族も超えて、物理的に一つになっている光景がとても美しく思えた。
自分はどうかしてしまったのだろうか。
ふと湧き上がってきた疑問に蓋をして見入っていると、突然空間が歪んだ。その歪みはすぐに止んで、ボクの正面にはさっきまでいなかったはずの人物が立っていた。
炎よりは大地に流れる血液に近い色をした癖のある鮮やかな赤い髪。つり上がっていると言えなくもないという程度の控えめなつり目、それもまた紅玉を彷彿とさせる赤い煌めきを放っている。顔は全体のバランスを見ると十分に整っていて、でも人懐こそうな子どもらしいあどけなさが前面に出た親しみやすい顔だ。体格は小柄で手足は作り物の人形のように細い。格好は道化師のものみたいでそれも真っ赤。こんな人は見たことがない。そもそも赤を持った種族なんていないからいまボクが見ているものは明らかにおかしい。いままで散々おかしいものを見てきたけど、さすがにこれはあり得ないだろう。でも辺りに漂う強烈な腐敗臭はボクにこれは現実だと告げている。
初めて会ったはずだ。なのに初めて会った気がしない。この顔は毎日鏡の向こうに見ている顔だ。
ボクに笑みを向ける彼は、些細な違いはあれど、それでもボクと瓜二つだった。
「わあ、間近で見るとより一層よく似てるってわかるね」
向こうも同じことを思ったようで、まず初めにそう言った。
「はじめまして、オイラはダイヤ。スートって言えばわかるかな? ほら、ジョーカーの同類だよ」
そういえば着ている服がなんとなく似ているような。あまりに色が違うから気付けなかった。色って大事なんだね。
「君のことはよく知ってるよ、花園朝日くん。しばしば観察してあげていたからね。ああ、ごめん、もうこんなふうに上から話しちゃだめなんだっけ。君の場合、オイラたちと同等になったんだから。むしろあの御方に作り替えられた君はもしかしたらオイラよりも上になるのかな。よくわかんないや」
ダイヤの言うことが理解できない。頭の中を疑問符で埋め尽くそうとしていると、ダイヤはふふっと笑った。
「ごめんごめん、置いてけぼりにしちゃったね、ちゃんと説明してあげるから」
ダイヤは両手を広げた。ボクとそっくりな顔で、心底楽しそうな顔をする。
25 >>333
- Re: この馬鹿馬鹿しい世界にも……【※注意書をお読みください】 ( No.333 )
- 日時: 2022/12/10 10:19
- 名前: ぶたの丸焼き ◆ytYskFWcig (ID: CKHygVZC)
25
「あんな奴にキミのことを話す価値なんてないよ、あんな奴ってゼノイダのことね。オイラが止めなかったらあのままペラペラ話したでしょ。だめだめ、罪の吐露なんて、贖罪なんてしなくていい。キミはそのまま神に堕ちなきゃ。
ねー、あの御方のこと知ってる?」
たまに色んな人の口から出てくるあの言葉か。
「知らない。特に興味もないからそんなに気にしたことがない」
「ふーん。でもこれがオイラの役目だから言うね、あの御方はヒメサマの生みの親だよ」
えっ?
予想外の言葉がダイヤの口から出てきた。ヒメサマって姉ちゃんのことだっけ。でもいろんな人(?)は姉ちゃんとヒメサマは別人だって言ってたし。
「困惑してるね。無理もないか、みんなわかりにくい言い方ばっかりするもんね。仕方ないよ、これを告げるのはオイラの役目だから。
初登場が遅れたけど、これも神が望む順序に従ってるだけだから許してね」
ボクと見た目が似ている割に、声はあまり似ていない。ボクは声変わりがまだなので声が高く女性に聞こえることもあるみたいだけど、どちらかと言えば男声だ。対するダイヤの声は中性的に聞こえなくもないがおそらく女性の声だ。低めの女性の声。
「ヒメサマはキミのよく知る花園日向とは全くの別人だ。だってあれはキミと同じ女の腹から出てきた人間だし。でも世界からは同一人物として処理される。その理由は、世界は肉体で存在を認識しているわけじゃないから。花園日向なんていうのは肉体に付属する名称だ。花園日向はなんの変哲もない人間だ。少なくともオイラたちにとってはね」
ダイヤは気づかないうちにボクと距離を詰めていた。視界いっぱいに映るダイヤの笑顔は、鏡の中でも他人の瞳の中でも見たことがない種類のものだった。
「特別なのはその魂だ。支配者であり、ディミルフィアであり、ヒメサマでもある魂。つまり支配者とディミルフィアとヒメサマは同一人物だよ。花園日向は違う。なぜなら花園日向になったヒメサマは支配者としての権限をある程度喪失しているから」
遠くで爆音がした。目をそちらへやるとそこら中で煙が立っている。どうやらここは現実世界の戦争をしているどこからしい。
「正しくは喪失したんじゃなくて分裂したんだけどね、魔力とか権力とかが。
ベルって知ってる? 花園日向の契約精霊のことなんだけど」
当然知ってる。ボクは頷いた。どうしてここでベルの名前が出てくるんだ?
「あれだよ」
「あれ、って?」
「わからない? 気づける場面はあったと思うよ」
ダイヤはくるっと回ってボクに背を向け、ボクから距離をとった。
「バケガクを修復したとき。あのとき一回、二人は同化していたよ。その証拠、と言えるかはわかんないけどヒメサマはキミに左目を見せないようにしていたはずだ」
その言葉に衝撃を受けた。そのときのことなら、よく覚えている。忘れられるわけがない。つい昨日のことのように思い出せる。そういえば姉ちゃんに抱きしめられて、急に姉ちゃんの体が光ってベルが現れたんだっけ。
「そうそう、あれ。あのとき花園日向は一度ヒメサマになって、もう一度花園日向になった。花園日向のままヒメサマの力を使うと体の負担があまりにも大きい。花園日向は自分の体を大事にしていないから、ヒメサマに戻りたがっていない割には簡単にヒメサマとしての力を使う。けどさすがにあのときは戻ったんだよ。花園日向のまま分解魔法と創造魔法を使っていたらあっという間に力に飲み込まれちゃうからさ」
ダイヤはコテンと首を傾げた。
「花園日向の腕が魔法を使ったあと、たまーに黒くなってたりするでしょ? あれってヒメサマとしての力を使ったからなんだよ。あの力を使って花園日向の体が黒に染まりきったとき、花園日向は完全にヒメサマに戻る。だから、あとちょっとなんだけどぉ……」
なにがあとちょっとなのかをぼかしたまま、ダイヤは嬉しそうに言葉を並べた。
「あの御方自らが動いて花園日向をヒメサマに戻すんだってさ。あとちょっと、あともう少しでヒメサマが帰ってくるんだ」
姉ちゃんの腕がたまに黒くなっていたのにはそういう理由があったんだ。
どうしてボクは姉ちゃんのことを疑わなかったんだろう。思い返してみれば、変なことだらけじゃないか。腕を黒くする魔法以外の魔法を使って腕が黒くなるわけないし、白と黒の魔法を同時に扱える存在がいるわけないのに。
「そもそも〈スカルシーダ〉って器なんだよね、神の力の。笹木野龍馬の契約精霊にも会ったことあるでしょ? あいつもそうだよ。ディフェイクセルムおよびフェンリルの力の器。神を人に変えるには器が必要だったんだ。だって考えてもみてよ。神の力を持ったままじゃ、人の体はもたない。種族によって耐えられる力の量、つまり器の大きさは差があるけれど神の力はその比じゃない。一番器の大きい精霊族だって神の力には到底及ばない。天使族に転生するのは、あいつらは神に仕える身だから論外。だから、わざわざ〈スカルシーダ〉という神の器としてしか存在価値がない種族を生み出して転生したんだ」
『おれはネラク、第二の器』
ネラクの名乗りの意味がようやくわかった。てことは、第一の器はベルってことになるのか。
「なんでそこまでして転生したかったんだ?」
そうだよ、そこだ、そこが気になる。どうして神という座を捨ててまで下界で生きることを決めたんだ? 捨てる理由がわからない。だって、神は世界の頂点だぞ? ディミルフィアならなおさらだ、神の頂点だ。捨てようなんて思うかな。そもそも生きる種族を変えようなんて思いつくか?
「それはね」
ダイヤはそんなことまで知っているようだ。ニコニコの笑顔を崩さずに、ボクの問いに答える。
「理由は二つあるんだよね。ヒメサマ自身と、それから種」
一つの理由だけじゃ動けなかったということか、そりゃそうだよね。
「ヒメサマはね、悩んでいたんだ。自分という存在について。一言で言ってしまえば支配者を辞めたがっていた。なんでかわかる?」
わかるわけないだろ、そんなこと。ボクは首を横に振ろうとして、それをダイヤに止められた。
「ちゃんと考えて。考えたらわかるはずだよ」
そう言われてもわからない。ダイヤはちょっと首を傾げてこういった。
「んー、じゃあヒント。支配者には悠久の時間がある」
ボクが黙っているとダイヤは腕を組んだ。
「まだわからないか、ならもう一つ。孤独ってどう思う?」
ヒントと言いながら質問してるじゃないか。そう心の中で突っ込んだが口には出さない。この質問なら答えられるかと思って考えてみる。
孤独、か。
ボクが孤独だと感じたのは、姉ちゃんがいない、花園家の本家で暮らしていた八年間。ボクは透明人間みたいだった。みんなみんなボクという存在じゃなくて、それに付随する魔法の才能とか花園家当主の資格とか、そんなものばっかり見ていた。誰の目にもボクは映っていなかった。別にそれはよかった。わかりきっていたことだし諦めていた。いや、諦めもまた違うな、そもそも興味がなかった。ただ姉ちゃんがいなかった、それがものすごく。
「つらい」
ダイヤはうんうんとうなずく。
「そうらしいね。オイラはよくわかんないけど。
支配者ってさ、孤独だと思う?」
ボクはもう一度悩む。でも支配者のことがいまいちよくわからないから結論に困るな。
「想像しにくいよね。わかりやすく例えてみようか。君に大切な人がいたとしよう。花園日向やゼノイダがそれに当たるのかな。その人たちが死んだらどう思う?」
ボクは即答する。
「悲しいんじゃないかな」
するとダイヤは意外そうな顔をした。
「どうしたの? 今までの君なら花園日向が死ぬって想像するだけでパニックになりそうな気もするけど、なにかあったの?」
そういえばそうだったっけ。なぜと問われた返答をボク自身も持ち合わせていない。まだ起こっていないことを想像するのは難しい。
「本当にそれだけ?」
「どういうこと?」
「気づいていないなら、まあいいや。
そうそう、悲しいね、そうらしいね。でも人って単純で、時間が経てば傷は癒えるんだよ。他に大切な人ができたりしてね。じゃあそれがずっと続くって考えたらどう? 自分以外が年老いて、自分以外が死んでいく。十や二十で収まりきらないそれこそ無限の数。傷は癒えるよ。癒えるけどさ、そのときそのときの悲しみの大きさは変わらないらしいんだよ。その悲しみを、これから何度も何度も何十も何百も繰り返すって思ったら、嫌になるんじゃない?」
ダイヤがなにを言いたいのかなんとなくわかってきた。
「それと似たような感覚だよ。ヒメサマに人を愛する心はないから見知りが死んだとしても悲しんだりはしないけど」
人を愛する心がない? でも、姉ちゃんは笹木野龍馬を愛していたようだった。あれは違うのかな。
「あれはただの人の真似事だね」
ダイヤは言う。
「ヒメサマってね、人を狂わせる才能があるんだ。ヒメサマに関わった魂は、全部全部狂っていく。中にはもちろん例外も含まれるけど。そういう魂をときにはヒメサマが消去することもある。でもヒメサマの狂信者たちはヒメサマに殺されることに至福を感じる。とても幸せそうに死ぬんだよ」
それを気持ち悪いと思う反面気持ちはわかると思う自分もいる。どうせ死ぬなら、姉ちゃんの手にかけられたい。どうしてと尋ねられたらこう答える。人生においてたったひとつの経験を姉ちゃんの手で行ってもらえるなんて、幸せ以上のなにものでもないじゃないか、と。
「ヒメサマはそれを見て不思議に思った。死を恐れる人間が多い中、どうして彼らは幸せそうに死ぬのかと。そして気付いたんだ、なにかを盲信している彼らだからこそ、死を恐れずに死ねるのだと。
ヒメサマは羨ましいと思ったんだ。それからふと愚かしいことを思いついた。溺れるようになにかに尽くすことができたとしたら、自分は救われるんじゃないかって。つまり、死ねるんじゃないかって」
ダイヤはけらけら楽しそうに笑う。
「おかしな話だよね。そんなわけないのに。ヒメサマとその他は根本から違う。ヒメサマはただの道具だからさ、道具に感情があるわけないじゃない。道具に感情が芽生えるわけないじゃない。それをヒメサマは理解してるはずなのにね。ヒメサマを変えたのはあいつだ」
それが誰かはボクにもわかる。
「ディフェイクセルム、リュウだかフェンリルだか知らないけど。
あいつだよ」
知ってる。ボクは頷いた。
26 >>334
- Re: この馬鹿馬鹿しい世界にも……【※注意書をお読みください】 ( No.334 )
- 日時: 2022/08/31 21:16
- 名前: ぶたの丸焼き ◆ytYskFWcig (ID: 8GPKKkoN)
26
「感情を持たないヒメサマが唯一執着ができる者は種だけだった。種はヒメサマにとって特別な存在だった。道具という観点からしてもね。種が現れたということはヒメサマは支配者の権限を与えられたということだ。支配者である以上、種に執着せざるを得ない。ヒメサマはあいつになら溺れることができるんじゃないかって思ったんだ。そして人の真似事を、つまり依存の真似事を始めたんだね。本当は何とも思っちゃいないよ、あいつのことなんて。道具としてしか見てない」
そうか、そうだったんだ。姉ちゃんは笹木野龍馬を愛してなんていなかったんだ。姉ちゃんは誰のものでもなかった。
「それは違う。ヒメサマはオイラたちのものだよ。そして、オイラたちはヒメサマのものだ。オイラたちは元はヒメサマだったんだ。ヒメサマは自らの力そのものを使ってオイラたちを生み出した。オイラたちはヒメサマの一部、ヒメサマそのものだ。元々一つだったんだよ」
ダイヤは言いきった。
「もう一つの理由って?」
ダイヤはおもしろくなさそうに口を尖らせた。
「反応薄いなー。イロナシってば君のことびっくりさせすぎたんじゃない? 慣れちゃったんでしょ」
「まあね」
きっとそういうことなんだろう。行動でも言動でも、あいつには散々驚かされた。それに最近は驚くことばかりだ。
「いいから教えてよ」
「はいはーい」
ダイヤはあからさまなため息を一つ吐いてからボクの質問に答えた。
「もう一つの理由は種にある。ディフェイクセルムである種にね。ディフェイクセルムが他の神に、てか兄弟妹にいじめられてたのは知ってるよね? それでディフェイクセルムはヒメサマの元に逃げてきたんだよ。と言っても初めからヒメサマを頼ったわけじゃなくてかくかくしかじか色々あったみたいだけど」
口頭でかくかくしかじかって言われても伝わらないよ。そこって大事な部分じゃないのか。
「そう怒らないでよ。ややこしいんだよねこの辺は。詳しく話していたら時間かかるし、なによりオイラはあそこまでキミに伝えろって言われてないからさ」
なるほど、結局はダイヤも自分の役割を果たしているだけということか。そういう奴ばっかりだな。ジョーカーも学園長もダイヤも。違ったのは、スペードだ。全員同じスートのはずなのに、スペードだけはなにか違う。理由があるのかな、気になる。
「スペードのことが気に入ったんだね」
ダイヤはくすくす笑った。紅玉の瞳が楽の感情を映し出す。
「なに笑ってるんだ」
「別にー? 続き話すね。
助けを求められたヒメサマはそれに応えた。その時から依存の真似事を始めていたからね、あいつの願いをなんでも叶えてやろうとしたんだ」
願いを叶えるためにした行動が転生だったということか。とんでもない思考回路だな、常人じゃ思いつかないことだ。明らかにおかしい。
「でもそれがいいんだよねー」
ダイヤはうっとりと目を細めた。頬を赤らめたことでダイヤを覆う赤色が増えた。ダイヤも他のスートと同じくヒメサマの狂気の虜になっているのだ。
「おっ、いいねいいね、神化が進んでる。その調子だよ、がんばって!」
ボクはダイヤがなにを言ってるのかわからなくてキョトンとした。いまのどこでボクの神化が進んでいると判断したのだろうか。
「そんなことどうでもいいじゃん。
かなり噛み砕いたけどこんなもんかな。なにか聞きたいこととかある?」
聞きたいこと、うーん、どうしようかな、スペードのことも聞いてみたい。でも、なにを聞こう。
ボクがそうやって悩んでいるとダイヤがボクの手を握って走り出した。
「質問なんてないよねー。ね、遊びに行こうよ! 向こうでフェンリルが暴れてるんだ」
「えっ、ちょっと!」
ボクの話なんて聞く気がないんじゃないか。質問があるかどうか尋ねたのはそっちだろう。ボクはもやもやしたけどダイヤがボクの手を引く力はかなり強くて、転ばないようにダイヤの足に合わせるのが精一杯だった。
荒れて固くなってしまった大地を懸命に蹴る。かなり長い距離を走って、ボクはそれなりに体力がある方だと思っていたけれど息切れがした。走り出したときと全く同じ速度でダイヤが走り続けるからだ。その速度も速いしダイヤが全く疲れた表情をしていないことから、人間離れした運動能力を持っていることがわかる。これで手加減しているんだからなおさらだ。
走っている横で転がる死体はやはり様々な種族が入り混じっている。そして、やっぱりボクはそれを美しいと思うんだ。敵対していた種族が性別も年齢もわからなくなる体になって死を持って一つになる。これが世界が理想とする形なのではないか?
腐敗臭と混じって血の匂いも濃くなってきた。走るにつれて死体の数も増えていく。遠くで、フェンリルの体が見えた。灰色に染まった空の下、もともと空にあった蒼を吸収してしまったかのような澄み渡った青い毛皮。見間違えるはずのない脳裏に焼き付いたあの蒼が、あの怪物が、かつての笹木野龍馬であることを物語っている。
フェンリルの側には空中から現れた鎖がある。鎖は無差別に人を巻き付け、ときには突き、叩き潰す。そうやって人は命なき器に成り果てる。フェンリル自身も手足を真っ赤に染め上げて魂の抜けた肉体を貪る。あの巨体ではなかなか腹は膨れないだろう。腹を満たすために殺してるのかは知らないけど。
「あれ、もう疲れたの?」
息を切らしているボクを見てダイヤが立ち止まった。質問に答えようにも呼吸が邪魔してうまく喋れない。ボクのこの様子を見て判断してくれ。十分体現しているから。
「あの鎖、ずるいよねー。オイラも欲しいや」
いや、まずボクのことにそんなに興味がなかったみたい。フェンリルを見て呟いた。
「あの鎖がどうかしたの?」
呼吸を整えながら尋ねてみる。
「知らない? 笹木野龍馬も使っていた武器だよ。鉄製のものならなんにでも形を変えることができるんだ。剣とか鉄球とか」
そんな武器があるのか。確かに姿を変える武器は、あることはあるけどそれは大抵の場合二通りだ。なんにでもということは有り得ない。まあ、これは神の武器だと言われたら納得できる。驚くに値しない。
「他の神でもなかなか持ってないよ、あれは。いいなあ、いいなあ、触ってみたいなあ。ヒメサマは武器を使わないから珍しい武器に出会える機会ってあんまりないし」
「えっ、でも姉ちゃんは短剣を使ってたよ?」
ボクが言うと、ダイヤはじろっとボクを睨んだ。
「だから、それは花園日向だって。花園日向とヒメサマは違うって言ったでしょ」
肉体が違うだけじゃないのか、使ってるのは同じ人物じゃないのか。
「全然違うよ。性格も違うし持ってる力だって違う。狂気も静かだしさ」
ダイヤはすぐに怒気をおさめた。改めてフェンリルに目を向け、ボクの手を握ってやや興奮したように駆け出す。
「もっと近くで見てみよう!」
「わああっ!」
ダイヤの足に懸命についていく。フェンリルとの距離がぐんぐん縮まっていくのを体感して背筋がゾクッとした。言いようのない不安に襲われる。でも不思議と死の予感はしなかった。
突然のことだった。
フェンリルが消えた。空を覆い尽くすばかりのあの巨体が消え、代わりに目の前に、人型の『なにか』がいた。体格からして男性だ。洋風の貴族らしい、けれど華やかさはあまりない返り血がベッタリついた青と黒の洋服。かなり大柄で、ボクはおろか姉ちゃんの身長も越すのではないだろうか。
顔は見えない。子供が黒のクレヨンで落書きしたようにぐちゃぐちゃに塗りつぶされている。とは言っても顔に直接塗られているわけではなく、落書きは空間にまで及んでいる。それに、ずっとぐにゃぐにゃと変形している。落書きだと思える範囲で、動き続けている。気味が悪い。気持ちが悪い。
男はなにも話さない。
落書きが裂けた。大きな満月が三つ現れ、次第に欠けた。向きのおかしな三日月が、笑っている。位置のバランスからしてそれらは二つの目と口を表すのだろうと分かるが、男の体格から推測されるそれらのパーツからは明らかにズレている。落書きが、笑っている。
「……」
なにかが聞こえた。それがなんなのかはわからない。『なにか』だった。
「……α……πώ」
ボクは後ずさった。命の危険ではないが身の危険を感じる。逃げた方がいい。いや、逃げなければいけない。どこに? どこにも逃げられない気がする。それでもいい。とにかく遠くへ逃げるんだ。なのに足が動かない。
地面に足が縫いつけられたみたいだ。
「χlχlooτοσάςάdτοσρsorsηdοrρτάηalaςlooηρoaσχsςlo……」
落書きが蔦みたいにしゅるしゅる伸びて、男が発した言葉が文字になって空中に現れた。初めは文章のように綺麗に並べられていた文字が、書く余白がなくなったために先にそこに書かれていた文字の上に重なっていく、そしてどんどんどんどん白い部分がなくなって、やがて空は文字の黒で覆い尽くされた。
「τlsσρoοlrάsσrρσoητaoοηάaχτoρςlχsάdalςηςoχlοood……」
それでも男は言葉を出すのをやめない。横に収まりきらなくなった文字は上へ下へ、前へ後ろへ現れる。空だけでなく、空間そのものが文字に支配されつつある。
逃げられずにいたたった数秒でボクの視界は真っ黒になった、真っ黒になった世界の中で三つだけ白く浮かび上がる三日月。瞬きをするたびに三日月がだんだん大きくなる。いや、違う。
ボクに近づいているんだ。
三つの三日月がボクの視界に収まりきらない程に近づいた。三日月を顔のパーツと見たときに口に当たるそれが、まるでボクを食べようとしているかのようにふくらんだ。
27 >>335
- Re: この馬鹿馬鹿しい世界にも……【※注意書をお読みください】 ( No.335 )
- 日時: 2022/09/01 06:56
- 名前: ぶたの丸焼き ◆ytYskFWcig (ID: /JJVWoad)
27
「朝日っ!!!」
遠くでくぐもった女の声がした。と思ったら、いきなり体を突き飛ばされた。動かなかった足が外からの力によって無理矢理動かされ、ボクはその場から逃げることができた。真っ黒だった視界には再び色が差し、恐怖心も幾分か和らいでいる。
「朝日、大丈夫?!」
ボクをあの場から逃がしてくれたのは、この目の前にいるゼノイダ=パルファノエらしい。息は荒く、目は見開かれている。焦りの感情が肌で感じられるほど剥き出しになっていた。
「なんであんなところに!? さっきまでわたしと一緒に、馬車に乗っていたはずなのに、どうして!」
どうしてという言葉に疑問の音はついていない。ならば、質問ではないので答える必要もないだろう。
「ゼノイダ=パルファノエ、ありがとう、大丈夫だよ」
ボクの呼び方に不信感を覚えたゼノイダ=パルファノエは一瞬顔を曇らせたが、すぐにほっとしたように息を吐いた。自分の呼び方よりも、ボクの安否の方が気になるようだ。
「よかっ」
た。そんな些細な音さえ発することは許されなかった。男はもう一度声を上げる。
「mleusamauaammlaalaoxumeasmumsmaelmexoemxelluaaouellslaueaueuaataasaoaosmtomtsaelmxaeseuaulatlaluatammaaxemsumameemesemsslexuaettsmemsetusmlxsmeexauoleao」
再び空間に文字が現れた。しかしそれは空間を覆い尽くすには至らなかった。それを止めた者がいた。真っ黒な文字たちがボクたちの後ろから飛んできた光の玉に吹き飛ばされて散り散りになる。
「haatinhatthaanhaihaatnthhhtnaaanainhntitnaaniaahhannhhtnataatiihntahantanihaiaiaiahiiithanhtnaaahatnainattaaainiaiiitatahinata」
空が黒くなる度に光が黒を溶かしていく。黒と白が溶け合って、空は灰色になっていた。まだ雨は降りそうにない、曇り空。
ボクは後ろを見た。なんとなく光の玉の主には心当たりがあった。あいつか、あいつ、どっちだろう。
その人物は離れた場所にいた。ボクたちがいまいる砂浜は傾斜になっていてその人物は上の方にいる。そういえばボクはいつの間にか西の海岸へ来ていたみたいだ。ダイヤはどこに行ったんだろう。百歩譲ってそれはいいとして、種がなぜここにいるんだ? さっきまでボクがいた場所はここではなかった。断言できる。自信がある。ボクと種が同時に飛ばされたというのか?
「花園先輩」
ゼノイダ=パルファノエが呟いた。希望を込めた声だった。種と対峙して恐怖に染まっていたゼノイダ=パルファノエの目に光が宿った。
「朝日逃げよう、ここにいると危険だよ!」
ゼノイダ=パルファノエはボクの右手を引いた。ボクはゼノイダ=パルファノエの力に逆らって、その場に居続けた。本来ならばここでゼノイダ=パルファノエはボクが動かないことに疑問を覚えて不思議そうにボクを見るところだろう、しかしそうはならなかった。ゼノイダ=パルファノエはボクが動かないことに気づかなかった。ボクの右腕が伸びたからだ。ボクの右肩からズルズルと液状の黒い右腕が伸びていく。違和感なく。
遠くなっていくゼノイダ=パルファノエの背中をぼーっと見ていると、ゼノイダ=パルファノエは振り向いてボクに声をかけた。
「少しでも遠くに行かなくちゃ。朝日大丈夫?」
そう言いながら振り向くと、ゼノイダ=パルファノエは異形と化したボクを見ることになった。ゼノイダ=パルファノエは遠くにいるから声は聞こえなかったけど、ヒッと小さく悲鳴をあげる口の動きが見えた。思わずといった表情で、ゼノイダ=パルファノエはボクの右手を離す。そこで悟った。ゼノイダ=パルファノエはボクを怖がっている、受け入れてはくれないんだろうな。既にボクはゼノイダ=パルファノエのことはどうでもよくなっていた。なので、視線を姉ちゃんにずらす。
姉ちゃんは無詠唱で、しかも魔法を発動する動作もなしに光の玉を投げていた。右手を掲げたり、手のひらを種に向けたりすることもなく。次々に光の玉が姉ちゃんの体の周りに浮き上がり、数秒後、打ち出されて種の文字を溶かす。
「綺麗だなぁ」
無意識のうちにそう言ったあとに自分が言葉を発したことに気づいた。
「ΔουγιηίμραmrseγορrmτΚμaaτsseaηmΔeυsesαrσmssρήesersttίastsαetιseοφαΚροιγσφαίυαήοΔτρμτηαΚαίοφeττetήμsmΔsοσυαaρφήγρΚυομαιοηsίρατηρΔrτιασγαΚeφrρααοΔυσμτtργηeίsssτmaήοιαΚφμΔιtaρορίστυγsηsαήοeeαmτsrαΚΔριμτργτίηοααφυοήσαΚφτροαατσή」
種が文字を生み出す速度が上がった。それに合わせて光の玉が飛んで来る間隔も短くなる。あの光景をボクはぼんやりと眺める。いつまでも見ていられると本気で思った。絵画のようだと思った。
美しい。
心を奪われるとはこのことだ。ボクはこのとき傍観者だった。
「あれ、なんでここにあいつがいるの?」
緊張感のかけらのない、まるで世間話でもしているかのような口調で疑問を示す者がいた。その声はボクの近くで聞こえた。彼女は潮風で乱れた灰がかった桃色の髪を煩わしそうに耳にかけた。感情がほとんど失われた銀灰色の瞳で、種を睨みつける。
「まあいいや、好都合。ワタシ、気づいちゃったんだよね」
スナタはニヤリと笑って口元に歪な弧を描いた。幼い子供が悪巧みを思いついたような笑みだった。
「ねー、なんだと思う?」
スナタはボクに問いかけた。まさか声をかけられるとは思っていなくて、ボクは焦って首を横に振る。
「つまんないなぁ、ちょっとは考えてよ」
口を尖らせてそう言うも、すぐにスナタは模範解答を口にした。
「邪魔なやつは消しちゃえばいいんだよね」
そう言ってスナタが種に近づく。なにも持たずに、その身一つで。光の玉は止んでいた。
「άχάςηάςηοοηάητχςχτηςάχρρσςσάοοτχάοοάτχρστχσηηςηάάροςχοτοσορχορχςςάτσάράχτςτητρηροςσοηητάςησσχςάτορρσχστστςχορτσρροχςσχρσρστηάηης」
すかさず種は言葉を発する。落書きが文字を編んで空間を黒で埋めていく。光の玉の代わりに今度はスナタが文字を吹き飛ばした。ごうっと強い風が吹き荒れて文字は散っていった。これは魔法ではない。スナタは風の使い手であったが、いまの風は風魔法によるものではない。風が吹いたと錯覚しただけで風など吹いていない。スナタは種が生み出した文字に権力という力の塊をぶつけただけだ。スナタはゆっくりゆっくり歩いて、種に近づいていく。
「うわあ、気持ち悪、なにその顔」
スナタはしかめっ面で種の目の前に立った。
「じゃあさよなら」
スナタは右手を種に向けた。
種は抵抗の素振りを見せない。変わらずぶつぶつと言葉を発して、変わらず文字を生み出すだけだ。三日月は、スナタのことは見ていない。
「やめろぉぉおおおおおおおおおおおお!!!!!」
悲鳴に聞こえなくもない怒声が飛んできた。空からだ、空を見上げると隕石が降ってきていた。巨大な岩が炎をまとって降ってくる。合計で三つかな。中でも一番大きな隕石がスナタを狙って落ちてきた。隕石の上に金色の青年が立っている。
「もおおっ! しつこいなああああ!!!」
スナタは左手を動かして両手で隕石をとめた。実際に触れて止めたのではなくこちらも権力を行使した結果だが。
隕石の一つは海に穴を開け、一つは地面を抉りとった。岩石に炎を纏わせた偽物の隕石なので本物の隕石よりは威力は弱い。ちょうど姉ちゃんが立っていた辺りに隕石が落ちる。姉ちゃんは隕石が直撃する前に転移魔法でボクのすぐ側にやってきた。
「こっちにおいで」
姉ちゃんはボクの左手を握って歩き出した。連れられてきたのはゼノイダ=パルファノエのもと。言い表しがたい表情でボクを見るゼノイダ=パルファノエを、ボクは不思議そうに眺めた。
「朝日」
ゼノイダ=パルファノエは明確な恐怖をボクに向けた。やっぱりこうなるのか。ボクはがっかりしたよ、ゼノイダ=パルファノエもみんなと一緒なんだ。傷はつかない。期待なんてしていなかったから。
「これ、なに?」
ゼノイダ=パルファノエは握りしめていたボクの右手だったものを見て言った。手を離していなかったのか。気持ち悪くないの? そんなわけないよね、じゃあどうして?
「ボクの右手だよ」
ボクはきょとんとした顔でゼノイダ=パルファノエに言った。しかしその回答をゼノイダ=パルファノエは気に入らなかったらしく困ったように眉を八の字型に寄せた。
「ねえ、朝日、朝日になにがあったの?! 教えてよ、ねぇ!」
「いいよ」
ボクは笑った。教えるって言ったもんね。約束は守るよ。友達もどきには媚びを売るのがボクの生き方だ。
「えっとねー、まず真白を殺したのはボクだよ。それから精霊も殺したんだ。厳密には殺したんじゃなくて、悪霊にしたんだけど。あとはじいちゃんとばあちゃんを殺したよ」
ゼノイダ=パルファノエは目を見開いて、目の中に水が溜まっていった。それが一粒溢れただけでゼノイダ=パルファノエは両手で顔を覆う。一秒後、ゼノイダ=パルファノエは声を上げて泣いた。
「だからね、ボクは神になるらしいんだ」
姉ちゃんがぎゅっと左手を握った。
「朝日、それは違う」
「違わないよ」
姉ちゃんの否定の言葉を否定した。
「違う。朝日は神にはならない。私がそうさせない。朝日だけは守りたい、だから」
もう遅いよ。
ボクは姉ちゃんににっこりと笑ってみせた。
「神になるのはボクの意思だよ」
姉ちゃんの手を優しく解いて自分の胸に手を当てた。
「ボクは神になりたい。別に力が欲しいわけじゃないよ、そういうのじゃない。なんでだろうね、漠然とそう思うんだ」
「だめ」
「そう言われてもなぁ」
ボクは苦笑した。それでボクは姉ちゃんに抱きつく。
「姉ちゃん」
ボクはもうじき神になる、完全に人間ではなくなる。つまりそれは、花園朝日であるボクが死ぬということだ。ボクがボクであるうちに、ボクが姉ちゃんの弟であるうちに、姉ちゃんにはボクの思いを伝えたい。
「ボク、姉ちゃんのこと」
何度も何度も言ったけど、足りない足りない、ちゃんと言うんだ好きだって。大好きだよ、姉ちゃん。
「大き──」
……いま、ボクはなんて言おうとした? 大好きじゃない。ボクはいま、なにを。
嗚呼、そうだ。ボクは姉ちゃんのことが好きじゃない。好きなふりをしていたんだ。姉ちゃんのことを好きで居続けなきゃ、ボクはボクでなくなる気がした。狂ってしまいそうだった。心の支えがなくなることは怖い。
心の支え、それは姉ちゃんの存在自体を指すのではなく姉ちゃんを好きだというボクの感情だった。それに気づいていながらもボクはそれを意識的に無視していたんだ。
『だってボクは』
『だって俺は』
『好きなんて』
『嫌いなんて』
『……愛なんて』
『「……わからない」』
ボクはもう一度口を開いた。
「だいっっっきらい」
姉ちゃんから体を離す、姉ちゃんは相変わらず光のない虚無を宿す瞳をボクに向けていた。この瞳も白眼も嫌いだ。なにもかもが嫌いだ。
突然その虚無の瞳が感情を宿した。驚愕に目が染まり、姉ちゃんはボクに手を伸ばした。
「朝日っ!!!」
ボクは後ろを見た、姉ちゃんがボクの後ろを見ていたから。背中の方に伸びていたボクの影が地面から離れて立っていた。
影はボクを飲み込んだ。
28 >>336
- Re: この馬鹿馬鹿しい世界にも……【※注意書きをお読みください】 ( No.336 )
- 日時: 2022/08/31 21:09
- 名前: ぶたの丸焼き ◆ytYskFWcig (ID: 8GPKKkoN)
28
「これが、一時的に預かっていた君の記憶の全てだ」
影は言った。ぐにゅぐにゅと形を変えて、笑った顔のように見える。
「君はよく働いてくれた。予想通りだ。褒美として、君が望むものを与えよう」
ぐにゅぐにゅ、影は立体となってこちらへ伸びた。
「君に名前を与えよう」
かげは輝いた。ゆっくりと底から這い上がってくるような声に侵され、ボクは静かに目を閉じた。
「〈ラプラス〉。君に与える力は【万里眼】。過去、現在、未来を見通す眼だ。そしてもう一つ。霊道の〈案内人〉の役を与えよう。霊道の中は自由に動き回ってもらっていい」
ボクは目を開いた。そのときには影もかげも消えていて、女が二人いた。
「ハ、ハハ……」
花園日向の口から、渇いた息がこぼれた。それはいわゆる笑い声であり嘲笑であり自嘲の笑みだろうが、なんとなく、嗚咽にも聞こえた。
「アハハハハハハハハハハハハハッッッ!!!!!!」
花園日向は天を仰いだ。何重にも木霊するその声は彼女のものであり彼女のものではなかった。彼女は既に彼女ではなくなっていた。いや、既に、ではない。たったいまこの瞬間に『戻った』のだ。どうやら彼女の弟の実質的な死が糸を切ってしまったらしい。彼女の目の前には花園朝日であった器があった。二人の女は、それで花園朝日が死んだことを悟ったのだ。器は十秒ほど経ってから消滅した。
ゼノイダ=パルファノエは困惑した。涙で濡らしていた目元を拭い、花園日向だった少女に控えめに問う。
「どうして、笑っているんですか? 悲しくは、ないんですか?」
少女はくるりとゼノイダ=パルファノエを見る。笑ったその顔に空いた二つの穴からは、透明な液体が流れ出ていた。
「悲しい? なにそれ?」
少女は楽しげにくすくすと泣く。わかりやすい悲哀の笑顔を浮かべながら、虚無に染まっていた瞳に光が宿り始めた。
「知らない知らない。そんなの知らない。知れない知りたい知れない私はそんなの知れない。わタシの罪はわタしの罰はどうしてどうしてワタ私のせいで朝日は死んだ死んだのかな気配はするのだけどそれは朝日じゃないわからないわからないどうしてわからないのワタシは全てを知っているはずなのにわからない許されていない」
少女はにっこりと怒りをあらわにした。その矛先は誰に向いているのだろうか。
「抱く必要がない。ワタシのせいで壊れた者は腐るほどいる。抱く権利がない。ワタシは全ての罪が許される。ワタシは全ての罪が許されない。罪を抱くという行為が許されない。贖罪という行為が許されたい。罪悪感も背徳感も、ワタシは知れない知りたい知りたい」
操り人形のようにかくんと体を傾けて、少女はゼノイダ=パルファノエに詰め寄った。
「わかる? わからない? どうでもいい。悲しいも嬉しいも楽しいも怒りも哀れみも、ワタシはなにもわからない。それが許されていない」
誰よりも美しい光をたたえる金髪に、幼い子供のように無垢な青眼。虚無であった両の眼には色が差し、付き従う精霊はもういない。
「苦痛も悩みもなにもかも、ワタシは全てを奪われた。いや、元から持っていなかった。そしていま、奪われた」
頬を伝う渇いた涙はそのままに、少女は叫ぶ。
「この馬鹿馬鹿しい世界にも、救いがあると思っていた! アハハハッ、それこそ馬鹿みたい!! あるわけないあるわけない! この世界は馬鹿馬鹿しい!!! 同じことの繰り返し、同じ過去の繰り返し、同じ未来の繰り返し!! それに従うワタシも馬鹿馬鹿しい!!!! アハハハハハハハハッッ!!!!!!!」
少女は肩で息をした。最後に大きく深呼吸をして。
『こちら』を見た。
「自己紹介をしておきましょうか」
余裕に満ち溢れた笑みを浮かべる彼女。
「初めまして、神々諸君。ワタシは支配者。名を剥奪された種子の一人だ。聞きたいことは山ほどあるだろう。しかしワタシからはそれを告げられない。その役割をワタシは担っていない」
ゼノイダ=パルファノエの『恐怖』の二文字が刻まれた黒い瞳は少女を凝視している。しかしその文字は『驚愕』に変わった。彼女の瞳に映る少女が突然姿を変えたのだ。なにも異形になったわけではない。ただ成長しただけだ。元々高身長であった少女は背丈はあまり変わっていない。ただし体つきが明らかに女性のものに変わった。微かに残っていた少女の面影は完全に消滅し、ガラス細工のように華奢であった体には付くべき場所に肉が付いた。言ってしまえばそれだけの変化で、それらは大きな変化だった。
「おねえちゃん!!」
重たい空気に突如、明るい声が響き渡った。幼い子供が母親を見つけたときに出すような純新無垢な喜びの声。その声の主はスナタ──名無しだった。
「おかえり、おねえちゃん! 戻って来てくれたんだね!」
弾んだ声に満面の笑み。平凡な彼女の見た目の唯一の特徴とも言える銀灰色の瞳からは光が無くなっていた。その瞳の奥に宿るどす黒い独占欲が、スナタもまた、なにか別の存在に変わってしまったことを告げている。しかし彼女には呼ぶべき名はない。肉体に付属するスナタという名しか。
支配者はスナタを見た。
「なにを勘違いしているの? ワタシはお前のものではない」
「うん、わかってるよ。お姉ちゃんは誰のものでもない。むしろワタシがお姉ちゃんのものなんだ!」
スナタはうっとりと目を細める。頬をとろけさせて狂気すら感じる眼差しを彼女に向ける。彼女に陶酔しているようで、彼女に酔いしれている自分自身に酔っているようにも見えた。
スナタは支配者の狂信者だ。スナタは本来この世界が創られる前に種子が滞在していた世界の住人であった。二人は姉妹として生を受け、共に育ち、無限の時間を過ごした。あの世界の住民に『寿命』という概念は存在しなかった。スナタにとって種子は、退屈な悠久の中の唯一の光であった。スナタは生まれついての種子の狂信者だったのだ。
種子は種のいない世界に用はない。世界を一通り見て回ったあと、そこが種がいない世界だとわかるとすぐに創世の準備を整えた。当時の彼女にはまだ自らの宿命を疑う心はなかった。
異世界転生。支配者はそれをひたすらに繰り返して種を探し求めてきた。種子はなんの疑問も抱くことなく無感情に、そして機械的にそのときも異世界転生をしようとした。
しかし。
『ワタシも連れて行って!』
目ざとく種子の行動を付け回し把握していたスナタは彼女にそう言った。姉であった種子以外に親しいものがおらず、他者と友好関係を築くなど頭の片隅にすらその考えがないスナタにとって姉を失うことは実質的な『死』であった。
神は気まぐれだ。そのときの彼女もそうだった。彼女の正体に気づき彼女の行動を予測する者はそのときまでにも何度も何度も存在した。しかしそれに同行したいなどと言い出す者はいなかった。種子はただ『面白い』とだけ思い、たったそれだけの理由でスナタを異世界転生させた。種子である彼女にとっては造作もないことだ。一人であろうが百人であろうが一億人であろうが、彼女が指先一つ動かす数秒で運命はねじ曲げられる。ときによってはねじ切られることもある。スナタもまた、犠牲者であった。
「日向!!!」
スナタが支配者と二人だけの空気を作りあげた気になっていると、ふとそう叫ぶ青年がいた。鬱陶しそうにスナタはそちらに目をやる。
「なによ、蘭。ワタシとおねえちゃんの邪魔をするつもり?」
「邪魔とかじゃない!」
彼は姿の変わったかつての花園日向を見て、絶望の表情を浮かべた。崩れ落ちそうになるひざを懸命に支え、奥歯を強く噛んで言葉を絞り出す。
「遅かったか……」
とにかく悔しそうな顔をする彼。彼もまた、スナタとは違った意味で特殊だった。ディフェイクセルムと同様に、支配者によって神から人間に堕とされた存在。こちらも自らそれを望んだ。彼はかつてのヘリアンダー。ディミルフィアとして転生した支配者の弟だった。そして彼は再び神に堕ちていた。
支配者は唯一無二の存在だ。彼女は彼女の意志に関係なく精神を歪めてしまうほどに心酔する信者を生み出してしまう。スナタもスートも種も花園朝日もそうだった。しかしヘリアンダーは違った。彼は精神を侵されてはいない。彼はただ弟として、姉であるディミルフィアを救いたいと思っていた。それは純粋な家族愛から起こる感情であり、時空の頂点に君臨する支配者への畏敬の念であり、己の宿命に抗おうとして苦しむ女への慈悲でもあった。
「日向! 戻れ! 頼む、頼むから日向に戻ってくれっ!! じゃなきゃ、じゃなきゃ」
必死に訴えるヘリアンダーの声を支配者は確かに受け取った。その上で彼女は彼を鼻で笑う。
「何故?」
とっくに手遅れであることはヘリアンダーも理解している。それでも諦めるという選択肢を無視して彼女に訴え続ける。
「全部が振り出しに戻るからだよ!!! このままじゃ日向は本当に支配者に戻ってしまう! これまでの記憶もなくして帰って来れなくなる! あと少しだから! あと少しだけ耐えてくれ! 頼む!!!!」
支配者の思考の変化は世界にとって、そして時間にとって想定外のことだった。自分の宿命に疑問を抱くなど他の種子はしなかった。無条件に宿命を受けいれるか、もしくは宿命に伴う種子だけの特権に傾倒する。彼女は数えることもできない無限の世界と時間を越えたあるとき、ふとこう思った。『自分はなにをしているんだろう』、と。この異変はバグと呼んでもいいだろう。ひとたび生じたバグは猛烈な勢いで支配者を侵食した。自分がなんのために生きているのか、自分のすることになんの意味があるのか、この宿命を背負うのがどうして自分でなければならなかったのか。彼女はなにもわからなかった。そして、答えを求めてしまった。答えという名の、救いを。そんなものがあるわけないと知りながら、彼女は種と出会った。出会ってしまったとでも言おうか。種は彼女にとっての救いそのものであった。彼女を彼女の宿命から解放する鍵となる彼。
「リュウさえ、戻ってきたら……」
支配者は無情に呟いた。
「リュウって誰だっけ」
29 >>337
- Re: この馬鹿馬鹿しい世界にも……【※注意書きをお読みください】 ( No.337 )
- 日時: 2022/08/31 21:11
- 名前: ぶたの丸焼き ◆ytYskFWcig (ID: 8GPKKkoN)
29
ヘリアンダーは今度こそ膝から崩れ落ちた。
「まさか、もう」
記憶の崩壊が始まっている。支配者は花園日向としての記憶をなくしている。いや、花園日向としてだけではない。支配者でなくなっていたときの記憶の全てが失われつつある。それを知って絶望したのだ。
「まだだ、まだ諦めない」
ヘリアンダーは自分自身に決意を示した。重い足を立たせる。支配者に背を向けて種を見る。種は一度言葉を止めてただそこにいた。ヘリアンダーにとって最後の希望は種だった。種──リュウだけが支配者を救えると信じていた。
「そろそろ諦めた方がいいんじゃない?」
スナタが問いかけ、種に向かって権力をぶつけた。粗雑な力の塊をもろに受け、種の体が吹き飛ぶ。
意地悪く笑うスナタをヘリアンダーは睨んだ。
「本当におれの邪魔をするんだな?」
スナタは一瞬だけ頭に疑問符を浮かべたがそれを顔に出すことはなかった。歪んだ笑みを顔に貼り付けて、ヘリアンダーを嘲る。
「ええ、もちろん。あいつを解放させるわけにはいかないから」
支配者の本当の願いを叶えるためには種が必要であることはスナタも理解していた。しかしそれを許容するわけにはいかなかった。支配者の本当の願いを叶えることになればその未来にスナタはいない。それをわかっていたからだ。
「わかった」
ヘリアンダーの姿が黒く染まった。髪も瞳も服も全て。黒手袋に黒いブーツ。肌以外の全てがさまざまな色を組み合わせ作られた不純な黒に覆われる。両手には巨大な鎌が握られていた。
「じゃあ、まずはお前を倒す」
ヘリアンダーはスナタをも救おうとしていた。それが不可能だと知っていながら、できる限りのことをしようとした。ヘリアンダーがスナタと行動を共にすることが多かったのはそういう理由があったのだ。しかし、あくまでヘリアンダーにとって一番に優先すべきは支配者だ。支配者の救済の邪魔をすると言うのなら、ヘリアンダーは誰にだって刃を向ける覚悟があった。
「物覚えが悪いなぁ。敵わないって言ってるのに。せっかく教えてあげてるのにさ」
支配者は二人のやり取りを退屈そうに見ていた。退屈で退屈で仕方がない。この光景はすでに何度も見てきたものだ。支配者を狂信する者、支配者を憐れむ者。この二つが衝突することは稀ではあるが皆無ではない。初めの数回は彼女も双方の衝突を面白がって見ていたが、数十回にもなるとこの後の展開も見えてくる。支配者はつまらないと判断すると無言でこの場から去っていった。
「あっ、お姉ちゃん!」
スナタは寂しそうに言う。支配者はスナタを無視した。支配者にとってスナタはただのおもちゃだ。不要になれば捨てるだけ。スナタは捨てられたことにまだ気づいていない。
「あとで絶対追いかけるからね!!」
そう叫んでヘリアンダーを見た。負けることがないのはわかっている、さっさと目の前の身の程知らずを潰して、早く姉の元へ行こう、そんな思いが透けて見える。
ヘリアンダーは鎌を構えた。負けることが確定しているこの戦いを彼はまだ諦めていない。なにが彼を立ち上がらせるのか、彼の闘志の燃料はなんなのか。それは誰にも知り得ない。
スナタとヘリアンダーとの間には距離がある。しかしヘリアンダーは鎌を大きく振った。ぶんっと風を切る音がして斬撃が飛んだ。スナタは面倒くさそうに空を掴んだ。そして、そのまま空気を払うような仕草をする。
斬撃の方向が変わった。大きな弧を描いて斬撃はヘリアンダーのもとに戻ってきた。ヘリアンダーはこのままだと自分の体がまっぷたつになることが容易に想像できたので慌てて避けようとした。しかし体が動かない。瞬時に理解した。スナタの仕業だ。そんなことがわかったところで体が動くようになるわけでもなく。
斬撃はヘリアンダーの体に深く食い込んだ。骨が完全に断ち切られることはなかったが、幸いにもとは言い難い。ヘリアンダーの体に流れる血液のほとんどが弾け飛んだ。ヘリアンダーから一瞬意識が遠のいて、二、三歩足が下がる。
「痛いのって辛いよ? 大人しくしたら? 神だから死ぬこともできないだろうし。なんでそんなに頑張るの?」
スナタは全く理解できないとばかりに肩をすくめた。たまにチラチラと支配者が飛んでいった方角を見ていることから、あまりヘリアンダーとの戦闘に集中していないことが分かる。
痛いより熱く、熱いより痛い傷口の感覚に必死に耐えるヘリアンダーはスナタの問いに答える気力など残っていなかった。ヒューヒューとかろうじて息をするだけで立っていることもままならない。気力だけでスナタを睨むことが精一杯だ。スナタは鼻で彼を嗤う。
「お姉ちゃんやそいつを救いたいって言うけど、そうして蘭になんの意味があるの? お姉ちゃんに溺れることもできずに可哀想。そんなに中途半端だからなにもできないんだよ」
スナタの言う通り、ヘリアンダーは中途半端な存在だ。神であるが太刀打ちできない存在は多く、神として人々の願いを叶えようと誓った過去もいまは忘れ、支配者を狂信することもなかった。それがヘリアンダーの強みでもあることをスナタは知らない。
スナタは権力がヘリアンダーの体に加わる範囲を点と呼べるほどに絞る。その一点に凄まじいほどの力を加えた。一瞬の静寂のあと、ヘリアンダーの体に無数の穴が開いた、大きく裂けた腹の肉がさらに切れる。
「はっ……はっ……」
ヘリアンダーは肩で息をした。息を吸うたび吐くたびに傷口が塞がっていく。神が持つ圧倒的な再生能力だ。スナタは鬱陶しいと言いたげに顔をしかめた。
「それやだな」
スナタは不快の念を訴える。ヘリアンダーに再度攻撃を仕掛けようとスナタが両手に力を入れた、そのとき。
「srteldlolnaooa」
種が言葉を具現化させ、その文字を使ってヘリアンダーを縛り上げた。
「ちょ、ちょっと!」
種の力はスナタを凌ぐ。スナタも抵抗の手段はなく、腕ごと胴体を縛られた。
「ああああああもう! じゃまああ!!」
スナタの叫び声が響いた。
スナタは背中にズドンと衝撃が加わるのを感じた。不思議と痛みはなかった。なにかに背中を突かれた感触だけが脳に伝わった。なにが起こっているのかわからない。スナタが自分の背中を見ると、誰かの腕が背中に突き刺さっていた。
「え……」
腕を辿ってその人物の顔を見る。スナタは彼に見覚えがあった。ヘリアンダー同様、邪魔者とみなしていつか消してやろうと思っていた人物だ。
「小説から退場願います」
スペードはスナタに告げた。ゆっくりスナタの背中から腕を引き抜く。手にはぼんやりと光る小さな球体が握られていた。
「あ、やだ……」
その球体はスナタの魂だった。ヘリアンダーがどうしても手に入れられなかったそれをスペードは簡単に手に入れた。
「やだやだやだああ!! 絶対帰らない、絶対にいいい!!!!」
幼い子供が駄々をこねるように、スナタは両足をバタバタと振った。腕は種の文字で固定されているため動かないが、もし種の拘束がなければスナタは暴れ狂っていたことだろう。しかしもしそうなっていたとしてもその抵抗は意味をなさない。スペードは握っていた手を開いて魂を解放した。魂はふわりと浮き上がって飛んでいく。スナタの体ではなく天空へ、そしてスナタが元いた世界へ。
「やだ、助けて」
スナタが体がどんどん薄くなっていく。スナタと対面していたヘリアンダーの視界に、スナタの背後にいるスペードの体が徐々にはっきりと見えてくる。ヘリアンダーはその光景を呆然と見ているしかなかった。スナタは目に涙を浮かべてヘリアンダーに向かって叫ぶ。
「蘭助けて! ワタシ帰りたくない、もっとこの世界にいたいよ、ねえ!」
ヘリアンダーにはスナタをこの世界から消し去る覚悟があった。しかし不覚にも、ヘリアンダーは悲痛な叫びを訴えるスナタに手を伸ばしそうになった。ヘリアンダーも種に拘束されているため手は動かない。
「やだああああああああああああああああああああああぁぁぁぁぁぁぁぁ!!」
スナタの叫び声はだんだん小さくなった。そしてスナタの体は光に包まれ霧散する。
「次は種ですね」
スペードがヘリアンダーを繋いでいる文字の鎖に手をおいた。すると文字は腐って崩れ落ちた。ヘリアンダーは解放された。
「いままでありがとうございました。あともう少しです。頑張りましょう」
スートたちは他の神々と連携を取ることはなかったが、スペードとヘリアンダーは協力関係にあった。と言ってもヘリアンダーはあまり自分が役に立っていないと思っているが。
支配者を救おうとしている存在はとても少ない。スペードにとってヘリアンダーは頼もしい協力者なのだが、ヘリアンダーにはその自覚がない。
「はい、わかりました」
ヘリアンダーは力を切り替えた。死神から太陽神へ。ヘリアンダーの姿が金に包まれていく。
スナタとの戦闘は属性が関係しない、と言うよりも関係できないただの力と力のぶつかり合いだった。しかしそれはスナタが異世界人だからだ。存在価値に圧倒的な差はあれど、ヘリアンダーと種は生まれた世界は同じだ。種の闇の対抗手段である光をヘリアンダーは自らに宿した。金色の大きな翼を背負い、灰色の大空へ駆けて行く。
「頼む、戻ってきてくれ」
ヘリアンダーは必死に願いを世界に訴える。種を見て、叫んだ。
「リュウ!」
30 >>338
- Re: この馬鹿馬鹿しい世界にも……【※注意書きをお読みください】 ( No.338 )
- 日時: 2022/09/28 15:27
- 名前: ぶたの丸焼き ◆ytYskFWcig (ID: HSAwT2Pg)
30
ゼノイダ=パルファノエは放心して自らの左手を見た。そこにあるのは片方だけの白手袋。花園朝日が身につけていたものは服含め全てが消えてしまったが、消えるそのときまでゼノイダ=パルファノエが握っていたこの白手袋だけは、彼女の手に残り続けたのだ。
ゼノイダ=パルファノエは自分の目の前で起こった光景が、そして起こっている光景が信じられなかった。自分はどこか元いた世界とは別の世界へ入り込んでしまったんじゃないか、そんな思いにさえ駆られる。それが普通の感性だ。唯一の友人が異形に成り果て消えてしまい、目の前では、神々の争いが繰り広げられている。
「これ、夢だ」
ゼノイダ=パルファノエは呟く。自分を守るために脳が導き出した設定にすがりつき、それを言葉にして意識に擦りこもうとする。
「そうだよ夢だよそうに決まってる早く目覚めなきゃ。目覚めて、そうだ、わたしは明日、朝日をいつもしている散歩に誘うつもりだったんだ。きっと楽しい一日になるはずだって思いながら寝たんだよ。だから、早く目を、覚ましてよ!!」
白い閃光、黒い爆発。他の色を置き去りにして強大な二つの色が空間を制する。遠くで戦う三人の神から目をそらし瞼を閉じる。それでも一向に目は覚めない。痺れを切らしたゼノイダ=パルファノエは思いっきり頬をつねった。古典的な方法だ。
「痛い!」
ゼノイダ=パルファノエは自分が思っていたよりも強い力で頬をつねってしまったらしい。血のついた右手を見て涙が溢れた。涙の理由は頬の痛みだけではない。
「夢じゃ、ない」
乾いた涙の跡に新しい涙が伝う。
「じゃあ、朝日は本当に死んじゃったの?」
その問いに答える人物はもういない。
「そんな、わたし、これからどうやって生きていけば」
ゼノイダ=パルファノエは孤独だった。少なくとも彼女自身ではそう感じていた。〈呪われた民〉である姉を持つゼノイダ=パルファノエはそれだけの理由でも孤立していたし、そもそもの性格が内気なため他人と関係を築くのがとことん苦手だった。ゼノイダ=パルファノエのバケガクの在籍日数は他の生徒と比べてもかなり長い方だが、その長い学園生活の中でできた友人は花園朝日ただ一人であった。花園日向の弟である花園朝日に興味を持ち、話しかけたのがきっかけだった。いつのまにか親しくなり、友人となり、ゼノイダ=パルファノエにとって花園朝日はかけがえのない存在となっていた。勉強も運動も彼女は苦手で、ただ時間を消費するだけだった学園生活が、花園朝日という存在がいるだけで華やかになった。依存と呼べるほどではないが、ゼノイダ=パルファノエは花園朝日を心のよりどころとしていた。生きる理由といえば大袈裟になるが、それに近しい存在だった。
「朝日、帰ってきて」
嗚咽交じりのその声は、伝えたい相手である花園朝日どころか足元の虫けらにすら届かなかった。しかし届いた者もいた。白と黒だけだったゼノイダ=パルファノエの視界に赤が侵入した。
「花園朝日が欲しい?」
ゼノイダ=パルファノエは目を見開いた。無理もない。突然現れたその人物はゼノイダ=パルファノエがついさっきまで求めていた花園朝日と姿が酷似している。
ダイヤは無邪気な笑顔でゼノイダ=パルファノエに話しかけた。
「ねえ、どうなの?」
しかし、ゼノイダ=パルファノエはダイヤの問いに答えなかった。流れていた涙の量をさらに増やし、かがみ込んでしまった。
「朝日、朝日、もうどこにも行かないで」
ダイヤはげんなりして面倒くさそうな声を出した
「似てるだけでオイラは花園朝日じゃないよ。オイラはダイヤ」
ゼノイダ=パルファノエは屈んだ体勢のままダイヤを見上げた。
「なにびっくりしてるのさ、ちょっと考えたらわかるでしょ。オイラの髪とか瞳とか見てみなよ。それにかなり似てるけどところどころ違うところだってあるよ」
ゼノイダ=パルファノエはダイヤの言葉に納得し、再度絶望した。もう二度と花園朝日に会えないことを再認識させられたような気がしたのだ。だが、ダイヤはそんなゼノイダ=パルファノエの思考を否定した。
「オイラの話聞いてた? 花園朝日が欲しいかどうか聞いてるんだけど?」
「それを聞いて、どうするんですか?」
ダイヤはにやっと笑った。
「オイラなら花園朝日を元に戻す方法を教えてあげられるよ」
ゼノイダ=パルファノエの瞳に光が戻った。直後、疑わしそうな目をダイヤに向ける。
「あなたは誰ですか? 別人だと言うけれど、それにしてもあまりに似すぎている。無関係とは思えない」
ダイヤがスートであることからも判断できるが、ダイヤと花園朝日に血縁関係は全くない。なのに二人の姿形がこんなにもよく似ているのはダイヤがのちの花園日向、つまり当時の支配者に作られたから、そして、その花園日向と花園朝日が姉弟という極めて近い血縁関係にあったからだ。
支配者はいくら転生しようとその姿に大きな違いは生じない。それはその個人の外見の情報が魂に入力されているからだ。魂を元に肉体は構成される。花園日向の魂もディミルフィアの魂も、どちらも同じ支配者の魂だ。
転生するにあたってどの親の元にでも産まれられるわけではない。条件がある。子の外見は親の外見に遺伝する。それが世界の設定だからだ。だから転生者は自分の外見と似た外見の情報が入力された魂を持つ親の元にしか生まれることができない。よって同じ親の元に生まれた花園日向の外見と花園朝日の外見は必然的に似る。そして支配者から作り出されたスートは合計で五十五人いるので、その中で一人ぐらいは花園朝日と外見がよく似た個体が存在するのもおかしくはない。
しかし、そんなことをゼノイダ=パルファノエが知るわけがない。自分の大切な人である花園朝日と他人の空似にしてはあまりに似ているダイヤを奇異の眼差しで見た。
「それってどうしてもいま知らなきゃいけないこと?」
ダイヤはあざとく首を傾げた。ゼノイダ=パルファノエはぐっと言葉に詰まる。
「そんなことより、君はもっと気になることがあるはずだ」
ダイヤはゼノイダ=パルファノエに一歩近づいた。
「花園朝日に会いたくないの?」
ゼノイダ=パルファノエは首を横に振った。
「会いたい」
「花園朝日を救いたい?」
「救いたい!」
「そうこなくっちゃ」
ダイヤは開かれた右手をゼノイダ=パルファノエに差し出した。なにをしているんだろうとゼノイダ=パルファノエがダイヤの右手を見る。ダイヤが右手を握り、そしてもう一度開いたとき、ダイヤの手のひらには包装紙にもくるまれていない、赤い飴玉があった。
「残念ながら花園朝日をいますぐに救い出す方法は無いんだよね。オイラもどこにいるかわかんないし。探したきゃ探したらいいけど絶対見つからないよ」
ゼノイダ=パルファノエはなにも言わずにダイヤの言葉を待つ。
「ただ、時間が経てば結果は変わる。オイラは君に、時を超える能力【タイムトラベル】の力をあげるよ。この力で未来に行って、未来で花園朝日を救えばいい」
急に突拍子のないことを言われてゼノイダ=パルファノエは当然困惑した。
「未来?」
「そう、未来」
ダイヤはにこっと笑った。
「悩まなくていいよ。なにも受け取った瞬間いきなり未来に飛ばされるわけじゃない。行きたい時間、行きたい場所に行きたいと思ったときに君自身の意思で行くことができるから」
ゼノイダ=パルファノエは疑問が浮かんだ。ダイヤの目的はなんだろう。なんのために自分に力を与えようとしているのだろう、と。
「オイラの考えていることが知りたいの? いいよ、教えようか。
まず大前提として、花園朝日がこうなったのってオイラたちが元凶なんだよね」
「え?」
楽しそうにからからと笑うダイヤを見るゼノイダ=パルファノエは唖然とした。
「えっとね。簡単に言うと、花園朝日を殺すことで花園日向を狂わせることが目的だったんだ。それで花園朝日はもう役割を終えたからあとはどうなっても別にいいんだよ」
花園日向の依存対象であった笹木野龍馬がいなくなったことで、花園日向は花園日向であり続けることが困難になっていた。その時点で彼女は支配者に戻りかけていた。そこでスートたちは彼女の背中を押す為に花園朝日を消すことにした、正確には神に仕立て上げることにした。花園朝日の自我を崩壊させ、無理やり神の力を与えた。その行動も実際は操られていたことによるものだったが。スートたちは生まれながらの傀儡だったため、操られていることを知りながら自ら喜んで神の意志に従った。
「で、オイラたちの役割は終わったし、また前みたいにひたすら暇つぶしする生活に戻ろうかなぁって。それで試しに君に力を与えてみようと思ったんだ。人を超越した力を持った君がこれからどんな行いをするのか観察させてもらおうと思ってさ」
ゼノイダ=パルファノエは驚きのあとにふつふつと怒りが湧いてくるのを感じた。人で弄ぶ神を目の当たりにした気がした。いや、気がしたのではない。ダイヤたちスートは本当に欠片ほどの罪悪感もなくヒトで遊んでいる。ヒトを暇つぶしの道具としか見ていない。これが本来の支配者の姿勢であり、その支配者の分身である彼らだから仕方ないといえば仕方ないのだが、遊ばれる側のヒトとしては許容できるものではない。
ゼノイダ=パルファノエはダイヤから視線を外した。ちらっと遠くを見やると三人の神はまだ戦っている。それを見て、ゼノイダ=パルファノエは決意した。
「わたしは……!」
ダイヤの紅玉が楽しそうに揺らいだ。
31 >>339
- Re: この馬鹿馬鹿しい世界にも……【※注意書きをお読みください】 ( No.339 )
- 日時: 2022/08/31 21:15
- 名前: ぶたの丸焼き ◆ytYskFWcig (ID: 8GPKKkoN)
31
ヘリアンダーは弓の形をした炎を落としそうになった。
彼の武器は自らの魔力で生み出した炎の弓。炎そのものが弓の形を持って武器となったものだ。矢も炎で作り出されるため攻撃は無尽蔵に打ち出すことができる。しかしその無数の矢を持ってしても太陽神の力を駆使しても種には傷一つ入れることができなかった。それどころか、ヘリアンダーの体はもう既にボロボロだった。ヒトとは比べ物にならないくらいの再生能力を持った彼でさえも、次々にできていく傷の修復は間に合わず、ダメージだけが蓄積していく。
弓を落としそうになったのはそんなただの疲れだけが原因ではない。ヘリアンダーの横でヘリアンダーと同じように種と戦うスペードの姿を見て、自分が情けなくなったのだ。自分はなにをしているのだろうか、これではただの足手まといではないのかと思ったのだ。スペードは確実に種にダメージを入れている。スペードもスナタと同じように権力だけで戦う戦闘スタイルだ。つまり、素手で魔法も使わずに戦っているのだ。対してヘリアンダーは弓という武器を使い、魔法も使っている。それなのに。
スペードと自分を比較してはいけないことはヘリアンダー自身がよくわかっている。それでもなお思ってしまうのだ。
(おれに、なにができるんだろう)
彼は決して諦めたわけではない。彼の闘志はまだ燃え尽きていない。しかし戦うことがいまである必要を感じないのだ。
(あいつを元に戻すのは一秒でも早い方が望ましい。ただそれはおれがいなくてもできるんじゃないか?)
ヘリアンダーは三本の矢を弓にかけ、種に向かって放った。
「ssroodlladaorodalsrslooolraosalllolrooldoaslododloooor」
しかし、放った矢は種の文字によっていとも簡単に弾かれる。さっきからこれの繰り返しだ。頭が武器をおこうとするのを理性で必死に止めて無理やり腕を動かして矢を放つ。
スペードは純粋な権力の塊を種にぶつけた。スペードの攻撃に抵抗するために種は文字の盾を張るが、スペードの力はその文字ごと種の体を吹き飛ばす。スペードが攻撃するたび、種の体が後退する。
「倒れろ」
スペードが宣言し、これまでよりも強い力を種にぶつけた。すると、種の身体は大きく跳ねた。ぐるぐると獣の唸り声のような音を発して、種は地面に打ち付けられた。
『グゥッ』
三日月がくるんと回転し、それぞれの三日月が不快の感情を示した。目を表す三日月は下に弧を描き、口を表す三日月は上に弧を描く。
「…………」
奇怪な言葉を発したあと、種は落書きの範囲を広げた。青年の体の顔だけに覆い被さっていた落書きはじわりじわりと胴体の部分も蝕んだ。
スペードは種がこの後なにをしようとしているのか予測できなかった。警戒をしながら種を見ていたので、自身の足元がぬかるんでいるのに気づくのが遅くなった。
「なんだ?」
曇り空はまだ泣いていない。なのに地面が濡れているというのは一体どういうことか。しかもここは砂浜だ。それにしてはやけにドロドロしている。一体どういうことだろう。
泥が動いた。ボコボコと泡を立てたかと思えば、丸く膨らみ、地面から離れた。それはスライムによく似た粘性のある液体の塊だった。それを見たスペードは嫌な予感がして種を見た。嫌な予感は当たっていた。種の体を蝕んだ落書きはしゅるしゅると蔦のように伸びる。今度生み出されたのは文字ではなく生物だった。種は生物を生み出した。
それがただの生物であればスペードはここまで困惑はしなかった。種以外はスペードにとってただの雑魚だ。雑魚がどれだけ増えようとそれは零の集合体であり、零がいくつ集まろうと一には成り得ない。問題はそれらがただの生物でないということだ。それらはかろうじて人の形をしているが皮膚の代わりに灰色の液体に覆われており、手足などは今にも崩れてしまいそうなほど不安定だ。
「ゾンビか、厄介だな」
困惑していたのは、スペードだけではなくヘリアンダーも同じだった。出てきた生物は原動力である魂を持っていない。これではいくら倒そうが倒れまい。彼らは不死身の道具だ。
(弱音を吐いている場合じゃない)
ヘリアンダーは弓を握りしめた。種を倒すことはできないがゾンビたちの相手をすることはできる。
(あいつらがスペードの邪魔をしないように注意を引きつける。それくらいなら!)
ヘリアンダーの持つ弓の炎が眩く輝いた。赤い炎が純白の光に変わる。彼の闘志が激しく燃え上がった。
「ヘリアンダー!」
スペードがヘリアンダーの名を呼んだ。ヘリアンダーは目線を下げてスペードを見る。二人は離れた場所でそれぞれ戦っていたので、スペードは一度ヘリアンダーのそばに寄った。ヘリアンダーは翼を広げて宙に浮いているが、スペードはそのままの姿で飛んだ。
「いまから一時的にワタシの力の一部をお貸しします。この力で種の魂を捉え、攻撃を入れてください。一撃で十分です。攻撃が入ることに意味がある」
ヘリアンダーはスペードの言葉に違和感を抱いた。種に攻撃を入れるならスペードの方が適任だと思ったからだ。ヘリアンダーの思考を読んだスペードは首を横に振る。
「貴方以外にはできないことです。人は誰にでも精神に弱い部分があります。魂は精神と直結します。貴方は種の心の弱点を突くのです。ワタシでは届きません。貴方である必要があります」
人の心になにかしらの作用を与えるとき、対象に近しい者が行うとその効果は大きくなる。喜ばせるときも悲しませるときも等しく。種の心に足を踏み入れさせるには支配者が一番の適役であるがそれは叶わない。スペードにとってこの場においてはヘリアンダーは唯一の存在だった。
ヘリアンダーはスペードの力強い声と瞳に晒され、無意識に唾を飲み込んだ。緊張がある。その汗を拭うことすらせずに彼はスペードを見返した。
「わかりました、やりましょう」
スペードは真剣な面持ちのままヘリアンダーの両肩に手を当てた。
二秒後。
痛覚が麻痺しているのかと錯覚するほどの無痛の衝撃がヘリアンダーを襲った。快も不快も伴わない感覚。ヘリアンダーは自分の中にスペードが持つ権力が注ぎ込まれるのを感じた。彼は凄まじい圧力に体が押しつぶされそうになる。
権力とは、権利や権限を行使する力のこと。スペードは支配者の次に強い権力を持っている。今回ヘリアンダーに与えられた(貸し出された)力は、生物一個体の魂の内部を可視化する力だ。ヘリアンダーは種を見た。種に覆い被さる落書きの中央付近に魂が見える。そしてその魂の中に針の先ほどの大きさの黒点が見えた。あれが種の弱点だとヘリアンダーは瞬時に見抜く。
「ワタシがゾンビたちを抑えます。道はワタシが作りますから、貴方はあの種の弱点に攻撃を入れることだけを考えてください」
スペードの提案に抵抗することなくヘリアンダーは、深く頷いた。
スペードは這い寄るゾンビたちを片端から蹴散らした。所詮はゾンビ。厄介なのは不死の身体と再生能力。スペードはヘリアンダーが種に攻撃を入れる時間さえ稼げればいい。スペードがゾンビたちにてこずることはなかった。再生するのなら何度でも叩き潰せばいいだけのこと。せっかく舞台に上がってきたゾンビたちにあまり出番は与えられなかった。
ヘリアンダーは弓の名手としても下界人に知られている。彼が一度標準を定めたならば、軌道を外すことはありえない。先程は種が弾いていただけであり、放たれた矢が空に描く線は塵一つ分ほどの狂いすらなかった。
「ワタシが邪魔なものを全て退けます! 貴方はただ、その矢を放ってください!」
種の抵抗さえなければ、ヘリアンダーにとって種の魂を貫くことはいとも容易いことである。種を上回る力を持つスペードの助けさえあれば、ヘリアンダーガ標的を逃がすことは起こり得ない。
「リュウ、目を覚ませ」
種へ言葉を贈り、ヘリアンダーは力一杯矢を引いた。ギリギリと苦しげな音を告げていた弓の弦が唐突に緩み、それと対照的に矢は猛烈な速度で種の魂で吸い込まれていった。
「日向を救うためだけじゃない。おれは、お前のことも救いたい!」
誰に向けて言うでもなく、ヘリアンダーは言った。強いて言うならば、それは世界に向けて放った言葉であろうか。
落書きの蔦は放たれた三本の矢を絡み取り、ひねり潰そうとした。しかしそれは叶わなかった。種以上の力でスペードが落書きのツタを抑えつけたのだ。
遮るものが存在しない炎の矢は素直に種の魂の弱点に向かっていく。あと数秒で矢が種の魂を貫く。
そう、あと数秒でそうなるはずだった。この後起こることはスペードでさえ想定することができなかった。
矢が種の魂に触れるまであと僅かというところで異変が起こった。
「heeedraεcυnisaχαΣeρaieooluoloelαtlοtrροτxσclίalassdnmsπογχsςeilήtχρeγίτρsοαsaeρsocsώsμσlmnsαρφeSttiaαρτhιaeΣςoπauηoalitαaStelγeρήτuτρραmdmtτusancluaaαγaaΔnixαSlάttitantmίήοώφώmnραnanτυhυauesasiίotιonosαχoaοrφγeeaataφnoπμheteoρcrnmχmnmeσσostφnηassαγsaςαearΚΣαmάmlaρΚoγmetάεmΣΚeηalmeηιadάoσaSπaγηραnarlnalrςυήηεeleαεσρdiσρμhαοaοΔταemxαsηoώnηrnlώσslrsmτoοoτίumτρasrmσΔhτuanxstαscοtάςxseτiaoΣπsaaααoγosαοaoεaaφoolοoosΚσογτεuοesleeααrmniοίμΔormρoeaxnοedηήSχοssaoιaσamaμelΚnoiaαoουnostηlώousSmtταolmΚαsatάΣτloΔγluυeaιηmπstατστlιήγanaeeuηαllaΔμltς」
種は狂った。魂からも落書きが生まれ、文字が生まれた。密集しすぎた文字はもはや文字ではなくただの黒だ。黒が矢を飲み込み、それだけにとどまらず、ヘリアンダーの体に巻きつく。落書きはヘリアンダーを海に叩きつけた。
「ヘリア──」
ガボッと音がして、ヘリアンダーはスペードの言葉も最後まで聞き取ることができなかった。ヘリアンダーの聴覚は水圧に奪われ、視覚は水に奪われた。真冬の海の冷たさだけが触覚から脳に伝わる。濃度の高い塩水がヘリアンダーの口に流れ込んできた。かろうじてヘリアンダーは自分の闘志の存在の証明として弓を手放さなかった。しかしその弓は炎でできているためほとんど形を成していない。ほつれにほつれた一本の毛糸のようだ。あまりにも頼りない、そして情けない。
(やっぱりおれじゃ、誰も助けられないのかな)
ヘリアンダーは初めて弱音らしい弱音を吐いた。スナタとの戦闘のダメージも残ったままで、種と戦っていたヘリアンダーの体は疲れ果てていた。弓を握る手も痺れてきた。
(おれ、十分頑張ったよな)
ヘリアンダーは耐えかねて、弓から手を離し、目を閉じた。
ヘリアンダーの体はどんどん海底へと沈んでいく。しかし不思議なことにヘリアンダーの閉じられた瞼は光を感知した。見えてくるのは過去の光景。ヘリアンダーとディミルフィアとディフェイクセルムが仲睦まじく談笑している。三人が出会って間もない頃──ディフェイクセルムがディミルフィアとヘリアンダーと出会って間もない頃の過去の記憶だ。あのときは良かった。こんなことになるなんて想像もしていなかった。いつから自分は彼らを救うためにこんなにも頑張っているのだろうか。逃げる口実を探すために彼は根本にあった想いを引っ張り出した。
ヘリアンダーはこれまでの自分の行いを馬鹿馬鹿しいとは思わない。諦めたのではない、そうじゃない。ただ。
(……疲れた)
32 >>340
- Re: この馬鹿馬鹿しい世界にも……【※注意書きをお読みください】 ( No.340 )
- 日時: 2022/09/14 20:13
- 名前: ぶたの丸焼き ◆ytYskFWcig (ID: jk2b1pV2)
32
ヘリアンダーは目を見開いた。海水が目に触れることも厭わずに瞼を持ち上げ、遠ざかっていく海面を見た。
(まだ戦える)
なにが彼を戦わせるのか。彼は優しすぎるのだ。それは愛ゆえであった。姉を、そして友を愛する心が彼の原動力であった。
救いたいという感情があまりにも大きい。花園日向もその感情は大きかったが彼には劣るし、なにより彼女と彼の救いたいという感情には明らかに違いがある。花園日向は確かに花園朝日を救いたいと思っていた。しかしそれはあくまで花園日向が花園日向という精神を維持するためだけに抱いていた感情だ。そう、自分のためなのだ。対してヘリアンダーはどうだろう。ヘリアンダーは自分の利益などは考えていない。彼はあまりにも純粋だ。
彼は姉と友、二人を愛していた。家族愛、そして友情。彼女が支配者のとしての宿命に苦しんでいると知ったときから、彼が支配者の元に逃げてきて助けを求めたときから、彼はなんとか二人を救いたいと思っていた。彼は無力な自分を呪ったりした。太陽神の力が通用するのはこの世界だけだ。彼が立ち向かおうとしているのはそれより大きな時空そのもの。彼は限りなくちっぽけな存在だ。
(まだ戦える!)
ヘリアンダーの魂に火が灯った。
スペードは腕を組み、頭を働かせた。ヘリアンダーの弱点が水であることを知っていたから、海の中に落とされたヘリアンダーが復活する可能性は低いと判断した。心も折れてしまったに違いないと思った。あながちそれは間違っていない。
「しかし、惜しい才能が消えてしまいましたね」
スペードはぼやく。スペードがヘリアンダーを必要としていたのは、ヘリアンダーが種と親しい間柄であるからだけではない。ヘリアンダーはスペードがいままで見てきた無数の存在たちの中でもいい意味で異質な存在だった。
支配者は人を狂わせる才能がある。だが彼は狂わなかった。支配者とあれほど近い関係を築いていながら心を壊さず病まず正常で居続けられるのは、彼の才能だ。そして諦めずに戦い続けられる彼の強い精神も評価していた。ヘリアンダーならば支配者を救うまで共に協力し合えると思っていた。それだけにスペードは彼に失望の念すら抱いた。
所有している力だけで言えば、スペードにとって、ヘリアンダーはちっぽけな存在だ。だとしても仲間がいるというだけでスペードの心にもゆとりができた。それが失われた彼は、どうするのだろうか。
どうもしない。
彼はこれまでと同じように孤独に戦い続けるだけだ。スペードは種に向き直り、戦いを再開しようとした。曇り空は太陽を失って暗転していた。
スペードの行動を止めさせるほどの出来事が起きた。大地が裂けるほどの地鳴りが起こった。スペードは宙に浮いていたため影響は少なかった。
種の攻撃か第三者の介入をスペードは考えた。が、この地鳴りを起こしている力の根源が海のほうにあることから力の主をいとも容易く推測する。
その推測は確信に変わった。海の中に巨大な火柱が立つ。爆発の煙すら炎に変わったような火柱。その大きさは彼らがいるこのバケガクの面積にも劣らないだろう。火柱は海を焦がした。
スペードは火柱の中に一人の青年を見た。頭頂部から毛先にかけて金から橙のグラデーションという珍しい髪色。彼が少し気にしているらしい童顔の中に埋め込まれている、炎の灯る橙色の瞳。白の衣服は彼が自ら生み出した炎に焼かれつつある。
不覚にもスペードは、このときヘリアンダーに見とれていた。スペードが見たヘリアンダーの魂はこれまで見てきた魂の中で見たことがないくらい純粋で無垢で、それでいて激しい炎を宿している。スペードは彼以上に美しい魂を持った存在を知らない。支配者の魂が持つ美しさは、ヘリアンダーのものとは少し違う。比較はできないのだ。
スペードは眩しそうに目を細めた。なにも火柱が放つ強烈な光に目をやられたのではない。スペードが眩しく感じたのはヘリアンダー自身だ。スペードはただのヒトであるヘリアンダーが誰かの為にここまで動けることを不思議に思った。
火柱が、海水が蒸発して剥き出しになった地面から消えた。燃え尽きたのか、いやそうではない。地面から離れただけで火柱は存在し続けた。円柱状だった火柱が、体積はそのままに形を球体へと変える。暗闇の中に光源が浮かぶ。
太陽はその存在を空から地上へ移した。太陽光は空間そのものを包み込み、世界の色を金に塗り替えるような勢いで大地を照らした。
ヘリアンダーはちっぽけな存在だ。支配者に種にスナタにスートたち、ヘリアンダー以上の存在は腐るほどいる。しかしそうだとしても、ヘリアンダーを核として誕生した太陽は彼がこの世界における二番目に地位の高い神であることを知らしめるには十分なほどの存在感を放っていた。それにはスペードの心も震えたし、種も自らにとって危険だとわかった。すかさずブツブツと言葉を並べる。
「άχχττηοςρητχάτςάρσσσρορηοηάχςοσς」
文字は具現化して空間を黒く染める。太陽の光も遮る濃密な黒。それを弾く白が横から割り込んだ。スペードが稲妻にも見える白い雨を降らせたのだ。黒い文字はボロボロになって剥がれていく。
ヘリアンダーの金、種の黒、スペードの白が衝突する。この場に下界人がいたならば、死体すら残せず消え失せることだろう。しかし神々の戦争を間近で視界に捉えることができたことによる幸福感で死の絶望を感じないかもしれない。
(これで、最後にしよう)
太陽の中心でヘリアンダーは目を閉じていた。深呼吸をして、熱い熱い空気を肺いっぱいに吸い込む。炎と同化し、自分すら太陽に溶け込んだのだと錯覚する。
ヘリアンダーは目を開き、縦に細くなった瞳孔を世界に主張する。文字に表し難い不思議な言葉を唱えた後に、彼は言った。
「戻ってこい、リュウ!」
「【キセキ・燦爛玲瓏】!!!」
世界は彼に魔法の使用を認めた。太陽からより強い光──火焰光が放たれた。火焔光は一見すると、種を中心とした半径一キロメートルほどの円状に大地を燃やしたように見えるが、その場にいた三人の神は種の魂に攻撃が集中していることを本能的に理解した。
「SnoSnoccoionSoSSncnnionooccinniSonoiincoon」
種の黒い文字は太陽を襲うために伸びていったが、太陽に到達する前にスペードの白い雨に打たれて消滅する。攻撃を遮るものがなくなったヘリアンダーのキセキは正確に種の魂、その弱点を捉え、そして見事に撃ち抜いた。
種は最後のあがきに一言だけ言葉を述べたが、それは白い闇に消えていった。
「Gartais tbii」
─────
リュウは困り果てていた。自分が一秒前なにをしていたのかさえ記憶が曖昧なのだ。頭を回転させてこの場所がバケガク内の西の海岸であることはすぐに理解できたが、今度はなぜここに自分がいるのかわからない。
「やっと、起きたのかよ……」
一番困惑したのはいま声を出した彼の存在。リュウは、彼がよく知り合った人物であることは理解していたがどうして彼が東蘭からヘリアンダーに戻っているのか、どうして傷だらけで服もボロボロなのかわからない。
「返事しろよ」
ヘリアンダーはリュウを睨んだ。リュウは数秒沈黙して慌てて言う。
「うん」
「本当に戻ったのか?」
見た目だけならリュウは元に戻っている。と言っても顔に被さっていた落書きが取れただけだが。人の言葉も話している。それでもヘリアンダーは信じられず、疑いの眼差しをリュウに向ける。リュウは彼に対してなにか疑われるようなことをした覚えはなかったので、さらに困惑した。
「戻ったのかって言われても、自分がいままでどうしたのか記憶がないからなんとも言えないな」
ヘリアンダーは盛大にため息をついた。リュウはなんとなく申し訳ない気がして、小さくなった。
「なんともないのか? 体に異変とか」
リュウは自信を持って首を横に振ることができた。
「そういうのはなにもない。ただ本当に記憶がないだけだ」
ヘリアンダーはそこで初めて笑った。やっとリュウが戻ってきたと感じることができたのだ。
「そうか」
安心故か疲労故か、ヘリアンダーは地面に倒れた。ガンッと強い音がして、ヘリアンダーは地面に後頭部を思い切りぶつけた。
「おい、蘭?!」
リュウはヘリアンダーの元に駆け寄った。
彼は東蘭ではなくヘリアンダーであるが、リュウは蘭という呼び名の方が呼び慣れている。とっさに飛び出てきたのは、ヘリアンダーが人間であったときの名前だった。
「疲れた、寝る」
「はぁ?」
呆れたように言うリュウの声にヘリアンダーは苛立たないわけでもなかったが、同時に安堵する自分もいるのを自覚した。苦笑混じりに微笑んでリュウに告げる。
「日向を救えるのはお前しかいない。あいつにはお前が必要なんだ。
あとは、頼んだ」
ヘリアンダーの体が黒くなった。目を丸くするリュウを見て言葉を続ける。
「しばらくは眠りにつくよ。数世紀くらい眠ってたって世界に支障はない。消えるわけじゃないから、太陽は変わらず空にあるままだしな」
曇り空の隙間から太陽の光が差し込んだ。だが、そんなことはリュウにとってはどうでもよかった。ヘリアンダーの体が地面に沈みかけている。そちらのほうがよほど重大だった。
「蘭、蘭!」
「寝るだけだって。また会えるよ」
ヘリアンダーは目を閉じた。
『お や す み な さ い』
スペードはヘリアンダーが眠りにつくことを知っていた。あれほど力を使ったのだからいくら神であっても休息が必要だ。最後に残された時間を使ってリュウに言いたいことがあることもスペードはわかっていたから、二人の会話を邪魔することはせずにただ見守っていた。そして、ヘリアンダーの体が地面に消えていったのを見て、放心するリュウに話しかけた。
「はじめまして」
支配者は自らの宿命と種としてのリュウの宿命をリュウに知られることを避けていた。だからあえてスペードもリュウの前に出ていったことがなかったのだ。二人は初対面だ。スペードが話しかけるとリュウはびっくりして肩がビクッと跳ねた。
「ワタシはスペード。ヒメサマの、あー……」
スペードは少し考えた、話すと長くなる。いまさら隠すことでもないし、これからのことに必要な情報は全て包み隠さず伝えるつもりだ。だがいまはリュウ自身も困惑していることだし、今は伝えるべきじゃないそう判断し言おうとしていた言葉の内容を変えた。
「ヘリアンダーはあなたのために、そして、花園日向のために戦ってくださいました」
スペードは支配者を花園日向と呼ぶことに抵抗があった。しかし彼女を支配者と呼んでもリュウにはいまいち伝わりづらい。花園日向のためにという言葉にリュウは反応した。
「日向になにかあったんですか?!」
リュウはなんとなくスペードに敬語を使わないといけないという念に駆られて思わず敬語を使った。それに違和感を覚えることは一切なかった。
興味を持っていることだし、支配者のことならばいくら記憶が混同しているとはいえ理解してくれるだろう、スペードはそう考えて支配者に起こったことをリュウに全て話した。宿命の話はスペード自身もややこしいと思っていたので省いて、支配者が種を探し求めていたことや、どういう理由であのように無感情になったのか、そして、リュウのよく知る花園日向の存在は記憶を失ったためにもういないこと、支配者はリュウとしての種の記憶をなくしていること。
リュウは驚愕し、悲しみにくれた。なにも言わないまま彼は海の向こうを見た。なにがあるわけでもない。スペードは彼がなにを見ているのかぼんやりとわかった。
「それでも」
リュウは呟く。
「おれは貴女を、愛してる」
33 >>341
- Re: この馬鹿馬鹿しい世界にも……【※注意書きをお読みください】 ( No.341 )
- 日時: 2022/09/01 18:55
- 名前: ぶたの丸焼き ◆ytYskFWcig (ID: I3friE4Z)
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ぐしゃっ
生々しい音がボクの耳に飛び込んできた。なにが起こったのかすぐには理解できなかった。だけど、視界が真っ赤に染まった直後に真っ黒になったことから、そしてさっきの音からボクの両目が潰されたことを理解した。そしてボクの両目を潰したのが誰なのかもすぐに分かる。残虐な行為の主の声がした。
「こうするしかないんです。すみません」
スペードはボクに謝った。謝るくらいならこんなことしなければいいのに。そう思ったりもするが、影に与えられた力によってスペードの思考はわかるので、責めたりはしない。
「あなたを救うことはできなかった」
スペードが悔しそうにボクに言った。ボクに向けられた言葉ではなく、単にスペードがこの言葉を口にしたときにたまたまボクが目の前にいたというだけだけど。
「せめてあなたを物語から解放します。神々の監視からあなたを解き放ちました。これであなたはこれまでよりは自由になるでしょう」
神々はボクの目を通して情報を得る。すなわちボクが見ているもののほとんどすべてを神が知っているということであり、それは監視に近いものだ。罪滅ぼしのつもりだろうか。目ぐらい潰そうと思えば自分で潰せるから贖罪にはならないと思う。でも、スペードの意思は尊重しよう。この贈り物を有り難く受け取ろう。それが神として求められる対応というものだ。目などなくとも【万里眼】で未来現在過去の全てを見ることができる。
それにしても、両目を失ったということは、ボクの視点で進んでいた物語はもうこれ以上描けないということだ。いくらなんでも、視覚情報がない物語は面白みに欠けるからね。
ちょうどよかった。花園朝日も死んだことだし。
Asahi's storyは、これにて完結だ。
この馬鹿馬鹿しい世界にも……【完】