ダーク・ファンタジー小説
- Re: この馬鹿馬鹿しい世界にも……【※注意書をお読みください】 ( No.314 )
- 日時: 2022/07/27 20:42
- 名前: ぶたの丸焼き ◆ytYskFWcig (ID: /JJVWoad)
6
姉ちゃんの顔が、ぼやけて見えた。
「あれ、おかしいな……」
目をこする。おかしい。姉ちゃんの顔だけじゃなくて周りの景色までぼやけて見える。急に目が悪くなったのか? そんなわけないか。原因が思い当たらない。
『フフフ』
姉ちゃんが笑った。
『安心して、朝日。ヤサシイヤサシイカミサマが与えるバツは、とてもあまいものだカラ』
見間違えだろうか。姉ちゃんの服が変わってる。真っ黒なワンピースだ。丈は長いが露出が多く、いわゆるノースリーブの形のもので肩の部分は紐に近い。冬も終わりかけているとはいえこの季節に不似合いな格好だ。それに、靴も履いていない。裸足。見ているこっちが寒くなる。
『あさひ』
姉ちゃんがゆったりと微笑む。
『…………』
姉ちゃんが世界に向けて発した信号により、地中から触手が呼び出された。またか。ほかの攻撃手段がないのかな? そんなわけないか。だって、姉ちゃんだし。
ボクの右腕が再度生えてきた。それはまるで肩が黒い吐瀉物を吐き出しているようで、軽度の不快感に苛まれた。そんなボクの感情を無視し、ボクの右腕は触手を襲った。しかし、逆に触手に絡め取られ、腕が伸びきった紐のようにピンと張った。
だから余計にボクの体は大きく飛んだ。触手が大袈裟な動作でボクの右腕を振り回す。ボクは空中に巨大な円を描いた。二、三回そうされたあと、触手はボクの右腕を離した。
「わあぁぁぁぁあああああっ!!!」
遠ざかる地面と増えていく情報量にめまいがした。人の体はこんなに飛ぶものなのかと他人事みたいに感心する。大陸ファースト全土とは言えないが、大陸のそれなりに遠くまで見渡せるほど、ボクの体は天に近づいていた。
驚愕した。触手に飲まれかけている花園家とその周辺にも驚いたけど、そうじゃない。
少なくとも視界に映るほとんどが、炎に包まれていた。家も、人も、木も、花も。
それだけじゃない。大陸ファーストを覆う結界が消えている。あの結界は大陸ファーストのどこにいても見えていた。結界の濁った白で遮られていた空の青がいまは残酷なまでにくっきりと見える。
『神は、この地を見放した』
今朝この言葉を聞いたときはいまいち実感が湧かなかった。でもいまは違う。はっきりと理解した。世界の終焉から逃れるための大陸は、いまこの瞬間、完全に崩壊してしまったんだ。
『オマエノセイダ』
違う。これはボクのせいじゃない。
『これはお前の罪だ』
違う。これはボクの罪じゃない。
『コレハバツダ』
違う。違う。絶対に違う。
『貴方の、バつだ』
違う。断じて違う。
だけど。
仮に。仮にだ。もし仮にこれがボクの罪だとしたら、罰なのだとしたら。
「……なんでいまさら、ボクを裁くの?」
ボクは空を見た。空の向こうの天の向こうにいるはずの神を睨みつける。
だってそうじゃないか。罪人なんてボクだけじゃない。自分が非道だって自覚はあるよ。でもボクよりも酷い罪人だってたくさんいる。なんで、どうしてボクなんだ。これがボクの罰なら、なんで──
「迷いがあった」
そう告げたのは、神だった。
「私には罪がわからない」
嫌悪の対象であった神が悲しそうに目を伏せる。
「私に朝日を裁く権利はないと思っていた。いいえ、いまも思ってる。個々の罪の実態も知らずに裁くことは、それ自体が罪なんじゃないかと、そう考えた」
けれど、と、神は言葉を続ける。
「私は裁く者。これは覆ることのない事実。
これは私なりの償い。贖罪であり懺悔でもある」
神は手を組んだ。祈られるはずの神が何に何を祈ると言うのだろう。
「これは『私』の最後の願望。せめて、せめて朝日だけは、救いたいと思った」
神が目を開く。
「既に手遅れなのだとしても」
知らぬ間にボクは姉ちゃんの腕の中にいた。背中や足を支えられている。姉ちゃんは壊れてしまったボクの右腕を愛おしそうに撫でる。相変わらずの無表情だったけど、ボクの目にはそう見えた。
「姉ちゃん」
何故か、そう呼ぶのがとても久々に思えた。自分の口から発せられた音がひどく懐かしく感じ、同時に切なくも感じた。
胸の奥から湧き上がってくるこの感情の名前をボクは知らない。息が苦しい胸が締まるような感覚がするずっと姉ちゃんの腕の中にいたいもっと姉ちゃんの声を聞きたいもっともっともっともっともっともっと。
嗚呼、でも。この感情の名前はわからないけれど。名前をつけるとしたらこれはきっと──愛、なのかな。
「……め、なさっ」
嗚咽混じりの声が自分の口から零れるのを聞いた。
「ごめん、なさい……ッ」
姉ちゃんが着ている制服が少しずつ濡れていく。そんなことは気にしないと言いたげに、姉ちゃんは変わらず優しい眼差しをボクに向けていた。
「姉ちゃん、ごめんなさい……」
何を謝りたいのかははっきりしてない。ただ『申し訳ない』という気持ちに侵されていた。
「うん」
姉ちゃんがそれだけ言った。それだけ言って、その細い指でボクの頬に流れる冷たい水を拭った。
『幸せそうだね』
姉ちゃんの声だ。姉ちゃんの声によく似ている声が聞こえた。けれど違う。高い声と低い声が重なったような硬質な声だ。姉ちゃんの声は女性にしては落ち着いた低めの声で、温かくて冷たくて、冷たくて温かい。
『良かったね、花園日向。束の間の幸せに浸れて』
姉ちゃんの姿をしたリンがふわりと微笑んだ。対する姉ちゃんは眉間にしわを寄せ、不機嫌そうにリンを見る。
「あなたはワタシじゃない」
『そうだね。けれどワタシを語る権利はあるんじゃないかしら。ワタシの中には確実にワタシの魔力が流れている』
ボクを支える姉ちゃんの腕に力が入った。
『その子はいいんだ。わたしのことは助けてくれなかったくせに。その子よりもわたしの方が被害者なのにね』
リンの瞳が一瞬若草色に変わって、すぐに透き通った青眼に戻る。
『ワタシにその子を裁く権利はあるのかな? ふふ、無いよね。貴女こそが罪人なんだから。おかしな話ね。罪人が罪人を裁くなんて。ああ、でも、甘い甘いあなたにはおかしな話が良くお似合いよ』
何か言い返そうとした姉ちゃんが口をつぐむ。それから、何の光も宿らない空虚な目を偽物の姉ちゃんに向けた。
「貴方にこの子は裁かせない」
リンは楽しげに笑う。
『ええ、わかっているわ。わたしはあくまで人形だもの。ただの道具。理解しているわ。ただ』
無邪気は笑みが、にぃっ、という不気味な憫笑にすり変わった。
『あの御方の御考えになることは、ワタシもよくわかっているでしょう?』
姉ちゃんの表情は変わらない。代わりに姉ちゃんの体が強ばるのを至近距離で感じた。
唐突に、雨が降った。見覚えのある雨だった。雨雲なんて見えない空で堂々と輝く太陽に照らされてキラキラと光る光の粒が冷たい温度を伴い、雨となって大地に降り注いだ。
『酷いなぁ』
リンが言う。見ると、リンの体が壊れかけていた。濁った黄色の髪はボロボロと抜け落ちて、肌の色も見る見るうちに崩れていく。それこそ、化けの皮が剥がれるように。
『さんざん利用した挙句こんな仕打ちか』
光の雨に打たれた部分からリンの体は液体化する。光に混ざって黒い雫が地上へ落ちていくのが見えた。
『さすがだね、日向』
その言葉を最後に、リンは消えた。
「朝日、これ、落ちてた」
姉ちゃんが白手袋を差し出した。あ、右手に着けてた手袋だ。やっぱり落としてたんだ。
「ありがとう、姉ちゃん」
左手で受け取ってさっさと着けた。こんな手を周囲に見せるわけにはいかない。また失くしたら大変だ。次からは失くさないようにしないと。その心配はきっと必要ない。
「じゃあ、行こうか」
「することは終わったの?」
「うん。もうここに用はない」
「そっか」
なんだかとても静かだ。地上から遠いからかな。降り続ける雨はボクたちを包んで、ほかの雑音を遮断する。光を纏う姉ちゃんが、いつもよりも遠い人に思えた。
こうしてボクたちは、誰よりも早く大陸を降りた。
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