ダーク・ファンタジー小説

Re: この馬鹿馬鹿しい世界にも……【※注意書きをお読みください】 ( No.337 )
日時: 2022/08/31 21:11
名前: ぶたの丸焼き ◆ytYskFWcig (ID: 8GPKKkoN)

 29

 ヘリアンダーは今度こそ膝から崩れ落ちた。
「まさか、もう」
 記憶の崩壊が始まっている。支配者マストレスは花園日向としての記憶をなくしている。いや、花園日向としてだけではない。支配者マストレスでなくなっていたときの記憶の全てが失われつつある。それを知って絶望したのだ。

「まだだ、まだ諦めない」 

 ヘリアンダーは自分自身に決意を示した。重い足を立たせる。支配者マストレスに背を向けてひとりを見る。ひとりは一度言葉を止めてただそこにいた。ヘリアンダーにとって最後の希望はひとりだった。ひとり──リュウだけが支配者マストレスを救えると信じていた。
「そろそろ諦めた方がいいんじゃない?」
 スナタが問いかけ、ひとりに向かって権力をぶつけた。粗雑な力の塊をもろに受け、ひとりの体が吹き飛ぶ。
 意地悪く笑うスナタをヘリアンダーは睨んだ。
「本当におれの邪魔をするんだな?」
 スナタは一瞬だけ頭に疑問符を浮かべたがそれを顔に出すことはなかった。歪んだ笑みを顔に貼り付けて、ヘリアンダーを嘲る。
「ええ、もちろん。あいつを解放させるわけにはいかないから」
 支配者マストレスの本当の願いを叶えるためにはひとりが必要であることはスナタも理解していた。しかしそれを許容するわけにはいかなかった。支配者マストレスの本当の願いを叶えることになればその未来にスナタはいない。それをわかっていたからだ。
「わかった」

 ヘリアンダーの姿が黒く染まった。髪も瞳も服も全て。黒手袋に黒いブーツ。肌以外の全てがさまざまな色を組み合わせ作られた不純な黒に覆われる。両手には巨大な鎌が握られていた。
「じゃあ、まずはお前を倒す」
 ヘリアンダーはスナタをも救おうとしていた。それが不可能だと知っていながら、できる限りのことをしようとした。ヘリアンダーがスナタと行動を共にすることが多かったのはそういう理由があったのだ。しかし、あくまでヘリアンダーにとって一番に優先すべきは支配者マストレスだ。支配者マストレスの救済の邪魔をすると言うのなら、ヘリアンダーは誰にだって刃を向ける覚悟があった。
「物覚えが悪いなぁ。敵わないって言ってるのに。せっかく教えてあげてるのにさ」

 支配者マストレスは二人のやり取りを退屈そうに見ていた。退屈で退屈で仕方がない。この光景はすでに何度も見てきたものだ。支配者マストレスを狂信する者、支配者マストレスを憐れむ者。この二つが衝突することは稀ではあるが皆無ではない。初めの数回は彼女も双方の衝突を面白がって見ていたが、数十回にもなるとこの後の展開も見えてくる。支配者マストレスはつまらないと判断すると無言でこの場から去っていった。
「あっ、お姉ちゃん!」
 スナタは寂しそうに言う。支配者マストレスはスナタを無視した。支配者マストレスにとってスナタはただのおもちゃだ。不要になれば捨てるだけ。スナタは捨てられたことにまだ気づいていない。
「あとで絶対追いかけるからね!!」
 そう叫んでヘリアンダーを見た。負けることがないのはわかっている、さっさと目の前の身の程知らずを潰して、早く姉の元へ行こう、そんな思いが透けて見える。
 ヘリアンダーは鎌を構えた。負けることが確定しているこの戦いを彼はまだ諦めていない。なにが彼を立ち上がらせるのか、彼の闘志の燃料はなんなのか。それは誰にも知り得ない。
 スナタとヘリアンダーとの間には距離がある。しかしヘリアンダーは鎌を大きく振った。ぶんっと風を切る音がして斬撃が飛んだ。スナタは面倒くさそうに空を掴んだ。そして、そのまま空気を払うような仕草をする。
 斬撃の方向が変わった。大きな弧を描いて斬撃はヘリアンダーのもとに戻ってきた。ヘリアンダーはこのままだと自分の体がまっぷたつになることが容易に想像できたので慌てて避けようとした。しかし体が動かない。瞬時に理解した。スナタの仕業だ。そんなことがわかったところで体が動くようになるわけでもなく。

 斬撃はヘリアンダーの体に深く食い込んだ。骨が完全に断ち切られることはなかったが、幸いにもとは言い難い。ヘリアンダーの体に流れる血液のほとんどが弾け飛んだ。ヘリアンダーから一瞬意識が遠のいて、二、三歩足が下がる。
「痛いのって辛いよ? 大人しくしたら? 神だから死ぬこともできないだろうし。なんでそんなに頑張るの?」
 スナタは全く理解できないとばかりに肩をすくめた。たまにチラチラと支配者マストレスが飛んでいった方角を見ていることから、あまりヘリアンダーとの戦闘に集中していないことが分かる。
 痛いより熱く、熱いより痛い傷口の感覚に必死に耐えるヘリアンダーはスナタの問いに答える気力など残っていなかった。ヒューヒューとかろうじて息をするだけで立っていることもままならない。気力だけでスナタを睨むことが精一杯だ。スナタは鼻で彼を嗤う。
「お姉ちゃんやそいつを救いたいって言うけど、そうして蘭になんの意味があるの? お姉ちゃんに溺れることもできずに可哀想。そんなに中途半端だからなにもできないんだよ」
 スナタの言う通り、ヘリアンダーは中途半端な存在だ。神であるが太刀打ちできない存在は多く、神として人々の願いを叶えようと誓った過去もいまは忘れ、支配者マストレスを狂信することもなかった。それがヘリアンダーの強みでもあることをスナタは知らない。
 スナタは権力がヘリアンダーの体に加わる範囲を点と呼べるほどに絞る。その一点に凄まじいほどの力を加えた。一瞬の静寂のあと、ヘリアンダーの体に無数の穴が開いた、大きく裂けた腹の肉がさらに切れる。
「はっ……はっ……」
 ヘリアンダーは肩で息をした。息を吸うたび吐くたびに傷口が塞がっていく。神が持つ圧倒的な再生能力だ。スナタは鬱陶しいと言いたげに顔をしかめた。

「それやだな」

 スナタは不快の念を訴える。ヘリアンダーに再度攻撃を仕掛けようとスナタが両手に力を入れた、そのとき。
「srteldlolnaooa」
 ひとりが言葉を具現化させ、その文字を使ってヘリアンダーを縛り上げた。
「ちょ、ちょっと!」
 ひとりの力はスナタを凌ぐ。スナタも抵抗の手段はなく、腕ごと胴体を縛られた。
「ああああああもう! じゃまああ!!」
 スナタの叫び声が響いた。

 スナタは背中にズドンと衝撃が加わるのを感じた。不思議と痛みはなかった。なにかに背中を突かれた感触だけが脳に伝わった。なにが起こっているのかわからない。スナタが自分の背中を見ると、誰かの腕が背中に突き刺さっていた。
「え……」
 腕を辿ってその人物の顔を見る。スナタは彼に見覚えがあった。ヘリアンダー同様、邪魔者とみなしていつか消してやろうと思っていた人物だ。

小説ぶたいから退場願います」

 スペードはスナタに告げた。ゆっくりスナタの背中から腕を引き抜く。手にはぼんやりと光る小さな球体が握られていた。
「あ、やだ……」
 その球体はスナタの魂だった。ヘリアンダーがどうしても手に入れられなかったそれをスペードは簡単に手に入れた。
「やだやだやだああ!! 絶対帰らない、絶対にいいい!!!!」
 幼い子供が駄々をこねるように、スナタは両足をバタバタと振った。腕はひとりの文字で固定されているため動かないが、もしひとりの拘束がなければスナタは暴れ狂っていたことだろう。しかしもしそうなっていたとしてもその抵抗は意味をなさない。スペードは握っていた手を開いて魂を解放した。魂はふわりと浮き上がって飛んでいく。スナタの体ではなく天空へ、そしてスナタが元いた世界へ。
「やだ、助けて」
 スナタが体がどんどん薄くなっていく。スナタと対面していたヘリアンダーの視界に、スナタの背後にいるスペードの体が徐々にはっきりと見えてくる。ヘリアンダーはその光景を呆然と見ているしかなかった。スナタは目に涙を浮かべてヘリアンダーに向かって叫ぶ。

「蘭助けて! ワタシ帰りたくない、もっとこの世界にいたいよ、ねえ!」

 ヘリアンダーにはスナタをこの世界から消し去る覚悟があった。しかし不覚にも、ヘリアンダーは悲痛な叫びを訴えるスナタに手を伸ばしそうになった。ヘリアンダーもひとりに拘束されているため手は動かない。

「やだああああああああああああああああああああああぁぁぁぁぁぁぁぁ!!」
 
 スナタの叫び声はだんだん小さくなった。そしてスナタの体は光に包まれ霧散する。
「次はひとりですね」
 スペードがヘリアンダーを繋いでいる文字の鎖に手をおいた。すると文字は腐って崩れ落ちた。ヘリアンダーは解放された。
「いままでありがとうございました。あともう少しです。頑張りましょう」
 スートたちは他の神々と連携を取ることはなかったが、スペードとヘリアンダーは協力関係にあった。と言ってもヘリアンダーはあまり自分が役に立っていないと思っているが。
 支配者マストレスを救おうとしている存在はとても少ない。スペードにとってヘリアンダーは頼もしい協力者なのだが、ヘリアンダーにはその自覚がない。
「はい、わかりました」
 ヘリアンダーは力を切り替えた。死神から太陽神へ。ヘリアンダーの姿が金に包まれていく。
 スナタとの戦闘は属性が関係しない、と言うよりも関係できないただの力と力のぶつかり合いだった。しかしそれはスナタが異世界人だからだ。存在価値に圧倒的な差はあれど、ヘリアンダーとひとりは生まれた世界は同じだ。ひとりの闇の対抗手段である光をヘリアンダーは自らに宿した。金色の大きな翼を背負い、灰色の大空へ駆けて行く。

「頼む、戻ってきてくれ」

 ヘリアンダーは必死に願いを世界に訴える。ひとりを見て、叫んだ。

「リュウ!」

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