ダーク・ファンタジー小説

Re: この馬鹿馬鹿しい世界にも……【※注意書きをお読みください】 ( No.339 )
日時: 2022/08/31 21:15
名前: ぶたの丸焼き ◆ytYskFWcig (ID: 8GPKKkoN)

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 ヘリアンダーは弓の形をした炎を落としそうになった。

 彼の武器は自らの魔力で生み出した炎の弓。炎そのものが弓の形を持って武器となったものだ。矢も炎で作り出されるため攻撃は無尽蔵に打ち出すことができる。しかしその無数の矢を持ってしても太陽神の力を駆使してもひとりには傷一つ入れることができなかった。それどころか、ヘリアンダーの体はもう既にボロボロだった。ヒトとは比べ物にならないくらいの再生能力を持った彼でさえも、次々にできていく傷の修復は間に合わず、ダメージだけが蓄積していく。
 弓を落としそうになったのはそんなただの疲れだけが原因ではない。ヘリアンダーの横でヘリアンダーと同じようにひとりと戦うスペードの姿を見て、自分が情けなくなったのだ。自分はなにをしているのだろうか、これではただの足手まといではないのかと思ったのだ。スペードは確実にひとりにダメージを入れている。スペードもスナタと同じように権力だけで戦う戦闘スタイルだ。つまり、素手で魔法も使わずに戦っているのだ。対してヘリアンダーは弓という武器を使い、魔法も使っている。それなのに。
 スペードと自分を比較してはいけないことはヘリアンダー自身がよくわかっている。それでもなお思ってしまうのだ。
 
(おれに、なにができるんだろう)

 彼は決して諦めたわけではない。彼の闘志はまだ燃え尽きていない。しかし戦うことがいまである必要を感じないのだ。
(あいつを元に戻すのは一秒でも早い方が望ましい。ただそれはおれがいなくてもできるんじゃないか?)
 ヘリアンダーは三本の矢を弓にかけ、ひとりに向かって放った。
「ssroodlladaorodalsrslooolraosalllolrooldoaslododloooor」
 しかし、放った矢はひとりの文字によっていとも簡単に弾かれる。さっきからこれの繰り返しだ。頭が武器をおこうとするのを理性で必死に止めて無理やり腕を動かして矢を放つ。

 スペードは純粋な権力の塊をひとりにぶつけた。スペードの攻撃に抵抗するためにひとりは文字の盾を張るが、スペードの力はその文字ごとひとりの体を吹き飛ばす。スペードが攻撃するたび、ひとりの体が後退する。
「倒れろ」
 スペードが宣言し、これまでよりも強い力をひとりにぶつけた。すると、ひとりの身体は大きく跳ねた。ぐるぐると獣の唸り声のような音を発して、ひとりは地面に打ち付けられた。
『グゥッ』
 三日月がくるんと回転し、それぞれの三日月が不快の感情を示した。目を表す三日月は下に弧を描き、口を表す三日月は上に弧を描く。
「…………」
 奇怪な言葉を発したあと、ひとりは落書きの範囲を広げた。青年の体の顔だけに覆い被さっていた落書きはじわりじわりと胴体の部分も蝕んだ。
 スペードはひとりがこの後なにをしようとしているのか予測できなかった。警戒をしながらひとりを見ていたので、自身の足元がぬかるんでいるのに気づくのが遅くなった。
「なんだ?」
 曇り空はまだ泣いていない。なのに地面が濡れているというのは一体どういうことか。しかもここは砂浜だ。それにしてはやけにドロドロしている。一体どういうことだろう。
 泥が動いた。ボコボコと泡を立てたかと思えば、丸く膨らみ、地面から離れた。それはスライムによく似た粘性のある液体の塊だった。それを見たスペードは嫌な予感がしてひとりを見た。嫌な予感は当たっていた。ひとりの体を蝕んだ落書きはしゅるしゅると蔦のように伸びる。今度生み出されたのは文字ではなく生物だった。ひとりは生物を生み出した。
 それがただの生物であればスペードはここまで困惑はしなかった。ひとり以外はスペードにとってただの雑魚だ。雑魚がどれだけ増えようとそれは零の集合体であり、零がいくつ集まろうと一には成り得ない。問題はそれらがただの生物でないということだ。それらはかろうじて人の形をしているが皮膚の代わりに灰色の液体に覆われており、手足などは今にも崩れてしまいそうなほど不安定だ。
「ゾンビか、厄介だな」

 困惑していたのは、スペードだけではなくヘリアンダーも同じだった。出てきた生物は原動力である魂を持っていない。これではいくら倒そうが倒れまい。彼らは不死身の道具だ。
(弱音を吐いている場合じゃない)
 ヘリアンダーは弓を握りしめた。ひとりを倒すことはできないがゾンビたちの相手をすることはできる。
(あいつらがスペードの邪魔をしないように注意を引きつける。それくらいなら!)
 ヘリアンダーの持つ弓の炎が眩く輝いた。赤い炎が純白の光に変わる。彼の闘志が激しく燃え上がった。
「ヘリアンダー!」
 スペードがヘリアンダーの名を呼んだ。ヘリアンダーは目線を下げてスペードを見る。二人は離れた場所でそれぞれ戦っていたので、スペードは一度ヘリアンダーのそばに寄った。ヘリアンダーは翼を広げて宙に浮いているが、スペードはそのままの姿で飛んだ。
「いまから一時的にワタシの力の一部をお貸しします。この力でひとりの魂を捉え、攻撃を入れてください。一撃で十分です。攻撃が入ることに意味がある」
 ヘリアンダーはスペードの言葉に違和感を抱いた。ひとりに攻撃を入れるならスペードの方が適任だと思ったからだ。ヘリアンダーの思考を読んだスペードは首を横に振る。
「貴方以外にはできないことです。人は誰にでも精神に弱い部分があります。魂は精神と直結します。貴方はひとりの心の弱点を突くのです。ワタシでは届きません。貴方である必要があります」
 人の心になにかしらの作用を与えるとき、対象に近しい者が行うとその効果は大きくなる。喜ばせるときも悲しませるときも等しく。ひとりの心に足を踏み入れさせるには支配者マストレスが一番の適役であるがそれは叶わない。スペードにとってこの場においてはヘリアンダーは唯一の存在だった。
 ヘリアンダーはスペードの力強い声と瞳に晒され、無意識に唾を飲み込んだ。緊張がある。その汗を拭うことすらせずに彼はスペードを見返した。

「わかりました、やりましょう」

 スペードは真剣な面持ちのままヘリアンダーの両肩に手を当てた。
 二秒後。
 痛覚が麻痺しているのかと錯覚するほどの無痛の衝撃がヘリアンダーを襲った。快も不快も伴わない感覚。ヘリアンダーは自分の中にスペードが持つ権力が注ぎ込まれるのを感じた。彼は凄まじい圧力に体が押しつぶされそうになる。
 権力とは、権利や権限を行使する力のこと。スペードは支配者マストレスの次に強い権力を持っている。今回ヘリアンダーに与えられた(貸し出された)力は、生物一個体の魂の内部を可視化する力だ。ヘリアンダーはひとりを見た。ひとりに覆い被さる落書きの中央付近に魂が見える。そしてその魂の中に針の先ほどの大きさの黒点が見えた。あれがひとりの弱点だとヘリアンダーは瞬時に見抜く。
「ワタシがゾンビたちを抑えます。道はワタシが作りますから、貴方はあのひとりの弱点に攻撃を入れることだけを考えてください」
 スペードの提案に抵抗することなくヘリアンダーは、深く頷いた。

 スペードは這い寄るゾンビたちを片端から蹴散らした。所詮はゾンビ。厄介なのは不死の身体と再生能力。スペードはヘリアンダーがひとりに攻撃を入れる時間さえ稼げればいい。スペードがゾンビたちにてこずることはなかった。再生するのなら何度でも叩き潰せばいいだけのこと。せっかく舞台に上がってきたゾンビたちにあまり出番は与えられなかった。
 ヘリアンダーは弓の名手としても下界人に知られている。彼が一度標準を定めたならば、軌道を外すことはありえない。先程はひとりが弾いていただけであり、放たれた矢が空に描く線は塵一つ分ほどの狂いすらなかった。
「ワタシが邪魔なものを全て退けます! 貴方はただ、その矢を放ってください!」
 ひとりの抵抗さえなければ、ヘリアンダーにとってひとりの魂を貫くことはいとも容易いことである。ひとりを上回る力を持つスペードの助けさえあれば、ヘリアンダーガ標的を逃がすことは起こり得ない。

「リュウ、目を覚ませ」

 ひとりへ言葉を贈り、ヘリアンダーは力一杯矢を引いた。ギリギリと苦しげな音を告げていた弓の弦が唐突に緩み、それと対照的に矢は猛烈な速度でひとりの魂で吸い込まれていった。
「日向を救うためだけじゃない。おれは、お前のことも救いたい!」
 誰に向けて言うでもなく、ヘリアンダーは言った。強いて言うならば、それは世界に向けて放った言葉であろうか。
 落書きの蔦は放たれた三本の矢を絡み取り、ひねり潰そうとした。しかしそれは叶わなかった。ひとり以上の力でスペードが落書きのツタを抑えつけたのだ。

 遮るものが存在しない炎の矢は素直にひとりの魂の弱点に向かっていく。あと数秒で矢がひとりの魂を貫く。
 そう、あと数秒でそうなるはずだった。この後起こることはスペードでさえ想定することができなかった。
 矢がひとりの魂に触れるまであと僅かというところで異変が起こった。

「heeedraεcυnisaχαΣeρaieooluoloelαtlοtrροτxσclίalassdnmsπογχsςeilήtχρeγίτρsοαsaeρsocsώsμσlmnsαρφeSttiaαρτhιaeΣςoπauηoalitαaStelγeρήτuτρραmdmtτusancluaaαγaaΔnixαSlάttitantmίήοώφώmnραnanτυhυauesasiίotιonosαχoaοrφγeeaataφnoπμheteoρcrnmχmnmeσσostφnηassαγsaςαearΚΣαmάmlaρΚoγmetάεmΣΚeηalmeηιadάoσaSπaγηραnarlnalrςυήηεeleαεσρdiσρμhαοaοΔταemxαsηoώnηrnlώσslrsmτoοoτίumτρasrmσΔhτuanxstαscοtάςxseτiaoΣπsaaααoγosαοaoεaaφoolοoosΚσογτεuοesleeααrmniοίμΔormρoeaxnοedηήSχοssaoιaσamaμelΚnoiaαoουnostηlώousSmtταolmΚαsatάΣτloΔγluυeaιηmπstατστlιήγanaeeuηαllaΔμltς」

 ひとりは狂った。魂からも落書きが生まれ、文字が生まれた。密集しすぎた文字はもはや文字ではなくただの黒だ。黒が矢を飲み込み、それだけにとどまらず、ヘリアンダーの体に巻きつく。落書きはヘリアンダーを海に叩きつけた。
「ヘリア──」

 ガボッと音がして、ヘリアンダーはスペードの言葉も最後まで聞き取ることができなかった。ヘリアンダーの聴覚は水圧に奪われ、視覚は水に奪われた。真冬の海の冷たさだけが触覚から脳に伝わる。濃度の高い塩水がヘリアンダーの口に流れ込んできた。かろうじてヘリアンダーは自分の闘志の存在の証明として弓を手放さなかった。しかしその弓は炎でできているためほとんど形を成していない。ほつれにほつれた一本の毛糸のようだ。あまりにも頼りない、そして情けない。

(やっぱりおれじゃ、誰も助けられないのかな)

 ヘリアンダーは初めて弱音らしい弱音を吐いた。スナタとの戦闘のダメージも残ったままで、ひとりと戦っていたヘリアンダーの体は疲れ果てていた。弓を握る手も痺れてきた。
(おれ、十分頑張ったよな)
 ヘリアンダーは耐えかねて、弓から手を離し、目を閉じた。
 ヘリアンダーの体はどんどん海底へと沈んでいく。しかし不思議なことにヘリアンダーの閉じられた瞼は光を感知した。見えてくるのは過去の光景。ヘリアンダーとディミルフィアとディフェイクセルムが仲睦まじく談笑している。三人が出会って間もない頃──ディフェイクセルムがディミルフィアとヘリアンダーと出会って間もない頃の過去の記憶だ。あのときは良かった。こんなことになるなんて想像もしていなかった。いつから自分は彼らを救うためにこんなにも頑張っているのだろうか。逃げる口実を探すために彼は根本にあった想いを引っ張り出した。
 ヘリアンダーはこれまでの自分の行いを馬鹿馬鹿しいとは思わない。諦めたのではない、そうじゃない。ただ。
(……疲れた)

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