ダーク・ファンタジー小説

Re: 紅薔薇ソナタ ( No.2 )
日時: 2012/08/11 21:53
名前: 蝶歌 (ID: 4Pm8XsSm)

♯1


「あ、凪斗君! 演奏会に来てくれたのね」

 静空は優しげな微笑を浮かべ、凪斗の方に駆け寄る。
 小動物みたいに走る彼女を見て、こちらも自然と微笑が浮かんだ。

 雨宮静空、16歳。
 この年にして天才ピアニストと呼ばれるだけあって、実力は相当なものだ。
 音楽界で彼女を知らない者はいないであろう。
 ウェーブがかった漆黒の髪に、人形のような瑠璃色の目。
 妖艶だが、まだあどけなさが残る……凪斗はそんな彼女が好きだった。

「有難う……私、一生懸命ピアノ弾くね」
 やや上目遣いで凪斗を見つめるその瞳は、小さな子猫のようだ。
 凪斗は少し目をそらして、照れくさそうに言う。
「うん、頑張れよ。応援してるから」
 その言葉に静空は嬉しそうにうん、と頷く。
 そして、腕時計を見て早口で凪斗に告げた。
「そろそろ私の番だ、じゃあまた後でね」
 凪斗は静空の後ろ姿を見つめ、心の中で“頑張れ”と呟いた。

 いよいよ演奏が始まる。
 選曲は、ヴェートーヴェンのピアノソナタ『月光』第一楽章。
 数々のピアノ曲の中で、静空が一番好きな曲だ。
「凪斗君、見ててね……」
 静空は深呼吸をしてステージに上がった。

 静寂に包まれたホールの中、ゆったりとしたピアノの音色が鳴り響く。
「さすが、静空だな」
 凪斗は優美な演奏に息を飲んだ。
 5歳からピアノを始めた凪斗でも、静空には敵わない。
 天才ピアニストと言われるだけの価値はある。
 滑らかな旋律を奏でるだけではなく、曲にのめり込んでいる。
 凪斗にはとてもできない表現力だ。

 幻想的なピアノソナタが終わり、ホールに大勢の拍手がこだました。

「素晴らしかったよ、静空」
 
 凪斗がそう呟いた後、ステージから静空がこちらを見上げて微笑んだ気がした。