ダーク・ファンタジー小説

Re: 守護神アクセス 外伝 ( No.1 )
日時: 2022/06/01 20:04
名前: 狒牙 ◆nadZQ.XKhM (ID: m3Hl5NzI)

 学問が好きだ。科学が好きだ。分からなかったことを理解すること、もしかしたら、を誰の目から見ても明らかにすること。真実の追求と普遍性の確立、それが科学者に求められているものだ。

 そこに二十世紀以前の科学と、二十一世紀以降の守護神契約を前提としたテクノロジーとの間に差別はない。守護神は確かに、これまでの科学では説明のつかない神秘的、魔法的現象を引き起こす。そのせいかおかげか、従来の科学技術では不可能だと思われていた新たなテクノロジーをこの世に生み出してしまった。

 だから、百年前の科学体系は現代においては全くの無駄であるし、古いテクノロジーは今となってはお役御免。そう考える人も少なくないし、ある側面ではそれも正しいだろう。けれどもそれは大いに間違いだと私は声高く宣言する。まだ大学にも入っていない小娘が偉そうにと思うかもしれないが、私、オリヴィア・ウィリアムズは頑として意見を曲げるつもりはない。

 守護神の存在を前提としたテクノロジーは確かに私たちの理解を超えて、結果だけを残してくれる。ヘファイストスという守護神がいるが、その能力を利用して鋳造した刀は、人の手によって生み出されたどんな刀よりも鋭利な切れ味と、道具とは思えない耐久力を有する。そういったオーパーツのような存在を産み落とすのもまた守護神だが、その守護神の有用な使い道を考案するのは技術屋の手腕である。

 それと同時に、守護神の異能を科学的に分析することも文明の発展に一役買っていた。医療を司る守護神の中には薬を作ることができる個体もいる。錬成した薬液を分子間結合のレベルで解析することで、人間が化学合成できるところまで理解を高める。そうして新規医薬を量産体制まで持ち込んだケースもあるのだ。

 守護神の超能力を科学する。これ以上に今魅力的な学問はない。もちろん文学や歴史にも面白さはある、意味もある。だが、まだ研究が始まってから数十年程度しか経っていない上に、未知の世界がどこまでも遠く広がっている。

 勉学に打ち込む人間の中には、二通りの人間が存在する。一つは既存の知識を学び、それらの利用方法を考案する者。そしてもう一つは、未開の荒野を切り開き、白紙の地図に新たな道しるべを刻む者。私、オリヴィアという人間の適性は、後者にあると信じている。

 そう、守護神はそうやって文明を発展させるのに大きなブースターとなっている。以前までは宇宙に飛び立つのも大仕事だった世界だというのに、ここ二十年ほどでそのハードルは下がった。宇宙飛行士には強靭な肉体が求められるのはもう、過去の話だ。守護神アクセスには副次効果として身体能力の異常活性がある。守護神アクセスを行っている間は、誰もがスーパーマンになれる、とまで言うと少し大げさすぎるだろうか。

 そんな子供から大人まで、あらゆる人々の夢の塊。守護神にそのようなイメージを持つ人は多い。だが、夢の裏側に挫折があるように、薬と毒が表裏一体なように、華やかな実績だけがあるとは限らない。

 守護神にはまた別の側面がある。人の文化の発展の裏にある、切っても切り離せない人間のどす黒い一面。戦争の道具、犯罪の道具として利用する。ごくごく一部の限られた守護神の異能によれば、大山鳴動も不可能ではない。

 だから統治者の側も力を磨いてきた。守護神犯罪には守護神による治安維持組織を以て迎撃する。日本では警察の内部組織にそのまま異能犯罪に特化した部隊を配備しているらしい。守護神アクセスを利用した圧倒的な戦闘能力を治安維持に利用することにおいて、日本は先進国だった。何せ彼らは専守防衛、自分たちからは戦争を仕掛けられない。だから、守るための力として政府は注力させることができる。必要以上に情報漏洩を恐れる必要も無いのだ。

 イギリスでは守護神を戦闘に利用する部隊は警察ではなく軍隊に統合されている。軍隊の中で、戦争の際に控えている部隊と、治安維持のために各地方の警察と連携する組織とが分かれているのだ。この内、治安維持に働く部隊の方は国家を守る王家の剣に見立て、セクエントと名付けられた。

 当然、危ない仕事も多い。万が一が起こり得る未来に、私は深い深いため息を吐き出した。まさか身内から一人、そして初等部入学以前からの付き合いの友人からも一人入隊することになろうとは。しかし、私の心配事など気にもかけない様子で、三年前にセクエントスクールに入学、そしてこの九月から正式入隊が決まった兄は、呑気そうに欠伸を漏らした。

 セクエント入隊を機に、兄は一人暮らしを始める。そのため引っ越しの準備を進めているところなのだが、その準備が中々終わりそうにない。こんな調子で、自分一人だけでやっていけるのかと私生活さえ不安になってくる。でも、そんなのは些細な事だった。危険な任務に就き、死んでしまうような未来さえ来なければ多少の不摂生など可愛いものだ。


「ジョージ、そろそろアーチーが来るよ。しゃきっとしてってば」

「もうそんな時間か、ごめんごめん」


 約束の十五時が迫っていたため、兄の重い腰をあげさせるために私は荒っぽく声を上げた。イタリア人ぶってシェスタにしゃれこんでいたのんびり者のジョージもようやく起き上がった。開き切らない両目がまだ眠いと訴えていたが、流石に約束を破る訳にはいかなかったのだろう。睡魔を振り払うように、兄は大きく一つ伸びをした。

 アーチーというのは私の幼いころからの友人で、九月からセクエントスクールに入学することが決まっていた。そう、私の知人の中にいるもう一人のセクエント入隊希望者だ。セクエントスクールではどのような生活を過ごすのかを知るために、ジョージに改めて相談、質問をしたいとのことだった。

 先輩面したかったところもあるのだろう、私経由でそのオファーを受けたジョージは二つ返事で承諾した。その後アーチーの入学準備や兄の転居準備の都合で、丁度いい日がこの日しかなかったのだ。

 そのタイミングでインターフォンが鳴った。私たち二人しかいない、がらんとした家の中に電子音が寂しげに響く。今日は平日なのでお父さんもお母さんも仕事に出ている。私たちは今、それぞれグラマースクールとセクエントスクール卒業後、新たな環境へ足を踏み入れる手前の休暇を堪能しているだけだ。

 このタイミングで訪れるのはアーチーしかいないだろう。そう思ったのだが、どうやら違ったらしい。玄関のカメラには見たことのない人物が映っていた。この辺りに住む人ではないようだが、一体何の要件なのだろうか。私は首を傾げた。

 見るからに幼さの残る顔立ちだ。私よりも一つ二つ年下の少年といったところだろうか。アーモンド形のつり目が、どこか猫のような印象を与えてくる。くせ毛気味に無造作に遊んでいるグレーの髪は、それでいながらロシアンブルーのように美しい毛色をしていた。

 カメラの存在は見えているからか、気まぐれそうに彼はこちらへ手を振った。何が楽しいのか分からないけれど、抑えきれない感情がこぼれたような笑顔も見せている。


「知り合いか? 学校の後輩とか」
「ううん、全然知らない子」


 私の方が歳が近いからだろう、ジョージは私の知人かと勘繰ったようだ。だがそうではない。ジョージにも心当たりはないらしく、未知の来訪者に私たちは戸惑う。どこか別の家と間違えたのだろうか。


「俺が出るよ、ちょっと待ってろ」


 そう言ってインターフォンの呼び出しに出ることもなく、直接兄は玄関へと向かった。そのままカメラを切ってしまってもよかったのだけど、何となくその猫のような少年から目を離すことができなかった。虫の知らせというのに近いだろうか、少年から漂う危なっかしい魅力のようなものに、一抹の胸騒ぎを覚えていた。

 カメラには映らないが、兄は玄関先の正面と向き合ったらしい。ジョージの朗らかな声がした。詳細をカメラのマイクはあまり拾ってくれはしないが、ジョージらしい明るい声での歓談が聞こえてくる。

 彼が誰なのかは全く分からないが、きっと私の胸騒ぎも気のせいだ。良かった、そう思ったその時だった。ゴトリ。重たい鉄の球が地面に打ち付けられ、少し転がる鈍い音がした。その瞬間、兄の声色が大きく変わる。

 普段の生活では決して聞くことのできない、どすの利いた激昂の色。滅多に出ない兄の怒号が、玄関の方から響いた。


「お前……っ。どういうつもりだ! 悪戯にしてもしゃれにならんぞ!」


 何が起きたのかは分からない。だが、あの鈍く重たい音が響くと同時に兄の纏う雰囲気が一変した。

 普段は温厚そのものだが、兄は大柄で筋肉質な男だ。たまに熊のような男とからかわれるものである。だが、だからこそ怒りを露わにした兄は非常に恐ろしいものだ。私に言い寄り、ふられた末にストーカーとなった男がその声の圧だけで心が折れたこともある。

 しかし、華奢で小柄な少年は、どうしてだか怯えないどころか、表情一つ変えるそぶりも無かった。先ほどと変わらず、楽しそうに口角を吊り上げたまま、とある機械を取り出した。長方形の形をした、薄っぺらい黒い板。手のひらサイズのそれを、見せつけるように兄に見せている。

 スマートフォン、のように見える。だが、ふと、ある可能性が脳裏をよぎった。あれは、きっと。


「お前それ、ILPか?」


 同じ可能性に至ったジョージが、私の代わりに彼に尋ねた。ILP、つまりはイリーガル フォン。あれはPhoneだとあたりを付けた私の思考は間違っていなかった。

 言葉では肯定しなかった。頷くこともしなかった。だが、カメラの向こう側で少年の気まぐれな笑顔が歪んだ。悲しそうに歪んだのではない。むしろその逆だ。期待に満ちた楽し気な笑顔が、悪戯に成功して打ち震える狂気に満ちた邪気のある笑みに変わった。

 この瞬間に、私たちの疑念は確信に変わった。

 守護神アクセスを行う媒介として、必要不可欠なデバイスがある。旧時代の携帯電話型、あるいは現代でも用いられることのあるスマートフォン型のデバイスで、守護神と、契約者である人間の間にバイパスを繋ぐ役割を務める。

 その形状から、守護神アクセス専用のデバイスはPhone(フォン)と呼ばれている。正式名称もあるが、長すぎて省略形でしか呼ばれなくなった。そして名前の通り、ILPというのは違法な手段で手に入れた不正デバイスのことだ。


「No. 1013。名はキャスパー」


 瞬間、単なる警戒だった場の空気がさらに変化する。緊張のレベルは最高潮へ、張り詰めてしまった糸が切れてしまいそうなほど、ギリギリの状態だった。

 己が契約している守護神の位階と、その名前を呼ぶこと。それは現行の最新技術において、Phoneを使って守護神アクセスを行う際に必須の準備だ。つまりはこの状況において、紛れもない宣戦布告の合図だった。

 机の上、置きっぱなしになっている兄のPhoneを手にし、私は玄関への廊下に踏み込む。喉が擦り切れそうになるのも厭わず、悲鳴のような声で兄の名を呼んだ。


「ジョージ!」

「来るなオリヴィアッ!」

「いいからこれ、受け取って!」


 私の声を耳にし、とっさに振り返った兄に彼の所有物であるPhoneを投げた。彼の持つそれは、セクエントとして入隊するために授かった正式なものだ。それが必要だというのは瞬時に理解してくれたのだろう。投げかけられたその機体を手に収めた彼は、ありがとうと言う代わりに小さく頷いた。

 電話番号を入力するのと同じフォーマットに則り、ジョージも己の守護神の位階を入力した。

 その間にも、少年の臨戦態勢は整っていく。負けじと出来得る限りの速度で、兄も己の守護神を呼ぼうとしている。だが、一拍早く少年の準備が完了した。


「守護神アクセス」


 銀色に煌めくオーラが堰を切った洪水のように押し寄せる。まるで雪崩のような奔流と化して、家の中全てを埋め尽くした。

Re: 守護神アクセス ロンドン外伝 ( No.2 )
日時: 2022/06/02 20:44
名前: 狒牙 ◆nadZQ.XKhM (ID: m3Hl5NzI)

 溢れ出した光が晴れる。その向こう側に現れた少年は、今しがた走り抜けた白銀のオーラを身に纏っていた。白く瞬くようなオーラ、その穢れ無き光は聖なる力を持っている印象があってもいいと思う。けれど、そんな暖かな感触はその光からは感じられなかった。

 真っ白というよりもまっさら。誰かが丁寧に書き上げた風景画の上から、白い絵の具をぶちまけたような乱暴さがあった。面白そうだから、台無しにしちゃおう。そんないたずら小僧のような眼光がじろりと標的を見定めている。


「ジョージ! 平気?」


 今のは先制攻撃ですらない、ただの守護神アクセス完了のサインだ。あふれ出た力の余波が、突風のように周囲を吹き荒れた。それだけの敵意も殺意も感じない、単なる現象だ。痛くも無ければ、寒くも熱くもない。

 そうと分かっていても不安になる。先ほどの邪気に満ちた歪んだ笑顔が、瞼の裏に貼りついて忘れられなかった。瞬きと同時に、兄が神隠しのように消えてしまうのではないか。そんな不安にかられる。

 服のはためく音が途絶え、倒れた花瓶が砕け散る中。「問題ない」と小さくジョージは応えた。無事な兄の様子に、ほっと胸を撫でおろす。だが、安心も油断も絶対にできない。守護神アクセスした彼が、次に何をしかけてくるか分かったものではないのだ。

 兄の準備も整ったようだ。脈々と波打つ異世界から迫る力の胎動。Phoneをトンネルとし、次元を隔てた世界から人間界と繋がる。世界のずっと遠く、あの空の向こう側。兄の契約した守護神が、小さな機械を通じて力を与えてくれる。


「No. 1207。名をカイウス」


 電話で言う発信のタブを画面上でタップする。本来電話ならば通話相手につながるが、Phoneであれば己の守護神との間に力をやり取りするバイパスが開かれる。そして開いたチャンネルから守護神の力の源であるオーラ、そして異能を行使する権利が送られる。

 体から迸るオーラが全身を包み込み光り輝いている時、守護神アクセスは成功している。吹き荒れる嵐のように力を吐き出した少年とは違い、全身にオーラを巡らせたジョージからは、身を覆う鎧のようなオーラが全身から浮かび上がる。

 これで互いに、戦闘準備は万端となった。兄の守護神の名前を耳にした少年は、またしても嬉しそうな笑みを見せた。表情がころころと変わっているようで、その実笑顔しか見せていない。今回の笑顔はまたこれまでと毛色が違った。邪気があるどころかむしろ正反対、無邪気なほほえみを浮かべていた。


「守護神アクセス」

「ケイ卿! あの人から聞いてた通り。円卓をこの目にできるだなんて……夢みたいだ!」


 兄の守護神の位階を耳にしても、彼は驚きもしなかった。人の世での正式名称をアクセスナンバーと呼ぶその数字は、守護神のパワーバランスの序列を示している。

 一つ、数字が小さい方がより強力な守護神であることを示す。二つ、アクセスナンバーの最小値は100と決まっている。三つ、理由は不明だが生まれつき人間は、己が契約できる守護神のアクセスナンバーがDNAに刻まれている。研究によって明確に把握しているのはその三つだけだ。だが、それだけで十分とも言えた。

 アクセスナンバーで大事なことなんてたった一つだ。数字が小さい方が強い、ただそれだけ。世界には最大七桁の数値のナンバーが報告されている。つまり、百万を超える守護神の中で、兄が契約するカイウスは大体上から千番目。それだけでもう、ジョージは兵士として優れた資質を持っていた。

 だが、超えられていた。

 先ほど少年が守護神アクセスした際に口にしていた位階を思い返す。その数値は1013だった。すなわち、カイウスよりもさらに二百程度上の序列に立っていることを示す。

 確かにここまで位階のレベルが高いと誤差のようなものだろう。とはいえ、これまで私はカイウスよりもさらに強い守護神なんて見たことがなかった。

 それなのに。

 目の前で好奇心を丸出しにして舌なめずりしている少年がそうだという。急にその、ねじが外れているような情緒の不安定さがそら恐ろしくなる。腕のあたりが粟立ち、背筋を冷たい何かが走った。奔放さゆえに、次の瞬間に何をしでかすか分からない。

 猫、本能から怯えるようなこの恐怖、キャスパーという名。既に与えられたヒントが頭の中で結びあい、一つの仮説を組み上げていく。戦慄し、思考が緩慢になっていく脳内でも、その正体の輪郭が浮かび上がった。

 彼の守護神はおそらく、このブリテンの大地に災厄をもたらす獣のことだ。数多の伝承で猫の姿をしていると謳われる、アーサー王に殺されたとされる獣。その名前は、すなわち。


「お兄ちゃん、それ! キャスパリーグ!」


 守護神は基本的に死した偉人が新たな命を授かって生まれる。だが往々にして、まったく違った形で生まれることもあった。それは、人の見た夢が形になった事例。おとぎ話のお姫様や、神話で英雄の前に立ちはだかった化け物や、アーサー王伝説のような伝承の中で語られる勇士たち。

 円卓の騎士が守護神として命を得たというカイウスもその一人だが、おそらく目の前のキャスパーも同類だろう。出典もアクセスナンバーも極めて酷似した二体の守護神。その戦いはどのような様相を呈すのか。それはもう、私には分からない。

 紺色の闘気を纏った兄と、白銀のオーラを発散させる襲撃者。両者のにらみ合いは案外時間がかからずに途切れた。襲撃者の視界の端、兄の背に守られるように立ち尽くす私の姿があったのだ。

 いいこと思いついた。いたずら小僧の顔になる。次の瞬間、少年の掌の中に純白のエネルギーが凝集した。渦巻くようにして一つの塊になり、ハンドボール程度の大きさになる。オーラの銀色とは少し異なる白。あれはおそらくキャスパリーグから行使権を譲り受けた何らかの異能だ。

 そしてその標的はおそらく私。兄の足を引っ張るわけにはいかないと、瞬時に奥のリビングへと駆け出す。その予感は正しかった。おそらく背を向けた私を狙って放たれたであろうエネルギー弾が、さっきまで私が立っていたところを通り過ぎる。対象を見失った白の砲弾は、我が家の壁を突き破って通りの向こうまで飛んで行った。

 まるで紙に鉛筆を突き刺したように簡単に穴が開いた壁を目にし、私は息を呑んだ。あれが、もし私に当たっていたなら。胸に大きな風穴が開いた自分を想像する。元々現実感なんてなかったのに、これまでの日常を奪い取られる恐怖がどっと押し寄せてきた。逃げなきゃと本能が警鐘を鳴らしているのに、あまりの恐怖に私の足から力が抜け、その場で転んでしまった。


「てめぇ、オリヴィアに何をしやがる!」

「怒ってる場合じゃないよ、ケイ卿!」


 後ろで大きな力の塊がぶつかり合う爆音が轟く。同時に、せめぎあうオーラが周囲に爆散したせいで生じた豪風が押し寄せた。埃や木くずが舞い散り、前を見るのも困難な状況で何とか分かったのは、さらに怒りのボルテージを上げた兄に真っ向から掴みかかる少年の姿。

 しりもちをつきながら後ずさることしかできなかったけれど、私は何とか二人から距離を取ろうとする。私を守りながら戦うというハンデがあっては、兄に勝ち目はない。足手まといはごめんだと、庭へとつながる出口のある部屋へ向かおうとする。

 そこから外へ出て、助けを呼ぼう。誰ならこの状況を解決できるのかは想像もできなかったけれど、私にできることはそれぐらいしかなかった。


「オリヴィア……。頼む、正門の方には行かないで、裏口から出てくれ」

「えっ、どうして……?」


 特に不都合がある訳ではないため、従うつもりではあるが、その兄の指示に困惑する。確かに正門と裏口のどちらから逃げるにしても特に違いはない。無いからこそ、どうしてわざわざ裏口から出るように言われたのかが気になった。


「いいから!」

「駄目だよお兄さん。僕が折角プレゼントを用意したんだからさ。君だけじゃなくてどうせなら妹さんにも見届けてほしいな」

「黙れ。二度と減らず口の利けない体にしてやる」


 また後ろで、白と黒が激突し、大きな力が爆ぜた。這ってでも進もうとする背中を爆風に突き飛ばされ、フローリングの上を転がった。全身が痛い。肘や膝を打ち付けており、その痛みを体が訴え続ける。だが、骨折などの重症にはまだ至っていないようだ。擦り傷はところどころあるけれど、まだ走れる。

 しかし、玄関側に何があるというのだろうか。少年が用意した何かを、私が見てしまうのは都合が悪いらしい。一体、何があるというのだろうか。

 一つ思い出すことがあるとするなら、それは少年と兄が玄関で言葉を交わしていた時の《《アレ》》だろう。何かが地面に落とされる、ゴトリという音。あれを聞いてから兄の空気が一変した。おそらくそれこそが、兄が私に見られたくない何かなのだ。


「カイウス、剣をよこせ!」


 兄の声に呼応し、紺色のオーラが兄の掌に色濃く凝集していく。その後、手から棒状の何かが伸びるようにして、武器を象《かたど》っていく。円卓の騎士が一人、守護神としてのケイ卿の得物は細身の両刃剣だった。真っ直ぐな短い柄と、長く伸びた濃紺の鋭い刃。その形状はどこか十字架のように見えた。

 だがそれを見て少年も適応する。無造作に流出させていたオーラを、四肢に纏い始める。あのオーラは守護神から供給される特別なエネルギーそのものだ。肉体活性や異能を行使する際に消費される代物だが、消費しきれなかったぶんは基本的に垂れ流すことになる。

 だが、高位の守護神になればなるほどそれらを有効活用する術がある。その契約者は今日本にいるらしいが、大魔法使いマーリンを基にした守護神も存在する。マーリンは異能として未来予知が可能だが、それとは別で魔力の弾丸や光線を撃つこともできるのだとか。

 円卓の騎士であれば、あふれた分のエネルギーを全身にまとって鎧としたり、専用の武器を形成することができる。そしてキャスパリーグであれば、獣にふさわしい爪牙を手にするのだろう。

 堅い二つの物体がお互いを削りあう甲高い悲鳴、その金切り声に彩られるように火花散るつばぜり合いが繰り広げられていた。一般人の私には目も理解も追いつかない、高速の斬撃戦が開幕している。ここにいても私には何もできない。兄が無事で済む保証はない、むしろ無事に済まない可能性の方が高い。

 そんな死地に一人だけ取り残してしまうのはとても怖かった。いなくなってしまうのではないかと、不安になる。それが私の歩みを止めて、この場に縫い付けようとする。今生の別れになるかもしれない、そんなのは嫌だ。

 でも。

 迷いを断ち切るために踵を返し、私は庭へと飛び出した。庭へ出る用のサンダルがあるので、裸足よりはましだとそれを履く。幸いなことに、怪我をするほど大きなガラス片や木くずを踏むようなことはなかった。

 私がいることで迷惑をかけられない。だから走る。向かうべきはセクエントの駐在所。ここから一番近いところはどこだったろうか。頭の中で地図を思い浮かべた私に、兄が叫んだ。


「テムズ川に向かえ! そこならセクエントスクールがある!」

「スクール……?」


 確かにこの近辺のセクエント駐在所よりも、兄の通っていたテムズ川沿いのスクールの方が近い。なぜわざわざセクエントではなく学生の方を頼るのかと訝しんだが、すぐに理解した。スクールにいる教官を呼びに行けということなのだろう、と。

 分かった以上は迷いはなかった。指示通り、裏口に向かって走り出そうとする。しかし、そう上手く事は運ばない。


「駄目だよ」


 私の目の前を薙ぐように、白銀の斬撃が飛んだ。キャスパーのオーラによって錬成された巨大な獣の爪。それを鎌のごとく大きく素早く振るって真空の刃を生み出した。守護神のオーラを纏った鎌鼬、飛ぶ斬撃。我が家の壁の一部を蒸《ふ》かした芋のように容易く切り裂いて、瓦礫で私の進路を塞いだ。


「外しちゃったか」

「よそ見してんなよ」


 本来は私に直接当てて切り刻もうとしていたのだろう。薄皮一枚ぶん頬を掠めていたのだろうか、滲むように私の頬から血が流れて、顎を伝って地面に垂れた。深紅の雫が地面に広がる。

 兄の心配をする余裕なんてない、そもそも殺されるのは私かもしれないのだ。悲鳴を上げたら動けなくなりそうだった。喉元から飛び出しそうな戦慄を何とか飲み込み、息も忘れたまま玄関へ走る。あちらへは行くなと言われたが、もう選択肢はなかった。

 後ろでまた、大きな音が響く。お願いです、神様。それほど敬虔なクリスチャンではありませんが、どうか私たちを助けてください。今、この街で何が起きているのか分からないが、そう願った。

 一心不乱に、わき目もふらずに前だけを見ていたからだろう。足元がおろそかになっていた。大きな何かに足が引っ掛かり、勢いよく転倒した。アスファルトの上を転がる。肘を今度こそ擦りむいたようで、ひどく熱かった。

 一体何に引っ掛かったというのか。それが気になって視線をそちらにやった瞬間、体の痛みなんて忘れてしまった。


「ひっ」


 声も全然出なかった。驚愕も行き過ぎると、悲鳴さえ出てこなくなるらしい。それを見てようやく気が付いた。兄があの少年への態度を一変させたその原因が。そこに転がっていたのは、人間の生首だった。あまりに鋭利な何かで切断されたのだろう、気管や脊髄も切断された以上の損傷を受けず、ある意味美しい断面を見せつけていた。

 確かに人間の頭は大きいし、頭蓋骨の影響で固い。これを持ってきたあの男の子が地面にこれを落としたというならあんな音もするだろう。私が躓き蹴ってしまった勢いで、ゆっくりとその首が回っている。

 こんな事を、守護神の力で遂行したというのか。守護神の力を、文明や文化の発展に捧げていきたいと考えている私にとって、人を傷つけ殺める使い方をすることは、最大限の侮辱に他ならなかった。

 許せない。怒りの感情で立ち上がろうとする私の前で、止まり切らない生首がまだ回転していた。まだ後頭部しか見えていなかったところに、焦らすようにゆっくりと、その相貌がこちらを向いた。

 その顔に私は目を見開く。何も兄は、私にむごたらしい髑髏を見せないために玄関に行くなと告げた訳ではないと、真の意味に思い至った。それを見た私が心に傷を負わないようにしたのだ。

 この十八年間、あるいは兄にとって二十一年間、私たちを養い、育ててくれた父の顔。今朝も元気に役場に出勤していった背中を思い出す。その瞼は開かれていたものの、瞳に光はなく、その双眸は洞のようだった。

 自分がまだ幼かった日の微笑み、反抗期だった頃の怒鳴り声、家族で旅行した時にいつも楽しそうに車を運転していた父の鼻歌。お父さんとの思い出が、彼の人生が、走馬灯のように私の脳裏で流れた。もう帰ってこない、愛する家族の喪われた姿。かつて父だった、物言わぬ肉と骨の塊。

 流石にこの出来事には、私も声を殺すことができなかった。深い悲しみ、そして喪失感が絶叫の姿をとって、道路を駆け抜けていく。


「嫌ぁあああぁっ!」


 同時に気が付く。町中、至る所から黒煙が立ち上っていることに。今、このロンドンの街で何が起こっているというのか。この時の私は、まだ分かっていなかった。

Re: 守護神アクセス ロンドン外伝 ( No.3 )
日時: 2022/06/03 19:29
名前: 狒牙 ◆nadZQ.XKhM (ID: m3Hl5NzI)

 今、この街では何かが起きている。その真相は分からないけれど、とうとう恐れていた事態が起きたと言ってもいい。守護神を携帯可能な兵器として活用する。そしてそれを戦争、あるいはテロリズムで最大限利用するのだ。

 これまでその用途が制限されていたのには訳がある。Phoneというのは、これまで不完全な技術だったからだ。これまでは携行するのは不可能なほど巨大な機械でなければ守護神アクセスなどできなかった。二十年前までは自動車ほどのサイズ、十年前でも総重量五十キロ程度の装置が必要だった。

 それが近年、ようやく小型化が実用的なレベルまで進められた。手の平サイズの小型端末。軽量化がそこまで進み、ようやくPhoneと呼ばれるようになった。ここまで小型化が進めば、銃を持つよりもPhoneを持ち歩いた方がよほど頼もしい武器になる。それを証明するかのように、さっきの少年のような尖兵が現れたのだ。

 でも、何のために。我が家が狙われる理由なんてあるとは思えなかった。街を見渡せば他のところも襲撃にあっているような様子である。ならこれは襲撃対象が場当たり的な無差別テロではないかと推察できる。だとすると余計に街が危ない。誰でもいいということは、誰もが被害者に成り得る。急いで助けを呼ばないと、どこまでも死傷者は増えてしまう。

 本当はそんなことしたくない、だけど。悔しさを胸に刻みながら、私は父から目を背け、テムズ川に向かって走った。唇を引き結び、走る。私の足でも十五分もあれば着くはずだ。どうせなら自転車でも使えれば良かったのだけど、そんなものを探す余裕はない。

 疲労なんて気にせずがむしゃらに走った。真夏のくらむような日差しを受け、全身から汗が噴き出ても、空気が足りないと肺が焼き切れそうなほど苦しくても、私は一心不乱に駆け抜けた。転んで擦りむいた腕、打ち付けた全身、動かし続けて棒のようになった足、全部無視して突っ走った。

 時折遠くから大きな爆発音や、何かが倒壊する音が聞こえてくる。それはジョージたちの所なのか、はたまた別の出どころから来るのかは見当もつかない。

 ようやくテムズ川にたどり着いた。日の光を浴びて煌めく水面を目にし、どっと安堵が生まれた。安心しきって、とうとう私は疲弊に押しつぶされた。意地でも歩みは止めないが、息を整えないと走れそうになかった。汗と共に痛いほどの日差しが全身を襲い、擦りむいた傷口が沁みた。血を流している方の足を引きずるように私は歩みを進める。

 後ろから足音が二つした。段々と近づいてくるし、迷いなく私の背後から真っ直ぐやってくる。もしかして追手が来たのだろうか。一瞬ひやりとしたが、そうではないだろう。すぐに疑念を否定する。

 これは生身の人間の足音だ。そして私を追いかけてくる可能性のある人物にもう一人心当たりがあった。そもそも今日、ジョージは彼を家に迎えて相談に乗ってやろうとしていたのだから。

 振り返ると、グラマースクール時代に見慣れた二人の顔があった。一人は当然アーチーだった。そばかすと赤毛の似合う、やんちゃで落ち着きのない少年。しかし、この非常事態に彼も不安を抱えているのだろう。いつもより元気が無くて、周囲を気にかけている。半分は素だが、普段のお調子者には演技をしているところもある彼の事だ。今はふざけている場合ではない、慎重になろうとしているのが顔を見れば分かった。

 そしてもう一人、後ろについてきた少年に目が奪われる。背は高いが線の細い、儚げな印象のある男子。走るたびに絹のような黄金色の髪が揺れる。私と同じインドア派のくせに、運動能力に秀でたアーチーに付いて走ってきたものだから、涼しそうなアーチーの後ろに立ち、肩で息をしている。


「アーチー……それにデイビッドまで……!」


 さっきまで、いくつも心がきりきりと締め付けられるような想いをしていたが、その顔を見てほんの少しだけ、私の心が安らぐのを感じた。せめて彼だけでも無事でいてくれて良かった。そう思うと涙をせき止めていたダムも決壊しそうになる。


「オリヴィア、一体どうなってんだよ。お前ん家行こうとしたら周りの街並みごとぐちゃぐちゃんなってるし、他の所でも大混乱になってる。何が起きたらあんな事になるんだよ」

「私だって分からないよ。でも、私の目で見たものだけは教えてあげる。確証の得られないことは、まだ口にするべきじゃないわ」

「でも良かった、途中で君を見つけられて」


 その細い腕のどこからそんな力が湧いてくるのだろう。折角私が堪えているというのに、涙をぼろぼろと溢れさせたデイビッドは、衝動的に私を強く抱きしめた。私も彼も、日差しの中を全力で走ったものだから、暑苦しくて仕方がない。ただでさえ火照っているというのに、これ以上熱くなってどうしようというのか。


「ちょっと。苦しいよ、デイビッド」

「なあ、独り身の俺の前でそういうのやめてくんない?」


 おどけた態度でアーチーが、デイビッドの熱烈なハグに水を差す。不承不承といった態度で、彼はきつく結ぶように抱きしめていた腕をほどいた。解放感に満ちた私は、息をできるだけたっぷりと吸い込んだ。

 確かに、落ち着いたせいで体の痛みは戻ってきた。走ろうとするとちょっと顔を顰めてしまう程にだ。けれどもそれ以上に、肉体的にも精神的にも余裕のなかった状況が一変する。一人ではないと、そんな事が分かっただけなのに、心の凪を取り戻しつつあった。

 平和な時だったなら、その抱擁も幸せだとしか感じなかっただろう。けれども、今は一刻を争う事態だ。体に負担がかからない程度に、駆け足気味にテムズ川沿いの道を進む。目指すは、すぐそこに見えているロンドン橋。大体二百数十メートル程度の長さなので、駆け足なら二分少々で渡り切れるだろう。

 目的地に向かいながら、これまでの出来事をかいつまんで説明する。アーチーを待っていたら、あの襲撃者が現れたこと。ジョージが応戦している間に応援を呼んでいること。駐在所ではなくセクエントスクールに助けを求めようとしていること。


「もしかして、オリヴィアも教官と顔見知りだったりすんの?」

「一応ね。お兄ちゃん、軍事訓練とかは優等生だったから。学校行事で顔を見せたりした時に、ジョージの同級生とか担任の教員とは顔なじみになったわ」

「なるほどね」


 どこか得心がいったような顔でアーチーが頷く。私にはとんと見当もつかなかったが、デイビッドも納得しているようである。


「だからだろうな、セクエントスクールを指定したのは」


 落ち着いた声でデイビッドが淡々と述べる。緊急事態だということを的確に伝え、瞬時に救助してもらうためでもあったのだろうと、ジョージの指示をさらにかみ砕いて教えてくれた。

 セクエントは軍隊の一部であり、治安維持にしたって公的な活動だ。傷だらけの少女が助けを求めてきたとしても、書類的な準備が少なからず必要になる。なぜならその少女もセクエントを罠へ誘おうとするパズルのピースであるかもしれないからだ。

 しかし、既に信頼できる知人として知られている人間なら話は別だ。一刻を争う応援要請、それを考えると顔のきく私を派遣するならスクールが最適だととっさに判断したのだろう。

 確かに兄は、土壇場の機転に関しては私よりもはたらく質だ。どこまでを想定していたのかは分からないが、この柔軟さには舌を巻く。

 後は橋を渡るだけ。そう思えばまた気力が戻ってきた。少し走る速度を緩めていたのもあって、体もやや楽になってきた。こうしている間にもジョージは身を危険にさらしているはずだ。橋に一歩踏み入った瞬間から、また踏み出す足に力をこめよう、そう思っていた。


「ようやく見つけたわ、ガウェイン」


 意識するよりも早く、目を奪われた。その美しさだろうか、それとも漂う香気からか。理由なんて分からない。でも、その女性は見るものを虜にする空気を纏っていた。レッドカーペットを歩く女優のように、派手なドレスに身を包んでいた。「私こそが宵闇の化身だ」と言わんがばかりの、漆黒の装束。

 きっとそれは、夜を纏っているからだ。ミルクのような真っ白な肌がドレスの隙間から覗いているのは、雲間に浮かぶ月のように優美だった。紫の口紅に彩られた厚みのある唇は、とても艶めかしく、私が男性だったなら、その愛を耳で囁いてほしいと願ったことだろう。そして何よりも、その美貌たるや。神様が作った彫刻みたいな、完璧な顔立ちをしていた。向き合っているだけで、自分が醜くなったと錯覚するほどである。

 それは、異性のフェロモンに惹かれる蝶のように。あるいは街灯に誘われた蛾のように。ふと我を忘れて歩みを止めた私は、揺さぶられるようにして、ふらりと一歩彼女の方に踏み出していた。

 そして彼女の方も、優雅にこちらへと歩みを進めていた。街の喧騒も、開戦の狼煙のような黒煙も、何一つ歯牙にかけず、大胆不敵に道を往く。彼女が歩むだけで、人もいなければ装飾も無い、殺風景な橋もまるで花道のようだった。

 視線どころか心まで奪われていた。私の肩を力強く握って引き留めてくれた誰かがいなければ、あの強すぎる光に引き寄せられ、私の身は焦がれていたことだろう。

 今置かれている状況の危険性にいち早く気が付いたのはアーチーだった。それは彼がセクエントを目指して進路を定めたことに由来した。、目の前に立っていたのは、彼がいつか向き合うかもしれない、凶悪な、守護神を私欲のために使う犯罪者。

 さっきまでは涼しそうな顔をしていたのに、私の肩を掴んだアーチーは全身から汗を吹き出させていた。振り返り、そんな様子を目にし、ようやく私は自我を取り戻した。それは冷や汗とか脂汗とか、そう呼ぶべきものだった。

 目の前に現れた絶望が嘘であってくれと否定するように、あるいは私にその道を進むなと引き留めるように、彼は首を小刻みに横に振っている。


「駄目だオリヴィア、デイビッド。引き返すぞ。どんだけ苦しくても全力で走れ、あれは絶対に、出会っちゃいけないやつだ」


 スクールではムードメーカーに徹していたような彼がここまで言うとはよほどのことだった。恐る恐る、彼女の機嫌を窺うようにアーチーは彼女の名前を口にした。


「あれはマイフェアレディだ」


 私がようやく警戒交じりに向けた視線の先では、「呼んだかしら」と言わんばかりの彼女がウインクをしてみせた。

 顔までは知らなかったが、その名前は聞いたことがあった。七年ほど前の出来事だ。英国王家の血族が一員、今となっては元貴族として裕福な家庭というだけなのだが、出自はその血筋に由来する大悪人だった。家柄のおかげで、当時まだ一台一千万円以上もした守護神アクセス専用機を手にし、守護神の強大な力に魅入られてしまった。

 自分の家族を皆殺しにし、追ってくる軍隊を全て壊滅させ、イングランド全土を恐怖に陥れた後に海外へ亡命、雲隠れしてしまった魔女。だが、どれだけ悪事を働いたとしても、その美貌が色あせることはなかったという。彼女と出会った者が言うには、その美しさは世界一の歌姫に負けずとも劣らないのだとか。

 だから人々は、彼女に二つ名を授けた。美しい令嬢の意味を込めて、イギリスの中心を破壊する者という畏怖を込めて、マイフェアレディと。

 そして彼女は今、この閑散とした橋の真ん中で、己に与えられた称号をまさに体現しようとしているところだった。

 掌に収まる何かに向かい、彼女はそっと口づけをする。そんな姿さえも妖艶だと、また見とれてしまいそうになった時のことだ。

 続く彼女の言葉に、そんな腑抜けた感動は消し飛んでいた。


「|No. 555。名をモルガーナ」


 オーラなんて生易しいものではない、どす黒い邪気が、彼女の握ったPhoneから溢れ出した。ジョージのカイウスも、あの少年のキャスパーも、まるで比にならない程の出力、勢い、禍々しさを携えた守護神アクセス。

 それはあっという間に、全長二百メートルをゆうに超えるはずの橋全体を覆い隠してしまった。その邪気に足が捕まれないように、私たちも飛びのいて橋の上から逃げた。真っ黒な靄《もや》のようなものに包まれ、もう橋の姿は目視できなくなった。

 マイフェアレディの独壇場になってしまった橋の上から、彼女さえも離れてしまう。おそらくは彼女が契約している魔女の守護神の力だろう。宙に浮き、空を自在に駆けている。


「三桁の位階……バケモンだろこんなの」


 戦力にならない私やデイビッドを守るように、アーチーが庇うように前に出た。その手にはまだ傷一つとしてない新品のPhone。おそらくはセクエントスクール入学の際に手配された機器なのだろう。


「でも、宙に浮かぶ力と目くらましの靄だけでしょ。そんな大層なものには見えないわ」

「馬鹿、あれが目くらましな訳あるかよ……。あれはあいつの使う、黒魔術の内のたった一つってだけだ」

「黒、魔術……?」


 あの魔法の靄《もや》が持つ力は、風化と腐食だとアーチーは言う。まさか、そんなことがある訳が無い。たかだか一人の人間の力で、しかもあんなに余裕そうにして、橋が崩れるなんてこと、ある筈がない。

 だが、私の否定を鼻で笑うように、次第に地鳴りが強くなる。目の前では、大きな水しぶきがいくつも上がっていた。巨大な石の塊が川面に落ち、噴水みたいに水を打ち上げている。それが一つ二つなんてものじゃない、川をこちらの岸からあちらの岸まで横断するように、何百という水柱が上がり続けている。

 大きな岩の塊が川底を打ち付けるたび、腹の奥底までずしりと響くような地鳴りがした。目の前ではまだまだ、水面は落ち着いてくれようとはしない。


「これでもうしばらく、助けは呼べないわね」


 空中に足場があるかのように、一歩一歩ゆっくりと彼女は私たちの方へ距離を詰めていた。その目が見据えているのは、どうやらアーチーらしい。それは何も、彼一人がPhoneを手にして臨戦態勢を取っているからという理由ではないらしい。

 ふと、キャスパーと契約していた少年の言葉を思い出す。


“あの人から聞いてた通り”


 あの少年も、最初からジョージを標的と定めていたようだった。だとするとこの人も、初めからアーチーを標的にしてこの街に現れたということになる。

 一体何のために。聞いたところで多分、答えてくれはしないのだろう。

 心臓が跳ねる音がやけに五月蠅い緊張の最中、次第に川面は静まり返っていく。波紋だけを残し、水しぶきが収まった川の真上、用済みになったどす黒い靄は消えていく。そこにはもう、たった数十秒前までは健在だった橋が、跡形もなく消えてしまっていた。

 ロンドン橋は落ちてしまったのだ。マイフェアレディの手によって。