ダーク・ファンタジー小説
- Re: 守護神アクセス ロンドン外伝 ( No.4 )
- 日時: 2022/06/05 21:50
- 名前: 狒牙 ◆nadZQ.XKhM (ID: m3Hl5NzI)
時は、ジョージが辛くもオリヴィアを送り出したところまで遡る。命からがら通りの向こうまで走り抜けていった妹を見届け、ようやく全力を出せると少年へ向き直る。
◆
こいつだけはここで捕える。
兄としての責務を果たした今、俺に残されたのは怨嗟と復讐の激情だけだった。結局、あんな父の姿をオリヴィアに見せてしまった自分が情けない。そして何より、父を手にかけたであろうこの少年が許せなかった。
しかも先ほどは、妹まで俺の目の前で切り裂こうとした。そこにきっと深い目的はなかった。多分こいつは応援を呼ばれたら不味いとか、そんな事一インチとして考えていなかっただろう。
こいつはただ、家族を目の前で殺された俺の反応を楽しむためだけに、オリヴィアを殺そうとした。たとえオリヴィアよりも幼そうな少年であったとしても、その悪逆非道を見逃すつもりはなかった。
ただ、その怒りに任せて殺してしまおうとは思っていない。偽善などではなく、自分のエゴだ。このガキがどうしようもなく醜く見えるから、同じステージに上がりたくない、そう思ってしまった。
ただしその鼻っ柱は叩き折る。精神的にも、肉体的にも。命までは取りはしないが、しばらくギプスをつけて生活することぐらいは甘んじて受け入れてもらおうと思う。
「ちぇっ、逃がしちゃった」
「可愛い妹だからな。当たり前だろ」
「怖い怖い。お兄ちゃんは強いねー」
所詮、奴にとってはオリヴィアの首はおまけ程度のものだ。逃がしたこと自体に悔しさはあるのかもしれないが、目的に陰りはない。その証拠に、焦っている様子はまるでなかった。
デザートは取り逃がしたが、メインディッシュはまだ目の前に。ご馳走を目の前にしているつもりなのか、彼は舌なめずりをした。守護神キャスパーのオーラを爪と牙として換装し、猫のように振る舞っているのも相まって、得物を見つけた獣のようにも見える。
簡単に倒されるつもりはないし、返り討ちにする心づもりなのだが、気を抜いてはいけない。少なくとも見かけ上は奴の方が守護神の位階は上に立っている。いかに俺のカイウスが円卓の一員とは言っても、刹那の甘えが命取りになり得る。
もう一度目の前の少年を観察する。相手が油断ならない状況では付け入る隙が見つからないか試してみると良い。それがセクエントスクールで、見た目適当そうな教官が言っていた教えだった。
「守護神使って暴行するやつなんざ大体が力に溺れてんだ。一昔前の犯罪者と比べたら明らかに杜撰すぎる連中が多いもんだぜ。かっこつけて技名つけてるせいで次の一手がバレバレな奴、能力使う時にオーラが集中するせいでタイミングバレバレな奴。おじさん、こう見えて自分より格上の守護神使い何人もとっ捕まえてんだなこれが」
無精ひげを剃ろうともしないだらしない人だったが、実力だけは本物だった。従えている守護神のナンバーズは五千番台。一般的な話で言うと明らかに恵まれた契約相手ではあるが、俺のカイウスと比べると数段劣る。だが、あの人についぞ卒業しても一対一で勝つことはできなかった。
先生程の制度で分析できる自信はないが、それでも見えてくるものはあるはずだ。事実、俺が注視する視界の中で、明らかに少年の空気が一変した。期待で爛々と輝いていた目は、鋭く細められて鈍く瞬いていた。仕掛ける好機を窺うように、息を殺し、静寂の中でその時を待つ。
張り詰めた空気の中、緊張が最高潮に達する。体の強張りを感じた俺は息を吐き、また新鮮な空気を短い呼吸で取り込んだ。それが合図となり、奴の姿が消えた。床を蹴る音がしたかと思うと、残光のごとく白銀のオーラだけを残して跳躍する。
四つ足の獣がごとく、弧を描く軌道で跳びかかってきた。小細工なしのロケットスタート、間髪入れずに反応し、カイウスの剣の腹で何とか受け止めた。
俺が初撃を受け止められたことに驚きはなかったようだ。機嫌良さそうに口角を上げた口元には、鋭い犬歯が覗いた。剣とキャスパリーグの爪とはぶつかり合い、互いに譲ろうとしない。互いにこの程度の牽制で、折れてしまう訳にはいかなかった。少年を受け止めた体をそのまま勢いよく振るう。その勢いで彼の体は後方へと投げ出された。
そのまま壁にでも叩きつけてやろうとしたのだが、流石は猫の守護神というべきか。器用に空中で体をひねり、体勢を整る。着地するようにタイミングよく膝を曲げ、足から壁についた少年は、涼し気に地面の上に降り立った。
剣を握っている手が、衝撃で少し痺れた。尋常ではないその膂力に獣の守護神らしい獰猛性がうかがえる。だが、それと同時に華奢すぎる彼の四肢が目立つ。守護神アクセスすると、肉体が超人的に活性化される。そのせいで普段は病弱な人間でもコンクリートの壁を砕くこともできる。
だから、彼がどれだけ痩せこけた体をしていても、守護神さえ強ければその身体能力は異常な境地まで高められる。確かにそれは事実だ。けれども、彼の腕の細さはもはや骨と皮しかないように思えるほどに貧相だった。
それはまさしく、体重を絞っているというよりもただ食うに困っているような。髪が無造作に伸び、くせ毛を直そうとすらしていないのも、それを整えるだけの余裕が無いせいだとしたら。服のタグも鋏で切ったのではなく乱雑に手で引きちぎったらしい。タグと服をつなぐ透明な輪のようなものが首元から覗いていたことに先ほど気づいた。
元々劣悪な環境で過ごしていたのだろうか。スラム街の出身か、それとも身寄りのない子供なのか。だとすると、どのようにしてこのPhoneを手に入れたと言うのか。
その調子で、彼の分析を続ける。とはいえ、彼も黙ってじろじろと見られている訳でもない。|化け猫の銀爪に引き裂かれ、俺の実家だった場所がずたずたになっていく。しかしまだ壁も天井も残っている。その壁を、天をも足場にして、縦横無尽に白い嵐が駆け抜ける。
正面から、背後から、右から左からまた背後から。彼の突進に合わせ、俺も剣を振るう。紺色の刀もまた、踊るように宙を舞う。正面からの特攻は跳ね上げ、背後からの一突きには柄で弾き、横から引き裂くような爪の一振りが飛んできたのは刃の腹を滑らせていなした。
やはり、強すぎる力に弄ばれているように見えた。おそらくこの子は守護神アクセスを我がものとして活用するための研鑽、鍛錬などは一つとして積んでいない。刃物を手にした子供が、面白いというだけの理由で周りを斬りつけているようなものだ。
おそらくはPhoneを手にしてまだ日が浅い。雇われの傭兵のように、直前に雇われた存在だとでもいうのか。
つまり誰かが、こいつを戦力として利用しようとしたのか。契約可能な守護神がキャスパリーグだと知って、何らかのテロリズムに貢献させようとしたのか。疑問は尽きない。妄想とも呼べる仮説がいくつも頭の中に浮かんでは消えていく。
だが、それらの疑問は即座に切り捨てた。あり得ない。自分の守護神が何か、調べるためには多少の手間がかかる。そんな調査を住民の片っ端から調査するなんて、できるはずがない。余程のお偉いさんともなれば話は別かもしれないが、こいつが拾われたのはおそらくたまたまだろう。
どうにも拭い切れない疑念が残る。ただ、彼が何者かに派遣されたことだけは事実だ。「あの人から聞いた通りだ」と、彼ははっきり言っていた。
つまり、俺の守護神がカイウスと知った上でここに来た。目の前の少年がそれを理解しているのかは知らないが、おそらく捨て駒として使われている。
誰か俺を知る者が情報を漏洩した。それだけは確実に断言できる。それ以外の懸念と疑念は一旦忘れることにした。
「きちんと実証できたもの以外は基本的に疑わなきゃダメ。じゃないと、そうであって欲しいってバイアスがかかるから」
十三歳ぐらいの頃、オリヴィアが気に入ってずっと使っていた言葉だ。あの頃からあいつは、学者になりたいと思い続けていた。それを聞いて、わざわざグラマースクールを受験させた甲斐があったと、親父も笑っていただろうか。
そう、そうだ。こいつはその親父を手にかけた。
仕事としてこいつを捕えようとして、忘れかけていた激情がまた胸に戻ってくる。確かに冷静であることは肝要だ。だが、飼いならしてしまえばこの怒りは闘争本能の起爆剤となる。
玄関先、まだこいつのヤバさに気が付いていなかったとき。後ろ手にして隠していた親父の頭を俺に見せた。「意外に重たいんだね、人の頭ってさ」と、収穫物を自慢するように俺に見せつけた。朝見送ったばかりの父親が、目の光も首から下も全部失って帰ってきた。溢れた血が飛んだのか、顎下が一面血でまみれていた。
その仇は必ず討つ。そのためには、目の前の敵を打ち倒すことに全力を注ぐべきだ。確かにアクセスナンバーだけ見れば、あいつの方がよほど格上、俺の敗北はまった無し、だろう。
だが俺もただでは引き下がれない。勝つ当てはちゃんとある。まだ仮説にしか過ぎないが、守護神アクセスに関してこの少年は、まだてんで素人だ。そこが付け入る隙になる。
「戦うこと以外でごちゃごちゃ考えるのは俺の仕事じゃあないよな」
そういうのはオリヴィアの方が得意だ。家の中を跳ねまわる怪猫の化身、もうその動きは段々読め始めていた。折角手数や攻め手の引き出しの多そうな性能をしているのに勿体ない。気まぐれというよりも短期で目の前の甘いものに吸い寄せられがち。ともなれば、動きは非常に単調というものだ。
ただスピードだけで仕掛けても翻弄できない。そう理解したのだろう。だが、やはり熟考が足りない。案の定思い付きだけのフェイントを入れてきた。正面から突っ込んでくるかと見せかけ、空中でアクロバティックに体を畳んで回転。迎撃するために俺が振る剣閃をすかし、背後を取る。
誰もいない虚空だけを、カイウスの剣が斬り裂く。好機、そう判断したのだろう。着地と同時に、力強く地面を蹴る足音が、もう一回。空を切る音が奴の接近を告げている。隙を見せつけた甲斐があったというものだ。
斬撃を空振った勢いを殺すことなくそのまま背後に向き直るまで回転を続ける。地面と平行に刃は走り続け、そのまま後方に忍び寄ったキャスパリーグと向き合う。斬られる、本能的にそう判断したのだろう。本来俺の喉笛を貫こうとしていた、白銀の鋭爪が己の身を守る体勢を取った。
間一髪、少年は俺の一刀を辛くもその爪で受け止めた。が、次の瞬間に音を立て、白銀の爪は砕け散った。オーラで錬成しただけのものなので、すぐに作り直せるのだろうが、お互いの得物の格付けを済ませたという点では意味のある一太刀だった。
「畳みかけるぞ、カイウス」
様子見はもう充分。ここからは、得た情報を基にして慎重に叩き潰す。ならば万全の状態で。今日はいつもの毒舌饒舌はどこへやら、珍しく黙りこくっている相棒に俺は声をかけた。
『化け猫退治か、久しいな』
歴戦の猛者に相応しい、渋さの窺える低い声。カイウスの声が戦闘の騒がしさに染み入るように放たれる。しかし、この声は俺にしか聞こえない。異世界から守護神アクセスで呼び出している契約相手の声と姿は、契約主である自分自身にしか見えないからだ。同じように、目の前のあいつはあいつでキャスパリーグの声を聞き、姿を見ているのだろう。
俺の後ろには紺色の甲冑に身を包んだ一人の騎士がいる。兜に覆われた顔の中は影のように黒く塗りつぶされているので、その素顔を覗き見ることは叶わない。しかし、剣を持ったその居住まい、正された背筋が、由緒正しい騎士であることに箔をつけていた。
「こいつには本気で行く。頼む、異能を貸してくれ」
『承知した』
自分の体の中にさらなる力が満ちてくることを実感する。カイウスが供給するオーラのラインを太くしたのだ。構えた剣の側面に、剣を握っていない方の掌を押し当てた。掌からは暁天の太陽がごとき眩い光が放たれる。紺の刀身と対照的な、明るい朝焼け色の光。
次の瞬間、発火。剣全体に炎が纏われる。カイウスの異能というのは彼の生前の功績をそのまま反映している。『アーサー王伝説を初めとする各種伝承に記された、円卓の騎士ケイの奇跡の再現』、辞書的に表現するならそんなところだ。
体から熱を発し、雨に濡れない。あるいは、火種も何もないところから炎を生み出すことができる。そんな伝説に由来しているのがこの発炎能力だ。灼熱を刃に纏わせること、防具に纏わせることも自在。そしてこの熱は己が体内に由来するため、身を焦がすこともない。
ただし、出力を間違えると周囲の人間まで炙りかねない。だからオリヴィアがここを離れるまでは使うことができなかった。
「ハハ! 何これ、太陽の化身か何か? でも英雄様はそうじゃないと盛り上がらないよね!」
砕かれた爪牙を再生させながら、ねじの外れた玩具のような大笑を漏らしている。多分こいつはまだ気が付いていない。目の前の俺がもう、さっきまでの様子を窺うような立ち回りをやめているということを。
こいつの高笑いなど待ってやる必要はない。地を蹴り、瞬時に間合いを詰める。戦いのリズムの転調に付いてこれなかった奴は反応が一拍遅れた。それさえ命取りだ。迎撃《カウンター》などできるはずもなく、すんでのところで再生した爪の切っ先で抑え込むように防御しただけ。
だがその防御さえ、ろくに意味をなさなかった。
「あぁあああぁっづぅ!」
炎の剣を受け止めた少年の口からはたちまち苦悶の声が上がる。もはや声にもならないような苦渋のうめき声。彼の掌は、大やけどを負い、爛れる寸前にまで至っていた。
それも隙だ。耐えがたい熱に晒され、臨戦態勢を解いた華奢な体躯を床に向かって叩きつけた。全身を強く打ち付けられ、肺の中身を無理に吐き出させられたような息が吐き出される。
呼吸さえ万全にできないのだろう。涙目になって地面をのたうち回り、命からがら俺から距離を取る。その姿からはもはや、狩人の面影など感じなかった。
だが、逃しはしない。俺の心身を蝕んでいる怒りの炎は、この程度ではないのだから。ここからは敵討ちだ。誰に言う当てがあるでもないが、俺はそう胸の内に呟いた。
- Re: 守護神アクセス ロンドン外伝 ( No.5 )
- 日時: 2022/06/15 16:44
- 名前: 狒牙 ◆nadZQ.XKhM (ID: T32pSlEP)
少年の焦りは火を見るより明らかだった。本来守護神の位階で言うと彼の方がいくぶんか上。そのはずなのに、俺に圧倒されている現実が理解できなかったのだろう。苛立ちでそわそわしているのか、視野が狭まっている。
焦りに飲み込まれた獣など、もはや狩る側に戻ることはできない。でも、実戦慣れしていないであろうこいつは、それに気づけないまま戦っているのだろう。もし彼が元々恵まれた育ち方をしていたら、守護神の力を得ていなければ、もっとましな人生を営めたのだろうか。
だが、たらればの話はするだけ無駄だった。事実こいつは今、計画的に俺のことを狙い、家族の命を奪い、オリヴィアまで手にかけようとした。俺がこいつを許せない理由として、あまりにも大きすぎる。
まだ幼いのにとか、可哀そうにとか、そんな同情もカイウスの炎で灰にする。
焦燥、苛立ち、敗北への恐怖。様々な負の感情で押しつぶされそうな心を奮い立たせ、灰色の髪を揺らす彼は、再び力強く地面を蹴った。
「直接触らなければいいんでしょ!」
鋭く巨大な爪を装備した掌の中に、純白のエネルギーが凝集する。あれは先ほど、ボールのような形にしてオリヴィアに向かって投げていたものだ。何とかあいつは回避して難を逃れたが、その直後に壁をやすやすとくり抜いていた記憶がある。
あれは単なるエネルギーの塊ではない。あれこそが守護神キャスパーの持つ能力本体だ。何を仕掛けてくるか分からず、警戒の糸だけ張る。だが、その警戒を肩透かすように、奴は家の中を壁沿いにただ走った。
猫らしく俊敏な動きで家屋の中を瞬時にぐるりと一周する。掌に集まった白いエネルギーを壁に押し付けて、そのまま壁そのものを拭き取るように。奇妙な現象が起きる。彼のその白い光波に当てられた部分の壁が、まるで消しゴムで擦ったみたいに綺麗さっぱり消えてしまった。
日本にあるだるま落としのおもちゃの様に、まっすぐ立っていたはずの家の壁が、中央に一筋線が入ったようにくり抜かれる。刃を用いていないのに一刀両断、支えを失い、空中で孤立した家屋の上半分が、そのまま崩落して俺たちの方に降り注ぐ。
崩壊する瓦礫の向こう側、例の純白の力を薄く広げ、ベールの様に身に纏う奴の姿が見えた。がらがらと音を立て崩れ往く、かつて家だったはずの破片が、その純白のベールに触れるとそのまま、蒸発するように消えていった。あれはおそらく、単純なエネルギーの塊ではない。最初は撃ち出す勢いで壁をぶち抜いた大砲のようなものかと思っていたが、そうではない。
あれ自身が消滅や崩壊といった属性を有している。あの白い光に触れたものはそのまま、消えてしまうのか。大体の能力に検討をつけ、直後に上方の空間に剣閃一振り。扇状の紺の残像の後に、剣戟の衝撃だけで落ちてくる建材を刻み、砕き、吹き飛ばした。僅かに残った木っ端も、カイウスの異能である熱と炎に当てられ灰燼と化す。
あの手の光には触れないようにしなければならない。家がほとんど消し飛び、今や上空には青空が広がっていた。衝撃の余波がご近所さんにも広がっているようで、悲鳴混じりで逃げ惑う後ろ姿が遠くに見えた。
周りに影響を出してしまったのには頭を下げるしかないが、逃げてくれたなら好都合だ。この少年から他の人を守りながら戦うのは骨が折れる。俊敏性だけなら俺より上なのは間違いない。手頃な人質を取られることが防げただけでも、見習いセクエントとしては上出来だった。
あの消滅の光はどの程度自在に動かせるのかは分からないが、慎重に立ち回る。幸い、奴の爪が巨大とはいっても、こちらの剣の方が間合いは長い。俺の剣は届くが、奴の爪はすぐに回避できる。その距離感を保つようにした。
剣を横に薙ぎ、返した刃でもう一度剣を振るう。守護神アクセスによる肉体強化の恩恵、それは本来人の身であれば不可能な体捌きをも可能にする。生身で重い剣を振るおうとすれば、このような動きはできないだろう。だが、オーラによる肉体活性があれば話は別、次々と矢継ぎ早で攻め立てる刃が、今か今かと獣の首に手をかけようとする。
水平斬りからの、間髪入れない追撃。それらを少年は身をよじって回避する。しゃがみ、一刀目を避けると同時に、返す一太刀を後方宙返りで飛びのいて躱す。その着地隙を狩るように、剣と俺の体全部を槍と化すようにして突きを繰り出す。
消滅の光を彼は一時解除した。そしてキャスパーの爪で突きを受け止め、受け流す。だが、いなしきれなかったカイウスの剣がその頬を掠めた。鼻と耳との間ぐらいに一筋の赤い線が走り、だらだらと血が流れ落ちる。
「痛《つ》っ……」
「そいつはオリヴィアのぶんだ」
その爪で空を切り裂き生み出した真空の刃でオリヴィアを傷つけていたのを俺は見逃していないし、忘れてもいない。痛みに顔を顰めた少年の懐に入り込む。あの危険な白いエネルギーが無いのなら、大胆に踏み込むのにも躊躇はいらなかった。
「しつこいね、お兄さん」
「黙れ、舌を噛むぞ」
大きく天へ振りかぶり、一気に振り下ろす。手で防御しようとすれば腕に集中しているオーラまで打ち砕き、全身を燃やさんがばかりの熱量の剣だ。それで決めきるつもりだったのだが、そこまで刺客も甘くなかった。
眼前の敵をその一振りで両断しようとする斬撃、それを見て防御はできないと本能的に悟ったのだろう。何か決心したように、逆に一歩を踏み出した。カイウスの熱に当てられ、その灰色のくせ毛が焦げる嫌な匂いがした。
距離を詰められ、逆に斬撃が有効な間合いをつぶされた。肉薄した少年の鋭い爪がギラリと光る。三日月形のその鋭利な刃は、死神が振るう鎌のようで、首さえもそのまま刈り取ってしまいそうだった。
「ガぁッ!」
威圧するような雄たけびと共に、その腕を大きく振るう。オーラで身を包むようにして纏っているカイウスの鎧に亀裂が走る。幸い体には直接の傷はなかったものの、力強く跳ね飛ばされた俺の方が今度は体勢を崩す。
今しかないと、彼が攻撃に転じた。剣を使う俺とは違い、四肢の全てが彼の凶器だった。大きく跳びかかりながら、両手を振りかぶっての、タイミングをずらした二連撃。よろめきながらも右腕の初段は両手で持った剣で受けた。だが、不安定なところにさらに後ろへと突き飛ばされたものだから、大きく後方に姿勢を崩してしまった。
畳みかけるような左腕、第二の刃が降りかかる。まだカイウスの鎧が機能している側の半身を正面に突き出した。グラスを落とした時みたいな派手な音と共に、全身の紺の鎧が砕け散った。破片となり、宙を舞うと同時に細かな光の粒子へと還り、宙へと消えていく。
これで俺も、防御に関しては丸腰だ。待ってましたと言わんがばかりに、銀の爪を纏うように消滅の光が再び彼の手を覆った。このタイミングで再度異能の行使。脳裏に一つの仮説が生まれる。この、物質を消滅させる光には効果の及ばない代物があるのではないか。
例えば、守護神から供給されるオーラそのものとか。先ほど全身をオーラの鎧で纏っていた状態では彼は異能を使っていなかった。
だとすると、生身の体で食らうわけにいかなかった。先ほどまでの頑強に固めた鎧とまではいかなくても、漏出しているカイウスの力を薄く全身に纏い衣《ころも》のように利用する。
案の定、対策を打たれたことに少年は表情を歪めた。そこにペテン師の匂いは感じない。本心からの焦りや戸惑いが生まれていた。
だが、防御力には不安が残るままだ。消滅の異能こそやり過ごせるものの、依然として獣由来の爪牙が脅威であることに変わりない。
腹を狙った右腕を弾き、距離を取ってから放たれた真空の刃を俺の持つ剣で切り裂く。鎌鼬《かまいたち》に乗せられた銀色のオーラの残光は、光の粒となり雪の様に戦場に降り注ぐ。
瞬き一つする間隙ですら油断できない。ほんの数瞬目を離した隙に、地を蹴ったキャスパリーグは俺の鼻先に。兜の緒を締める如く、口元をきつく引き結びなおし、突進を仕掛けてきた肩を両腕で抑え込んだ。かなりの炎熱を今の俺は発しているはずなのに、もはやその熱さ痛みなど少年の肉体は感じていないようだった。
髪の焦げるどころか、肉の焦げる音と匂い。だが、狂い切った今のこいつは自分の肉体さえも見殺しに突き進んでくる。肩を抑え込まれ、腕が振るえないとなると、瞬時に機転を利かせ、上空へ飛び上がるように地面を蹴った。
膝蹴りが俺の胴の中心目掛けて放たれる。慌てて肩を押さえつけていた両腕でガードしようとするも、両腕とも押し負け、勢いを欠いた膝がそのまま俺の腹に入った。
「お前……!」
酸っぱい何かが蹴りの勢いでそのまませり上がってきそうになるが、何とか飲み込む。遮二無二殴り返せば、奴の軽すぎる体はゆうに数メートル吹き飛んだ。しかし間髪入れずに立ち上がる。狂喜を湛《たた》えた眼光の下、殴り飛ばされた頬は火傷で痛々しく腫れあがっていた。
「イカレてんのかよ!」
「何だよケイ卿、自分の力だろ。戦うって決めたんだろ? あんたの親父を殺したのは僕さ。だったら何戸惑ってるの、本気で来なよ!」
力に囚われ、戦いの虜になっているようだった。これが教官の言っていた、大きすぎる力に呑まれるというやつなのだろうか。俺たちでさえこうだって言うんなら、位階が三桁の連中とか、|ELEVEN《王様》たちはどんな気分なんだろうな。
やるせなさが募る。こんな奴が本当に親父の仇なのかと。急に怒りさえも馬鹿馬鹿しくなってしまった。代わりに決意する。こいつだけはどうしても止めなくてはいけないと。何も、こいつ一人を止めるってだけの話じゃない。同じように力に振り回される人間が生まれないように、|セクエント《俺たち》がいるぞと見せつけてやる必要がある。
「カイウス、剣と鎧の新調頼む」
『半人前が。俺ならそんな事になっていない』
「……だろうな」
毒を吐きながらも、ボロボロに刃毀《はこぼ》れしていた剣と、先ほど砕かれた鎧が再度生成される。再び全身を武装した俺は、次のやり取りでこの勝負を終わらせることを胸に誓った。
もう、こいつの言葉は聞いてやらない。指を三本立て、あいつに見せつけた。
「三つだ」
急に何をと、ぼろぼろの体、焼け焦げた衣服を纏い、少年は首を傾げた。へらへら笑いも止もうとしない。だが流石に次の瞬間、その表情も変わった。緩み切った嘲笑などどこへやら、ピリピリと張り詰めるような憤懣に満ちていく。
奴の表情を変えたのはまさに、俺の言葉だった。
「お前が俺に負ける理由は三つある」
ひりつくような緊張の走る最中、敵愾心と対抗心の炎が、少年の瞳の奥に灯っていくのだけ見届け、剣先を向け直した。
この時の俺はまだ知らなかった、テムズ川の上流に暗雲が立ち込めていたこと。その最中に、またしてもオリヴィアが巻き込まれていたことも。
- Re: 守護神アクセス ロンドン外伝 ( No.6 )
- 日時: 2022/06/24 19:29
- 名前: 狒牙 ◆nadZQ.XKhM (ID: T32pSlEP)
「ふざけんなよ!」
激高した化け猫が襲い掛かる。相変わらずの、両腕を使った二段攻撃。一本の刀では捌ききれないと先ほど理解したため、相手の呼吸に合わせ、左、右とリズムよく体をひねらせ回避した。虚しく空だけを裂いて、四つ足の体勢で奴は着地した。
唸るように荒々しく息を吐き出す姿と言い、本物の獣にしか見えない。外した、そう理解した直後にまた、本能的に動き出した。四つ足のまま、今度は脚力でなく腕力で跳躍した。曲げた腕を伸ばすときの勢いで、また銀の影が迫りくる。
身を翻す勢いも加えた一裂き。大げさに構えた右腕を振り下ろす力と、全身を捩る遠心力を同時に乗せた一撃。総計五本の鋭爪が、立ちはだかる俺を切り身にするべく降り注ぐ。何度も剣で受け止めているから分かる。まともに食らえば確かに致命傷だろう、だが。
一閃。音さえも殺すようなカイウスの技巧。静謐を保ったまま放たれた神速の斬撃が、その腕を捉えた。斬り落とされた怪猫の凶爪が、寂しさを吐露するような声を上げて地面に堕ちた。
再生の隙は与えない。そのまま矢継ぎ早に斬撃を浴びせ続ける。斬り、裂き、焦がし、炙り、突き、貫き、刻み続ける。その度に応戦しようとする少年だが、抵抗というには無力なものだった。腕で受け止めるも、勢いを殺しきれずに転がる。それでも何とか立ち上がろうとしても、熱に体が音を上げ始めていた。不意打ちの様に放たれる突きに何とか対応して身を捻っても、バランスを崩して不利になるだけだ。
よろめいたところに蹴りを放った。どうやら剣にしか意識がいっていなかったのだろう、防ぐこともできずにあっさりと痩身の男の子は吹き飛んだ。もはや半壊状態の街並み、そこに立ち並んだコンクリートの壁に正面から叩きつけられていた。
短く吐かれた喘鳴、もはやその幼い体には限界が訪れていた。肉体活性のおかげで内臓破裂や複雑骨折までは負っていないだろうが、全身の打撲、広範囲の火傷、多くの擦り傷と捻挫は免れられない。
「どうし……こんな……」
未だに少年は、自分がここまで打ちのめされている現実が理解できていないようだった。瞼のあたりが火傷の水膨れで腫れあがり、目も完全には開いていない。だらりと垂れた腕は変に曲がって居たりはしない。おそらく力を籠めると痛みが強まるからそうしないといけないのだろう。もう興奮状態は収まり、脳内麻薬のごまかしも効かなくなったのだろう。
歯が砕けてしまうのではないかと思うような歯ぎしりの音が、静けさの中波紋を広げるように届く。
「もういいだろ、お前の負けだよ。大人しく捕まれ」
そして剣ではなく法で裁かれてもらう。我が家を更地にしてくれたこと、周囲の街並みにも余波を広げたこと。そして何より、無関係だったはずの親父を殺したこと。このような破壊活動、テロリズムに守護神を用いるのは当然ご法度だ。知りませんでしたじゃ当然済まない。
「負けてない! どうして……! 僕のキャスパーの方がカイウスよりも上じゃないか、なのにどうして歯が立たないんだ……」
「世の中お前が知らないことが沢山あるんだよ」
「馬鹿にするな! 守護神の強さの序列はナンバーズが小さい方が上! そんな事、学校に行ってなくても、ナーサリーでも知っているぞ! どいつも、こいつも……僕らをゴミ溜め出身って馬鹿にして……。あの人だけだ、そんなこと言わなかったのは。だから、あの人に変えてもらうために僕は……お前たち円卓を殺さなくちゃいけないんだよ!」
もう一度、最後に残された己の命を薪として、彼の全身から白銀のオーラと、消滅の白光が発散される。そんな事をしても威嚇にもならないというのに。案の定だった、彼の消滅の光は先ほど俺が予想した通り、守護神のオーラだけは浸蝕できないようだった。砂埃、残された家屋の壁、吹きすさぶ風の運んでくる塵芥。そういったものは触れると同時に消えてしまう白光も、カイウスの剣と鎧は消すことができなかった。
「そうだな、お前の言うとおりだ。原則はな」
「原則、は?」
「そうじゃないこともあるって事さ」
円卓の騎士は、本来もっと上位の位階を有していたが1200番台のナンバーズに留まっている。それは彼らが、円卓の騎士が十二人だと再確認するための願掛けのようなものだった。伝説の中で彼らは、壮絶な身内争いで滅んでしまった。だからこそ、死後の世界では今度こそ手を取り合うと誓ったのだ。
その戒めこそが、位階に刻まれた数字だった。本来与えられた一層高い席次を破棄する場合、望む位階を手に入れることができる。
「カイウスの本来の席次はもう少し上だ。丁度お前のキャスパーと同じぐらい。後、ガウェインに関しては大体800程度。見かけの数字じゃ分からないんだよ」
「そんな、何でそんなルール破りができるのさ」
「俺たちにも分かんねえよ。でも多分、守護神的にはこれも、ルールに則ってるんじゃねえの?」
それが、俺に勝てない理由の一つ目。本来の守護神としての実力に大差はないのだ。彼はきっと、その位階の差というものを絶対の優位と信じていたのだろう。だからあんな風に戦いを、あるいは殺し合いを楽しんでいられた。自分が勝って当たり前だなんて、思っていたから。
「そして理由の二つ目。守護神には相性がある」
例えば、アレキサンダー大王のような、生前王であった守護神がいるとする。そういう存在を、王の性質を持った守護神と呼ぶ。また、クレオパトラや楊貴妃といった、国王をもたぶらかしたような絶世の美女は傾城の性質を持っているという。このように属性に従うと、王の守護神は傾城の守護神に対して相性が悪いと言われる。傾城というのは、君主皇帝国王さえも篭絡する存在と知られているからだ。
それとはまた別のケースで、人々の言い伝えから相性の有利不利が生まれることもある。その例として相応しいのは今この瞬間、俺とあいつの間で成り立っている関係が相応しかった。
「後年ではアーサー王が倒したとされるキャスパリーグ、でも過去にさかのぼってみると、元々化け猫退治をしていたのはケイだったっていう話があるんだ。守護神たちの肉体も、住んでいる異世界も、俺たち人間界の夢、幻想、想いが寄り集まってできたものだから、そういう言い伝えが色濃く反映されるんだよ」
カイウスには、“キャスパリーグを倒した勇士”という属性がある。だからこの場において、単純に二人きりで力比べをした場合俺が有利になるのだ。何もあの少年自体にも、無論キャスパーにも落ち度はないし、カイウスが卑怯な手を打った訳でもないのに。世界のルールで、そのように決められている。
それが、第二の理由だった。
「ここにオリヴィア……俺の妹がいなくて良かったな。浅学は改めなさいって叱られてたぜお前」
「うるさいな……望んだってできるような暮らしじゃなかったんだよ」
「だろうな、でも、学校に行けなくても、やっちゃいけなかったことぐらい知っておけよ」
自分が愚弄されたと思ったのか、これまでの非運を、境遇の悪さへの怒りを吐き捨てるように彼は叫んだ。だが、そんな甘えを受け入れるつもりはない。何も俺は、人を傷つけてはいけないと学校で学んだつもりはない。躾だったり理不尽な暴力だったりで痛みを知って、それを人にぶつける人間にはなるまいと決めた。
「自分の辛さを他人にもぶつけていいって開き直る奴は、生まれもってそんな事思ってやがる。それは境遇とか育ちの悪さじゃなくてお前の心の奥底から生まれたものだ。誰に教えられなくても、人のことを慮れるやつはいる」
「何だ説教かよ、そんなにぬるま湯じみた甘ちゃんが偉いのかよ」
「違う、俺たちが偉いんじゃなくて、お前たちが可哀そうなんだ」
「だから……馬鹿にすんなって言ってるだろうがぁ!」
命を賭してでも、俺だけは殺す。そう、決意したのだろう。しかし、残念ながら時間切れだ。
急に少年の全身から力が抜ける。彼の体を覆っていた白銀の闘気、それは煙のように天へ立ち昇って消えてしまった。消滅の白光も同じだ。不意に存在感を失い、雪のように融けてしまった。
全身に込められていた力も霧散していく。守護神アクセスの副次効果である肉体活性も当然、こうなってしまっては無かったことになる。これで少年は丸腰同然、ただの非力な子供だ。なぜなら今、守護神アクセスは解除されてしまったのだから。
彼が俺に決して勝てない第三の理由。それは守護神アクセスの時間制限だ。
「守護神と契約したばかりの人間は、まだ己と契約相手の間に繋いだバイパスが細い。だから、短時間で守護神アクセスはタイムリミットを迎える。俺とカイウスの信頼は三年仕込みだ。ところで……」
お前の研鑽はたかだか何時間なのか言ってみろよ。
眉間に力を込め、細めた目で彼に問いかける。脱力と同時に、緊迫感も度胸も飛んで行ってしまったのだろう。「ひっ」と一つ、子供らしい悲鳴だけ残し、表情は恐れと焦燥とで情けなく崩れた。さっきまでの怒り、ずっと前の余裕ぶった薄ら笑い、その面影は一切残っていない。
「も、もう一回だよ。守護神あくせ……」
「間に合わねえよ」
Phoneを取り出し、再度キャスパーを呼び出そうとする。だが、それは叶わない。今の少年は生身の人間、向き合う俺はまだカイウスと一体となっている。取り出した小型デバイスは無防備にも程があった。
俺とあいつを分かつように、紺色の残像が間の空間を駆け抜けた。カイウスの剣による高速の斬撃。一瞬、斬られたことにすら気づいていなかったようだが、次の瞬間にPhoneの液晶の上に一筋の線が走った。斜めに走った断面を滑り落ちるようにして、小型の機会は真っ二つに分かたれた。断面からは一拍遅れ、火が上がる。内部部品の内、発火性がある物がカイウスの熱により引火したのだ。
突如揺れた焔の光に怯え、もはや機能を果たさないゴミとなったそれを少年も投げ捨てる。器用にも彼の手には傷をつけることなく、守護神アクセスだけを封じ込んだ。
しかし、まだ終われない。
「まだお前にはオリヴィアの分の借りしか返してなかったな」
その言葉の意味にすぐには思い至らなかったらしい。ふと、彼は火傷していない側の頬に触れた。そちらには先ほど俺が剣先を掠めてつけた切り傷があった。先ほど彼がオリヴィアに投じた斬撃で出来た頬の傷とお揃い。喘ぐような呼吸を二回ほど挟んだところでそれに気が付いたらしい。
彼に見せつけるように、断頭台のギロチンのように天高く剣を振りかぶった。次の瞬間、こいつももう一つの借りに思い至る。彼が最初に手にかけた、俺たちの父親。それはどのような姿で俺たちとの再会を果たしていただろうか。
「ごめんなさっ……」
「聞こえねえな」
大きく振り上げた刃を上空から一息に振り下ろす。音を立て地面にぶつかる。少年の体を引き裂くことはなく、アスファルトの大地を砕いた。
分かっている、彼の首を落としても、俺自身満足できないこと。親父も帰ってこないってこと。だったら俺は、俺が生きやすいように生きていきたい。こんなガキ一人殺した十字架なんざ背負いたくなかった。何より、こんな可哀そうな奴と同じところに堕ちるのが嫌だった。
復讐は何も生まないなんて綺麗事は糞くらえだ。だから俺は、俺のエゴでこいつを殺さないことに決めた。オリヴィアを人殺しの妹になんてしたくなかったから。
死んだと思ったのだろうか。失禁したまま恐怖のあまり意識を失ってしまったらしい。寝小便とは何とも子供臭いことだ。心を強く保つためにも、そんな毒を飛ばすことしかできない。
ごめん、親父が殺されたってのに、こんな事しかできなかった。
街がぐちゃぐちゃだっていうのに、馬鹿みたいに呑気なお日様を俺は見上げた。何とかして、今の自分が感じている感傷に負けないようにと。
けれど、無理だった。雲なんてない、からりと晴れ上がった空の下、二筋の天気雨はしとしとと降り注いでいた。