ダーク・ファンタジー小説

Re: メランコリック・レイニー ( No.1 )
日時: 2012/08/14 21:18
名前: ベルクシュアテン ◆ulufrlRV4E (ID: Vgvn23wn)

【雨の沈丁花】


 パラオ共和国、ペリリュー島。
 日本の南、太平洋上に存在するこの島の一角に一つの神社があった。
 ペリリュー神社と呼ばれるこの神社に参拝する一人の老婆。
 彼女の脳裏に何十年も前の、戦争の記憶が蘇る。


「……なぁ、田村」
 1944年10月3日、ペリリュー島。
 ひどく蒸し暑かった。
 もう出る汗もないような気すらした。
 煙草に火をつけながら、自分の名を呼んだ戦友の方を見る。
「缶詰、残ってねぇか?」
 戦友の質問に、田村は無言で正面の壁際に投げ出した自分の背嚢を指差した。
 戦友——坂間はライフルを杖代わりにしながら立ち上がり、田村の背嚢の中を見る。
 そして、無言で戻ってきた。
 缶詰など一つも残っていない。
 今田村の手元にある食糧といえば、腰に提げた水筒の中の僅かな水だけだった。
 当然、大した腹の足しにはならず、只管空腹に襲われていた。

 米軍の上陸を許して二十日。
 ゲリラ戦を得意とする日本軍も流石に疲弊し、次第に米軍の物量に押し潰されそうになっていた。
 田村の仕事は狙撃手であり、普段は木の上にいるが、弾薬の補給のために近くの洞窟までやってきていた。
 偶然出会った同じ狙撃手の坂間と意気投合し、二日間同じ洞窟で過ごしていたが、司令部から走っていった伝令が帰ってこなくなった以外の変化はなく、遠くから聞こえる砲声を聞きながら、ライフルの整備と居眠りに勤しんでいた。
「坂間、坂間一等兵はいるか」
 少尉が呼ぶ声が聞こえ、坂間は出来る限りの鋭い声で返事をしてそちらへと歩いていった。
 田村は煙を吹きながら、膝に載せたライフルを見た。
 ライフル——九七式狙撃銃は、昨日の整備の甲斐あって、今なら最高の狙撃が出来るような気がした。
 しかし、田村は今から洞窟の外へ出て行こうとも思わない。
 弾薬は一人が使う分には十分な程受け取っていたが、田村は空腹で動く気にもならなかったのだ。
 ふと、仲良くなった現地の子供のことが頭を過る。
 この島で生まれ育った、12歳くらいの少女だったが、とても歌の上手い少女だった。
 もう彼女はこの島にいないが、無性に彼女の歌声を聞きたいと思った。
「……燃ゆる眼差し眩しさにィ、歌を口ずさみつつ」
 叶わぬ願いではあったが、それでも彼は願うのをやめなかった。

 翌日、田村は木の上にいた。
 そこから米兵を狙い撃つ為だ。
 最後の煙草を満喫しつつ、ヤニまみれの手で三十八年式実包を九七式狙撃銃に込める。
 整備は万全、心なしか狙撃眼鏡も見えやすかった。
 再び、彼の頭の中を少女の歌声が過る。
 ふと見れば、すぐ下には民家が一軒あり、その近くの茂みには日本兵が二人、伏せていた。
 ぱっと見れば全く見分けがつかない程に上手く隠れている二人からは、なんとなく田村と同じにおいがした。
 煙を吐く。
 銃声と悲鳴が響き、少し先の方の塹壕で、万歳突撃を敢行した日本兵達が戦っているのが分かった。
 下の二人も、田村も、その戦闘音に耳を澄ませるばかりで動こうともしない。
 やがて戦闘音は消え、静かになる。
 日本兵達が制圧されたのだろう。
 田村はそっと木の上に座り直す。
 今日は命綱はつけていない。

 十数人のアメリカ兵が互いにカバーし合いながら歩いてくる。
 一人、火炎放射兵がいるのを田村は見逃さなかった。
 早速、その火炎放射兵を狙って発砲する。
 発射された6.5mmの弾丸は火炎放射兵の脇腹を貫通し、同時に火炎放射器のタンクに穴を開けた。
 火炎放射兵が周囲のアメリカ兵ごと燃え上がり、アメリカ兵達はパニックに陥った。
「Sniper!(狙撃兵だ!)」
 下士官らしきアメリカ兵が叫ぶと、その直後茂みに隠れていた一人がその下士官の頭を撃ち抜いた。
 指揮官を失ったアメリカ兵達は更に狼狽し、茂みに向かって短機関銃を乱射する。
「Enemy sniper on the tree!(木の上に敵狙撃手!)」
 一人のアメリカ兵が田村へと銃口を向けたが、その頃には田村は引き金を引いていた。
 胸を撃ち抜かれたアメリカ兵が放った弾丸は田村のいる木の幹に当たる。
 茂みにいた二人は既に生きていない。
 田村はボルトレバーを引き、再び照準を合わせる。
 そして再び引き金を絞ると、今度はアメリカ兵の頭に当たり、アメリカ兵はまるで糸の切れた人形のように倒れた。
 しかし、同時に四発の弾丸が田村を撃ち抜く。
 ——あぁ、最初から予想していたよ。
 命綱もつけていなかった田村の身体がふらりと木から落ちる。
 落下中、薄れ行く意識の中で田村はまた少女の歌声を聞いていた。

 燃ゆる眼差し眩しさに 歌を口ずさみつつ
 そっと窓辺に寄りて 瞳をそらしたのに


「……ただそれだけのことなのにィ、さよならも、言わないでェ……あの人は帰って行って、しまったァ……」
 彼女は自然と口ずさんでいた。
 日本語は長いこと使っていなくて、大分忘れてしまったのに、何故かこの歌は忘れられなかった。
 子供の頃仲良くなった、一人の日本兵が好きだった歌で、よく歌っていたのを真似して歌ったら、上手いと褒めてくれた歌だ。
 雨の沈丁花——曲名を知ったのは、ペリリュー島の日本軍が玉砕して暫く経ってからのことだった。



—後書き—
 大東亜戦争の激戦の一つであり、約六倍の兵力と数百倍の火力で押し潰してくる米軍を相手に日本軍はゲリラ戦で三ヶ月弱戦い、実に10000人の日本兵と1800人ものアメリカ兵が犠牲になった、ペリリュー島の戦い。
 無論日本の義務教育の歴史では全くに等しく教えられませんが、私達のご先祖様……大東亜戦争の英霊の皆さんが散ったことに変わりはありません。
 また、この島の戦いにおける民間人の死傷者は0といわれており、それは日本軍が夜間に米軍の空襲の間を縫って現地の住民をパラオ本島とコロール島に移動させたためです。
 因みに“雨の沈丁花”は実在する歌謡曲で、昭和十六年(1941年)頃に日本で流行しました。