ダーク・ファンタジー小説

Re: メランコリック・レイニー ( No.2 )
日時: 2012/08/15 21:40
名前: ベルクシュアテン ◆ulufrlRV4E (ID: Vgvn23wn)
参照: 黙祷。

【フリージング】


 1942年11月、ソヴィエト連邦スターリングラード。
 私は、ここにいた。
 崩れかかったビルの二階、壁に大穴が開いた部屋だ。
 匍匐姿勢でモシン・ナガン狙撃銃を構える私の隣に座る、まだ18歳だという女兵士アーニャは白い息を吐きながらヴォトカ(ウォッカのこと。アルコール度数が高く、ロシアでは一般的な酒)を差し出してきた。
 私はそれを受け取り、一口飲むとすぐに返す。
 ヴォトカは身体を温めるのには丁度良いが、あまり飲みすぎると狙撃に支障が出るからだ。
 アーニャはヴォトカを置くと、すぐにPPSh-41短機関銃を持ち直した。
「リュドミラ、ドイツ人の顔は見えますか?」
「……いや、誰もいないわ」
 スコープ越しに見る街の様子は酷かった。
 広場の噴水の近くには多くの同志達(ここではソ連兵のことを指す)の遺体が横たわり、中には戦車で踏まれたような悲惨なものまである。
 私達は未だドイツ軍の占領下にある市街地にいたのだ。
 最初の守備隊の生き残りなど、恐らく私達以外にはそうそういないだろう。
 逃げ回りながらも掻き集めた食べ物も、そろそろ底を尽く頃だ。
 チーズと乾パンが無くなれば、あとはヴォトカしか残らない。
 しかし、アーニャも私も呑気なもので、ドイツ兵に見つかれば殺され、捕まれば犯されて殺されるのが関の山だろうなどと話していた。

 モシン・ナガンを構えつつも考える。
 一体この街で何人の人間が死んだのだろうか。
 ドイツ軍がこの街に攻め入ると、赤軍の組織的統制はあっという間に崩れ、しかし冬になるとドイツ軍の動きも鈍ったため、生き残った赤軍の兵士達は味方の増援を待ちつつもこの街に残っていた。
 アーニャは私のくすんだ金髪に指を絡め、口を開いた。
「寒くないですか?」
「確かに寒いけど、あまり気にしないことにしたわ」
 私は頭を逸らして手を払いながら答えた。
 この数ヶ月にも及ぶ逃走の中で、当然ながらドイツ兵と戦うことも多々あった。
 身長180cm、体格だけは男並みに良い私はある時、ドイツ兵と白兵戦になり、そいつを三階から突き落としてやった。
 そして、ウシャンカ(ロシア帽とも。毛皮で出来ていて、耳当てがついている、防寒用の帽子)をドイツ兵ごと落としてどこかにやってしまった代わりにドイツ兵が持っていたMP40短機関銃を手に入れた。
 今そのMP40は私のすぐ横に置いてある。
 しかし、一方でウシャンカを失った私の頭はとても寒かった。
 流石にアーニャのものをもらうのも忍びないため(そもそもくれないとも思うが)、ずっとこのままだ。
 早く春が来てほしいなどと思いつつ、スコープを覗く。

 敵もいなければ、味方もいない。
 見える範囲にはほぼ死体しかない。
 流石にここまでくると、気が滅入りそうだった。
 もう何日も同じ死体を見ている気がする。
 私は一度スコープから目を離し、ごろりと寝返りを打つと、壁に寄りかかって座った。
 長い時間匍匐姿勢だったため、肘が痛い。
「移動ですか?」
 アーニャが尋ねてくるのに、私はすっと手で否定の意を示し、大きく息を吐く。
 白い息が前へと飛んでゆき、そして散っていった。
「リュドミラ、何が見えているのですか?」
 アーニャが再び尋ねてくる。
 移動中の余裕があるときや、こうして少し休憩したときなどに必ず聞いてくる内容だ。
 私はいつも通り答える。
「現実。ソヴィエトが負けているという現実が見えてる」
 目の前にいるのが年下の、しかも二等兵ともなると私も気が楽だ。
 アーニャは微笑んでみせる。
 もしも、彼女が政治将校だったりしたら、私は頭に7.62mmトカレフ弾を撃ち込まれて死んでいたことだろう。
 私は彼女の身体を抱き寄せ、額に軽くキスをすると、モシン・ナガンを腕に抱き、アーニャに寄り添った。
「寒いですね」
「そうね」
 淡々とした会話。
 アーニャの僅かな温もりが伝わってくる。
 彼女の体温が高いのか、それとも私が低体温なのか、ともかく私とアーニャは眠るときやひどく寒いときは寄り添って、互いに温もろうとする。
 その時に感じる、アーニャの温もりこそが今の私の唯一の癒しだった。

 翌日も、やはり動きはなかった。
 そんな日が三日続いた、ある日。
 スコープ越しに、ドイツ軍の車列が見えた。
 車両に乗るドイツ兵の中に、見るからに仕立ての良さげな軍服で、制帽を被り、煙草を銜えた、明らかに高級将校らしき男が見えた。
 私はアーニャにこのことを伝える。
 アーニャは撃ちたければ撃てば良いじゃないかといい加減に答えてくれた。
 その時は頼むよ、と私は返し、再びスコープを覗く。
 この距離なら狙撃をした後、ドイツ軍が押し寄せるより速く逃げ出せるだろう。
 私は引き金に指をかけた。
 将校に照準を合わせ、そして引き金を絞る。
 乾いた音、光、肩に当てたストックから反動が伝わり、銃口が跳ね上がる。
 再びスコープで覗くと、将校は倒れ伏しており、周囲のドイツ兵達は慌てた様子で周囲を警戒していた。
 そもそも私達の場所すら分かっていないようだった。
 ここで私は欲を出した。
 ボルトレバーを引き、再びスコープを覗き直す。
 次に狙ったのは、MP40を構えている先程の将校の補佐らしき男だ。
 よく狙って、引き金を引く。
 一秒の間を空けて、補佐らしき男はその生涯を終えた。
 しかし、これが私の判断ミスだったのだ。
 私はボルトレバーを引き、ドイツ兵がこちらに気付いたのを確認し、あと一人撃ったらすぐに逃げようと思っていた。
 スコープ越しに戦車が目に入る。
 あぁ、終わった。
 主砲が思い切りこちらを睨んでいる。
「アーニャ逃げろっ!」
 私は、振り向いて叫ぶ。
 確かにそう言った。
 言ったと思う。
 その直後、頭の上を何かが飛び抜け、そしてすぐ後ろで炸裂した。
 視界が真っ暗になり、反射的に自分が目を瞑ったのが分かった。
 全身に激痛が走り、段々その激痛は消えていき、ただただ身体が熱くなった。
 漸く目を開くと、目の前にアーニャの顔があった。
 激しく、しかし虫の息の彼女は私と目が合うと、私に向かって微笑んだ。
 少しずつ、身体が楽になっていく。
 何も感じない。
 アーニャは微笑んでいる。
 私もそっと微笑んだ。


 戦場では、一瞬の判断のミスが命を奪う。
 自分の、仲間の命をも奪う。
 それを減らすには、常に相手の二手三手先を読むことだ。



—後書き—
 独ソ戦で書いておいてなんですが、今日は終戦記念日でございます。
 靖国神社参拝、とまではいかなくても、黙祷くらいはしましょう。