ダーク・ファンタジー小説

Re: メランコリック・レイニー ( No.3 )
日時: 2012/08/16 20:57
名前: ベルクシュアテン ◆ulufrlRV4E (ID: Vgvn23wn)

【ライ麦のパン】


 1942年2月。
 フィンランドとソヴィエト連邦の国境から大分西にあるこの陣地に、二人はいた。
 フィンランド国防軍のマキネン一等兵とコルホネン一等兵である。
 二人はKP/31短機関銃を脇に抱えながら塹壕に座り込み、前を歩く味方兵士の邪魔にならないよう、足を引っ込めた。
 東から攻め込んでくるソ連軍に怯えながらもこの塹壕を守り続ける彼らは、酷く疲れた様子を見せていた。
 真冬のフィンランドである。
 辺りは雪で真っ白になり、時折遠くにソ連軍だかドイツ軍だか分からない戦車部隊がうろつく以外、当面の敵は時折やってきて攻撃を仕掛けてくる共産パルチザンとマイナス40度という寒さだけだった。
「なぁ、マキネンよ。なんでイワン(スラヴ系の一般的な男性名。転じてロシア人のことを指した)の連中、最近来ないんだ?」
 黒ライ麦パンを食べていたマキネンは怪訝そうな顔でコルホネンの方を見た。
「来ないんだから良いだろう。来たらまた俺達は死ぬ一歩手前まで追い詰められちまう」
「それもそうか。縁起でもなかったな、すまない」
 コルホネンの質問に、自分の代わりに答えてくれた仲間に軽く感謝しつつもマキネンはまた一口、パンを齧った。
 コルホネンが再びマキネンの方を見る。
「……一口くれよ」
「やらん」

 また一夜明けた。
 枢軸軍が相当優秀なのか、ソ連軍は驚くほど来ない。
 長らく撃っていない銃も、毎日のように整備しているとはいえ、使えるかどうか心配だった。
 コルホネンはKP/-31についた微量の土を吹き払い、ため息をついた。
 白い息が一層寒さを感じさせる。
 マキネンの方を見ると、まだ眠っている。
 コルホネンより年長で、冬戦争を生き抜いたマキネンは、歴戦の戦士の雰囲気があった。
 彼は昨夜も夜間の見張りを引き受け、早朝まで起きていたのだ。
 誰も眠っている彼には触れない。
 同じ一兵卒でありながら、ヴェテランの風格を醸し出す彼のことを誰もが尊敬していたのだ。

 次の日も、その次の日も、やはりこの陣地は暇だった。
 重要な防衛線で、補給物資だけは豊富にあったこの陣地の兵士達は少しずつ調子に乗り始める。
 猟師だったという狙撃手が一頭の鹿を仕留めたらしく、その日の晩は指揮所を含めてその鹿の肉を存分に味わった。
 ライ麦パンなどより遥かに美味しかった。
 夜、黒ライ麦パンを齧りながらマキネンは塹壕の隅から空を見上げた。
 ソ連軍はこの日も来なかった。
「なぁ、コルホネン」
 塹壕から頭を出し、平原の向こうが真っ暗なのを確認していたコルホネンが振り向く。
「まるで平和になったみたいだな。今が戦争中だなんて信じられん」
 マキネンは、微笑んでいた。
 そこには何十人というソ連兵を殺し、過酷な戦争を生き抜いてきた戦士の風格などなく、ただの軍服を着た男。
 彼も単なる一人の人間なのだと実感する。
 脇に抱えたKP/-31をちらりと見て、マキネンは続ける。
「こいつを持たなくても良くなる日が来るのはいつになることかね。俺はその日が待ち遠しい」
 猛禽類のような、しかしどこか懐かしげな色の目が再びコルホネンを捉える。
 コルホネンもマキネンに微笑み返し、
「きっと来るさ。……それ一口くれよ」
「やらん」

 その日は唐突にやってきた。
 その時、マキネンは黒ライ麦パンを齧りながら塹壕の外を眺めていた。
 平原に敵影はない。
 マキネンはそれを確認して頭を引っ込めた。
 その時だった。
 銃声が鳴り響き、全員が頭を低くする。
「パルチザンだ!」
 誰かが叫ぶと、フィンランド兵達は激しく動き回り始めた。
 銃を構えて別方向からの攻撃に備える者、指揮所と現場を行ったり来たりして現状を報告する者、補給物資を守るために銃撃戦に参加する者——一瞬でそこは戦場と化した。
 しかし、すぐにパルチザンは撃退された。
 2,3人が倒れるとすぐに撤退したのだ。
「に、逃げ出した……? ちょっと見てくる、援護頼むぜ」
 一人のフィンランド兵が敵の退却を確認するために塹壕から出る。
 パルチザンの死体は20m程先にあり、よくここまで遮蔽物がない場所で銃撃戦を挑んだものだ、などと感心できる程近かった。
 確認に出た兵士は死体が完全に死体であることを確認し、歩いて戻ってこようとした。
 しかし、直後に背後から一発、銃声とともに倒れる。
「狙撃手だ! 向こうの木の陰!」
 様子を見守っていたフィンランド兵達の中の一人が叫ぶ。
 猟師だった狙撃兵が構える。
「どの木だ!?」
「あの木だよ、あそこ!」
「分からんぞ!」
 また塹壕の中は騒がしくなる。
 その時、一人のフィンランド兵が撃たれた兵士を指差して言った。
「彼はまだ生きてる! 助け出そう!」
「よし、俺が行ってくる! 援護してくれ!」
 名乗りを上げたのはコルホネンだ。
 フィンランド兵達はそれに応じ、塹壕から身を乗り出すと、敵狙撃手がいるであろう木々に向かって弾をばら撒くように掃射した。
 それが終わると同時にコルホネンが飛び出し、撃たれた兵士の元へと駆け寄る。
 その撃たれた兵士を担ぎ上げて運ぼうとした時、また銃声が鳴り響いた。
 コルホネンが膝から崩れ落ちる。
 その直後にまた銃声、狙撃兵がボルトレバーを引き、「仕留めた」と呟いた。
 マキネンと数人の兵士達がコルホネンと撃たれた兵士へと駆け寄る。
「う……あ……マキ……ネン、は、はっは、パン、……一口くれよ……」
 マキネンが抱き上げると、コルホネンは血が流れ出す口を微かに動かしながら言った。
 マキネンはポケットに突っ込んだままだった食べかけの黒ライ麦パンを取り出すと、そっとコルホネンの口元へと持っていった。
 しかし、コルホネンは口にすることなく、穏やかな表情のまま意識を手放し、静かに息を引き取った。
「……やるよ、このライ麦パン」
 マキネンはそっとコルホネンの手に黒ライ麦パンを握らせ、呟いた。
 白い雪は、撃たれた兵士とコルホネンの血で、真っ赤に染まっていた。



—後書き—
 多分義務教育の歴史では名前すら出てこないであろうフィンランドの戦争、冬戦争と継続戦争。
 赤軍パルチザンがここまでフィンランドに入り込んだ場所に現れたのかどうかに関してはつっこみなしでお願いします。