ダーク・ファンタジー小説

Re: メランコリック・レイニー ( No.5 )
日時: 2012/10/07 07:48
名前: ベルクシュアテン ◆ulufrlRV4E (ID: YO.h.a0k)

【アッド】


「ここが地獄の一丁目か」
 誰かがそう冗談めかした。
 ソヴィエト連邦、スターリングラード。
 ドイツ軍の侵攻を受け、地獄となった場所だ。
 彼らは今まさにその地獄へと送り込まれようとしていたのである。
「ユーリ、黙っていろ」
 先ほど冗談めかした男ユーリはウラジーミルの言葉にふん、と鼻で笑って返した。

 ヴォルガ川を越えればそこはもうスターリングラード、昔はツァリーツィンと呼ばれていたソヴィエト有数の大都市だ。
 小さな舟艇に20人程のソ連兵が詰められ、酷く窮屈ではあったが、誰も文句など言わない。
 舟艇の縁に立った政治将校がメガホンを手に、叫ぶ。
「祖国のために! 我らが祖国ソヴィエトのために! ファシスト共を撃滅し、この母なるロシアの大地から追い出すのだ! 奴らに何がある! 奴らにはもう何も残ってはいない!」
 政治将校が一度息を吸おうと言葉を切った直後、前方の舟艇が吹き飛んだ。
 皆が唖然とする。
 ドイツ軍の迫撃砲の直撃を受けたのだ。
 その時、一人の男が立ち上がり、川に飛び込もうとした。
 周囲の兵士達もそれに釣られるように立ち上がる。
 慌てて政治将校が飛び込まないように押さえたが、一人がその間をすり抜け、ヴォルガ川へと飛び込んだ。
 政治将校が拳銃を抜く。
「裏切り者め! 死ぬが良い!」
 そう言うと兵士が飛び込んだ水面へと発砲した。
 PPSh-41短機関銃を構えた数人の督戦隊兵士も水面に発砲する。
 飛び込んだ男が浮かんでくることは無かった。

 川岸に到着すると、武器も持たないソ連兵達は舟艇を降りる。
 ヴォルガ川の畔の橋頭堡となっている地点ではソ連兵達が並び、政治将校からライフルと弾薬を手渡されていた。
 そしてそれらを受け取ると、すぐにドイツ軍の砲火の中に飛び込んでいくのだ。
 ドイツ軍は小高い丘の上に防御陣地を構え、突撃するソ連兵達を一人ひとり、まるで的を撃っていくかのように弾丸を叩き込んでいく。

「ライフルは二人に1挺だ! 一人がライフルを、もう一人が弾薬を持て!」
 政治将校が叫ぶ。
 ウラジーミルはモシン・ナガン小銃を受け取り、すぐに走り出し、そしてすぐに政治将校に怪しまれないように大きな倒木の物陰に隠れた。
 すぐ近くを、敵の弾幕に恐れをなした一人のソ連兵が引き返していく。
 それを見た一人の政治将校が腰から拳銃を抜き、その兵士を撃つ。
 撃たれた兵士はばたりと倒れ、しかしそれでもなんとか逃げようと地面を這うが、非情にも政治将校はもう一発弾丸を叩き込み、その兵士にとどめを刺した。
 様子を見ていたウラジーミルは背筋に軽い悪寒を覚えながらも前を見た。
 ドイツ軍のMG42汎用機関銃による弾幕にさらされたソ連兵達が次々に倒れていき、最後にウラジーミルの隠れている倒木の表面をMG42の弾丸が削り取る。
 ウラジーミルは思わず頭を引っ込めた。
 ここから進むことなど、到底不可能だ。
 しかし戻れば政治将校に撃ち殺される。
 ライフルのグリップを握り締め、ウラジーミルは呟く。
「地獄だ、ここは……!」

 舟艇でジョークを言った男、ユーリがすぐ近くのレンガの塀の残骸に隠れる。
 その遮蔽物を弾丸が抉る音を聞いて驚きながらもユーリの目はウラジーミルの姿を捉えた。
「おーい、同志よ! 俺がそこから少し突っ走るから、ついてきてくれないか!」
 ユーリが呼ぶ。
 よく見るとユーリはライフルに装填する弾薬クリップを一つ握り締めているだけで、それ以外に武器はないらしい。
 ウラジーミルは頷き、走り出す準備をした。
 ユーリは一瞬笑顔を見せ、走り出す。
 ウラジーミルも続いた。

「案外当たらないものだな……」
 大分上ってきた時、ユーリが呟いた。
 二人は何度も遮蔽物を飛び出しては別の遮蔽物に隠れ、また遮蔽物を飛び出しては別の遮蔽物に隠れ、を繰り返してなんとか丘の上のドイツ軍陣地の近くまで辿り着いていた。
 少し下の、民家の残骸の中で通信士と政治将校が見え、ユーリはこれを見てにやりと笑んだ。
「同志よ、あの政治将校を頼む」
「分かった」
 ユーリが言うのを聞いて、ウラジーミルは民家に向かってライフルを構える。
 政治将校は二人に気付きもしない。
 ユーリが走り出す。
 政治将校がユーリの姿を捉えた。
 ウラジーミルはすかさず引き金を引き、弾丸を放つ。
 弾丸は政治将校の首を貫通し、政治将校が崩れ落ちるのをユーリは踏み越えた。
 ユーリが合図してくるのを見たウラジーミルも走り出し、民家に飛び込む。

「同志! おい、同志通信士! 早く砲撃を要請しろ!」
「あ、あぁ!」
 ユーリが声を荒げて言うと、通信士はすぐに通信機に向かい、ヴォルガ川の向こう側で待機している砲兵部隊に砲撃の支援を要請する。
 ウラジーミルは息を吸い込み、なんとか呼吸を整えようと、ふとヴォルガ川の向こうを見た。
 霧が深く、向こう岸など見えないが、突然霧の中に空目掛けて何本もの光の線が描かれ、それは流星群のように絶え間なく飛んでいく。
 そしてその数秒後、轟音とともに光の矢がドイツ軍陣地に降り注ぐ。
 ドイツ人たちの断末魔、火薬が誘爆したのか、更に大きな爆発が起こる。
 ソ連軍が使う82mm BM-8自走式多連装ロケット砲、通称“カチューシャロケット”によるものだった。
 ウラジーミルの足元に人間の腕が一本落ちてきた。
 灰色の制服をまとった左腕だ。
 十中八九、ドイツ軍の兵士のものだろう。
「同志! 早く行こう!」
 ユーリに呼ばれ、ウラジーミルはまた動き出した。

 ソ連軍は丘の上を確保した。
 このまま進撃すれば市街地の確保も遠くない。
 丘に登るための途中の坂ではソ連兵達の死体が多数転がっていた。
 この防御陣地を一つ確保するためにそれだけの人間が犠牲になったのだ。
 ウラジーミルはまた呟いた。
「地獄の方がよっぽどマシだ……!」



—後書き—
 悲惨かつ無謀な突撃を日本軍の十八番みたいに言う人がいますが、実際もっと悲惨で多くの犠牲者を出した突撃を行った国はソ連です。
 本編中であった「ライフルは二人に一挺」というのは実際にあったことだそうで、これは特にスターリングラードで行われたのが知られています。
 独ソ戦書いたのは二度目ですね。
 因みに“アッド”はロシア語で“地獄”を意味します。