ダーク・ファンタジー小説
- Re: ライトホラー・ショートショート ( No.149 )
- 日時: 2013/05/25 17:33
- 名前: あるま ◆p4Tyoe2BOE (ID: Ba9T.ag9)
第36話「モラトリアム」5/5
次の日からサユは俺の家へ住むことになった。俺は年取った両親と三人で暮らしていた。
サユは俺以外の人間と顔を合わせるためか、身なりも気にするようになり、清潔さが戻った。飯もちゃんと食って顔色がずっと良くなった。
俺が居ない間は、家事の手伝いをしながら、職安へも通った。
急に顔つきまでしっかりしてきて、既に忘れかけていた昔のあいつになっていた。
「やっぱり環境が変わると、ひとも変わるもんだな。お前もうちの親と一緒に暮らして、緊張感があるんだろ」
いつだったか、俺は笑いながら言った。サユは「アハハ。そうだね」と微笑んでから、
「私も思うんだ。こっちに来てからさ、体調がいいんだ」
「そりゃ、前のアパートでは飯も食わないで、日光も浴びてないんだよ。身体だって変になるさ」
「そうなんだけどさ。あの部屋に居ると、居心地が良過ぎるっていうか、いくら寝てても退屈しないっていうか……。どんどんやる気がなくなってくる気がしてね。だけど今は、すっきりした気分で朝を迎えられるよ。今日も一日が始まるって、そう思えるんだ」
俺はサユとそんな話をしながら、これからの生活に希望を抱くことができた。
アパートの荷物をすっかり引き払ったその日。
そこの住民であり、俺と同じ専門学校である稲田さんに、あいさつだけでもしようと思った。
だが、稲田さんはもうアパートには住んでいなかった。
サユと俺は、道路の端っこから、二人の思い出のアパートを見渡す。
アパートからはひとの生活する気配がなくなり、鉄と石材のかたまりにしか見えなかった。
「私、こんなところに住んでいたんだね……」
サユが言った。寒気でも感じたかのようなその声。
俺もなんとなくサユと同じものを感じ取っていたかもしれない。
でも何も言わなかった。
大家さんからこのアパートが取り壊されると聞いたのも、その日だった。
「なんでかなー。うちのアパートはね、入ったひとが長続きしないで、すぐ出てっちゃうんだよ。みんな仕事を辞めて、お金がなくなって、家賃を払えなくなるんだ」
困った顔をして、大家さんは言った。
それから、稲田さんのことも教えてくれた。
「部屋が余ってるから、姪の子を住まわせてあげたんだけどね。どういうわけか、あの子は学校に行かなくなっちゃって。ご両親が心配するから、私も様子を見に行ってあげてたんだけど、あの子は夜まで寝てるし何も食べないし、まるでひとが変わったみたいで……」
大家さんの言う通り、稲田さんは学校に来なくなっていた。
「それで、稲田さんは今、実家に戻られたんですか?」
「そうだね。昨日かな。戻ったばかりだよ」
「彼女、またやる気を出して、学校に行くって言い出すと思います。それまで、見守ってあげてください」
こんな話をして、俺とサユはアパートに別れを告げた。
めでたく、サユの就職が決まった。仕事が始まったら、二人は忙しくなるだろう。
その日は平日だったが、俺は学校もバイトも休みで、予定が何もなかった。
サユは次の日から仕事へ出ることになっていた。二人にとって本当に暇な日は、今日を置いてもうしばらくないような気がした。
俺が疲れて昼近くまで寝ているのを、サユは静かに待っていてくれた。
「どっか、出かけよっか」
窓の外に目をやり、俺が言った。よく晴れた、風の気持ちいい日だった。
「おじさんもおばさんも、夜まで帰って来ないってさ」
「そっか。どうりで静かなわけだ」
平日の住宅地は音が何もない。
時々、風が窓を揺らす音がした。どこの家かも分からない遠くで、犬が鳴いた。
サユはというと、なぜか俺の布団で横になっている。
暑くて邪魔だからか、掛け布団を足で蹴飛ばし、シーツがしわくちゃになっていた。
俺もごろんと横になって、サユのすぐ隣にすり寄った。
「明日から、お前も仕事しなきゃいけない。せっかく今日は暇なのに、寝てるだけでいいの?」
「うん。私、何もしないでこうやって寝てるだけなの、好きだよ」
「お前……やっぱ本当は怠け者か?」
「違うよ。たぶん違う。でもね、アパートに居た時みたいに、何もしないで自分を空っぽにできる時間が持てたこと、きっと後悔しないと思うよ、私」
その後も俺たちは、いくらか言葉を交わしたが、やがて沈黙が心地よいと感じるようになってきた。
一つの布団の上、言葉を知らない猫がそうするように、黙って身体を寄せ合ったまま、二人は夕暮れまで時を過ごした。
(おわり)