ダーク・ファンタジー小説
- Re: 君がいたから、ようやく笑えた。 ( No.1 )
- 日時: 2024/09/10 17:09
- 名前: しのこもち。 (ID: X2iPJYSg)
- 1.春風 -
「……いってきます」
私は小さな声でそう言い、真新しい黒色のローファーに足を通した。そして、胸まで伸びた長い髪を1つにまとめる。
今日は入学式。この春から、晴れて私は高校1年生になった。
「いってらっしゃい。また後で、入学式行くわ」
これから入学式だというのに、そんなシュチュエーションには全く合わない母の無感情な声が背中を突き刺した。
別に来なくていい。というか、”あの人たち”になんて来て欲しくない。
私は母の言葉に返事もせずに、そのまま家を出た。
「はぁ…」
扉を閉めた後、私は深いため息をついた。さっきまで少しは意気揚々としていた気分だったのに、両親が来ると知った今では、完全に気分が下がっていた。
でも、そんな私の気持ちを振り払ってくれるように心地よい春風が髪を揺らす。
こんなことで落ち込むのも無駄だ。そう思った私は家を出て、学校に向かった。
٭•。❁。.*・゚ .゚・*.❁。.*・٭•。٭•。❁。.*・゚
学校の最寄り駅から目的地まで、思ったより時間はかからなかった。そして気がつけば目の前には、青空を背景に古い校舎と大きな門が堂々とそびえ立っていた。
ここは、全国でも有数の芸術学校。また、この学校は入試試験がとにかく難しいことで有名だ。なので、ここの生徒は推薦で来た人が多数なんだそうだ。ちなみに私もその内の1人である。
両親の母校でもあるこの学校は、父が絶対に入れと無理やり入れさせられた。私の両親はこの学校で初めて出会ったらしい。まぁ、そんなこと全く興味などないのだけれど。
私はそんなくだらないことを考えながら、足を踏み出して門をくぐった。
自分のクラスを確認した後、私は清掃された綺麗な廊下を歩きながら教室へ向かった。
いざ教室の前に立つと、急に変な緊張感と不安が押し寄せてきた。私は心の中で深呼吸をした後、教室の扉を静かに開けた。
-ガラガラ。
扉を開けた瞬間、教室の中にいた生徒みんなの視線が私に集まった。
「ねぇねぇ、あの子ってもしかして…」
「えっ嘘でしょ」
「あんな美人だったの?初めて見た…」
周りから聞こえる囁き声を無視して、自分の席に座る。すると、私が席に座るや否や、数人の女子生徒が私の席に集まってきて、目を輝かせながら、その中にいた1人の女の子が話しかけてきた。
「……あの、あなたってもしかして…」
そして、恐る恐るこんな質問をしてきた。
「水瀬 怜愛さん、ですか…?」
「………はい」
短くそう返事をすると、周りにいた女子生徒が一気に騒ぎ出した。
「ほら、やっぱり!」
「すごい、怜愛様と同じ学校なんて夢みたい…」
「なんで?怜愛様はこの学校にいて当然でしょ」
「めっちゃ尊敬してます。あとでサイン下さい!」
「は、はぁ…」
何故私はこんなに周りに知られているのか、読者も疑問に思ったことだろう。自分自身が有名な誰かなのか、はたまた親が有名人なのか。
答えはを………その両方である。
「今度ピアノ聴かせて下さい!」
そう、私は有名なピアノ奏者なのだ。そして私の父は、海外にソロコンサートを開くほどの有名なピアニスト。母は芸能界を中心に活動する、偉大な作曲家だ。
そんな私たちはよく『天才音楽1家』と、メディアに取り上げられている。この人達は、それを見て私を知ったのだろう。有名な両親を持って生まれたら、誰だって自慢したがるのは当然だろう。
「お父さんとお母さん、入学式来るよね?」
「うわぁ、楽しみ!」
「いいな、自慢できる両親がいて」
しかし、私は違った。親を自慢したいと思ったことがないし、思いたくもなかった。
この人達は、私の気持ちなんて何も知らない。
両親の…………裏の顔すらも。
- Re: 君がいたから、ようやく笑えた。 ( No.2 )
- 日時: 2024/09/10 17:13
- 名前: しのこもち。 (ID: X2iPJYSg)
- 2.裏の顔 -
٭•。❁。.*・゚ .゚・*.❁。.*・٭•。٭•。❁。.*・゚
「新入生の入場です。大きな拍手でお迎え下さい」
盛大な拍手と共に、入学式が幕を開けた。ステージから見て真ん中らへんに保護者の席、後ろに在校生の席がある。
私はその保護者席の端で、まるで関心がないとでも言うかのように、相変わらず無表情のまま手を叩いている両親を見つけてしまった。目が合わないよう、咄嗟に前を向く。
『お前は俺の娘なんだから、常に上品でいなさい。不格好な姿など、絶対に見せるな』
小さい頃からずっと言われてきた言葉が、脳裏をよぎる。
別に私は、好きでこの家に生まれた訳じゃない。やりたくてピアノをやっている訳じゃない。
なのに、私の想いなんか気にも止めないで、”親”なんてものを気取っている両親が嫌いだ。大嫌いだ。
憎い、憎い。全部、全部、消えてしまえ。
そんなことを思っていると”あの日”のことを思い出してしまった。
やだ、やだ。今は入学式の途中なのに。最近はやっと”あの日”のことを思い出さずに済んでいたのに。
”あの日”の父の姿がフラッシュバックする。
『嫌だ?何が嫌なんだ。もう1度言ってみろ』
こっち来ないでよ。嫌だ、もうやめて。
お願いだから…もう、嫌…だっ……
私はそこで、意識を手放した。
٭•。❁。.*・゚ .゚・*.❁。.*・٭•。٭•。❁。.*・゚
私が初めてピアノに触れたのは、2歳の時だった。音楽家である両親が、何か私にやらせたかったのだろう。
「これがドで、これがレって言うんだよ」
あの時はまだ、両親の手は温かかった。だから私は、調子に乗ってピアノを始めた。
「へぇ、これ楽しいねっ」
始めた当初は、もちろんピアノが楽しくて楽しくて仕方がなかった。毎日毎日、父にピアノを教わっては、弾いていた。
両親はピアノを弾く私を見守りながら、嬉しそうに笑っていた。多分この時の笑顔が、私にとって最後に見た両親の笑顔だろう。
そこから、私のピアノ漬けの日々が始まった。6歳の時に本格的にピアノを習い始め、小学校を卒業する頃には、ピアノコンクールの賞をたくさん取っていた。
世間から見たら『音楽家の子供なんだから、才能があるのは当然だ』と思われるだろうが、私は私なりに、血の滲むような努力をしてきたつもりだ。一日たりともピアノの練習を欠かすことはなかったし、父の期待には全て応えてきた。
しかし両親は段々、成長していく私に対して冷たくなっていった。笑顔を見せることもなくなったし、私が何かを成し遂げても、褒めてさえくれなくなった。
『コンクールで最優秀賞を取った?なんだ、そんなことか。そんなのできて当たり前だ』
『それより、早くピアノの練習をしなさい。1個賞を取ったくらいでそんなに騒がないでくれる?』
なんで、何も言ってくれないの?私は2人に喜んでもらいたくて、褒めてもらいたくて頑張ったのに。
いつしか私は優しかった両親を嫌い、大好きだったピアノも何のために弾いているのかすら、分からなくなっていった。
だから私は、あることを決心した。父にピアノをやめたいと、もっと色んなことをしてみたいと相談してみることにした。
「…私ね、ピアノをやめたいの。もう嫌、だから。もっと違うことをしてみたい」
父の仕事部屋に通してもらい、楽譜を読んでいる父に勇気を振り絞って、そう言った。
「……は?お前は何を言っているんだ」
ようやく顔を上げてくれた、と喜んだのも束の間、気付いたら鬼のような形相をした父の顔がすぐ傍にあった。
「嫌だ?何が嫌なんだ。もう1度言ってみろ」
あんなに怒り狂った父を、1回も見たことがない。そう思うほど、恐ろしい目だった。
「だっ、だから、ピアノをやめた……」
声を出した次の瞬間、派手な音と共に頬に大きな痛みを感じた。
「…っ」
あまりの痛さに、思わず頬を手で抑える。
「いいよ。もう1度言ってごらん?さぁ」
また殴られる。そう思った時には、もう遅かった。
-ガッ。
一体、どのくらいの時間私は殴られていたのだろう。気付いたら父の部屋に1人で倒れ込んでいた。体にはたくさんの痣が浮き上がっていて、唇は切れて血が出ていた。
あの日味わった血の味が、今でも忘れられない。気持ち悪かった。吐きたかった。あの日は、とにかくもう2度とピアノをやめたいだなんて言わない、と心に決めた日だった。
そこから何もなかったかのように、ピアノ漬けの日々が再開した。
ただ、あの日から1つだけ変わったことがある。それは、私が何か失敗をしたり、コンクールで賞を取らなかったりしたら必ず、ご飯を食べさせてもらえなくなったことだ。
どんなに才能がある人間にだって、どんなに完璧な人間にだって、必ず失敗はある。それを乗り越えて成長するのが、本来の人間という生き物だ。
なのに…私の両親はそれを許してくれなかった。失敗したら、口も聞いてもらえなくなるのが怖くて、また殴られてしまうかもしれないのが怖くてたまらなかった。
だから私は、ずっとピアノを続けている。失敗するのが怖いから、両親が怖いからピアノを弾いているだなんて、笑える話だ。────────
٭•。❁。.*・゚ .゚・*.❁。.*・٭•。٭•。❁。.*・゚
目を覚ますと、私は保健室にいた。保健室独特のツンとした匂いが、鼻を掠める。
いつの間にか私は泣いていたらしい。頬を大粒の涙が伝っていた。こんなことで泣くだなんて、くだらない。あほらしい。
頬の涙を拭いながら辺りを見回すが、誰もいない。恐らく養護教諭は、まだ入学式に出席しているのだろう。
私はベッドから体を起こすと、音を立てないように、裏庭に繋がる出口から保健室を出た。
今から入学式に参加しても、変な目でこちらを見られるだけだろう。それならいっそのこと、裏庭でひっそり隠れていればいい。
そう思って裏庭にあるベンチに腰を下ろした。
すると、花壇の傍に…何やら人影が見えた気がした。咄嗟にばれないように息を潜め、人影の方に目をやった。
───そこには…息を飲むほど綺麗な青年がいた。
- Re: 君がいたから、ようやく笑えた。 ( No.3 )
- 日時: 2024/09/10 17:16
- 名前: しのこもち。 (ID: X2iPJYSg)
- 3.出会い -
どこか虚ろな瞳で花壇の花たちを見つめる彼の横顔はまるで絵画に描かれたようで、同じ人間とは思えないくらい美しかった。
形の良い、涼し気なアイスブルー色の大きな目と薄い唇。透き通るような白い肌には、ほくろひとつない。まさに”綺麗”という言葉が似合う人だ。
「……さっきから何じろじろ見てるの」
あまりの美しさに思わず見惚れていると、いつの間にか彼がこちらを怪しげに見つめていた。
「…あっ、ごめんなさい」
私は彼に話しかけられて、ハッとした。思わず謝ると、彼が急に笑いだした。
「ははっ。何か君、面白い」
「へっ…?」
口を開けば何を言うかと思ったら、おかしなことを言われたので、迷わずきょとんとしてしまった。初対面で赤の他人に、面白いなんて初めて言われたので、驚いた。
「で、君も入学式サボったの?」
そんな私を差し置いて、どんどん話を進めていく彼。あまりの会話の速さに、頭が中々ついていけない。
「…あ、えっと…別にサボった訳じゃなくて」
「じゃあ何で保健室になんかいたの?」
「……ちょっと、具合が悪くなっちゃったので」
具合が悪くなったのは本当のことだが、彼にはあまり深いところまでは話さなかった。
「………ていうか、私いたの気付いてたの!?」
「まぁね。最初から気付いてたけど」
「最初からって…」
平然と話す彼を見て、私は心の中でため息をついた。というか…。
「まさか、私のことを知らない…?」
私はそう口に出して、すぐに後悔した。これじゃあ、ただの自意識過剰野郎ではないか。
「んー…君と会ったことなんかあるっけ?」
私は首を傾げる彼の様子から、すぐに察した。やはり、この人は私のことを知らないのだ。
「こんな人、初めて見たかも…」
自意識過剰だとは分かっているが、私は全国で知らない人は殆どいないと言えるくらい、知名度は高いはずだ。街を歩いていても、必ず数回は声を掛けられていた。
「えっ何、その目は。本当に君は誰なの?」
今度は彼の方がぽかん、としている。何だかその様子がおかしくて、少し笑ってしまった。
「…ふふっ。私は誰かって?」
では、今度は私が驚かす番。そう思って私は、その場でくるりと回った。その勢いで、春風に乗せられながらスカートがひらりと翻る。
「そう!私の名前は、世にも有名な天才ピアニスト 水瀬怜愛なのである!」
私は自分の方に指をさしながらそう言った。案の定、彼は呆気に取られてぽかん、としている。
「……初めて聞いた名前だなぁ。あと、そのキャラ付けなんなの」
「……さぁ」
驚いてくれたと思ったら急に冷たい目で見てくる彼の掴み所は、未だに理解できないみたいだ。
「てか、もう入学式終わったかなぁ」
花壇に再び視線を戻して、彼はそう言った。
「それより、あなたの方こそ入学式サボってたんじゃないの?」
ずっと疑問に思っていたことを聞くと、彼は図星とでも言うかのように肩をビクッと震わせた。
「…まぁ、そうかもしれないね。………嫌だったし」
「人のこと言えないじゃん」
「確かに」
そう言って彼はまた笑いだした。それにつられて、私も思わず吹き出す。
「まぁ、お互い様ということで」
私は手を叩くと、彼の手を引っ張って立ち上がった。
「私も本当は帰りたくないけど…一緒に戻ろう」
そう伝えると、彼の瞳が少し揺らいだ気がした。そりゃあ、今頃戻ったって嫌かもしれないけど、戻らないと色々面倒くさいだろうから。
「大丈夫。2人なら今更戻ったって、恥ずかしくないでしょ?」
私は無理やり彼の腕を引っ張りながら、教室へ向かった。
٭•。❁。.*・゚ .゚・*.❁。.*・٭•。٭•。❁。.*・゚
偶然と、彼も私と同じクラスだったみたいだった。だから2人で一緒に教室に入った。それからはもう大惨事で。
クラスメイトには質問攻めされるし、先生には遅いと注意されるし、それはもう大変だった。
でも、それは彼も同じだったみたいで、丁度私の斜め後ろの彼の席にも、生徒がたくさん集まっていた。
「怜愛様、大丈夫だった!?」
「突然倒れて保健室連れて行かれてたから、すごく心配したんだよ!」
「てか”王子”とは一体どういう関係!?」
王子…?って誰のことだ。私は首を傾げた。
「あの…”王子”って、誰のことですか…?」
そう言った瞬間、その場の空気が固まった。私は急な状況に、1人困惑する。
「……まさか”王子”を知らない…?」
「多分…?」
私の返事に、周りにいた生徒たちは顔を青ざめた。
「…知らない人、初めて見たかも」
何かボソッと小さな声で呟かれたものなので、私はその言葉を聞き取ることができなかった。
「で、”王子”は結局誰のこと?」
私が改めてそう聞くと、その場にいた1人の女の子が代表して説明してくれた。
「”王子”っていうのは、さっき怜愛様が一緒にいた彼のことだよ。名前は蓮水陽向で、別名”蓮王子”。怜愛様と同じ、いわゆる有名人で、高校生で現役の画家をやってるの。それも、海外のベテランの画家が認めるくらいの画力で、絵の世界では知らない人なんていない、今1番注目されてる画家みたいだよ」
呪文のようにペラペラと言葉を流していくその人の口調は、まるでアナウンサーのようだった。
「へぇ、初めて聞いたかも…蓮水、陽向…」
1人でそう呟いた。すると先生に
「…いつまでお喋りをしているのかしら」
と、また注意されてしまったのだった。
- Re: 君がいたから、ようやく笑えた。 ( No.4 )
- 日時: 2024/09/10 17:19
- 名前: しのこもち。 (ID: X2iPJYSg)
- 4.限界 -
٭•。❁。.*・゚ .゚・*.❁。.*・٭•。٭•。❁。.*・゚
「…ただいま」
3人分の靴が並んだ狭い玄関は、相変わらず居心地が悪い。私はローファーを脱ぎ、黙って廊下に出ようとした。
するとその時、父が大きな足音を立てて私の前にやって来た。
あぁ。今日は相当父の機嫌が悪い。顔を真っ赤にした父の様子を見て、一瞬で悟った。
「なぁ、今日はどうして入学式で倒れたんだ?」
胸ぐらを掴まれそうな勢いで、父が突っかかってきた。
「いつも言っているだろう?俺の娘なんだから恥じるような行動はするな、と。なのに何だ、あの情けない姿は。俺は見ていて、恥ずかしくて恥ずかしくて仕方なかったんだぞ」
「…」
呆れた。何だその理由は。というか大体、この人のせいで倒れたって言うのに、なぜ私が怒られないといけないのだろうか。
「…おい、何か言ったらどうなんだ?」
「……具合が悪くなっただけなのに、どうしてそんなに怒られないといけないの?」
私は俯きながらそう呟いた。握りしめた拳が、わなわなと震えている。
「あ?そんなの決まっているじゃないか。お前は俺の娘なんだ。俺の威厳を守るためにも、お前にはしっかりしてもらわないといけないんだよ!」
父の怒り狂ったその声は、段々と大きくなっていき、終いには髪の毛を引っ張られる羽目になった。
「大体なぁ、お前はいつから俺に口答えをするようになったんだ!誰のおかげで、こんなに有名になったと思ってる!」
痛い、痛い。髪の毛を引っ張られているせいで、頭の皮膚に強い痛みを感じた。ブチブチ、と髪の毛がたくさん抜ける音がする。
やめて、と言っても父は絶対にやめてくれない。むしろ、父の怒りを更に煽るだけだ。過去の経験から、私はそう確信していた。
「あぁ、お前も落ちたものだな。ピアノもできない、人の気持ちも分からない、言葉も通じない」
父は乱暴に髪を掴んでいた手を、急に離した。その反動で、私は尻もちをつく。
「醜いやつだ。”父親”として情けない」
父は私を思い切り睨みながらそう言い、そのまま去っていった。
٭•。❁。.*・゚ .゚・*.❁。.*・٭•。٭•。❁。.*・゚
「ご飯を食べたら、早くピアノの続きをしなさい」
何1つとして会話のない食卓。父の怒りはもう収まったのか、何かを叫び散らしてくることはなかった。そんな食器の音だけが鳴り響く沈黙の中で、母がそう言い放った。
「…」
私は母の言葉を無視し、味噌汁を飲み切る。黙ったまま食べ終わった食器を片付け、自分の部屋に戻った。
-ガチャッ。
自分の部屋に入り、速攻でドアの鍵を閉めた。私はその場でうずくまり、気付けば1人泣いていた。今朝流した涙よりも、もっと大粒の涙が頬を伝う。
「…っ」
あぁ、もう限界だ。こんな薄汚れた空気が流れている家なんて、1秒もいたくない。
”あの日”の父の姿をもう1度見てしまうだなんて、私はなんて不幸なのだろうか。
『”父親”として情けない』
別に私のことなんて自分の子供とも思っていないだろうに、何で”父親だ”なんて言って、矛盾した怒りを私にぶつけてくるのか。
意味が分からない。醜いのはどっちなんだ。
気持ち悪い、気持ち悪い。あの人の顔を思い出すだけで、恐ろしいくらいの吐き気がする。
あんな人なんて…早く死んでしまえばいいのに。
───あの時は、まだ知らなかった。
まさか私のそんな願いが…もうすぐ現実になるだなんて。
まだ何も知らなかった私は、その後1度もピアノを触ることはなく、ずっと1人で泣いていた。
- Re: 君がいたから、ようやく笑えた。 ( No.5 )
- 日時: 2024/09/10 17:23
- 名前: しのこもち。 (ID: X2iPJYSg)
- 5.不思議な夢 -
٭•。❁。.*・゚ .゚・*.❁。.*・٭•。٭•。❁。.*・゚
夢を、見ていた。とても幸せな夢だった。
いや、もしかしたらこれは………昔の私の記憶かもしれない。
「春が来た、春が来た。どこに来た。山に来た、里に来た。野にも来た」
懐かしいメロディーを、小さい頃の私が歌っている。その傍らには母親がいて、笑いながら私の手を繋いでくれていた。
「花が咲く、花が咲く。どこに咲く」
私が歌っているのを見て、母も一緒に歌い出した。
「山に咲く、里に咲く。野にも咲く」
すると母が、私の目を覗きながら続けて歌った。
「鳥がなく、鳥がなく。どこでなく。夢でなく、笑ってなく。一緒になく」
「……あれっ?お母さん、歌詞違うよ」
歌の歌詞に違和感を覚えた私は、お母さんにそう言った。するとお母さんは、目を細めて優しく微笑んだ。
「ふふっ、そうだね。でもね、この歌はお母さんのお母さんが、よくこうやって歌ってたんだよ」
そう言って、お母さんは遠い何かを見つめるように、視線を前に向けた。
確か私が丁度このくらいの歳の時に、祖母が癌で亡くなったのだ。母は、悲しそうな目をしていた。
「『笑ってなく』って、何だか変だねっ」
子供だった私は空気が読めなかったのか、母のことなんて気にせずに、思ったことをすぐ口にしてしまっていた。
「…そうだね。でもね、鳥さんだって笑ったり涙を流したりするのよ」
「鳥さんが?」
「そう。誰だって、悲しかったり嬉しかったりする時は泣くでしょう?だからね、鳥さんも私たちと同じように泣くんだよ」
そう言った後、母は目線を私の方へ戻して、こう続けた。
「怜愛も、これから生きていく中で、笑ったり泣いたり怒ったり、色々な感情を体験していくの。そんな中でもね、あなたは楽しいことだけじゃなくて、辛いこともたくさん経験していくと思う」
母は言葉を口にしながら、私の前でかがんで真っ直ぐに私の目を見つめてきた。その瞳はすごく透明で、まるでビー玉のように綺麗な目だった。
「そんな中でも、あなたはたくさんのことを学んで、成長していく。そして辛い時は必ず、怜愛のことを支えてくれる人がきっと現れるから。鳥さんの仲間みたいに、一緒に笑って、泣いて、一緒に幸せを共にしていく人が、必ず現れるから。その時に、例えお母さんやお父さんが隣にいなくとも……」
そこで突然、母の声が聞こえなくなった。言葉の続きが気になる一方、目の前は真っ暗になり、夢に映る私は中学生になっていた。
「お母さん、お父さん…!」
目の前にいる私は、暗闇の中で1人泣きながら必死に叫んでいた。まるでその姿は、親鳥に置いてかれ、1人ぼっちになった雛のようだった。
「…っ」
座り込んでずっと泣きぐしゃる、中学生の私。
もう、あの頃の幸せは戻ってこないんだよ。夢の中にいる自分に、そう伝えてあげたかった。
そんな色のない世界に、急に光が差し込んだ。私は顔を上げ、光が差す方へ視線を移す。
「1人じゃない。大丈夫だよ」
光の中に急に誰かが現れ、その人は私に手を差し伸べた。
「色がないなら、自分で作って塗ってみればいい。1人で寂しいなら、誰かに寄りかかってみればいい」
眩しすぎる光で顔は見えなかったが、その人は確かに、私に救いの言葉をかけてくれた。
「だから、一緒に行こう」
「………うんっ…!」
私は誰かも分からないその人の手を取って立ち上がり、光の中へ消えていった。
٭•。❁。.*・゚ .゚・*.❁。.*・٭•。٭•。❁。.*・゚
-チュンチュン。
朝の訪れを伝える小鳥の囀りが窓の外から聞こえてきて、私は目を覚ました。ベッドから起こした体はなぜか制服を纏っている。おまけに変な夢を見たせいか、頬には涙が固まった跡があった。
一瞬、なぜ制服を着ているのか疑問に思ったが、すぐに昨日のことを思い出して、1人で納得した。
昨日は部屋でずっと泣いていて、そのままお風呂も入らずに、泣き疲れて眠ってしまったのだろう。
私は布団を剥がして、ぐしゃぐしゃになった髪をくしでとかしながら頬の涙を拭った。
「色がないなら、自分で作って塗ってみればいい、か…」
髪をゴムで結んで、鏡に映る自分を見つめながら、1人でそう呟いた。夢の中で出会った、あの人の言葉が今もなぜか心に残っている。
あの人は誰なのか。そして母はあの時、なんて言おうとしていたのか。私は夢のことを考えながら、朝食を食べようと階段を降りた。
٭•。❁。.*・゚ .゚・*.❁。.*・٭•。٭•。❁。.*・゚
今朝はいつもより早く起きて、学校にも早めに来てしまったこともあってか、校舎には生徒が殆どいなかった。
私は誰もいない教室に荷物を置き、暇だしせっかくなので学校内を散歩してみることにした。
静まり返った廊下に出て、とりあえずこの階を散策してみようと、そこら辺を歩いた。しばらく廊下を真っ直ぐ歩いていると『第二音楽室』と書かれた教室が見えた。
私は何となく、そこで足を止めた。この教室の扉は一部が透明なガラスでできているため、中を覗けるようになっている。興味本位で教室の中を覗くと、そこには綺麗に手入れされた大きなピアノがあった。
私は無性にあのピアノを弾いてみたい、という衝動に駆られた。気付けば私の手足は動いていて、音楽室の扉を開けてしまっていた。
-ガラガラッ。
なぜか鍵は閉まっていなくて、スライドした扉はすぐに開いた。
当然、中には誰もいない。まぁ、いるはずもないのだけれど。
私はほぼ無意識に、あのピアノに近づいた。
そっとピアノの椅子に腰を掛ける。念の為、もう1度周囲に誰もいないかを確認し、私は鍵盤蓋を開けた。
そして、鍵盤の上に指を構える。何を弾くかは何も決めていなかったけれど、今頭に浮かんだ曲を何となく弾いてみた。
曲名は『春が来た』。あの時夢に出てきた、母と一緒に歌った曲だ。
ソミファソラ、ソミファソド。ラソミドレ。
幼い頃の感覚だけを頼りに、 旋律を奏でていく。
「……夢でなく、笑ってなく。一緒になく」
気付けば、そう口にして歌っていた。
そして、夢の中で歌っていた母を思い出す。段々、幼い頃の記憶が蘇ってきた。
そういえばこの曲は、ピアノを初めて触ってから1番最初に弾いた曲だった。
そんなことを思いながら、私はピアノを弾き終えた。まるで、幼かった子供の頃に戻ったような気分だった。
幸せだった日々。でももう、あの頃には戻れないのだ。ある日突然現れた、枝分かれの道。そこで、私と両親は離れ離れになってしまった。私たち家族は、どこから間違ってしまったのだろう。
もしあの時、道を間違えずに家族みんなで同じ方向を歩めていたら、どんなに良かっただろう。
今思えばあのことを私は少し、いや、とても後悔していた。
家族みんなで笑い合える日が、また戻ってくるだろうか。
多分今のままじゃ、一生その日はやって来ないだろう。例えどんなに過去のことを悔やもうとも、結局はどうにもならないのだから。それならいっそ、自分から期待するのはやめよう。
そう思っておきながら、反対に私の視界は滲んでいた。指を置いたままの鍵盤に涙がぽたぽたと零れて、涙の跡を作っていく。
「…春が来た、春が来た。どこに来た」
すると急に、さっきまで弾いていた曲を誰かが歌う声が聞こえてきた。嘘だ。さっきまで誰もいなかったはずなのに。
驚いて隣を見ると…そこには昨日出会った青年がいた。確か…蓮王子、だっけ?いつの間に隣にいたなんて、もはや自分が鈍すぎて笑えてくる。
彼は私の方に近寄り、歌い続けた。
「山に来た、里に来た。野にも来た」
私は彼に泣き顔を見られないように、速攻で涙を拭いた。
「君が歌ってた3番の歌詞、何か変だったね」
そう言いながら蓮水君はピアノの鍵盤に触った。
「……母が、よく歌ってた歌詞なの」
「ふぅん」
まるで興味がないかのように気だるけな返事をした後、彼は衝撃的なことを言った。
「じゃあさ、何か弾いてよ。弾き語りみたいな感じでさ」
「…えっ」
弾き語り…?そんなことをしたこともない私は、思わずきょとんとしてしまった。
「はーやーくっ」
そんな私のことなんか気にせず、急かしてくる彼。その姿はまるで、餌を欲しがっている子犬のようだった。
それにしても、弾き語りなんて何を歌えばいいんだ。どうしようかと、私は焦っていた。
すると私の中に、1つの曲が浮かんできた。ただし、この曲を弾いたことは1度もない。
ええい、この際どうにでもなれ。私は半ば投げやりな気持ちになり、鍵盤に手を置いた。
深呼吸した後、自分の感覚だけでゆっくりと前奏を奏でる。
ゆったりとしたその旋律に、少し心が軽くなった気がした。弾いている曲は、私の”大好きな音楽家”が手掛けている、今自分の中で流行っているバラード曲だ。
「……離れてゆく幸せが、離れてゆく温もりが。戻ってきて欲しいだなんて弱音、誰にも見せずに隠してきた。暗闇に差した光の中で、僕は笑えるの?笑っていいの?光のない僕に、色のない明日に。────それでも」
彼の反応など気にせずに、私は大好きなこの曲のサビを歌った。
「当たり前の毎日をちゃんと愛せるように。例えその日々が怖くて痛いものでも。君の隣で笑えるように、僕は今日も生きてゆく」
「…」
「………明日が怖くて怖くって。世界が嫌いで愛せない。────それでも。大切な人が離れていっても、君が手を繋いでいてくれるのなら。当たり前が当たり前じゃなくなっても、君が傍にいてくれるのなら。僕は今日も、歩んでゆくよ─────」
私は歌を歌い終わり、静かに伴奏を終わらせた。
- Re: 君がいたから、ようやく笑えた。 ( No.6 )
- 日時: 2024/09/10 17:29
- 名前: しのこもち。 (ID: X2iPJYSg)
【Side 陽向】
─────明日が、怖い。こんな世界なんて、嫌い。
周りには強がっているくせに、1人でいる時はいつも塞ぎ込んでいた。
ヒーロー気取りかよ、笑える。
でも僕は別に、みんなに恰好つけたい訳じゃない。ただ、周りの目が怖いだけの臆病者だ。
٭•。❁。.*・゚ .゚・*.❁。.*・٭•。٭•。❁。.*・゚
「……離れてゆく幸せが、離れてゆく温もりが。戻ってきて欲しいだなんて弱音、誰にも見せずに隠してきた」
彼女の…怜愛の綺麗な歌声が、音楽室に響く。
弾き語りをして欲しいだなんて半分冗談で言ったつもりなのに、怜愛は僕のわがままにちゃんと答えてくれた。そんな彼女は、きっと誰よりも優しくて温かい心を持っているのだろう。
でも、歌っている怜愛の姿は誰よりも優しく、それ以上に…誰よりも悲しく見えた気がした。
「───それでも。大切な人が離れていっても、君が傍にいてくれるのなら。当たり前が当たり前じゃなくなっても、君が手を繋いでいてくれるのなら。僕は今日も、歩んでゆくよ─────」
大切な人が離れていっても、当たり前が当たり前じゃなくなっても、か…。
彼女の歌は歌詞の一つ一つが僕の心に響いたものだった。まるで、僕のために作られたような歌。僕は感銘を受けたあまり、しばらくその場から動けないでいた。
すると、そんな僕の様子を見兼ね、ピアノの蓋を丁寧に閉めた彼女がこちらを覗いてきた。
その目は心配の色で溢れていて、僕の反応を待っているようだった。
不安そうに見つめてくる彼女を見て、僕は慌てて言葉を発した。
「すごい、すごいよ」
お世辞なんかじゃない。心からそう思った。僕は咄嗟に拍手をする。
「はぁ…良かった」
安心したように笑う子供のような彼女を見て、一瞬さっきまでの歌声は嘘だったんじゃないかと思ってしまった。
「ピアノだけじゃないんだね。老後はシンガーソングライターにでもなれば?」
「残念ながら、ピアニストとして食べていけるくらいの知名度は十分あるので大丈夫でーす」
僕が冗談を言えば、怜愛も笑いながら返してくる。
このままずっと、こんな日々が続けばいいのに。”当たり前が当たり前じゃなくなる”なんて、もう二度となくなればいいのに。
目の前にいる彼女の笑顔を見ながら、不覚にもそう思ってしまった。
「というか、こんな世界的な画家がレディーに向かって失礼なことを言う人だなんてみんな聞いたら、驚くでしょうね」
そう言って彼女は笑いだした。つられて僕も笑う。こんな感じで、一時限目の授業は彼女と一緒に音楽室でサボった。
何でもないようで、在り来りな日常。でも、こんな毎日が一番幸せなんだってことを、この時の僕たちはまだ全てを理解できていなかったんだ。
- 6.居場所 -
「……違います。最後の部分はフェルマータをかけなさいと、何回言えば分かるのかしら?」
五時限目。今朝あの人とサボった第二音楽室で、私は選択授業で音楽の授業を受けている。
そしてそれと同時に、この授業を選んだことをとても後悔している。
理由は一つ。音楽の先生がめちゃくちゃ厳しい人だったのだ。
さっきから授業の一環で順番にピアノを弾いているのだけれど、生徒たちが次々に悲鳴を上げている。そんな中でも構わずに、先生が厳しく声を荒らげているという、何とも言えない光景だ。
「はぁ…………何でこんなにやる気がないの。仕方がないわね」
ため息をついてそう言った先生が、急にこちらを振り返った。
「水瀬さん、ちょっと弾いてみてちょうだい」
何を言うかと思えば、先生がそんなことを言ってくるから正直戸惑った。
でも、そんな私に構わず、みんなが一斉に私の方を向いて期待の眼差しを送ってきた。
「…はい、分かりました」
もちろん、こんな状況なので断る訳にもいかず、私は仕方なくピアノの椅子に座った。
譜面台に置かれた楽譜にしばらく目を通す。そこで、私は少し驚いた。
この曲…世界的にもめちゃくちゃ難しいと有名なクラシック曲。そりゃあ、みんなも弾けないわけだ。というか、いくら芸術学校だからと言って新学期早々こんな激ムズの曲を弾かせる先生もどうかと思うが。
そんなことを思いながら、私は鍵盤に手を置いた。幸い、この曲はこの前のコンクールで弾いたことがある。
私は視線が集まる中、ゆっくりとピアノを弾き始めた。楽譜に書いてある音符の数が尋常ではない。
右手で主旋律を奏でながら、左手で黒鍵盤と白鍵盤を連打。曲の中盤に入ると、右手を鍵盤の端から端まで一気に滑らせていき、そこから両手をクロスさせ、高低と速度のあるメロディーを弾いていく。力強く、でも少し滑らかに指を滑らせていった。
最後にフェルマータをかけながら、曲を終わらせる。曲が終わった瞬間に、教室中が拍手と歓声で包まれた。
「さすがね。皆さんも水瀬さんのように、表現力と正確さを向上させるように。では、これで授業を終わります」
するとタイミング良く、丁度学校のチャイムが鳴った。これで先生の声を聞かなくてもいいと思うと、少し安心した。
チャイムが鳴った瞬間、光の速さでいつもの女子生徒が私の方に群がって来た。
「怜愛様、めっっっっっっちゃカッコよかったです!!!」
「あの顔硬教師も怜愛様のピアノの音色に聴き惚れてましたよ!」
「あの先生がまさかあんな顔をするなんて…さすがです!」
「すごいです!もう一回弾いて欲しい!!」
次々に送られてくる賞賛の声。あぁ、ピアノをやっていて良かったと、こんな時にだけ思う私は、相当単純で都合のいい頭をしているみたいだ。
「……ありがと、うっ…」
…あれ?おかしいな。私、悲しくもないのに………泣いてる。
「怜愛様、大丈夫ですか!?」
「もしかして、体調悪い…?」
みんなが心配そうにこちらを見つめてくる。
「だ、大丈夫だよ!ありがとう」
私は顔を横に振った。なぜ、泣いてしまったのだろう。私は疑問に思いながら涙を拭った後、みんなと一緒に廊下へ出た。
٭•。❁。.*・゚ .゚・*.❁。.*・٭•。٭•。❁。.*・゚
午後の授業と帰りのホームルームが全て終わり、私は帰る支度をして校舎を歩いていた。
まだ新学期も始まったばかりなので、今日は部活動も新入生の仮入部もない。まぁ、この学校は芸術校なので、基本的に運動部はないのだけれど。強いて言うなら…吹部くらい?
そんなことを思いながら、私は廊下を歩き続けた。今日はこんな感じだから、どうせなら寄り道でもしていこうかな。
家に帰っても結局、ピアノをやれだとかうるさく言われるだけだろうし。というか、あんな居場所のない家なんか帰りたくもない。
私は思い立ったまま、何となく中庭の方に足を向けた。
٭•。❁。.*・゚ .゚・*.❁。.*・٭•。٭•。❁。.*・゚
入学式の時にも来た中庭のベンチに、私は腰を下ろした。
「…」
そして一人、静かな空気が流れる中庭で私は考えた。
今日の五時限目。何であの時、泣いてしまったのだろうか。私は人前であんなに堂々と泣いたことなんかなかったのに。
『こんなことで泣くなんて、情けない。恥ずかしくないのか?』
父にはいつも、人前で泣くことなんて許されないと教えられてきた。
だから私はなるべくみんなの前では泣かないようにしてきたし、泣く時はできるだけ一人の時に泣くようにしていた。
ずっと、そうしてきたから。もう人前でなんて泣けないと思っていた。
でも違った。じゃあなんで、私はあの時泣いてしまったの?何か悲しいことでも思い出してしまったのだろうか。
『すごい、すごいよ』
『怜愛様めっっっっっっっちゃカッコよかったです!!!』
『もう一回弾いて欲しい!』
いいや、違う。悲しかったんじゃない。
私はただ…嬉しかったんだ。
親に自分の存在を認めてもらえず、何かを成し遂げても褒めてくれない。私の居場所なんて、この世界のどこにもないと思っていた。
でも、違った。私の居場所は、ちゃんとあったのだ。
周囲に評価されて、初めて気が付いた。あぁ、これが。これこそが、私が生まれてきた、今までピアノを弾いてきた意味だったんだと。
私は音楽で、大好きだったピアノで、世界中の人々に希望を与える。そのために、ピアノを弾いてきたのかもしれない。
「………あれ、また会ったね」
花壇の方から声が聞こえてきた。もう何回か会話した仲なので、誰の声かくらいはすぐに分かった。
「…あ」
声のする方を向くと、そこにはスケッチブックと鉛筆を持った彼がいた。
「ここ、僕の秘密基地だったんだけどなぁ」
残念そうにそう言いながら、彼は花壇の傍に腰を下ろした。そしてスケッチブックを開き、鉛筆で何かを描き始めた。
私も何となく彼の傍に近寄り、話しかけた。
「…何描いてるの?」
「うーん、分かんない」
のんびりした口調でそう言いながら、彼はスケッチブックに線を描き始めた。シャッシャッ、と鉛筆が紙の上を滑る、心地よい音がする。
「分かんないって…」
何ともまぁ、彼らしい返事というか何というか…。どうやったらそんな返事が思いつくのか、彼の頭の中を一回覗いてみたいくらいだ。
……って、これじゃあただの変態みたいではないか。私はなんだか恥ずかしくなって、顔を見られないように目の前に咲く花たちに視線を移した。
「………家がさ、安心するって言う人って意味分からなくない?」
ほぼ無意識で、私の口からそんな質問が零れた。そして、すぐに後悔した。私が家に対して不満を抱えている、というのを悟られてしまうかもしれない。
そんな私を他所に、彼は質問に答えずに黙ったままスケッチブックに何かを描き続けている。良かった、聞かれていなかったみたいだ。
しばらく私は、隣で集中しながら絵を描いている彼の横顔をじっと見つめた。
絵を描いている彼の表情は真剣そのもので、本当に絵に心血を注いでいるんだな、と思った。
それに比べて私は…本当にあんな理由でピアノを弾いているのだろうか。別にこれ以上ピアノが上手くなりたいとも思っていないし、ピアノを一生していたいともあまり思わない。
一方、彼はどう思っているのだろう。本当に絵が好きなのだろうか。
「……あのさ、何で絵を描いてるの?絵を描くのは、本当に好きなの?」
私は思わず、彼にそう聞いた。彼は未だに、顔を上げようとしない。集中すると、何も聞こえなくなるタイプなのだろうか。
「…………あぁ、ごめん。ちょっと真剣になりすぎたみたい」
そう言いながら彼は姿勢を正すと、また絵を描きながら質問に答えた。
「何で絵を描いているのかって?……うーん、何でだろう」
彼は鉛筆の動きを止め、しばらく首を傾げていた。
「絵を描いている時が一番、時間が経つのが早い気がするから。まぁ、それでも絵を描くことは好きかなぁ」
のんびりと答えた彼は、相変わらず絵を描くことを止めないらしい。
「…じゃあさ、あなたが絵を描き始めたきっかけは何?」
「きっかけ?そんなもの、多分ない。初めて絵に出会った時に楽しいなって思って、気付いたら絵を描いてた。何かそこら辺のテレビ番組にインタビューされてるみたいだなぁ」
彼はそう言って笑った。目を細めて微笑む彼は、本当に絵が好きなんだな、と実感した。
そして同時に…そんな自由な彼を、とても羨ましく思った。
好きなことを好きなだけできる、自分がしたいと思うことを自由にできる。自分の色なんかない私とは違う。
両親が私にピアノを始めさせたのもきっと、父がやっているから。ただ、そんな理由だけしかないのだろう。
私は父の背中だけを見て、操り人形ごとく着いて行く。道を外れて、違う景色を見ることすら許されない。ただそれだけの、つまらない人生。
「てかさ、あなたって呼ぶの何かよそよそしくない?もうこんな仲なんだからさ、名前で呼び合うくらいしようよ。怜愛」
「……え、あっ。呼び捨て…?」
男の子に下の名前で呼ばれたのなんて、これが初めてかも。私は気恥ずかしくなって、思わず目を逸らした。
「わ、分かったよ」
「ありがとう”怜愛”」
やけに私の名前を強調してくる彼…陽向に少し嫌気がさした。けどそれと同じくらい…いたずらっ子のように無邪気に笑う陽向に少しドキッとした。
「なっ…」
「どうしたんですか?怜愛様」
「べ、別に何でもないからっ」
完全にからかわれている。私はムキになってそっぽを向いた。ムカつく…。
でも陽向のおかげで、さっきまでのどんよりした気持ちが嘘のように吹き飛んで行った。
ふと、陽向が持っているスケッチブックに目がいく。私は彼の絵を見て、一瞬息をするのを忘れた。それくらい彼の絵は、綺麗だったのだ。
真っ白だったスケッチブックのページは、いつの間にか美しい花たちでいっぱいになっていた。
花壇に咲いている菜の花やたんぽぽ、色とりどりの花が、写真のように繊細に描かれている。それも花1つ1つがとても丁寧に細かく描かれていて、雄しべの本数さえも全て正確なのだ。
「綺麗…」
私は思わず声を出した。この花は、どこか陽向に似ている気がする。
何よりも美しく綺麗で、何よりも…悲しくてどこか切ない感じが、彼の空虚な瞳を思い出させるからだ。
私はこの絵に感銘を受けた。これが世界に認められた画家、蓮水陽向なのだ。高校生でこんな感動的な絵を描けるだなんて、誰もが彼の画力を認めるのも納得だ。
「本当?ありがとう」
私がその絵に見惚れていると、彼は小さく微笑みながらそう言った。私はその笑顔を見て、あぁ、やっぱり彼は花なんだ。と思った。
「……やっぱり、心からこれが好きなんだってその人が思えるものの方がさ、客観的に見ても、すごく綺麗に見えるんだね。私もピアノが好きじゃなくても、ピアノを弾く理由が誰かのためにとか、そんな曖昧なものでもいいのかな…」
私は独り言のように呟いた。別に彼に問いかけたかった訳ではなかったけれど、陽向はちゃんと返事をしてくれた。
「うーん。確かに気持ちがこもっていた方が、そりゃあ綺麗に見えると思うけど、でも別にその人がそれを好きじゃなくても、他人からは違う視点で見られてるのかもよ」
言いながら、陽向は鉛筆を地面に置いた。
「例えば、僕が絵を描くことが嫌いだったとしても、僕の絵を見ている人は僕が描いた絵を見て、頑張ろうって思うかもしれない。ほんの僅かな希望を持ってくれるかもしれない、僕の絵が綺麗だって言ってくれるかもしれない。僕がどんなに絵が嫌いでも、僕と他者の、絵に対しての価値観や好意は違う。人それぞれだ」
陽向は私の目をじっと見つめながら、優しく笑った。
「だからさ、別に心からこれが好きなんだって断言できなくとも、誰かのために何かを成し遂げるっていうのも、全然ありなんじゃない?むしろ、それって1番すごいことだと思うけどね」
気ままな陽向らしくない言葉。けれど、そんな言葉が1番、私の心に深く、深く響いたのだった。
٭•。❁。.*・゚ .゚・*.❁。.*・٭•。٭•。❁。.*・゚
あの日から私は毎日の放課後、中庭に通うようになった。そこにはいつも絵を描いて待っている陽向がいて、私はその隣に座って彼と話す。そんな日々が、いつの間にか当たり前となっていた。
───そしていつしか彼とのこの時間は………私の居場所にもなっていた。
「陽向ってさ、何か猫みたいだよね」
「猫?そうかな」
「うん。何かのんびりしてるとことか、気まぐれなとことか」
「じゃあ怜愛は…鳥みたい」
「と、鳥?何で?」
「うーん、何となく?」
「…そういう所だよ、猫陽向」
「何か言った?」
「…別に」
他愛もない会話。だけどそんな一時に、私の心はどれだけ救われたか。彼には分からないだろう。
いいや、分からないとかじゃない。気付かれないようにしてたんだ。
私は彼と話しながら、心の中で祈った。
この小さな幸せが、ずっとずっと続きますように。もうこれ以上、両親のように大切な人が離れていきませんように。私の居場所が…もうなくなりませんように。
青空の下、彼と笑い合いながら、私は密かにそう願い続けていた。
- Re: 君がいたから、ようやく笑えた。 ( No.7 )
- 日時: 2024/09/10 17:34
- 名前: しのこもち。 (ID: X2iPJYSg)
- 7.不思議な感情 -
6月も終わりに近づき、そろそろ夏が来ようとする中…私水瀬 怜愛は今、都会でも有名な美術館にいる。
そして隣では…あの世にも有名な画家、蓮見 陽向がたくさんの人に囲まれている。
なぜこんなことになっているのか…それは数日前に遡る。
٭•。❁。.*・゚ .゚・*.❁。.*・٭•。٭•。❁。.*・゚
「ねぇ怜愛。日曜日、僕とデートしない?」
「……は?」
ある日の放課後。いつも通りの場所でいつも通りに絵を描いていた陽向が、突然意味の分からないことを言ってきた。
「ついに絵描きすぎて頭おかしくなったか…」
もしくは彼女ができた夢でも見ているんだろうか。いや、目は開いてるからそれはないか。
「何か言った?怜愛ちゃん」
効果音がつきそうなくらいニッコリと笑った彼は、絶対に怒っている。だって目が笑ってないし。
「な、何も言ってないですけど?」
誤魔化すように、陽向から目を逸らした。そんな私をよそに、彼はスケッチブックの別のページを開き、そこから紙のようなものを取り出した。
「これ行こうと思ってるんだけど」
ほら、と目の前に突き出されたのは。
「白花美術館・特別展…?」
そう書かれたポスターだった。さらに見出しの下には『未来の芸術家・世界の画家展』などと詳細が書いてあった。
「この展示にさ、僕が出るらしいんだよね」
「え?」
いやいや。そんなことさらっと言われましても。
「絶対冗談じゃんって顔してるけど、本当の話だから」
完全に疑っていた私はポスターにもう1度目を向けた。すると詳細の方には、確かに蓮見陽向という文字があった。
でも世界に認められるこの人なら、確かに美術館に展示されていてもおかしくない。
驚きを感じつつも1人でそう納得していると、陽向はポスターを閉じた。
「で、どうするの?行く?」
彼はスケッチブックの元のページを開きながら、私に問いかけた。
私はその質問を聞いて、真っ先に両親の顔が思い立った。普段の休日は、ほとんど1日中ピアノの練習ばかりしている。だからそんな貴重な練習時間をさぼるなんてことをしたら、父に何と言われるか。私の中はそのことでいっぱいだった。
「…」
「………何も言わないってことは、オッケーってことでいいよね?」
「え、ちょっ……」
「はい、決まりー」
何を言うのかと思えば、陽向はさっきまで持っていたポスターを、私に少し乱暴に渡した。
「じゃあ、日曜日の10時に駅で集合ね」
٭•。❁。.*・゚ .゚・*.❁。.*・٭•。٭•。❁。.*・゚
そんなこんなで、今私は陽向と白花美術館にいるのだ。
ちなみに親に言ったら絶対に怒られるので、父には外でピアノの練習をしてくると嘘をついた。
父に嘘をついたのは生まれて初めてだったので、今もまだバレないかと内心不安になっている。
そんな私に構わずに、誘ってきた当の本人は相変わらずたくさんの人に囲まれて、面倒くさそうに顔をしかめている。
一方の私は水瀬怜愛だとバレないように、しっかりとマスクと帽子を着用している。
「やっぱ本物じゃん!!!」
「すごい、テレビで見るより100倍イケメン〜」
「連絡先交換しませんか?」
隣の陽向は、特に若い女性や女の子の学生に人気があるみたいだ。
……というか、さらっと逆ナンされてる?
「……ちょっとあっち行きたいから通してもらっていい?」
いつもより低い声で彼はそう言い、群がる人たちを掻き分けながら私の方へ近づいてきた。
「…ちょっと来て」
人目が逸らされている間に、陽向は私の手をひいてエリアから離れた。
٭•。❁。.*・゚ .゚・*.❁。.*・٭•。٭•。❁。.*・゚
「だから言ったじゃん、そんな格好で行ったら大変な目にあうよって」
私は人気のない所へ連れてこられた後、すぐにそう言った。
「……だってマスクとか暑いし」
不機嫌そうにそう言う陽向は、何だか駄々をこねる子供みたいで不覚にも可愛いと思ってしまった。
「確かにそろそろ夏来るし暑いけど、じゃあ陽向はちょっと暑いのと女の子にナンパされるの、どっちが嫌なの?」
「…」
陽向は完全に黙り込んでしまった。
「……仕方ないから、今はこれあげる」
私はもしものために持ってきた予備のマスクを陽向に渡した。
「…ありがとう」
陽向は小さな声でお礼を言った後、渋々とマスクを着けた。
「じゃあせっかくだし、陽向が出るっていう特別展、言ってみよっか?」
私もマスクを着け直した後、2人で特別展を見るためにその場から離れた。
٭•。❁。.*・゚ .゚・*.❁。.*・٭•。٭•。❁。.*・゚
「凄かったね」
「……僕がいっぱいいた」
あれから私たちは特別展を見に行って、今は少し遅めのお昼ご飯を食べている。
もちろんマスクをとった姿は見られる訳にはいかないので、誰もいない公園のベンチに座った。
「僕がいっぱいいたって……語彙力小学生か」
「だってそうだったじゃん」
パンを頬張りながら、陽向はそう言う。
「まぁでも………普通に感動した、かな」
これはお世辞でも何でもない、本当に思ったことだ。
特別展では、主に世界の有名な画家たちの代表的な作品や本人の写真が展示されていて、その中に陽向もちゃんといたのだ。
彼の作品を見て、やっぱり世界に認められる画家なんだと、改めて感じた。
毎回思うが、陽向の描く絵は何か胸を打たれるようなものを感じさせられるのだ。私に語りかけてくれるような、励ましてくれるような…そんな力が、絵に秘められている気がする。
「……というか怜愛、嫉妬してくれたんだね」
「嫉妬…?」
どういう意味だ、と私は首を傾げた。
「僕がナンパされるの見て、ほんとは嫌だったんでしょ?」
「えっ…」
図星だった。今日陽向がたくさんの女の子に囲まれていて、正直少しもやもやしていたからだ。
「その反応は…もしかして図星?」
「…っ、べ、別にそんなんじゃないし!聞かないで…!」
陽向はふーん?と、にやにやしながら私の反応を見ている。
………絶対私の反応見て楽しんでいるやつだ。
「怜愛ちゃんは、僕のこと好きなんだ?」
「だ、だからっ、違う!」
こんな感じで私たちはデート?を楽しんだ。
٭•。❁。.*・゚ .゚・*.❁。.*・٭•。٭•。❁。.*・゚
「今日はありがと。じゃあ、また明日学校で」
「こっちこそ、誘ってくれてありがとう」
お昼を食べてゆっくりした後、私たちは今朝集合した駅まで行き、陽向はこの後用事があると言って帰って行った。
私も彼に背を向けて、見慣れた景色の中を1人歩く。
『嫉妬してくれたんだね』
ふと、陽向の今日の言葉が頭の中で響き渡った。思い出した途端、私は自分の顔が真っ赤になるのを感じた。そんな赤い顔を冷ますように、私は反射的に顔を両手で覆う。
『怜愛ちゃんは、僕のこと好きなんだ?』
……私、陽向のことどう思ってるんだろう。今日は彼とデート?して、本当はすごく楽しかった。
じゃあこの感情は、一体…?とくとくと鳴る胸を抑えながら、私は考えた。
こんなこと、今までなかったのに。小さい頃からピアノしか弾いてなくて、他人になんか興味も持たなかったのに、本当に不思議だ。
頭の中でそんなことを考えながらしばらく歩いていると、鞄の中に入っていたスマホが急に鳴った。
スマホを取り出して液晶画面を覗いてみると、そこには『母』の文字が表示されていた。
どうせ帰ってくるのが遅いんじゃないかとか、早く家帰ってもっとピアノの練習しろとか言われるんだろうな。
そんなことを思いながら、私は渋々電話に出た。
「もしもし」
「怜愛!?」
気だるけにそう言うと、母はいつもより大きな声で話すので少しびっくりした。携帯越しでも、相当焦っているのが分かる。
「どうしたの……………って、え?」
私は思わず手に持っていた鞄を落としそうになった。なぜなら、母の電話内容は思っていたものと全く違っていたからだ。
「お父さんが………倒れた?」
- Re: 君がいたから、ようやく笑えた。 ( No.8 )
- 日時: 2024/09/10 17:39
- 名前: しのこもち。 (ID: X2iPJYSg)
- 8.隠された愛 -
母からの電話を切った後、私はさっきまでいた駅に引き返すようにして走り出した。
父が、倒れた。今まで一度たりとも父が風邪を引いた姿ですら見たことがなかったのに、急に倒れたなんて絶対におかしい。今のこの状況にまだ実感が湧かないまま、私は電車に駆け込んだ。冷や汗がだらだらと伝っているのを嫌という程感じる。
もしかしたら…もしかしたら、父が死んでしまうかもしれない。こんな時に限って、そんな最悪なケースを思い浮かべてしまう自分を殴りたい気分だった。それくらい、当時の私は相当焦っていたのだと思う。
٭•。❁。.*・゚ .゚・*.❁。.*・٭•。٭•。❁。.*・゚
「お父さん…!」
病室の扉を開けると、そこにはベッドに横たわる父と、その傍でずっと頭を抱えている母が座っていた。
私は父のもとへ駆け寄った。
ベッドに横たわる父は、今まで見たことがないくらいの弱々しい顔をしていた。
酸素マスクをして苦しそうにしている父の腕には、何本もの点滴がしてある。そんな痛々しい光景に思わず目を逸らしたくなった。
「怜愛……」
いつもの威圧的な太い声ではなく、蚊のようにか細くて弱々しい、小さな声で父は私の名前を呼んだ。
私は父の手を優しく握った。父は本当に薄らと目を開けて、こう言った。
「怜愛……今まで、本当に…ごめん、な………」
-ドクッ。
父の細い目と合った瞬間、心臓が大きく鳴ったような気がした。父と目が合うのは、一体いつぶりだっただろうか。私はそんなことにいちいち感動しながら、父の目をしっかりと見返した。
「お父さんがしてきたことは、一生許されるわけない。私はお父さんがどれだけ憎かったか、お父さんにどれだけ泣かされたか………すごく、辛かった。苦しかった。それなのに…今更ごめんなんて、言わないでよっ…」
気付いたら、涙で視界が滲んでいた。父の前で泣くのは生まれて初めてだった。
「でもあなたが弾くピアノは、私の苦しみよりも、もっともっと大きな苦しみを持った人たちの心を救ってるの。これからもっともっとたくさんの人たちに、世界中の人たちに、あなたのピアノの音色を届けたいんでしょ?……だから、まだ元気でいなきゃ。あなたを必要としているたくさんの人たちが待ってるの」
こんなくそみたいな父でも唯一、私は尊敬しているところがあった。父が弾くピアノの音色はいつか見た陽向の絵のように、私にとって救いみたいなものだった。だから私は密かにずっと、ピアノだけは……いつか父みたいに弾けるようになりたいと憧れを抱いていた。
「………本当は、私にもピアノの音色みたいな優しさを向けて欲しかった。二人が冷たくなってから絶望する毎日だったけど、それでも私がもっともっとピアノを頑張れば、二人に認めてもらえれば…きっとまた、みんなで笑い合える日が来るんだって……ずっと、信じてた。でもいつからか、それはただの願望でしかないんだって、気付いたの」
涙で歪む視界の中で、父が悲しそうな顔をしていたように見えた。
「もう……泣いて、いいっ…?」
父も母も何も言わなかった。私は我慢していた涙を一滴一滴零しながら、思いきり泣き出した。
「怜、愛……ごめん………ごめ、ん……」
私が病室の中で泣いている間、父はその弱々しい声でずっと謝り続けた。
٭•。❁。.*・゚ .゚・*.❁。.*・٭•。٭•。❁。.*・゚
あの日から一週間が経った今日、私は父の葬式のため学校を休んだ。
誰もが愛したあのピアニスト、私の父は昨日癌が原因で亡くなったことが明らかになった。本当に突然のできごとで、私は驚く暇もなかった。
私は葬式の間、ずっと上の空だった。あの日、今まで溜めていた自分の気持ちを吐き出したからか、実の父親が死んでも意外と何も感じないんだな、と父が亡くなったことよりも自分の中にある感情が空っぽなことに驚いていた。
あれだけ消えてほしいと願っていた父が死んで、むしろ清々する。これでやっと……ピアノに縛られながら父に怯える日々を送らなくて済む。これで、やっと……。
葬式が終わった後、家に帰り、父の部屋を母と一緒に片付けていた。ほとんどのものはいらないものボックスに入れるのだが、あまりにもその量が多いので小さなダンボール三箱では入り切りそうにもなく、部屋には物が溢れかえっていた。
クローゼットの中の父の私服を全部片付け終えた後、私は次にデスクにある小物を片付けようと引き出しを開けた。
「ん…?なんだこれ」
引き出しを開けると、そこには表紙に『マイメモリー』と英語表記されている、深緑色の分厚いアルバムのようなものがあった。気になって本を開きそうになったが、今そんなことをしても時間の無駄になるだけだと思ったので、後で見てみようと私はそれをとっておいた。
٭•。❁。.*・゚ .゚・*.❁。.*・٭•。٭•。❁。.*・゚
その日、父の部屋の片付けが一段落した後、私は自分の部屋で例のアルバムを開いてみた。
「……え…?」
私は目を見開いた。なぜなら……そこに貼ってあった写真に、全て私が写っていたからだ。
何で父がこんなにたくさん、私の写真を持っているのだろう。私は不思議に思いながらも、一枚一枚の写真にそっと目を向けた。
生まれた頃のまだ赤ちゃんだった私。
笑っている父に抱き抱えられる私。
初めて立った時の私。初めて喋った時の私。
泣きわめきながらミルクを飲んでいる私。
こぼしながら自分でスプーンを持ってご飯を食べている私。誕生日ケーキの前で笑っている私。
初めてピアノを弾いた時の私。
楽譜を持って嬉しそうに笑っている私。
コンクールで初めて賞をとって父に抱きついている私。母と歌を歌っている私。
学校の運動会で走っている私。
漢字テストで百点をとって喜んでいる私。
家族みんなと一緒に…笑っている私。
私が写真を撮られたことを覚えていないものまでも、しっかりと写真が貼られていた。
そしてどの写真にも、傍に必ずその日の年や日付が書かれていて、どれも楽しそうに笑っている私の写真ばかりだった。
アルバムのページを次々にめくっていくと、今度は『ピアノの発表会』と書かれたページがあった。気になって見てみると、そこには─────。
「なん、で……」
なんと、中学生から高校生の今の自分がこれまで出たピアノのコンクールの写真があったのだ。
「嘘っ……お父さん、見に来てなかったはずなのに……」
私は驚きのあまり口を覆った。なぜだろう。父が冷たくなってから、あの人は一回も私のコンクールに顔を出したことはなかった。それなのに、なんでこんな写真を…。
華やかなドレスを着て、真剣にピアノを弾いている私や、表彰台に立ってトロフィーを受け取る私。笑顔で拍手を送られている、嬉しそうな私。この写真たちの傍にもやはり、必ず日時が記録してあった。
私、こんな顔してピアノを弾いてるんだ…。
コンクールでピアノを弾く度に緊張していて、自分がどんな風にピアノを弾いているかなんて、考えたこともなかった。
写真の中でピアノを演奏している私は、とても真剣で……とても、楽しそうな表情をしていた。
あんなにピアノを弾くのが苦痛で、嫌で。両親に何を言われるんだろうと怯えながら、それでも毎日練習し続けてきたピアノ。私の隣には、いつもピアノという心強い存在があった。
どんなに嫌でも、ピアノだけはやめなかった。それはあの日のことがあって、父にあんなことをもう二度と言わないと誓ったからだと、勝手にそう思っていた。確かにそれは事実だ。………けれどそれ以上に、私はピアノが楽しくて仕方がなかったのかもしれない。この写真が、それを全て物語っている。こんなにも楽しそうにピアノを弾く自分は、間違いなくそう思っていたのだろう。
「……っ、うっ………」
ポタポタと零れ落ちる涙が写真にシミを作っていく。私は泣きながら、アルバムの最後のページを開いた。
しかし、最後のページには写真は貼られていなかった。その代わりに、そこには何回か丁寧に折られた紙が挟まっていた。
「これ……手紙………お父さん、の……」
紙を開くとそれは何枚か重なった便箋だった。便箋の一番上には『怜愛へ。』と父らしい達筆な字で書いてあった。
手が、ものすごく震えた。きっとここに、父の全てが書いてあるのだろうと思うと緊張して、一体どんなことが書いてあるのだろうという好奇心と同時に、もしかしたら私が想像もできないくらい酷いことが書いてあったりしたら…という恐怖心が入り混じり、その手紙を読まずにはいられなかった。
-ゴクッ。
私は怖くなりながらも深呼吸をした後、閉じていた目を開け、恐る恐る文章に目を通した。
『 怜愛へ。
ここには私の正直な気持ちを記したいと思う。素直な態度で君に接することができなかった分、もうこれ以上娘に嘘はつきたくない。自分勝手ながらだとは思っているが、どうかこれを最後まで読んでほしい。
私は君が中学二年生だった時、急に身体に異変を感じるようになった。その時はまだ生活に支障が出る程でもなかったから、気にせずいつも通りに過ごしていた。しかし、それから半年が経ったある日、病院へ行ってみると癌だということが判明した。それもかなり状態が悪化していたらしく、ここから治ることはもうないだろうと言われた。医者に、持っても二年ちょっとだと余命宣告を受けた時は本当にショックで、理解が追いつかなかった。しかしこれはきっと今まで君に散々酷いことをしてきた罰なんだと、私は納得した。だから私は自分が病気になったことに疑問を抱くことはなかった。余命宣告を受けたことはもちろん誰にも言っていない。このまま静かに息を引き取れれば、私はそれが本望だ。
怜愛に初めてピアノを弾かせた時、君は本当に嬉しそうだった。この子は生涯、ピアノに人生を捧げて、いつかきっと偉大な音楽家になるのだろうと。そう思った私は、君にピアノを教えることにした。
最初は簡単な曲のワンフレーズが弾けただけで喜んでいたから、私も嬉しくなってつい怜愛を甘やかしていた。しかし歳を重ねるごとに、君は段々とピアノの実力も上がってきて、私が教えることなど、もうなくなっていた。
君は私から離れていった。ピアノの一曲が弾けるようになっただけでは、もう喜ばなくなった。コンクールの受賞数も、気付いたら私より遥かに多くなっていた。だから私も、もう怜愛は一人でも大丈夫だと思い、君から離れていった。
だが、私は君を信じすぎたあまり、いつの間にか重荷を背負わせるようになってしまった。家族への当たりも段々と強くなっていき、気付いたら私たち家族の間には亀裂が入ってしまった。これは全て、何も考えず行動した私の責任だ。
ピアノで娘を喜ばせたいと、もっと楽しんでもらいたいと思っていただけだったのに、その気持ちはいつしかもっとピアノを上達させて世界的なピアニストにさせるんだ、というものに変わっていった。
あの日、君がピアノをやめたいと言った日。私は本当に酷いことをした。お前がやりたいのはピアノじゃないのか、これだけ頑張って実力も伸ばしてきたというのに急に他のことをしたいだなんて何馬鹿げたことを言っているんだ。私の夢を踏みにじるなんて、なんてやつだ。当時の私はそう思って怒り狂っていた。
しかし、馬鹿げたことを言っているのは私の方だったのだと、余命宣告を受けた時に気付かされた。
子供の好きなことをやらせて喜ばせてあげたい。一番大切に思っていたことだったのに、気付いたら子供にやりたくもないことを強制させ、力で拘束させて自分の夢を叶えさせるという、ただの虐待行為になっていた。
私は、全部全部怜愛のためなんだと勘違いして自己満足していただけの、なくてはならない最低な父親だ。それでも逃げずにピアノを続けて、私の期待に応えられるように一生懸命頑張る怜愛の姿が本当に誇らしい。
父親と名乗られるのも嫌かもしれないが、私は君の父で本当に良かった。今までのこと、本当にごめん。謝罪してもしきれないくらい、私は君に酷く当たった。君が一生私のことを許してくれなくて当然だ。許してくれとは言わない。ただこの場を借りて謝らせてほしい。本当にごめん。
最後に。これから私が生きられない分、君に伝えたいことがある。
それは、人との出会いを大切にしてほしいということだ。友達でも恋人でも、出会ったからにはこんな風にいつか別れが必ず来る。別れまでの月日は決して長くは続かないかもしれない。君は今までピアノと共に人生を送ってきたから、あまり周りに目を向けたことがないかもしれない。だからこそ、人との一つ一つの出会いを大切にしてほしい。別れを告げた人間に、将来必ず会えるなんて保証はない。私のように家族を見捨てるなんてことは絶対にしないで、誰かと共に人生を謳歌してほしい。父親とも思いたくない人間に、こんなこと言われても君は嫌がるかもしれないが、これだけは約束してほしい。
長くなってしまってごめん。ここまで読んでくれてありがとう。そして、生まれてきてくれて本当にありがとう、怜愛。怜愛はいつまでも、私の自慢の娘だよ。
死んだら私は地獄に行くかもしれないけど、もし。もし天国に行けたら。
私はずっと、空の上から怜愛のことを見守っているよ。
水瀬綾人 』
私はそっとアルバムを閉じた。涙が溢れ出てくる前に、私は自分の部屋を飛び出し、リビングにいる母に黙ってアルバムと手紙を渡した。
「………お母さんっ……私の、お父さん、は……もう、この世には……い、ない…?」
自分でもびっくりするくらい震えた、情けない声で、確かめるようにそう聞いた。
「……もう、いない」
母は冷静にそう断言した。
-ブチッ。
私の中で何かが切れた音がした。あぁ、もうだめだ。もう……。
「……うっ、ぅぁぁぁぁぁぁあああっ…!」
我慢していた涙が一気に溢れ出した。私は母の前だということも、今が夜だということも忘れ、ただひたすら、子供に戻ったかのように泣きわめいた。
母はそんな私を叱ることなく、私が泣いている間ずっと背中をさすってくれていた。
「怜愛……ごめんね、ごめんねっ…」
母は泣き止まない私にずっと謝り続けた。
「お母さん……私、私っ……!」
私は泣き続けた。母の胸に顔を預けて、私は声を出して泣いた。
私は、ちゃんと愛されていた。私が大好きだった父は、まだ父の中にちゃんと存在していた。
父が私を愛してくれていたこと。
私の幸せを一番に考えてくれていたこと。
私の父で良かったと思ってくれていたこと。
全部全部、嬉しかった。父の思いが、言葉が。
あれだけ呪いたいと思っていた父が、今は会いたくて仕方がない。
父が生きている間に、ちゃんと打ち解け合いたかった。父が病気になる前に、ちゃんと気付けばよかった、素直になればよかった。
私の気持ちを、思いを。もっとちゃんと伝えていれば。家族の幸せをもう一度取り戻すことを、諦めていなければ。もしかしたら私たちには、今とは違う、幸せなハッピーエンドが待っていたのかもしれない。
でも、今更そんなことにいくら後悔したって、いくら泣いたって、父が戻ってくることはない。家族三人で、幸せになることはできない。
もう、父はいないのだ。この世のどこにも。
今は、今だけは思い出したくない父の顔が、声が、ピアノの音色が。頭の中に浮かんでくる度に、涙は止まるどころか、余計溢れかえってくる。
お父さん。私も伝えたいことが本当にたくさんあるんだ。でも、私が言いたかったことは、全部お父さんが言ってくれたね。
いつか私たちの幸せは戻ってくるんだって、本当はね、ずっと。ずっとずっと、期待してた。
今も自覚はないだけで、本当は心の中にそんな気持ちがあるんだと思う。
でも、私はその気持ちにずっと蓋をしてた。どうせ、どれだけ待っても、私たちは昔のようには戻れない。分かってたから、隠してた。
今思えば私は今までこの気持ちに、気付いていないふりをしてきたのかもしれない。でも、どれだけ蓋をしていても、どれだけ気付いていないふりをしていても、心の中にしまってあった悲しみが消えることはなかった。
私は一生、お父さんが今までしてきた酷いことを許す日は来ないと思う。でも、これだけは伝えたい。
私をこの世界に連れてきてくれて、ありがとう。
だから、ちゃんと見ててね。いつか絶対、お父さんみたいな世界的なピアニストに、なってみせるから。
私が弾くピアノで、いつかきっと。
お父さんのように、世界中の人の心を、救いたいと。そう、思わせてくれた。
٭•。❁。.*・゚ .゚・*.❁。.*・٭•。٭•。❁。.*・゚
「ただいま」
「おかえりなさい」
父が亡くなってから、私の家は至って普通の会話ぐらいはまともに交わせるようになった。
あの日、私が泣いて、泣いて、泣いて。ようやく落ち着いてきた頃に、母が言った。
「怜愛。お父さんはね、この手紙を病院でずっと書いていたの。あんな弱々しい姿で、何度も何度も書き直しながら。だから、この手紙に書いてあることは、お父さんが本当に怜愛に伝えたかったことなんだと思う」
お母さんは私の手を強く握った。喋り方も、声色も、雰囲気も、全部私が小さかった頃のお母さんに戻っていた。
「怜愛、今まで本当にごめんなさい。あなたを傷付けたのは、私も一緒だから。これからはお父さんの分まで、私たち二人で幸せになろう」
母は私の気持ちを確かめるように、包み込むような温かさで、私を優しく抱きしめた。
私は母を抱きしめ返すことができた。こうしてようやく。ようやく、私たちは打ち解け合うことができたのだ。
『早くピアノの練習をしなさい』
もうこんな両親の声は、聞かなくなった。
父がいなくなったことでようやく、私は自由になれたのだ。ピアノに縛られることもなく、自由に生きられる……。
『怜愛、ピアノ上手くなったなぁ!』
『怜愛の将来の夢は、お父さんみたいなピアニストになることなんだぁっ』
『おっ、そうなのか。怜愛はお父さんを超えられるかな?』
-あはははっ。
ピアノの音色と共に、そんな楽しそうな笑い声が聞こえてきた気がした。
私の将来の夢は、あの時から変わっていない。
──────きっとこれからも、変わることはないだろう。
- Re: 君がいたから、ようやく笑えた。 ( No.9 )
- 日時: 2024/01/21 18:52
- 名前: しのこもち。 (ID: TqFD0e/Z)
『君がいたから、ようやく笑えた。』読者のみなさまへ。
更新がとても遅くなってしまい、大変申し訳ございませんでした……!!!!!
中々描き上がらず、私も頑張ったのですが……まさかこんなに経っているとは……本当にごめんなさい。
それでもまだ本編を見てくださっている方々(そんなにいないかもしれませんが…笑)本当にありがとうございます。
またこのように更新が遅くなってしまうことがたくさんあると思いますが、最後まで読んでくれると嬉しいです。
しのこもち。
- 9. 当たり前の幸せ -
【 Side 陽向 】
怜愛が学校に来るようになってから、1週間が経った。僕たちは今日も、いつも通りの場所でいつも通りの会話をしていた。
ただ、いつも通りと言っても、あの時から1つ変わったことがある。それは、僕たちは放課後だけではなく昼休みの間にも会うくらいの仲になったということだ。
「ねぇ、陽向。今日の放課後空いてたりする?」
珍しく怜愛がそんなことを聞いてくるので、僕はびっくりして思わず顔を上げた。
「空いてるけど、なんで?」
「この前一緒に……デ、デート?してくれたから、今度は私からも誘ってみようと思って…!」
顔を真っ赤にしながらそう言う彼女が、何だか子供を見守っている時のように愛らしく見えた。
「……ふーん?別にいいよ、行っても」
「えっ、いいの…?」
「うん」
僕が頷き返すと、怜愛は相当緊張していたのかほっと胸を撫で下ろした。
「よかったぁ。陽向って気分屋だから、断られるかもってドキドキしてたよ」
僕が怜愛との時間を断るわけないのに。そう口に出そうとして、すぐにその言葉を飲み込んだ。
まただ。最近、怜愛といるとどうしても心の中で思っていることを吐き出してしまいそうになる。
僕たちの間にある見えない一線を……越えてしまいそうになる。
٭•。❁。.*・゚ .゚・*.❁。.*・٭•。٭•。❁。.*・゚
「陽向、どこ行きたい?」
放課後になり、僕たちは一旦人目のつかない場所へ移動した。もちろん、マスクをして。
「どこでもいいよ」
「………とりあえず何でもいいって言う男の人、モテないって知ってた?」
「知ってた」
「……まぁ、いいや。私が提案したんだから、行く場所くらい私が決めていいよね」
そう言って怜愛は、僕の腕を引っ張って歩いた。
٭•。❁。.*・゚ .゚・*.❁。.*・٭•。٭•。❁。.*・゚
「やっぱり高校生と言ったらここでしょ!」
連れて来られたのは、2人用の少し狭いカラオケの部屋だった。
「僕、行ったことないかも」
「えっ、そうなの!?」
「うん。今まで絵しか描いてこなかったし」「へ、へぇ」
「怜愛はその感じだとカラオケ行ったことあるみたいだね」
さっき注いできたばかりのオレンジジュースを飲み、僕は向かいに座る怜愛をちらっと見ながらそう言った。
すると彼女は分かりやすくビクッと肩を震わせた。
「……えっと、実を言うと……私も行ったことない、です…」
「え?あ、そうなの?」
「う、うん。……実は私もさ、小さい時からずっとピアノしか弾いてこなかったんだ。学校が終わったらすぐに家帰ってピアノの練習して、土日も休まず一日中演奏して……親にずっと言われてきたことだったし、私が好きで始めたことだから仕方がないんだけどね。でもそんな生活じゃ、もちろん友達とも遊ぶ時間なんかとれなくて。正直今のクラスで仲良くしてくれてる女の子たちも、ずっと私のこと慕ってくれてるだけで、遊びに誘われたりとかはされたことないし……私もまだ、友達って思える関係の人を見つけられてないんだよね…」
さっきまでのテンションはどこへ行ったのか、怜愛は俯いてしまった。
「………もう、いるじゃん」
落ち込む彼女を励ます言葉。僕には、これしか考えつかなかった。
「……少なくとも僕は、君を友達くらいの関係には思ってるよ。友達との付き合いが上手くいってるとかいってないとか、そんなの僕には分からないけど、僕は君に出会えてさ………」
君に出会えて……その先の言葉を、口に出さないようにすぐに飲み込んだ。
「……とにかく、せっかくなんだし初心者同士でカラオケというものを満喫してみよう。ほら、怜愛なんか歌ってよ」
「……うん、ありがとう」
彼女は僕が渡したマイクを受け取り、タブレットに曲名を何曲か打ち込んだ後、立ち上がった。
「〜♪♪〜♪♪」
スピーカーから流れる音楽と共に、怜愛の綺麗な歌声が室内に響いた。それを聞いているだけで、心が浄化されていくような気がする。
“君に出会えてよかった”
こんな言葉を、僕なんかが伝える資格はない。なのに、口に出てしまいそうになった。こんなこと、今までなかったのに。そもそも僕は、自分の思ったことをそう簡単に口に出せるような人間じゃないのに。
………いいや、違う。僕がそういう人間になるために自分で“なった”んだ。
「陽向もなんか歌おうよっ」
しばらく歌っていた怜愛が僕の腕を引っ張る。そのおかげで僕はよろめきながら立ち上がった。
「陽向の歌ってるとこも見てみたいなぁ」
にやにや笑いながらそう言ってくる彼女の機嫌は、もうすっかり直ったみたいだ。
「えぇ。僕こう見えてめちゃくちゃ音痴だよ」
「歌に上手いとか下手とかないのっ。ほら、早く歌ってよ」
彼女は机に置いてあったもう一つのマイクを手に取り、僕に手渡した。
「〜♪♪〜♪♪」
最初は人前で歌うことに抵抗とためらいを感じていたけど、隣で怜愛が一緒に歌ってくれたおかげで、僕は小さな声でだけれど段々と歌うことができた。
「あっはははっ!うちらすごくない?ドレミの歌で95点取れてる!陽向歌上手いじゃん」
「さすがに僕がこんな単純なメロディーの曲ですら歌えないほどの音痴だとでも思った?あっ、もしかして馬鹿にしてるな?」
「し、してないです、してないですっ!」
面白おかしく笑う僕たちの豪快で大きな笑い声が、部屋中に響いた。カラオケが防音な部屋でよかったと思うくらいに、僕たちは思う存分叫んで笑っていた。
٭•。❁。.*・゚ .゚・*.❁。.*・٭•。٭•。❁。.*・゚
「あー、歌った歌った」
店を出た後二人並んで歩いていると、怜愛が満足そうに呟いた。
「そうだね。あんな面白い怜愛、見たことないよ」
「ちょっと、やめてよ……」
「……ふははっ」
「ねぇ、また思い出し笑いさせないでっ……あっはははっ」
「あはははははっ!」
急に涙を出して、僕たち二人はまた笑いだした。周りの通行人に、なんだこの人たちって目で見られてる。
でも、そんなの構わなかった。今はずっと、ただただこうして彼女と笑っていたかった。
お腹を抱えて僕たちは気が済むまで笑う。
あぁ、これがきっと。これがきっと“普通の幸せ”ってやつなんだろうな。
僕は笑いながら、ふとそんなことを思った。
٭•。❁。.*・゚ .゚・*.❁。.*・٭•。٭•。❁。.*・゚
僕が絵を描き始めた理由。それは、時間が過ぎるのが早く感じるような気がするから。ただ、それだけ。
でも僕はただそれだけの理由を利用して、目も向けたくない現実から逃げていた。
僕が最後に両親を見たのは、小学3年生の時だった。
別に事故で亡くなったとかではない。いや、もしかしたらそうなのかもしれないが、ただ朝起きると突然、昨晩まで一緒にいた両親がいなくなっていたのだ。
「…お父さん?お母さん?」
両親の部屋に入っても、誰もいない。
母は大抵いつも家にいるし、父は毎日僕より後に家を出ていくはずだ。昨晩早めに家を出るなどの話も特に両親からは聞いていないし、何かがおかしいということをこの時僕は悟った。
なんだか嫌な予感がした僕は、家中を探し回った。全ての部屋を隅から隅まで探したし、クローゼットの中も確認した。それでも両親が見つかることはなかった。
我にもすがる思いで両親の部屋をもう一度探索した僕は、あることに気付いてしまった。
いつもは物が収納してある引き出しやクローゼットから、両親の服や物がなくなっているのだ。玄関を見ると、靴も何足か消えていた。
僕は、さっきした嫌な予感が現実になってしまったということにこの時ようやく気が付いた。
『家族が消えた』
当時子供だった僕は両親がいなくなったことに驚きを隠せず、しばらくその場から動けないでいた。それと同時になぜ両親はいなくなってしまったのか、もしかしたら自分のせいなのではないかという不安や恐怖も感じていた。
-プルルルル。プルルルル。
何もする気力が起きないまま1時間ほどが経過した時、いきなり家の電話が鳴った。
僕はびっくりしながらも恐る恐る、早く来いとでも言うかのような大きな音を出す電話に近付き、震える手で受話器をとった。
「もしも─────」
「蓮見さん?今日学校欠席って連絡きてないけど、今日は学校来れないのかな?」
電話に出ようと口を開くと、その言葉を遮られた。声からして、電話の向こうの相手は自分のクラスの担任であることが分かる。
「………お母さんとお父さんが、いない」
「え…?」
自分でも何が起きているのか、何を言っていいのか分からなかった。子供だった僕にとってはそんなのなおさらのことで、今見えている事実を伝える他なかった。
「本当に?お母さんとお父さんは仕事に行ってるとかじゃなくて?」
「……そんなの、聞いてない。部屋からも……物、なくなってる」
電話越しで顔は見えないが、明らかに先生が驚いて焦っているということだけはなんとなく分かった。
「………わ、分かった。とりあえず今から先生たちで迎えに行くから、蓮見さんはそこで待ってて?」
電話の向こうから担任の焦ったような声が聞こえる。バタバタと派手な音が鳴ったと同時に、担任の先生は電話を切った。
-プーッ。プーッ。
電話を切った後の電子音が、広い部屋に響き渡った。その音が余計に、一人でいることの孤独感と不安を煽ってくる。
僕は体の力が一気に抜けるのを感じた瞬間、膝から崩れ落ち、先生が来るまでその場から動けずにいた。
٭•。❁。.*・゚ .゚・*.❁。.*・٭•。٭•。❁。.*・゚
その後のことは、あまりよく覚えていない。
気付いたら家に担任の先生や知らない大人の人たちが来ていて、気付いたら学校にいて。
気付いたら………あの人に、出会っていた。
「こんにちは。陽向くん、だっけ?よろしくね」
にこにこと笑いながら、朗らかとした雰囲気を纏ったその人が目の前に立っていた。
三十代くらいだろうか。男の人だった。背丈は父と同じくらいで、灰色のスーツを着ている。
「……誰、ですか?」
「ああ、そういえば名乗ってなかったね。僕の名前は─────」
『 凛空 』
そうか。怜愛と初めて出会った時”りあ”という名前をどこかで聞いたことがあるような、そんな気がしたのはきっと、あの人の面影があったからなんだろうな。
親戚もいない僕はいつの間にか、この”凛空”と名乗る人物の家にいさせてもらうことになった。
恐らく、というか絶対に、僕の両親がいくら探しても見つからなかったから、こうして他人の家に同居することになったのだろう。
僕は俯いた。涙が溢れないように顔に力を入れて、あの人にこんな情けない様子を見られないように極力下を向く。
両親の顔が、頭から離れない。
今でも覚えている、鮮明に。
お父さんとお母さんの顔、声、温もり。
今すぐ会いたい。声を聞きたい。
そんな思いが僕の心を支配し、気付いたら我慢していたはずの涙が零れていた。
「……凛空、さん」
「ん?」
「僕、今すごく悲しいんだ」
声が震えている。涙が溢れすぎて、うまく呼吸ができなかった。
「……っ、うっ………っ、」
僕は俯いたまま嗚咽を漏らしながら泣いた。
会ったばかりの人の前で泣くのは、これが初めてだった。
「……ぅっ、なんで……、なんでお父さん、とお母さんっ………いなく、なったの…?」
純粋に知りたかった。何も言わずに出ていくなんて、子供を置いて行くなんてこと、あんなに優しかった両親が簡単にできるわけがない。
精一杯声を上げながら僕は泣いた。一度泣き始めると涙は枯れないものなのか、自分でもこんなに泣いたことはないと思うくらいのたくさんの涙が頬に伝る。
凛空さんはそんな泣きぐしゃる僕に何も言わず、黙ったままずっと背中をさすってくれていた。
僕はその優しさに甘え、ただひたすら泣いた。
「お父さんっ、と…お母さん、に……っ今、すぐ……ぅっ、会いたい………」
切実な願いを口にすると、凛空さんは少し変わったことを僕に提案してきた。
「…………陽向くん。それならさ、少し僕と遊んでくれない?」
「……っ、え?遊ぶ…?」
泣くだけ泣いてようやく涙が引いてきた時、凛空さんは僕に微笑みかけた。
「うん。少し待っててね」
そう言うと凛空さんは立ち上がり、しばらくすると部屋から紙と鉛筆、クレヨンに絵の具に色鉛筆にカラーペンに、とにかくたくさんの種類の画材を持ってきた。
「絵、描くの……?」
「まぁ、そうかな」
凛空さんは袖をまくり、大きなサイズのスケッチブックを開いた。そしてなぜか白いクレヨンを取り出し、白いスケッチブックのページに何かを描き始めた。
「え、なんで白い紙に白い色で描くの?絵が見えないよ」
「そうだね。でも見ててよ?」
不思議がる僕の様子を楽しそうに見ながら、凛空さんはしばらく絵を描いた後クレヨンを置き、今度は水彩絵の具で淡い水色を作り出した。
そして真っ白なスケッチブックの上に、平筆で思い切り色を塗っていった。
「うわぁ、すごい………」
クレヨンの油分が絵の具の水をはじき、みるみるうちに一本一本の線が浮き上がり、絵が徐々にあらわになっていく。
それはまるで魔法のようで、僕は最初先生が手品でもしているのかと思ってしまうくらい、すごく滑らかで不思議な光景だった。
そして数秒も経たないうちに、さっきまで真っ白だったスケッチブックには翼を広げた美しい鳥が、水色の絵の具を背景に佇んでいた。
「綺麗……」
「だろ?これはバチックといって、クレヨンと水彩絵の具の異なる性質を利用した絵の技法なんだ」
「すごい、すごいよ!こんな綺麗で不思議な絵、初めて見た…!」
「ふふ。バチックだけじゃないぞ?絵の世界にはな、本当にたくさんの綺麗な技法や構成美なんかが眠ってるんだ」
凛空さんはそう言って、興味深々の僕にたくさんの美しい絵の世界を見せてくれた。
「これは誰でしょう?」
「あ、これ僕だ!凛空さんは絵が上手いんだね」
「えぇ、そうか?」
凛空さんの手から生み出されるものは全てが本当に綺麗で、僕はすでにこの時から絵という存在が隣にいたし、絵というものに惹かれていた。
「凛空さんはなんでそんなに絵が上手いの?」
「まぁ、一応美術の先生だからな」
「え、そうなの!?」
「うん、君の通ってる小中一貫校の中等部で美術教えてるよ。そんなに驚くことかな」
「そりゃあ、そうだよ。先生なんてすごい!でもなんで先生なんかになったの?こんなに絵が上手いんだから、画家とかやればいいのに」
そしてこの時先生が言った言葉を、僕は今でも鮮明に覚えている。
「実は僕も……………陽向くんと同じ歳だったくらいの時にな、お父さんとお母さんが事故で亡くなったんだ」
凛空先生は悲しそうに笑いながら、その真っ黒な瞳を切なく揺らした。
急にそんなことを言われるなんて思ってもみなかった僕は、驚いて勝手に一人でショックを受けた。
「その時、僕も陽向くんと同じようにずっとずっと一人で泣いてたよ。一人でいることの絶望感とか、孤独感とか。それに縛られながら生きる毎日が本当に怖くて、僕は里親に引き取られた後もしばらくその人たちの名前を呼ぼうともしなかった」
心配そうに見つめる僕の様子に気付いたのか、凛空先生は幼い子供をあやすように再びゆっくりと話し始めた。
「でも、そんな絶望する日々の中で…………僕は『絵』に出会ったんだ。絵は、白黒だった僕の心に色を塗ってくれた。何もなかった僕にとっては絵という存在が光だったんだ。自分のほしいものを絵に描けばなんだって手に入った気分になれたし、青空の絵を描けば心だって晴れる気がした。僕はそんな小さい頃から心の光だった大好きな絵の魅力を、少しでも多くの人に自分の口でちゃんと伝えたかった。だから、頑張って教師という道を選んだんだよ」
僕は、何も言えなかった。
いつも僕に見せてくれた先生の絵の美しさの中には、こんなにも切なくて儚い過去が詰まっていたのだ。
僕は息を飲んだ後、しばらく閉じていた口をようやく動かした。
「…………僕、決めたよ」
僕はスケッチブックを手にして、その場から立ち上がる。綺麗すぎるくらい真っ白で大きなその紙に、鉛筆で近くにあった花瓶の絵を描き始めた。
「僕はね、もっともっと、いっぱいいっぱい絵を描いて先生よりも絵が上手くなって、それでいつか………誰かに光を与えられるような、そんな絵を描くんだ」
気合いを入れるようにしてそう口にした後、ずっと見守ってくれていた先生を見て、僕はその人に優しく微笑みかけた。
いつかきっと、先生の過去の傷なんか吹き飛ぶくらい、すごい絵を描いてみせる。
僕はそう心に決め、再び力強く鉛筆を走らせたのだった。
٭•。❁。.*・゚ .゚・*.❁。.*・٭•。٭•。❁。.*・゚
それから僕の生活は少しずつ変わっていった。
両親は未だに見つかることはなかったが、それでも僕の隣にはいつも凛空先生がいた。
僕は小学生の時、ほとんど絵しか描いていなかった子供だったと思う。
あの頃は絵を描くのが楽しくて楽しくて、学校の休み時間も放課後も寝る前も、毎日ほとんど欠かさず絵を描いた。
家に帰ったら必ず先生がいるわけではなかったが、僕はその代わりに、夜になると学校から帰ってきた先生に絵を教えてくれるよう、よく頼んでいた。
僕がそうねだれば、先生は嫌な顔ひとつせず、いつも一緒に絵を描いてくれた。
先生と絵を描いている時間は心が満たされてすごく幸せだったし、何より楽しかった。
今考えると疲れて帰ってきたのに先生に迷惑ばかりかけてしまったな、と後悔するほどだ。
でも僕はそんなことを気にすらしないくらい、絵が本当に大好きだったのだ。
────でも、そんな幸せな時間は長くは続かなかった。
僕のせいで─────先生が死んだからだ。
今の生活にも慣れ、先生と出会ってから五年が経過した頃。
学校から帰っている途中、僕はその日自由帳に描いた自分の絵を見ながら、横断歩道を渡った。
ちゃんとこの目で赤信号が青信号に変わったことを確認したはずだった。
なのに、後ろから誰かが叫ぶような慌てた声が聞こえてきて、不思議に思いながらも振り返ろうとした………その時だった。
「陽向!逃げろー!!!」
-プップッー!!
車のクラクションが鳴る直前、僕は誰かに後ろから思い切り背中を押され、そのまま前に転がった。
-ガッシャーン!!!
ガラスが割れて弾ける音と、何かが大きくぶつかる派手な音が辺りに響いた。
僕は恐る恐る音がした方へ振り返った。
─────すると、そこには。
「……………凛空、先生…?」
そこには──────────ぐったりとたくさんの血を流して倒れている先生がいた。
「…………誰か!救急車呼べ!」
近くにいた大人のたちが、呆然とする僕なんて構わずに慌てて動き出した。
「……先、生?嘘、だよね……っ……先生?」
僕が話しかけてもピクリとも動かない。ものすごく嫌な予感がした。
「………………残念ながら、もうすでに息を引き取っています」
医者のその言葉を聞いた瞬間、僕はあまりのショックで倒れそうになった。
「…………っ、……ぅっ……ぇぐっ……なんっ、……で………」
気付いたらあの日から数日も経過していた。先生の葬儀も終わって………僕は先生と過ごしたあの家に帰った途端、泣き始めた。
先生と初めて出会った時にここで泣いた日以来、泣くのはこれが初めてだった。中学生になってまでも泣く日が来るとは、思いもよらなかった。
でも今はあの日と違って、そばには先生がいない。僕が殺したも同然なんだ。泣いたところで一体先生はどう思うか。
そう自分に言い聞かせる。そんな僕の意思とは反対に、涙はとまるどころか勢いを増した。
そうして僕は誰もいない真っ暗な部屋の中で、一晩中泣き続けた。
٭•。❁。.*・゚ .゚・*.❁。.*・٭•。٭•。❁。.*・゚
その後、僕は児童養護施設に引き取られた。
先生と過ごしたあの思い出の家を離れ、通い慣れていた学校も転校した。
先生がいない世界は、まるで全ての色がなくなったかのように、僕にとっては何もない世界になっていた。
もう何もする気力が起きないまま、学校では新しい友達を作ろうともせず、無意識にただ絵だけを描いていた。
そして転校してから一週間が経ったある日、僕はいつものように自由帳を開いて一人で絵を描いていた。
そんな絵しか描いていない僕は、クラスメイトたちから気味悪がられていた。
「あいついっつも絵しか描いてないよな」
「前の学校でいじめられてた陰キャ的な?」
「なんか可哀想ー」
よくそんな声が聞こえてくる日も段々と増えてきて、僕はそれが聞こえないようにと日に日に絵を描く時間を増やしていった。
٭•。❁。.*・゚ .゚・*.❁。.*・٭•。٭•。❁。.*・゚
ある日のことだった。教室に登校するといつも以上にひそひそと声が聞こえてきたので、僕はどうしても気になって自分の席の隣で話していた人たちに耳を傾けた。
「ねぇねぇ。なんかさ、この前提出し忘れてたプリント先生に届けようとして職員室行ったら、先生たちがあいつのこと話しててさ」
あいつとはきっと僕のことだろうか。
ちらちらと隣にいる僕を横目で見ながら、その人たちは続けた。
「でね、気になって聞いてたら、あの人実は小さい頃に両親いなくなって別の人に引き取られたらしいんだけど、その人も事故で亡くなったんだって。今は家ないから施設いるらしいよ。先生が可哀想な子とかなんとか言ってた」
「えー、何それ。確かに可哀想」
「しかもその亡くなった人ってあの人をかばおうとして死んじゃったらしいよ?ほんと気の毒だよね」
「そうなの?でもさ、別にその人もわざわざあの人かばわなくてよかったんじゃない?」
「確かに〜」
僕は聞いてしまった。
自分のくだらない生い立ちが、こんなにもみんなに知れ渡っていただなんて。知られてほしくなかったことを噂され、僕は頭を鈍器で殴られたような強い衝撃を受けた。
そして、僕のせいで亡くなってしまった先生ですら侮辱されているような気がして、完全に自分のせいだと分かっていながらも、腹が立った。
けれど同時に、彼女たちの話に少し共感してしまっている自分もいた。
先生はなんで僕をかばったのか。もしあの時先生が僕をかばわずに何もしなかったら、僕が死んでいた。それだけで終わったはずなのに。
しかも先生の存在の方が、僕より全然価値が大きい。普通の人だったら親に捨てられた見ず知らずの子供を、ましてや独身の男性が引き取るなんてしようともしないだろう。
なのに、先生は僕を選んでくれた。
希望を与えてくれた。
絵という素晴らしいものを教えてくれた。
一緒に笑顔で過ごしてくれた。
そんな先生が、例え不慮の事故だったとしても死んでいいはずがない。
だったらあの時、僕が……僕だけが、死んでいれば。せめてそのくらいさせてほしかった。
だってそうでも考えないと、僕の心にある鎖は永遠に解けない。いっそ死んでしまいたいくらいだった。
僕はそんな感じで居心地の悪い教室で二年間を過ごした。もう感情なんてものも忘れてしまったのか、僕はその二年間、笑うことも泣くこともしなくなっていた。
大好きだった家族、先生。そしてあの人が見せてくれた美しい絵の世界。
幸せな日々や時間は、永遠なんて言葉は付いてこないのだと僕は知った。
そして僕は何よりも大切な人を自分のせいでなくした。その罪は今になっても消える日なんて来ず、ずっと僕の心の奥底で疼いている。
だから僕はそんな罪悪感や呪いから逃れたくて、大好きだった絵を描いて現実から逃げていた。
本当に、自分がクズな人間すぎて呆れてくる。
でも、こうでもしないときっと僕はいつか壊れてしまうから。
だから神様、どうかお願いです。
せめて絵を描くことだけは、僕から決して奪わないでください。
そんなばかなことを願いながら、今日も僕は絵を描き続ける。
─────あの人が、大好きだった絵を。
- Re: 君がいたから、ようやく笑えた。 ( No.10 )
- 日時: 2024/09/10 17:54
- 名前: しのこもち。 (ID: X2iPJYSg)
【 読者のみなさまに大切なお知らせ 】
こんにちは、しのこもちです。
更新が遅くなってしまい、本当にごめんなさい。それでも最後まで読んでくれている方、いつも本当にありがとうございます。(何度も言いますが、そんなにいないか……笑)
突然ですが、今日を持ちまして私しのこもちは個人作品(この小説)の執筆を休止したいと思います。
理由は決して飽きたとかではないです。次のお話も少しずつ書いていました。
ただ私自身とても忙しく、これから数ヶ月は更に忙しくなるとの見込みで休止することを決めました。
恐らく二月か三月頃には帰ってくると思います。引退は今のところ考えていません。
また、現在みぃみぃ。さんと執筆中の合作小説『ユリカント・セカイ』は完結するまで頑張りたいと思っています。
急なことになってしまって、本当にごめんなさい。
今まで一度でもこの作品に目を通してくれた方、応援してくれた方がいれば幸いです。
五ヶ月後にまたここで、小説を書いたり読んだりできることを楽しみにしています。
みなさんお元気で!!!
しのこもち。
- Re: 君がいたから、ようやく笑えた。【大切なお知らせ】 ( No.11 )
- 日時: 2025/02/16 18:24
- 名前: しのこもち。 (ID: X2iPJYSg)
【 戻ってきました!!! 】
みなさんお久しぶりです(๑•̀ㅁ•́ฅ✨突然なのですが、今日をもちまして小説カキコでの活動を再開しようと思います!
ずっと更新していなかったので、このスレ見つけるの大変でしたが(汗)今まで通り私なりのペースで執筆を進めていけたらいいなと思います。
みなさん何卒よろしくお願いしますm(_ _)m
しのこもち。
- Re: 君がいたから、ようやく笑えた。【大切なお知らせ】 ( No.12 )
- 日時: 2025/04/18 19:13
- 名前: ドット (ID: i4kjv3jU)
- 参照: https://www.kakiko.info/profiles/index.cgi?no=14044
本当に気に入っている小説なので、再開のお知らせはとてもうれしかったです。
しのこもち。さんこれからも頑張ってください