ダーク・ファンタジー小説

Re: ユリカント・セカイ ( No.6 )
日時: 2024/02/19 20:13
名前: しのこもち。 (ID: X2iPJYSg)


 【 第六話 好きな人、嫌いな自分 】


「はぁ……」

 お手洗いを済ませた後、私は鏡の前の自分を見つめながらため息を漏らした。

 少し休んで大分頭痛は和らいできたものの、今の私はそれどころではなくなっていた。

 人生で初めて告白をしてしまった。しかも二度しか顔を合わせていないような他人に。

 なんだか私らしくない言動に、自分でも少し混乱していた。

 ぐるぐるといろんな思いが頭を巡る中、まだ完全に治っていない頭痛に頭を抱えながら、私はその場をあとにした。


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「流華ちゃん、歴史全然分かんないよ…!」

 午後の練習が終わった後、部屋に戻った私たちは各々自由時間を過ごしていた。

 雪ちゃんはとても真面目みたいで、合宿中にも関わらず教科書を持って頭を抱えていた。

「次のテスト範囲のところ?」
「そうなんだけど、よく分からなくて……」

 雪ちゃんは考えるような仕草をした後、再び教科書とにらめっこを始めた。それがなんだか愛らしくて、私は勝手に小さな妹ができたような気分になった。

「うーん……あっ、じゃあこの漫画読んでみたら?」

 私は何か勉強の参考になるものはないかとしばらく荷物をあさっていると、かばんの奥底に眠っていた日本史の漫画を見つけた。

 こんなのいれてたっけ…?

 そう首を傾げながら漫画のページを確認すると、ちょうど雪ちゃんが持っている教科書の単元と漫画の中の時代が一緒だったので、私は雪ちゃんにその漫画を渡した。

「え、いいの?ありがとう!」

 漫画を受け取った雪ちゃんはしばらくそれを真剣に読んだ。

 しかしページをめくるごとに彼女の表情は険しくなっていく。

 そんな姿を見て私は少し不安になっていると、雪ちゃんが頭の上にはてなマークを浮かべながらこちらを向いた。

「えっと……ジンギスカンと推し活が出てきた!」
「………多分それ神祇官と押勝じゃない?」
「あっ…」

 私が咄嗟にそう指摘すると、雪ちゃんはゆでダコのように一気に顔を赤らめた。

 そんな雪ちゃんを見て、私はおかしくなってつい声を出して笑ってしまった。

「ちょっ、笑わないでよっ…!」
「だって、ジンギスカンと推し活って……っ…あっはっはっはっ!雪ちゃんって面白いね…っ」
「も、もう…!だってこれどう見たってジンギスカンだよ?」
「雪ちゃん一回眼科行こっか」
「なんで!?」

 不思議がる雪ちゃんの拍子抜けした顔が面白くて、気付いたら私たちは二人で笑っていた。

 私は家にいる時よりも遥かに心地よいこの時間を幸せに感じながら、二人で気が済むまでたくさん笑った。


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 翌日。
 
 今日は一日中、私たち与那野東中のバスケ部と与那野中のバスケ部との合同練習がある。

 更にこの施設には体育館が一つしかないみたいで、女バスと男バスも混合で練習するとのことだ。

 ‪”‬‪あの人”‬にまた会えるかもしれないと少し期待していたが、昨日のことがあって正直今は会いたくないという気持ちの方が大きい。

 私は着替えを済ませた後、雪ちゃんと体育館へ向かった。

「流華ちゃん、知ってる?与那野中にめちゃくちゃかっこいい人がいるんだって!」
「へ、へぇ……」

 与那野中でかっこいい人なんて、どう考えたってあの人しか思い浮かばない。私は動揺して反射的に肩を跳ねらせてしまった。

「小鳥遊くん、だっけ?会ってみたいなぁ」
「そ、そうだねー……」

 絶対にあの人だ…。
 私はそう確信し、苦笑いをしながら適当に相槌を打つ。

 お願いだから今日だけはあの人に会いませんように…。そう念じながら私は体育館への道を歩いた。


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「…………では、与那野東中から一人ずつくじを引いて下さい」

 二校の部員が整列している前で、森下先生が小さな箱を抱えながらそう言った。

 アップを終えた後に行う基礎練習をペア同士でやることになった。それを決めるために今からくじをするみたいだ。

 今日は男女混合の練習なので、彼と同じペアになるかもしれないという可能性が一瞬頭をよぎった。

 けれどここにはこれだけの人数がいるのだ。さすがに一緒のペアになる確率は到底低いはずだ。


 そう思って、気軽にくじを引いたのがいけなかった。

「……」

 目の前にいるのは……昨日顔を合わせたばかりの彼、小鳥遊 留姫亜だった。

(なんでこんな時に限って……)

 全く、神様への念というのも当てにならないらしい。私はこの時、生まれて初めて神様を恨んだ。

 もちろん、私たちはこれで三回も顔を合わせている仲なので向こうも私が誰なのかくらいは分かっているのだろう。相手からは何も言ってこないし、はたまた自分からなんて話しかけれるわけもない。

 お互いペア練習なんて始める様子もなく、私たちの間には気まずい空気が流れる。

 まるで時間が止まったかのように、やけに周りのペアが練習している音が大きく聞こえてきた。

「…………あっ、流華ちゃん…!」

 しばらく重い雰囲気が続く中、そんな沈黙を一番に破ったのはまさかの雪ちゃんだった。

 雪ちゃんの姿を見た瞬間、私は救世主が現れたような気分になり、思わずほっと胸を撫で下ろした。

「なんかペア練習なんだけど、全体の人数が奇数だからって私がここに入ることになった!」

 雪ちゃんははにかみながらそう口にした後、私の目の前で突っ立っている彼に視線を移した。

「あれ、もしかして……小鳥遊さん、ですか?」

 雪ちゃんは彼を見るなり硬直し、口をパクパクさせながら目を大きく見開いた。

「そうですけど…」
「えっ、本当ですか……!」

 かっこいいと小さな声で呟いた雪ちゃんの手から、彼女が持っていたボールが落ちた。

 ボールは体育館の地面を大きく跳ねて転がっていき、私は一秒でも長くこの場から離れたいという思いが先走ったのか、無意識のうちに雪ちゃんが落としたそのボールを追って走っていた。

「う、嘘……まさかこんな時に会えるなんて…」
「は、はぁ…」
「えっ、彼女とかっていますか?」
「いないです」
「えっ、絶対いそう!じゃあ今まで告白された回数とかは?」
「え……覚えてないです」
「それって忘れちゃうくらいいっぱい告白されたってことだよね!?いいなぁ」


 -ズキッ。

 二人がいる場所からかなり距離を置いたはずなのに、ボールを拾っている間も雪ちゃんが楽しそうに彼に話しかけている声が聞こえきて、少し胸が痛んだのを感じた。

 昨日振られたばかりだというのに、どうしてこんなに胸が痛くなるんだろう。

 きっとまだ………私は彼のことが好きなんだろう。なぜならこの胸にあるモヤモヤの正体は、誰がどう見ても嫉妬なのだから。

 私はボールを拾い、二人のいる所へ向かった。

「へぇ、小鳥遊くんって歴史できるんだ」
「まぁ、好きなだけですけど」
「私日本史とか本当に覚えられなくて……羨ましいです」

 帰ってきた私に、話に夢中な雪ちゃんは気付いていないのか全くこちらを振り向こうとしない。

 ここで何か言って二人の会話を遮るのも気が引けるので、私は両手でボールを握りながら話が終わるまで待っていた。

 早く終わらないかと内心嫌になりながらその場に立ち止まっていると、雪ちゃんの向かい側にいた彼が私に気付いたのか、不意に目が合ってしまった。

 彼と目が合った瞬間、私は咄嗟に首を九十度回して目を逸らした。

 心臓がこれでもかというくらいに大きく波打つ。私はこの状況からどうにか抜け出したくて、反射的に声を出してしまった。

「……ゆ、雪ちゃん!ボール拾ってきたからそろそろ練習始めよう…!」

 あぁ、言ってしまった。
 友達の邪魔だけはしたくなかったのに。

 さっきまで意気揚々と話していた雪ちゃんが、今度はびっくりしたような、申し訳ないような表情をしながら私の方を向いた。

「あ、ごめん!流華ちゃんボール拾ってきてくれたの!?本当にごめんね」

 そう言って私からボールを受け取ると、雪ちゃんは勢いよく頭を下げてきた。

「ありがとね。じゃあ早く練習始めよう…!」

 雪ちゃんの一言で、私たち三人はこうしてかなり遅れて練習を開始した。


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「はぁ……疲れた」
「だね…」

 午前中の練習を終え、一旦部屋に戻った私たちはため息を吐きながら布団にダイブした。

 こうして自由時間があるのはすごくありがたいが、昨日から練習を続けていて、増してや三日間もこの生活を送るとなると、体力的にもかなりきつくなってくる。

「ねぇねぇ、流華ちゃん。このグループ知ってる?この曲聴いてみてほしい!」

 雪ちゃんは女の子らしいピンク色のカバーがかけられたスマートフォンを向け、今流行っている韓国のアイドルの動画を見せてきた。

「へぇ…」

 今どきとやらの流行りにうとい私は、雪ちゃんの話についていけず、曖昧な返事を返す。

 今は音楽を聴く気にもならなかったが、雪ちゃんの話を無視するわけにもいかず、私は疲れた体をゆっくりと起こした。

 私は雪ちゃんと同じようにかばんにしまっていた自分のスマホを取り出し、イヤホンを耳に押し当てた。

 音楽アプリを開いている間、私は自分のスマホをじっと見つめた。

 白いスマホに透明なケース。本体の中央に付けられたスマホリングは金属だけでできた無機質なもので、何の変哲も可愛げもない自分のスマホですら見るのが嫌になってくる。

 私の可愛くない所は、きっとこういう所なんだろう。流愛にからかわれるのも改めて納得がいく。

 そう落ち込みながら、私は雪ちゃんに勧められた曲を軽く聴いた。

 今どきの音楽らしいアップテンポでガールクラッシュな感じの曲で、普段あまり聴かないような曲だった。

 何だか新鮮な気分になり、たまにはこういう曲を聴くのもいいなと思いながら私は自由時間をゆったりと過ごした。


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 自由時間が終わり、お昼ご飯も食べ終えた私たちは再び練習を再開した。

 しかし不幸なことに、午後の練習も午前中に一緒だったペアと行うことになってしまった。

 また二人が話している所を黙って見ないといけないのかと思うと気分は晴れなかったが、彼と二人きりでいるよりは雪ちゃんがいる方が余程ましだった。

 午後は午前中の基礎練習とは違い、応用練習を中心に行うみたいだ。

 ボールをドリブルする相手を追いかけながらディフェンスをする練習や、味方のロングパスを受け取ってすぐに走る練習など、午後の練習はとにかく動き回るものばかりで、部員のみんなは体力的にも疲れ切っていた。

 元々体力に自信がなかった私は、走ってボールをシュートするだけでも息があがってしまう。

 肩で息をしながら三人で練習を続けていると、急に雪ちゃんが何かにつまずいて転んだ。

「雪ちゃん、大丈夫……!?」

 体育館に鈍くて派手な音が響く。雪ちゃんは膝を必死に抑えながら、体を横にして痛がっている。

 私はすぐにボールを置き、雪ちゃんのもとへ駆け寄った。

「ごめん、ちょっと疲れてたみたいで……」

 確かによく見ると雪ちゃんの顔色があまりよくない。きっと体調が悪いまま無理して練習を続けた挙句、そのまま転んでしまったのだろう。

 膝は大きく擦りむいており、皮が剥がれた箇所には薄らと血が滲んでいた。

 私が雪ちゃんを起こしている間に小鳥遊さんが先生を呼んできてくれたのか、しばらくすると森下先生が駆け寄ってきた。

「白石、立てそう?」
「はい、何とか………ごめんね流華ちゃん、小鳥遊くん」

 雪ちゃんは先生の肩を借りながら立ち、こちらを振り返って申し訳なさそうに謝った後体育館をあとにした。


 残された私たちの間には一気に気まずい空気が流れる。今朝と全く同じ状況に、私は思わず苦笑いをしてしまいそうになった。

「………練習、するか」

 しばらくお互いに固まっていると、彼が一言だけそう言った。私は返事を返す代わりに首を縦に振り、私たちはとても気まずい雰囲気の中で再び練習を始めた。

「……」

 隣でプレイしている彼をちらっと横目で見る。

 すっと通った鼻筋に、形の良い薄い唇。とにかく全ての顔のパーツの形が本当に綺麗で、その配置さえも完璧な顔だった。

 彼の横顔はとても整っていて、モデルだと言われても全く違和感を持たないほどの容姿だ。私はそんな生まれ持ったものが元から華やかな彼を羨ましく思った。

 バスケもとても上手で、本当に同い年なのかと疑問に思うくらい彼は完璧だ。

 きっと学校でもすごくモテるんだろう。彼が学校でたくさんの女子にちやほやされる様子が容易に想像できる。

 私は胸がまた痛むのを感じた。針で肌をチクッと刺されたような感覚でさえ覚えてしまう。

 私はなんて人を好きになってしまったのだろう。隣で懸命にバスケをする彼を見ながら、私はずっと練習に集中できずにいた。


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 ようやく一日の練習が終わり、挨拶をした後私はすぐに部屋へ走った。

 部屋の扉を思い切り開け、部屋の中にいる人物を見て私は安堵の息を吐いた。

「流華ちゃん!」
「雪ちゃん、怪我大丈夫…!?」
「うん、ちょっと膝を擦りむいただけみたい」
「そっか、よかったぁ…」

 雪ちゃんは膝にネット包帯を着けて、布団の上にちょこんと座っていた。

 とりあえず何もなくて良かったと安心して、私は雪ちゃんの隣に座った。

「雪ちゃんがいなくなってから、た、小鳥遊さんと二人きりで、すごく気まずかったんだからね」
「それは本当にごめんだけど……二人きりなんて最高じゃんっ!」
「え…?」
「流華ちゃんもついに恋をしちゃったのかぁ」
「ちょ、ちょっと。何言ってるの!?」

 冗談交じりにからかってくる雪ちゃんの顔は割と真剣で、心の中で私は動揺していた。

 私もう振られてるから、なんて口が裂けても言えない。でも彼に恋心を抱いているのは紛れもない事実だ。

 今日見た彼の横顔を思い返す。
 練習中は特に彼と話したりはしなかったが、私にとっては彼のことを、好きな人を見つめ直すいい機会になった。

 そう考えている自分が急に恥ずかしくなり、私は自分の顔がどんどん赤くなっていくのを感じた。

「………やっぱ流華ちゃん、好きなんだ?」
「だ、だからっ、違うってば…!」

 にやにやと笑って再びからかってくる雪ちゃんの言葉を否定しながら、反対に私の頭の中は彼のことでいっぱいだった。


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「………雪ちゃん、おはよう…」
「おはよう………って、どうしたのその顔!?」

 雪ちゃんが私の顔を見て、びっくりしたように目を丸くした。

 当の私はというと、充血した真っ赤な目に、その目元にはクマができていて、誰がどう見ても酷い顔をしている。

 せめて目だけでも治らないかと洗顔を頑張ってみたものの、そんなの全く効果はなかったみたいだ。

「なんか昨日、中々枕合わずに寝れなくて……」

 本当は嘘だ。昨夜は雪ちゃんにあんなことを言われて、更にあの人を意識してしまった私は彼のことをずっと考えていたのだ。

 彼の好きな人は誰なんだろう。きっと私なんかと比べものにならないくらい可愛くて、性格が良い人なんだろう。

 雪ちゃんは彼のことが好きなんだろうか。だとしたら雪ちゃんも彼に告白するんだろうか。

 色々なことが頭の中でぐるぐると駆け回り、考えているうちに眠れなくなってしまったのだ。

「流華ちゃん意外と繊細なんだねー」

 雪ちゃんは微笑みながらそう言い、気を使ってくれたのか、それ以上はなにも言及してこなかった。

 そうしてなんやかんやあり、私たちはいつものように練習をしに体育館へ向かった。


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 今日は与那野中との合同練習はなく、いつも学校で行っている練習内容を行うみたいだ。

 それを聞いた私は、好きな人にこんな酷い顔を見られなくて良かったと心底安心していた。

「雪ちゃん、アップしに行こ?」
「…うん……」

 あれ?
 何だか視界がいつもよりぼやけていて、雪ちゃんと自分の声が明らかにくぐもって聞こえたのを感じた。

 寝不足のせいだろうか。そう疑問に思いつつ、体の異変を察知した私は本能的にその場で立ち止まった。

 私の様子がおかしいことに雪ちゃんも気が付いたのか、彼女がこちらを振り返る。

「………え?なんで雪ちゃん、倒れて……」

 ぼんやりと視界に映る雪ちゃんが段々と傾いていくのが見えた。

 しばらくして体の重心が横に傾いているのを感じ、私は雪ちゃんが倒れているのではなく、自分が倒れているのだということにようやく気が付いた。

「流華ちゃんっ…!流華、ちゃん……」

 雪ちゃんの声が徐々に遠のくのを感じながら、私はそのまま意識を失った。


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 目を覚ますと、まず最初に視界に映ったのは白い天井だった。

 私はゆっくり視線を下の方へずらすと、今度はたくさんの薬品が並べられている棚や、資料が溢れかえる机が目に入った。

「橘、大丈夫か?」

 ベッドの隣には椅子に座った森下先生がいた。私は首を縦に振り、布団を剥がして起き上がった。

「橘、最近体調悪そうに見えるから、無理しない方がいいんじゃないかな?」

 そう言って森下先生は心配そうな顔をした後、私に質問してきた。

「このまま練習を続けてても、体調が悪化するだけかもしれない。早退するっていう手もあるけど、橘はどうしたい?」
「…………確かに、最近体調がずっと悪い気がして……昨日も全然眠れなかったから、早退した方がいいとは思いますけど………でも雪ちゃんが…」
「白石は大丈夫だ。彼女も橘には帰ってほしくないと思うかもしれないけど、友達が苦しんでいるのに無理に一緒にいようとするような人ではないから」
「…………分かりました、早退します。迷惑かけてすみませんでした」

 そう私が頭を下げると、森下先生は気にしないでと声をかけてくれた。

 私はまだ少しふらつく足を無理やり立ち上がらせて、荷物を取りに部屋へと急いだ。


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「流華、大丈夫だった!?」

 家に帰るなり、母が心配そうな顔をして私の元へ駆け寄った。

「うん。ちょっと体調が悪かっただけで、今は大分楽になったよ」

 そう言うと母は安心したのか、良かったと言って私を抱きしめた。

 そんなに心配するようなことではないんだけどな。そう思いつつ、久しぶりの母の温もりにいつの間にか私も安心してしまっていた。

「………あ、お姉ちゃん帰ってきたんだ」

 すると玄関に、今一番聞きたくなかった声が近付いてきた。

 私は流愛の顔が見えないように、咄嗟に顔を逸らした。

「なんでお姉ちゃん帰ってきたの?‪”‬‪華”のある主役が早退なんてしてどーすんの笑」

 まただ。最近家にいるとこうやって流愛が名前のことをからかってくることが多い。

 胸が痛くなるのを感じながら、私はこれ以上自分が傷つかないように、逃げるようにして部屋へ駆け込んだ。

 重いボストンバッグを肩から下ろし、私はベッドにうずくまった。

 やっぱり早退なんてしなければよかった。家にいると嫌でも流愛の声が聞こえてきて、それだけで自分の名前が嫌いになっていく。

 合宿に行っていたせいですっかり忘れていた。そっか、私は‪”‬‪流華”なんだ。

 どうしてもこの名前からなんて逃げ出すことはできない。こうやってなにか言われる度にうずくまってしまう自分が、どんどん嫌いになる。

 ‪”‬‪流華”という名前が悪いんじゃない。‪”‬‪流華”である私が悪いのだ。

 前を向こうって、逃げないって、決めたのに。‬‬

 いくらそう思っても、いくら足掻いても、私は私の名前が嫌いだ。

 どうしたらいいのか分からなくなってしまった私は、自分が寝不足なのにも関わらず、気が済むまでただひたすら涙を流し続けていた。