ダーク・ファンタジー小説

Re: 《宵賂事屋》 ( No.5 )
日時: 2024/10/09 22:27
名前: ベリー ◆mSY4O00yDc (ID: r2O29254)

 4


 どうしたものか。
 カラカラとした茜の色の腹の中。マモンは密かに眉間にシワをよせていた。
 舗道されていないデコボコの砂利道とボロボロの家々。王都の外壁にそってあるスラム街を、マモンとジャンは歩いていた。
 ジャンはマスターに父親の状態を話した。
 ジャンの話から汲み取ると、父親は酒と麻薬に溺れていたらしい。しかし徐々に元気もなくなり、今は死体のように寝たきりだとか。
 そこでマモンとマスターにある悪い予感が浮かんでいた。
 しかし実際にその父親を見なければ判断ができない。
 そういう訳で、マモンたちは今ジャンの家へ向かっている。
 ジャンの家は今にも崩れそうだった。薄っぺらい木板が辛うじて家と外の境界線を作っている。
 ただいまー。とジャンは家に入る。さっきよりテンションが高い気がする。
 酷い荒れようだ。スラム街だからといえど、衣食住はなんとか大事にするところが多い。
 しかしここは違う。家を修復しようとする意志など見えない。
 そもそもの、生きる意欲さえ見えなかった。

「マモン、これ、俺の父ちゃん」

 希望の兆しが見えたからか、はたまた同年代に家族を紹介することが嬉しいのか、ジャンの声は心做し弾んで聞こえる。
 徐々に冷たくなる空気と、ぬるりと喉をナメクジが通ったかのような生臭さは、マモンの顔にシワを刻む。
 ぺしゃんこになった敷布団に男が寝転がっている。
 ガリガリにやせ細っていて、骨に皮だけが被さっているようだ。
 伸びっぱなしの髪と髭で顔がよく見えない。ブンブンと飛び回る虫を手で払いつつ、マモンは毛をどかし顔を見る。

「うーん、酷い顔」

 開きっぱなしの双眸は焦点があっていない。口はなにか求めるようにパクパクと動いて、ヨダレがだらっと垂れっぱなしだ。

「――り」

 男がなにか言った気がして、マモンは耳を近付ける。
 しかしそれから男は声を発さない。
 もう一度言ってくださーい、と声をかけてみれば、男が息を吸ったためマモンは耳を近付ける。

『――を、くれ』

「ん、なんか欲しいん?」

『――をくれ』

「何をくれって?」

 男の不潔も気にしないで、マモンは口元のすぐ側まで己の耳を寄せた。
 と、男が動いた。やせ細ったといえど、男の大きな両手がマモンの頭蓋と髪を掴んだ。
 ヒヤリと肝が冷えて、世界の音が遠くなった気がした。
 
『クスリをくれ』
 
 ぼやけた世界で、その一言が鮮明に、マモンの鼓膜を震わせた。

「ッ――!」

 マモンは耳を抑えて男を突き飛ばした。

「父ちゃん!」

 傍でみていたジャンが男に駆け寄った。

「マモン、父ちゃんがごめん。なんていわれたんだ?」

「クスリをよこせって言われたよ」

「ああ、いつも言ってるから。あんまり気にしないで」

 マモンの嫌味はあらぬ方向へ飛んでった。
 俺が父ちゃんの病気の薬を見つけられないのが悪いんだ、と。ジャンがボソッとこぼす。
 マモンが嫌悪したのはジャンにではないというのに。
 ただそれよりも、ジャンの「いつも言ってる」という言葉でマモンはある判断がついた。
 マモンはカツラと眼帯を外す。
 なんの色も感じない、真っ白な表情で口を結んだ。
 空が瞑色に侵される最中、冷たくなりゆく部屋の隅、マモンは淡々と告げた。

「ジャン、コイツの病気が分かった」

 ジャンの表情がパァッと晴天のように明るくなる。

「そうなのか!? なぁ、父ちゃんはどうなってるの。なんの薬を探せばいいんだ!」

 今からマモンは現実を突きつけなければならないのに、希望に満ち溢れたその顔が、彼はうざったらしくて仕方がなかった。
 だから、絶望を突きつけてやりたいのだ。きっと、そうなのだ。
 マモンは自身にそう唱えて、ハッキリと言った。

「薬はない」

 戸惑い。ジャンの眉が歪む。

「どぅゆうこと?」

「そもそも、コイツはジャンが思ってるような病気じゃない」

「え、なにが? え?」

「体の病じゃない。精神の病だ。そもそも病といっていいのか、医者じゃない僕には分からない」

「なにいって、なにがいいた――」

「薬じゃ治らない。薬だけじゃ治らない。上質な治療を長い年月をかけてかけつづけ、それでも治るか分からない」

「父ちゃんは、そんなに重い病気なのか……? どこが悪いんだ? お腹か?」

 マモンの表情は彫刻のように変わらない。
 無機質な双眸で、曇り始めたジャンを刺す。

「そうか。じゃあ、君にはこういった方がいいか。コイツは病気じゃない」

 ヒュ、とジャンの息が鮮明に聞こえた。
 ジャンはまだ精神の病を理解できないとマモンは判断した。ならこういった方がわかりやすいだろう。

「女に逃げられ金を失い薬に壊されて、頭がおかしくなってるだけだよ。心が壊れてる。もう元には戻らない。薬も効かない。君には何も出来ない」

 だからマモンは強い言葉を選ぶ。
 ジャンが分かるように。なにも分からないように。

「ぇ、え?」

 一度に押し寄せる情報と感情にジャンは追いつけていないらしい。
 彼が戸惑っているのは明らかだ。
 しかし――いや、だからマモンは間髪入れない。

「君の前にある選択肢は二つ。治らぬ病に苦しんで死にゆく男を看取るか――」

 マモンの手のひらに魔法のエネルギー――魔素が集まる。
 紫の光はみるみる間に結晶となり、鋭利な刃を作り上げた。
 マモンは、瞳孔が揺れるジャンの手のひらにソレを握らせる。

「――君が、殺すか」

 至極色。世界の色が変わる。
 ジャンは冷たい手を震わせた。
 交雑する情報と感情のなか、「殺す」という言葉が強く残ったのだろう。

「っ、やめっ――!」

 ジャンはマモンの手を払った。
 カランっカランっ、と結晶の刃が転がって光となって消えてった。
 依然マモンの双眸はジャンから離れない。ジャンの答えを急かすように。
 ジャンはなにも言わない。言えないのか。呼吸の音だけ強くして、ジャンは顔を歪ませる。
 沈黙が重い。

「――ふっ、あっはははは!」

 それを、マモンが破り去った。

「そーっか、そーんなにコイツを治したいか。お父さん大好きだねぇ、ああ! 結構結構こけっこー。君の気持ちはよぉーく分かった」

 氷点下のような表情から打って変わって、マモンはピエロのように笑顔であり続ける。

「だから、質問を変えよう」

 パン、とマモンは胸の前で手を叩く。
 暗い部屋で白いマモンだけが光り輝く。その白はあまりに不気味で、“この世の邪悪全てを煮詰めた色”だった。

「君は、どうしたい?」

「どうって、どうって、なに?」

「お父さんを治して、幸せに暮らしたい?」

「うん」

「十年も二十年も、ずーっとお父さんの傍で看病することになっても?」

「……うん」

「それとも、早くお父さんを楽にしてあげたい?」

「……」

 ジャンは押し黙る。再び訪れる沈黙。しかし先程とは違う。
 ジャンが逡巡している。彼なりに必死に答えをだそうとしている。
 俺は、と。ジャンはつっかえながらも言葉を落とす。

「――苦しい父ちゃんを、みたくない。それで父ちゃんの病気が治るなら、いいけど。でもずっとずっと、長い時間見てるのは嫌だ。死ぬのが決まっちゃってるなら、もっといやだ」

「じゃあ」

「でも! でも、でもでも、でもさ……」

 ジャンは自分の服を破けそうなぐらいに引っ張る。真っ赤な顔で歯を噛み締めて、震える声で、叫んだ。

「殺したくないよ! 父ちゃんが死ぬのなんて、いやだよっ! いやだ、殺したくない! 死んで欲しくない! でも、苦しむ父ちゃんも、いやだよぉ……」

 堪えきれない切なさと戸惑いが幼いジャンの喉を圧迫し、そのまま舌にのって吐き散らかされた。
 今ここで男を殺すのも、このままここで衰弱死するのもジャンは嫌らしい。
 マモンが提示した以外の選択肢もあるにはある。
 僅かな可能性にかけてジャンが男を治療することだ。
 治るかも分からない廃れた心を、何年も何年もかけて。
 マモンはそんなことをジャンにさせたくなかった。
 子供に殴り掛かる親だ。そんな親のために、どうしてジャンの時間も精神も費やさねばならないのだろう。
 極小の希望をチラつかせ、ジャンさえも潰してしまうのか。
 それぐらいなら、希望などない方がいい。
 マモンの勝手な判断だった。

「――わかった」

 マモンは、しゃくり声をあげるジャンの頭を撫でた。
 背はあまり変わらない。ジャンが少し大きいかもしれない。
 マモンは腕をあげてジャンの涙を拭って、その手を彼の頬にそえる。

「僕は宵賂事屋だ。依頼者の願いは、できる限り叶えたいと思っている」

「――」

「だから、今僕ができることは。考えられることは、これだけだ。――悪く思うな」

 ジャンの表情から温度が抜けた。

「ま、まっ、て。マモ――」

 マモンは宵賂事屋だ。
 夜に働く汚たない何でも屋だ。
 方法なんて選ばない。依頼はこなせさえすればいいのだ。
 だから振り返ってはならない。
 痩せている首を掴む。
 生暖かい脈を絞める。
 五感の全てを殺して、気持ち悪く脈打つモノを潰すのだ。

「――! ――ッ‼︎」

 鐘の音の残滓のような耳鳴りが強く響いてる。
 男がマモンの手を引っ掻いて赤い跡が重なる。
 見えて、聞こえて、痛みがあるはずなのに、マモンは全て他人事に思えた。
 ジャンがマモンに掴みかかる。
 髪を引っ張られて、マントを掴まれて、頬を強く叩かれて揉みくちゃだ。
 もう何が何だかわからない。
 感覚が混濁する中、男の首だけは鮮明に見える。

「――! ――っ、――ッ‼︎」

 無理に吹いた笛みたいな、甲高い子供の悲鳴が響いている。
 それがジャンのものなのか自分のものなのか、マモンももう分からなかった。
 気付いたら男はもう死んでいた。
 しかし二人の取っ組み合いは終わらない。カヒュ、コヒュ、とカラカラな喘ぎ声が重なり続けている。

「ぅ、は、ぁ――」

 パタンと、糸が切れた人形のようにジャンは座り込んだ。
 肩で息をして引っ掻き傷がある腕を抑える。
 先程までの騒ぎが嘘のように部屋は静まり返った。
 ボヤボヤした世界の音が徐々に戻る。お互い脱力して息を整える。
 布が擦れる音がしてマモンは顔を上げた。
 ジャンが這うように、男の傍によっている。

「父ちゃん」

 ねぇ、父ちゃん。ジャンが何度も掠れた声で呼びかける。
 男は動かない。当たり前だ。マモンが殺したのだから。
 手のひらに男の脈が残っている感覚がして、マモンは右手を床に擦り付ける。

「とぅちゃん……」

 やるせない声だった。
 どうして、それほど父親の死に悲しむのだろう。
 母親が蒸発する前はどうだったか知らないが、その男は癇癪で子供に当たるようなやつだったのだろう。
 どうして、それほど悲哀にふけられるのだろう。
 マモンは疑問に思いながら聞くことはしなかった。
 聞けばもっとジャンは泣いてしまいそうだった。
 マモンは綿人形のようになってしまった気がした。空っぽで重い体をのしりと起こす。
 引きずるように歩いて、マモンはジャンと男を見下ろした。

「マモン――」

 ジャンの吐く息一つには感情全てが込められていた。
 真珠色の瞳でマモンはジャンを見つめ返す。
 睨み合いが続いて、先に目を逸らしたのはマモンだった。

「依頼料。貰うから」

 マモンが男を担ぎ上げて歩き出す。
 呆然としていたジャンは絞り出すように声を出した。

「なん、で――」

「死体は高く売れる」

 ジャンの息を吸う音が鮮明にした。
 マモンは男を背負って歩く。体格差もあって男の足はズルズルと引き摺られた。
 夜の風が体を冷やす。玄関の垂れ下がっているボロ布の下をくぐり抜けようとした矢先。

「――し、人殺しっ!」

 そんなもの彼らの世界では貶し言葉にすらならない。
 もちろんマモンは足を止めない。

「――しろ、シロ、白‼︎ 白ッ‼︎」

 放ってはマモンへ辿り着く前に消え失せる、言葉未満の雑音。背後からのソレが大きさを増す。

「白が、白がぁっ! 白の魔女がぁッ‼︎」

 この世界において最大級の暴言がマモンに追いついた。
 白、白。魔女、魔女。世界を壊した白の魔女。
 親をなくした少年の血を吐くような絶叫。
 どうしてと、溢れた怒りも悲しみも後悔も、濁流のようにマモンを追いかける。
 逃げるように逃れるように、腕も振れず、耳も塞げず、言葉を返せないもどかしさを感じることも許されず、ドロドロとよろけながら走ることが、マモンにできる精一杯であった。
 
 
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