ダーク・ファンタジー小説

Re: 僕らの記憶は、その爆音の中に埋まっている ( No.1 )
日時: 2026/02/01 20:19
名前: マツタケの香料 (ID: eEFm9oln)
参照: https://www.kakiko.info/profiles/index.cgi?no

第1章:春の砂塵

その学校は、あまりに美しく、あまりに静かだった。

聖ヶ丘高校の正門をくぐると、視界を埋め尽くすのは計算し尽くされた色彩の調和だ。淡いピンク色の桜並木、手入れの行き届いたエメラルド色の芝生、そしてそれらを反射する、全面ガラス張りの新校舎。 入学式へと向かう新入生たちの足取りは軽く、真新しいローファーがアスファルトを叩く音すら、春の調べのように心地よい。

如月(きさらぎ)ハルもまた、その波の中にいた。 紺青色のブレザーに袖を通し、少し窮屈なネクタイを直す。どこにでもある、ありふれた幸福な春の光景。

(……はずなのに)

ハルは、自分の右手のひらをそっと握りしめた。 指先には、一週間経っても消えない違和感が残っている。感覚が、少しだけ「遠い」のだ。 合格発表の日、自分の番号を見つけた瞬間の高揚感は覚えている。だが、その直前――最後に行われたはずの特殊教科「脱出」の記憶だけが、霧に包まれたように真っ白だった。

「ねえ、ハル。見てよ、あのモニュメント。格好良くない?」

幼馴染のカナが、校庭の中央を指差して声を弾ませる。 そこには、この洗練された校舎には不釣り合いな、赤錆びた鉄骨の塊が鎮座していた。高さは三メートルほどだろうか。複雑に折れ曲がった鉄の棒が、天に向かって苦悶しているようにも、あるいは地底からの叫びを抑え込んでいるようにも見える。

「……『鎮魂の塔』、だっけ」 ハルは、パンフレットに載っていた名称を思い出す。 「そう。四十年前、このあたりで大きな地盤沈下があったんだって。その時の教訓を忘れないために、創立者が建てたらしいよ」

カナは事もなき風に言って、桜の花びらを追いかけて駆け出した。 ハルはその場に立ち止まり、錆びた鉄の肌をじっと見つめる。 陽光を浴びているはずのその鉄骨は、なぜか周囲の空気を吸い込んでいるように暗く、冷たく見えた。

ふと、足元から微かな振動が伝わってきた。 地鳴りというにはあまりに細く、心臓の鼓動に近いリズム。 その瞬間、ハルの脳裏に強烈なフラッシュバックが走った。

――熱い。 ――息が、できない。 ――爪が剥がれる。石を、石を掴め。

「……っ!」 激しい眩暈に襲われ、ハルは近くの街灯に手をかけた。 視界が歪む。桜のピンク色が、一瞬だけ、焼けつくようなオレンジ色に変色した気がした。

「おい。大丈夫か、お前」

低く、硬い声が鼓動を鎮めた。 顔を上げると、そこには自分と同じ制服を着た少年が立っていた。鋭い眼差しと、どこか他人を拒絶するような冷たい空気を纏った少年――アキトだ。 アキトはハルの様子を訝しげに見つめ、視線をその足元へと落とした。

「……お前も、感じたのか。今の揺れ」 「揺れ? やっぱり、地震かな」 「地震じゃない。この学校の『下』が、まだ生きている証拠だ」

アキトは吐き捨てるように言うと、ハルの脇を通り過ぎていった。彼の左耳の後ろには、真新しい傷跡が一本、隠すこともなく赤く腫れていた。

ハルは、自分の右手のひらを開いてみた。 震える指先。爪の間には、今朝念入りに洗ったはずなのに、一粒の「黒い砂」がこびりついていた。 それは、どれほど磨かれた都会の土とも違う。 深く、永い眠りについていた、古の火薬の匂いがする砂だった。

「……脱出」

ハルは、無意識にその言葉を零した。 入学試験の最後、自分たちは間違いなく「そこ」にいた。 この美しい芝生の下。光の届かない、あの錆びた鉄の記憶の中に。

校舎の時計台が、午前十時の鐘を鳴らす。 それは福音のようでもあり、あるいは深い奈落へのカウントダウンのようでもあった。 聖ヶ丘高校、第41期入学式。 少年たちの「二度目の脱出」が、静かに、そして残酷に幕を開けようとしていた。