ダーク・ファンタジー小説

Re: 僕らの記憶は、その爆音の中に埋まっている ( No.2 )
日時: 2026/02/01 20:57
名前: マツタケの香料 (ID: eEFm9oln)
参照: https://www.kakiko.info/profiles/index.cgi?no

第2章:完璧な教室

入学式の喧騒が遠ざかり、新入生たちは吸い込まれるように校舎へと足を踏み入れた。 聖ヶ丘高校の廊下は、まるで高級ホテルのように静謐で、どこか無機質なほどに磨き上げられていた。等間隔に配置された窓からは、計算された角度で春の陽光が差し込み、白い壁に幾何学的な影を落としている。

ハルは、自分の足音だけが不自然に大きく響くような気がして、無意識に歩幅を狭めた。 「……ねえ、ハル。この学校、空気が少し変じゃない?」 隣を歩くカナが、不安げに制服の袖を引いた。 「変、っていうか……綺麗すぎるんだよ。埃一つ落ちてない」 ハルが答えると、カナは「そうかな」と笑って、すぐに興味を別のものに移した。彼女の適応能力の高さは、時としてハルを孤独にする。

1年A組の教室は、最上階の4階に位置していた。 自動ドアが滑らかに開き、ハルは一歩足を踏み入れた瞬間に、肌を刺すような「冷気」を感じた。それは空調による設定温度の低さだけではない。外界の春を拒絶するような、断絶された空間の温度だ。

教室内には、最新鋭の学習端末が埋め込まれたデスクが整然と並んでいた。 ハルは自分の名札が置かれた席――窓際の後ろから二番目――に座った。 椅子に腰を下ろした瞬間、ハルの背筋に嫌な汗が流れた。 (……知っている) この椅子の硬さ。机の高さ。窓から見える空の、切り取られたような角度。 初めて座ったはずなのに、自分の肉体は、この空間の寸法をミリ単位で把握しているかのような錯覚に陥る。

「皆さん、入学おめでとう。今日から私が、このクラスの舵取りを任された佐伯です」

教壇に立ったのは、三十代半ばほどの清潔感溢れる男だった。 佐伯は、仕立ての良いグレーのスーツを着こなし、縁のない眼鏡の奥で穏やかな眼差しを湛えている。その立ち居振る舞いは、非の打ち所がない「理想の教師」そのものだった。

「この聖ヶ丘高校には、三つの鉄則があります。一つ、他人を尊重すること。二つ、自己の知性を磨くこと。そして三つ――」 佐伯はそこで一度言葉を切り、教室をゆっくりと見渡した。その視線がハルとぶつかった時、ハルは蛇に睨まれた蛙のような硬直を覚えた。 「――三つ、決められた場所以外には立ち入らないこと。この学園には、古い設備を保存しているエリアや、地盤が不安定な場所が点在しています。皆さんの安全を守るため、これだけは厳守してください」

佐伯が壁のスイッチを操作すると、黒板に代わって巨大な高精細ディスプレイが起動した。 そこに映し出されたのは、学園の広大な敷地図だ。 緑豊かな森に囲まれたキャンパス。テニスコート、温水プール、そして歴史を感じさせる旧校舎。 しかし、ハルの目は、敷地の中心にあるはずの「ある場所」が、不自然なグレーのグラデーションで塗り潰されているのを見逃さなかった。

「……先生、あのグレーの区画は何ですか?」 ハルが尋ねる前に、教室の最後列から低い声が上がった。 アキトだ。彼は椅子を傾け、天井を睨むようにして座っていた。

佐伯は眼鏡のブリッジを押し上げ、微かに微笑んだ。 「そこは『聖域』と呼ばれている場所だ。40年前の……痛ましい事故の犠牲者を悼むための場所だよ。立ち入りは厳重に禁止されている」

「事故? 資料室の古い記録には『生徒による立てこもり事件』って書いてありましたけど」 アキトの言葉に、クラス中がざわついた。 「立てこもり? 何それ、テロ?」 「40年前の生徒が学校を占拠したってこと?」 生徒たちのざわめきが波紋のように広がる中、ハルはアキトの横顔をじっと見た。彼は、昨日までのハルが抱いていたのと同じ「焦燥」を抱えている。

「阿久津(あくつ)君。ネット上の根拠のない噂を鵜呑みにするのは、知性的とは言えませんね」 佐伯の声は依然として穏やかだったが、その語尾には、議論を許さない鋭い拒絶が混じっていた。

その時だった。 ――キィィィィィィン――

鼓膜を直接、氷の針で刺されたような、暴力的な高音のチャイムが鳴り響いた。 通常の「キンコンカンコン」という旋律ではない。 それは、何かが壊れる音。あるいは、誰かの叫び声を限界まで増幅させたような、不快な周波数のノイズだった。

「……っあ!」 ハルの思考が真っ白に染まった。 次の瞬間、ハルの身体は、彼自身の意志を置き去りにして動き出した。 ガタッ、と椅子を蹴り飛ばし、反射的に机の下に潜り込む。 それだけではない。ハルは震える手で隣にいたユキの腕を掴み、彼女を自分の背後に押し込んでいた。

「伏せろ! 破片が来るぞ!」

ハルが叫んだ言葉は、彼自身の記憶にはないはずのものだった。 数秒後、チャイムが止んだ。 静まり返った教室で、ハルは机の下に蹲(うずくま)ったまま、自分の呼吸の音だけを聞いていた。

顔を上げると、そこには異様な光景が広がっていた。 ハルだけではない。 クラスの半分以上の生徒が、青ざめた顔で机の下に潜り込んだり、頭を抱えて床に伏せていた。 ユキはハルに腕を掴まれたまま、目を見開いて震えている。

「……失礼。音響機器の調整が不十分だったようだ。驚かせてしまったね」

佐伯は何事もなかったかのように、教卓に散らばった資料を整えていた。 だが、その指先は、隠しようもなく震えていた。

ハルは、ゆっくりと机の下から這い出した。 自分の右手のひらを見る。 爪の中に、昨日はなかったはずの「黒い砂」が、再び一粒だけ付着していた。

(……思い出した) ハルは、喉の奥でせり上がる吐き気を押し殺した。 あのチャイムの音。 それは、入試のあの「空白の時間」に、地下の闇の中で、何度も何度も聞いた合図だ。 その音が鳴るたびに、上から瓦礫が降り注ぎ、炎が吹き荒れた。 自分たちは、その地獄の中を、泣きながら走らされていたのだ。

「脱出試験……」

ハルは隣のアキトを見た。アキトもまた、机の下で拳を握りしめ、自分自身の「身体の記憶」に怯えているようだった。

窓の外では、春の陽光に照らされた「鎮魂の塔」が、歪な影を教室の床に伸ばしていた。 その影の形は、まるで地下から這い出そうとする、巨大な人間の手のひらのように見えた。