ダーク・ファンタジー小説

Re: 僕らの記憶は、その爆音の中に埋まっている ( No.8 )
日時: 2026/02/02 14:17
名前: マツタケの香料 (ID: eEFm9oln)
参照: https://www.kakiko.info/profiles/index.cgi?no

第8章:垂直の闇
「――下りるって、ここを?」

ハルの声は、旧図書館の湿った空気に吸い込まれ、驚くほど力なく響いた。 シノが指し示した漆黒の穴。それは、かつてこの学校が「機能」していた時代に、地下のボイラー室と図書室を繋いでいた廃棄物用のダストシュートだった。口を開けた闇は、冷たく、重たい油の匂いを吐き出している。

「飛び込むんじゃない。『委ねる』んだ」 シノは表情一つ変えず、真鍮製のレバーに手をかけた。 「追っ手はすぐにここへ着く。彼らに捕まれば、君たちの意識は『再フォーマット』される。……今の君たちが君たちであるうちに、ここを離れる必要があるんだ」

廊下の向こうから、複数の足音が近づいてくる。それはもはや教師たちの優しい歩調ではなかった。床を削るような、硬質で、執拗な金属音。

「如月君……」 ユキがハルの制服の裾を、白くなるほど強く握りしめた。彼女の震えが、ハルの体温を奪っていく。 ハルは、自分の右手のひらを見つめた。 皮膚の中に沈み込んだ「黒い砂」が、心臓の鼓動に合わせてチリチリと熱を帯びている。それは警告ではなく、まるで「帰ってこい」と誘う呼び声のようだった。

「……行こう、ユキさん」 ハルは、自分でも驚くほど静かな声で言った。 彼はユキの細い肩を抱き寄せ、シノに続いてその闇の淵に足をかけた。

一歩。 重力に身を投げ出した瞬間、世界から色が消え、音が消えた。

視覚が死んだ世界で、ハルの神経は異常なほど研ぎ澄まされた。 肌を撫でる風は、上へ向かうのではなく、下から突き上げてくる。落下しているはずなのに、まるで深い水の中へ沈んでいくような、不思議な浮遊感があった。

シュートの内壁からは、時折、パチリという放電のような音が聞こえた。 「――途中で『壁』を触るな」 シノの警告が頭をよぎる。ハルは空中で体を丸め、ユキを庇うように腕に力を込めた。 壁の向こう側から、奇妙な音が漏れ聞こえてくる。 それは、何百人もの人間が、一斉に紙をめくっているような音。 あるいは、遠い夏の日に、誰かが泣き叫んでいた声の残響。

このダストシュートは、単なる階層の移動手段ではなかった。 それは、40年という時間の堆積(たいせき)を垂直に貫く、時空の傷跡だ。

ドサッ。

衝撃は、肺の中の空気をすべて吐き出させるほど重かった。 ハルたちは、数え切れないほどの古い紙束の山に叩きつけられた。 舞い上がる埃。古いインクと、煤(すす)と、そして微かな「火薬」の臭い。

ハルは、咳き込みながら顔を上げた。 視界が白く霞んでいる。それは埃のせいだけではなく、ここにある空気が、現代のそれよりも密度が濃いせいだと思えた。

「……ユキさん、怪我はないか?」 「ええ……なんとか。でも、ここ、どこ……?」

ユキが立ち上がろうとして、足元の紙束を崩した。 ハルはその一枚を手に取る。それは茶色く変色し、縁が焼け焦げた出席簿の断片だった。 1986年度。ハルの父親ですら、まだ子供だった頃の記録。 そこに記された名前のいくつかは、乱暴な黒線で塗りつぶされている。

「ここは、学校の『盲腸』だ」 暗闇の中から、シノの声が響いた。 彼は燐光を放つ石を床に置き、周囲を照らし出した。

そこは、新校舎の設計図には存在しないはずの「中層階」――1階と地下1階の間に生じた、歪な空間だった。 天井からは、のたうつ蛇のような配管が幾本も垂れ下がり、そこから漏れ出る黒い液体が、コンクリートの床に不気味な模様を描いている。

ハルはふと、自分が着地した紙の山に、一枚の新しいプリントが混ざっているのに気づいた。 それは、数日前に行われたはずの「入試問題」だった。 けれど、その紙は、まるで40年の歳月を経たかのようにボロボロに朽ち果てていた。

「……どうして、僕たちの試験問題が、こんなところに?」 「時間は、ここでは一定じゃない」 シノは、配管の影に消えそうなほど薄暗い通路を指差した。 「君たちが昨日受けた試験も、40年前の爆発も、ここでは同じ『現在』なんだよ。……ほら、聞こえるだろう?」

ハルは耳を澄ませた。 コンクリートの壁の向こう側。 遠く、遠くの方で、大勢の生徒たちが一斉に走り回る足音が聞こえる。 それは、今の生徒たちではない。 40年前、この場所で、出口を求めて絶望的に走り抜けた少年少女たちの、消えない足音だ。

ハルは、自分の右手の痣を見た。 そこからは、先ほどまでの燐光とは違う、どす黒い熱気が立ち上っていた。

「……戻れないな、もう」 ハルは、独り言のように呟いた。 背後にあるダストシュートを見上げても、そこにはただ、出口のない闇が重く蓋をしているだけだった。

「ようこそ、聖ヶ丘の『真実』へ」 シノの言葉と共に、通路の奥から、シュルシュルと何かが這い寄る音が響き始めた。