ダーク・ファンタジー小説

Re: 僕らの記憶は、その爆音の中に埋まっている ( No.9 )
日時: 2026/02/02 16:56
名前: マツタケの香料 (ID: eEFm9oln)
参照: https://www.kakiko.info/profiles/index.cgi?no

第9章:腐食する日常
中層階の回廊は、静まり返っていた。 先ほどまで聞こえていた這いずるような音も、今は止んでいる。だが、その静寂こそがハルたちの神経を鋭利に削り取っていく。

「……ねえ、ハル君。これ、変だよ」

ユキが、自分の肩に手を置いて立ち止まった。 彼女の指先が触れているのは、自分のブレザーの生地だ。ハルは足を止め、自身の身なりに視線を落とした。

異変は、静かに、しかし決定的に進行していた。 つい数時間前まで、最新のポリエステル素材で仕立てられた、光沢のある紺青色だったはずの制服。それが今、見たこともないほど厚手で、ざらりとした手触りのウール生地に変質している。色味はくすんだ濃紺に変わり、胸元に輝いていたはずの現代的な校章は、いつの間にか、古い真鍮製の重々しいボタンにすり替わっていた。

「……40年前の、制服?」 ハルはそのボタンを指先でなぞる。指先に伝わるのは、金属の冷たさと、積年の埃を吸い込んだ布の重みだ。

「空間が君たちを『定義』し始めているんだ」 前を歩くシノが、振り返らずに言った。彼の声は、コンクリートの壁に吸い込まれて反響しない。 「この場所において、君たちが『現代の生徒』であるという根拠は、君たちの記憶の中にしかない。けれど、この空気、この匂い、この湿度が、君たちの身体を『1986年の住人』として塗り替えていく」

「そんな……。じゃあ、私たちの記憶も、いつか塗り替えられちゃうの?」 ユキが自分のこめかみを押さえ、必死に何かを拒むように首を振る。 「私の名前、住所……お母さんの顔……。まだ、ちゃんと覚えてる。でも、さっきから、知らないはずのメロディがずっと頭の中で鳴ってるの」

ユキが呟いた言葉に、ハルもハッとした。 言われてみれば、耳の奥で、微かな、けれど執拗な音が鳴り続けている。 それは、古いシンセサイザーが奏でるような、どこかチープで切ない旋律。1980年代の放課後に、校内放送で流れていたような、甘酸っぱくて退廃的なBGMだ。

ハルは、意識を保つために右手の拳を強く握った。 手のひらに沈み込んだ砂が、肉を噛み切るように鋭く疼く。その痛みが、唯一、彼を「今」に繋ぎ止めるアンカーだった。

回廊の脇に、放置された古い手洗い場があった。 タイルはあちこちが剥がれ落ち、そこには茶色く濁った水が溜まっている。鏡があったであろう場所には、もはや何も映らないほどに汚れた煤けた板が嵌め込まれていた。

ハルはふらふらと、その手洗い場に近づいた。 「……見ちゃダメだ」 シノの声が聞こえたが、遅かった。

ハルは、煤けた板に映る「自分」を見てしまった。 そこにあったのは、今のハルの顔ではなかった。 前髪の分け方が少し違い、眼鏡のフレームは野暮ったい黒縁に変わっている。そして、何より――その瞳の奥に宿る「絶望」の色が、15歳のハルが知るはずのないほど、深く、濃い。

「これは……僕じゃない」 ハルが後ずさりすると、煤けた板の中の「ハル」も同じように動く。だが、板の中の彼は、ハルが口を動かしていないのに、微かに笑ったように見えた。

『――脱出、できなかったんだね』

声が聞こえた気がした。 耳からではなく、背骨の芯から直接響いてくるような、呪詛に近い囁き。

「……っ!」 ハルは蛇を振り払うように、手洗い場から飛び退いた。 心臓が激しく波打ち、視界がチカチカと点滅する。周囲のコンクリート壁が、まるで呼吸しているかのように膨らんだり、凹んだりして見えた。

「落ち着け、如月」 アキトが(いつの間にか彼もダストシュートを下りてきていたのか、それとも最初からいたのか、ハルの記憶は混濁していた)ハルの肩を強く掴んだ。 「それはお前じゃない。ただの『過去の残像』だ。……見ろ、俺たちを」

アキトの姿もまた、変質していた。 短く切り揃えられていたはずの髪は少し伸び、耳元には当時流行していたような安っぽいピアスが光っている。 けれど、その目は依然として鋭く、現代の「阿久津アキト」として、この狂った空間を睨みつけていた。

「俺たちは、あいつらの思い通りにはならない。制服が変わろうが、顔が歪もうが……この腹の底にあるムカつきだけは、俺たちのものだ」

アキトの乱暴な言葉が、ハルの意識を辛うじて現実に繋ぎ止めた。 ハルは深く息を吐き、煤けた手洗い場に背を向けた。

「……シノさん。この『中層階』は、どこまで続いてるんですか」 「距離の問題じゃない。君たちが、自分を失わずにどこまで歩けるかの問題だ」 シノは燐光の石を掲げ、さらに奥へと続く暗い階段を指差した。

「この先には、1986年の生徒たちが『立てこもった』現場がある。……彼らが爆弾を仕掛けた、最初の場所だ。そこには、君たちが探している『砂の味』の答えが落ちているかもしれない」

階段を下りる足音が、重く、鈍く響く。 ハルの身体は少しずつ、けれど確実に、40年前の闇に馴染み始めていた。 制服の重みが、もはや違和感ではなく、必然のように感じられ始めていることが、何よりも恐ろしかった。