ダーク・ファンタジー小説
- Re: 僕らの記憶は、その爆音の中に埋まっている ( No.1 )
- 日時: 2026/02/01 20:19
- 名前: マツタケの香料 (ID: eEFm9oln)
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第1章:春の砂塵
その学校は、あまりに美しく、あまりに静かだった。
聖ヶ丘高校の正門をくぐると、視界を埋め尽くすのは計算し尽くされた色彩の調和だ。淡いピンク色の桜並木、手入れの行き届いたエメラルド色の芝生、そしてそれらを反射する、全面ガラス張りの新校舎。 入学式へと向かう新入生たちの足取りは軽く、真新しいローファーがアスファルトを叩く音すら、春の調べのように心地よい。
如月(きさらぎ)ハルもまた、その波の中にいた。 紺青色のブレザーに袖を通し、少し窮屈なネクタイを直す。どこにでもある、ありふれた幸福な春の光景。
(……はずなのに)
ハルは、自分の右手のひらをそっと握りしめた。 指先には、一週間経っても消えない違和感が残っている。感覚が、少しだけ「遠い」のだ。 合格発表の日、自分の番号を見つけた瞬間の高揚感は覚えている。だが、その直前――最後に行われたはずの特殊教科「脱出」の記憶だけが、霧に包まれたように真っ白だった。
「ねえ、ハル。見てよ、あのモニュメント。格好良くない?」
幼馴染のカナが、校庭の中央を指差して声を弾ませる。 そこには、この洗練された校舎には不釣り合いな、赤錆びた鉄骨の塊が鎮座していた。高さは三メートルほどだろうか。複雑に折れ曲がった鉄の棒が、天に向かって苦悶しているようにも、あるいは地底からの叫びを抑え込んでいるようにも見える。
「……『鎮魂の塔』、だっけ」 ハルは、パンフレットに載っていた名称を思い出す。 「そう。四十年前、このあたりで大きな地盤沈下があったんだって。その時の教訓を忘れないために、創立者が建てたらしいよ」
カナは事もなき風に言って、桜の花びらを追いかけて駆け出した。 ハルはその場に立ち止まり、錆びた鉄の肌をじっと見つめる。 陽光を浴びているはずのその鉄骨は、なぜか周囲の空気を吸い込んでいるように暗く、冷たく見えた。
ふと、足元から微かな振動が伝わってきた。 地鳴りというにはあまりに細く、心臓の鼓動に近いリズム。 その瞬間、ハルの脳裏に強烈なフラッシュバックが走った。
――熱い。 ――息が、できない。 ――爪が剥がれる。石を、石を掴め。
「……っ!」 激しい眩暈に襲われ、ハルは近くの街灯に手をかけた。 視界が歪む。桜のピンク色が、一瞬だけ、焼けつくようなオレンジ色に変色した気がした。
「おい。大丈夫か、お前」
低く、硬い声が鼓動を鎮めた。 顔を上げると、そこには自分と同じ制服を着た少年が立っていた。鋭い眼差しと、どこか他人を拒絶するような冷たい空気を纏った少年――アキトだ。 アキトはハルの様子を訝しげに見つめ、視線をその足元へと落とした。
「……お前も、感じたのか。今の揺れ」 「揺れ? やっぱり、地震かな」 「地震じゃない。この学校の『下』が、まだ生きている証拠だ」
アキトは吐き捨てるように言うと、ハルの脇を通り過ぎていった。彼の左耳の後ろには、真新しい傷跡が一本、隠すこともなく赤く腫れていた。
ハルは、自分の右手のひらを開いてみた。 震える指先。爪の間には、今朝念入りに洗ったはずなのに、一粒の「黒い砂」がこびりついていた。 それは、どれほど磨かれた都会の土とも違う。 深く、永い眠りについていた、古の火薬の匂いがする砂だった。
「……脱出」
ハルは、無意識にその言葉を零した。 入学試験の最後、自分たちは間違いなく「そこ」にいた。 この美しい芝生の下。光の届かない、あの錆びた鉄の記憶の中に。
校舎の時計台が、午前十時の鐘を鳴らす。 それは福音のようでもあり、あるいは深い奈落へのカウントダウンのようでもあった。 聖ヶ丘高校、第41期入学式。 少年たちの「二度目の脱出」が、静かに、そして残酷に幕を開けようとしていた。
- Re: 僕らの記憶は、その爆音の中に埋まっている ( No.2 )
- 日時: 2026/02/01 20:57
- 名前: マツタケの香料 (ID: eEFm9oln)
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第2章:完璧な教室
入学式の喧騒が遠ざかり、新入生たちは吸い込まれるように校舎へと足を踏み入れた。 聖ヶ丘高校の廊下は、まるで高級ホテルのように静謐で、どこか無機質なほどに磨き上げられていた。等間隔に配置された窓からは、計算された角度で春の陽光が差し込み、白い壁に幾何学的な影を落としている。
ハルは、自分の足音だけが不自然に大きく響くような気がして、無意識に歩幅を狭めた。 「……ねえ、ハル。この学校、空気が少し変じゃない?」 隣を歩くカナが、不安げに制服の袖を引いた。 「変、っていうか……綺麗すぎるんだよ。埃一つ落ちてない」 ハルが答えると、カナは「そうかな」と笑って、すぐに興味を別のものに移した。彼女の適応能力の高さは、時としてハルを孤独にする。
1年A組の教室は、最上階の4階に位置していた。 自動ドアが滑らかに開き、ハルは一歩足を踏み入れた瞬間に、肌を刺すような「冷気」を感じた。それは空調による設定温度の低さだけではない。外界の春を拒絶するような、断絶された空間の温度だ。
教室内には、最新鋭の学習端末が埋め込まれたデスクが整然と並んでいた。 ハルは自分の名札が置かれた席――窓際の後ろから二番目――に座った。 椅子に腰を下ろした瞬間、ハルの背筋に嫌な汗が流れた。 (……知っている) この椅子の硬さ。机の高さ。窓から見える空の、切り取られたような角度。 初めて座ったはずなのに、自分の肉体は、この空間の寸法をミリ単位で把握しているかのような錯覚に陥る。
「皆さん、入学おめでとう。今日から私が、このクラスの舵取りを任された佐伯です」
教壇に立ったのは、三十代半ばほどの清潔感溢れる男だった。 佐伯は、仕立ての良いグレーのスーツを着こなし、縁のない眼鏡の奥で穏やかな眼差しを湛えている。その立ち居振る舞いは、非の打ち所がない「理想の教師」そのものだった。
「この聖ヶ丘高校には、三つの鉄則があります。一つ、他人を尊重すること。二つ、自己の知性を磨くこと。そして三つ――」 佐伯はそこで一度言葉を切り、教室をゆっくりと見渡した。その視線がハルとぶつかった時、ハルは蛇に睨まれた蛙のような硬直を覚えた。 「――三つ、決められた場所以外には立ち入らないこと。この学園には、古い設備を保存しているエリアや、地盤が不安定な場所が点在しています。皆さんの安全を守るため、これだけは厳守してください」
佐伯が壁のスイッチを操作すると、黒板に代わって巨大な高精細ディスプレイが起動した。 そこに映し出されたのは、学園の広大な敷地図だ。 緑豊かな森に囲まれたキャンパス。テニスコート、温水プール、そして歴史を感じさせる旧校舎。 しかし、ハルの目は、敷地の中心にあるはずの「ある場所」が、不自然なグレーのグラデーションで塗り潰されているのを見逃さなかった。
「……先生、あのグレーの区画は何ですか?」 ハルが尋ねる前に、教室の最後列から低い声が上がった。 アキトだ。彼は椅子を傾け、天井を睨むようにして座っていた。
佐伯は眼鏡のブリッジを押し上げ、微かに微笑んだ。 「そこは『聖域』と呼ばれている場所だ。40年前の……痛ましい事故の犠牲者を悼むための場所だよ。立ち入りは厳重に禁止されている」
「事故? 資料室の古い記録には『生徒による立てこもり事件』って書いてありましたけど」 アキトの言葉に、クラス中がざわついた。 「立てこもり? 何それ、テロ?」 「40年前の生徒が学校を占拠したってこと?」 生徒たちのざわめきが波紋のように広がる中、ハルはアキトの横顔をじっと見た。彼は、昨日までのハルが抱いていたのと同じ「焦燥」を抱えている。
「阿久津(あくつ)君。ネット上の根拠のない噂を鵜呑みにするのは、知性的とは言えませんね」 佐伯の声は依然として穏やかだったが、その語尾には、議論を許さない鋭い拒絶が混じっていた。
その時だった。 ――キィィィィィィン――
鼓膜を直接、氷の針で刺されたような、暴力的な高音のチャイムが鳴り響いた。 通常の「キンコンカンコン」という旋律ではない。 それは、何かが壊れる音。あるいは、誰かの叫び声を限界まで増幅させたような、不快な周波数のノイズだった。
「……っあ!」 ハルの思考が真っ白に染まった。 次の瞬間、ハルの身体は、彼自身の意志を置き去りにして動き出した。 ガタッ、と椅子を蹴り飛ばし、反射的に机の下に潜り込む。 それだけではない。ハルは震える手で隣にいたユキの腕を掴み、彼女を自分の背後に押し込んでいた。
「伏せろ! 破片が来るぞ!」
ハルが叫んだ言葉は、彼自身の記憶にはないはずのものだった。 数秒後、チャイムが止んだ。 静まり返った教室で、ハルは机の下に蹲(うずくま)ったまま、自分の呼吸の音だけを聞いていた。
顔を上げると、そこには異様な光景が広がっていた。 ハルだけではない。 クラスの半分以上の生徒が、青ざめた顔で机の下に潜り込んだり、頭を抱えて床に伏せていた。 ユキはハルに腕を掴まれたまま、目を見開いて震えている。
「……失礼。音響機器の調整が不十分だったようだ。驚かせてしまったね」
佐伯は何事もなかったかのように、教卓に散らばった資料を整えていた。 だが、その指先は、隠しようもなく震えていた。
ハルは、ゆっくりと机の下から這い出した。 自分の右手のひらを見る。 爪の中に、昨日はなかったはずの「黒い砂」が、再び一粒だけ付着していた。
(……思い出した) ハルは、喉の奥でせり上がる吐き気を押し殺した。 あのチャイムの音。 それは、入試のあの「空白の時間」に、地下の闇の中で、何度も何度も聞いた合図だ。 その音が鳴るたびに、上から瓦礫が降り注ぎ、炎が吹き荒れた。 自分たちは、その地獄の中を、泣きながら走らされていたのだ。
「脱出試験……」
ハルは隣のアキトを見た。アキトもまた、机の下で拳を握りしめ、自分自身の「身体の記憶」に怯えているようだった。
窓の外では、春の陽光に照らされた「鎮魂の塔」が、歪な影を教室の床に伸ばしていた。 その影の形は、まるで地下から這い出そうとする、巨大な人間の手のひらのように見えた。
- Re: 僕らの記憶は、その爆音の中に埋まっている ( No.3 )
- 日時: 2026/02/01 21:03
- 名前: マツタケの香料 (ID: eEFm9oln)
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第3章:清められた傷跡
1年A組に流れた凍りつくような沈黙を、担任の佐伯は鮮やかな手つきで塗りつぶした。
「さあ、いつまでそうしているんだい? 避難訓練の成果が出すぎてしまったかな。実に優秀な反応だ」
佐伯がパン、と小気味よく手を叩くと、教室内を支配していた硬直が、魔法が解けたように緩んだ。生徒たちは一人、また一人と机の下から這い出し、きまりが悪そうに制服の埃を払う。
「……避難、訓練?」 ハルは、自分の声が他人のもののように掠れて聞こえるのを自覚した。 「そうだ。本校では入試期間中、無意識下での安全教育を並行して行っている。一種のサブリミナル的なものだがね。今のチャイム音は、そのトリガーだ。君たちが自分の身を反射的に守れたのは、教育が成功した証だよ」
佐伯の言葉はあまりに淀みなく、理路整然としていた。 生徒たちは「なんだ、そういうことか」と安堵の色を浮かべ、互いに笑い合う。しかし、ハルの隣で立ち上がったユキの顔は、依然として陶器のように白いままだ。彼女の右腕には、ハルが強く掴んだ指の跡が、鮮やかな赤紫色の痣となって浮き上がっていた。
「ごめん、ユキさん。強く掴みすぎた」 「……いいの。でも、如月君。あの時、あなた何て言った?」
破片が来る――。 ハルは自分の口が吐き出した警告を思い出す。だが、この教室の天井にはひび一つなく、空調からは清浄な空気が静かに流れ出している。破片など、どこにも降ってくるはずがなかった。
「……分からない。自分でも、どうしてあんなこと言ったのか」
午後の授業が始まると、学校の「過剰なまでのホスピタリティ」がハルをさらに困惑させた。 三時間目の体育の時間。更衣室で着替えていたハルは、クラスの男子たちの背中や肩に、不自然な「医療用テープ」が貼られていることに気づいた。
「それ、どうしたんだ?」 ハルが尋ねると、一人の男子生徒が不思議そうに自分の肩を覗き込んだ。 「これ? 昨日の健康診断で、予防接種の後に貼られたんだよ。少し腫れやすい体質だからって、看護師さんが丁寧に貼ってくれてさ。あ、如月も貼ってあるじゃん。腰のあたり」
ハルは鏡を振り返り、自分の腰に貼られた大きな四角いテープを見つけた。 そんなものを貼られた覚えはない。 恐る恐るその端を剥がしてみる。テープの下にあったのは、注射の跡などではなかった。 それは、**「何かに激しく擦りつけ、肉が裂けた後に、無理やり縫合されたような、生々しい傷跡」**だった。
「――っ!」
ハルは悲鳴を上げそうになるのを、奥歯を噛み締めて堪えた。 傷口は、驚くほど綺麗に処置されている。最新の医療技術を使わなければ不可能なほど、皮膚が平滑に繋げられている。だが、その下にある筋肉の痛みは、これが「昨日今日」の傷であることを明確に告げていた。
(予防接種? 嘘だ。僕たちは、この傷を負うような『何か』をさせられたんだ)
ふと視線を感じ、顔を上げると、アキトが鏡越しにハルを見ていた。 アキトは何も言わず、自分の首筋の傷を指先でなぞった。彼の傷は、医療用テープで隠されることすら拒んだかのように、剥き出しのまま怒りを湛えている。
放課後、校舎内は部活動の勧誘に沸いていた。 吹奏楽部の華やかな旋律、運動部の威勢の良い掛け声。どこにでもある、輝かしい放課後の風景だ。
ハルは、校内の掲示板の前に立っていた。 そこには、部活動の一覧が整然と並んでいる。野球部、サッカー部、科学部、文芸部……。 ハルは指先で一つひとつの部名をなぞり、ある一点で指を止めた。
『歴史研究部 ――失われた地層と、40年前の真実を追う――』
その部活動の紹介文だけが、他の部活のような手書きのPOPではなく、古い活版印刷のような無機質な文字で印刷されていた。 そしてその下には、手書きの小さなメモが、ピンで留められていた。
『砂の味が忘れられない者だけ、放課後の旧図書館へ来い』
ハルは、爪の間に残る「黒い砂」の感触を思い出した。 背後で、冷たい風が吹き抜ける。 振り返ると、そこには誰もいなかった。ただ、夕日に照らされた廊下の影が、迷宮の入り口のように長く、深く伸びていた。
- Re: 僕らの記憶は、その爆音の中に埋まっている ( No.4 )
- 日時: 2026/02/01 21:06
- 名前: マツタケの香料 (ID: eEFm9oln)
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第4章:親切な包囲網
「砂の味」という言葉が、ハルの脳裏で警報のように鳴り響いていた。
旧図書館は、新築された鏡面仕上げのメイン校舎とは対照的に、敷地の北端にひっそりと佇む煉瓦造りの建物だ。40年前の爆発事件でも唯一倒壊を免れたと言われるその場所は、今は立ち入り制限区域のすぐ側に位置している。
ハルは掲示板の前を離れ、人波に逆らって北へと足を向けた。だが、一歩踏み出した瞬間、背後から柔らかな声が届いた。
「如月君、どこへ行くんだい?」
振り返ると、そこには生活指導担当の女教師、中根が立っていた。彼女はハルがこの学校で見た中で、最も穏やかで、最も「完璧な」笑顔を持っていた。
「あ、いえ……少し、図書館に」 「それなら新校舎の三階だよ。あそこなら最新の電子書籍も、美味しいカフェラテも完備されている。旧館の方はもう、カビ臭くて資料もボロボロだ。君のような優秀な生徒が行く場所じゃない」
中根はハルの肩にそっと手を置いた。その手のひらは驚くほど冷たく、けれど力強くハルの足を止めさせる。
「でも、歴史研究部の掲示を見て……」 「ああ、あの部活ね。あそこはもう、廃部同然なんだ。部員も少し……精神的に不安定な子たちが集まっているだけでね。君にはもっと、テニス部や生徒会のような、光の当たる場所が似合っているわ」
中根はハルの腕を取り、自然な動作で進行方向を百八十度変えさせた。 「さあ、案内してあげよう。新校舎のメディアセンターは、今日の放課後、新入生向けに特別なスイーツを提供しているの。ユキさんも先に行っているはずよ」
教師の態度は、どこまでも親切で、どこまでも正しい。 けれど、ハルは背筋に走る悪寒を隠せなかった。彼女の目は笑っているが、瞳の奥はまるで録画された映像のように、一点の揺らぎもなくハルを監視している。
新校舎へ戻る道すがら、ハルは何度か列を離れようと試みた。 だが、その度に「親切な上級生」が現れる。 「君、ネクタイが曲がっているよ。直してあげよう」 「道に迷ったのかい? こっちは食堂だよ。一緒にアイスを食べに行こう」
彼らは決してハルを怒鳴ったり、力ずくで押さえつけたりはしない。ただ、過剰なまでの善意でハルの進路を塞ぎ、彼を「明るい場所」へと押し戻そうとするのだ。その連携の良さは、まるで精密にプログラムされた防衛システムのようだった。
ハルは、メディアセンターの騒がしい喧騒の中に放り込まれた。 最新のBGMが流れ、生徒たちがタブレットを手に談笑している。そこにはユキの姿もあった。彼女は勧められたマンゴーパフェを前に、どこか虚ろな目でスプーンを動かしている。
「……如月君。あなたも、連れてこられたの?」 ユキが小さく声を漏らす。 「ユキさんもか」 「うん。私、屋上に行こうとしただけなのに。四人の先生に代わる代わる声をかけられて、気づいたらここにいたわ。みんな、すごく優しかった。……優しすぎて、吐き気がする」
彼女の腕に貼られた医療用テープが、照明の下で白く浮き上がっている。 ハルは確信した。学校側は、生徒たちが「特定の場所」に近づくこと、そして「特定の記憶」に触れることを、全力で、かつ優雅に阻止している。
窓の外に目をやると、夕闇が校庭を浸食し始めていた。 「鎮魂の塔」の影が、巨大な指のように旧図書館の方角を指し示している。
「……あそこに行かなきゃいけない」 ハルは、ポケットの中で握りしめた「黒い砂」の感触を確かめた。 「でも、どうやって? 先生たちがどこにでもいるのに」
その時、メディアセンターの入り口で、激しい物音がした。 「離せよ! 俺はアイスなんて食いたくねえって言ってんだろ!」
アキトだった。 彼は彼を囲んでいた上級生たちの腕を振り払い、床にトレイをぶちまけた。派手な音が響き、周囲の視線が一斉に彼に集まる。 「阿久津君、落ち着いて。君は少し疲れているんだ」 教師たちが一斉にアキトのもとへ駆け寄る。
「今だ」 ハルはユキの手を取り、騒ぎに乗じてセンターの裏口へと走り出した。
監視の目がアキトという「バグ」に集中した一瞬。 ハルたちは、光り輝く新校舎の裏側、冷たい湿り気を帯びた影の世界へと飛び出した。
背後で、佐伯の声が遠く響いた気がした。 「――逃がさないよ。それは、君たちのためにならないんだから」
春の夜風が、微かに「火薬の匂い」を運んでくる。 二人は、暗闇に沈む旧図書館の重厚な扉へと、必死に足を動かした。
- Re: 僕らの記憶は、その爆音の中に埋まっている ( No.5 )
- 日時: 2026/02/01 21:08
- 名前: マツタケの香料 (ID: eEFm9oln)
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第5章:静寂の鱗粉(りんぷん)
新校舎の自動ドアが閉まる音が、まるで遠い世界の出来事のように聞こえた。 メディアセンターの華やかな喧騒と、人工的なマンゴーの香りは、厚い煉瓦の壁に遮断される。
旧図書館の内部は、時間が40年前で凝固したかのような、濃密な静寂に支配されていた。 窓硝子は積年の埃で曇り、そこから差し込む月光は、まるで水中に差し込む光のように青く、濁っている。空中に舞う無数の塵が、銀色の鱗粉のようにキラキラと光りながら、二人の周囲をゆっくりと旋回していた。
「……巻いたかな」 ユキが肩で息をしながら、重厚な書架の影に身を潜めた。 「ああ。あの上級生たちも、ここまでは追ってこないみたいだ」
ハルは、入り口の木製の扉をそっと閉めた。 扉の隙間から漏れる新校舎の光が、細い一本の線となって床を走っている。その光の線の中に、ハルは自分の影が奇妙に「波打っている」のを見つけた。
「……ねえ、如月君。暗いところで見ると、これ……」
ユキが震える手で、自分の制服の袖を捲り上げた。 そこには、先ほどハルが掴んでしまった指の跡――赤紫色の痣があった。だが、暗闇の中で見るその痣は、単なる内出血ではなかった。 痣の表面が、微かに、けれど確実に**「発光」**していたのだ。 それは深い海の底に棲む生物が放つような、冷たくて不気味な青い燐光だった。
「光ってる……?」 ハルは自分の右手のひらを見つめた。 爪の間に食い込んだ「黒い砂」。それもまた、暗闇の中で小さな星屑のように、チリチリとした光を放っている。
「これ、ただの土じゃない。まるで、生きているみたいだ」
ハルがその砂を指先で弄ぶと、指の腹を針で刺されたような鋭い痛みが走った。 驚いて砂を振り払おうとしたが、砂は磁石に吸い寄せられるように皮膚に張り付き、じわじわと毛穴の中に沈み込んでいく。
「如月君、あっち……」 ユキが指差した先。 図書館の最奥、立ち入り禁止のロープが張られた「禁書エリア」の影に、誰かがいた。
そこには、巨大な木製の机に突っ伏して眠る人影があった。 古びた学ランを纏い、周囲には何十冊もの古い新聞の切り抜きや、手書きの図面が散乱している。 その人物の背後にある窓からは、校庭の「鎮魂の塔」が、まるで巨大な墓標のようにそびえ立っているのが見えた。
「……しっ。起さないように」 ハルが囁き、慎重に一歩を踏み出した。 その時、床の古い板が「ギィ……」と、この世の終わりを告げるような不吉な音を立てた。
眠っていた人影が、ビクリと肩を震わせる。 ゆっくりと、本当にゆっくりと、その人物が顔を上げた。 逆光で表情は見えない。ただ、眼鏡のレンズだけが青白く光っている。
「……まだ、五時か。チャイムは鳴ったかな」
その声は、ひどく掠れていて、けれど妙に落ち着いた響きを持っていた。 人物はゆっくりと椅子から立ち上がると、机の上のランプを点した。 小さなオレンジ色の炎が、埃っぽい空間を照らし出す。
そこにいたのは、ハルたちより二、三歳ほど年上に見える、青白い肌の少年だった。 彼の首には、ハルやアキトが見たものと同じ「医療用テープ」が、まるで包帯のように何重にも巻き付けられていた。
「新入生、か。それとも、まだ『向こう側』の住人かな」
少年は、ハルの右手のひらに吸い込まれていく「砂」をじっと見つめ、悲しげに目を細めた。 「砂が、君を選んだんだね。……かわいそうに」
「……あなたは、歴史研究部の?」 ユキの問いに、少年は答えなかった。代わりに、彼は机の上に広げられた「40年前の新聞」を、ハルたちの方へスッと差し出した。
そこには、衝撃的な見出しが躍っていた。
『聖ヶ丘高校、爆発事故により校舎が「反転」。地下に消失した生徒たちの捜索、打ち切りへ』
「反転?」 ハルがその奇妙な言葉を口にした瞬間。 床下から、あの不気味な、重低音の地鳴りが響いてきた。
それは昼間に聞いたチャイムよりも深く、内臓を直接揺さぶるような音。 「……始まった。君たちの、二度目の『入学試験』だ」
少年の言葉と同時に、図書館の窓の外――あんなに穏やかだった校庭の景色が、ぐにゃりと歪み始めた。 新校舎の輝くガラス壁が、まるで熱で溶けた飴のように崩れ落ち、その下から「40年前の、黒く焼け焦げた壁」が、皮膚を突き破る骨のように突き出してきたのだ。
「隠れて。息を殺して」 少年はランプを吹き消した。 「『監視員』が、君たちの記憶を回収しに来る」
暗闇の中、ハルはユキの手を握りしめた。 二人の痣が、今までで一番強く、激しく脈打ち始めた。
- Re: 僕らの記憶は、その爆音の中に埋まっている ( No.6 )
- 日時: 2026/02/02 11:43
- 名前: マツタケの香料 (ID: eEFm9oln)
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第6章:カチ、カチ
暗闇は、もはや単なる光の欠如ではなかった。 それは粘り気を持った生き物のように、ハルたちの肺へと入り込み、思考を鈍らせていく。
ランプが消された旧図書館の中で、唯一の道標は、歴史研究部の先輩――シノと呼ばれたその少年の、微かな衣擦れの音だけだった。
「……動かないで。あいつらは、音よりも『意識の波』を探知する」
シノの声は、囁きというよりも吐息に近かった。ハルは言われた通り、全身の筋肉を硬直させ、呼吸を可能な限り薄くした。隣にいるユキの、震える指先がハルの袖を強く握りしめているのが伝わってくる。
カチ、カチ、カチ。
廊下の向こうから、規則的な音が近づいてくる。 それは、硬い革靴が木床を叩く音のようでもあり、あるいは巨大な時計の秒針が刻まれているようでもあった。一定の……あまりにも一定すぎるそのリズムは、生物が持つゆらぎを一切排除している。
ハルは、本棚の隙間から廊下の様子を伺った。 曇った硝子戸越しに、一つの人影が通り過ぎていく。 それは、昼間に笑顔でハルを呼び止めた中根先生……のようだった。だが、その動きはあまりに滑らかで、関節の存在を感じさせない。彼女の手には、細長い「検校灯」のようなデバイスが握られ、その青い光が廊下の壁をなぞるたび、壁面がデジタルノイズのように激しく乱れた。
「……中根、先生?」 ユキが喉の奥で、押し殺した悲鳴を漏らす。
「あれはもう、君たちが知っている『人間』じゃない」 シノが、暗闇の中で冷たく告げた。 「記憶の整合性が取れなくなった生徒を、システムの一部として再処理するための……いわば掃除機だ」
カチ、カチ。
音が、図書館の扉の前で止まった。 静寂。 心臓の音がうるさすぎて、それが外まで漏れているのではないかとハルは気が気ではなかった。 扉の隙間から、青い光の筋が差し込んでくる。その光は床を這い、ハルの足元にまで届こうとしていた。
その時、ハルの右手のひらに潜り込んだ「黒い砂」が、焼けるような熱を帯びた。 (……来る) 直感した。見つかる。 だが、青い光がハルの影に触れる直前、シノがハルの口を掌で塞ぎ、もう片方の手で古い羊皮紙のようなものを床に広げた。
青い光は、その羊皮紙に触れた瞬間、まるで鏡に反射したように不自然な角度で折れ曲がり、ハルたちを避けて反対側の壁へと吸い込まれていった。
やがて。 カチ、カチ、カチ……。
靴音は再び遠ざかり、重苦しい静寂が戻ってきた。 ハルは、肺に溜まっていた熱い空気を一気に吐き出した。全身が冷や汗でぐっしょりと濡れている。
「今のは……何だったんですか」 「『視覚的検閲』だよ。彼らには、この学校を『正しい形』に保つためのフィルターが埋め込まれている。今の羊皮紙は、40年前の爆発現場に残されていた……いわば、この空間の『バグ』だ。一時的に彼らの目をごまかせる」
シノはゆっくりと立ち上がり、再びランプを灯した。 小さな火が照らし出したのは、先ほどまで見ていた「美しい旧図書館」ではなかった。
壁にはどす黒い焦げ跡が走り、本棚は爆風になぎ倒されたかのように歪んでいる。天井からは、切れた電線が蛇のように垂れ下がり、時折、パチリと青白い火花を散らしている。
「これが……本当の姿?」 ユキが呆然と周囲を見渡す。 「正確には、40年前の『現実』と、今の『虚構』が重なり合っている状態だ。君たちの痣が光るのは、その重なり(オーバーラップ)に対する拒絶反応だよ」
シノは、机の上に散乱していた「40年前の事件」の資料を、一枚の図面へと集約させた。 そこには、学園の地下深くへと続く、迷路のような螺旋構造が描かれていた。
「40年前、生徒たちは学校を封鎖し、爆破した。彼らは学校を壊したかったんじゃない。学校の下にある『何か』を、この世に引きずり出そうとしたんだ」
シノの指が、図面の中心部――「特異点」と記された場所で止まった。
「入学試験で、君たちはここを通った。そして、自分の意志で戻ってきた。だからこそ、君たちの身体は覚えている。……ここから先、僕たちは『正しくない』生徒として扱われることになるだろう」
シノは、ハルの首筋を指差した。 そこには、ハル自身も気づかないうちに、一筋の細い「文字」のような痣が浮かび上がっていた。 それは、古代の記号のようでもあり、あるいは脱出経路を示す地図のようにも見えた。
「……まだ、外へは出られない。夜の校舎は、40年前の熱を持ったままだからね」
ハルは、窓の外を見た。 そこには、月の光に照らされた「鎮魂の塔」が、先ほどよりも一回り大きく、まるで生き物のように脈打っているのが見えた。
- Re: 僕らの記憶は、その爆音の中に埋まっている ( No.7 )
- 日時: 2026/02/02 14:11
- 名前: マツタケの香料 (ID: eEFm9oln)
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第7章:1986年の放課後
シノが机の引き出しから取り出したのは、鈍い銀色をした古いカセットデッキだった。 今の時代、スマートフォンの薄さに慣れたハルの目には、その分厚い筐体(きょうたい)はまるで鈍器か、あるいは何かの心臓部のようにも見えた。
「これは、僕が地下の入り口近くで拾ったものだ」
シノは、ラベルの剥がれかけた一本のカセットテープをデッキに差し込んだ。カチッという重い感触と共に、再生ボタンが押し込まれる。 初めに聞こえてきたのは、激しい砂嵐のようなノイズだった。 ザッ、ザザッ、という音が、旧図書館の歪んだ空気と混ざり合う。ユキが不安げにハルの袖を握り、二人はデッキを囲むようにして身を乗り出した。
『――聞こえるか? こちら、放送室。……いや、解放区一号だ』
ノイズの向こうから、若者の声が響いた。 ひどく興奮しているが、どこか陶酔したような、不思議な明るさを持った声だ。
『今日は1986年11月14日。外は雨だ。……いや、こっちには関係ない。僕たちはついに、あのクソったれな教師どもの鍵を全部壊した。今、この学校は僕たちのものだ』
背景に、数人の笑い声が混じる。 それは文化祭の準備をしている生徒たちのような、瑞々しく、どこにでもある青春の響きだった。だが、ハルはその声を聞いた瞬間、首筋に言いようのない寒気を覚えた。 その笑い声の裏で、**「あの音」**がずっと鳴り続けていたからだ。
「……チャイム」
ハルが呟く。 昼間、教室で自分たちを机の下へと突き動かした、あの暴力的な高音。 テープの中では、その音がもっと低く、けれど執拗に、通奏低音(つうそうていおん)のように鳴り響いている。
『……おい、九条。そろそろ準備ができそうだ。地下の熱源が安定してきた。これを使えば、僕たちは二度と、あの「調整」を受けなくて済む。……記憶を洗われることも、番号で呼ばれることもない』
「調整」という言葉が出た瞬間、シノがハルの目をじっと見た。 「彼らは、何かに抗っていた。40年前の聖ヶ丘高校も、今と同じように……いや、今以上に、生徒を管理し、作り変える場所だったのかもしれない」
テープの声は、次第に熱を帯びていく。 『……九条、笑えよ。歴史を塗り替えるんだ。僕たちの脱出は、ここから始まる。さあ、スイッチを――』
その時、録音は凄まじい衝撃音と共に途切れた。 ドォォォォォン……という、腹の底を抉るような重低音。 それは爆発音というよりも、世界そのものがひび割れるような音だった。
そして、再び沈黙が訪れる。 デッキからは、ただテープが空回りする「カラカラ」という虚しい音だけが流れていた。
「……それだけ?」 ユキが、震える声で尋ねた。 「ああ。この先は磁気情報が完全に破壊されている。……だが、一つだけ分かっていることがある」
シノはデッキを止め、窓の外を指差した。 月明かりに照らされた「鎮魂の塔」の影が、夜の闇の中で鎌のように鋭く伸びている。
「あのテープに出てきた『九条』という名前。今の理事長の姓と同じだ。そして、当時の生徒たちが地下で『見つけた』とされる熱源……。学校側は今も、それを必死に隠しながら、何かに利用している」
ハルは、自分の手のひらに吸い込まれた「黒い砂」の熱を感じていた。 今の音声。 九条と呼ばれた少年たちの笑い声。 それらは、記憶にないはずの「入試」の記憶と、奇妙にシンクロした。
(僕たちは、地下で誰かの声を聞いた……。あの時、暗闇の中で誰かが僕の背中を押して、『行け』って言ったんだ)
「……ハル君、手が」 ユキの指摘にハルが目を見落とすと、彼の右手が、無意識に机の上に置かれた「40年前の地図」を強く握りしめていた。 握りしめた指の隙間から、青白い光が漏れている。
「……身体が、行きたがっている」 ハルは自分でも驚くほど、冷徹な声で言った。 「この学校が何を隠しているのか。40年前に何が起きて、僕たちが地下で何を見たのか。それを知らない限り、僕はこの椅子に座って、『正しい生徒』を演じることはできない」
シノは微かに口角を上げ、寂しげな笑みを浮かべた。 「……おすすめはしないよ。一度知ってしまえば、もう二度と、あの清潔な新校舎には戻れないからね」
その時、図書館の扉の向こうで、再び**「カチ、カチ」**という靴音が聞こえた。 昼間の監視員とは違う。もっと重く、複数の足音。 「捜索隊が来た。……地下への最短ルートを教える。ただし、そこはまだ『道』になっていない」
シノが立ち上がり、書棚の奥にある古い暖炉の火かき棒を握った。 「――僕たちの『放課後』は、ここからだ」
- Re: 僕らの記憶は、その爆音の中に埋まっている ( No.8 )
- 日時: 2026/02/02 14:17
- 名前: マツタケの香料 (ID: eEFm9oln)
- 参照: https://www.kakiko.info/profiles/index.cgi?no
第8章:垂直の闇
「――下りるって、ここを?」
ハルの声は、旧図書館の湿った空気に吸い込まれ、驚くほど力なく響いた。 シノが指し示した漆黒の穴。それは、かつてこの学校が「機能」していた時代に、地下のボイラー室と図書室を繋いでいた廃棄物用のダストシュートだった。口を開けた闇は、冷たく、重たい油の匂いを吐き出している。
「飛び込むんじゃない。『委ねる』んだ」 シノは表情一つ変えず、真鍮製のレバーに手をかけた。 「追っ手はすぐにここへ着く。彼らに捕まれば、君たちの意識は『再フォーマット』される。……今の君たちが君たちであるうちに、ここを離れる必要があるんだ」
廊下の向こうから、複数の足音が近づいてくる。それはもはや教師たちの優しい歩調ではなかった。床を削るような、硬質で、執拗な金属音。
「如月君……」 ユキがハルの制服の裾を、白くなるほど強く握りしめた。彼女の震えが、ハルの体温を奪っていく。 ハルは、自分の右手のひらを見つめた。 皮膚の中に沈み込んだ「黒い砂」が、心臓の鼓動に合わせてチリチリと熱を帯びている。それは警告ではなく、まるで「帰ってこい」と誘う呼び声のようだった。
「……行こう、ユキさん」 ハルは、自分でも驚くほど静かな声で言った。 彼はユキの細い肩を抱き寄せ、シノに続いてその闇の淵に足をかけた。
一歩。 重力に身を投げ出した瞬間、世界から色が消え、音が消えた。
視覚が死んだ世界で、ハルの神経は異常なほど研ぎ澄まされた。 肌を撫でる風は、上へ向かうのではなく、下から突き上げてくる。落下しているはずなのに、まるで深い水の中へ沈んでいくような、不思議な浮遊感があった。
シュートの内壁からは、時折、パチリという放電のような音が聞こえた。 「――途中で『壁』を触るな」 シノの警告が頭をよぎる。ハルは空中で体を丸め、ユキを庇うように腕に力を込めた。 壁の向こう側から、奇妙な音が漏れ聞こえてくる。 それは、何百人もの人間が、一斉に紙をめくっているような音。 あるいは、遠い夏の日に、誰かが泣き叫んでいた声の残響。
このダストシュートは、単なる階層の移動手段ではなかった。 それは、40年という時間の堆積(たいせき)を垂直に貫く、時空の傷跡だ。
ドサッ。
衝撃は、肺の中の空気をすべて吐き出させるほど重かった。 ハルたちは、数え切れないほどの古い紙束の山に叩きつけられた。 舞い上がる埃。古いインクと、煤(すす)と、そして微かな「火薬」の臭い。
ハルは、咳き込みながら顔を上げた。 視界が白く霞んでいる。それは埃のせいだけではなく、ここにある空気が、現代のそれよりも密度が濃いせいだと思えた。
「……ユキさん、怪我はないか?」 「ええ……なんとか。でも、ここ、どこ……?」
ユキが立ち上がろうとして、足元の紙束を崩した。 ハルはその一枚を手に取る。それは茶色く変色し、縁が焼け焦げた出席簿の断片だった。 1986年度。ハルの父親ですら、まだ子供だった頃の記録。 そこに記された名前のいくつかは、乱暴な黒線で塗りつぶされている。
「ここは、学校の『盲腸』だ」 暗闇の中から、シノの声が響いた。 彼は燐光を放つ石を床に置き、周囲を照らし出した。
そこは、新校舎の設計図には存在しないはずの「中層階」――1階と地下1階の間に生じた、歪な空間だった。 天井からは、のたうつ蛇のような配管が幾本も垂れ下がり、そこから漏れ出る黒い液体が、コンクリートの床に不気味な模様を描いている。
ハルはふと、自分が着地した紙の山に、一枚の新しいプリントが混ざっているのに気づいた。 それは、数日前に行われたはずの「入試問題」だった。 けれど、その紙は、まるで40年の歳月を経たかのようにボロボロに朽ち果てていた。
「……どうして、僕たちの試験問題が、こんなところに?」 「時間は、ここでは一定じゃない」 シノは、配管の影に消えそうなほど薄暗い通路を指差した。 「君たちが昨日受けた試験も、40年前の爆発も、ここでは同じ『現在』なんだよ。……ほら、聞こえるだろう?」
ハルは耳を澄ませた。 コンクリートの壁の向こう側。 遠く、遠くの方で、大勢の生徒たちが一斉に走り回る足音が聞こえる。 それは、今の生徒たちではない。 40年前、この場所で、出口を求めて絶望的に走り抜けた少年少女たちの、消えない足音だ。
ハルは、自分の右手の痣を見た。 そこからは、先ほどまでの燐光とは違う、どす黒い熱気が立ち上っていた。
「……戻れないな、もう」 ハルは、独り言のように呟いた。 背後にあるダストシュートを見上げても、そこにはただ、出口のない闇が重く蓋をしているだけだった。
「ようこそ、聖ヶ丘の『真実』へ」 シノの言葉と共に、通路の奥から、シュルシュルと何かが這い寄る音が響き始めた。
- Re: 僕らの記憶は、その爆音の中に埋まっている ( No.9 )
- 日時: 2026/02/02 16:56
- 名前: マツタケの香料 (ID: eEFm9oln)
- 参照: https://www.kakiko.info/profiles/index.cgi?no
第9章:腐食する日常
中層階の回廊は、静まり返っていた。 先ほどまで聞こえていた這いずるような音も、今は止んでいる。だが、その静寂こそがハルたちの神経を鋭利に削り取っていく。
「……ねえ、ハル君。これ、変だよ」
ユキが、自分の肩に手を置いて立ち止まった。 彼女の指先が触れているのは、自分のブレザーの生地だ。ハルは足を止め、自身の身なりに視線を落とした。
異変は、静かに、しかし決定的に進行していた。 つい数時間前まで、最新のポリエステル素材で仕立てられた、光沢のある紺青色だったはずの制服。それが今、見たこともないほど厚手で、ざらりとした手触りのウール生地に変質している。色味はくすんだ濃紺に変わり、胸元に輝いていたはずの現代的な校章は、いつの間にか、古い真鍮製の重々しいボタンにすり替わっていた。
「……40年前の、制服?」 ハルはそのボタンを指先でなぞる。指先に伝わるのは、金属の冷たさと、積年の埃を吸い込んだ布の重みだ。
「空間が君たちを『定義』し始めているんだ」 前を歩くシノが、振り返らずに言った。彼の声は、コンクリートの壁に吸い込まれて反響しない。 「この場所において、君たちが『現代の生徒』であるという根拠は、君たちの記憶の中にしかない。けれど、この空気、この匂い、この湿度が、君たちの身体を『1986年の住人』として塗り替えていく」
「そんな……。じゃあ、私たちの記憶も、いつか塗り替えられちゃうの?」 ユキが自分のこめかみを押さえ、必死に何かを拒むように首を振る。 「私の名前、住所……お母さんの顔……。まだ、ちゃんと覚えてる。でも、さっきから、知らないはずのメロディがずっと頭の中で鳴ってるの」
ユキが呟いた言葉に、ハルもハッとした。 言われてみれば、耳の奥で、微かな、けれど執拗な音が鳴り続けている。 それは、古いシンセサイザーが奏でるような、どこかチープで切ない旋律。1980年代の放課後に、校内放送で流れていたような、甘酸っぱくて退廃的なBGMだ。
ハルは、意識を保つために右手の拳を強く握った。 手のひらに沈み込んだ砂が、肉を噛み切るように鋭く疼く。その痛みが、唯一、彼を「今」に繋ぎ止めるアンカーだった。
回廊の脇に、放置された古い手洗い場があった。 タイルはあちこちが剥がれ落ち、そこには茶色く濁った水が溜まっている。鏡があったであろう場所には、もはや何も映らないほどに汚れた煤けた板が嵌め込まれていた。
ハルはふらふらと、その手洗い場に近づいた。 「……見ちゃダメだ」 シノの声が聞こえたが、遅かった。
ハルは、煤けた板に映る「自分」を見てしまった。 そこにあったのは、今のハルの顔ではなかった。 前髪の分け方が少し違い、眼鏡のフレームは野暮ったい黒縁に変わっている。そして、何より――その瞳の奥に宿る「絶望」の色が、15歳のハルが知るはずのないほど、深く、濃い。
「これは……僕じゃない」 ハルが後ずさりすると、煤けた板の中の「ハル」も同じように動く。だが、板の中の彼は、ハルが口を動かしていないのに、微かに笑ったように見えた。
『――脱出、できなかったんだね』
声が聞こえた気がした。 耳からではなく、背骨の芯から直接響いてくるような、呪詛に近い囁き。
「……っ!」 ハルは蛇を振り払うように、手洗い場から飛び退いた。 心臓が激しく波打ち、視界がチカチカと点滅する。周囲のコンクリート壁が、まるで呼吸しているかのように膨らんだり、凹んだりして見えた。
「落ち着け、如月」 アキトが(いつの間にか彼もダストシュートを下りてきていたのか、それとも最初からいたのか、ハルの記憶は混濁していた)ハルの肩を強く掴んだ。 「それはお前じゃない。ただの『過去の残像』だ。……見ろ、俺たちを」
アキトの姿もまた、変質していた。 短く切り揃えられていたはずの髪は少し伸び、耳元には当時流行していたような安っぽいピアスが光っている。 けれど、その目は依然として鋭く、現代の「阿久津アキト」として、この狂った空間を睨みつけていた。
「俺たちは、あいつらの思い通りにはならない。制服が変わろうが、顔が歪もうが……この腹の底にあるムカつきだけは、俺たちのものだ」
アキトの乱暴な言葉が、ハルの意識を辛うじて現実に繋ぎ止めた。 ハルは深く息を吐き、煤けた手洗い場に背を向けた。
「……シノさん。この『中層階』は、どこまで続いてるんですか」 「距離の問題じゃない。君たちが、自分を失わずにどこまで歩けるかの問題だ」 シノは燐光の石を掲げ、さらに奥へと続く暗い階段を指差した。
「この先には、1986年の生徒たちが『立てこもった』現場がある。……彼らが爆弾を仕掛けた、最初の場所だ。そこには、君たちが探している『砂の味』の答えが落ちているかもしれない」
階段を下りる足音が、重く、鈍く響く。 ハルの身体は少しずつ、けれど確実に、40年前の闇に馴染み始めていた。 制服の重みが、もはや違和感ではなく、必然のように感じられ始めていることが、何よりも恐ろしかった。
- Re: 僕らの記憶は、その爆音の中に埋まっている ( No.10 )
- 日時: 2026/02/02 21:54
- 名前: マツタケの香料 (ID: eEFm9oln)
- 参照: https://www.kakiko.info/profiles/index.cgi?no
第10章:11月14日の黒板
階段を下りるたび、空気の層が目に見えて厚くなっていくのが分かった。 それは埃のせいだけではない。何百人もの人間が、極限状態で吐き出した熱気と、言葉にならなかった悲鳴が、数十年の時を経て重油のように澱(よど)んでいるのだ。
「……着いたよ。ここが、彼らの『司令部』だった場所だ」
シノが立ち止まり、錆びついて半分朽ち果てた引き戸に手をかけた。 キィィ……と、耳の奥を削るような音が響き、扉が開く。 そこにあったのは、先ほどまでハルたちがいたはずの「1年A組」だった。
だが、そこには新校舎の清潔な光沢も、人間工学に基づいた椅子も、全面タッチパネルのデスクもない。 並んでいるのは、無骨な木製の机と椅子。天板には落書きが深く刻まれ、長年の学生たちが流した汗とインクの匂いが染み付いている。 窓硝子はすべて激しい爆風で内側に飛び散り、サッシだけが牙のように剥き出しになっていた。
「……これ、私たちの教室?」 ユキが呆然と呟き、教室の中に足を踏み入れた。 足元で、粉々に砕けた硝子がジャリ、と音を立てる。その音は、ハルが手のひらに抱えている「砂」の音と、酷似していた。
ハルの視線は、教室の正面にある大きな黒板に釘付けになった。 そこには、チョークで書かれた文字ではない「何か」があった。
1986年11月14日。 爆発の瞬間に発生した凄まじい熱線が、黒板の表面を焼き焦がし、そこに書かれていた文字を「反転」させて焼き付けていたのだ。
『我ラ、此処ヨリ脱出ス。記憶ノ残滓ヲ、未来ノ同胞へ託ス』
その力強い筆致は、まるで今書かれたばかりのように生々しい。 そしてその下に、殴り書きされた一文があった。
『第一関門:時計台の針を逆さに回せ。第二関門:砂を喰む者の影を追え。第三関門――』
「……これ、入試の課題だ」 ハルは、喉の奥がカラカラに乾くのを感じた。 「僕たちが『脱出試験』で解かされた問題と、一言一句同じだ……。でも、どうして? 40年前の生徒たちが書いた立てこもりの宣言が、どうして今の入試問題になってるんだ?」
ハルは、自分の右手の痣が、黒板に刻まれた文字に呼応して激しく発熱するのを感じた。 痣に浮き出た「地図」のような紋様が、今、黒板の焦げ跡と重なり、一つの回路を形成している。
「ハル、見ろ。黒板の隅だ」 アキトが、暗闇を指差した。 そこには、熱で溶けかかったカセットレコーダーが、教卓の上に鎮座していた。第7章で聞いたテープの「本体」だろうか。レコーダーの横には、小さな、しかし異様なほど存在感を放つ「容器」が置かれていた。
それは、透明なアクリルケースの中に収められた、一握りの「黒い砂」だった。 ハルが手のひらに持っているものと同じ。だが、ケースの中のそれは、銀色の微小な火花を散らしながら、生き物のようにうごめいている。
「それが、この学校のエネルギー源であり、呪いの正体だ」 シノが、ケースに近づき、憐れむような目でそれを見つめた。 「量子化された思念体。……40年前、生徒たちが『脱出』を試みた際、その強い意志が爆発の衝撃で物質化したものだよ。学校側はこれを『砂』と呼び、生徒たちの記憶を管理するための触媒として利用している」
「じゃあ、僕の体の中にあるこの砂は……40年前の誰かの『心』だって言うんですか?」 ハルの問いに、シノは答えなかった。
代わりに、教室の窓の外で、異変が起きた。 夜の闇に沈んでいたはずの校庭に、突如として「太陽」が昇ったのだ。 いや、それは太陽ではなかった。 40年前のあの日、この場所で起きた「爆発」そのものだった。
無音のまま、巨大なオレンジ色の光が地底から噴き出し、校舎を飲み込んでいく。 現代の新校舎が、紙細工のように燃え上がり、剥がれ落ちていく。 ハルたちの周囲の景色が、激しく明滅し始めた。
「……っ、来るぞ! 空間の再構築(リビルド)だ!」 シノが叫ぶ。
教室の黒板が、溶けるように歪み始めた。 焼き付いた文字が動き出し、生き物のように壁を這い回り、ハルたちの足元を浸食していく。 ユキが悲鳴を上げ、ハルは彼女の体を強く引き寄せた。
その時、ハルの耳の奥で、はっきりとした声が響いた。 それは、テープで聞いたあの少年の声でも、シノの声でもなかった。 もっと幼く、泣き出しそうな、けれど凛とした声。
『――見つけて。僕たちが、何を「脱出」させようとしたのかを』
ハルが顔を上げると、爆風の中に一人の少年が立っていた。 旧制服を纏い、顔の半分が影に隠れたその少年は、ハルと全く同じ場所に「黒い痣」を持っていた。
少年が手を伸ばし、ハルの右手に触れた。 瞬間、ハルの脳内に、奔流のような映像が流れ込んできた。 叫び声。火薬の匂い。暗い廊下を必死に駆ける足音。 そして、自分を「如月ハル」だと認識していた確固たる意識が、砂の山が崩れるように脆く瓦解していく。
「……僕は……僕は、誰だ?」
ハルの口から出た言葉は、もはや15歳の少年のものではなかった。 黒板に刻まれた「40年前の筆致」と同じ、深く、重い響きを帯びていた。
- Re: 僕らの記憶は、その爆音の中に埋まっている ( No.11 )
- 日時: 2026/02/02 22:16
- 名前: マツタケの香料 (ID: eEFm9oln)
- 参照: https://www.kakiko.info/profiles/index.cgi?no
第11章:朝の境界線
「――如月君、如月君ってば!」
鋭い声に弾かれ、ハルは跳ねるように目を開けた。 視界を埋め尽くしたのは、40年前の爆炎ではなく、窓から差し込む暴力的なまでの春の陽光だった。
「……あ、え?」 「もう、入学早々居眠りなんて大物だね。昨日の疲れが出ちゃった?」
目の前でクスクスと笑っているのは、カナだった。 そこは、あのカビ臭い旧図書館でも、煤けた1年A組でもない。最新の空調が微かな音を立て、清潔な香りが漂う、1年A組の「現代の」教室だ。
ハルは慌てて自分の手を見た。 厚手のウール生地だったはずの袖は、さらりとした紺青色のブレザーに戻っている。右手のひらを確認するが、そこには「黒い砂」も、浮き出た数式も、ましてや不気味な痣すらなかった。
「……夢、か?」
ハルは呆然と呟いた。 あまりに生々しい火薬の匂いも、ユキの手を引いた感触も、今は遠い霧の向こう側の出来事のように感じられる。
「ねえ、聞いてる? 次、移動教室だよ。アキト君なんて、もうさっさと行っちゃったよ」 カナが指差す先、空席になったアキトの席が見える。彼はいつも通り、不機嫌そうに授業を受けていたのだろう。
(……ユキさんは?) ハルは隣の席を盗み見た。 そこには、ユキが静かに教科書を片付けている姿があった。彼女の横顔は穏やかで、怯えた様子も、ましてや腕に青い燐光を放つ痣がある様子もない。
「……ユキさん」 「えっ? あ、如月君。おはよう」 ユキは少し驚いたように、けれど可憐に微笑んだ。 「随分ぐっすり眠っていたみたいだけど、大丈夫? 昨日の入学式、少し長かったしね」
その笑顔には一点の曇りもなかった。 ハルは深い安堵と共に、脱力感に襲われた。 そうだ。きっと、あの「脱出試験」の緊張が、変な悪夢を見せただけなのだ。ここは安全で、光に満ちた聖ヶ丘高校。あの暗い「中層階」なんて、どこにも存在しない。
放課後。 学園は再び、華やかな部活動の活気に包まれた。 テニス部がボールを打つ乾いた音。吹奏楽部の練習するトランペットの音色。 ハルはカナと一緒に、中庭のテラス席で炭酸飲料を飲んでいた。
「やっぱりこの学校にして良かったよね。ご飯は美味しいし、先生たちは優しいし」 カナがストローを咥えながら、楽しげに語る。 ハルも頷こうとして、ふと視線を校庭の中央に向けた。
そこには、あの赤錆びた「鎮魂の塔」が立っている。 「……ねえ、カナ。あのモニュメントって、やっぱり地盤沈下の供養なんだよね」 「え? うん、パンフレットにはそう書いてあったよ。……あ、でも、さっき図書委員の子が言ってたけど、あそこ、夜になると少しだけ変な音がするって噂があるんだって。まあ、古い鉄骨だし、風のせいじゃない?」
ハルは鼻で笑った。 (何を変な噂に怯えてたんだ、僕は)
「如月君、ここにいたのか」 声をかけてきたのは、担任の佐伯だった。 彼はいつも通り、完璧なスーツ姿で、完璧な笑顔を浮かべている。 「昨日の健康診断の結果、少し貧血気味だったようだよ。放課後、保健室に寄ってサプリメントを受け取っていくように。この学校では、生徒の体調管理も教育の一環だからね」
「あ、ありがとうございます。……先生、昨日の健康診断で、僕、どこか怪我とかしてませんでしたか?」 ハルが試すように尋ねると、佐伯は一瞬だけ、本当に一瞬だけ、眼鏡を指で押し上げた。
「怪我? まさか。君の皮膚はとても綺麗だったよ。……さあ、あまり遅くならないうちに保健室へ」
佐伯が去った後、ハルは不思議と心が軽くなっているのを感じた。 「ほらね、先生もあんなに優しい。変な夢のことは忘れて、これからの三年間を楽しまなきゃ」 カナに促され、ハルは立ち上がった。
保健室へ向かう廊下。 ハルは窓ガラスに映る自分の姿を見た。 そこには、清潔な制服を着た、どこにでもいる「現代の高校生」が映っていた。 黒縁の野暮ったい眼鏡でも、絶望した瞳でもない。
(……良かった。全部、夢だったんだ)
ハルは、自分の右手をポケットに突っ込んだ。 その時。 指先に、ザラリとした「何か」が触れた。
ハルは、心臓が凍りつくのを感じながら、それをゆっくりと取り出した。 指先に乗っていたのは、一粒の、黒い砂。 そして、その砂は、眩しい午後三時の太陽の下で、チリチリと青白い火花を散らしていた。
(――……逃げて)
耳の奥で、誰かの声が、昨日よりも鮮明に響いた。
- Re: 僕らの記憶は、その爆音の中に埋まっている ( No.12 )
- 日時: 2026/02/03 07:30
- 名前: マツタケの香料 (ID: eEFm9oln)
- 参照: https://www.kakiko.info/profiles/index.cgi?no
第12章:白い診察室
保健室は、外の世界の喧騒を一切遮断した、静謐な繭(まゆ)のようだった。 白一色の壁、眩しいほどに清潔なシーツ。そして、微かに漂うユーカリの香り。そこは「痛み」や「苦しみ」という概念が存在することさえ許さないような、完璧な癒やしの空間だった。
「――お入り、如月君。待っていたよ」
奥の診察机で、校医の安藤が柔らかく微笑んだ。彼女は白衣を完璧に着こなし、淀みのない動作でカルテを開く。
「先生、佐伯先生にサプリメントを貰うように言われて……」 「ええ、聞いています。君は入試のストレスで、少し自律神経が乱れているようね。……最近、変な夢を見たり、現実と区別がつかなくなるような感覚に襲われたりしていないかしら?」
安藤の問いは、どこまでも親身で、母親のような慈愛に満ちていた。 ハルは一瞬、ポケットの中の「黒い砂」を握りしめた。 (ここで話してしまえば、この不安を全部消してくれるだろうか) そう思いかけた瞬間、安藤の背後にある棚に並んだ、無数の茶色の小瓶が目に入った。そのすべてに、ハルのクラスメイトたちの名前が記されたラベルが貼られている。
「……いえ。昨日は少し寝不足だっただけです」 「そう。ならいいの。でも、無理は禁物よ。この学校は、君たちが『健全な精神』でいられることを何よりも望んでいるんだから」
安藤は、琥珀色の錠剤が入った小さな包みをハルに差し出した。 「これを寝る前に一錠。嫌な記憶を整理して、脳を深い休息へと導いてくれるわ。……昨日、中庭で転んだ女の子も、これを飲んで今はすっかり元気になったわよ」
昨日、中庭で転んだ女の子。 それは、ハルと共にあの「垂直の闇」を体験したはずの、ユキのことではないのか。
「……ユキ、……いえ、水瀬(みなせ)さんも、ここに来たんですか?」 「ええ。彼女、ひどく混乱して泣いていたけれど、安らぎが必要だと分かってくれたわ。今はもう、自分の教室で元気に明日の予習をしているはずよ」
ハルは、喉の奥に冷たい塊が詰まったような感覚を覚えた。 保健室を出たハルは、急いで1年A組の教室へと戻った。
教室では、ユキが数人の女子生徒と楽しげに談笑していた。 「そうなんだ! あのカフェのパンケーキ、今度みんなで行こうよ」 その明るい声。屈託のない笑顔。 数時間前、暗闇の中でハルの腕を掴み、「私の名前、忘れたくない」と泣きじゃくっていた少女の面影は、どこにもなかった。
「……ユキさん」 ハルが声をかけると、彼女は不思議そうに小首を傾げた。 「あ、如月君。どうしたの、そんな怖い顔して」 「昨日……放課後のこと、覚えてる?」 「放課後? ……あ、入学式のこと? 凄かったよね、あのパイプオルガンの演奏。私、感動しちゃった」
ハルは、目の前が暗転するのを感じた。 彼女の腕を見る。そこには、あの青い燐光を放っていた痣も、それを隠していたはずの医療用テープもない。ただ、陶器のように滑らかな、美しい皮膚があるだけだった。
「……アキトは?」 「阿久津君? さっき先生に呼ばれて、進路指導室に行ったみたい。彼、試験の成績が凄く良かったから、特別クラスに推薦されるんじゃないかって噂だよ」
ユキの言葉は、まるで完璧に調律された楽器のように響いた。 ハルは、教室の片隅で、自分の席に座っているアキトを見た。 彼はいつも通り、窓の外を眺めていた。だが、その瞳からは、あの「世界を呪うような鋭い光」が消え失せ、代わりに、深く、淀みのない「虚無」が宿っていた。
「……みんな、消されたんだ」
ハルは震える手で、ポケットの中の「砂」を強く握った。 鋭い痛みが走り、指先から一筋の血が流れる。 その痛みだけが、自分がいまだに「現実」という名の戦場に立っていることを証明していた。
廊下の角。 死角から、シノがハルをじっと見つめていた。 彼は何も言わなかった。ただ、自分の首筋に巻かれた、薄汚れた古い包帯を指差した。 『僕と君だけだ』 その瞳が、そう語っているように見えた。
ハルは、安藤から渡された錠剤を、迷うことなくゴミ箱へと投げ捨てた。 これから始まるのは、300人の「幸福な亡霊」たちに囲まれた、たった一人の孤独な脱出。
学園の時計台が、放課後の鐘を鳴らす。 その音は、もはやチャイムには聞こえなかった。 それは、ハルの正気を葬ろうとする、弔鐘(ちょうしょう)だった。
- Re: 僕らの記憶は、その爆音の中に埋まっている ( No.13 )
- 日時: 2026/02/03 07:33
- 名前: マツタケの香料 (ID: eEFm9oln)
- 参照: https://www.kakiko.info/profiles/index.cgi?no
第13章:幸福な監獄
朝のホームルーム。 1年A組に差し込む光は、あまりにも白く、純粋だった。 ハルは自分のデスクに座り、周囲の様子を窺っていた。昨日までの重苦しい緊張感が嘘のように、教室は瑞々しい活力に満ち溢れている。
「――では、今日の午後は体力テストを行います。皆さん、無理のない範囲で全力を出しましょうね」
担任の佐伯の声は、いつにも増して穏やかで、心地よい。 ハルは、昨夜ゴミ箱に捨てた琥珀色の錠剤を思い出した。あの薬を飲んだ者たちは、今、こうして「正しい幸福」の中にいる。
「ねえ、ハル君! 次の授業のノート、貸してくれない?」
隣の席から声をかけてきたユキは、春風のような笑顔を浮かべていた。 彼女の瞳には、あの地下で見た怯えの欠片もない。それどころか、ハルの顔を覗き込む彼女の視線は、初恋でもしているかのようにキラキラと輝いている。
「ユキさん、腕……もう痛くないの?」 ハルが思わずそう尋ねると、ユキは不思議そうに自分の腕を眺めた。 「痛い? ううん、全然。私、怪我なんてしてたかな。あ、でも今朝は凄く目覚めが良くて、世界が昨日よりずっと綺麗に見える気がするの。如月君のおかげかも」
「僕の?」 「うん。なんだか、あなたといると安心するから」
その言葉は、本来ならハルの心を躍らせるはずのものだった。 だが、今のハルには、それが「プログラムされたセリフ」のように聞こえて、背筋に寒気が走った。彼女は、恐怖を忘れたのではない。恐怖という概念そのものを、脳から削ぎ落とされたのだ。
昼休み、ハルは屋上へと続く階段の踊り場で、アキトを見つけた。 彼は一人でパンを齧りながら、英単語帳を熱心にめくっている。あの、世界を拒絶していたような鋭い眼光はどこへ行ったのか。今のアキトは、将来の成功を疑わない、模範的な「名門校の生徒」そのものだった。
「アキト、お前……部活、どうするんだよ。歴史研究部、行かないのか?」 ハルが声をかけると、アキトは手を止め、教科書通りの爽やかな笑みを向けた。
「歴史研究部? ……ああ、あの旧館にある古い部活か。悪いけど、俺はサッカー部の入部テストを受けることにしたよ。時間を有効に使わないとな。この学校の恵まれた環境を活かして、最高の自分を目指したいんだ」
アキトの言葉には、迷いも、歪みもなかった。 「……お前、首の傷はどうしたんだよ」 「傷? ああ、これか」 アキトは、もう医療用テープさえ貼っていない、滑らかな首筋を指でなぞった。 「安藤先生に診てもらったら、ただの肌荒れだってさ。専用のクリームを塗ったら一晩で治ったよ。……ハル、お前も変なことに首を突っ込むのはやめろよ。せっかくの高校生活なんだから、楽しまなきゃ損だぜ」
アキトはそう言うと、ハルの肩を軽く叩いて去っていった。 ハルは一人、踊り場に取り残された。
(……狂ってる。僕だけが、狂ってるのか?)
午後の体力テストは、さらに不気味だった。 50メートル走、走り幅跳び。 生徒たちは、アスリートのような無駄のない動きで、次々と好記録を出していく。驚くべきは、彼らが「苦痛」を感じていないように見えることだった。 息を切らし、膝をつく者は一人もいない。 皆、どれほど激しく体を動かしても、その表情には陶酔したような悦びが浮かんでいた。
「素晴らしい、皆さん! まさに聖ヶ丘の誇りだ!」 計測する体育教師の声が響く。
ハルは、50メートル走のラインに立った。 合図の音が鳴った瞬間、ハルの脳裏に、あの「チャイム」の残響が走った。 ――逃げろ。 身体が勝手に、地下試験の時の「生存のための走り」を再現しようとする。 ハルはあえて速度を落とした。周囲に合わせて、適度な「疲れ」を演出しようとした。
だが。 「如月君、どうしたんだい? もっと力を解放していいんだよ」 いつの間にか後ろに立っていた佐伯が、ハルの耳元で囁いた。 「君のポテンシャルは、こんなものではないはずだ。地下で……あんなに鮮やかに『脱出』してみせた君ならね」
ハルは心臓が止まるかと思った。 佐伯は、ハルの目を見つめていた。その眼鏡の奥の瞳は、優しさなど微塵も感じさせない、冷酷な観測者のそれだった。
「……先生、何を言って」 「おっと、失礼。寝ぼけたことを言ったかな。さあ、もう一度走ろうか。君が『正しい記録』を出すまで、私たちは何度でも付き合うよ」
ハルは、自分が「幸福」という名の檻の中に、完全に閉じ込められたことを理解した。 周囲では、ユキやアキト、カナたちが、ハルを励まそうと明るく声をかけてくる。 「頑張って、如月君!」 「ハルならできるよ!」
その声が、ハルには何千何万という「目」に見えた。 自分を見張り、自分を「普通」の枠に押し込めようとする、慈悲深い監視者の群れ。
放課後、ハルは逃げるように部室棟の影へと向かった。 そこにあるはずの「旧図書館」へと。 だが、ハルの前に現れたのは、真っ白なペンキで塗り直され、「自己啓発学習室」という看板が掲げられた、真新しい建物だった。
「……シノさん?」 ハルが扉を叩こうとしたが、そこには鍵さえついていなかった。 中は明るい照明に照らされ、数人の生徒たちが静かに自習をしているだけだった。 歴史研究部も、古い本も、シノの姿も、跡形もなく消え去っていた。
ハルは、自分の右手のひらを握りしめた。 昨日の血は、もう乾いている。 けれど、ポケットの中にはまだ、あの「黒い砂」が一粒だけ残っていた。 それが、この美しく幸福な世界における、唯一の「異物」だった。
「……忘れてたまるか」
ハルは、夕日に照らされた「鎮魂の塔」を睨みつけた。 周囲で笑い合う生徒たちの声が、遠い世界の出来事のように聞こえていた。
- Re: 僕らの記憶は、その爆音の中に埋まっている ( No.14 )
- 日時: 2026/02/03 07:38
- 名前: マツタケの香料 (ID: eEFm9oln)
- 参照: https://www.kakiko.info/profiles/index.cgi?no
第14章:夕暮れの図書室
「シノさん……シノさん、いないの?」
ハルは、真っ白なペンキの匂いが鼻をつく「自己啓発学習室」の中で、半ば錯乱したように書架の間を歩き回った。 そこはかつての旧図書館の面影など微塵もなかった。埃っぽい19世紀の文学全集や、煤けた40年前の新聞、そしてあのカセットデッキが置かれていた重厚な木製デスク。そのすべてが撤去され、代わりに並んでいるのは、効率性だけを追求したプラスチック製のパーテーションと、無機質なLEDライトだ。
「如月君、静かに。ここは自習をする場所だよ」
自習をしていた見知らぬ上級生が、困ったようにハルをたしなめる。その表情もまた、安藤医師の錠剤を飲んだ後のような、底抜けに平穏で、平らなものだった。
「……ここにあったはずの、部活は? 歴史研究部とか、ここに住んでたシノっていう先輩はどこに行ったんですか!」
ハルが詰め寄ると、上級生は不思議そうに小首を傾げた。 「歴史研究部? そんな部活、うちの学校にはないよ。シノ……? 珍しい名前だね。でも、生徒名簿にもそんな人は載っていないはずだ。君、やっぱり疲れてるんじゃないかな」
「そんなはずない……。昨日、ここで一緒に――」
ハルは言葉を飲み込んだ。 何を言っても無駄だ。この学校の「修正」は、物理的な改装だけに留まらない。生徒や教師の脳内にある、不都合な「記憶のインデックス」さえも、一晩で書き換えてしまう。
逃げるように学習室を飛び出したハルは、廊下でカナと鉢合わせした。 カナはハルの顔を見るなり、心配そうに駆け寄ってきた。
「ハル! 探したよ。もう、どこに行ってたの? 部活の体験、一緒にテニス部に行こうって約束したじゃん」
カナの瞳は、いつもと変わらない。幼い頃から見てきた、あの無邪気で真っ直ぐなカナの瞳だ。 ハルはがるような思いで、彼女の両肩を掴んだ。
「カナ、お願いだ。僕を信じてくれ。……この学校、何かがおかしいんだ。みんな、昨日までのことを忘れてる。ユキさんも、アキトも、シノさんっていう先輩まで、最初からいなかったことになってるんだ」
カナは一瞬、ハルの言葉を反芻するように黙り込んだ。 そして、ゆっくりと、本当に悲しそうに眉を下げた。
「ハル……。安藤先生が言ってた通りだね。あなた、本当にひどいストレスを抱えてるんだ。……『シノ』なんて人はいないし、地下の試験なんて、ただの入試の緊張が見せた幻覚だよ」
「幻覚じゃない! ほら、これを見てくれ!」
ハルはポケットから、あの一粒の「黒い砂」を取り出し、カナの目の前に突きつけた。 夕暮れの斜光を浴びて、砂は不気味なほど鮮やかに、青い火花を散らしている。 これを見れば、カナだって認めざるを得ないはずだ。
だが、カナはハルの手のひらを見て、怪訝な顔をした。
「……何? 手のひら、どうかしたの?」 「何って……この砂だよ! 光ってるだろ?」 「砂……? ハル、あなたの手には、何も乗ってないよ」
ハルは、凍りついた。 自分の目にははっきりと見えている、青く燃える砂。 それが、カナの瞳には映っていない。 いや、映っていないのではない。「認識」が、脳の入り口で遮断されているのだ。
「何も、見えないのか……?」 「うん。……ねえ、ハル。もうやめようよ。そんなに苦しいなら、もう一度保健室に行こう? 安藤先生、とっても優しいよ。あの先生の言うことを聞けば、ハルもみんなみたいに、こんなに『楽に』なれるのに」
カナが、一歩、ハルに歩み寄った。 その瞬間、彼女の背後に立つ時計台の針が、西日に照らされて長く伸びた。 その影の形が、ハルの目には、獲物を狙う巨大な鋏(はさみ)のように見えた。
「……君も、あっち側なんだな」
ハルの口から、乾いた言葉が漏れた。 「あっち側って何? 私、ハルのことが心配なだけだよ! 私たちは友達でしょ? ずっと一緒に、楽しく卒業しようって約束したじゃない!」
カナの声が、不自然に高く、歪んで響く。 それは、あの地下で聞いた「異常なチャイム」の周波数に、どこか似ていた。
ハルは、カナの手を振り払い、走り出した。 背後でカナが「ハル! 待って、ハル!」と叫ぶ声が聞こえる。その声は、もはや少女の悲鳴ではなく、システムが発する「エラー警告」のようにハルの耳を劈(つんざ)いた。
校門へ向かおうとしたハルの前に、一台の黒い車が音もなく停まった。 後部座席の窓が下がり、そこには理事長の九条が座っていた。
「如月君。少し、ドライブに行かないかね」
九条の目は、笑っていなかった。 「君だけが、まだ『目覚めて』いないようだ。本校の教育方針としては、一人の取り残しも許さないのが主義でね」
ハルは、逃げ場を失った。 周囲を見渡せば、放課後の校庭で、何百人もの生徒たちが足を止め、一斉にこちらを無機質に見つめていた。 そこには、カナも、ユキも、アキトもいた。 彼らは皆、完璧な笑顔を浮かべたまま、ハルが「正しく」なる瞬間を、今か今かと待ち構えていた。
ハルはポケットの中で、血が滲むほど砂を握りしめた。 「……僕は、忘れない。砂の味も……シノさんのことも……絶対に」
夕闇が、聖ヶ丘高校を飲み込んでいく。 それは、この世で最も「幸福」で、最も「残酷」な、隔離の夜の始まりだった。
- Re: 僕らの記憶は、その爆音の中に埋まっている ( No.15 )
- 日時: 2026/02/03 07:41
- 名前: マツタケの香料 (ID: eEFm9oln)
- 参照: https://www.kakiko.info/profiles/index.cgi?no
第15章:深淵への選択
理事長、九条の乗る黒い車のドアが、重厚な音を立てて開こうとしていた。 夕暮れの校庭。立ち止まった何百人もの生徒たちの視線。 ハルを取り囲む「善意の包囲網」は、もはや物理的な壁よりも強固だった。
「さあ、如月君。少しばかりカウンセリングが必要なようだ。君の脳が、この素晴らしい環境に適応しきれずに、エラーを起こしている」
九条の声は、慈父のような響きを持っていた。けれど、その指先がハルの腕に触れようとした瞬間――。
校内放送のスピーカーから、プツリ、とノイズが走った。 それは、昼間の華やかなBGMではない。 あのカセットテープから聞こえたような、激しい砂嵐。そして、その奥で鳴り響く、聞き覚えのある旋律。 1986年の放課後、生徒たちが爆発の直前まで聴いていたという、あの退廃的なメロディだった。
「――っ!?」
九条の手が止まる。 周囲の生徒たちの動きが一斉に「硬直」した。 彼らの笑顔は張り付いたまま、瞳の焦点だけが微かに揺らいでいる。まるで、最新のコンピュータが未知の古いウイルスに感染し、処理速度が急激に低下したかのように。
「……如月。こっちだ」
校舎の長い影の中から、掠れた声が聞こえた。 そこには、シノがいた。 派手な登場ではない。彼はただ、そこに「最初からいた影」のように、静かに立っていた。 彼の指には、古い配電盤から引きちぎったような数本のコードが握られていた。
「シノさん……!」 「走るな。静かに、影をなぞるように歩け。あいつらの『認識』がバグを起こしている隙に、この日常の外側へ出る」
ハルは、九条の横をすり抜けた。 九条は動かなかった。いや、動けなかった。彼はスピーカーから流れる古いノイズに聞き入るように、首を不自然な角度で傾け、何かに耐えるような形相で固まっている。
ハルはシノの背中を追い、夕闇の校舎の裏手へと向かった。 そこには、あの「鎮魂の塔」の土台があった。
「カナや……ユキさんたちは、どうなるんですか」 ハルは走りながら、背後に取り残された友人たちの姿を振り返った。 彼らは依然として、壊れた人形のように校庭に立ち尽くしている。
「あいつらは、もうシステムの歯車だ。今の君には救えない」 シノの声は冷徹だった。 「救いたければ、システムそのものの心臓を止めるしかない。……準備はいいか。ここから先は、もう『夢だった』という逃げ道はなくなるぞ」
シノが塔の根元にある、赤錆びた鉄のハッチを蹴り飛ばした。 そこには、昼間の「脱出試験」で通ったはずの、あの暗い縦穴が口を開けていた。 だが、試験の時とは違う。 穴の底からは、ドクン、ドクンと、地熱を帯びた「心臓の鼓動」のような音が響いてきている。
ハルは、ポケットの中の「黒い砂」を取り出した。 砂は、今やハルの手のひらを焼き切らんばかりに激しく発光し、地下から響く鼓動と完全に同期していた。
「……僕は、あいつらを連れ戻しに行く」
ハルは、振り返らなかった。 夕日の残光が消え、世界が完全に夜に閉ざされる瞬間。 ハルは自らの意志で、暗闇の中へと身を投げた。
自由落下の衝撃。 けれど今回は、恐怖はなかった。 右手の痣が、暗闇を切り裂く青い導火線となって、ハルの進むべき道を照らしていた。
第一部:忘却の監獄編 ――完。
