ダーク・ファンタジー小説

Re: 僕らの記憶は、その爆音の中に埋まっている ( No.11 )
日時: 2026/02/02 22:16
名前: マツタケの香料 (ID: eEFm9oln)
参照: https://www.kakiko.info/profiles/index.cgi?no

第11章:朝の境界線
「――如月君、如月君ってば!」

鋭い声に弾かれ、ハルは跳ねるように目を開けた。 視界を埋め尽くしたのは、40年前の爆炎ではなく、窓から差し込む暴力的なまでの春の陽光だった。

「……あ、え?」 「もう、入学早々居眠りなんて大物だね。昨日の疲れが出ちゃった?」

目の前でクスクスと笑っているのは、カナだった。 そこは、あのカビ臭い旧図書館でも、煤けた1年A組でもない。最新の空調が微かな音を立て、清潔な香りが漂う、1年A組の「現代の」教室だ。

ハルは慌てて自分の手を見た。 厚手のウール生地だったはずの袖は、さらりとした紺青色のブレザーに戻っている。右手のひらを確認するが、そこには「黒い砂」も、浮き出た数式も、ましてや不気味な痣すらなかった。

「……夢、か?」

ハルは呆然と呟いた。 あまりに生々しい火薬の匂いも、ユキの手を引いた感触も、今は遠い霧の向こう側の出来事のように感じられる。

「ねえ、聞いてる? 次、移動教室だよ。アキト君なんて、もうさっさと行っちゃったよ」 カナが指差す先、空席になったアキトの席が見える。彼はいつも通り、不機嫌そうに授業を受けていたのだろう。

(……ユキさんは?) ハルは隣の席を盗み見た。 そこには、ユキが静かに教科書を片付けている姿があった。彼女の横顔は穏やかで、怯えた様子も、ましてや腕に青い燐光を放つ痣がある様子もない。

「……ユキさん」 「えっ? あ、如月君。おはよう」 ユキは少し驚いたように、けれど可憐に微笑んだ。 「随分ぐっすり眠っていたみたいだけど、大丈夫? 昨日の入学式、少し長かったしね」

その笑顔には一点の曇りもなかった。 ハルは深い安堵と共に、脱力感に襲われた。 そうだ。きっと、あの「脱出試験」の緊張が、変な悪夢を見せただけなのだ。ここは安全で、光に満ちた聖ヶ丘高校。あの暗い「中層階」なんて、どこにも存在しない。

放課後。 学園は再び、華やかな部活動の活気に包まれた。 テニス部がボールを打つ乾いた音。吹奏楽部の練習するトランペットの音色。 ハルはカナと一緒に、中庭のテラス席で炭酸飲料を飲んでいた。

「やっぱりこの学校にして良かったよね。ご飯は美味しいし、先生たちは優しいし」 カナがストローを咥えながら、楽しげに語る。 ハルも頷こうとして、ふと視線を校庭の中央に向けた。

そこには、あの赤錆びた「鎮魂の塔」が立っている。 「……ねえ、カナ。あのモニュメントって、やっぱり地盤沈下の供養なんだよね」 「え? うん、パンフレットにはそう書いてあったよ。……あ、でも、さっき図書委員の子が言ってたけど、あそこ、夜になると少しだけ変な音がするって噂があるんだって。まあ、古い鉄骨だし、風のせいじゃない?」

ハルは鼻で笑った。 (何を変な噂に怯えてたんだ、僕は)

「如月君、ここにいたのか」 声をかけてきたのは、担任の佐伯だった。 彼はいつも通り、完璧なスーツ姿で、完璧な笑顔を浮かべている。 「昨日の健康診断の結果、少し貧血気味だったようだよ。放課後、保健室に寄ってサプリメントを受け取っていくように。この学校では、生徒の体調管理も教育の一環だからね」

「あ、ありがとうございます。……先生、昨日の健康診断で、僕、どこか怪我とかしてませんでしたか?」 ハルが試すように尋ねると、佐伯は一瞬だけ、本当に一瞬だけ、眼鏡を指で押し上げた。

「怪我? まさか。君の皮膚はとても綺麗だったよ。……さあ、あまり遅くならないうちに保健室へ」

佐伯が去った後、ハルは不思議と心が軽くなっているのを感じた。 「ほらね、先生もあんなに優しい。変な夢のことは忘れて、これからの三年間を楽しまなきゃ」 カナに促され、ハルは立ち上がった。

保健室へ向かう廊下。 ハルは窓ガラスに映る自分の姿を見た。 そこには、清潔な制服を着た、どこにでもいる「現代の高校生」が映っていた。 黒縁の野暮ったい眼鏡でも、絶望した瞳でもない。

(……良かった。全部、夢だったんだ)

ハルは、自分の右手をポケットに突っ込んだ。 その時。 指先に、ザラリとした「何か」が触れた。

ハルは、心臓が凍りつくのを感じながら、それをゆっくりと取り出した。 指先に乗っていたのは、一粒の、黒い砂。 そして、その砂は、眩しい午後三時の太陽の下で、チリチリと青白い火花を散らしていた。

(――……逃げて)

耳の奥で、誰かの声が、昨日よりも鮮明に響いた。