ダーク・ファンタジー小説
- Re: 僕らの記憶は、その爆音の中に埋まっている ( No.12 )
- 日時: 2026/02/03 07:30
- 名前: マツタケの香料 (ID: eEFm9oln)
- 参照: https://www.kakiko.info/profiles/index.cgi?no
第12章:白い診察室
保健室は、外の世界の喧騒を一切遮断した、静謐な繭(まゆ)のようだった。 白一色の壁、眩しいほどに清潔なシーツ。そして、微かに漂うユーカリの香り。そこは「痛み」や「苦しみ」という概念が存在することさえ許さないような、完璧な癒やしの空間だった。
「――お入り、如月君。待っていたよ」
奥の診察机で、校医の安藤が柔らかく微笑んだ。彼女は白衣を完璧に着こなし、淀みのない動作でカルテを開く。
「先生、佐伯先生にサプリメントを貰うように言われて……」 「ええ、聞いています。君は入試のストレスで、少し自律神経が乱れているようね。……最近、変な夢を見たり、現実と区別がつかなくなるような感覚に襲われたりしていないかしら?」
安藤の問いは、どこまでも親身で、母親のような慈愛に満ちていた。 ハルは一瞬、ポケットの中の「黒い砂」を握りしめた。 (ここで話してしまえば、この不安を全部消してくれるだろうか) そう思いかけた瞬間、安藤の背後にある棚に並んだ、無数の茶色の小瓶が目に入った。そのすべてに、ハルのクラスメイトたちの名前が記されたラベルが貼られている。
「……いえ。昨日は少し寝不足だっただけです」 「そう。ならいいの。でも、無理は禁物よ。この学校は、君たちが『健全な精神』でいられることを何よりも望んでいるんだから」
安藤は、琥珀色の錠剤が入った小さな包みをハルに差し出した。 「これを寝る前に一錠。嫌な記憶を整理して、脳を深い休息へと導いてくれるわ。……昨日、中庭で転んだ女の子も、これを飲んで今はすっかり元気になったわよ」
昨日、中庭で転んだ女の子。 それは、ハルと共にあの「垂直の闇」を体験したはずの、ユキのことではないのか。
「……ユキ、……いえ、水瀬(みなせ)さんも、ここに来たんですか?」 「ええ。彼女、ひどく混乱して泣いていたけれど、安らぎが必要だと分かってくれたわ。今はもう、自分の教室で元気に明日の予習をしているはずよ」
ハルは、喉の奥に冷たい塊が詰まったような感覚を覚えた。 保健室を出たハルは、急いで1年A組の教室へと戻った。
教室では、ユキが数人の女子生徒と楽しげに談笑していた。 「そうなんだ! あのカフェのパンケーキ、今度みんなで行こうよ」 その明るい声。屈託のない笑顔。 数時間前、暗闇の中でハルの腕を掴み、「私の名前、忘れたくない」と泣きじゃくっていた少女の面影は、どこにもなかった。
「……ユキさん」 ハルが声をかけると、彼女は不思議そうに小首を傾げた。 「あ、如月君。どうしたの、そんな怖い顔して」 「昨日……放課後のこと、覚えてる?」 「放課後? ……あ、入学式のこと? 凄かったよね、あのパイプオルガンの演奏。私、感動しちゃった」
ハルは、目の前が暗転するのを感じた。 彼女の腕を見る。そこには、あの青い燐光を放っていた痣も、それを隠していたはずの医療用テープもない。ただ、陶器のように滑らかな、美しい皮膚があるだけだった。
「……アキトは?」 「阿久津君? さっき先生に呼ばれて、進路指導室に行ったみたい。彼、試験の成績が凄く良かったから、特別クラスに推薦されるんじゃないかって噂だよ」
ユキの言葉は、まるで完璧に調律された楽器のように響いた。 ハルは、教室の片隅で、自分の席に座っているアキトを見た。 彼はいつも通り、窓の外を眺めていた。だが、その瞳からは、あの「世界を呪うような鋭い光」が消え失せ、代わりに、深く、淀みのない「虚無」が宿っていた。
「……みんな、消されたんだ」
ハルは震える手で、ポケットの中の「砂」を強く握った。 鋭い痛みが走り、指先から一筋の血が流れる。 その痛みだけが、自分がいまだに「現実」という名の戦場に立っていることを証明していた。
廊下の角。 死角から、シノがハルをじっと見つめていた。 彼は何も言わなかった。ただ、自分の首筋に巻かれた、薄汚れた古い包帯を指差した。 『僕と君だけだ』 その瞳が、そう語っているように見えた。
ハルは、安藤から渡された錠剤を、迷うことなくゴミ箱へと投げ捨てた。 これから始まるのは、300人の「幸福な亡霊」たちに囲まれた、たった一人の孤独な脱出。
学園の時計台が、放課後の鐘を鳴らす。 その音は、もはやチャイムには聞こえなかった。 それは、ハルの正気を葬ろうとする、弔鐘(ちょうしょう)だった。
