ダーク・ファンタジー小説

Re: 僕らの記憶は、その爆音の中に埋まっている ( No.13 )
日時: 2026/02/03 07:33
名前: マツタケの香料 (ID: eEFm9oln)
参照: https://www.kakiko.info/profiles/index.cgi?no

第13章:幸福な監獄
朝のホームルーム。 1年A組に差し込む光は、あまりにも白く、純粋だった。 ハルは自分のデスクに座り、周囲の様子を窺っていた。昨日までの重苦しい緊張感が嘘のように、教室は瑞々しい活力に満ち溢れている。

「――では、今日の午後は体力テストを行います。皆さん、無理のない範囲で全力を出しましょうね」

担任の佐伯の声は、いつにも増して穏やかで、心地よい。 ハルは、昨夜ゴミ箱に捨てた琥珀色の錠剤を思い出した。あの薬を飲んだ者たちは、今、こうして「正しい幸福」の中にいる。

「ねえ、ハル君! 次の授業のノート、貸してくれない?」

隣の席から声をかけてきたユキは、春風のような笑顔を浮かべていた。 彼女の瞳には、あの地下で見た怯えの欠片もない。それどころか、ハルの顔を覗き込む彼女の視線は、初恋でもしているかのようにキラキラと輝いている。

「ユキさん、腕……もう痛くないの?」 ハルが思わずそう尋ねると、ユキは不思議そうに自分の腕を眺めた。 「痛い? ううん、全然。私、怪我なんてしてたかな。あ、でも今朝は凄く目覚めが良くて、世界が昨日よりずっと綺麗に見える気がするの。如月君のおかげかも」

「僕の?」 「うん。なんだか、あなたといると安心するから」

その言葉は、本来ならハルの心を躍らせるはずのものだった。 だが、今のハルには、それが「プログラムされたセリフ」のように聞こえて、背筋に寒気が走った。彼女は、恐怖を忘れたのではない。恐怖という概念そのものを、脳から削ぎ落とされたのだ。

昼休み、ハルは屋上へと続く階段の踊り場で、アキトを見つけた。 彼は一人でパンを齧りながら、英単語帳を熱心にめくっている。あの、世界を拒絶していたような鋭い眼光はどこへ行ったのか。今のアキトは、将来の成功を疑わない、模範的な「名門校の生徒」そのものだった。

「アキト、お前……部活、どうするんだよ。歴史研究部、行かないのか?」 ハルが声をかけると、アキトは手を止め、教科書通りの爽やかな笑みを向けた。

「歴史研究部? ……ああ、あの旧館にある古い部活か。悪いけど、俺はサッカー部の入部テストを受けることにしたよ。時間を有効に使わないとな。この学校の恵まれた環境を活かして、最高の自分を目指したいんだ」

アキトの言葉には、迷いも、歪みもなかった。 「……お前、首の傷はどうしたんだよ」 「傷? ああ、これか」 アキトは、もう医療用テープさえ貼っていない、滑らかな首筋を指でなぞった。 「安藤先生に診てもらったら、ただの肌荒れだってさ。専用のクリームを塗ったら一晩で治ったよ。……ハル、お前も変なことに首を突っ込むのはやめろよ。せっかくの高校生活なんだから、楽しまなきゃ損だぜ」

アキトはそう言うと、ハルの肩を軽く叩いて去っていった。 ハルは一人、踊り場に取り残された。

(……狂ってる。僕だけが、狂ってるのか?)

午後の体力テストは、さらに不気味だった。 50メートル走、走り幅跳び。 生徒たちは、アスリートのような無駄のない動きで、次々と好記録を出していく。驚くべきは、彼らが「苦痛」を感じていないように見えることだった。 息を切らし、膝をつく者は一人もいない。 皆、どれほど激しく体を動かしても、その表情には陶酔したような悦びが浮かんでいた。

「素晴らしい、皆さん! まさに聖ヶ丘の誇りだ!」 計測する体育教師の声が響く。

ハルは、50メートル走のラインに立った。 合図の音が鳴った瞬間、ハルの脳裏に、あの「チャイム」の残響が走った。 ――逃げろ。 身体が勝手に、地下試験の時の「生存のための走り」を再現しようとする。 ハルはあえて速度を落とした。周囲に合わせて、適度な「疲れ」を演出しようとした。

だが。 「如月君、どうしたんだい? もっと力を解放していいんだよ」 いつの間にか後ろに立っていた佐伯が、ハルの耳元で囁いた。 「君のポテンシャルは、こんなものではないはずだ。地下で……あんなに鮮やかに『脱出』してみせた君ならね」

ハルは心臓が止まるかと思った。 佐伯は、ハルの目を見つめていた。その眼鏡の奥の瞳は、優しさなど微塵も感じさせない、冷酷な観測者のそれだった。

「……先生、何を言って」 「おっと、失礼。寝ぼけたことを言ったかな。さあ、もう一度走ろうか。君が『正しい記録』を出すまで、私たちは何度でも付き合うよ」

ハルは、自分が「幸福」という名の檻の中に、完全に閉じ込められたことを理解した。 周囲では、ユキやアキト、カナたちが、ハルを励まそうと明るく声をかけてくる。 「頑張って、如月君!」 「ハルならできるよ!」

その声が、ハルには何千何万という「目」に見えた。 自分を見張り、自分を「普通」の枠に押し込めようとする、慈悲深い監視者の群れ。

放課後、ハルは逃げるように部室棟の影へと向かった。 そこにあるはずの「旧図書館」へと。 だが、ハルの前に現れたのは、真っ白なペンキで塗り直され、「自己啓発学習室」という看板が掲げられた、真新しい建物だった。

「……シノさん?」 ハルが扉を叩こうとしたが、そこには鍵さえついていなかった。 中は明るい照明に照らされ、数人の生徒たちが静かに自習をしているだけだった。 歴史研究部も、古い本も、シノの姿も、跡形もなく消え去っていた。

ハルは、自分の右手のひらを握りしめた。 昨日の血は、もう乾いている。 けれど、ポケットの中にはまだ、あの「黒い砂」が一粒だけ残っていた。 それが、この美しく幸福な世界における、唯一の「異物」だった。

「……忘れてたまるか」

ハルは、夕日に照らされた「鎮魂の塔」を睨みつけた。 周囲で笑い合う生徒たちの声が、遠い世界の出来事のように聞こえていた。