ダーク・ファンタジー小説

Re: 僕らの記憶は、その爆音の中に埋まっている ( No.14 )
日時: 2026/02/03 07:38
名前: マツタケの香料 (ID: eEFm9oln)
参照: https://www.kakiko.info/profiles/index.cgi?no

第14章:夕暮れの図書室
「シノさん……シノさん、いないの?」

ハルは、真っ白なペンキの匂いが鼻をつく「自己啓発学習室」の中で、半ば錯乱したように書架の間を歩き回った。 そこはかつての旧図書館の面影など微塵もなかった。埃っぽい19世紀の文学全集や、煤けた40年前の新聞、そしてあのカセットデッキが置かれていた重厚な木製デスク。そのすべてが撤去され、代わりに並んでいるのは、効率性だけを追求したプラスチック製のパーテーションと、無機質なLEDライトだ。

「如月君、静かに。ここは自習をする場所だよ」

自習をしていた見知らぬ上級生が、困ったようにハルをたしなめる。その表情もまた、安藤医師の錠剤を飲んだ後のような、底抜けに平穏で、平らなものだった。

「……ここにあったはずの、部活は? 歴史研究部とか、ここに住んでたシノっていう先輩はどこに行ったんですか!」

ハルが詰め寄ると、上級生は不思議そうに小首を傾げた。 「歴史研究部? そんな部活、うちの学校にはないよ。シノ……? 珍しい名前だね。でも、生徒名簿にもそんな人は載っていないはずだ。君、やっぱり疲れてるんじゃないかな」

「そんなはずない……。昨日、ここで一緒に――」

ハルは言葉を飲み込んだ。 何を言っても無駄だ。この学校の「修正」は、物理的な改装だけに留まらない。生徒や教師の脳内にある、不都合な「記憶のインデックス」さえも、一晩で書き換えてしまう。

逃げるように学習室を飛び出したハルは、廊下でカナと鉢合わせした。 カナはハルの顔を見るなり、心配そうに駆け寄ってきた。

「ハル! 探したよ。もう、どこに行ってたの? 部活の体験、一緒にテニス部に行こうって約束したじゃん」

カナの瞳は、いつもと変わらない。幼い頃から見てきた、あの無邪気で真っ直ぐなカナの瞳だ。 ハルはがるような思いで、彼女の両肩を掴んだ。

「カナ、お願いだ。僕を信じてくれ。……この学校、何かがおかしいんだ。みんな、昨日までのことを忘れてる。ユキさんも、アキトも、シノさんっていう先輩まで、最初からいなかったことになってるんだ」

カナは一瞬、ハルの言葉を反芻するように黙り込んだ。 そして、ゆっくりと、本当に悲しそうに眉を下げた。

「ハル……。安藤先生が言ってた通りだね。あなた、本当にひどいストレスを抱えてるんだ。……『シノ』なんて人はいないし、地下の試験なんて、ただの入試の緊張が見せた幻覚だよ」

「幻覚じゃない! ほら、これを見てくれ!」

ハルはポケットから、あの一粒の「黒い砂」を取り出し、カナの目の前に突きつけた。 夕暮れの斜光を浴びて、砂は不気味なほど鮮やかに、青い火花を散らしている。 これを見れば、カナだって認めざるを得ないはずだ。

だが、カナはハルの手のひらを見て、怪訝な顔をした。

「……何? 手のひら、どうかしたの?」 「何って……この砂だよ! 光ってるだろ?」 「砂……? ハル、あなたの手には、何も乗ってないよ」

ハルは、凍りついた。 自分の目にははっきりと見えている、青く燃える砂。 それが、カナの瞳には映っていない。 いや、映っていないのではない。「認識」が、脳の入り口で遮断されているのだ。

「何も、見えないのか……?」 「うん。……ねえ、ハル。もうやめようよ。そんなに苦しいなら、もう一度保健室に行こう? 安藤先生、とっても優しいよ。あの先生の言うことを聞けば、ハルもみんなみたいに、こんなに『楽に』なれるのに」

カナが、一歩、ハルに歩み寄った。 その瞬間、彼女の背後に立つ時計台の針が、西日に照らされて長く伸びた。 その影の形が、ハルの目には、獲物を狙う巨大な鋏(はさみ)のように見えた。

「……君も、あっち側なんだな」

ハルの口から、乾いた言葉が漏れた。 「あっち側って何? 私、ハルのことが心配なだけだよ! 私たちは友達でしょ? ずっと一緒に、楽しく卒業しようって約束したじゃない!」

カナの声が、不自然に高く、歪んで響く。 それは、あの地下で聞いた「異常なチャイム」の周波数に、どこか似ていた。

ハルは、カナの手を振り払い、走り出した。 背後でカナが「ハル! 待って、ハル!」と叫ぶ声が聞こえる。その声は、もはや少女の悲鳴ではなく、システムが発する「エラー警告」のようにハルの耳を劈(つんざ)いた。

校門へ向かおうとしたハルの前に、一台の黒い車が音もなく停まった。 後部座席の窓が下がり、そこには理事長の九条が座っていた。

「如月君。少し、ドライブに行かないかね」

九条の目は、笑っていなかった。 「君だけが、まだ『目覚めて』いないようだ。本校の教育方針としては、一人の取り残しも許さないのが主義でね」

ハルは、逃げ場を失った。 周囲を見渡せば、放課後の校庭で、何百人もの生徒たちが足を止め、一斉にこちらを無機質に見つめていた。 そこには、カナも、ユキも、アキトもいた。 彼らは皆、完璧な笑顔を浮かべたまま、ハルが「正しく」なる瞬間を、今か今かと待ち構えていた。

ハルはポケットの中で、血が滲むほど砂を握りしめた。 「……僕は、忘れない。砂の味も……シノさんのことも……絶対に」

夕闇が、聖ヶ丘高校を飲み込んでいく。 それは、この世で最も「幸福」で、最も「残酷」な、隔離の夜の始まりだった。