ダーク・ファンタジー小説

Re: 僕らの記憶は、その爆音の中に埋まっている ( No.15 )
日時: 2026/02/03 07:41
名前: マツタケの香料 (ID: eEFm9oln)
参照: https://www.kakiko.info/profiles/index.cgi?no

第15章:深淵への選択
理事長、九条の乗る黒い車のドアが、重厚な音を立てて開こうとしていた。 夕暮れの校庭。立ち止まった何百人もの生徒たちの視線。 ハルを取り囲む「善意の包囲網」は、もはや物理的な壁よりも強固だった。

「さあ、如月君。少しばかりカウンセリングが必要なようだ。君の脳が、この素晴らしい環境に適応しきれずに、エラーを起こしている」

九条の声は、慈父のような響きを持っていた。けれど、その指先がハルの腕に触れようとした瞬間――。

校内放送のスピーカーから、プツリ、とノイズが走った。 それは、昼間の華やかなBGMではない。 あのカセットテープから聞こえたような、激しい砂嵐。そして、その奥で鳴り響く、聞き覚えのある旋律。 1986年の放課後、生徒たちが爆発の直前まで聴いていたという、あの退廃的なメロディだった。

「――っ!?」

九条の手が止まる。 周囲の生徒たちの動きが一斉に「硬直」した。 彼らの笑顔は張り付いたまま、瞳の焦点だけが微かに揺らいでいる。まるで、最新のコンピュータが未知の古いウイルスに感染し、処理速度が急激に低下したかのように。

「……如月。こっちだ」

校舎の長い影の中から、掠れた声が聞こえた。 そこには、シノがいた。 派手な登場ではない。彼はただ、そこに「最初からいた影」のように、静かに立っていた。 彼の指には、古い配電盤から引きちぎったような数本のコードが握られていた。

「シノさん……!」 「走るな。静かに、影をなぞるように歩け。あいつらの『認識』がバグを起こしている隙に、この日常の外側へ出る」

ハルは、九条の横をすり抜けた。 九条は動かなかった。いや、動けなかった。彼はスピーカーから流れる古いノイズに聞き入るように、首を不自然な角度で傾け、何かに耐えるような形相で固まっている。

ハルはシノの背中を追い、夕闇の校舎の裏手へと向かった。 そこには、あの「鎮魂の塔」の土台があった。

「カナや……ユキさんたちは、どうなるんですか」 ハルは走りながら、背後に取り残された友人たちの姿を振り返った。 彼らは依然として、壊れた人形のように校庭に立ち尽くしている。

「あいつらは、もうシステムの歯車だ。今の君には救えない」 シノの声は冷徹だった。 「救いたければ、システムそのものの心臓を止めるしかない。……準備はいいか。ここから先は、もう『夢だった』という逃げ道はなくなるぞ」

シノが塔の根元にある、赤錆びた鉄のハッチを蹴り飛ばした。 そこには、昼間の「脱出試験」で通ったはずの、あの暗い縦穴が口を開けていた。 だが、試験の時とは違う。 穴の底からは、ドクン、ドクンと、地熱を帯びた「心臓の鼓動」のような音が響いてきている。

ハルは、ポケットの中の「黒い砂」を取り出した。 砂は、今やハルの手のひらを焼き切らんばかりに激しく発光し、地下から響く鼓動と完全に同期していた。

「……僕は、あいつらを連れ戻しに行く」

ハルは、振り返らなかった。 夕日の残光が消え、世界が完全に夜に閉ざされる瞬間。 ハルは自らの意志で、暗闇の中へと身を投げた。

自由落下の衝撃。 けれど今回は、恐怖はなかった。 右手の痣が、暗闇を切り裂く青い導火線となって、ハルの進むべき道を照らしていた。

第一部:忘却の監獄編 ――完。