ダーク・ファンタジー小説
■漢字にルビが振れるようになりました!使用方法は漢字のよみがなを半角かっこで括るだけ。
入力例)鳴(な)かぬなら 鳴(な)くまでまとう 不如帰(ホトトギス)
- あなたの為に
- 日時: 2017/12/03 13:50
- 名前: 無名 (ID: E/OZE6Yo)
ピチョン
ピチョン
蛇口が完全に閉まってないせいで、水が漏れていく。それを素っ気ない水面が受けとる。そんな光景を私は小一時間見いっていた。何故こんなものを見ているのか、何故飽きないのか。そんなもの、自分でも分からなかった。いや、分からないふりをしていたんだ。
数時間前、私はこの世で一番幸せを感じていた。そう思える程、私は自分自身に酔っていたのかもしれない。ただ、自分でそう思うと惨めに思えて仕方なかった。
スマホが震える。まるでこの寒さに凍えているように。1分、2分と震えていたスマホは、凍死したように、硬く冷たく止まった。不在着信の表示と共にある一人の名前が写っていた。
小林一彦。
その名前から目を反らした。また目の端が熱くなってきたからだ。まだ乾ききってない頬を、涙がつたう。
この涙だけが、私を温かくしてくれた。
あることを決意した私は、ゆっくりと立ち上がり、導かれるように何処かへ向かった。
11月20日。今日は彼の誕生日だ。私は一ヶ月前から、あることを計画していた。
題して『疲れた彼氏を癒そう作戦』。
友人にこの事を話したら「そのままじゃない」と笑われたが、分かりやすいに越したことはない。きっと一彦は喜んでくれる。この作戦を思い付いた時には、既にそう確信していた。
計画の為にご飯を作ろうと、食材を買いに行っていた帰り道。周りから見ても分かるほど、足取りは軽やかで、リズムよく地を跳ねている。浮かれすぎだという自覚はあったが、恥じらいよりもウキウキする気持ちの方が勝っていた。食材も、私の心に答えるようにビニール袋の中で踊っている。
少し時間が余っていたため、遠回りをしようと普段の道から外れた。それが間違いだった。
道に入ると、居酒屋、スナック、ホテルが建ち並んでいる。普通に過ごしていても、私にはあまり馴染みのない世界が広がっている。店内を覗くと、まだスーツ姿の人達が満員電車の時のように敷き詰めていた。私はお酒に弱い為、彼氏とは一回も一緒に呑んだことがない。だから特訓した。勿論今日の為だ。やっとの思いで、小さいビール瓶一つは呑めるようになった。カクテルならもっといけるだろうが、今回は家飲みなので、ビールにした。
丁度元の道が見えてきた。時間はたっぷりあるのだが、一彦を驚かせるのが楽しみで、足が速まった。鼻唄を微かに響かせ、一軒のホテルを横切ろうとしたときだった。
彼が、一彦が女性とホテルから出てきていた。なにかを話しているようで、口元には笑みが浮かんでいた。そして最後に小さなリップ音が聞こえた気がした。キスをしたと分かったその瞬間、私の中の何かが音もなく砕け散った。
疑問や責め言葉が、頭の隅から溢れだし、身体全体がその事で埋まる。言いたいことが沢山ある。だがその時は、あまりのショックに口が開かなかった。喉の中心部分を、力任せに抑えられているような苦しさを感じた。
何も出来ずに立ち尽くす私に、気付いた彼は目を見開いた。まるで死んだ人を見るような、そんな目だった。だが彼は、直ぐに私から目を反らし、女性を連れて私の横を通りすぎ去った。引き留めようにも指一本、ピクリと動かない。
酷い耳鳴りに襲われた。それが収まると、だんだん周囲のざわめきが戻ってきた。それと同時に涙が込み上げてきた。
直ぐにこの場から離れたい、その一心で勢いよく走り出すと、食材のことも忘れて自分のアパートに戻った。鍵を乱暴に鍵穴に差し込み、扉を開けると、上着と鞄と食材等をその辺に投げ捨て、キッチンの流しに駆け寄った。水を出すと、涙とともに消化仕切ってない昼御飯を吐いた。咳き込みながらも必死に声を抑えた。まさか自分より先に、見ず知らずの女性が、一彦と寝たかと思うとは思いもしなかった。一通り吐き終えると、膝の感覚が無くなりその場に崩れ落ちた。力が抜けたのだ。そして抑えていた声が近所の事など考えずに、溢れ出た。メイクは涙に滲んで目に染み、強烈な痛みがはしった。それでも泣き喚き、己の浮かれていた気持ちを馬鹿らしく思った。
ひとしきり泣いた後、一彦からの着信が何件も来ていた事に気付いた。きっとホテルの前での事でも言いたいのだろう。メールも何通も送られてきていた。全ての文には『大好き』や『あれは誤解だ』だのとつらつら書き込まれていたが、それすらも自分を苛つかせる原因となった。
「何が大好きだ。ふざけるなっ」
スマホに向かって罵声を浴びせた。このスマホの向こうで彼はあの女性と居るのだろうか。いや、きっとそうに違いない。沢山の考えが頭の中で飛び交った。
歩きながら、何時間も前の事を思い出していた。きっと今の顔は酷い有り様だろう。ホラー映画のワンシーンに出てくる幽霊のような容姿だろうな。
「せっかくあなたの為にやったのに、成功どころかこんなことになっちゃった」
あはは、と力無く笑うと、あるアパートの一室の扉を開けた。
ピチョン
また一滴水が落ちた。だが、その水は自分の家とはまた違うように感じた。
「当たり前か」
枯れ果てた声でボソッと呟いた。ここは彼の家なのだから。流し台には赤い液体が水と混ざり薄くなっている。
虚ろな目で外を見上げると、白い雪が音もなく降っていた。
「ねぇ、今日は最高のサプライズだったでしょ?」
床に寝転がる彼にそう声を掛ける。勿論返事は無い。
今日の為に料理を考え、今日の為にお洒落もしてきた。メイクだけはどうしようもなかったが、きっと素敵な誕生日だっただろう。最後は一彦をお風呂に入れて、気持ちよく眠ってもらえば計画完了だ。あの時はショックだったが、これだけはあの女にも邪魔させない。一彦を寝かせたら、あの女も寝かせないとな。あの女の為にも、新しい計画考えなくっちゃ。
END