ダーク・ファンタジー小説
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- JOKER the ripper
- 日時: 2018/09/10 23:34
- 名前: jack (ID: hgzyUMgo)
命題、ファンタジーとは何か。
何を以てすれば幻想譚たりえるのか。
天翔る飛竜に跨がる騎士か?
はたまた火を吹く蜥蜴が最奥に住まう洞窟か?
魔女の住む森があればよいのか、もしくは願いを叶える宝があれば満足か。
否、断じて違う。
何を以てすればファンタジーか、それは常識外に或ることだ。
誰もが解する理の外に踏み外すだけで構わない。
誰もが信じる当然を僅かに砕くだけで構わない。
この世界の話にしても、次元を越えた物語にしても何ら問題は無い。
その伝奇を見て、あり得ないと笑えればよい。
あり得ないからこそ心踊ればよい。
人は誰しも、我在るこの世界に失望しているものだ。
故に願う、今住む濁世と異なる世界を。
故に欲する、遥か彼方の次元の向こう、存在の是非を問うことも馬鹿馬鹿しい夢幻の可能性を。
人はこの世界に退屈している、物足りなさを覚えている。
解き明かされぬ永遠の神秘を求めている。
いくら科学が進もうとも、魔術の領域にあり続ける不可思議を。
誰もが己の頭の中に、それぞれの幻想譚を抱えている。
ある者は媒体の如何に関わらずそれを現実へと顕現させども、大多数の人間はそうしようと思い至りもしない。
幻想とは理解の外にあるが故、他者に理解されない非常識を晒す行いを、醜悪で恥ずべきものだとひどく恐れるためだ。
だからこそ、強く言い張ろう。
この物語はファンタジーだ。
ドラゴンもウィッチも存在し得ない。
それでも、この物語はファンタジーだ。
この世界は現実を忠実に再現しており、たった一つの不純物が混在しているのみ。
だからこそ言い切ることができる。
この物語はファンタジーだ。
現代ドラマのように、決められたキャパシティの中で必死に狂いもがく話ではない。
恋愛劇のように、暖かな愛情に心を沸き立たせるようなこともない。
現代を舞台にしているだけあり、決して歴史ものですらなく。
人を虜にするような胸踊る冒険活劇すら含まれていない。
ミステリーに浸ろうにも、常識外の理が、まともな頭脳における推理を阻害する。
そう、この世界において、あらゆる者の認識は歪められてしまう。
それこそが、この世界に潜む非常識、この世界の不純物。
魔法と呼ぶにしては、その力はあまりに禍々しい。
人々の記憶を、思考を、願いを、祈りを、そして何よりも認識を湾曲させるそれは、呪いと称した方がよほど相応しい。
怨みつらみを媒介に、悪魔の力を取り込んだ道具。
人々はそれを、オーパーツと呼んだ。
オーパーツなる物あるが故に。
この物語はファンタジーだ。
きっと彼と、彼女であるべきものの数日間を見終えた後に、君も確信することだろう。
そして言い張るであろう。
同じように。
この物語はファンタジーだ。
とね。
>>1-
- Re: JOKER the ripper ( No.1 )
- 日時: 2018/08/21 18:52
- 名前: jack (ID: hgzyUMgo)
彼女が目を開いたのは、見知らぬ部屋であった。目覚めると同時に把握したのは、薄く漂ってきた煙草の臭い。寝起きざまに押し寄せる紫煙に、それこそ煙たい顔をした。周囲を見回す。装飾らしい装飾は僅かばかりのもので、簡素な部屋。どこの誰が描いたとも分からぬ花の絵が、小さな額縁に入っている程度だった。
カチ、カチと規則正しい秒針の足音だけが響いている。少しだけ立派な、しかし飾り気の無い簡素な時計が机の後ろの壁にかかっていた。そのデスクにて、一枚の紙切れとにらめっこしている者がいた。顔は紙に隠れているが、煙が棚引いていることから、煙草を吸っているのはこの者で間違いない。
しばらくの間彼女は、目こそ開け、眉間に皺を寄せたものの、寝たきりを守っていた。瞬きと呼吸だけが、辛うじて彼女をこの世に繋ぎ止めているようで。それさえ気がつかなければ、目を見開いて死んでいるように思えた。否、それでは少し違いがあるだろうか。彼女からは、死を跨いだ冷たさも、死と向き合った絶望も見られない。死んでいるというよりは、『生きていない』という言葉の方が、相応しい。
けれども彼女はまさしく人間であった。決して遺体などではなく、身体が自身の重みを感じていた。ずっと自分から体温を奪われていたせいか、やけにソファの革が生温い。臭いはしない、というよりむしろ紫煙にかき消されていた。鼻が馬鹿になっているようで、やはりこの煙は不味くて仕方ないと顔を歪めた。
ここは何処なんだろう。こんな場所に見覚えは無く、何とか特定をしようとするも、判断材料は少ない。今彼女が伏している寝心地のよいソファに、視線の先にある誰かが座しているデスク、デスクの上には置き電話、さらにはノートパソコンが一台。あまり広くない部屋の中で、生活感はあまり感じられない。個人経営の事務所といったところだろうか。
彼女は未だ気がついていなかった。現在地よりもよほど、大切なことを知らない事を。
顔は固定したまま、視線だけを動かしてみると、大きめの窓が見えた。窓の上にはプリントされているのか、塗料で塗られたのか、大きな字が書かれていた。部屋の外から見るために書かれているのであろう、その文字は鏡に写したのと同じように反転していた。
把握できたのは『偵事』の文字のみ。しかしそれで、『探偵事務所』であろうと察するのは難くなかった。彼女の中に芽生えた常識が、そう告げていた。
いつ起き上がったものだろうか。体の怠さに任せて横になったまま、そんな事ばかり考えた。こんな所に眠っていた理由がまるで分からない。彼が探偵らしからぬ素行にはしり、拉致監禁を実行した可能性もゼロとは言い難い。さらに言及するなら、この狭い事務所の主が彼だとも自分には断定できない。
もしも自分をこんな所に連れてきたのが彼だったならば。むしろ寝たきりを貫いた方がよいのやもしれぬ。とも思えば、また瞑目し、意識のない演技をすべきであろうか。
しかし、害意があったならば、もう既に殺されていても可笑しくないのだ。見たところ、縛られてもいなければ乱暴に振る舞われた形跡も無い。あの男が何か悪辣を働いたとは考えにくいのである。
だからと言って、わざわざ話しかける理由にはならないのだが。身代金目当ての誘拐である線も無くはない。ここが元探偵事務所の無人フロアで、そこに籠城しているだけの可能性も、まだ捨てきれなかった。せめて、同室した部屋の主が眺めている紙面の確認さえできれば、多少は判断できようものを、それさえ許されない。
その時だった。暗く落ち込んでいた電話の液晶がパッと明るくなったかと思うと、次の瞬間には大声を上げ始めた。存外大きな音がしたものの、両者共に驚こうともしなかった。部屋の臭いには顔をしかめた彼女も、目覚まし時計みたいに突然叫びだしたコール音には無頓着だ。眉をピクリと動かすことも無ければ、ほんの一寸肩を竦めるようなこともない。ようやく、平衡状態だった屋内の景色が動き始めるのかと、ただ視線のみを真っ直ぐ男に向けていた。
彼か彼女かも分かっていなかった部屋の主は男であった。彼も急な呼び出し音に対して、小さな反応さえ見せなかった。この程度日常茶飯事、ただ誰からか着信があっただけ、であるためだ。
急な着信にも動じていない、その事から彼がこの部屋の、れっきとした主であると認めるに値した。さすれば彼は探偵ということになるのだろう。探偵と言えば浮気調査や探し人など、地道な調べものばかりしている職、という認識だった。五里霧中の真実を暴く、小説の中に見られるディティクティブ達は、この詰まらない現実にそうそう居はしないだろう。
受話器を顔に押し付けた彼は、そのまま紙片を机の端に追いやり、液晶の方を眺めた。ようやく紙のカーテンはどけられ、現れた顔。それは初めから気難しい色をしていたが、発信者を確認すると同時にピリッとした緊張感をも含むようになった。
眉の縁をぴくぴく震わせながら、男は短く「ケイブだな」と電話線の向こう側に確認をとった。ケイブ、おそらくは警部と変換されるのであろう。少々胡散臭く思えるが、ホームズや明智に名を連ねる類いの探偵なのだろうか。男の年はかなり若いようで、皺も白髪も無い精悍な顔つきだった。線は細くもないが太くもなく、過去に僅かに鍛えていた程度だろう。声には張りがあるも、少し上ずっているところもあり、年季や貫禄のようなものは窺えない。
纏めるに、恐らく警戒する必要など無いのだろう。閑散とした室内の様子とは違い、その風貌は在り来たりに俗なものであった。身だしなみに気を配っているとも言い換えられる。ワックスで整えられた髪はふわりと膨らんでおり、右耳にのみ月のピアスをつけていた。眼鏡はやけにフレームの太く、レンズの大きな洒落っけの強い代物。
服のことはあまり深く知らない彼女だったが、それが上等な布だろうとは何となく察しがついた。どうしてそれを知っているのか覚えてなどいなかったが、その服のロゴが日本でのみ有名なブランドのものだと思い至った。
「あぁ。例のジョーカーさんからメッセージが来た。どうして俺の所に来たのかは知らないけれど、この俺が好敵手に相応しいと書かれている」
「本当さ。嘘臭い? そう言ってくれるなよ、実際警部たちも俺を頼ったことは多いだろう?」
「それにさっきも言っただろう。例の通り魔は俺のことを好敵手と呼んでいる。つまりこれは挑戦状なんだ。警部たちが依頼を出すのと同じ、危険人物は私に挑む。それだけの話だ」
さては随分な自信家のようである。それは身だしなみからも多少窺えた。さっきまで静まり返っていた事務所は、客足に留まらず装飾も寂しいものだ。友がいたとして、それは忙しなく囀ずる閑古鳥程度。とりとめもない無駄話に興じているあたり、仕事、依頼もおそらくそう多く舞い込んでいない。にも関わらず、己の衣服だけは一目で良品と分かるものを選んでいる。
誇張か、自信か、はっきりとはしないがそれでも、奥ゆかしい人間とは決して言えないことは明らかだった。
それに加え、どことなく抜けた雰囲気。あまり悪い人間には思えなかった。その分、頭の出来はよいと思えなかったものだが。それでも、服だけは値の張る品を用意できる分には、探偵業で稼げているようである。一概に不出来と言い切る訳にもいかない。
観察をしているのがやけに性に合っていた。一瞥しただけで覚えた印象に左右されることなく、一つ一つ要素から分析を重ねていく。おそらく歳は三十にも達していない。だが、この慎ましい探偵事務所の玉座に唯一腰を下ろしている彼は、一人で活動できるだけの能力はあるらしい。電話の口ぶりだけだと単なる自信家にしか思えないというのに。
男はどうして自分に気づこうとしないのだろうか。それは感情らしい感情を未だ知覚していない彼女が、恐れや喜びよりも先に抱いた問いかけだった。疑念というより、違和感の言及である。だが、それは仕方ないというものだ。何せ目覚めてなお彼女は、指先すらぴくりとも動かしていない。死人と変わりなければ、気配もしないというものだ。ずっと寝てばかりなのだから、息遣いも静かなままだ。
別段、目を覚ました彼女が幽霊だという訳でもない。肉体を得た、れっきとした人間だ。事実、間も無く男もその異端者に気がつくこととなる。
「あぁ、頼むよ。五分後だな。珈琲でも入れて待っていよう、南米の方から取り寄せたものだ」
わざわざ豆にも気を回しているという、自己主張の目立つ言い添え。やはり、自分が本来以上に立派な人間だと振る舞いたいらしい、虚栄心が確信できた。この男が優秀か、無能かはさておき、周囲からはやや煙たがられるタイプであることに相違無い。
彼は探偵で、警部の知人がいる。その警部から電話がかかってきたのは、男の手に届いた一通の手紙が原因と見て間違いないだろう。どこの誰とも知らぬ人物が、この虚飾から手放せぬ男に宛てた挑戦状。
状況把握はもう充分。そろそろ動くべきだと判断した彼女は、むくりと上体を持ち上げた。汗ばんだ頬はソファの黒い革にぴたりと張りついており、ぺりっという小さな音が鼓膜を僅かに震わせた。
「じゃあ切る、ぞ……」
受話器を置こうとした男が、予期せぬ物音に顔を上げた。そう言えばこの男は、通話を始めてからというものの、ずっと机の上のあちこちばかり視線をやっていたなと思い返した。なるほど、それならば自分にも気がつかなかったはずだと納得する。起き上がって確認してみると、寝転がっていたソファの黒に紛れるような、紺色の装束に身を包んでいた。
闇と見紛うような、余りに濃く、深い紺色のワンピース。その下に着ている長袖も同じように深海のような色をしていた。裾から覗く脚さえ、同じ色をしたタイツに包まれていた。これなら、視界の端に映るのみの彼女の姿が、見慣れた家具の黒に溶けていても仕方ない。
「誰、だ……お前……」
二人の視線がぶつかる。動揺も無ければ躊躇いも覚えていない、揺るがぬ少女の視線が、じっと男の瞳孔を貫いていた。対する男は、予想だにしない事態に瞳を震わせていた。開いた口が塞がらず、受話器を落っことしてしまいそうになる。だが、すんでのところで受話器を何とか握りしめ直した。
現状がどう転んでしまっているのか、さっぱり理解できなかった。なぜそんな所に見慣れぬ少女がいるのか、男にはとんと思い当たる節が無い。
しかし、このまま警部を招いては面倒になる。そう判断した男は慌てて受話器を再び耳元に押し当てた。
「待て警部! 今来てはならん」
しかし、手遅れだ。もう既に、向こう側からは通話は断たれていた。待っていれば、五分とせず警部はやって来るのだろう。とすれば、この少女のことを尋ねられるに違いない。
舌打ちを一つし、忌々しさで双眸の間に深い谷をいくつも刻む。それは怒りや苛立ちというよりむしろ、困惑から生じたものであった。冷たい汗の滴が、するりとその背筋を撫でるように滑り降りる。
初対面の少女に対し、遠慮も配慮もひったくれもなく、彼はびしりとその姿を指差した。さながら名探偵が犯人は貴様だと言及する姿と重なり、案外様になるものだなと評定を改めた。
「お前は誰だ? どうして急に現れた?」
「……貴方が連れてきた訳ではないのか?」
「そんな誘拐まがいのことを俺がするはずないだろう!」
「ふむ……」
とするとやはり、この男は探偵、という事になるのだろう。罪を犯す側の人間ではなく、暴く側の人間という訳だ。そしてこの狼狽えぶり、どう見ても彼が自分をここに拉致したという訳でないことも確認できた。
「ふむ、じゃない! 急に出てきたからには答えろ、お前は一体誰なんだ!」
他に誰一人いない、閑散としたフロアに男の怒声は響き渡った。とは言っても、こもっているのは狼狽と警戒。覇気の含まれぬその大きいだけの声に、彼女が怯むようなことは無かった。
「私? 私か。私はだな……」
顎に手を添え、少女は黙りこんだ。まるで招待を明かすか否か思案し、勿体ぶっているかのような素振りに、男は憔悴を募らせる。早くせねば警部が来るというのに。
男の焦りによる歯軋りさえ聞こえそうなほど静まった空間。普段は気にもかけない時計の針さえ、やけに五月蝿く感じられた。しかし、少女はと言うと黙りを決め込んでいる。
そろそろ我慢も限界で、ふざけるなと怒鳴り付けようとした時だった。考え終えたのか顎に添えていた手を下ろし、観念したように彼女は短く答えた。
「分からん」
「は?」
すっとんきょうな男の応答。それは応答と呼ぶにはあまりに情けなく、また、意味さえ為していなかった。
長い沈黙が訪れる。しかし続く少女の言葉が、より一層に彼を困惑させることとなる。世間を騒がす通り魔事件と同等以上の厄介と災難、そして自業自得が男へと降りかかった。
「私は一体、誰なんだ?」
当然のごとく、誰も答えられない。
- Re: JOKER the ripper ( No.2 )
- 日時: 2018/09/10 23:33
- 名前: jack (ID: hgzyUMgo)
部屋に入る前から嫌な予感はしていた。予感というには、少々具体的過ぎたものだったが。何せそう思い至るだけの理由がありありと伝わってきたからだ。空気を伝い、ドアを飛び越えて耳へと。
少々煙たいところがあると噂になっている、千里眼の名探偵を自称する男。加藤が営む探偵事務所を訪れた軽部であったが、あまりの喧騒に眉を吊り上げた。確かにあの男は、口やかましいことで有名ではあるが、何をこんなにもぎゃあぎゃあと喚いているものだろうか。
下手に飛び込んでは、飛び火で類焼しかねない。自営業をしているせいなのか、本人が無神経なのかは知らぬが、加藤は礼儀を知らないとはよく知っていた。仮にも一回り以上年が離れ、警部という立場にいる軽部に、容易く警部だなどと呼び掛ける若者は彼ぐらいのものだ。
踏み入りたくないものだと、海より深い溜め息をゆっくり吐き出した。酸欠で頭痛がしそうな程に。いや、理解はしている。頭が痛むのは決して、酸素の欠乏のせいではないことぐらい。
そんな様子で足を止め、ドアへ向かう手を止めた軽部を見て、怪訝そうに後ろに立った男は首を傾げた。ネクタイの生地はまだくたびれていないのに、やや傾いている。スーツにも皺など寄っていない。まだ固い正装を、着ていると言うより着られているような初々しさ。だが、正義感だけはありありとその顔つきから感じ取れる。
教育を軽部に一任された新人、名を宮沢といった。今時珍しい、正義感を振りかざすタイプの熱血人間。それが必ずしも警察に適しているとは分からないが、変に腹に一物隠した人間よりよほど信頼できる。利用されやすいという点は珠に傷ではあるのだが。
加藤とは愛称が悪いかもしらないな。軽部は今後の操作を思うに、額に手を当てて眉を寄せた。八の字型になった両の眉が、不安を寄せ集めて山のようにしているのを象徴してるようであった。口八丁で調子のよい加藤探偵に丸め込まれてしまうのではないか。とすると新人の軌道修正に探偵の手綱握りと、考えなくてはならぬことが多すぎる。
誰より早く俺の方が壊れてしまいそうだと、扉の向こうの喧騒に、深い溜め息を吐き出した。
だが、ここで止まっていても始まらない。後ろでは新人が怪訝そうにドアノブを握ったまま動こうとしない軽部の手を凝視していた。仕方ないかとぐいと力をこめて手首を回す。
入るぞと声をかけると、ぴたりと声が止んだ。先生が来た途端に静かになる高校生かと、頭の中でだけ嘆息した。四つの目がこちらを見てくることは大して予想に反しなかった。あの騒がしさから見るに、中には加藤以外の人間もいるものだろうとは簡単に分かる。しかし、そこにいたのが、まだ学生としか思えないような若い女であることは、想定外だった。二人の視線が、不意に入ってきた来訪者に釘付けになる。
その招待を把握した途端に、遅かったかと悲嘆しつつ、加藤の奴は掌を顔に押し当てた。この男は何か悪事でも働いたのかと、彼への信頼がまるでない軽部は目を細めた。訝かしんだ訳ではない、そうとしか思えない程にこの男が胡散臭いだけだ。
そんな風にして加藤が絶望し、軽部が疲弊に嘆いている時、視線をその両者間で行ったり来たりさせた見知らぬ少女はと言えば、三往復ほどしたところで今度は時計を目にし、合点がいった様子で軽部の方へ焦点を固定した。
「なるほど、貴女が警部どのという訳だね」
予想だにしていなかった口調に面食らう。宝塚と間違えたにしてはこの事務所は寂れすぎているぞと言いたいが、まさかそんな訳でもあるまい。それにしてもこの芝居がかった口調、一体何者であろうか。
中学生、あるいは高校生に見えるほどではあるが、服装は近隣の学校制服のどれにも該当しない。というよりも、制服というよりも私服なのだ。濃紺色のワンピースに、濃紺色のタイツ。夜をそのまま切り取ったような乙女。そう告げてやるべきか。
何となく顔を目にした時、マネキンのようだと反射的に至った。どことなく、無機物じみた造形をしているというべきだろうか。何もそれは美しいという訳ではない。むしろ何も特徴がなかった。宝石のように艶やかな美など持ち合わせていない。そこにあるのは、川の流れの水底において、表面の磨かれた無彩の石。整っておれども異才放たず、人目につかない地味さに満ちている。
そこに人がいるとは、中々飲み込みきれなかった。息を飲むのではなく、まさにその逆。透明なガラス板でもあるまいに、視線が素通りしてしまいそうであった。しかし、紛れもなく其処に居る。そう、彼女は紛れもなく人間であった。
「加藤、このガキは何だ?」
「いや聞いてくれたまえよ警部。この子いきなり事務所に現れたんだ。そしたらこいつ何て抜かしたと思う? 俺がここに連れてきたんじゃないのかって疑う始末なんだ」
「奇遇だな。俺もそう思ったところだ」
「そりゃないぜ警部」
信用の無さにうちひしがれる彼はさておき、軽部は少女へと意識を戻す。加藤はこれで嘘がつけない男だ。いや、こんな奴だからこそ嘘などつこうにもすぐ看破されるというだけなのだが。しかし彼が必死の形相でこうも訴えているならば、加藤は誘拐犯などではない。
ならば自然に発生したと言うのだろうか。それこそ、食物の上に足跡一つ見せず不意に根付くカビのように。そんな人間、いるはずもないだろう。ここには何らかの【認識の歪み】があるように思えてならない。
「君、どうして私が警部と分かったんだ?」
「ああ。それは深く語るに及ばない。勘が二割、推定が残る八割さ」
「それでも一応聞かせてもらえないかね」
「聞くほどのものでないと言っているのだけれどな。されど、ご所望とあらば」
本当に、山も谷もない平坦な帰結だ。彼女は先ほど息を潜めて室内を観察している間に、加藤が受話器に語りかける言葉を一言一句漏らさずに聴いていた。それこそ彼という人柄を観察するためにも重要なことであったからだ。
その内容から察するに、近々、言うならば五分程度の後に来るとは理解していた。当然彼女はその時時刻も確認済み、そして現時刻は通話の途切れた六分後。階段を靴底が叩く音に、扉の前で躊躇する息遣い。頭に血が昇りきっていた加藤は気がついていなかったが、少女の方はドアの向こうの警部たちに気がついていた。それが警部と判断しきれたのは、遅かったかと加藤が呟いて後の事。
到着時刻の一致と、知人であるという事実。彼らが来る前に彼女を隠蔽しようとしていた事。
「それら全てが、貴方が警部たり得る確証と踏んだのだが、何か問題あるだろうか」
顔色一つ変えないまま、小首を傾げる。目の前にいるのはロボットでもアンドロイドでもないというのに、不気味の谷を覗いているようでならない。初対面の人間、それも成人していない女性に対して抱いてはならない不快感。嫌悪にも近い、今すぐ目を逸らしたくなるような衝動を、軽部はぐっと呑み込んだ。
加藤は激情が先行しているせいか、流石にその不愉快には至っていない様子ではある。しかし、彼女という不審な存在を認めたくない意思だけは強く同意できるように思えた。
「……なるほど、理には敵うな。だが、君は誰なんだ? 加藤は君がふって湧いたように言っているが」
「ああ、それは難儀な話なんだ。何分私にも、ここに来るまでの記憶が一切ない。私が誰なのかそもそも私が聞きたいくらいなんだ」
覚醒し、目を開いたかと思えば、急に見慣れぬソファの上。目の前には胡散臭い若い男が、手紙とにらめっこ。かと思えば唐突に着信を受け、意気揚々と通話を始めたではないか。それも自分を誇張するような、相手をすることを想定すれば厄介この上ない語り口。さぞかしこの男の相手は手間取ることだろうと。
「案の定だ。私という想定外を目にするや途端に我を見失った。喚くばかりでこちらの言い分など聞こうともしない。それだから五分もあったというのにこんな面倒な鉢合わせを引き起こすんだ。冷静に赤の他人が紛れ込んだ事実だけ理解して、知らぬ人間だとドアの外に叩き出せば済んだ話を」
「……いや、普通そんな冷静に」
「ならば問おう、逆に私がここに居て何が不都合と考えたのか」
「警部助けてくれ、俺の頭はショート寸前だ」
「知るか。名探偵を名乗るならこれくらい明朗に整理しろ、加藤」
「ほう、やはり君は探偵だったか。加藤……ふむ、やはりこの事務所の主と呼ぶに相応しいようだな」
先ほどの角度からは見えなかった加藤の文字さえ、窓ガラスの上には掲げられていると分かった。部屋の内部から見れば当然鏡文字ではあるのだが、それでも反転するだけだ。本来の表記はいくらでも想像できる。
「何で警部は貴方なのに、俺には君と馴れ馴れしいんだ」
「着目すべきはそこではないだろう。警部どの、この男の相手に疲れたことはないか?」
「ん、あぁ……しょっちゅうだな」
「んな事を聞くな! そして同意をするな! えぇい、監視カメラをこのボロ部屋につけなかったことが失策だ。それならお前の不法侵入も見つけられたものを!」
「すまないな、記憶さえ失っていなければ証言できたものを」
「警部、何だかあの二人、芝居臭くて頭が痛くなってきたのですが」
「すまん宮沢、俺も死ぬほど頭痛がする」
後ろからためにもならない言葉をかけてくる後輩だが、無意味ゆえにいくらか助けになる。目の前のやりとりや問答は無意味ゆえに頭を抱えたくなるものだが。
かくして、警部たちという油を注がれ、より鮮烈に燃え上がった騒がしい部屋は、十分以上叫び続けた加藤が疲れきって黙るまで続いたのであった。
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